水の音がした。
 それは静かな湖の上を風が渡る音に似ていた。
 そして静かな音を僅かに鳴らし、一艘の船が『全て遠き理想郷(アヴァロン)』の向こう側、幻想種たる妖精の住み処…妖精郷(アヴァロン)から進み出てきた。現れたのは三人の精霊『湖の貴婦人』の乗る船、そして船に眠るように横たわる一人の少女だった。

 満身創痍の俺を見ながら、アーチャーはしてやったりという表情をしている。
 いつもの俺だったら、その事に噛み付くかもしれない。
 だが今の俺はそんな事に何の注意も払えなかった。
 あの時と同じ感覚、セイバーの宝具『全て遠き理想郷』を呼び出した俺の目の前に。
 セイバー……あの時永別した筈のアルトリアが、いる。

「彼女の宝具『全て遠き理想郷(アヴァロン)』は、所有者の傷を癒し、老いる事をさせない。だがその真価は展開する事によって自らを妖精郷に置き、全ての干渉を防ぐ絶対の防御。だが……それを逆に返せば、妖精郷と繋がる”通路”となりうる、という事だ」
 アーチャーは気分が悪くなるくらい楽しそうな表情――快心の悪戯が決まった時の顔――をして語りだした。
「ゆえに死、そして蘇生のプロセスを経て妖精郷にて傷を癒していた彼女は……王としての責務を果たした、ただ一人の人間として今此処にいる」


Fate偽伝/After Fate/Again―第4話『人としての命』


>interlude


『よいか。この森を抜け、あの血塗られた丘を越えるのだ。その先には深い泉がある。そこに、我が剣を投げ入れよ』

 サー・ベディヴィエール。
 彼は最も古くよりアーサー王に仕えた騎士であった。
 彼は王は不死であると信じていた。
 だが呪いにより死してなお王に剣をつきたてたモードレッド……その傷は王に死をもたらすものだった。
 勅命に従い泉に向かうも、聖剣を泉に投げ捨てることは出来ず、虚偽の報告を行い……しかしそれも出来ず、三度目にして漸く剣を泉へと投げ入れた。
 命を果たし、王の下へ報告を。今にも消えそうな王が眠りにつく前に、愁いを立つために、その事を伝えなければ――
 そう思っていた。
 だが。
 呪いは呪いを呼び、闇は闇を呼び、死は死を呼び、死者は生者を死者へと変える。
「ぎひひひぃぃぃぃん!!!」
 突き立てられた死者の槍、馬はその痛みを越えた苦しみそのもの死そのものに横倒しになる。
「ぐあ…」
 ベディヴィエールは馬上から落とされ、地に落ちる。だが新たな死が降り注ぐ前に、自らの直感に従い剣を抜いて切り結ぶ。

 ギン!

 硬い音。
 死、呪い、憎悪、それらでは言い表せないほどの濃密な『闇』。それは既に大気に満ちる大源を食い始め、受肉さえ初めている。かつて人間であったはずのそれは、既に自らが人間であったことなど忘れ、ただの醜いバケモノに成り下がっていた。そう、内面だけでなく外面さえも醜いだけのバケモノに変わり果てていく。まるで人間の負の内面、悪意、闇、それらを形にしたかのように、ねっとりと渦巻く黒い泥のような姿に。
 ぞぶり。
 外見どおり、泥人形のような感触が剣を持つ手に伝わる。
 泥人間が手にしていた戦斧とそれを持つ腕らしきものが地に落ち、泥を撒き散らす。
 それがベディヴィエールのズボンに触れた。

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね――!!

 ただそれだけの言葉が体の中で反響し、増幅し、彼の魂を汚そうと、肉体を食い尽くそうと、そして――反射的に、自らの足を傷つける危険を冒し、ズボンに触れている泥を剣を持って引きがはがした。
「い、今のは一体――?!」
 彼もカメロットの騎士として、アーサー王に従う騎士として、様々な怪異と戦ってきた。
 その中には形の無いものも確かにあった。
 だが、このように純粋な悪意そのものに触れた事は無い。幻想種とて、もっと生物らしい感情を持っていた。命を持たない人形ならば、感情も無かった。だがこれは人間の悪意そのものに他ならないではないか。
 それに恐怖さえ感じ、敵の返り血――黒い泥――に注意しながら、黒い泥に飲み込まれ、血を流し肉を食われ、骨を砕かれそれでなお死なせてもらえない、苦しみの中に沈む自らの愛馬に止めをさし、この場を離れようと踵を返し――
 それを目にした。

