第三章  迷執



「どういうつもりだい?」
 
 信じられないというような声を男は出した。やはり場所は旧春樹邸、相手は聖司である。

「彼を助けるにしても、もっと他にやりようがあっただろう。どうしてわざわざ『信剣』まで持ち出して、あの夜と同じ格好をしたんだい? これで彼は君のことを――」

「うるせえよ」

 廊下に立って、聖司は背中を向けている。感情のない声、微動だにしない背中。一段下の玄関に立っている男は、それを見上げるような格好になっている。

「いずれ分かることだった。それを少し早めただけの話だろう。何をそんなに騒ぐことがあるってんだ」

「でも彼はまだ何も知らないし、戦えもしない。辰巳さんに顔を知られてしまった以上、もう無関係というわけには――」

「うるせえっつてんだろ。もともとあいつが無関係でいられるはずがねえんだ。あいつが佐宮さつきを守るつもりだってんなら、なおさらな」

 そのまま、聖司は奥に引っ込もうとする。が、途中でふと思い直したように足を止めて、つぶやくように言った。

「それに……あいつは、この家に入り浸るべきじゃない。俺とあいつがイトコだって教えたのも失敗だった。あいつは……少し、ものの考え方を変えないといけない」

 揺らぐことのなかった彼の声が、ほんのわずか、感情らしきものをにじませている。が、それがどういった類のものなのか、そこまではやはり悟らせない。

「言っておくが、俺はもうあいつを助けるつもりはない。……いや、違うな。助けるわけにはいかねえんだ。俺は俺のやりたいようにやらせてもらう」

「でも、このままだと彼はもう一度辰巳さんと――」

「知るかよ。助けたいならあんたが勝手にやればいいだろう」

 そのまま聖司は男の視界から消えた。しばらくその場で立ち尽くしていた男だったが、やがて彼の耳に、がたんという何かが崩れ落ちるような音が届いた。

「……聖司君?!」

 察しの良いこの男は、それが意味するところにすぐに気がついたようだ。廊下を駆け上がり、音の聞こえたほうへ急ぐ。

「くっ……」

 うめき声が聞こえた。居間のほうだ。男はあわててそちらに向かった。そして男は、己の予感が正しかったことを知った。

 端正な顔を苦痛に歪め、聖司が喘いでいる。廊下に膝をつき、苦しげに胸の辺りを押さえている。

「聖司く――」

「触るな!」

 男はあわてて駆け寄ろうとしたが、鋭い聖司の声に阻まれた。

「ふざけ、るな……。俺は、誰の助けも……借りねえ。俺の、俺だけの力で……」

 明確な拒絶の意志。男が見ている前で聖司はポケットの中から薬を取り出し、口に含んだ。

「見て、んじゃねえ……。とっとと、消えやがれ……」

 しばらくの沈黙のあと、やがて諦めたように男は立ち去る。

 聖司は目を閉じた。

「誰の助けも要らない。俺はひとりで十分だ――」

 彼のつぶやきは、誰の耳にも届かない。



 春休みも残すところあと三日。さつきはようやく退院の日を迎えた。理佳は結局最後まで姿を見せず、さつきの気力が回復することはなかったが、一応彼女はリハビリを全くやらなかったわけではない。いちいち指示に逆らう気力もなかったのだろう。言われるがままにメニューをこなし、その甲斐あってもう日常生活に支障はないとのお達しが医師から出たのである。彼女自身の意思とは関係なく。

 看護婦たちに見送られ、さつきは病院をあとにする。その表情に、本来あるべき喜びや開放感といったプラスの感情はない。まるで刑務所に護送される囚人のような顔である。

 一つため息をついて、真人は声をかけた。

「帰ろう、佐宮さん」

 真人の声にも、さつきはろくに反応を示さない。真人のほうは向かず、病院の駐車場の脇にある桜のほうに目を向けている。

「……そっか。もう桜の季節なんだよね」

 ぽつりと、さつきがつぶやいた。

「知らない間にずいぶん時間が経ってたのね。なんか、置き去りにされちゃったみたい」

「何言ってるんだ。桜なんて、散歩に出ればいくらでも見れたのに。それを、佐宮さんが病室から出ようとしなかったから――」

「……私が悪いの?」

「え……いや、それは――」

「うん、そうだね。私が悪いんだよ。何もかも」

 真人は悲しくなる。一体何が彼女をこうさせてしまったのだろう? 理佳が来なくなったから? 俺の失言があったから? たったそれだけのことで、人はこんなにも変わってしまうものなのだろうか。

 数日前、「もう来なくていい」と言われた真人だったが、あれ以降も毎日病院には顔を見せた。が、当然と言うべきかさつきはろくに口を利いてくれず、二人の関係は悪化の一途をたどったまま今日を迎えてしまっている。退院の日ということもあってか、あまり良い方向ではないにせよ一応会話が成立しているので、今日はこれでもまだましな方なのだ。

「ねえ、春樹君」

 視線は桜に向けたまま、さつきは話しかけてくる。

「帰るって、どこへ帰るの? 姉さんのマンション?」

「……うん。それ以外にないだろう?」

「そっか……じゃあ、明日からはもう春樹君にも会えないんだ。一人ぼっちだね、私」

「そんなことないって。もうすぐ学校が始まる。三年生になるんだよ、俺たち。……あ、その前に佐宮さんは追試をうけないといけないんだっけ」

 真人が苦笑してみせても、さつきは何も言わなかった。黙ったまま歩き始めたので、真人もそのあとに続く。

「私ね、分かっちゃったの」

 彼女の語る言葉は、どこまでも深い闇に落ちていく。

「私なんて、居ても居なくても同じなんだって。たしかに今まではよくみんなと一緒に遊びに行ったけど、でもそれって別に私が居なくてもできるでしょう? 理佳だって私が居なくてもバレーがある。あの子、『候補者』なんだもんね。私とは違うよ」

 真人に向かってというよりはむしろ独り言に近い口調で、さつきは続ける。

「春樹君は何も言わないけど、ホントは何かやってるんでしょう? いつも忙しそうにしてるもんね」

「いや、俺は――」

「あ、違うか。春樹君はヒマなんだっけ。こないだ言ってたもんね」

「う……いや、だからさ。何度も言ってるじゃないか。あれは――」

「いいの」

 さつきはゆっくりと首をふった。セミロングの黒髪がさらさらと揺れる。

「もう春樹君には迷惑かけない。私はひとりで大丈夫。弱気なことばっかり言ってごめんね。気にしないで。ちょっと愚痴を言いたくなっただけだから」

 ついと顔をあげて、さつきは笑顔を見せた。作り物なのか、それともこれが彼女の本心なのか。真人には分からない。

「私、買って帰らないといけないものがあるから。春樹君は先に帰っていいよ」

「いや、買い物ぐらいだったら付き合――」

「言ったでしょ。ひとりで大丈夫だって。男の子には見せられない買い物もあるし、ついてこられると……ごめん、ちょっと迷惑かな」

 言葉がない。ここまで明確に拒絶されては、さすがに食い下がることもできない。

「じゃあね、春樹君。さよなら」

 ――さよなら。悲しい響きだった。少し前、彼女が元気になりつつある頃には、いつも「また明日」と言ってくれたのに。今の彼女が意図的にそれを言わなかったのだと分かっていても、真人は「じゃあ」と短く返事をすることしかできなかった。それぐらいさつきの言葉はそっけなくて、入り込む余地がない。

