其処は、暗い森だった。

 日は山の向こうに落ち、山鳥達もねぐらに帰って行く。

 そんな時間帯に、高町 恭也はその森の中に入っていった。

 止める者など居ない。

 何故ならそこに人は決して近付かないから。

 しかし、もし偶然にもこの森を知るものが居たのなら、必死で彼を止めただろう。

 この森に入った者が、生きて出てきたことなど無いのだから。


 恭也は森の中に入る直前に、一言小さく呟いた。






 「―――此処が、『七夜の森』………」
















とらいあんぐるハート    〜 天の空座 〜 










  

<第零章 / 最終夜> 七夜 の出会い















 街を夕日が真紅に染めていた。

 時は夕刻。

 夕飯を買うために店へと走る女性や、友達と別れて家路に着く子供たち。

 そんな何時もと変わらない日常を進む彼らの真上を、非日常に侵された男が風のような速さで疾っていた。

 その男は、名を高町 恭也と云った。





 ―――必死で走っていた。

 一秒でも、一瞬でも自分の居た場所から離れるために。

 自分を侵す《ノイズ》から一分一秒でも逃れるために。

 病院の患者服もそのままに、今現在の自分が持つ、異常ともいえる身体能力を駆使して。


 ―― コロセ ――





 (クッ、まだ足りんのか!?)



 頭の中で響く不快な《声》。

 当初よりもずっと小さくなってはいるが、今だ響いている。

 意味も理由も分からず、自分の仲間たちを殺せと命じてくる。

 その《声》に抵抗するほどに、頭が割れそうに痛む。


 恭也は自分の知覚範囲内に彼女達が居る限り、これが続くと分かるとそのまま病院から抜け出した。

 この《声》に抵抗できなくなり彼女たちを殺そうとしたとき、恐らく今の彼なら容易く皆殺しに出来るだろう。

 それほどまでに、いや、有り得ないほどに彼の身体能力は上がっていた。

 自分で自分に恐怖するほど。



 「自身にも制御できん殺意を持って、己でも恐怖するほどの力を振るおうとする。

  まったく、なんと無様……」



 思わず、といった感じで言葉が口をつく。

 その間にも、自身を侵す《声》が小さくなっていくのを感じていた。

 そしてやがて、《声》は完全に聞こえなくなる。

 そこで一先ず、恭也は手頃なビルの屋上に降りた。

 そう、ビルの屋上だ。


 恭也は自分が疾ってきた道程を振り返った。

 ここは海鳴からずっと離れた場所。

 汽車を使っても、三時間は掛かるであろう場所。

 恭也はそこまでの道程を、その半分の時間で走破した。

 それも道なりにではない。

 時に家の屋根の上を走り、時に七階建ての建物を飛び越えて、だ。

 そんな物はもう、真っ当な生き物の身体能力でないことなど考えずとも分かる事。


 その場に大の字に寝転がる。

 どうするにせよ、もう自分は家族の場所へとは帰れない。

 帰ったとして、自分を家族が受け入れたとして、しかし自分が周りを受け入れられないだろう。

 恭也には、自分を抑えていく自信が無かった。

 如何に恭也が忍耐強いとはいえ、当然限界は有る。

 あの激痛と思考を侵食され、仲間を殺すかもしれないという不安と恐怖は幾ら恭也でも耐え切れない。


 立ち上がり、恭也は一瞬、本当に一瞬だけ泣き出しそうに顔を歪めると。



 「………なんという、無様」



 そう呟いて、その場から一瞬で移動した。

















 普通の人間が見れば、黒い風が通り抜けたと感じるほどの速さで其処に辿り着いた。

 二階建ての日本家屋。

 広い庭には小さな池と、小さいながらも道場が鎮座していた。

 そこに掛かる表札には『高町』とあった。

 恭也が十数年を過ごしてきた場所。

 彼が、何物に換えても護りたい人々が住んでいる場所。

 沈みかけている夕日に照らされた家からは、明るい声が響いていた。



 「………未練、だな」



 此処に来る道中、何度も呟いた言葉が口を吐く。

 恭也は部屋の声を聴きながら、誰にも悟られぬよう縁側から自室へと入った。

 家の中に例え美沙斗が居たとしても見つからない自信があった。

 それほどまでに今の恭也の感覚は研ぎ澄まされ、自身の身体は精密機械のように動かせる。

 どうもお見舞いに来た人たちも一緒なのか、あの《声》が気配に反応するように再び響いた。


 

