第二章  真相




 初めてさつきの見舞いに行ったその日の夜、真人は聖司に電話をかけた。決心がついたことを伝えると、早速明日から俺の家へ通ってほしい、と言われた。

 その「俺の家」という言い方に、真人はどうしても違和感を禁じえない。聖司は現在進行形であの家に住んでいるわけだからその言い方そのものが間違っているとは言わないが、どうせなら「俺たちの家」とでも言って欲しいところだ。

 ともかく、である。真人は今日、また旧春樹邸へ「帰ってきた」。道中、最寄りのバス停で降りれば歩く時間は二、三分で済むところをわざわざ一つ手前で降りて、近所を歩いてみたりもしながら。残念ながら知り合いに会うことは出来なかったが、周囲の景色は本当に真人の住んでいた頃と何も変わっておらず、真人は人知れず幸せな気分になっていた。そう、真人は「帰ってきた」のだ。

 旧春樹邸に着くと、真人は門のところで一度立ち止まって、懐かしき我が家のたたずまいをしげしげと眺めた。

 この家の門は、昔ながらの両開きの木戸である。時代劇なんかに出てくる、武家屋敷の巨大な門をそのまま小さくしたような感じを想像してもらえればちょうどいい。

 今ある家は真人の父、秀彰が建てさせたものだが、この門だけは以前からあったものがそのまま残っているらしい。その「以前」というのがいつのことなのか、そしてその頃ここに何があったのか、真人は何も知らない。真人に分かることは、この門が自分たちの住んでいた頃と全く変わっていないということだけ。仰々しい構えのくせに、わりといつも開いたままになっているのもあの頃と同じである。なんだか、中から父たちの声が聞こえてきそうな気すらしてしまう。

 小さく「ただいま」と呟きながら、真人はその門をくぐった。

 前にも書いたとおり、この家の庭はやたらと広い。それでいて、何もない。正面から見て右側に大きな柳の木が一本生えているだけで、その他はただの砂地である。放っておくとすぐ雑草だらけになってしまうので、真人はよく草むしりをさせられたものだ。今も雑草がほとんどない状態に保たれているということは、誰かしらが手入れしているのだろう。もっとも、聖司が自分でやっているとは思えないが。あまりにもイメージが合わなすぎる。

 などと、つまらないことを考えながら庭を歩いていると、ふいに声が聞こえた。

「よう、来たか」

 透き通った、それでいてどこか男らしさも感じさせるこの声は、間違いなく聖司のものだ。しかし姿が見えない。今の声は、なんだか上のほうから聞こえたような気がしたが――
 そう思って真人が上を向いた瞬間、柳の木のてっぺんあたりががさりと揺れた。まさかとは思うが、ひょっとしてあそこから話しかけられたのだろうか?

「聖司? どこだ?」

 きょろきょろと左右を見渡してみても、やはり聖司の姿は見つからない。が、その代わりにまた声がした。

「俺を見つけてみろ。それが最初の訓練だ」

 ――うわ、いきなりかよ。真人は文句を言いたくなったが、いずれにせよ聖司に出てきてもらわなければどうしようもない。仕方なく、真人は聖司の言葉に従って、彼を探すことにした。

 訓練というぐらいだから、単なるかくれんぼではあるまい。聖司が言っているのはそこらじゅうを探し回れという意味ではなく、聖司の姿を捉えてみろ、ということなのだろう。試されているのは動体視力か、それとも洞察力か。いずれにせよ、確かにそれならば何となく訓練らしいと言えなくもない。
 二回目の声はどうも屋根の上から聞こえたような感じだった。同じところに留まっているわけはないと思いつつも、真人はいちおう背伸びして屋根の上に視線をめぐらせてみる。

 予想した通り、屋根の上に聖司の姿はなかった。真人に話しかけたあと、音も立てずに移動したということだろうか。さすがは現役のОH課、見事な身のこなしである。

 が、この庭には隠れる場所など大してありはしないのだ。子供の頃、真人は友達を呼んでよくここで遊んだものだが、かくれんぼだけはやった記憶がない。いくら聖司が素早く動いたところで、見つけるのはそう難しいことではないはずだが――

「どうした、俺はこっちだぞ」

 まるで漫画か何かに出てくるライバルキャラのようなセリフが、今度は真人の背中側から聞こえた。あわてて振り返ってはみたが、すでに聖司の姿は無い。

 さすがに驚いた。声が聞こえてから振り返るまで、恐らく一秒の半分もかかってはいまい。たったそれだけの間に、聖司は真人の視界の範囲外まで移動したということだ。そんなことが出来るのだったら、隠れる場所がどうのとかいう問題ではなくなってしまう。真人が首を動かすたびに、聖司はそれと逆の方向へ移動すればいいのだから。

 ためしに、真人はその場でぐるりと回ってみた。やはり見つからない。今度は逆方向に回ってみる。結果は同じ。もう一度、右側に回る――と見せかけて、途中から逆回転。次は注意深くゆっくりと回って――途中からいきなり回転速度を上げる。それでも見つからない。なんだかもう面倒くさくなってきて、真人は同じことを繰り返し始めた。一度、二度、三度……やっているうちに、目が回った。

「……気持ちわる」

 動きを止めて額を押さえていると、こつんと後頭部を何かに小突かれた。

「……何やってんだ、お前は」

 振り向くと、聖司が呆れ顔で立っている。

「あ、見つけた」

「バカ野郎。かくれんぼはもう終わりだ。つまんねえ。飽きた」

「飽きた、って……訓練じゃなかったのかよ」

「いや。たまたま木の上に居た時にお前が来たから、何となく思いついただけ」

 おいおい、じゃあただの遊びだったのかよ――と抗議したいところだったが、どうも虚しいやりとりになりそうだったのでやめておいた。くそ、ちょっと真剣になっちまった俺が馬鹿みたいじゃないか。

 しかし、なんでまたこいつは木の上なんかに居たんだろう――とか考えていると、

「さて、と。実は、ちゃんとした訓練のほうはもうメニューを立ててあるんだ。早速今日から――」

「え……ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 聖司がいきなり話を進めようとするので、真人はあわてて口をはさんだ。

「今日は聞かせてくれるんだろ? なんで俺がスカウトされたのか、ってことをさ。俺、今日は訓練っていうかそれを聞きに来たつもりだったんだけど」

「ん? ……ああ、それはまた今度、な」

 聖司はすました顔で答える。まるで、どうでもいいことのように。

「ま、また今度、って……話が違うじゃないか。弟子になることを俺が承諾したら、残りの事情も話してくれる約束だろう?」

「約束? 俺は確かにこないだ、お前が弟子になったら教える、みたいなことは言ったけど、お前が弟子になったらすぐに教える、とは言ってねえぞ」

「なっ……」言葉がなかった。どう考えても単なる屁理屈なのだが、言い返す言葉が見つからない。

 何故これほどまでに聖司は事情を隠そうとするのだろう。一体、裏にはどんな秘密が隠されているというのだろうか。そんなふうに考えると、なんだかますます知りたくなってきてしまった。

「ま、悪く思わないでくれ。今すぐに話したところで、多分お前は信じる気になれねえと思うんだよ。もうちょっと経って、条件が整ったらちゃんと話してやるからさ」

 さすがに少しは気が咎める部分もあったのだろう、聖司はそう付け加えた。が、やはり納得はできない。

「せめて、何かもうちょっと……そうだ、せめてあんたが何者なのかってことぐらい教えてくれよ。考えてみたら俺、あんたのことほとんど何も知らないんだ。名前と、OH課の人だってことぐらいしか聞かされてない。歳は? 家族は? なんでこんなところに一人で住んでるんだ? ああそうだ、あんたの青原って名字、俺の母さんの旧姓と同じなんだよ。それって偶然じゃないよな?」

 一息に言い切って、真人は聖司に詰め寄った。少しぶしつけな気もするが、どう考えても与えられている情報が少なすぎる。これぐらいは許してもらわないと困るというものだ。

 聖司は真人の勢いにも全く気圧されたような気配を見せず、逆になんだか感心したような顔をしている。

「……お前って、遠慮しないのな」

 はじめ嫌味を言われているのかと思ったが、聖司の表情を見る限りどうやらそうではないらしい。
 事実、聖司はこう続けた。

「いや、それが悪いって言ってるんじゃねえぞ。むしろその逆。……俺ってさ、こんな外見だろ? まあ遠くから見るぶんにはいいんだろうけど、実際はなかなか近寄りがたいって言うか……深くに踏み込んでくる奴はめったに居ない。興味本位で話しかけてくることはあっても、なんつーか……今みたいに、普通の人間に訊くようなことを訊かれることはまずない。そういやあ、そもそもお前、あんまし俺に対して偏見とか持ってるように見えないもんな。ちょっとお前のこと、見くびってたかも知れない」

 そして、聖司は真人に会ってから初めて、真人の前で、苦笑ではないとはっきりわかる笑顔を見せた。意外なほど優しげな、人間味のある笑顔だと真人は思った。

「歳はお前と同い年で十七。家族は居ない――いや、居るけど一緒には住んでいない。んで、お前の言うとおり、名字がお前の母親の旧姓と同じなのは偶然じゃねえ。俺の母親はお前の母親の妹なんだ。つまり俺とお前は――まあ、言わなくてもわかるな?」

 へえ……と、真人は内心少し驚いた。自分と何らかの繋がりがあるのだろうとは予想していたが、まさかイトコだったとは。しかし、では聖司の髪や瞳の色は一体……?