 くるりと踵を返して、真人と反対の方向に歩いてくさつき。

「……俺、君の役には立てないのか?」

 去っていく彼女の背中に、真人の声は届かない。



 同じ日、同じ時刻。聖司は珍しく遠出をしていた。旧春樹邸からタクシーで二時間ほどの距離。とある山のふもとで車を止めると、運転手にその場で待つように言う。

 この運転手、はじめ聖司を見たときには珍しがっていろいろと話しかけていたが、何を言ってもろくな答えが返ってこないのでどうやらもう諦めたらしい。分かりました、とだけそっけなく言って、あとは車内のラジオに耳を傾けている。

 聖司はそのまま歩いて山の奥へと進んだ。荒れてはいるが、一応砂利道のようなものはある。短い草しか生えていないことを見ると、昔はそれなりに人が通っていて、踏みならされていた道なのかもしれない。

 五分ほど進んだところで、やがて建物が見えた。二階建てのそれなりに大きな建物ではあるが、ガラス窓は一つ残らず割れ、壁には大量の蔦が這っており、一目で廃墟であると分かる。

 もともとは庭であったらしい荒地の片隅で、使われなくなって久しいのだろう、ぼろぼろにさび付いたブランコや滑り台といった遊具が放置してある。聖司はそれらのものに一通り視線を巡らせてから、建物の裏側へと向かった。誰かが手入れしているのか、荒れ放題といった様相のなか、聖司が通っている道だけは草が伸びていない。

 裏庭には別世界が広がっていた。雑草はきれいに取り除かれていて、その代わりにクロッカスやパンジーなどが春の日差しをうけて色とりどりの花を咲かせている。まるでどこかの庭園のような眺めであった。

 その中央、花たちに囲まれるようにして、誰かの墓石が立っている。一メートル弱の大きな立石がどんと置かれただけの質素な墓。表面には文字が彫ってあり、一番上は「神父様」、その下に付け足されるようにして彫られている部分は「山崎明夫」と読める。

 そしてその正面、文字が彫ってある部分に向かって屈みこむようにして、一人の少女が祈りをささげている。すらりと長い手足、風になびくロングの黒髪は春の日差しをうけて艶やかに輝く。――そう。天野家に住む、近所で評判のあの娘である。

 気配に気付いたのか、少女は少し顔を上げて聖司のほうを見た。どうやら予想どおりの来客であったらしく、彼の姿を見ても少女は驚かない。

「……遅かったのね。来てくれないのかと思っちゃった」

 若干の不服をにじませた声。彼女はゆっくりと腰を上げて、聖司の正面に立った。

 細工な人形のような美貌が二つ、見つめ合う。一つは聖司、一つは少女。
 その少女だが、今日はずいぶんと様子が違う。身にまとっているのはかわいらしいフリルのついたブラウス、触り心地のよさそうなジャケット、花柄のスカート。どうやら髪は少し切ったようで、肩の少し下あたりで切り揃えられた毛先は軽く広がるような形できちんとセットされている。いかにも不慣れなおしゃれを精一杯してみましたという感じだ。

 聖司は無言のまま歩いて、少女と入れ替わるようにして墓石の前に跪いた。手向けのつもりなのだろうか、彼は自身の銀髪を一本抜いて墓石の前に置いてから、軽く十字を切る。

「もう五年、かあ。ここで暮らしてたときのこと、私は今でも昨日のことのように思い出せるのに」

 聖司の背中に向かって、少女は語りかける。

「ここの花、きれいに咲いてるでしょう? 他はすっかり荒れちゃったけど、ここだけは守らないとね。神父様が悲しむもの」

 聖司はじっとしている。少女の声を聞いてはいるようだが、応じるつもりはないようだ。

「……何も言ってくれないのね。せっかく久しぶりに会えたのに」

 少女の声に混じる感情は、悲しみと呼ぶにはすでに風化しすぎている。かといって、諦観と呼べるほどさび付いてしまっているわけでもない。ちょうどこの廃墟のように、一見するともうすっかり絶えてしまっているようではあるが、裏返してみるとまだしっかりと息づいている部分も確かに存在するのである。

 ふう、と聖司は息をはいた。音もなく立ち上がり、少女と視線を合わせることもなく、もと来たほうへと歩いてゆく。

「また、一年後?」

 その背中に再び少女の声がかかる。聖司はぴたりと足をとめて、しばしの沈黙のあと、ようやく口を開いた。

「もう来年からは来ない」

「……え?」

 聖司が言ったことを理解するのに、少女はしばらく時間を要したようだった。

「お前と合うのもこれが最後かも知れない。だから、言っておくことがある」

「ちょ、ちょっと待ってよ、セージ?!」

 聖司は容赦しなかった。振り向くこともせずに、感情の伴わない声を発し続ける。

「前を向け。過去を捨てて、天野悠理として生きるんだ」

 そして、言い終わると同時に再び歩き始めた。

「ま、待ってよ……お願い、待って……」

 すがるように差し伸ばされた手が、虚空に取り残される。少女の声は聖司の耳に届いたはずだったが、彼はついに一度も振り返ることなく、その場を去っていった。

 とさり。咲き乱れる花々の真ん中で、少女が崩れ落ちた。

「どうして……ここの花だって、本当はあなたに喜んでほしくて……」

 とうに枯れたと思っていた涙が、また一粒、少女の頬をつたう。

 ――愛される事は幸福ではない。愛する事こそ幸福だ。

 嘘だ。



 その日の夜。真人はアパートに帰る気にもなれず、一人で街をぶらぶらとしていた。

 これからどうするべきなのか。どうすれば事態はいい方向へと向かうのか。考えてみたところで、見当もつかない。

 もはや自分一人の力ではどうにもならないのかもしれない。かといって、誰に頼る? 理佳とは連絡がつかないし、他の女子が真人のいうことを聞いてくれるとは思えない。

「――ああ、くそ。俺はただ、あの子を悲しませたくないだけなのに」

 たったそれだけのことが、何故こんなにも難しいのだろう? 真人は思い悩む。いろいろなことがありすぎて、頭はパンク寸前だった。

 誰か、男友達にでも相談してみようか。そう思い立って真人は携帯電話を取り出した。そう多くはないメモリーを物色して、話をきちんと聞いてくれそうな相手を探す。

 こいつはすぐふざけるから駄目、こいつに女の子のことなんて分かるはずがない、かといってこいつは「ヤっちまえ」としか言わないし――という感じでメモリーをスライドさせていっていると、すぐに五十音順の「わ」のところまで来てしまった。俺、ろくな友達いねえなあ――とちょっとげんなりしながらまた「あ」から始めようとした、その時である。