「なぜおまえがいる、べでぃう゛ぃえーる」

 泥を体の中から吐き出しながら、人間の原型を申し訳程度に残す何か。
 それに名前を呼ばれた。

「あーさーはどこだ。おうをころし、おれはおうになる、くにをてにする。あーさーのしたいはどこだ、べでぃう゛ぃえぇぇぇる」

 モードレッド。
 これがそのなれの果てであると知り、ベディヴィエールは悟る。
 この怪物は、自分を追ってくる。
 そして、死の間際に居る王を汚すだろう。
 それを許す事は出来ない。
 自らを律し続け、人ではなく王として生き続けてきたアーサー王を汚すなど、絶対に許せない事だった。

「しっているな、べでぃう゛ぃえーる。あーさーのばしょを。いえ。いえ。いえ。いえ。いわぬなら、ころす。ころす。ころす。おまえのあたまのなかをしらべる。ころしてからしらべる。おまえをころしてあーさーをころす。ころす。そうすればおれはおうになる。ぶりてんの、おう、かめろっとの、せいとうなおうになる」

 泥がまるで剣のような形になり、それは振り下ろされた。
 これがモードレッドなのか、モードレッドだったものか、モードレッドと思い込んでいるものなのか。その区別はつかないが、少なくともベディヴィエールは振り下ろされたそれをモードレッドの剣筋と見た。
 鋭く速く重い剣戟。
 騎士王に傷を負わせたその技量は、あまりにもモードレッドの能力を超えていた。だがそれを受けることの出来るベディヴィエールの技量にこそ感嘆すべきか。

「ははがいった。もるがん・る・ふぇ。ははうえがいった。おまえはおうになれ。ちちをころせ。おうになれ。ころせ。ころせ。ころせ。あーさーをころせ。あーさーを。おまえが。おうになれ」
 その言葉の意味は、アーサー王の血を引く息子ということなのか。
 国を盗み、アーサー王を殺す為に軍を率い現れ、かつての仲間を殺し、王までも殺すこの男が。
 怒りによってベディヴィエールは立ち上がり剣を振るう。
 一撃、一撃、剣を切り結ぶたびに泥が溢れる。
 一撃、一撃、剣を切り結ぶ度にモードレッドは力を増す。
 剣と泥。二つの敵を前にして、ベディヴィエールの敗北は必至だった。剣は欠け、指を腕をしびれさせ、骨には無数の罅が入り、血を吸いぬかるんだ大地は彼の足場を奪い、力を分散させる。僅かに剣が掠めただけで、呪いは一気に彼の体に侵食を始める。体は熱を帯び、悪寒を感じ、希望を絶望に変えようと呪いの言葉を吐きつづける。
「例え私が死すとも――貴様を王の下へ生かせはしない!! 必ず黄泉路への道連れとしてくれる!!」
「むり。むり。むり、だぁぁぁぁぁぁ……」

『――特攻するならかまわんが、死にたく無ければ後ろに飛べ』

 ゾクリ。
 その言葉に従ういわれは無かった。
 だが。
 従わなければ、必ず死ぬ。
 そう思わせるものが、そのあっさりとした言いざまの中にはあった。

 ドン!! ドン!! ドン!! ドン!! ドン!! ドン!!
 ゴウ!! ゴウ!! ゴウ!! ゴウ!! ゴウ!! ゴウ!!
 ザン!! ザン!! ザン!! ザン!! ザン!! ザン!!

 降り注ぐ銀の豪雨。
 雨粒の一滴一滴が強大な力を持つ存在、ベディヴィエールに知りようは無いが、その全てがこれまでの歴史に名を残し、これから名を残す聖剣と魔剣の群れに他ならない。
 剣の豪雨はそれだけに留まらない。
 力あるもの、力ないもの、それを区別さえしなければ百を超え千を超え万に迫ろうという剣が降り注ぐ。
 大気を裂き、地に突き刺さり、黒い泥を打ち砕き、その単純な力だけで存在を消し去る。
 ベディヴィエールはその光景を、彼を守るようにして突き立つ剣の輪の中から見ていた。