 ついさっき「外見のことをあまり詮索しなかった」という理由で評価されたばかりなので、いきなりそれを裏切るのは忍びない。少し遠まわし気味に訊いてみることにした。

「俺、母さんは早くに亡くしちまったから、直接顔を見たことはないんだけど……母さんの家系って、普通の日本人だよな?」

 真人が言わんとするところを、聖司はすぐに理解したらしい。気を悪くした様子もなく、笑顔を崩さずにこう言った。

「まあそのあたりは、おいおい話してやるさ。……さて、もういいか? そろそろ本題に入らないと、いいかげん日が暮れちまう」

 言われてふと空を仰いでみると、確かに太陽は西側に沈みつつある。季節は冬、もう二月も終わりにさしかかっているから五時やそこらで日が暮れてしまうということはないが、それでも日は短い。無駄話をしていると、放課後の時間なんてあっという間に過ぎてしまう。

 ただ、訓練に入るのが嫌というわけではないのだが、真人はもう一度だけ聖司を呼び止めなくてはいけない。訊いておかなければいけないことがもう一つあるのだ。

「ごめん、もう一つだけいいか? 例の、犯人のことなんだけど」

 犯人、という単語が出た瞬間、職業柄なのか、聖司はむっと表情を険しくした。先ほどの笑顔はよかっただけに、ちょっと残念だ。

「どうした。何か思い出したのか?」

「ああいや、そうじゃなくて……えっと、ごめん。別に捜査に役立つようなことじゃないんだ。ただ、あの夜俺たちを襲った奴と、塔子さんを殺した犯人って同一人物なのかどうか、それを訊いておきたくて……」

 聖司は「ん?」と小さく首をひねった。

「どうしてそんなことを訊くんだ? 何か、二つの事件に関連性でも見つけたか?」

「いや、そういうわけじゃないけど……塔子さんが殺されて、それから何日も経たないうちにすぐにあの子も襲われたわけだろ? だから何か関わりがあるんじゃないかと思って……ごめん、ひょっとして俺、見当違いのことを言ってるのか?」

「全くの見当違いってわけじゃねえよ。犯人の動機が怨恨だった場合、恨まれてる本人だけじゃなくて家族も一緒に標的になるってのはありえる話だしな。けど……お前の知ってる佐宮さつきは、誰かに恨みを買うような人物か?」

 真人は下を向いた。そんなことを言われても、佐宮さつきのことなんて、真人はほとんど知らないのだ。

「もちろん、恨まれてたのは佐宮塔子で、同居人のさつきは単に巻き込まれただけって可能性もあるにはあるが……まあ、現状では犯人は別だと考えるのが妥当だろう。手口が違いすぎるし、何より二つを関連付けるものが今のところない。偶然、別々の事件の被害者が一緒に住んでいたってだけの話だろうさ」

 そういうものなのだろうか。真人にはよく分からない。聖司の顔を見ていると、どうも今言ったのとは別のところで犯人は別だと彼は確信しているように思えてならないのだけど――

「さあ、もういいだろ? とにかく中へ入れよ。茶の一つぐらい出してやるからさ」

 真人は苦笑した。別に聖司の言葉が可笑しかったわけではなくて、先日ここで目を覚ましたときのことを思い出したからだ。あの時も聖司はお茶を用意してくれたが、真人はすっかり緊張してしまっていたので結局口をつけずじまいだった。あの時と違って今日は、どうやらお茶をの味を楽しむぐらいの余裕はありそうだ。

 そのまま二人は中へ入った。玄関から上がって窓際の廊下から居間に向かう。ちょうど居間のすぐ前あたりに差し掛かったとき、前を歩いていた聖司がふと思い出したように振り返った。

「そうだ。俺のほうからも一つ訊いておきたいことがあるんだが、いいか?」

 別に訊かれて困るようなことは何もない。真人は素直にうなずいた。

「じゃあ訊くけど……お前、どうして俺の弟子になってもいいと思ったんだ? 一応、それなりに考えての結論なんだろう?」

「む……」

 困りはしないが、返答に悩む質問だった。

「単純に金の問題か? それならそれで、別に構わねえんだが」

「うーん……それも、ない、とは言い切れないかな。実際、バイトだけじゃあ生活は苦しかったしさ」

「でもその言い方からすると、それだけじゃないんだな?」

 真人はコクリとうなずいた。

「一番大きかったのはやっぱり、あの子――佐宮さんのため、かな。あの子を守るための力が欲しいんだ。もう約束は破りたくない」

 聖司は、ひゅう、とからかうように軽く口笛をふいた。

「恥ずかしげもなく、よくそんなことが言えるもんだ。やっぱり、今でも佐宮さつきはお前にとって家族なのか?」

 その言葉が、突如として真人の心を大きく揺るがせた。佐宮さつきが家族だって? 違う、それは違うんだ。

「なあ、えっと……聖司。混同しないでくれ。佐宮さつきってのは、今入院している、現在のあの子のことだ。俺と親父と三人で一緒に暮らしてたあの子とは別なんだよ」

 真人の口調が変わったことに、どうやら聖司は気がつかなかったようだ。相変わらずの軽い調子で、言葉を返す。

「なんだ? 変なことにこだわるやつだな。別にいいじゃねえか、んなモン。佐宮でも天野でも、どっちでも同じだろ?」

 同じ、だって? 真人はぐいと顔を上げて、聖司をにらみつけた。こいつは俺の家に上がりこんでいるだけでなく、俺の思い出そのものまでも踏みにじるつもりなのか。あの楽しかった日々を。幸せだった日々を。あの子が初めて笑ってくれたとき、俺がどんなに嬉しかったか。お前に、何が分かるというんだ。

「……同じじゃない」

「ん? 何が――」

「同じじゃないって言ってるんだ!」

 気がついたときには、叫んでいた。旧春樹邸に真人の叫び声が響き渡る。

 その反響音は意外なほど大きくて、それで真人ははっと正気に戻った。目の前では、さすがにいつもの飄々とした顔ではなく、驚きを隠し切れない様子で聖司が立ち尽くしている。

「……なんだ? 一体どうしたってんだ?」

 彼にしてみれば、何気ない会話をしているつもりだったところでいきなり怒鳴られたのだ。わけが分からないのは当たり前、腹を立てている様子がないだけでも流石である。

「……ごめん。ワケ分かんねえよな、俺」

「いや、謝られてもなあ……俺としてはリアクションに困るな。何かあったのか? 佐宮さつきとの間に」

 首のうしろあたりを掻きながら、聖司は気遣うような声を出した。どうやら本当に腹を立ててはいないらしい。

 真人としてはあまり進んで話したいことではないが、怒鳴ってしまったのは他ならぬ自分なので軽々しく誤魔化すわけにはいかない。それに、よく考えてみたらこのことを何の偏見もない第三者に話す機会は今までなかった。試しに聞いてもらうのも悪くないかもしれない。

 真人は、ゆっくりと、口にするだけでも気が滅入ってしまいそうなその事実を、言った。

「覚えてないんだ、あの子。俺のことを。俺たちと暮らしてたときのことを――」
 


 居間に上がった真人は、先日と同じように座布団の上に腰を落ち着け、コタツで暖をとった。内装が変わっているとはいえ、ここは懐かしき我が家の居間。心の平静を取り戻すのには最適な場所である。

 真人がいきなり結論から話し始めたので、聖司はますます意味が分からなくなってしまったらしい。とりあえずいったん落ち着くようにと真人をこの部屋に上げ、温かいレモンティーを用意してくれた。

 口をつけてみると、紅茶葉の品のいい香りと、レモンの甘酸っぱさが口のなかいっぱいに広がった。
 美味い。それと同時に、どこかほっとする味だった。普通のお茶ではなくてあえてこれを用意したのは、聖司なりの気遣いというやつなのだろう。

 真人がカップから口を離すのを待ってから、聖司は言った。

「……で、だ。もう一度、順を追って話してくれるか?」

 真人はひとつ大きく息を吐いてから、ゆっくりとうなずいて、話を再開した。

「俺たちは、何年か前までこの家で暮らしてた。親父と、俺と――さつきちゃんの、三人で。このことはあんたも知ってるんだよな?」

 聖司は黙ったままうなずいた。

「それが――ええと、今からだと五年前になるのか。親父が亡くなって、俺たちは別々に暮らさなきゃいけなくなった。俺は叔父さん――親父の弟にあたる人のところへ、さつきちゃんは親父の弟子だった塔子さんのところへ、それぞれ引き取られることになった」

 このあたりの事情も大まかには知っていたのだろう。聖司は表情を変えずに真人の話に聞き入っている。

「俺さ、その後もずっと、何とかしてあの子に連絡を取ろうとはしてたんだ。直接会えなくても、電話とか手紙とか、いろいろ方法はあるしさ。……でも、誰に聞いても、あの子のことは何も教えてくれなかったんだ。住所も電話番号も、元気にしてるのかどうかすらも。塔子さんにも親父の葬式以来ずっと会えなかった。なんか、みんなで俺とあの子を近づけないようにしてるみたいだった」

 話しているだけで、当時の悲しみと寂しさが甦ってくる。楽しかった日々をいきなり断絶させられた悲しみ。自分の一部とまで思っていた少女と引き離された寂しさ。

「でも、俺はずっと信じてた。あの子も俺と同じように思ってくれているって。俺と引き離されて、悲しんでいるに違いないって。……だから俺は、中学を卒業するのと同時に、叔父さんの家を出た。わざと遠くの高校を受験してな。一人になったほうが、自由にあの子を探せると思ったんだ。叔父さんたちのことは嫌いじゃなかったけど、一度も家族だと思ったことはない。あの子のことを何も教えてくれなかった当人でもあるわけだし。これからも、あの家に戻ることはもうないと思う」