 ――また、あの感覚だ。

 血が騒ぐ。走れと己の細胞が主張する。そしてまた感じた。――懐かしい。

 これ、一体何なんだ? 今回は少し冷静に考えてみることにした。前回、ろくに考えもせずに突っ走った結果があれである。大いに反省の余地があろう。もっとも、もしあれがなければ真人はずっと聖司のもとで訓練を続けていたかもしれないわけで、そう思えばある意味結果オーライと言えなくもないのだが。

 この感覚に従って、一度目はさつきが襲われている場面に出くわした。二度目はあのナイフ男に遭遇してピンチになって、その後真実を知った。

 今回は一体何が待ち受けているのだろう? それが知りたくて、結局真人は感覚に導かれるままに歩き始めるのだった。

 向かった方向は、街の外れ。一度学校のほうへ抜けて、見覚えのある道へと入る。それがさつきの家へと向かう道と同じだと気がついたとき、真人は全力で走り始めていた。

 そして、そうやってたどり着いた先、出くわした光景は真人の予想をはるかに上回るものであった。

 まず目に入ったのは、真人が今までに見たこともないような顔をしたさつきの姿。目を血走らせ、歯を食いしばって憤怒の形相を浮かべ、ある一点を凝視している。

 その視線の先、彼女の憤怒を正面から受け止めるようにして佇んでいる男に、真人は見覚えがあった。前回遭遇したのと同じ、ナイフ男である。

「佐宮、さん……?」

 恐る恐る声をかけてみても、さつきはぴくりとも反応しない。怖い顔をして、ナイフ男に視線を貼り付かせたまま動かない。

 その代わりと言ってはなんだが、ナイフ男が口を開いた。

「またてめえか。言ったよな、オレの邪魔をするなって」

 そのナイフ男も、真人にはちらりと目を向けただけ。すぐにまたさつきのほうに向き直る。

「で? どうするつもりなんだ、佐宮さつきさんよぉ。こうやってにらめっこしてるだけじゃあなんにもならんぜ?」

「うるさい! お前が、お前が姉さんを……っ!」

 それがさつきの出した声だということが、真人には信じられなかった。まるで呪詛のような、憎しみに歪んだ狂気じみた声。

 ナイフ男は軽く肩をすくめた。

「姉さん、ねえ。よくもまあ、あんな女のことをそんなふうに呼べるもんだ。……それに、お前も見てただろうが。あの女はオレが殺したんじゃねえ。自分から、オレのナイフに飛び込んできたんだ」

「違う!」

 ナイフ男の声はさつきの叫びにかき消されそうになったが、真人は聞き逃さなかった。

 見ていた、だって? さつきが? 塔子が死ぬところを? たった一人の家族が、無残に殺されるところを?

 そして、そのあとナイフ男は何と言った? 塔子が、自分からナイフに飛び込んできた? そんな馬鹿なことがあるものか。

「違わねえよ。現実を見ることだな。……でもまあ、オレを怨むってんなら別に構わんぜ?」

 言って、男はナイフを一本、さつきの目の前の地面に放り投げた。からん、と無機質な音が響く。

「拾え。それでオレを刺せ。お前にならできるはずだ。天野の血を引くお前になら」

 男の声に誘われるように、さつきはナイフに手を伸ばす。真人はあわてて止めに入った。

「よせ、佐宮さ――」

「邪魔すんなっつってんだろう!」

 その瞬間、ナイフ男が矢のように飛びかかってきた。まるで先日を再現するかのよう、いきなり首根っこをつかまれ、そのまま地面に押し倒される。馬乗りになってきたところも前回と同じだったが、今回ナイフ男は脅しをかけることもせずに、いきなりナイフを振りかざした。
 真人の背中を戦慄が駆け巡る。

「聞き分けのねえガキは嫌いだ。死ね」

 そのまま、男は真人を串刺しにしようとして――しかし、

「春樹君!」

 さつきが叫んだその声を耳にした瞬間、男はぴたりと動きを止めた。

「春樹、だと……?」

 驚愕に見開かれた目で一度さつきを見て、その後再び真人の顔を見た。

「青原の感覚……なるほど、そういうことかよ。言われてみれば確かに似てやがる。そういやあ、うちのやつと同い年なんだっけな」

 振り上げていた手を、男はゆっくりと元に戻した。

「……おい、ガキ。てめえ、春樹真人だな?」

 ――まただ。事態は常に真人の知らないところで進んでいく。ちょっと自棄になった真人は、捨て鉢に言い放った。

「そうだけど。それが何か?」

 ナイフ男はいきなり笑い声を上げた。

「はははは! こいつぁいい! まさかオレの人生にこんな出会いがあるなんてなあ!」

 額に手をあて、ひとしきり笑ってから、男はぐいと真人に顔を寄せてきた。

「ガキ、いいことを教えてやる」

 なんだよ、なんだってんだ。真人は精一杯の勇気を振り絞って、男の目をにらみ返した。

「てめえの親父を殺したのは、このオレだ」

 が、その一言で、何もかもが壊された。

 何を――こいつは何を言った? 親父を殺した? 確かにそう聞こえた。それの意味するところを分かっているのか。それは――親父を殺したということは、奪ったということだ。過去を。あの日々を。俺たちの幸せを――

「おお、いいぞいいぞその目。ゾクゾクしやがる。ただのヘタレかと思ってたが、やればできるじゃねえか」

 ククク、とかみ殺したようにもう一度笑ったあと、ナイフ男は立ち上がった。

「けど、そのままじゃあ許さねえ。おい、分かってんのか? てめえ、あの秀彰のガキなんだぜ? そのままでいいワケがねえだろう。オレのことが憎いなら、もっと強くなってみやがれ。そしたら、相手ぐらいはしてやるぜ?」

