ゼンガーは全ての柵から開放されたかのようだった。
何せ、重力そのものを既に感じれなくなっている。
自らの肉体も感覚が薄れ、痛みも何も感じ無い。
そう感じてもパニックになる事も、叫ぶ事すらしない。
全てが当然の結果だと、納得していたからだ。
助けを信じて待ち続けた女性を裏切り、その命を無残にも終わらせてしまった。
いたいけな少女の悲痛な願いすら叶えられず、彼女の人生を漆黒に塗り替えた。
それだけでは飽き足らず、偽計をもって敵を討とうと画策し。
勝つ為に多くの友軍を犠牲にした……弁解の余地は無い。
悪逆の限りを尽くした自分に、救いなど訪れない。希望など欠片もなく、あるのは深い絶望のみ。
だが、果たして希望が無いのは自分だけなのだろうか?
故郷を、日常を奪われた幼い子供達が居る。
頼るべき上官を失い、迷走する同僚が居る。
自らの世界を破壊され、襲い来る魔の手に震える少女が居る。
だがそんな中で、一条の光にすがる幼女が居る。
その光を信じ、祈りを捧げる者が居る。
それどころか自らの命すら投げうって、全てを託した者すらいるのだ。
希望が見えないのは……自分だけではない。
ゼンガーの意識が警告音が鳴り響くコクピットに舞い戻った。
すぐさま急速なスピードでその数値をみるみる減らしていく高度計と、沈黙した計器類を交互に見ては忙しなく手を動かし始めた。
目の前には青い世界が広がり、その遥か下方では巨大な大地が手招いていた。
それに潰される訳には、いかない。
手を差し伸べているものは、他にある。
伍式のスラスターが全推力で重力に抵抗し、まるで天を掴むかのような格好で空を見上げた。
その先にいるであろう、仇敵の姿を求めるかの様に。
巨大な水柱が上がり、その姿を徐々に海中へと没していく伍式。
その上空を興味津々に旋回する海鳥。だがその親玉とも言うべき巨大な黒鳥がそれらを散らしていく。
そして黒鳥は、その巨体を海中へと躍らせていった……。
物思いにふけっていたククルは、ニコルの声に気がつき顔を上げる。
笑みを溢しながらも、ククルはゼンガーはどうなったか気になっていた。
戦力の殆どを失ったクルーゼ隊に第8艦隊との戦闘は不可能であり、ガモフが撃沈した時点で全軍撤退を余儀なくされた。
旗艦メネラオスとハルバートン提督を亡きものにしたとはいえ、ザフト始まって以来の大敗を喫した。戦艦二隻が沈められ、パイロットの半数以上が未帰還という未曾有の事態に晒され、上層部でも現場レベルでも大きな混乱が生まれている。
特に突入阻止限界点において、ガモフが対艦刀の餌食となったという話は殆どデマ同様に扱われていた。
切り札であるXナンバーをそんな危険な場所で運用する筈も無く、そもそも戦艦をMSで沈めるなどナチュラルにはありえない話だと。
……しかし現場レベルではそうは思っていない。
生還したパイロットはすべからくゼンガーの太刀を見、味わったのだ。
その恐ろしさは、既に一人歩きしつつある……“大天使の剣”として。
ガモフを落したのが伍式ならばこの時点で脱出は不可能。スペック上大気圏突入が可能とは言えゼンガーはナチュラル、無事であるという保障は無い。
そんなつまらない結末は御免だ。
あれはこの手で倒さなければならない……先に降りたイザークもそう感じている筈だった。
嬉しそうに語るニコルだったが、ククルがさっぱり聞いていない事に気がつき顔を曇らせる。
即答されてニコルの顔が強張り、口調もやや固くなる。
ククルに真っ直ぐに見つめられ、思わず息を飲むニコル。