「中学卒業と同時に、家を出て一人暮らしか……。OHでもないのに、それでよく今まで食ってこられたもんだ」

「そりゃあ苦労したさ。ていうか、現在進行形で苦労してる。仕送りは全部断ってるから。学費だけは出してもらってるんだけど、それもいつかは返すつもりだ。家族じゃない人に施しを受けるわけにはいかないからさ。……あ、ごめん、話がそれたな。とにかく、俺はそうやって今通ってる井ノ水学園に入った。そして――」

「その学校で、偶然にも佐宮さつきと名を変えた彼女と再会した。しかしながら、彼女は昔のことを覚えていなかった――か」

「……ああ」

「きれいさっぱり? 何の跡形もなく?」

「……ああ」

 そこで、聖司はなにやら少し考えるような仕草をした。

「ふむ……お前さ、この家で彼女とどのくらいの間暮らしてたんだっけ?」

「ええと……幼稚園の頃から小学校を卒業するくらいまでだから、おおかた七、八年ってとこか」

「それだけ長い間一緒に居たのに、彼女はお前のことを覚えていない?」

「……ああ。なあ、変だよな? 変だと思うよな?」

「まあ、普通に考えると……変というよりありえない。もし彼女がお前のことを嫌いだったとしても――って、もしもの話だぞ。いちいちヘコむんじゃねえ。とにかく、彼女の中でその七、八年のことがどう処理されてるのかは知らねえが、そんなに長い間一緒に暮らしてた人間のことを完全に忘れちまうなんてことはまずありえねえ。でも……」

「……でも?」

「俺、なんで彼女が昔のことを忘れちまったのか、心当たりがあるかも――」

「……! 本当か?!」

 こういうのを棚からぼたもちというのだろう。真人は思わずずいっと身を乗り出した。

「……思いっきり期待の眼差しを向けてもらってるところ悪いんだがな。まだあくまで予想の段階だぞ。それにな、もし俺の予想が当たっていたとしても、彼女の記憶を蘇らせる方法までは分からねえんだ。そんなに喜ぶようなことじゃねえよ」

「あ……そうなのか……」

 しゅるしゅると、真人の声はしぼんでいった。まあそんなうまい話があるはずはないか、と心のどこかでは分かっていたが、一度期待してしまった分落胆も大きい。

「でもまあ、ワケわかんねえままってより、せめて原因が分かってたほうが気分的にはいくらかましだろう? ……さて、俺は今からその心当たりってやつを調べてみるから、とりあえず今日のところは帰っていいぞ。なんか訓練って雰囲気でもなくなっちまったしな」

「え、いいのか? これって一応、あんたの仕事ってことになるんだろ? なのに初日からいきなりサボりだなんて……」

「なんだ、意外とマジメなんだな。いいんだよ、別に急ぐ理由があるわけでもなし。明日からきっちりやればそれで済む話さ」

 けろっとした顔で、そんなことを言う。そういえば先日といい今日といい、どうしてこんな時間に聖司は家でヒマそうにしているのだろうか。とても真面目に仕事をしているように見えないのは気のせいなのだろうか?

 とか思ってはみたが、聖司本人が帰れと言っているのだから、真人のほうで拒む理由はない。

「分かった。あの……今日はごめん。いきなり怒鳴ったりして」

「ああ、いい、気にするな。もう忘れた。だからお前も忘れろ」

 ひらひらと手をふってみせる聖司。あまりにもぞんざいな態度に、真人は思わず苦笑した。実はこの聖司、意外と付き合いやすい人物なのかも知れない。

 玄関まで見送りに来てくれた聖司に、真人は軽く言う。

「じゃ、また明日」

「ああ」

 ごく簡単な挨拶だったが、まあ男同士ならこんなものだろう。真人はそのまま家を出て、アパートに向かった。

 聖司とは、いい友達になれるかもしれない。そんな密かな期待を胸に抱きながら。






 真人を帰したあと、居間に戻った聖司は携帯電話を手に取った。電話帳を呼び出し、登録されている番号の一つをコールする。
 プルル、という呼び出し音が、一度、二度、三度ほど繰り返されたあと、応答があった。

『やあ。珍しいね、君から電話なんて』

 電話の相手は、どうやら例の男のようだった。二日前、真人が帰ったあとにこの家を訪れ聖司と会話をし、昨日は病院で真人と出くわした、あの男である。

「訊きたいことがある」

 聖司は何の前置きもなく、いきなり言った。

『ん? なんだい?』

「佐宮さつきの記憶に細工をしたのは、あんただな?」

『……』

 質問ではなく事実を確認するといったその口調に、男は電話の向こうでしばし押し黙った。聖司はそれ以上何も言わず、黙って、男が口を開くのを待つ。

 十秒か二十秒ほど、沈黙が続いただろうか。やがてゆっくりと口を開いたのは、やはり男のほうだった。

『どうして、そんなことを?』

「質問を質問で返すな。イエスかノーかで答えろ」

 また沈黙。今度は五秒ほどで終わった。

『……イエス、だよ』

「そうか」

 まるで感情の通っていない、短く機械的な声。この声を、電話の向こうの男は一体どのように聞いているのだろうか。

「安心してくれ。自分の罪を棚に上げて、あんただけを責めるようなことをするつもりはない」

『……』

「だけど、よく分かったよ。あんたには過去の罪を悔いる気持ちが全くないということが」

『……! 聖司君、それは違――』

 聖司はそこで電話を切った。その表情に、真人と話しているときのような人間味はまるでない。無表情な人間のことをよく「鉄仮面」と言ったりするが、今の聖司にはまさしくその表現が相応しいだろう。

 と、そのときだった。

「ぐっ……!」

 突如として、聖司は苦しげなうめき声を上げた。手から携帯電話が滑り落ち、床に跳ね返ってがたんと大きな音を立てる。

「ちっ……クソが。まるで……狙ったような、タイミングだな……おい」

 床に手を突きながら、誰も居ない空間に向かって途切れ途切れに言う。

「く……まったく、忌々しい体だ、ぜ……」

 上着のポケットに手を入れて、聖司は何かを取り出した。見れば、どうやら何かの錠剤が詰まったガラス瓶のようだ。

 彼はそれのふたを開けて錠剤を数個取り出し、そのまま水なしで口に放り込んだ。
 ごくりと喉を鳴らしてそれを嚥下すると、ごろんと大の字に寝転がる。目を閉じて、どうやらそのまま眠るつもりらしい。

「真に罪深きは、誰ぞ――ってところか」

 意識が途切れる寸前、彼は何かを言った。

「分かってるさ。そんなの、俺に決まってるじゃねえか――」




 その次の日から、訓練が始まった。一体何をさせられるのかと多少不安に思っていた真人だったが、聖司の口から告げられた訓練の内容は、腕立て、腹筋、背筋などに加えてランニングをするだけという、要するに基礎体力トレーニングであった。聖司が言うには、当面の間はこのメニューが続くのだという。まずは基本的な体作りをきっちりやってから本格的な訓練に入るらしい。もっとも、その「本格的な訓練」というのが一体どのようなものなのか、そしていつになったらそれを始めることができるのか、聖司はまたしても教えてくれはしなかったが。真人にとって現時点ではっきりと言えることは、どうやら聖司という少年は徹底した秘密主義であるらしい、ということぐらいだ。

 そうして、訓練というよりは何か新しい部活動でも始めたかのような毎日が続いた。むろんさつきの見舞いにも真人は足しげく通ったが、なにぶん真人は学校の女子と折り合いが悪い(というか、はっきり言って嫌われている)ので、理佳を除いたさつきの女友達が居るときは見舞いに行きにくい。なので毎日というわけにはいかなかったが、それでも可能な限り顔を見せるようにしている。「ねえ、また来てくれるよね?」というあの日言われた言葉は、自分で想像していた以上に真人の心に大きく響いているようだった。

 そんなこんなで、一ヶ月が過ぎた。三月末、学校の期末テストも終わり、そろそろ桜も咲こうかという季節である。

 三学期の終業式があった日。真人は今日も今日とてさつきの見舞いに来ていた。むろん理佳も一緒である。さつきの見舞いに来るようになってからというもの、真人はさつきとだけでなく理佳とも一緒に過ごす時間がずいぶんと多くなっている。

 病室で一番口数が多いのはやはり理佳で、話題は部活動に関するものが多い。実は理佳の計数は五十を超えており、彼女は立派なOH候補者である。が、理佳のやっているバレーのような団体競技はコート内プレーヤーの計数の合計が一定以下でないといけないというルールが協会によって定められていることもあって、彼女のチーム内における立場はどうも微妙なようだ。

 そもそも「候補者」というのは中途半端なのだ、と理佳は言う。何の力も持たない凡人でもなければ、天下無敵のOHでもない。確かにチーム内では彼女の力はかなり貴重なものであるのだが、全国を見れば彼女を上回るプレーヤーなどいくらでも居る。だというのに、計数の合計に関するルールの都合上、彼女が試合に出ることで代わりに出られなくなるチームメイトがどうしても出てくるわけである。そのこともあって、ただでさえ微妙な女子部活動内の人間関係がさらに複雑化してしまっているようだ。ネチネチと嫌味を言われ続けることもあったりして、さすがの理佳も「もう辞めよう」と本気で考えたことは一度や二度ではないと言う。だが、その度に「私はバレーが好きなのだから」と思い直し、今に至っているようだ。いつ見ても元気な理佳が内心でこんな悩みを抱えていたなんて、ちょっと真人は意外な気持ちだった。人は見かけによらないというのはどうやら本当らしい。