 おちょくるように言って、ナイフ男はそのまま背中を向ける。真人の視線の先、さつきの足元で置き去りになった、一本のナイフが光った。

 真人は全身に力をこめて立ち上がり、すばやくナイフを拾い上げた。それを前向きに構え、そのまま男の背中に向かっていく。

「――やめて!」

 その真人の背中に、さつきがしがみついてきた。

「私が悪かった。私が悪かったから! だからもうやめてよ。目の前で人が傷つくのなんて、もうやだ……!」

 背中から与えられる温もり。今ここにある彼女と、失った日々。一瞬、心の中でその二つを天秤にかけてしまった自分に気がついて、ひどい罪悪感に襲われる。

 ――からん。真人の手から、ナイフが滑り落ちた。

 振り返ったナイフ男は、それを拾い上げると、一度だけ二人のほうを見た。その瞳が、ひどく悲しげな光を湛えていたように見えたのは気のせいだろうか。

 無言のまま、男は去っていった。



「――佐宮さん」

 しばらくの沈黙のあと、真人は口を開いた。

「俺はもう大丈夫だから。ごめん、取り乱しちゃって」

 さつきはゆっくりと真人から離れた。振り返って視線を合わせると、彼女は気まずそうに目を逸らす。

「春樹君があやまることなんて、何もないよ。全部、私が悪いんだから」

「どうしてそんな言い方ばかりするのさ? そんなんだから俺、佐宮さんのことが心配で――」

「いいから放っておいて!」

 いきなりさつきは大声を出した。

「見たでしょう? さっきの私。あれが私の本性。春樹君は嫌じゃないの? あんな目を、いつか春樹君にも向けるかも知れないよ?」

 それは――さすがにそれはきついだろうな。真人は内心で苦笑した。でもきっとそんなことにはならないし、あれがさつきの本性なんかではないということも十分に知っている。ひょっとすると、彼女自身よりも。

「帰ろうよ、佐宮さん」

 だから、真人はそれだけ言った。いきなり彼女が叫んだことで、逆に真人は何となく理解できた気がした。

 要するに彼女は、真人が初めて見舞いに行った日から何も変わってはいなかったのだ。きっと彼女は、だんだんと元気を取り戻していたのではなくて、自分を騙すことに慣れてしまっていただけなのだろう。

 彼女は強がりすぎた。周りに迷惑をかけないようにと、そればかりを考えすぎた。結果、彼女は自分の外側にもう一人の強い自分を作ってしまって、本当の意味では癒されないまま一ヶ月の時を過ごしてしまった。だからこそ、外側の自分を保つ必要がなくなった、あるいは保つことができなくなった途端に急激な弱さを見せ始めたのだ。

「あの家には帰りたくない。帰ったって、姉さんは居ないんだもん。……ねえ春樹君、本当のことを教えて? 春樹君、最近はもう何も言わなくなっちゃったけど、本当はあの話、全部ホントのことなんでしょう? だったらさ、昔私たちが住んでた家に連れてってよ」

 ほら。ついさっき「放っておいて」と言っていたくせに、いきなりこれだ。なんて分かりやすい情緒不安定なんだろう。どうして今までこんなことに気がつかなかった?

「……ごめん。ちょっと今は無理なんだ。いつか連れて行ってあげるから、とりあえず今はマンションに戻ろうよ」

 さつきはまだ渋っている様子だったが、真人が重ねて言うと、やがて諦めたように小さく頷いてくれた。ここから彼女のマンションはすぐ近くなのだが、さすがに今彼女を一人にしてはいけないことぐらいは真人にも分かるので、とりあえず送ることにする。

「……ねえ春樹君、どうしてウソを言ったの?」

 マンションまでの短い道のりを歩く間、彼女はそんなことを言ってきた。

「私、さっきので分かっちゃったよ。やっぱりあの時私を助けてくれたのって、春樹君だったんだね」

 真人は何も答えなかった。といっても、別に今さら隠そうとしたわけではない。単に何と言おうか考えている間にマンションの前まで来てしまっただけの話だ。

 さつきはポケットから鍵を出して、ドアを開ける。別れの挨拶をしようと真人が口を開きかけたとき、それよりも早くさつきが言った。

「あがっていって」

「え? でも……」

 さすがにそれは図々しすぎはしないだろうか? 相手は女の子、しかも今この部屋には誰もいないわけで――

「やっぱり嫌? なら無理しなくていいよ」

 真人はほんのちょっと迷う素振りを見せただけだったのに、さつきはいきなりドアを閉めようとする。真人はあわてて止めなければいけなかった。

「ちょ、ちょっと待って。やっぱり、せっかくだし上がらせてもらうよ。大丈夫、変な気は起こさないから」

 なにが「せっかくだし」なのか分からないし、最後の部分は明らかにいらぬ警戒心を相手に抱かせるだけの余計な一言ではあったが、さつきは何も言わずに真人を迎え入れてくれた。信頼されていると考えるべきなのか、単にそんなことを考えもしていないだけなのか。真人は嬉しさ半分悲しさ半分、そして男が女の子の部屋に上がる時の常としてなんとなくドキドキしながらという実に複雑な心境で中に入った。

 さすがに女性二人が暮らしていた部屋だけあって、中はきれいに片付いている。こまごまとしたものは多いが、それもきちんと棚に収められていて、床の上にはものが落ちていない。内装も全体的に白を基調としていて、女の子の部屋としてはわりとこざっぱりとしているほうだろう、と真人は思う。もっとも女の子の部屋なんてテレビや雑誌でしか見たことがないので、あまりはっきりとしたことは言えないが。

「適当に座ってて。今お茶入れるから」

「あ、いや、おかまいなく」

 なんだか変に大人びたことを言ってしまう真人。どうやらさつきはこれが可笑しかったらしく、くすくすと声を忍ばせて笑った。

「へんなの。春樹君、ひょっとして緊張してる?」

 むろん真人は笑わせようとして言ったわけではないのだが、結果としてさつきを笑顔にすることに成功したのでよしとする。言われた通り部屋の中央にあるクッションに腰掛けて、彼女が来るのを待つ。

 紅茶でいい? ああうん、何でもいいよ。そんなやりとりがあったあと、やがてさつきがティーカップを二つ持ってキッチンから出てきた。真人の隣に腰掛けると、ふう、とため息をつく。

「あのね。聞いてほしい話があるの」

 まあ、そうだろう。予想できた流れである。ティーカップを口につけながら、真人は目線で続きを促す。

「姉さんの話なんだけど……実はね、姉さんは私の本当のお姉さんじゃないの」

 なんだかややこしい言い回しだが、言いたいことは理解できる。なるほど、彼女は知っていたわけだ。

「姉さんとは、中学校に入ったときぐらいから一緒に暮らしてるんだけど……私ってさ、中学校に入る前のこと、なんだかよく覚えてなくて。正直なところ、一緒に暮らした記憶のある人って、姉さん――佐宮塔子さんだけなの」

 俺が居るじゃないか――と言いたくなるのをこらえて、真人は黙って話を聞く。

「塔子さんのことを姉さんって呼ぶようになったのは、一緒に暮らし始めて三ヶ月くらい経ってからぐらいだったかなあ。なんか、気がついたら自然にそう呼んでた。姉さんも嫌な顔はしなかったから、そのままずっと来ちゃったのね」