重い調子でそう言うと、ククルは控え室から出て行った。
一人取り残されたニコルは、苦い顔をしてガラス張りの向こう側に立つ、ブリッツとマガルガを見つめていた……。
気が付くと、ゼンガーはベッドの上に横たわっていた。
強烈な陽射しが遠慮無く部屋に注いでいたが、空調は完全であり不快では無かった。
またベッドの質感も最高級に近いものであり、長身のゼンガーを普通に包み込むほどの余裕があった。
不意に柔らかな声が響きゼンガーの注意がそちらに向く。
猫の様に悪戯めいた瞳と、美しい笑顔を湛えた女性が入室して来たのだ。
高級感溢れる内装とは対照的に、何故か機能的なジャンプスーツ姿だったが、むしろその姿が彼女の個性を際立たせていた。
多少舌っ足らずな口調で答える女性。
これが素なのか、それともワザとか……どちらにしても謎めいた雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。
ゼンガーは静かに頷くと、ベッドから出て女性の後に続いた。
既にパイロットスーツは脱がされ、今のゼンガーはアロハシャツにズボンと言う実にラフな格好になっていた。
とは言うが怒った様ではなく、まるで笑うように言う。
一室の前まで案内され、ゼンガーは黙ってその戸を叩いた。
自然な動きでノブを捻るゼンガーだが、その表情に緩んだ部分は無かった。
執務室と思われるその部屋のソファーには、長身の男がゆるりとした格好で待っていた。
ゼンガーと同じくアロハシャツ姿で、何処と無く呑気な表情を漂わせているので油断しがちだったが……逆に言えば、ゼンガーを前にしてもこれだけの余裕を保てるという事だった。
何処かで聞いたような物言いにゼンガーは眉をひそめつつも、アンドリューの正面のソファーへと腰を降ろす。
するとすぐさまコーヒーカップを差し出し、笑顔を無言の催促として来た。
特に断る理由も見出せず、ゼンガーは黙ってそれを口にした。
苦笑しつつもアンドリューは再びカップに口を付ける。
ゼンガーは黒く波打つコーヒーを見つめ、イルイやフレイが煎れてくれたインスタントの味を思い出していた。
疲れには甘いものがいいと、態々コーヒーにチョコレートを砕いて煎れてくれた時、二人からは実に甘い臭いが漂っていた。
更に……。
あの懐かしく、そして二度と味わえぬコーヒの事も頭に浮かんだ。
……尤も、今飲むブレンドコーヒーも二度飲める物ではなかったが。
ゼンガーは最初からこの男の正体を知っていた。でなければ“アンディ”としか解らぬ筈の男をフルネームで呼べはしない。
この男は、ザフト北アフリカ方面軍を指揮する屈指の名将にして名パイロット、アンドリュー=バルトフェルド。
通称砂漠の虎だったのだ。
その言葉を待っていたかのように、バルトフェルドは目を細めた。
その動作はまるで、獲物を見定めた獰猛な獣そのもの。
二人共黙ってコーヒーを飲み干すと、カチャリとカップを置いた。
バルトフェルドの口調は軽いが、同時に試す様な空気があった。
ゼンガーもそれに対し真っ向から挑み、舌戦が既に始まっていた。
誇張も良い所だと溜息をつくゼンガー。
正直プラントで自分達の事を棚に上げて化物扱いされる事には抵抗がある。
酷薄さすら感じるバルトフェルドの言葉に対し、ゼンガーは身構えもしなかった。
代わりに冷ややかに言い放った。
これにはバルトフェルドも言葉に詰まる。
だが返事を返す前にゼンガーは立ち上がっていた。
先程の女性がドアを空け、柔らかな笑みと共にゼンガーを招く。