 さて、肝心のさつきについてであるが、ベッドの上で理佳の話に耳を傾ける彼女は、見た目にはもうすっかりよくなっている。頭やそこかしこの包帯はとうに取り払われており、今日から三日ほど前にはついに両腕も完全に自由になった。あとはリハビリさえ終わればすぐにでも退院できるという状況だ。どうやらさつきと理佳は「退院したらどこどこへ遊びにいこう」という約束をたくさんしているようで、最近はそれについての話題も増えてきている。

 怪我が治るにつれて、さつきにも笑顔が戻ってきている、と思う。一ヶ月前、初めて見舞いに来たときに見せたような作り物ではなくて、本物の笑顔である。それは真人にとっても喜ばしいことではあるのだが、それと同時に、ちょっとばかり困ったことにもなっている。

 初めて見舞いに来た日、不可解なほどに明るく振舞うさつきに危うさを覚えた真人だったが、やはりあれは相当な無理をしてやっていたことであったようだ。彼女が本来の調子を取り戻すにつれて、真人に対する彼女の態度も本来のものへと戻りつつある。

 つまり、あまり好意的ではないものに、である。知り合いでもないのに初対面でいきなり他人のことを「さつきちゃん」呼ばわりし、小さい頃には一緒に住んでいたのだと言って憚らない、変態じみた男に対するものに、である。

 要するに、真人が女子に嫌われている理由というのはそれなのだ。数年ぶりに再会したさつき(彼女の外見はそれなりに変わっていたが、真人は一目で彼女が「さつきちゃん」であるとわかった)に喜び勇んで話しかけてみたら、なんと彼女は真人のことを知らないと言う。そんなはずはない――と詰め寄ってみても、「ごめんね、冗談だよ」という、真人が期待した返事は返ってこなかった。

 そして、恥ずかしいことに、その時の真人は少し――いや、かなり取り乱してしまった。ショックが大きすぎたせいかその時のことはあまり詳しく覚えていないのだが、何か大きな声で叫んでいたような気もするし、彼女に掴みかかろうとしていたような覚えもある。幸い真人もその場で暴れだすほど馬鹿ではなく、ほどなく自分を取り戻して素直に頭を下げたのだが、なにぶん新入生が集まっていた場所でのことだったので真人の顔と不名誉な噂は一気に広まってしまった。

 初対面の女の子に知り合いのふりをして声をかけ、それが拒否されると暴れだす男(実際には真人は全く手を出してはいないはずなのだが、噂の中では何故かひどく暴れまわったことになっていて、果てには怪我を負わされたと主張する者まで現れた)。入学早々からそんなレッテルを貼られた真人に、女子連中が寄り付くはずもない。何か決定的な勘違いをしたナンパ野郎、もしくは頭のイカれた危ない奴。そのイメージは、あれから二年ほど経った今も完全には払拭できていない。きっと卒業するまで付きまとうのだろう、と真人はすでに覚悟している。

 さつき本人はと言えば、真相を知っているためか、他の女子と違って露骨に拒絶を示すことはしない。が、やはり彼女のほうから話しかけてくれるようなことは今まで一度もなかったし、真人から話しかけても何となく壁を感じてしまう。なんだか惨めになってきてしまうので、さつきが襲われるしばらく前から、真人は話しかけることすら止めてしまっていた。一ヶ月前の初めて見舞いに行った日は、実は真人にとって久しぶりにさつきと会話した日でもあったのだ。
 そういうわけで、本来の調子を取り戻しつつある今のさつきは、精神的に弱っていた時と比べると真人に対して積極的に話をしてくれなくなっている。この一ヶ月通いつめた甲斐もあってか、入院する以前よりはいくらか好意的になっている感じもしないではないが、それはあくまで「理佳と一緒に来ているから」というだけであろう。ひょっとすると、真人のことを認めている節のある理佳に調子を合わせているだけなのかも知れない、とついつい悪いほうにも考えてしまう。

 さて。そんなさつきだが、今日は何やらおかしなことを言い出した。いつも通り理佳がずっと喋っていて、ふとそれが途切れたときのことである。

「ねえ春樹君。春樹君って、どこか悪いの?」

「……へ?」

 いきなり何を言い出すのか――とはじめは思ったが、すぐに思い至った。頭が変だからあんなわけの分からないことを言うのだ、と言いたいだろうか。まさか、そんな――

「ちょっと、さつき?!」

 どうやら理佳も真人と同じ考えに至ったらしく、酷く慌てた声を出した。対するさつきはきょとんとした顔をしている。

「え、なに……って、あ!」

 そして、しまった、という感じで口をおさえた。

「ご、ごめん春樹君! そういう意味じゃないの!」

「……え? 違うの?」

 勝手に解釈して真っ白になりかけていた真人は、その一言で生き返った。顔を上げてみると、さつきは優しく微笑んでいる。

「あのね、春樹君。私、ちゃんと分かってるから。春樹君が変な人じゃないって。あれは何かの間違いだったんでしょ? 私、もう気にしてないから。そんな顔しないで、ね?」

 なんと。真人は目を丸くした。当面の悩みの種になるであろうと思っていたことが、こうもあっさりと解決する――いや、実はもうとっくに解決していたなんて。

「だから、理佳もそんなに神経質にならないで。理佳、春樹君が来てるとき、いつも気を使ってるでしょ? 無理して話題を作って、私が話しやすいようにってさ。それは嬉しいんだけど、疲れるでしょ? そういうのって」

「あんた、気がついてたの……?」

 さつきは笑顔のままうなずいた。

 そう。さつきはこういう気遣いのできる女の子なのだ。自分が落ち込んでいるときでも、周りに迷惑をかけないように精一杯努力する。昔からそうだった。
 しかしそれだけに、彼女が今言ったことが建前なのか本音なのか、真人は量りかねていた。事実として、今までずっと真人はさつきに壁のようなものを感じてきたのだが――

 だがその懸念も、続くさつきの言葉であっさりと否定される。

「そういうふうに気を使われると、なんか私まで春樹君のことを変に意識しちゃって……ごめんね春樹君。私、ときどき変だったでしょ? 私と話してるとき、春樹君ってたまに悲しそうな顔するよね。そういうときって、『ああ、またやっちゃった』って、なんだか私まで悲しくなるの」

 真人は感嘆のため息を漏らさずにはおられなかった。真人の、なかば劣等感にも似た感情にまでさつきは配慮してくれていたのだ。あの頃の、真人と一緒に住んでいた頃の彼女も他人に対してこれほどまでに深い配慮をできる子だったのだろうか? だとすると、真人は彼女のことをずいぶんと見くびっていたことになる。

 ふと思い出す。聖司から聞いた、彼女が記憶を失った理由。正確に言えば、彼女は記憶を失ったのではなくて、何か妙な暗示をかけられて昔のことを思い出さないようにされているだけであるらしい。だが、その暗示というのはちょっとばかり特殊なもので、聖司の傷を癒す能力と同じような超能力みたいなものが使われているのだとか。そしてその暗示は、それをかけた本人にすら能動的に解くことはできないという。結局はこれまで通り、いつか彼女が自分から思い出してくれるのを期待して待つしかないのだ。

 真人が黙って考え込んでいると、先に理佳が口を開いた。

「……ったく、あんたって子は。分かったわよ、私ももう変に気を回したりしない。春樹君も気兼ねなくあんたと話をする。それでいい?」

「うん。ありがと。春樹君も、それで許してね」

 許すも何もあったものではないが、ここで真人が自分の非を認めるような発言をしてしまうと、入学初日の事件は単なる間違いだったと認めてしまうことになる。真人は小さく「うん」とうなずくことしか出来なかった。

「それで? 春樹君のどこが悪いって?」

「え? ……ああごめん、そうだった」

 くすりと笑って、さつきは真人のほうを見る。真人が小さく笑みを返すと、さつきはちょっと照れたような顔をして、言葉を続けた。

「春樹君、私のところへ来る以外にもしょっちゅうこの病院に来てるよね? 多いときには、私のお見舞いも合わせて一日に二回も来てるときがあると思うんだけど……」

「……ん? どういうこと?」

「え? どういうことって、言ったとおりの意味なんだけど……」

「……?」

 どうも、話がかみ合っていない。真人はさつきの見舞いに来る以外ではこの病院に来たことはないし、病院には来たけど入りづらくてそのまま帰った――ということも今のところない。理佳以外の女子が来る日は事前に理佳が教えてくれるので、病院で彼女たちと鉢合わせになったことは一度もないのだ。今のところは、だけど。

 真人とさつき、二人して首をかしげているところへ理佳が口をはさんだ。

「そういえばあんた、こないだもそんなこと言ってたよね。春樹君が来てない日に、『今日も春樹君が病院に来てる、ここには来ないのか』みたいなことを。ひょっとして、あれのこと?」

「あ、うん、それそれ。ねえ春樹君、違うの?」

「うーん……悪いけど俺、佐宮さんのお見舞い以外でこの病院に来たことなんてないよ。少なくとも、この一ヶ月の間は。……ていうか、一体なんでまたそんなことを?」

「あれ、違うんだ? おかしいなあ……」

 さつきは少し不服そうというか、真人が否定したことが意外だったようだ。

「ごめん春樹君、気にしないで。私もなんとなくそう思っただけだから。でも……うーん……おかしいなあ。私、確かに……」

 さつきはまだ首をひねっている。真人と理佳は顔を見合わせて、やはり同じように首をひねったのだった。



 その日の帰り道。しばらくはさつきの不可解な言動について推論を交わしていた真人と理佳だったが、やがてそれにも飽きた頃、理佳がふと言った。

「でも、よかったじゃない。さつきに嫌われてなくて、さ。私、てっきりあの子は春樹君のことはあまりよく思ってないんだとばかり思っててたよ。なんか、余計な気を回して損しちゃったなあ」