 死すらも死に絶えた。
 呪いさえ消滅させられた。
 生きるものは最初から存在していない。
 かつて呪いが満ち、無限の斬撃を遺す大地。

 既に自分しか存在しない事に気づき、ベディヴィエールはもう一つだけ存在するものを見た。
 剣の丘に一人立つ、赤い騎士の姿を。
 それは人間ではない。少なくとも悪ではないが、自分が触れてはならないもの、霊長の抑止力、世界に遣わされる英霊。
 だがそんな思いを抱かせる存在である赤騎士は、酷く疲れた表情で腕組みし、
「ふう。呼び出されてきてみれば、まさかカムランの戦いの後始末とは…これは宿縁というものか」
 などと言った。
 そして赤い騎士は顔を彼に向け、
「君はサー・ベディヴィエールだな? セイバー…いや、アーサー王に聖剣返却を伝えるのではないのか」
「な――?!」
 何故それを知っているのか、そもそもこの赤い騎士は一体何者なのか。
 それを思った時、
「呪いに喰われた馬に止めを刺したか。お前はまともに走れる体ではないし……仕方ない」
 急に体を、荷物のように担ぎ上げられた。
 騎士に対するこの無礼な態度。許さじと声を上げようとした時、自分の身が愛馬の足を遥かに超える速さで運ばれている事に気づいた。ベディヴィエールは風に息を妨げられながら驚愕の声を上げずにはいられない。
「貴公は一体?!」
「死して後、世界の崩壊の引き金を滅ぼすだけの”現象”……守護者となりし者」
 其処で言葉を切る。
「……名を残す気は無いが、もし呼ぶのならアーチャーと。私はそれが気に入っている」

 生きた暴風の如き疾走の中、ベディヴィエールは目的の場に着いた。
 大樹を背に、身を預けるのは一人の王。
「剣は泉の貴婦人の手に――」
「すまないなべディヴィエール。今度の眠りは、少し、永く」

 王が眠りについた事を確認し、ベディヴィエールは沈黙をささげる。
 だが、赤い騎士は言葉を紡ぎだす。
「アーサー王は死んだ。王はその責務を果たし、既に王ではない」
「王ではない、だと――?」
 いかぶしみ、赤い騎士の姿を見た時、ベディヴィエールはその目を疑った。
 戦場の丘に満ちた呪い、それが引き込んだ闇そのものを一撃で滅ぼした赤い騎士が必死の形相で其処にいたのだ。
「――投影、開始(トレース・オン)!!」
 その言葉の意味は彼には見当がつかなかった。
 だが、王に仕えていた魔術師には到底及ばないが、それでも濃密な魔力が何か、強大な神秘を作り出そうとしているのが分かる。
 緊張する空気に巻き込まれ、息をする事さえ忘れ、心臓さえ鼓動を忘れそうになる。そして赤い騎士の手中に現れるもの、黄金に青の装飾の施されたそれは、まさに失われた聖剣の鞘。
「―!!」
「自滅は覚悟の上だったが……上手くいった。これは所詮模造品に過ぎないが、本物と同じ力を持つ」
 アーサー王に鞘を抱かせ、アーチャーはその軽い体を抱き上げる。ベディヴィエールの見る前で、蒼白だったアーサー王の肌に赤みが差し始めた。
「生き返るのか、アーサー王は!!」
「王は死んだ。それはお前も見たとおりだ」
「ならば…何故このような事をする!! 王を辱める気か!」
 激昂するベディヴィエールを見て、やれやれといわんばかりに肩を竦めるアーチャー。
「…まあ待て、お迎えが来たようだ」
「な――に?」

 突如森の中に湖が現れ、船の揺れる音が伝わる。その船とは三人の美しい女の乗る、妖精郷へと誘うもの。
 モルガン・ル・フェ。
 ヴィヴィアン。
 ニミュエ。
 騎士たちを守護する、湖の貴婦人たち。

「やめろ」
 アーチャーの言葉を聞き、ベディヴィエールは自らの手が剣を握っていた事に、視線がモルガン・ル・フェに向いている事に気づいた。
 モルガン・ル・フェは複雑な表情をしながら、ヴィヴィアンは悲しい表情をし、ニミュエはどこか奇妙な表情で赤い騎士と王を見比べている。
 アーチャーは、万感を込めてアーサー王の体を船に乗せ、髪を手で梳きながら言葉を語る。
「王としての責務は既に果たされた。……もう、ただ一人の人に戻っていい時だ」
 その行為に誰もが口を閉ざす。
 決して汚してはならない光景であると、理解させられたが故に。
「……セイバー……いや……アルトリアを頼む」
 その言葉は伝わったはずだ。湖の貴婦人たちは言葉無く、気品に溢れながらも力強さを感じさせる動作で、一度だけ頷いてくれたのだから。