ゼンガーの背中に対し、バルトフェルドは最後に一言付け加えた。
黙って頷くと、ゼンガーはアイシャに促されて廊下に消えた。
最後に、こう呟いて……。
それから数刻が過ぎ、窓辺で佇んでいたバルトフェルドに対し、副官のマーチン=ダコスタが息を切らして報告を持ってきた。
窓の向こうには夕日に向かって悠然と歩み続ける伍式と、それを唖然として見守る数機の砂漠用ジン“ジン・オーカー”の姿があった。
震動が窓を震わせ、テーブルのサイフォン内のコーヒーにも波紋が広がる。
ダコスタは一瞬迷ったが、答えは歯切れが良かった。
ただ前にバルトフェルドが乗っていた専用バクゥから、虎柄の伍式を想像してしまい、思わず吹き出しそうになるダコスタ。
少なく共視覚的効果は今以上になる事は間違いない。
既に奪取されたXナンバーの技術は、徐々にだがフィールドバックされている。
特にビーム兵器関連に関しては格段に基礎技術が向上し、その成果がすぐさま実戦投入されつつあった。
だがダコスタには腑に落ちない点が一つだけあった。
その根拠は一体何処から……とダコスタは突っ込みたかったが止めた。
既にバルトフェルドはサイフォンいじりに夢中になっており、今迂闊に声をかけよう物ならば、豆に対するうんちくを小一時間拝聴する羽目になるからだ。
この言葉を真面目に受け止められた人間は、あの頃どれだけいたのだろう。
ザフトのMSに対抗すべき兵器を作り出すG計画は、逆説的なこの一言で始まった。
その根底にあるものは、単なる兵器開発といった生易しいものではなく、もっと深い物があった。
話の雲行きが怪しくなったと誰もが感じたが、G計画の中心人物である、ソフィア=ネート博士は真剣だった。
更に好戦的である、とはソフィアは遭えて口に出さなかった。
現状を鑑みれば、それは明らかであるにも関わらず。
それがXナンバーの本当の存在意義。
あくまでXナンバーを肉体の延長と捉え、何人でも宇宙へ飛び出す事を容易とする“鎧”を目指した。
当初から戦闘兵器として想定されたプラントのMSとは、根本の理念が異なっていたのだ。
これを聞いた多くの人間は、人殺しに加担する為の女々しい詭弁に過ぎないと感じ、失笑を浮かべた。
未来の事など関係無い、今勝つ事を求めればそれでいいと……。
だがそれでも僅かながら、ソフィアの考えに完全に同調した者達がいた。
大西洋連邦のハルバートン准将。
同軍の若き大尉、マリュー=ラミアス。
そして……。
ゼンガー=ゾンボルトもその一人だった。
地球連合からエリートを結集して創設された特殊戦技教導隊。
かつてその一員だった人物の心を、ソフィアは突き動かしたのだ。
理屈で彼を屈する事は不可能とされていた中で、彼女が最初にその常識を覆した。
彼に勝るとも劣らぬ、熱い信念で。
こうしてXナンバーは生み出されていった。
ハルバートンの強力な後押し、マリューやゼンガーを始めとした士官の奮闘はやがて、地球連合軍全てを動かしていったのだ……。
孤独に苛まれ、マリューは一人呟く。
ネート博士が逝き、ハルバートン提督も散った。
ゼンガー少佐も大気圏突入時にその所在をロストしてしまった……回収されている可能性は、ゼロに近い。
……だがデータはここと、第8艦隊に残っている。
メネラオスのみにデータがあったのではない。基本的に駆逐艦以上の規模の船全てに、断片的にデータを分割送信していたのだ。
戦闘により数隻は失ったが、これらを元に量産計画は進む筈だ……。
だがこれで……ネート博士の意志は潰えたのではないか?