「あ、そうだ。ごめん、気付かなくて。俺、てっきりあれが菅永さんの地だとばかり……」

 理佳は声を立てて笑った。

「あははは。うん、その通りなんだけどね。半分……てゆーか、ぶっちゃけ四分の三くらいは地かな、あれが。残りの四分の一くらいで、春樹君とさつきのことをちょっとだけ気にしてた。だからあんまし気にしないで。そんな大したことじゃないから」

 そのあと、しばらく二人は無言だった。夕暮れ時、遠くでカラスが鳴いている。春になったとはいえ、この時間になると風はまだすこし肌寒い。真人の少し前を歩く理佳は、風にあおられてぶるっと身を震わせた。

「ねえ、春樹君」

 ぽつりと、理佳は振り向かずに言った。

「もう昔がどうのとかいう話、しないの?」

「……え?」

 理佳の言っていることがよく分からなくて、真人は訊き返した。

「春樹君、さつきの幼馴染なんでしょう? 昔は一緒に住んでた、とも言ってたよね。どうしてそれをさつきの前で言わないの? 春樹君はこのままでいいワケ?」

「それは……」

 何故、そんなことを言うのだろう。意図が読めない。

「私もさつきと同じ意見なの。春樹君は意味もなくあんなことをする人じゃない。この一ヶ月、ずっと春樹君を見てて、私は決めた。春樹君を信じるよ」

「……ホントに? 俺、何も特別なことはしてないと思うんだけど――」

 また理佳が笑う。

「そりゃあ春樹君はお見舞いに来てるだけなんだから、特別も何もあったもんじゃないけどさ。まあ、あえて言うなら……なんとなく?」

 理佳の言葉が本当なら嬉しいが、どうしてそんなにふうに思うのだろう? 理佳は中学の頃からずっとさつきと一緒に居るわけだから、さつきと真人を天秤にかけた場合、さつきのほうを信じるのが普通だと思うのだが――

「ま、実はそれだけじゃないんだけどね。私が春樹君の話を信じる気になったワケは」

 真人の内心の戸惑いを感じ取ったかのように、理佳は言葉を続けた。

「私、中学であの子と一緒になったんだけど……私の中学って、ほとんどが同じ小学校から来た子ばっかりでさ。その中であの子は別の小学校から来た、要するに扱い的には転校生みたいな感じだったワケよ」

 まあそれはそうだろう。旧春樹邸がある地域とこの辺りでは、校区が違っている。

「だから、訊くじゃない? 小学校はどこだったのか、今までどんなところに住んでたのか、って」

「うん。でも佐宮さんにはちゃんとそれ以前の記憶もあったんだよね? 菅永さん、前にそんなこと言ってたと思うけど――」

「ごめん。それ、ウソなの。……あー、いや、カンペキにウソってわけじゃないんだけどね。ホントのことでもないってゆーか……」

 理佳にしては珍しく、歯切れが悪い。思っていることをどうやって言葉にしようか決めかねているようだった。

「一応、訊けば答えてくれるのよ。どこに住んでたとか、前はどんな学校だったとか。でもなんか変なのよね。中学に入りたての時だから、ほんのちょっと前までは小学生だったワケじゃない? それなのになんかやたら思い出しにくそうにしてたり、言ってることが食い違ってたり。始めはみんな不思議がってたのよ。そのうちあんまし気にしなくなっちゃったけどさ」

 それは初耳だった。が、言われてみれば当然である。おかしな暗示をかけられているというのだから、その程度の矛盾というか違和感みたいなものは出てしかるべきだ。

「だから私、春樹君の話を聞いたとき、全部が全部デタラメだとは思えなかったのよね。あの子の記憶がおかしくなってる時期と、春樹君があの子と別れたって時期も一致してるしさ。だから……ごめんね。春樹君によく話しかけてたのって、ホントはそれを確かめるためだったの。みんなに避けられた春樹君に気を使って、とかじゃなくてね。……あ、最初のうちだけだからね。今は違うよ」

 うん、分かってる。真人が微笑して答えると、理佳はほっと胸を撫で下ろした。

「春樹君が変なやつじゃないってことは、すぐに分かったんだけどさ。だけど一応さつきに乱暴しようとしたやつでもあるわけだし、うかつにあの子に近付けさせるわけにもいかなかったワケよ。分かってくれる?」

 真人はもう一度うなずいた。取り乱してしまった自分に非があるということぐらい真人も分かっているつもりだし、理佳の態度がさつきのためを思ってのことであることも分かっている。今さらそれをとやかく言うつもりはない。

「でも、なんかそれも取り越し苦労だったみたいだね。あの子は春樹君のこと、別に嫌いじゃないみたいだし。あーあ、なんか私、一人で空回りしちゃってたみたい」

 ちょうどそのとき、学校近くの交差点に二人はさしかかった。学校へ行くのなら右、旧春樹邸へ行くためバスに乗るなら左へ曲がらないといけない。

「今日はここでいいよ。春樹君、何か用事があるんでしょう?」

 たっと真人から一歩離れて、理佳はくるりと元気に振り向いた。制服のスカートがきわどいところまでまくれ上がって、真人はあわてて目をそらす。

「さつきのことよろしくね。大丈夫、きっとうまくいくよ。私が保証してあげる」

「ん……? それってなんか変だよ、菅永さん。明日も――いや、そりゃあ明日とは限らないけど、次もまた一緒にお見舞いに行くだろ?」

 理佳は少し困ったような顔をしたが、何も言わない。何かおかしい――とは思ったが、わざわざ問いただすようなことではない、とその時は思った。

「それじゃね。がんばりなよ!」

 真人に向かって一度大きく手を振ってから、理佳はくるりと背中を向けて勢いよく走り去ってしまった。

 まったく、元気のいい子だなあ――と、そのぐらいのことしか、その時の真人は思わなかった。




 春休み。真人はほとんどアパートには帰らず、旧春樹邸と病院とを往復する毎日を過ごしている。寝泊りをしているのはもちろん旧春樹邸、使っている部屋も元真人の部屋である。もともと一人で住むには広すぎる家であったためか、聖司も文句は言わない。気分的にはすっかり五年前に逆戻りしたような感じだ。あとはここに「さつきちゃん」が戻ってきてくれれば完璧なのだが――とか思ってみても虚しくなるだけなので、真人はできるだけ考えないようにしている。

 そんなわけで聖司とは半同居人のような形になった真人。自然、彼と二人で過ごす時間が多くなるわけで、その間いろいろと話をした。夜、居間でテレビなんかを見つつ、聖司の入れてくれた日本茶や紅茶を飲みながら(どうやら茶葉の種類はかなりのものが揃っているらしく、毎日種類が違っていた)。相変わらず秘密の部分に関しては何も教えてくれないので、話題になるのはそれ以外のことだ。

「剣が光ってた……?」

「ああ。刃の部分が、レーザービームみたいにさ。俺、それで斬りつけられたんだよ。なんだか、まるで漫画みたいだろ?」

 これは、あの夜――真人がさつきを助けられようとして助けられなかった、あの時についての話である。

「それで、黒いパーカーに黒のズボン、黒い靴……要するに、剣以外の部分は真っ黒だったわけだな?」

「ああ」

「お前さ、もしもう一度その犯人と出くわしたら、そいつが犯人だと見分けられるか?」

「さあ……どうだろう。同じ格好をしてるんでなきゃ、難しいんじゃないかな」

「じゃあ、剣は? その光ってたっていう剣をもう一度見たなら、どうだ?」

「ああ、それなら分かると思う。ていうか、あんな代物、他にはないだろ?」

「ま、そうだろうな」

 と、犯人について真人が語ることが出来るのはこの程度だったが、聖司が知りたがったのはそれだけではなかった。

「にしても、佐宮さつきはお前のことを忘れてるわけだろう? それでよく命をかけてまで守ろうという気になったもんだ」

 どうも聖司にはそのあたりが理解できないようだった。自分のことをなんとも思っていない、自分の助けを待っているわけでもない相手を助けて、一体何になるというのか。聖司はそういうふうに思っているようだが、真人に言わせればその考え方のほうがよっぽど理解できない。

「なんでさ。昔一緒に暮らしてた相手だぞ? しかも俺の場合親父が死んじまってるから、あの子が俺に残された唯一の家族なんだ。守ろうと思わないほうがおかしいだろ? たとえ俺のことを覚えてなかったとしてもさ」

「きれいごとだな。それは本当にお前の本心か? お前、あの夜死にかけただろう? 死を覚悟しただろう? そのとき、本当に後悔はなかったのか? たとえ命を捨ててまで守り抜いても、その相手はお前のために泣いてくれないかもしれない。それでもお前は本当に平気なのか?」

「それは――」

 さすがに一瞬言葉につまった真人だったが、すぐに思い直してこう続けた。

「たしかに、ちょっと悲しいかったけどさ。だけど、ああする以外に選択肢はなかったんだ。あの子の居ない世界なんて俺には耐えられない。あの子が死ぬのを見るぐらいなら、自分が死んだほうがまだましだよ」

「……わかんねえな。どうしてそこまで言い切れるんだ。何か理由があるのか?」

「理由……か。うん、いろいろあると思う。さつきちゃんとは約束もしてるしさ」

「約束? ひょっとして、『君のことは、俺が守る!』みたいな感じか?」

「う……そういう言い方をされるとなんかすげえ恥ずかしいけど、まあそんな感じ。つっても、さつきちゃんはOHだったし、こんな俺じゃあ――あ、そうだ。今のあの子がOHじゃなくなってるのって、記憶のこととなにか関係があるのか? 一度上がった計数が下がるのって、普通じゃありえないんだよな?」