―― コロセ ――





 (少し、黙ってろ)



 自身に響く《声》を叱咤し、恭也は自室の押入れを開く。

 様々なものが整然と整理されており、目的の物は直ぐに見付かった。

 それは、一冊のノート。

 父、士郎が亡くなった後、ずっと恭也の師匠の代わりを勤めていたものだった。



 (……今の美由希になら、このノートも役に立つだろう。

  何より、今は美沙斗さんが居る)



 小さく、寂しげな笑みを浮かべ、机に用意していた置き手紙と共に並べておく。

 自分が居なくなった後も、彼女が前に進んでくれる事を願って。


 自室から持ち得る限りの装備と着替えを持ち、恭也手製のバックの中に詰め込むと恭也は部屋を見渡した。



 「この部屋も、見納め……か」



 悲しそうに呟き、部屋を出る。

 いや、出ようとした。

 その瞬間、恭也はそれに気付いた。



 (何だ、これ?)



 【情報】が恭也に教えた。

 この部屋に敷かれている十二枚の畳。

 その中の一枚が、不自然に盛り上がっていた。

 以前の恭也なら、気にも留めないほどの不自然。

 しかし現在の恭也は、その小さな盛り上がりから正体を一瞬で看破できた。



 (何だ?……ノート、か?)



 畳の材質、盛り上がりから等の【情報】から答えを割り出し、その部分の畳を持ち上げる。

 案の定、出てきたのは一冊の大学ノートだった。



 「父さんの物か?」



 この部屋は、元々士郎の部屋を亡くなった後で恭也が貰ったものだ。

 だから士郎の私物が有ったとしても不思議は無いのだが。



 (何故、こんな隠すような真似を?)



 恭也は困惑しながら、そのノートを開いた。



 「日記?」



 それは、士郎が書いた日記だった。

 書かれていた内容は、主に恭也との修行の日々の事だった。



 「こんな物を律儀につける人だったか?」



 恭也の記憶に有る高町 士郎とは、とにかく恭也の目標だった。

 剣の腕は滅法強く、いつか越えるべき壁としてあまりに高くそびえていた父の背を思い出す。

 父との修行の日々は遠い記憶の彼方だが、その豪快な笑みを浮べる様を今でも憶えている。

 恭也は、そんな父の顔を思い出し、日記を読む事にした。



   『 ■月○日


  今日は恭也と九州までラーメンを食いに行った。

  途中、資金が尽きたので何時もの如く恭也との大道芸で稼いだ。

  集まってきた女性の大半が恭也目当てだったのが気に入らないが、まぁ稼げたので良しとしよう。

  明日は北海道でカニを食いに行こうと思う。』


 『 △月▼日


  今日はダー○の旅で行き先を決めた。

  当たった先は、北方領土。

  国外だが、男が一度言った事を撤回するのも何なので密航して行く事にした。』


 恭也は今度こそ、その場に倒れそうになった。

 明らかに《声》以外が原因の頭痛がする。



 (………父さん)