 当時のことを楽しそうに話すさつきを前にして、嫉妬に似た感情を抱いている自分に真人は気付く。ひどくつまらない考えだ。さっさと忘れよう。

「妹が出来たみたいだって喜んでくれてるみたいだったんだけど……姉さん、私に何か隠し事をしてたみたい。何かときどき様子が変だったりしたし、たまにひどく酔っ払って帰ってくることもあって……そんな時、いつもうわごとみたいに言うの。『ごめんねさつき、ごめんね』って」

 これはちょっと意外なエピソードである。真人の記憶にある塔子の人物像といえばしっかりとした大人の女性というイメージで、彼女が泥酔しているところなんてあまり想像できない。

「それに……ごめんね、怒らないで聞いて。姉さんに春樹君のこと話したら、いきなり『そんなやつには絶対近付くな』って言うの。少し経って、どうも悪い人じゃないみたいって話しても同じことを言うのよ。その時は私のためを想って言ってくれてるんだって思ってたんだけど、今考えると変よね。会ってもいない春樹君のこと、なんであんなに嫌ってたんだろう」

 それは変――でもないと真人は思う。さつきは現にこうやって自分と話をしているからそういうふうに思うのであって、塔子が言っていること自体は姉妹のやりとしとして至極まっとうなものだ。ただし、塔子が真人と一度も会ったことがない、と仮定した場合においては、である。

 実際は、父秀彰の弟子であった塔子と真人が顔を合わせる機会はそれなりにあった。もっと言えば、真人とさつきの二人で一緒に塔子に遊んでもらった記憶もある。そういう意味では、塔子が言っていることは確かにおかしい。

「そのくせ、自分はあちこちに男を作ってさ。ちょっと美人だからって、卑怯よね。……あ、ごめん。今の、忘れて」

 真人は苦笑した。どうやら塔子という女性の人物像を大幅に修正する必要がありそうだ。故人に対して失礼な気がしないでもないが。

「さっきのナイフを持ってた男の人も、たぶんだけど……昔の彼とかじゃないかな。……あのね、春樹君。ここから本題なんだけど、ちょっと話が重くなるかも。嫌だったら聞かなくていいよ」

「そんな気を使わなくていいって。どんな話でもちゃんと聞くから、遠慮なく話して。……いや、違うか。聞きたいんだ、俺が」

 さつきは軽く頷いて、一度紅茶に口をつけてから話を続けた。

「さっきあの人が言ったことって、本当なの。……いや、実際はもっと酷いかな。姉さんはあの人のナイフで、自分で自分に傷をつけたの。私が見ている前で」

「……」

 何か言うべきなのだろうけど、言葉が出てこなかった。こんなことを裏に抱えて、さつきは無理やりに微笑んでいたなんて。

「その傷自体は、別に致命傷ってほどじゃなかったのに……ちょっと皮膚が切れただけだったのに、姉さんはそのまま動かなくなっちゃって……」

「もういいよ佐宮さん。もう十分だ」

 いたたまれなくなって、真人はそこで話をやめさせた。これ以上、彼女に辛い思いをさせたくない。

「……どうしてなんだろう。ねえ春樹君、どうしてだと思う? どうして姉さんはあんなことをしたんだろう。私との暮らしがそんなに嫌だったのかな?」

「そんなはずない。それはきっと、佐宮さんの見間違いか何かだったんだよ」

 正直今の話だけでは、一体どういう状況だったのかさっぱり分からない。だけど、今はそんなことは問題ではないのだ。

「でも、姉さん……目を閉じて、なんか安心したような顔をしてたんだよ? 『ああ、これでやっと開放される』って、あの男の人に言ってたんだよ? 姉さんは私のことを――」

「やめるんだ。もうそこまででいい」

 叫びはしなかったが、声が荒くなるのを真人は抑えきれなかった。どうやらそれはさつきにも伝わってしまったようで、彼女は下を向いてしまう。

「……ごめん。やっぱりこんな話、嫌だった? 私、また春樹君に迷惑かけちゃったね」

 そう言って、彼女は小さく笑った。そう、笑ったのである。

「……どうして」

 限界だった。もう、距離なんて測っていられない。

「どうして君は、そんなに無理ばっかりするんだ」

 踏み込む。拒絶されたって構わない。このままお為ごかしを続けているぐらいだったら、そっちのほうが何倍もましだ。

「俺は、自分では佐宮さんのことをいつも考えてるつもりだ。でも、本当のことを言ってくれなきゃ、分からない。誰だって、他人の心を読むことなんてできやしないんだ」

「春樹、くん……? どうしたの、いきなり……」

 戸惑ったようにつぶやくさつきの瞳が、明らかにうろたえている。真人はさらに一歩踏み出した。

「つらいならそう言ってくれ。悲しいときには泣けばいい。そしたらみんな分かってくれる。無理して笑うことはないんだ。そんな悲しい笑顔、俺は見たくない!」

 真人はそこでいったん息を落ち着かせて、今度は静かな声で言った。

「本当に、どうしてなんだ? 俺には分からないよ。どうしてそんなに無理して強がってばかりなのさ?」

 長い沈黙があった。さつきは下を向いたまま顔を上げようとしない。どうやら駄目だったか――と真人が諦めかけたちょうどその時、さつきがぽつりとつぶやいた。

「だって……泣いてたら、助けに来てくれないんだもん」

 息をのんだ。泣いてたら助けに来てくれない? それは――

「誰が? 誰が助けに来てくれないって?」

 下を向いたまま、さつきは首を横にふった。

「分かんない。でもきっと、私が泣かなかったら助けに来てくれる。ずっと、そう信じてるの!」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃があった。

 ――なんということだろう。彼女の心を縛っていたのが、他ならぬ自分との約束だったなんて。記憶を失ってなお、彼女はあの約束にすがり付いていたなんて。

「っく……」

 不覚にも涙腺が緩みそうになって、真人はあわててそれを押し留めた。違う、ここで俺が泣いてどうするんだ。

「それは違うよ、佐宮さん」

「違うって、何が? やっぱり私のことなんて、誰も守ってくれないの?」

「それはもっと違う。あのさあ、佐宮さん。それを約束したやつは、ただ佐宮さんに泣いてほしくなかったからそんなことを言っただけなんだ。そいつは佐宮さんがどうしてたって、たとえ佐宮さんがその約束を忘れてしまっていても、絶対に助けに来る。……だって、そいつは――佐宮さんのことが大好きだから」