「ん……まあ、そうだろうな。記憶が戻れば多分力も戻るんだろうさ。……で? お前はその約束があるからっていうたったそれだけの理由で命をかけたのか?」

「あ、いや……たぶん違うと思う。やっぱり一番大きいのは、名前を呼んで欲しいってことかな。俺、親父が死んでさつきちゃんと離れ離れになって以来、名前を呼んでもらってないんだ」

「名前……? お前、友達いねえのか? いや待て、じゃあ親戚のうちではなんて呼ばれてたんだ? それ以前に、現に俺はお前のことを『真人』って呼んでる気がするが?」

「ああいや、そういうことじゃなくってさ」

 苦笑しつつ、どう言えば聖司に分かってもらえるかを真人は考えていた。が、結局はうまい言い回しが見つからなかったので、胸の内にある感覚をそのまま言葉に乗せてみることにする。

「本当の意味で俺の名前を呼んでくれるのって、親父とさつきちゃんだけなんだ。親父の『真人』っていう短くてはっきりした感じと、さつきちゃんの『まさと』っていう柔らかい感じ。親父のはもう無理だけど、せめてさつきちゃんのをもう一度聞きたいんだ。そうでないと、なんていうか――俺、ダメになっちまいそうで……」

「――モラトリアム人間」

 ぼそりと、聖司は何かを言った。

「え、何だって?」

「なんで俺がお前に対して厳しくなりきれないのか、その理由が分かった気がする」

「……? よく分からないけど、一応その理由ってのを聞かせてもらってもいいか?」

 くく、と聖司は皮肉っぽく笑った。

「似てるんだよ、俺の知り合いに。過去にばっかこだわって全然前に進めていないところがな」

 むっとなった真人が口をつぐんでしまったので、そのやりとりはそこで終わりになった。

 これらの会話は、全て夜中の出来事だ。昼間は訓練という名の基礎体力トレーニング、そうでないときは真人が出掛けていたり、まれにだが聖司も外出するときがある。真人が出掛けるときは行き先をできるだけ聖司に伝えるようにしている(と言っても行き先は八割がたさつきの見舞いなのでわざわざ伝える意味はあまりなかったりする)が、逆に聖司はどこに行っているのか全く言わない。訊いても教えてくれない。

 一つだけ分かったことは、聖司が家からあまり出ないのには、どうやら街を歩くのには彼の外見は目立ちすぎるからという理由があるらしいということだ。事実、この家に真人が寝泊りするようになってから、生活必需品の買出しは全部真人がやっている(単に押し付けられているだけのような気もしないではないが)。平均すると、聖司の一日当たりの外出時間は恐らく二時間を上回らないだろう。これで一流商社マン顔負けの給料を貰っているというのだから、世の中まったく不公平である。

 実際、生活をともにしてみても、聖司が一体何をやってお金を貰っているのかは依然謎のままであった。真人と話していないときはほとんど自分の部屋から出てこないし、そうかと思えば真夜中に起き出してなにやらごそごそとやっているらしき気配を感じることもある。その逆に昼ごろまで寝ている日もあったりして、生活のリズムというものがまるでない。いつも朝早くに起きて夜遅くに帰ってきていた真人の父、秀彰とは同業者であるはずなのに、この差は一体何なのだろうか。

 春樹真人のイトコ、青原聖司。彼に関する謎は、未だに解けない。



 真人たちが住む井ノ水市からは少し離れたところに位置する、天野家。

 少しばかり特殊な血を引く一族が住むこの家は、しかしながら見た目には何の変哲もない普通の一軒家である。軒先には洗濯物が干してあるし、庭の片隅には犬も居る。強いて挙げるとすれば、少し庭が広くて少し建物が古めかしいということが、ほんの少し特別と言えなくもないだろうか。

 そんな天野家ではあるが、本来とは別の理由から陰気な雰囲気が漂っていて、近所の住人はあまり近付きたがらない。それもそのはず、今この家に住んでいる人間はと言えば、めったに家から出てこない車椅子の女性、逆に家にはめったに寄り付かないガラの悪い放蕩息子といった顔ぶれで、唯一まともなのはこの家の家事を一手に引き受けているらしい十七、八の娘ぐらいのものだ。

 この娘だが、実は近所でちょっとした評判になっている。というのも、かなりの美人である上に家のこともきちんとやっており、近所の人に顔を合わせればちゃんと挨拶もできるしっかりとした娘だからである。それなのに、どうやら学校には通わせてもらっていないらしく(近所の住人はこの娘の味方なので、どうしてもこういう言い方になる)、ずっと家事と母親の世話ばかりを続ける毎日を送っているようで、この娘が笑っているところを見たことがないというのがもっぱらの噂なのだ。かわいそうにねえ、と主婦たちは口をそろえて言うが、彼女らが実際に娘本人と顔を合わせたときに言うことといえば「あなたも大変ねえ、がんばってね」ぐらいのものなので、正直言って本人の励みになるということはあまりない。

 さて。今、噂の娘が天野家の玄関を開け、中に入ろうとしている。その何気ない仕草、それを見ただけで思わず息をのむ者も居るかも知れない。
 シミ一つない透き通るような白い肌、くっきりとした二重まぶた、ツンと上を向いた形の良い鼻、見事に引き締まった輪郭。ロングの黒髪はそよ風にゆれて、艶やかにきらめく。

 噂にたがわぬ、という表現だけでは足りまい。要するにこの少女は、女性が美しいと呼ばれるためのおおよそ全ての要素をもちあわせている。にもかかわらず本人にはあまりそれをアピールする気がないようで、顔はノーメイク、服装もワンピースの上にカーディガンを羽織っただけの目立たない出で立ちをしている。その上、食材のいっぱい詰まったスーパーの袋を両手に提げている――のは、まあ、人によって意見の分かれるところであろう。

 ワン、と犬が鳴いたので、少女は振り返ってそちらを向いた。

「ポチ、もうすぐ散歩の時間だから。もうちょっと待っててね」

 かわいらしい声がそよ風に乗って、歌うような響きが聞く者の耳をくすぐる。ポチ、というのは犬の名前だろうか。誰が付けたのかは知らないが、名付け親のセンスが知れるというものである。

 少女は「ただいま」と言って中に入ると、そのままキッチンへ向かう。いかにも重そうな買い物袋を軽々と持って歩き、キッチンのドアを開ける。そして、その先にいた人物を見て驚いたような声を出した。

「辰巳さん。帰ってたんですか」

 真っ黒なレザージャケットに身を包んだ三十がらみの男。椅子の背もたれに体重をあずけ、行儀悪く足を組んでいる。髪はツンツンに立っていて、胸元にはシルバーのネックレス、耳には小型のピアス。少女とは正反対に、装飾過多な印象だ。

「ああ、ちと気になることがあってな。しばらくはここに居させてもらうことになりそうだ」

 どさりと買い物袋を床に置くと、冷蔵庫を開けて、少女は買ってきたものを中へと詰め込み始める。その作業はいかにも手馴れていて、淀みのない仕草で食材を次々と分類していく。

「そうですか。あ、でもうどうしよう、今日のおかずは――」

「気にすんな。食えるモンだったらなんでもいい」

 少女はがっくりと肩を落とした。

「作る側としては一番やる気をなくす一言ですね。……まあ、いつものことなんで今さら気にしませんけど」

 食材の詰め込みが終わると、よし、と小さく言って少女は立ち上がる。

「じゃあ私、ポチの散歩に――」

「あら、おかえりなさいさつき」

 そこへキッチンの外から声がかかったので、少女はそちらを見た。声をかけたのは、電動車椅子に乗った初老の女性。すっかり伸びきった髪には白髪が混じっており、顔にはしわが目立つ。しかも、よく見ると右腕がない。車椅子のスイッチも全部左側についている。

「うん、ただいまお母さん。今からポチの散歩に行かないといけないから、夕ご飯はもうちょっと待ってね」

「いつもごめんね。本当なら全部ママがやることなのに……」

「いいって、気にしないで。お母さんは部屋で休んでてよ」

 少女が言うと、車椅子の女性は申し訳なさそうに微笑んで、また奥へと姿を消した。キッチンの椅子に座っている男の姿には全く目を向けない。まるで、そこに居ないかのように。

「……相変わらず、か」

 無視された、先ほど辰巳と呼ばれた男が、ため息混じりに言う。

「お前は嫌じゃないのかよ? オフクロは、お前をお前と思ってないワケだぜ?」

「構いませんよ。ちょうどいいじゃないですか。おばさんの前で、私は天野さつき。それ以外の場所では山崎悠理。天野悠理、なんていう中途半端な存在を作らなくて済むから、むしろ助かります」

 辰巳はがりがりと頭をかいた。

「こだわるねえ。銀ガキとの思い出が、そんなに大切かい?」

 少女は大きくため息をつく。

「もう百回ぐらい言ってる気がしますけど……その『銀ガキ』っていうの、やめて下さい。ものすごくダサいです」

「そんなこと言ったって、他に特徴がねえだろうが、あのガキは」

「……名前で呼ぼうという発想はないんですか」

「バカ野郎。オレはあのガキとまともに口を利いたことすらねえんだぞ。そんなやつのことを名前で呼べるかよ。男同士が名前で呼びあうのは、お互いの存在を認め合った相手とだけだ」