「アーチャー……でしたね、今のは一体? それにアルトリアとは」
「気にするな」
 にべもなく切り捨てる。
 彼女が永遠に隠しつづけようとした事実。ならば自分が語ることは出来ない。
「他の者には……そうだな、『湖の貴婦人に連れられたアーサー王は、妖精郷にて傷を癒す事になった』、『何時か未来に、傷を癒して再び人の世に戻るだろう』……とでも伝えておけばいい。後の解釈は誰かがするだろう」
 人ではなく、王として復活すると解釈するものも居るだろう、人は希望と絶望を自分に都合よく解釈したがる生物だからな。そう皮肉をまぶして付け加えるのを忘れる事無く。

 後に残るのはサー・ベディヴィエールだけ。
 赤い騎士は現れた時同様に、忽然と消え去るのみ。
 彼と騎士王の間に何があったのか、ベディヴィエールに知る術はない。
 ただ、何か大切なものがあったことだけは確かだ。

 サー・ベディヴィエールは言葉を残す。
 幾人もの騎士が、王がモードレッドに致命傷を与えられた姿を見ていた。
 そして、森で死にかけていたものが、湖の貴婦人に傷を癒されたとも。
 そして、その船に騎士王の姿があったとも。
 彼の言葉はそれが真実であったと理解させられる。

 かの騎士王は、王としての責務を果たしたと。
 そして遥かな未来に復活すると。

 それを誰がどう解釈しようが、解釈したものの自由。
 ベディヴィエールは想う。
 微笑んで死を受け入れた王が、その微笑を消す事無く生きられる世界に復活する事を。


>interlude out


 今流れ込んできた情景が一体何故であったかなど、俺には関係ない。
 そうだ。
 今、此処にセイバーがいる。
 人として……たった一人のアルトリアとして。

「貴様…裏切りおったな!」
「いや。裏切るも何も、最初から『私は私の目的を果たす為にここにいる』そう言ったではないか」
 激昂するマキリの老怪を気にする事無く、アーチャーはある意味芸術の域に達した『むかつかせるポーズ』をとり、平然と言葉を投げる。
「そんな訳だ、マキリゾウケン。私の目的はこの男の投影魔術によって作り出した『全て遠き理想郷』と妖精郷を繋ぎ、彼女を召還すること。最初から貴様の軍門に下った覚えは無い。故に…裏切り者扱いはしてもらう理由は無い。ついでに言うが不戦協定もここまでとしておこう。最初から『一時的なもの』としていたのだから構うまい」
 と。
「そもそも私は英霊ではなく守護者にある者。守護者の存在は、世界に破滅を導くものを滅ぼす為の現象に過ぎない。……故にマキリゾウケン、私は今の私の存在意義、そして私怨、義憤、役割、その全てを持って貴様を完全に滅ぼす」
 厳粛なる宣言。
 それはこの男が、かつてアーチャーという聖杯によって召還された英霊と同一の存在でありながら、滅亡を滅ぼす絶対的な存在である証左に他ならない。
 しかしそれはほんの数瞬だけ。
 俺や遠坂に顔を向けた時、その表情は今までのとは全く違う、穏やかなものだった。
「そうそう。守護者というのはあらゆる場所、あらゆる時代に召還され滅亡を滅ぼす。……それによって歴史が分岐する事……つまり平行世界化することもあるが、そこで得た情報は、全ての矛盾を呑み込んで『英霊の座』にある本体が知ることになる。……私は既に『答えを得た』。故に、衛宮士郎を殺す必要は最初から無かったのだよ」
 じゃあ、あの攻撃は一体――!?
「ただ私にも誤算があった」
 その顔は、見ただけで溜飲が下がるほどに苦悩が深く刻まれている。
 ああ、この顔を見ただけで今までのことが許せそうに――

「最初、この馬鹿を追い込めば、生き残る為に絶対的な防御力を誇る『全て遠き理想郷(アヴァロン)』を投影するかと思ったのだがそれもせず、自分の傷を直す為とはいえ凛と関係を持つとは――セイバーが起きてきた時、一体どう顔向けすれば良いのか、私はそれを考えるだけで頭が痛いよ」
 その顔は、俺に向かって『二股鬼畜』といってきている。
 ……うぐ、反論できない。
 ついでに言えば、何時の間にか地面にへたり込んでいたイリヤの顔がとんでもなく凶悪だ。
 気のせいか、イリヤの背後に虎の…ホワイトタイガーの幻覚が見える。……イリヤがライガ爺さんのお気に入りって、こう言うことなんだろうか……?