 一瞬、呆然としたような表情で真人の顔を見つめてから、さつきはもう一度下を向いた。もう真人に言えることは残っていない。ただじっと、さつきの様子を見つめる。

 やがて、彼女は小さく肩をふるわせ始めた。

「……怖いの」

 涙まじりの告白。真人は全身全霊をもって受け止めることを決意する。

「私……姉さんに見捨てられちゃった。空っぽになっちゃったよ」

 さつきは真人の腕にすがりついてきた。

「ねえ、教えて。私、姉さんと暮らし始める前はどこに居たの? 何をしてたの? 本当に、私に過去はあるの? ねえ、知ってるんでしょう、春樹君」

 涙にあふれた彼女の瞳。真人は彼女と約束をした時のことを思い出した。あの日もこんなふうに、二人きりの部屋で、真近くから見つめ合っていた――

「俺と、俺の親父の三人で暮らしてたんだ。親父は死んじゃったけど、その時の家はまだ残ってる。ウソじゃない。いつか必ず、その家に連れて行ってあげるよ」

 さつきはしばらくそのまま真人の瞳を見つめたあと、ふと下を向いて、再び肩をふるわせ始めた。

「……信じる」

 真人の腕から離れ、両手で顔を覆う。

「信じるから――」

 しゃくりあげるような声。ぽろぽろと、指の間から涙が零れ落ちる。

「私を見捨てないで」

 ――そんなの、当たり前じゃないか。

「お願い。そばに居て。ひとりにしないで――」

 君はひとりじゃない。ずっと、俺がついてるから――

 やがて大きな嗚咽がもれ始める。まるで子供のように泣きじゃくるさつき。

 それを前にして、肩を抱き寄せる勇気が、真人にはない。ただじっと、彼女が泣き止むまで、そばに居た。



 次の日。真人は学校へ来ていた。

 昨夜、さつきが寝付いた後にこっそりと部屋をあとにした真人は、自宅アパートのベッドに寝転がってずっと考えていた。

 今、彼女のために自分ができることは何か。そばに居て、と彼女は言ったが、それだけではいけないことぐらい分かっている。何かもっと、彼女のおかれた状況を劇的に変化させるような手を打たなくてはいけない。

 そのための第一歩(というかこれぐらいしか思いつかなかったのだが)として、真人は学校へ足を運んだ。いわずもがな、理佳に会うためである。部活中の彼女をつかまえる――というやり方はさつきに禁止されてはいるのだが、もはやそんなことを言っている場合ではあるまい。さつきを立ち直らせるためには、どうしても理佳の助けが必要なのだ。

 と、意気込んで来てはみたものの、いきなり体育館に押し入るような勇気はやはり真人にはない。というか、考えてみればそんな乱暴な真似をする必要はないのだ。練習が終わって理佳が帰途についたところをつかまえれば用は足りる。

 というわけで、少し早く来すぎた形になった真人は、しばらくぼうっと春休み中の学校の光景を眺めながら時間をつぶした。ときどき部活をやっている知り合いが通りかかって、ちょっと話をしたりもした。考えてみれば、春休みに入ってからさつき以外の友達と話すのはこの日が初めて。ちょうどいい気分転換になったかも知れない。

 そんなこんなでやがて日が暮れ始めたころ。体育館のドアが開いて、中から賑やかにおしゃべりをしながらジャージ姿の女子生徒たちが出てきた。視線を巡らせてみるが、理佳の姿はない。まだ中に居るのだろうか?
 ふと、こちらを見た女子生徒の一人と目が合ってしまった。そのままにしておくのもなんだか決まりが悪いので、真人はちょっと声をかけてみる。

「あの……菅永さん、居るかな?」

 そのとたん、女子生徒たちの間でにわかに歓声が上がった。

「ウソォ、理佳先輩の彼氏?!」

「えー、意外。あの人、いつもバレーしか興味ないみたいな顔してるのにぃ」

「ちょっとあんた、声が大きいって。……でも、本当よねぇ」

「いや、あの……違うんだけど……」

 理佳「先輩」ということは、この子達は一年生だろう。真人の顔を知らない、つまり真人の悪評を知らないのだ。一人の男子生徒として普通に接してくれるのはありがたいが、勝手な解釈をしないでほしい。

「あ、理佳先輩なら中ですよ。私、呼んできますね!」

 集団のうちの一人が、勢いよく中に駆けていく。残った数人が真人に話しかけてきた。

「ねえ先輩、お名前は? 理佳先輩のどこが好きなんですか?」

「いや、だから違うって。名前は春樹真人だけど……」

「まさと先輩、ですか。理佳先輩はなんて呼んでるんだろう。やっぱりあの人らしく、呼び捨てで『まさと』? それとも『まさとくん』? ああいや、何か二人だけの特別な呼び名があったりして――」

「だから、人の話を……」

 いい加減、イライラしてくる。こっちはそんな馬鹿話に付き合うような気分ではないのだ。勝手に人を自分たちのペースに巻き込まないでくれ。何にも知らないくせに。

「あ、やっぱり春樹君か」

 と、その時ようやく理佳が姿を見せた。長袖の練習着にハーフパンツというバレー部仕様の出で立ちである。

「なにが『はるき君』ですか、恥ずかしがっちゃって。いつもの呼び方で呼んであげてくださいよぉ。ほら、彼氏、悲しそうですよ」

「ああもう、うるさいのよあんたたちは。さっさと着替えに行けっての」

「はーい。お疲れ様でーす」

 先輩の理佳に言われて、渋々という感じでその場を去っていく一年生たち。見れば、まだちらちらと振り返りながらこちらの様子を伺っている。
 さすがに理佳もちょっとばつの悪そうな顔をした。

「ごめんね。うるさかったでしょう、あの子たち」

「いや……」

 まあちょっとイライラしてしまったけど、どうということはない。それより気になるのは、どう見ても理佳が普通に元気であるということだ。一体何故、さつきの前に顔を見せなくなってしまったのだ?

「あのさ、菅永さ――」

「私、着替えてくるね。悪いんだけど、ちょっとここで待ってて」

 真人が思わず口を開きかけたところへ、理佳は言葉をかぶせた。そしてそのまま更衣室のほうへ駆けていく。やはり、どう見ても元気いっぱいである。

「一体、どうして……?」

 本当に、ただ部活動が忙しかっただけなのだろうか? でも、それだと何故彼女は電話に出なかった? 
 まるでおかしなところのない彼女の様子に、逆に真人は首をひねったのだった。



 制服を身に着けて戻ってきた理佳は、学校の外ではなくて校舎の屋上に真人を連れて行った。あの後輩たちの手前、一緒に帰るようなことをすればさらに誤解を招いてしまうからだろう――と真人は解釈した。もっとも、その解釈が間違っていたということを、真人はこの後知ることになるのだが。

「うーん、風が気持ちいい」

 屋上の右端、フェンスの向こうに広がる景色に向かって理佳は大きく背筋を伸ばした。ショートカットの後ろ髪が春風にあおられて大きくなびいている。

「久しぶりだね、春樹君」

「……うん。一週間ぶり――いや、もっとかな」

 一体、その間何をしてたんだ? いきなり本題に入ろうかと思ったが、理佳は真人に背中を向けるような格好になっていて表情をうかがうことができない。フェンス際に立って景色を眺めている理佳と、少し離れた位置からその背中を見つめる真人。なんだか話をするのがためらわれてしまう。