 幻想がガラガラと音を立てて崩れて行く。

 その代わりのように、在りし日の修行の日々が思い出されていく。

 忘れていたのではなく、忘れようとしていたのだったと今更ながらに思い出した。


 恭也はショックでそのノートを開いたまま片手を離し、



 「……ん?」



 パサリ、と何かがノートから落ちた。


 「手紙か?」



 それは、白い封筒に入れられた便箋だった。

 始まりは、『士郎へ』となっている。



 「父さんへの手紙か?差出人は………っ!?」



 その便箋の最後に書かれていた差出人の名は、『不破 夏織』。

 恭也を生んだ実の母の手紙だった。



















 恭也は文字通り、飛ぶように家々の上を駆けていた。

 一足跳ねるだけで、四・五軒分の家々を飛び越えていく。

 そうしながら、恭也は母・夏織が父・士郎へ送った手紙の内容を思い出していた。




 『 士郎へ。


  単刀直入に書く。

  恭也がもし、何処かおかしくなったら必ずこの場所へ向かえ。

  そこにあたしの実家が有る。


  士郎、あんたには昔話したた事が有ると思うけど、あたしの実家は『七夜』って云う退魔組織をやってる。

  でも、あたしらは法術や魔術なんか使えなかった、だから別の力でその力を得た。

  巷じゃ、“超能力”って呼ばれてるヤツさ。

  で、もちろんコレの強さや種類なんかも、ピンからキリまで有る。

  そして恭也は、このピンの方だった。

  それも、あたしら一族の中でも例を見ないぐらいのやつさ。


  そもそも、あたしらは“人外を暗殺する”って理念で存在している。

  たまに、ただの人間も暗殺するけどね。

  まぁ、それはいい。

  ようは、そのためにあたし達は、夜と森の祝福を受けている。

  だけど、恭也は違う。


  恭也が祝福を受けた相手は、――― 死神だった。


  死者の魂と語らい、その無念を力にする。

  あたしたちは、その力を【黄泉路の宴】って呼んだ。

  今はまだ、恭也の自意識が出来ていないから大丈夫だ。

  だけど、これから恭也に自我が生まれれば、恭也はきっとこの力に喰われる。

  馬鹿馬鹿しいくらい、異端な力なんだ。

  そして、それだけじゃない。


  あたしの知り合いに、『蒼崎』って魔術師が居る。

  そいつが言うには、あたしたち超能力者は大概、脳ミソがこの世の大元――『根源』ってトコと繋がってるらしい。

  だけど、やっぱ人間じゃ限界が有るらしいんだが、恭也の場合はそれが効かない。

  恭也は“魂”からして、シャレになんねぇレベルで繋がっているらしい。

  恭也の目が、生まれたときから【銀色】なのがその証明なんだと。

  しかもその事を世の中の他の魔術師連中が知ったら、間違いなく殺されるらしい。


  本当はあたしが護ってやりたいんだけど、恭也の纏う“力”は、あたし達の“退魔衝動”っていう人外連中をブッ殺したくなる本能を刺激するモンで、傍に居たらあたしが恭也を殺しかねない。

  だからあたしは『蒼崎』の力を借りて、恭也の“力”を七夜の血ごと封じてあんたに託した。

  けど、その封も何がきっかけで解けるかわかんねぇ。

  だからもし、恭也に何かあれば必ず此処に来い。

  一応、七夜の“退魔衝動”を抑える薬みたいなのがあるから、それをあたしらが飲めば少しは大丈夫なはずだ。


 それじゃあな。


 P・S

  見捨てといて何なんだけど、もし恭也がその事を知ったら教えてやってくれ。

  あたしは、あんたの事も、恭也のことも心から愛してたってな。




                              不破  夏織  』






 「……母さん」



 恭也は家々の屋根の上を跳ね飛びながら、小さく呟いた。

 其処に込められた思いは、歓喜。

 自分が母に捨てられたわけではないという安堵。

 父と母は、確かに愛し合っていたという喜び。

 そして何より、自分があの家族の中に、もう一度戻れるかもしれないという期待。

 それらが合わさった声だった。


 恭也は駆ける。

 夕焼けに染まった空の中を。


















 やがて恭也が辿り着いた『七夜の森』。

 そこは木が鬱蒼と生い茂り、まだ日は暮れていないというのに夜中のような暗さが辺りを支配していた。

 そしてそんな森の中で恭也は………



 「何故だ!?」



 死に掛けていた。




 「な、何故こんな事になっているんだ?」



 恭也はグッタリと太い木の幹に背を預けていた。

 体力的に疲れているわけではない。

 しかし、精神的に参っていた。

 この森に入って、恭也が最初に思ったこと。

 それは此処が『あの夢の中の森』だということ。

 なんせ、森に一歩踏み込んだ瞬間、いきなり致死性の罠が発動した。

 それも二重三重に仕掛けがあって、避けた場所が次の罠のトリガーで有ることもあった。

 しかも、何か明らかに人骨と思われる骨が其処何処に散乱している。


 しかし、それだけならまだいい。

 恭也の【銀眼】の【情報】を使えば、罠の場所など一瞬で看破できるし、万が一発動しても恭也には掠りもしない。

 むしろ、鍛錬になると自分から態と発動させていたくらいだ。

 人骨も職業柄、慣れている訳ではないがそれほど気にはならない。

 問題は、―――――


―― コロセ ――



 ――― ゴォォオオオォォオオオ………ッ!!!!



