プロローグ


 春樹真人は逆らった。
 逆らってはいけないと分かっていた。分かっていて、あえて逆らった。そしてその代償を、大きな大きな代償を、今まさに支払おうとしているところである。

 ようするに、真人は死に瀕していた。腹を大きく切り裂かれ、地面に突っ伏している。傷口からの出血で、倒れ伏した真人の下には真っ赤な水溜りが出来てしまった。
 痛みと息苦しさで、すでに意識はもうろうとし始めている。後悔するべきなのだろうとは思うけど、そんな感慨を抱くほどの気力はもう残っていない。

 閉じていた目をうっすらと開けてみても、見えるのは暗闇ばかり。これが死というものなのだろうか。たしかにちょっと怖いかも知れない――などと、そんなことを思った時だった。暗闇ばかりだと思っていた彼の視界の先で、何かが動いた。
 見れば、どうやら誰かが歩いているようだ。うつぶせに倒れた真人からはその足しか見えない。真っ黒なズボン、真っ黒な靴。
 
 ――あいつの足だ!
 
 その瞬間、まるで雷に撃たれたかのように真人は正気に戻った。自分は何のためにここへきて、何のためにこんな目にあっているのか。
 一体なにを呆けていたのだろう。そう、俺はこのまま死ぬわけにはいかない。
 
 足はゆっくりとある方向へと歩いてゆく。あの子のほうへ向かっているのだ。
 真人は最後の力を振り絞って、足に掴みかかった。だけど届かない。痛みと寒さで全身が震えてうまく手が動かなかった。それでも無理やりに動かそうとするものだから余計なところにまで力が入ってしまって、腹の傷がひどく疼いた。咳き込んで、血を吐いた。
 それでも必死に手を伸ばした。行かせるわけにはいかない。あの子は、あの子だけは、失ってたまるものか。

 あの子は俺の全て。俺を過去に繋ぎとめてくれる唯一の存在。たとえあの子が俺を拒絶しようとも。たとえあの子が、俺の名前を呼んでくれなくても――
 一筋の涙が頬をつたうのを感じて、そして指先が何かに触れたような気がした次の瞬間、真人は意識を失った。