 この講釈も聞き飽きているのだろう、少女は何も言わない。辰巳はちらりとカレンダーに目をやった。

「そういえば、そろそろじゃねえか。今年の服はどうすんだ? 年にたった一度の、愛しい男に会える日だろう?」

 からかうような口調に、しかし少女は照れたような素振りを全く見せない。別にこの種のことに耐性があるわけではなくて、言っているのが辰巳だからというだけであるが。

「服はもう買いましたけど……髪はどうしよう。美容院に行ったほうがいいかなあ。ねえ辰巳さん、どう思います?」

「知らん。俺に訊くな」

「……そうですね。訊いた私がバカでした」

 少女はまたため息をついた。なんだかこの男と話していると、十年ほど早く老け込んでしまいそうである。

「じゃあ私、ポチの散歩に行ってきますから」

「ああ」

 小さく手を挙げて、辰巳は了承の意を伝える。少女は庭に出て、犬を連れて外に出て行った。

 その様子を窓越しに見つめながら、辰巳はぽつりとつぶやいた。

「愛される事は幸福ではない。愛する事こそ幸福だ――か」

 それは、あの少女の好きな、とある古い作家の言葉である。

「そういうわりには……あいつ、笑わねえんだよな」
 

 

 病室には会話がなかった。時計の針の音が、かちかちと耳に障る。

 春休みに入って一週間。本当ならさつきはとっくに退院していてもおかしくない頃だ。が、彼女は依然としてベッドの上。

 理由はリハビリの遅延。その原因も、真人にはちゃんと分かっている。彼女にやる気がないからである。

「私、何か悪いこと言ったかなあ……」

 さつきが、もう何度目になるか分からないそのつぶやきをもらす。

「佐宮さんのせいじゃないよ。きっと部活が忙しいんだ」

 そうやって真人が答えるのも、もう何度目になるか分からない。

 二人のため息が重なる。真人もさつきもあまり話題が豊富なほうではないので、どうしても沈黙の時間が長くなってしまう。こうしていると、いかに理佳の存在がありがたいものであったのかが身にしみてよく分かった。

 そう。ここに理佳は居ない。彼女がさつきの見舞いに来なくなってから、今日でちょうど一週間になる。つまりあの終業式の日以来、理佳は姿を見せていないのだ。

 理佳は真人と違って誰に気兼ねすることもなく見舞いに来られるので、何か特別な用事があって来られない日以外は毎日ここへ足を運んでいた。さつきは遠慮して「無理して来なくてもいい」みたいなことを何度か言ったようだが、その度に「私が楽しんでやってるんだからいいんだ」と押し切られる格好で断りきれなかったらしい。そして、そのことをさつきも内心では嬉しく思っていた、というのは言うまでもないことである。

 それが、あの日以来ぴたりと来なくなってしまった。どうしたのかと思って携帯にかけてみても何故かずっと繋がらず、ならばと家のほうにかけてみると「今は居ない」「手が離せない」などと言われて繋いでもらえない。どんな時間にかけてもそれなのだから、どうも居留守を使われているのではないかと真人は思い始めている。

 バレー部の練習中に捕まえるという手段もあるにはあるのだが、それはさつきに禁止されてしまった。迷惑をかけたくないという意向からである。

「私、退院する意味なくなっちゃったなあ」

 ぽつりとつぶやいたその言葉が、彼女のリハビリが進まない原因の全てを物語っている。

 前にも言ったとおり、さつきと理佳は退院後にいろいろ遊びに行く計画を立てていて、それが「なんとしても春休み中に退院しなくては」というさつきの意志に直結していたのだ。
 だが、理佳が来なくなったことでそれはおじゃんになってしまった。別に見舞いに来ていないからといってその後の計画までもが駄目になってしまうとは限らないわけだが、実際問題、電話すら繋がらない今の状況でさつきが退院したところで、どうやって理佳を誘えというのか。口ではさつきを励ますようなことを言っている真人だが、本音としてはそんなところだ。

 真人がここで「じゃあ俺とデートしよう!」と軽く言えるような性格だったならよかったのだが、残念ながらそうではない。女の子と二人で出掛けた記憶なんて、それこそさつきのことを「さつきちゃん」と呼んでいたころにまで遡らなければ出てこないのだ。だって中学校の時は断絶された過去を想って抜け殻のような生活を送っていたし、高校に入ってからは例の事件のせいで女子は寄り付かなくなってしまったし――と、心の中で自己弁護を図る。

「ねえ春樹君。退院して、何かいいことある? 家に帰っても姉さんは居ないし、学校の追試はうけなきゃいけないし……いっそのこと、このままずっと入院していられたらいいのに」

「そんなこと言っちゃダメだよ」

 真人はそれだけ言うのが精一杯だった。これがあの、すっかり元気を取り戻したかのように見えたさつきの姿なのだろうか? たとえ親友だとはいえ、たった一人の友達が来なくなってしまったというだけで、人というのはこうも沈んでしまうものなのだろうか。

「佐宮さんの友達って菅永さんだけじゃないだろ? もし菅永さんがダメでも、学校に行けばみんなが居るじゃないか。楽しいこと、たくさんあるって」

「でも、最近みんなも来なくなっちゃったし……春休みに入ってから私、病院の人以外だと春樹君としか話してないよ」

「……」

 こういうのを墓穴というのだろう。真人は続く言葉を失った。

 そう、さつきの言う通りなのだ。春休みに入ってからというもの、理佳以外の女子連中もめっきり来なくなってしまった。真人が思うに、彼女たちは「さつきの見舞いは理佳に任せておけばいい」という考え方なのではないか。確かに友達が入院したときなんてそんなものかも知れないが、それにしたってもう少し気をつかってくれてもよさそうなものだ。さつきは家族が居ない、というかたった一人の家族を失ったばかりなのだから。腹が立つというよりは、むしろ悲しくなる。

「……ねえ春樹君、訊いてもいい?」

「ん、なに?」

「春樹君、どうして私のお見舞いに来てくれるの? 最近は毎日だよね。どうして私のためにそこまでしてくれるの?」

「それは――」

 家族だから。君が「さつきちゃん」だから。ここでそれを言ったらどうなるんだろう。ひょっとすると、今なら受け入れてくれるのではないだろうか。見舞いに来る人間が真人一人しか居ない今なら。だけどそんな、彼女の弱みにつけこむようなこと、果たしてやってもいいものかどうか。

 悩んだ挙句、さつきの縋るような視線にも気付かないまま、真人は胸の内とは正反対のことを言った。

「ヒマだから、さ」

 言った瞬間、失敗だったと気がついた。が、もう遅い。

「……だったら、さ――」

 下を向いてしまったさつきは、きゅっとシーツを握りしめながら、そばに居る真人にやっと聞こえるぐらいの声で言った。

「春樹君も、もう来なくていいよ」

 その日は、もうそれ以上さつきが口を開くことはなかった。

10

 どことなく物悲しさを感じさせる、夕暮れの町並み。真人はとぼとぼ歩いて旧春樹邸へと向かっていた。

 自分のせいで彼女を傷つけてしまった。そのことが、重く重く真人の肩にのしかかる。

 あの後真人はみっともなく弁解などしてみたが、それがさつきの心に届いたとは思えない。事実、何を言っても彼女はろくに反応してくれなかったのだ。

 すべては、彼女がどういう意図であんなことを訊いたのか、それを理解してやれなかった俺のせいだ。何が「約束したから」だろう。ちっとも彼女のことを守れてやしないじゃないか。

 ――約束。

 思い出されるのは、父の葬式が終わったあとの出来事。「さつきちゃん」の泣き顔。

 自分たちが引き離されるのだということは、その時にはもう聞かされていた。彼女の涙には父代わりであった春樹秀彰を失った悲しみに加え、そういう意味合いも含まれていたのだ。

 だからこそ、彼女の涙をなんとかして止めたかった。彼女の名前を呼んでそっと肩に手を置くと、いきなり彼女の小さな体が真人の胸に飛び込んできた。そんなときに不謹慎だとは思いつつも、当時は今よりもさらに純情だった少年真人は顔が熱くなるのを止められなかった。

『やだよぅ。どうして、どうしておじさん死んじゃったの? どうして、まさとと一緒に居ちゃいけないの?』

 だが、嗚咽交じりのその声を聞いた瞬間、邪な感情は全て吹っ飛んだ。
 あの子を泣かしたら承知しねえ。父親の声が真人の頭をよぎる。

 ――なんだよ、親父。泣かしてるのは俺じゃなくて、親父じゃねえか。

『泣くなよ、バカ。泣いてたら――ええと、その……そうだ、もう守ってやんないぞ』

『……守る? 何から?』

 真人の胸から顔を上げて、お互いの吐息がかかるほどの距離から見つめてくるさつき。正面からそのまなざしを受け止める。涙と鼻水でぐじゅぐじゅの顔を前にしては、さすがに真人も照れは感じなかった。

『ええと……ほら、あれだよ。いじめっ子とか、それから……いじめっ子とか』

 言葉につまっている真人の様子が可笑しかったのだろう、さつきは鼻をすすりながら微かにくすりと笑った。

『私、もういじめられないよ? みんな優しくしてくれるようになったもん。まさとのおかげでね』

『う、うるさい。とにかく泣くな! 泣いてたら、ほんとに守ってやんないんだからな!』

 もう一度小さく笑ってから、さつきは再び真人の胸に顔をすり寄せた。

『じゃあ、泣かなかったら、守ってくれる?』

『ああ。守ってやる!』

『私がピンチになったら、いつでも駆けつけてくれる?』

『ああ。男と男の約束だ!』

 使命感に打ち震えていた真人は、男女の境界すら踏み越えて、さつきと約束を交わしたのだった。
 そして、その後にもう一つ、今度は彼女のほうから約束をしたのだ。

 ――私のこと、忘れないで。

 今となってはなんだか皮肉な感じもするが、当時の真人にとってこれは当たり前すぎたので約束だとも思っていない。もう一つの約束というのは、この後に彼女が言ったことである。