 「く、もう来たかっ!」



 不意に聞こえた音に、恭也その場から異常なほどの瞬発力で移動した。

 すぐさま自分の居た場所を振り返る。

 そこに、轟々と渦巻く黒い風が停滞していた。



 「まったく、何なんだアレは!?」



 木々の枝や幹を蹴りながら、恭也は珍しく毒づいた声を上げた。

 そう、問題はあの黒い風だった。

 恭也が森に入って直ぐ、あの風が恭也を襲ってきた。

 恭也の【銀眼】でも、意味の有る情報にはならない。

 むしろ、あれを直視した瞬間訳の分からぬ情報の渦に、気が狂い掛けた。

 それ以来、恭也はあの風から逃れようと森の中を無茶苦茶に走り抜けていた。


 不思議な事に、逃げている間に恭也の森の中での動きが、自然と洗練されたものになっていく。

 より腰を低く落とし、蜘蛛の如き動きで、獣のように鋭敏に躍動する。

 誰が教えたわけでもなく、強いて言うならこの森そのものが教えていくような感覚だった。


 やがて、風の音も聞こえなくなり恭也は再びその場に座りこんだ。



 「まったく、『七夜の里』に着く前にこんなのでは、先が思いやられるな」



 自分に向かって呆れた声を上げる。

 そして恭也は【銀眼】を使い、自分の現在位置を探りながら先程の風について考えていた。

 あの風は一体何なのだろうか?手紙にあった、七夜の民の超能力とやらなのだろうか?

 いや、恐らく違うだろう。

 『七夜の血』が反応していたところを見ると、どうもアレは『人でないモノ』。

 それも、あまり良くないものだろう。

 何となく、以前那美を手伝ったときの“悪霊”に似た感触がしたので、恐らく近いものだろうとアタリをつける。


 そんな事を考えて、恭也はそれを“聴いた”。



 (………な、んだ、声?)



 思わず声の方へと視線を向ける。

 其処には、何も居なかった。

 恭也の【銀眼】を使ってまで感じようとしたのに、何一つとして気配を感じない。

 しかし、声は確かに恭也へと伝わってくる・・・・・・

 そう、伝わってくるのだ。

 まるで恭也の“退魔衝動”のように、声ではない声がまるでノイズのように。



 「……行ってみるか」



 恭也は声のする方へと、消えたような素早さで一瞬の内に駆け出した。












 「なんだ………これは」



 恭也が声の先に辿り着いた場所。

 そこには廃墟が広がっていた。


 此処は小さな集落だったのだろう。

 元は立派な日本家屋だったであろう家々は、風雨に晒されたためか無残にも朽ちている。

 いや、それ以上に明らかに何者かの手によって破壊され、燃やされている場所もあった。

 そして、そこら中に広がる白骨死体の数々。

 それらは全て、殺された跡があった。

 ある者は腰から下を砕かれ、ある者は何かに切られたのか体の一部が無くなっていた。

 酷いものなど、骨までが炭化し、消し炭になっていた者まで居た。

 恐らく、生きながらに焼かれたのだろう。


 明らかに、何者かの襲撃を受けた風情だった。



 「まさか、此処が七夜の里か?」



 恭也は愕然と呟いた。

 それはそうだろう、衝動を抑える唯一の手掛かりを失ったのだから。

 呆然と、その荒れ果てた里を見ていた。


 恭也が放心していたのは、ホンの数秒。

 しかしその数秒が、恭也の反応を圧倒的なほど遅らせた。


 ――― ゴオォォォオオォォォォッォオッ!!!!


 

 ―― コロ  ――





 「…はッ、な、がァッ!?」



 突然、あの黒い風が恭也を目掛けるように吹き荒んだ。

 恭也は反応が間に合わず、その風に呑まれた。

 そして恭也は、この風の正体を知った。



 (これ、は………死霊の群れ!!??)