自分一人が生き残った所で、あの崇高な理想を誰かに語っても一笑されるだけ。自分にはハルバートン提督の様な地位も、ゼンガーの如き勢いも無いのだ。
それ以前にザフトの勢力圏から、生きて帰れるかどうかすら解らない……。
寝室に響いた警報に、マリューは反射的に飛び起き慌てて身支度を始めた。
殆ど条件反射に近く、実際は何も考えていないに等しい状態だった。
マリューは自身の頬を強く叩いた。
それは不甲斐無い自分を叱咤し、弱気な思いを強引に吐き捨てる為だ。
部屋を飛び出し、ブリッジを目指す。
途中、後ろ髪をひかれるといった風にして部屋から出るサイの姿を見た。
フレイがいる部屋だった。
大気圏突入時から調子を崩し、ずっと寝込んでいるのだ。
……それはある意味幸せだった。
今のマリューには、ゼンガーの事を彼女に伝える様な残酷な真似はできない。
だが起きれば言わねばなるまい……それが艦長としての責任だから。
ブリッジに入ると既に当直だったナタルを中心に応戦が始まっていた。
砂丘を縫うようにして飛ぶミサイルをイーゲルシュテルンが迎撃し、その爆音が響いていた。
艦長席で指揮を取っていたナタルに慌しく敬礼し、席を代わるとすぐさま指示を出すマリュー。
矢次に入る報告には明らかに焦りがある。
降りる前までの余裕は既に無い。何故なら今のアークエンジェルは、その最大の戦力を失っている。
その事が心理的に大きく彼らを追い詰めている。
ナタルの抗議に対しても、マリューは頑として譲らない。
その様子を見たカズイ思わず不安そうに頭を抱えていた。
一喝するマリューの声に、ブリッジクルー全員の視線が集まる。
不安げな表情に囲まれてもなお、マリューの表情は落ち着いていた。
強い調子のその言葉に、誰もが沈黙する。
今までゼンガーに頼りきりだった為、緩みきっていた緊張の糸が急に張り詰められ危うい状況だったが、適度にそれが緩んでいくように皆は感じた。
ナタルを始めとして弾かれるようにして皆持ち場に戻る。
その動きには先程までの躊躇いは一切感じられなかった。
カタパルトデッキからのフラガの茶々に、マリューは照れかけるが気を取り直した。
コク、と頷くとマリューはレーダーサイトを見据え号令する。
艦橋後尾のミサイル発射管から、対空防御用ミサイル“ヘルダート”が撃ち出される。
本来MSの様な高機動体を追尾すべく機能するのだ。戦闘ヘリ如きではひとたまりも無く、一瞬で三機程が火球に消える。
戦闘ヘリを落す前に、砂丘を飛んで跳ねて近付く影があった。
暗闇の中、一つ目を不気味に光らす四足の獣……ザフトの地上における主力機だ。
次々と下される攻撃的な命令に、皆一様に驚愕していた。
マリューの豹変振りは元より、アークエンジェルの驚異的な攻撃力に。
既に戦闘ヘリの姿は無く、砂丘が次々に巻き上がり、形を大きく変えていく……。
これほどまでの力を、今の今まで腐らせてきたのだ。使えなかったのではなく、使う機会を作り出せなかった自分達の為に。
しかしその腕は本来、同等の相手に振るわれるもの。
MSという小さき獲物では、隙が大き過ぎた。
誰に言うでなくトノムラらは悪態をついた。
他の連合艦艇に比べ、アークエンジェルは火砲の配置が極めて偏っていた。
下部には全くと言っていいほど銃器は設置されておらず、艦体側面を基準として360度回転可能なバリアントでも、迎撃範囲は限られていた。
マリューは直撃を覚悟し身を固くする。
……だが予想外の衝撃に対し、彼女を含めた全クルーが揺れた。
腹を引き裂かれた一体のバクゥが、赤熱した傷口を見せて動きを止めた。
爆発の炎がアークエンジェルの底部から照り返し、黒い影を光で覆った。
だがマリューもナタルも、現実を見据えなければならなかった。
砂の海に赤々とライトアップされたそれは、無数の陰を従えながらもう一機のバクゥを見据えている。
影が四足の獣に襲い掛かり……それを無残にも切り刻む様が、克明にアークエンジェルの船底に映し出された。
代理人の感想
・・・・は、まとめて。