「それで、何の用?」

「あ、うん。あのさ――」

「って、ごめん。分かってる。春樹君が私に用のあることなんて、一つしかないもんね。あの子のことでしょう?」

 なんだか理佳の言葉が自虐的に聞こえるのは気のせいなのだろうか? 背中を向けたまま、彼女は言葉を続ける。

「どうしてあの子に会わないんだ、って問いただしに来たのよね。春休みに入って以来だから、もう十日以上になる。もっと早くに来るかと思ってたけど、意外に遅かったね」

「……佐宮さんに言われたんだ。学校には行くなって。菅永さんの部活の邪魔はしたくないからってさ」

「ふうん、そっか」

 背中ごしの返答は、なんだか理佳のものとは思えないぐらいそっけない。

「あの子、もう退院したのよね?」

「うん。昨日ね」

「昨日? そりゃまた、ずいぶんと時間がかかったのね。どうして?」

「決まってるじゃないか。菅永さんが来なくなっちゃったからだよ。佐宮さん、リハビリをやる意欲をなくしちゃって……」

 責めるような口調になっていることに気がついて、真人はそこで一度言葉を切った。理佳を責めることはしない、そう決めてここへ来た。理佳のためというよりも、さつきがそれを嫌がるだろうから。

「そっか。あの子、私に会えなくて寂しがってた?」

「当たり前だろ? 君とあの子の仲じゃないか」

 その後、しばしの沈黙があった。なんだか理佳の背中がしきりに何かを耐えているように見えて仕方がないので、真人も言葉を募らせることができない。

「――あの子が待ってるのは、私じゃないよ」

 やがて、理佳はぽつりと言った。

「あの子が入院してから――えっと、最初の一ヶ月くらいだっけ。私、その間ずっとお見舞いに行ってたじゃない? そしたら気付いちゃったのよね。あの子、春樹君が居るときと居ないときとじゃあ、ぜんぜん表情が違うんだよ。春樹君が居るときのほうが……なんていうか、生き生きとしてる。よく笑うし、口数も春樹君が居ないときに比べて多いしさ」

 そうだった――のだろうか? 自分が居ないときのことなんて知りようがないので、それに関してはなんとも言えない。ただ、一つだけ確かなことといえば――

「でもそれって、単にあの子が無理してただけだろ? 俺、正直言ってあの子が元気を取り戻す手助けができたとは思えないんだ。そりゃあ、昨日はちょっと――」

 言いかけて、真人はあわてて口をつぐんだ。さすがにあれをありのままに報告するわけにはいかない。

「昨日? あの子、昨日退院したのよね? なにかあったの?」

「いや……」

 理佳はわずかに振り返って訝しんでいたが、言いよどむ真人を見て何かしら察したのだろう。なにも言わずにまた前に向き直った。

「あの子が無理してるのは私も気付いてた。でもそれって、逆に言うとあの子が春樹君にいいところを見せようとしてたってことじゃない? だからさ、私はあえて何も言わなかったワケ」

 なるほど。やはり理佳は真人より早くさつきの異常に気がついていたわけだ。さすがは理佳、といったところか。

 そう、こんな理佳だからこそ、今のさつきには彼女が必要なのだ。だというのに、どうして――

「なあ菅永さん。遠まわしに話してないで、いい加減に教えてくれよ。どうしてお見舞いにこなくなったんだ? どうして佐宮さんに顔を見せてあげないんだよ? そりゃあ俺もがんばるけど、それだけじゃあ駄目なんだ。分かってるだろ? 佐宮さんには、菅永さんがひつよ――」

 がしゃん。突然大きな音が聞こえて、真人は口をつぐんだ。掴みかかるようにして、理佳がフェンスを叩いたのだ。

「佐宮さん、佐宮さん、佐宮さん――」

 フェンスを掴んだ理佳の手に力が加わって、小さく震えているのが真人からも見える。

「残酷だね、春樹君」

 真人は何も言うことができない。ただ呆然と立ち尽くしている。

「私があの子と会わなくなったのは、ね。簡単に言うと、もうこれ以上自分のことを嫌いになりたくないからなの」

 気持ちを落ち着かせるためだろうか。理佳は一度大きく息をはいた。

「前にも言ったけどさ。私、これまではずっと思ってたの。さつきは春樹君のことを怖がってるんだって。だから私にもまだチャンスはあるって」

 ぎゅ、とフェンスを握る手に力がこもる。

「でも、あの子が入院して、春樹君と一緒にお見舞いに行くようになって、気付いちゃった。そうじゃないって。この二人はきっとうまくいくんだって。私なんて……私が入り込む隙なんて、どこにもないんだ、って」

 やがて、震えは肩にまで及ぶ。まるで泣いているようだと真人は思った。

「そしたらね、嫌になっちゃった。春樹君とあの子が仲良くしてるのを見るのが。邪魔したくなる。壊したくなる。あの子が落ち込んでるのなんかより、春樹君があの子のことを見てるのが嫌で嫌でたまらなかった。だけど、そんなふうに考えちゃう自分はもっと嫌で……っ!」

 震えは大きくなる一方だ。力が入りすぎた指はいよいよ色を失って、血が出やしないかと心配になる。

「私、どうしたらいいんだろう。こんな気持ち、もう……」

 そのとき、何かを振り切るように、理佳がぱっと振り返った。

「もうさ、ハッキリ言うね」

 彼女は泣いていなかった。むしろ乾ききったような彼女の瞳に、なぜかしら真人はぞくりとするようなものを感じてしまう。

「私、好きなの。春樹君のことが」

 予想外の言葉ではない。真人はそんなに鋭いほうではないが、さすがにここまでの話で何となく察しつつはあった。が、やはりこうやってはっきりと口にされると、ずっしりとした重みが加わる。

「勘違いしないでね。だからどうってわけじゃないの。春樹君のあの子に対する気持ちはちゃんと分かってるから。これはね……ただの、報告」

 そして理佳は、ふっと笑顔になった。

「だから、気にしないで。春樹君はあの子のところに居ればいいの」

 まるで昨日のさつきを見ているようだ。その笑顔、嘘だろう?