 そう、それはこの里で、この森で命を落とし、死してなお天に還れぬ死者たちの群れだった。

 いや、それも正確ではない。

 この風は、その思念の集合体。

 自らの怨念の重さに、天に昇れない者達の集まり。


 其処まで理解した瞬間、恭也の意識が飲み込まれた。









 一片の光すら存在しない闇の中に恭也は居た。

 見渡す限りに何もなく、恭也の【銀眼】を持ってしても此処が何なのか分からない。

 落ちているのか、それとも昇っているのかさえ判然としない。

 まるで、悪夢中に居るような感覚だった。


 ―――だが、本当の悪夢は此処からだった。



 「あ、?アア嗚呼アアアAaaaaaaaaaaahhhhhhheaeaafmakaaaaaaaa!!!!!????」



 闇の中、恭也は絶叫した。

 見てしまったのだ、自らに集まってきた怨念たちが見たモノを。

 聞いてしまったのだ、怨念たちの絶叫を、断末魔を。

 そして何より、―――


 ――体験してしまったのだ、この死者たちの死の瞬間を。


 過去を見させられていた。

 過去を体験させらていた。


 至高の殺人技術を持つ一族の最後の瞬間を。

 この里に攻め入った、混血の一族の最後の瞬間を。




 ――― AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAOOOOOOOOOOOOOOOO ―――




 響く、響く、響き渡る。

 死者達の、怨念たちの、そして恭也の絶叫が響き渡る。


 この悪夢のような闇の底で、地獄のような闇の底で、恭也の絶叫は更にその痛みに軋む。


 

―― コロセ、ころせ、殺せ、殺セぇェeーーー!!!!!! ――




 自分の中からあの《声》が、絶叫を上げて恭也の脳を砕かんばかりに響く。

 恭也に集う怨念に反応したのだ。

 気付くと、まるで恭也を引き釣り込むように、無数の死者たちが恭也に掴みかかっていた。

 あるいは『蜘蛛の糸』に縋り付く、地獄の亡者たちのように。

 痛みと、身体中に響く絶叫のような《声》と、恭也を引きずり込もうとする恐怖に、ついに恭也は咆えた。



 『集まるな亡霊どもっ!!何故だ!?何故、己だけがこんな目に遭う!!??』



 それは、恭也が十九年の人生を送ってきた中で、初めて漏らしたで有ろう言葉。

 常に己を律し、誰かのためという御神の理念に基づき行動し、決して弱音を吐かなかった男の初めての呪詛。

 一切の妥協、優しさ、余裕を欠落した負の感情の吐露。

 そして、父の死にすら涙を流さなかった青年の、初めての涙。


 死者たちから流れ込んでくる感情は、恭也の理解を超えていた。

 死者たちから流れ込んでくる死の【情報】は、恭也の限界を超えていた。

 それはまるで、魂そのものを冒されているような苦痛


 そして恭也はついに持っていた苦無を、己の心臓に刃を突き立て、抉った。



 「ガアァがっァッァァッァァ!!!!!!」



 絶望的なまでの痛みが恭也を襲う。

 だが、今の恭也にとってそれは救いだった。

 やっと逃げられる。

 そう思った。

 ――― だが、



 ギチギチと、ギチギチと何処からともなく音がする。

 恭也はその発生源を探した。

 だが、本当は分かっている。

 その音が何の音なのか。

 けれども、その音の正体に気付いたとき、自分は最早壊れてしまうとも感じていた。

 いや、本当はもう気付いてもいる。

 だって、自分はまだ生きているのだから・・・・・・・・・・・


 恭也は壊れたような、濁った瞳を自分の胸元に向けた。

 そこでは、抉られた胸がギチギチと音を発しながら修復されていくところだった。



 「は、ははははは………」



 嘲笑が漏れ出る。

 もはや逃れられない現実に、頬を伝う涙を恭也は止める術を持たなかった。

 こんな、こんな救いの無い、救われようの無い現実なんていらない。

 人智を越えた、死と混沌の闇の中で恭也の心が朽ちていく。


 死者たちの謳う呪詛の賛美歌。

 それは人智の理解を超越した、異形の歌であった。


 そして、ついに恭也の心が、……………砕け散った。




















 ―――――その瞬間。





 