 ――絶対にまた会おうね。それから……

「……くそっ!」

 道端に落ちていた空き缶を思い切り蹴飛ばした。あの約束が実現したらどんなに幸せだろうか。だけど少なくとも今の時点では、それは絵空事にすぎない。そして、もし今のさつきが記憶を取り戻したとして、果たして彼女が同じことを望むかどうか。
 否、だと真人は思った。今の自分にそんな資格があるとは思えない。

 歩いているうちに、すっかり日が暮れてしまった。夜の帳が下りた街を一人で歩いていると、いつかのことを思い出す――そんなことを思った、そのときだった。

 その感覚は、突如としてやってくる。頭の隅のほうがずきずきと痛むような、体全体の血が騒ぐような。それでいて、どこか懐かしい。

 ――この感覚、一ヶ月前の時と同じだ。

 それに気付いた瞬間、真人は走り出した。感覚のするほうへ。懐かしさに誘われるように。
 
11

 真人がそこへたどり着くのに、五分とかからなかった。

 人気のない廃れた児童公園。その真ん中に一人の男が立っている。暗くてよく見えないが、恐らく服は全身が黒。と言ってもあの夜の犯人のように暗闇に溶け込むような色ではなく、光沢のあるレザー生地である。加えて胸元にはシルバーのネックレスが輝いており、印象としては派手な感じがする。明らかにあの夜の犯人とは別人であった。

「お前、誰だ?」

 そう言ったのは真人ではなく、黒服のほうである。意味が分からない。答えないで居ると、いきなり男の姿が真人の視界から消えた。

「え……うわっ!」

 と思った次の瞬間、真人の目の前に男の顔があった。あっというまに首根っこをつかまれ、軽々と持ち上げられたかと思うと、そのまま背中から地面に叩きつけられた。

「げほっ……」

 真人としてはなす術もない。今ので確信した。この男、間違いなくOHだ。

 男は馬乗りになってきた。どこから取り出したのか、さっきまでは何もなかったはずの右手にナイフを握っている。
 パニックになるヒマすらない。男は真人の頚動脈のあたりにナイフの刃をぐいと押し付けてきた。金属のひやりとした感触を首元に感じる。

 ――殺される。

 唾を飲み込もうとしたが、少しでも動くとナイフが血管に突き刺さってしまいそうで、真人は微動だにできなかった。

「おい、ガキ。てめえは誰だって聞いてんだよ」

 男はさらにナイフに力をこめた。どうやら皮膚が切れたようで、生暖かい血が首筋を伝って落ちていくのを感じる。

 カチカチカチカチ。歯が震えて、耳障りな音を立てる。何も考えられなかった。男が何を言っているのか分からない。何故自分が襲われているのか分からない。

「やっぱりこれじゃあ死なねえか。オレの感覚が狂ってるわけじゃなさそうだ。……おいガキ、いい加減に答えやがれ。てめえは一体、何モンだ」

 恐怖に見開かれた真人の瞳の先、男の耳元で何かが光った。何だろう、と一瞬思ったが、すぐに分かった。ピアスだ。ネックレスと同じく銀色に輝いている。あれ、いくらぐらいするんだろう――ひどく場違いな考えが真人の頭をよぎった、ちょうどその時。

「――っ?!」

 突如として男が真人の上から飛びのいた。何だろう、今度は何が起こった? 俺は助かったのか?

 あまりにも事態がめまぐるしく動くので、真人は全くついていけない。仰向けに寝転んだまま、恐々と首だけを起こしてみた。

 さっきまで真人にナイフを突きつけていた男とは別の、誰かの後姿が見えた。黒いフード、黒いパーカー、黒いズボン、黒い靴。そして、白く光る剣――

「クソ、まさかてめえが出てきやがるとは。やっぱりあのガキには何かあんだな?」

 その向こうで、さっきのナイフ男が対峙している。

「てめえ相手じゃあ分が悪い。ここは一旦退かせてもらうが……」

 ぎろりと、ナイフ男の黒々とした目が真人をにらみつけた。

「おい、ガキ! てめえのツラは覚えたぜ。大人しくしてるならそれでいいが、もしオレの邪魔をしやがったら次は容赦しねえ。分かったな!」

 言い終わった瞬間、ナイフ男の姿は音もなく掻き消えた。後に残ったのは真人と、黒いフードの人影。

 実際のところ、ナイフ男の言葉はほとんど真人に届いていなかった。真人の視線は、黒いいフードの人影に釘付けになったまま動いていない。

 否、動かせなかった。――どう見ても、間違えようがない。あいつだ。あの夜さつきを襲い、真人にも重症を追わせたあのOHだ。

 どう動くべきなのか、真人は決めかねていた。かかっていったところで敵うわけがないし、かといってここで逃げたのならまたさつきとの約束に反してしまうことになる。一つ目の選択肢を理性が、二つ目の選択肢を意志が拒否している。なので、真人は仕方なく三つ目の選択肢を選んだ。

 ようするに、何もしない。立ち上がることもしないで、ただその場でじっと相手の様子をうかがっていた。

 結論から言うと、その選択は正解でも間違いでもなかった。結局のところ、この場で真人が何をやったところであまり意味はなかったのだ。もし逃げていたならその後の状況は少し変わっていたかもしれないが、それは単に事実を知るのが早いか遅いかの違いだけである。

 黒いフードの人影は、ゆっくりと真人のほうに振り返った。剣の光がフードの中に差し込み、その人物の顔をうっすらと照らす。

「……え?」

 真人はそこで、信じられないものを見た。

 ――まさか。そんなはずはない。そんなことはありえない。だって、あれは――

 真人の戸惑いに応えるかのように、人影はフードを取り去った。露になったその人物の姿が、剣の光と月明かりに照らされてくっきりと浮かび上がる。

 ああ、なんということだろう。もはや疑いの余地はなかった。
 今、真人の目に映っているもの。それは――

 ――ダイアモンドの髪。ダイアモンドの瞳。

 青原聖司、その人であった。

「……なんで、だよ」

 理不尽だ。何もかもが。こんなものを見せられて、一体俺はどうすればいいんだ? 怒ればいいのだろうか。それとも悲しめばいいのだろうか。もう何もかもが分からない。

 だが一方では、冷静に事実をとらえる自分が居る。

 そう、思えばたしかにおかしい部分はあった。あまりにも真人に対する処置があっさりとしすぎていたのだ。何故訊かれなかった? どうしてあの場に居たのかと。何故知っていた? 真人がさつきを守ろうとしたことを。何故何も疑われることなく真人は許され、犯人は別に居るとされたのか?

 決まっている。最初から、聖司は全てを知っていたからだ。

「……あざ笑ってたのか、俺を」

 のそのそと、真人は立ち上がった。

 ぎり、と奥歯が鳴る。握り締めた手のひらに爪が食い込んで痛い。

「ああ、そうさ。俺がバカだったよ。何の疑いもなくあんたを信じてさ。……でも、嬉しかったんだ。もう二度と帰れないと思ってたあの家に俺のイトコが住んでいて、嫌な顔せずに俺を迎え入れてくれたことがさあ。……なあ、全部ウソなのか? あんたが俺のイトコってのも、さつきちゃんが記憶を失った理由も全部、あんたが俺に話したことは全部ウソなのかよ? なあ、なんとか言えよ!」

 真人は聖司の襟元に掴みかかった。ぐいと引き寄せて、真近くからダイアモンドの瞳をにらみつける。

 聖司の瞳はどこまでも透明だ。いくらにらみつけてみたところで、その瞳に映るのは真人自身の姿だけ。まるで自分自身に見つめ返されているような気がして、ぞくりと背筋が寒くなった。

 その時、嫌味なほどに透き通った聖司の声が聞こえた。

「俺はOH課。世界の味方をしているだけだ」

「っ……ふざけるなぁ!」

 真人は右手を思い切り振りかぶって、力の限り真人を殴りつけた。

 硬い鉄を殴りつけたような感触があった。聖司があえて避けなかったのは、その必要がないからだろう。聖司はOH。凡人である真人に殴られたところで、文字通り痛くも痒くもないのだ。足元どころか首さえ微動だにしない。衝撃は全部真人の拳に跳ね返ってきて、右手がひどく痛んだ。

 どうして人は裏切るのだろう。突然死んでしまったり。過去を忘れてしまったり。自分から約束したくせに、それを守れなかったり――

「は、はは……なんだよ、結局俺も同じじゃねえか」

 全身から力が抜けて、真人はがくりとその場に膝をついた。

 こんな世界、どうやって生きればいいんだろう。

 ――ねえ春樹君。退院して、何かいいことある?

 さつきの声が蘇る。

 ――いっそのこと、このままずっと入院していられたらいいのに。


 確かにそうかも知れない。けど君にだけはそんなこと、言わせたくない。あの頃はあんなに楽しかったじゃないか。あんなに幸せそうに笑っていたじゃないか。

 俺は万能じゃない。時には君の期待に応えられないこともあるかもしれない。けど、いつか必ず、あの日々を取り戻してみせるから。君がしてくれた最後の約束、あれをいつか必ず守ってみせるから。だから――

「――認めない」

 真人は立ち上がった。もう一度、聖司の目をにらみつめる。今度はひるんだりはしない。

 世界の味方、だって? じゃあ何故彼女を襲った? 彼女が世界の敵だとでもいうのか? そんなの――

「絶対、認めない!」

 今は無理だ。だけどいつか必ず超えてやる。

 誰がなんと言おうと、一つだけ確かなこと。

 ――こいつは、俺たちの敵だ。

 どん、と右手で聖司の胸を突き放すように押してから、真人はきびすを返した。

 自分の道と聖司の道はこれから先、ぶつかり合うことはあっても、交わることはない。もう二度と。

 そう思っていた。

 

 

 

 

感想代理人の感想

は、まとめて第三話にて。