 再びアサシンとゾウケンに向かい直り、アーチャーは声をかける。
 それも、さも思い出したという風に、相手に嫌がらせの意思を込めて。
「ああそうだ。今更隠しておく必要もあるまい。アサシン、お前は私の名を聞いたな」
「うむ。戦いの中、擦り切れ忘れたと」
「あれは嘘だ」
 きっぱりと。
 清々しいまでに告白した。
「ついでに言うなら、凛に召還された時、記憶喪失になったというのもな」
「ちょっと――!」
 ついで扱いされた事か、嘘をつかれた事か。そのどちらに、より怒ったのかは分からないが遠坂は不機嫌さを隠さない。
「今更だが名乗っておこう。私の名はエミヤ。生前の名を『衛宮士郎』という」
 分かっていた。
 アインツベルンの森から帰ってきた後、遠坂に見てもらった変色した皮膚……それはアーチャーの肌の色だった。
 中身のある『ありえない投影魔術』。こんな物を俺以外に使う奴が居る筈が無いって事。
 そして、アーチャーの動き、呼吸、全てが衛宮士郎にとって最も理想とする動き、それに他ならないという事実。それは、衛宮士郎が長い時間の果てに手に入れるものだから。
 ぎゅ、と遠坂が俺のシャツを掴む。
 それは、まるで小さな子供が出かけていく家族に、一人にしないで、置いていかないでとせがむ様に似ていた。

 チャリ…。
 硬質の、鋭い音。
 それはアサシンの持つ刀の、構えられる音に他ならない。
「ならば英霊エミヤ、私と戦うか」
「ふむ。しかしそれをするまでもあるまい」
 戦に恵まれずに死んだ名も無き侍。
 戦いを望むアサシンを気にも留めずにエミヤは、
「マキリ臓硯を殺せば事足りるのだからな――投影、装填(トリガー・オン)
 そう言いきった。
 その言葉か、それとも呼び出された魔力の引き起こすだろう魔術にか。臓硯とアサシンの顔に緊張がみなぎる。
「何?!」
「むぅ!」
全工程投影完了(セット)――――是、射殺す百頭(ナインライブズ ブレイドワークス)

 空を斬り、世界を切り裂き、地に穴を穿ち、全てを滅ぼす剣の豪雨、教会の暗部たる代行者のもつ、儀礼用の浄化武器『黒鍵』。
 立ち向かうは銀の剣閃。
 降りしきる豪雨をその五尺の長刀を薙ぎ払うアサシン。亡霊の身でありながら、かつて柳洞寺に攻め入ろうとした英霊を悉く防ぎ続けたその技量は、既に人間の領域ではない。雨粒の一滴一滴を斬るように、鋼鉄の打ち合う音が火花の傘を作り上げる。
 純粋なまでの剣の乱舞。
 それは一生を刀に捧げた男のみが為しうる、命の煌めきそのもの、絵画の如く美しい芸術。

 豪雨はせいぜい二秒か三秒。
 既に庭は跡形もなくクレーターへと変貌を遂げている。
 ただあるのは、あの豪雨を浴びておきながら無傷のアサシンと、全身を切り刻まれて原形を留めていないマキリゾウケンの姿だけだった。
「……まるで戦場よな。夜盗に追われ、弓矢持て追われた時を思い出したぞ」
「非常識な男だなアサシン、我流『射殺す百頭』(ナインライブズ ブレイドワークス)を受けてこの程度とは」
 それはバーサーカー、いや英霊ヘラクレスが無限に再生する多頭蛇を滅ぼした弓矢の極意。魔術師たる英霊エミヤを、アーチャーとして現界させた真の技法か。
「だが真に非常識なのはマキリゾウケンか。これでまだ死んでいないのだからな」
「え―?」
「まさか―!」
 俺も遠坂もイリヤも、エミヤの言葉に驚愕し、視線を向けざるをえなかった。
 地を這う、マキリゾウケンの残骸。
 浄化の力を持つ黒鍵に切り裂かれたそれは解け、人の形を失い、異形の虫に変わっていく。だが虫はそれに留まらず、自然に反し存在するが故に、自然に存在を否定されて消滅していく。
 しかし、アサシンは消える事無くその場に立ちつづける。
 では、アサシンを現界させておく魔力は、ここにいるマキリゾウケンの影ではなく、どこかにいる本体がしているのか!!
「どうやら互いに嵌められたなアサシン。マキリゾウケン……最初から表に立つことは無いと思っていたが、やはりだったか」
「その様な瑣末事、私には関係ない。戦に恵まれず、ただ剣を磨く日々。死して後に現れた最高の敵を前に、引く理由など何処にある」
 長刀を構えたまま、前進するアサシン。
 その力は、何も無いからこそ磨き上げた剣術という、英霊エミヤの魔術と剣術に非常によく似た力。
 だがどうする。
 アサシンの『燕返し』はいまだ不敗。
 しかしアーチャーの剣の豪雨は敗れた。
 剣の腕で勝つことは出来ず、魔術による攻撃も及ばない。アーチャーが幾ら英霊であっても、原型が衛宮士郎である以上、使える魔術などタカが知れている。