――― リリィン……






 その音は、暗闇の世界に響いた。











 顔を上げる。

 その瞬間、恭也は己に降りかかっていた全ての重圧を忘れた。

 音の元は、探すまでもなかった

 顔を上げた瞬間から、それは圧倒的なまでの力で恭也の意識を拘束した。


 そこに居たのは、一人の少女。

 何の前触れもなく、何の必然性もなく、そこに少女は存在していた。


 日に一度も焼けた事の無いような、透き通るような雪色の肌。

 触れれば折れてしまうのではと錯覚させるほどの華奢なからだ。

 まるで一流の人形師が、その技術の粋を極めたような整いすぎた顔立ち。

 恭也を覗き込む瞳は、何処か虚ろだが、澄み渡った蒼穹のように蒼かった。

 黒いマントを纏い、かぶった帽子はピエロのように先が二股で、その先に一つずつ鈴がぶら下がっていた。



 「………………」



 恭也は何も言わない。

 いや、何も言えない。

 少女を凝視したまま金縛りにあったように、視線一つ満足に動かせない。

 郷愁にも似た感覚が、恭也の胸を締め付ける。

 少女が、何処か虚ろな空色の瞳で恭也を見た。



 「ねぇ『儀助』」



 ポツリと言った。



 (ぎ、すけ?何のことだ)



 少女の発した名に、ぼやけた意識で反応する。

 知らない名前なのに、どこか懐かしい気のする名前だった。

 恭也は、既に自分が生きているか死んでいるのかさえ判然としない中でその声を聴いていた。



 「世界は、虚ろで、痛くて、脆くて、ぼやけていて、悲しくて………」



 虚ろな声が、虚ろな世界に響く。



 「だけど、皆確かに生きてたんだよ?

  弱弱しくても、……確かに、……確かに光っていたんだよ?」



 虚ろな声が、虚ろな意識に染み渡る。



 「誰も気付かなくても、貴方なら気付いてくれるから。

  わたしに気付いてくれたように。

  貴方ならそれに気付いてくれるから。

  確かに、生きた証が有るから………」



 この少女が、何を言っているのか理解できない。



 「ねぇ『儀助』、わたし願いを見つけたよ?」



 理解できないはずなのに、その言葉の一つ一つが、恭也の心を潤していく。



 「わたしの願いはね………」



 壊れた心が修復されていく。



 

「ず っ と 、 貴 方 の 傍 に 居 た い 」





 それはまるで、失くした欠落が満たされたように。



 「あぁ」



 感嘆の声を上げる。

 満たされていく、虚ろが満たされていく。

 満たされていく、直された心が優しく包まれていく。

 恭也は瞳一杯に涙を浮べながら、自分に縋り付く亡者たちを見た。


 そして、自分の思い違いに気付いた。


 彼らは、自分を引き擦り込もうとしていたのではなかった。

 ただ、縋りたかったのだ。

 天へと昇りたいのに、自らの怨みの重さで昇れない彼らはせめて生者に縋りたかったのだ。

 その事を理解した瞬間、今まで理解不能だった呪詛が、理解できる言葉となった。



 それは一つの歌だった。

 様々な願いの込められた、死者たちの合唱だった。


 その歌には祈りが込められていた。

 その歌には願いが託されていた。

 その歌は誓いに絆されていた。

 その歌には希望が満ちていた。


 その言葉を恭也は聴いた。

 その思いを恭也は知った。

 自らの愚かさに、苦笑が滲む。


 もう一度少女の方を見ると、其処にはもう少女の姿は無かった。

 かわりに、遥か天井から伸びる一本の『銀糸』がそこに揺れている。


 教えられずとも、瞳の映す【情報】が無くとも、それが何なのか理解できた。

 あの『銀糸』は彼らへの救いの糸だということを。


 恭也は自らに縋り付く亡者達の手を取ると、その銀の糸を掴んだ。









 瞳を開ける。

 映るのは、廃墟と化した『七夜の里』と、自分を取囲むように渦巻く黒い怨みの風。

 その渦中に居ながら、恭也は今度こそこの瞳の意味と、“死を理解する”事の意味を知った。

 押し潰されそうな重圧を受けながら、恭也は二本の脚で自分を支え宣言するように声を上げた。



 「憎しみから解き放たれず、彷徨う者達よ。

  来い、その怨念、生きた証、己が引き受けよう………」



 恭也の言葉に歓喜するかのように、突然黒い風が、轟ッ!!と渦巻きながら恭也へと殺到してきた。

 まるで風そのものが恭也の中に流れ込むように、怒涛の勢いで恭也に集う。

 しかし恭也はその全てを一身に浴びながらも、小揺るぎもしない。


 流れ込むのは、亡霊たちの怨念。

 自身の終わりの瞬間の“死の情景”。

 そして、生きている間に磨いてきた、伝えられなかった技術と経験いきたあかし


 その凄まじいまでの【情報】を一身に受け、その思いの全てを恭也は一人受け入れた。


 やがて、風が治まる。

 後に残るのは、見捨てられた廃墟。

 そして、ひどく穏やかな空気。


 恭也はその場に膝を着いた。



 「ハァッ、ハァッ、ハアッ………クッ。

  なるほど、これが己の“能力”というわけか」



 自らの瞳に手をやる。

 凄まじいまでの“力”が体の中から溢れてくる。

 死者の恨みや呪詛が力を持ったモノ、―――即ち【堕氣】。

 恭也は剥き出しの心である『魂』を、恭也の【銀眼】が理解し、その怨念を引き受け“力”に変える。

 一歩間違えれば、己の心を冒し、侵食し、粉砕してしまう呪われた力。

 確かに、七夜の里の人間もこれは怖れるだろう。


 見ただけであらゆる【情報】を引き出す【銀眼】。

 その力で死者の経験や知識を継承し、怨念に満ちた魂を弔い、力に変える自身の“能力”。

 使い方によっては、化け物と呼ばれて相応しい“能力”。


 だが、恭也はこの瞬間、それら全てを受け入れる事を誓った。



 「弔わねばならんな……」



 ポツリと呟き、恭也は辺りに散らばる髑髏を集め始めた。

 そのときにも恭也の【銀眼】は力を発揮した。

 散り散りになってしまったパーツを、間違える事無く集められたからだ。

 更に、墓へ刻む碑銘もこの力で直ぐに分かった。


 恭也はただ淡々と、全ての死者を葬るまで止める事は無かった。








 やがて全ての死者の埋葬を終えた恭也は、暗闇にも拘らず迷いの無い足取りで一つの大きな家まで向かっていった。

 わざわざ玄関まで周り、家の中に入っていく。

 ぎしぎしと軋む廊下を進み、やがて行き止まりに辿り着いた。



 「……ここか」



 小さく呟き、手でそっとその正面の壁を押す。

 すると、バギリッと鋭い音をたてその壁に穴が開いた。

 その向こう側には、更に奥へと続く道があった。



 「ふむ、脆くなっているのか。

  丁度いい、試してみるか」



 恭也はそう呟くと、おもむろに拳を軽く握り構える。



 「せい!!」



 気合と共に、穴の開いた場所の直ぐ真下に掌拳を叩き付けた。

 パンッ!!という乾いた音と共に、壁は叩き付けた部分を中心に放射状に砕け散った。

 恭也は砕けた壁を見つめ、次いで自分の手を見ながら一言呟いた。



 「………取り込んだ知識と経験は、そのまま技術になるのか」



 今、恭也が壁に叩き込んだ伎は、『七夜』の初歩技術の一つである。

 御神流の“徹”を、更に破壊に特化するように洗練された伎であった。

 先程の死者を受け入れたときから、恭也にはその死者たちの全ての人生と経験が蓄積されていた。


 たった一人の人間に、この時点だけで何十人分もの人生が彼の中に蓄積されているのだ。

 本来ならば、【堕氣】を身に纏う事すら生者には不可能。

 しかし、恭也の不死の生命力と、再生力が不可能を可能としていた。


 恭也は二・三度己の手足を確かめるように動かすと、やがて壁の向こうに進んでいった。





 恭也がその屋敷から抜け出したとき、東の空から淡い光が昇ってきていた。



 「ふむ、夜が明けたか……」



 僅かとはいえ明るい日差しに目を細め、恭也はそちらを見るとまた歩き出した。

 その手には、一目見て古いものだと分かる何冊かの本が握られていた。

 空だったバックには、何かが入っているのか明らかに容積が膨れている。



 「本が無事だったのは幸いだったな。

  材料も揃っていたし」



 恭也は嬉しそうにそれだけ呟くと、里の出口へと歩いていく。

 そうしながら、ぼんやりとあの少女の事を考えていた。



 (ふむ、あの少女に己は会った事は無いはずなんだが……

  だが、あの感覚は……それに、あの少女の格好。

  あの夢に出てきた少女と同じモノだったな)