 イリヤは言った。
『シロウは『窮め、極める』魔術師』
 だと。
 あれは決して投影魔術の事でも、強化魔術の事でもない。
 ならば、英霊エミヤの持つ魔術は、衛宮士郎の魔術の窮めた先にあるもの。
 英霊エミヤは言葉を発した。
"----I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている。)"
 上手く聞き取れない。
 だが、意味はわかる。
 その中に込められた、悲痛なまでに悲壮な決意、そしてそこに至らざるを得なかった事実を理解した。
"Unknown to Death.Nor known to Life(ただの一度も敗走はなく、ただの一度も理解されない。)"
 遠坂もイリヤも声を出す事さえ出来ない。
 この言葉の意味に、これから衛宮士郎が辿る、それとも辿るはずだったのかは分からない、しかしこの英霊と成り果てた青年が見、感じた世界がこの言葉に集約されたものである事を知って。
" ----unmlimited blade works(その体は きっと剣で。)"
 その言葉は引き鉄だった。
 世界を塗りつぶす幻の業火。
 焼き尽くされた世界は存在する事を許されず、現実は幻想に塗り替えられた。
 天空に嵌めこまれた歯車は、慈悲などというものを一切持たずに永遠に回りつづける。
 地平線など見えない無限に等しい大地には、草木の一本も命が存在しない。
 墓標の如き剣の群れの中ただ一人、この世界の主にして王が立ち尽くすのみ。

 ―現実を侵食する幻想、禁呪中の禁呪、固有結界。
「それがお主の真の力か…」
「そうだ。一目見ただけで複製し、貯蔵する能力。あらゆる場所、あらゆる時代に召還され蓄積される力。ただ剣を生み出すだけの下らない能力」
 その言葉は嘘だ。
「取るに足らない力だ。自らの持つ武器を極限まで極めた”担い手”である真の英霊たちの前には、このような”持ち主”の力など役に立たん」
 この固有結界なんて異常な魔術の特性、そして守護者の特性。この二つが合わさった能力は恐るべきものになる。
「だが、ただ一度の敗北も無い」
 戦いつづける限り、無限に成長する、剣を作りつづける力。
『無限の剣製』(アンリミテッド ブレイド ワークス)
 アーチャーの魔力に呼応して浮き上がる無限の剣。
 まさか、この力を、あの技で――?!
「さらばだアサシン、逝け――我流『射殺す百頭』(ナインライブズ ブレイドワークス)!!」

 大地が根底から崩れ落ちるような音を上げた。
 何の誇張もなく、世界が壊れるほどの力が注ぎ込まれたのだ。
 それは既に廃墟。
 柳洞寺は半年前の境内裏の池に続き、今度は境内の大部分を失った。
 ……一成が戻ってきた時、半年前のようにみんなで自棄食いに付き合うことになるのだろうか?

「……霊体となって地下へと逃げたか。見事といっておこう……さて」
 疲労も見えず、余裕綽々の表情で振り返った英霊エミヤは――
「説明してくれるかな、アーチャー」
 なんていう、赤いあくまの笑みに後ずさりした。
 擦り切れるくらい戦い続けて、そして英霊になっても戦い続けて。
 ……それでもエミヤシロウは、あの赤いあくまに勝てないんだろうか。

「待て、凛。話を聞け」
「……凛? 何を言ってくれるのかしら『衛宮君』?」
 それはただただ追い詰める為の追撃。
 さしもの英霊も、出来る事は釈明しようとして言葉を詰まらせるだけ。所詮あれは俺に過ぎないのか。……イリヤ、頼むからその呆れた目を俺に向けないでくれ。
「あれ。所詮シロウなんだ」
「……」
 ああ、自覚していても他人から言われると辛いや。
「と、とと……とりあえずエミヤシロウ、湖の貴婦人たちからセイバーを受け取ってこい、話はそれからだ……!!」


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