 あの虚ろでありながら、自分を捕らえて放さない空色の瞳を思い出す。

 ただ見つめ合うだけで、ただ声を聴くだけで、あれほど自分を満たしてくれるあの少女は一体何なのだろうか、と。

 あの少女の瞳と同じ、明るくなり始めた空を見上げようとして。


 恭也は唐突に、視線を自分の背後に向けた。


 そのまま、臨戦態勢をとる。

 何かは分からないが、何かが其処に現れようとしていた。

 それも、途轍もなく強大な何かが―――



 (な、なんだ……!?)



 気配が濃くなると共に、恭也の目前の空間が蜃気楼のように揺れた。

 その蜃気楼にやがて色がつき、輪郭が現れ始め、一つの人型を形作った。


 

―― 逃ゲロォ!!! ――r





 「なぁ!?ぐぅ……っ!!」



 瞬間、恭也の中の退魔衝動が、全力でこの場からの退避を叫んだ。

 目の前に現れる“魔”は、決して自分の手に負えるものではないと叫んでいる。

 凄まじい圧力に、恭也の体が竦む。

 だが、目を逸らす訳にもいかない。

 恭也は己が使え始めた自身の力たる【堕氣】を全身に纏わせ、懐から二つの短剣を取り出し構える。

 そうしてる間に、やがてそれはその場に決像を結んだ。




 

「ぬぉおお!?な、何じゃ、何で今更ワシが次元移動を失敗するんじゃ!?」







 聞こえてきた声は、ひどく暢気なものだった。



 「…………は?」



 思わず、といった感じで恭也の口から言葉が漏れる。

 目の前に現れたのは、銀髪に銀の髭を生やした一人の老人。

 その体躯は、服の上からでも分かるほど隆々と引き締まっており、とても老人には見えない。

 赤い瞳が現状を理解しようと、忙しなく動いている。

 本気で混乱しているのか、恭也が傍に居る事すら分かったいないようだった。


 何かをブツブツと一人呟くその姿は、傍から見ればひどく鍛えられえた爺さんにしか見えない。

 しかし、醸し出す気配はやはり異様。

 だが、結局は気配だけで、悪意も敵意も感じられない。


 恭也は緊張を解くかどうか、本気で悩んでいると。



 「お、おお、其処な青年。

  ちと聞きたい事が有るんじゃが、ここは何処………!?」」



 と、ここで恭也に気付いたその老人が、恭也に声を掛けようとしてその表情を強張らせた。

 恭也はその変化に、今一度臨戦態勢を取る。

 しかし老人は、恭也のそんな様子を気にした風も無く、ブツブツと独り言を呟き続けた。



 「……馬鹿な、【堕氣】じゃと?しかしこの男、間違いなく人間。

  ワシの目をそう誤魔化せる者が居るとは考えられんし……

  よもや、この男――――!!」



 そのまま恭也に勢い良く詰め寄ってきたと思うと、恭也の手を一瞬で掴みこう言った。










「青年、ワシの弟子をやってみんか!?」



 「は、はぁ!?」

















 これが、この出会いが、史上最強にして、史上最悪の異端埋葬師にして世界を救う者。


 個人識別名コードネーム凶 夜クレイジー・ナイト】、誕生の瞬間であった。



























 

第一章に続く







あとがき


 やっと、第零章が完結しました。

 さて、次回からは英語訳で「運命」と呼ばれるゲームとのクロスです。


 ちなみに恭也君の能力、【黄泉路の宴】は、某アクションゲームの主人公の能力を個人的な設定を付け加えて弄った物です。

 つか、弄ってる内に別物になっちゃったし。

 では、次回


 

 

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代理人の感想

とりあえず、ダメ出し(ぉ

 

いやー、あの爺さんはそう易々とうろたえてはいかんでしょう。

紳士たる者もっと優雅に常に余裕を持つべし。

つーかあの爺さんがうろたえるような状況って世界の終わりがきてもありえなさそうな気がします(爆)。