「……いつから?」

 何を訊いているんだろう、俺は。何か言わなければと思って口を開いてみたら、出てきたのはそんな言葉だった。

「いつからって、私の気持ちがってこと? さあ……いつから、かなあ。私にもよく分かんない。これも前に言ったけど、私って、春樹君の話をちょっと信じてたからさ。初めから春樹君のこと、あんまり偏見を持たずに見れてたワケ。それで、みんなに嫌味を言われても言い返さずにじっと耐えてる春樹君を見てたら、いつのまにか……さ」

 ふう、と一つため息をついてから、また理佳はくるりと背中を向けた。

「はじめはただの同情だと思ってたのに。まさか、こんなふうになっちゃうなんてなあ……」

 それは後悔なのか、自嘲なのか。理佳の胸のうちが、真人には分からない。

「……ごめん。やっぱ、ちょっとキツいかも。私、もうちょっとここに居るから、春樹君は帰っていいよ」

 そんなことを言われて素直に従えるほど真人は薄情でもなく、また大人でもない。

「菅永さ――」

「来ないで!」

 真人が足を一歩踏み出したその瞬間、理佳は鋭く叫んだ。

「その気もないくせに。優しくなんかしないでよ」

 言って、理佳は頭をかかえてしまう。

「ああ、もうヤだ! こんなこと言いたいわけじゃないのに……っ!」

 言葉が出てこない。今は何を言っても、余計に彼女を傷つけるだけなのだと悟った。

「お願い、ひとりにして。早く、早く出て行ってよ。でないと、私……ここから飛び降りてやるんだから」

「う……」

 小さく振り向いた、あの目。本気だ。一時の感情で昂ぶっているだけだとは思うが――いや、だからこそ今はこれ以上彼女を刺激してはいけない。

 気圧されるようにして、かといって理佳から視線を外すこともできず、真人はゆっくりと後ずさる。後ろ手にドアを開けて、大いにためらってから、やっとの思いで後ろを向いた。

 真人が踊り場に入って、ドアが完全に閉まるその間際、

「さよなら」

 理佳の声が、かすかに聞こえた。

 ――勘違いしないでね。だからどうってわけじゃないの。

 あの言葉を、一体どんな気持ちで彼女は言ったのか。

 ――だから、気にしないで。

 絶対に無理だ。



 信原総合病院。といえば、先日までさつきが入院していたあの病院である。

 そこに、今日は聖司の姿があった。今日は、と言ってもこれは別に珍しいことではなく、実を言うと彼は度々この病院に足を運んでいる。真人と鉢合わせにならなかったのは、病院に来る時間帯を聖司が意図的にずらしていたからである。

 いつもはとある病室にちらっと顔を見せるだけですぐに帰ってしまうのだが、今日は少し事情が違っている。個室に呼び出され、今は医師の説明をうけているところだ。

 パイプ椅子に腰掛け、対面に座っている医師の話に耳を傾ける聖司。そうしている間も、やはり彼に表情はない。話している医師と、その隣に立っている看護婦のほうがよほど沈痛な面持ちである。

 一通りの説明が終わったあと、聖司は静かに口を開いた。

「それで――うちの母親は、苦しまずに逝ったんですか?」

 おそろしく機械的な声。看護婦は思わず息をのんだ。

「ああ。最後まで目を開けることなく、眠ったまま息をひきとったよ」

 医師が答える。職業柄なのだろう、こちらもできるだけ感情を殺してはいるが、やはり言葉の節々ににじみ出るものは隠しようがない。

「そうですか。ならいいんです。どうも今までありがとうございました」

 聖司は立ち上がった。

「遺体の処理とか、そういったことは叔父に訊いてください。僕はこれで失礼します」

 そのままくるりと背中を向けて、部屋を出て行く。バタン、とドアが閉まった瞬間、看護婦は脱力したようにため息をついた。

「私、なんだかあの子が怖いです。いえ、見た目がっていうんじゃありませんよ。でも、あの子……お母さんが死んだっていうのに、顔色一つ変えないで……」

 医師はカルテを片付けながら、ふん、と鼻で笑うような仕草をする。

「どうやら君も、まだまだ経験が足りないようだね」

「え? なんです?」

「なんでもない」

 ん、と一つ大きく伸びをしてから、聖司が去っていったドアを医師は見つめた。

「青原聖司君、か。彼は一体、どこへ行こうとしてるんだろう」



 まず、真人は部屋の全体に掃除機をかけた。大して広くない、というか正直せまい所なので五分とかからない。そのあと床拭き用のシートで拭き掃除をしている時に、しまった、先に棚の上を掃除するべきだったと気がついた。このあと棚やテレビの上のほこりをはたき落としたのなら、せっかくきれいにした床がまた汚れてしまうではないか。

 一つため息をついてから、まあ急ぐことはないのだから、ともう一度やり直す覚悟をしてから棚掃除にとりかかった。

 真人が掃除している場所は、むろん彼のアパートである。何か悩み事があって気が滅入ってしまいそうなときにこうするのが、彼の習慣であった。何もせずにぼうっとしているよりかはいくらか気が紛れるし、掃除し終わったあとのきれいな部屋に寝転がると、なにやらすっきりとした気分になるのだ。

 前にも少しだけ言ったが、この部屋には飾り気というものがほとんどない。ベッドとテーブル、本棚にテレビや冷蔵庫といった生活に必要な最低限度のものがそろっているだけの、フロアリングの四畳半。左側の窓のカーテンレールにかかっている、とある海外サッカークラブのレプリカユニフォームが、唯一にして最大のおしゃれである。

 部屋の中、キッチン、ユニットバスに至るまで全てきれいに磨き上げたあと、軽くシャワーを浴びて、窓を全開にする。もう夕暮れ時に近いので少し風は冷たいが、それが今の真人にはちょうどいい。ベッドに倒れこんで、そのまま目をつむって眠ってしまおうか――と思っていたちょうどそのとき、呼び鈴が鳴った。

 誰だろう。新聞の勧誘なら出たくはない。何か他の訪問販売とかだったらもっと嫌だ。でも誰か友達が来たのかもしれないし――

 真人は一応立ち上がって、のぞき穴から外をうかがってみる。と、そこにはかすかに見覚えのある男が立っていた。

 はて、誰だっただろう。どうやら怪しい来客ではないようなので、真人はドアを開けた。

「はい……?」

「やあ、真人君。僕のこと、覚えてるかな?」

 グレーのスーツ、茶色の長髪。その大人の男然とした立ち姿を見て、真人はようやく思い出した。初めてさつきの見舞いに行ったとき、彼女の病室から出てきた男だ。

「あの時はごめんね、意味の分からないことを言って。僕の名前は青原慶。君のお母さんの弟さ」

「え?」

 真人は反応に困った。そんなことをいきなり言われて、信じられるはずがない。が、露骨に怪しむような態度をとることができないところが、真人のいいところであり悪いところでもある。

「覚えてないかな? 君が小さい頃、何度か会ってるんだけど」

「そうなんですか? すみません、ちょっと、思い出せない、かな……」

 男は少し笑った。

「そうかい。まあ無理もないだろうね。最後に会ったのは、君が二歳か三歳のころだから」

 そんなの、覚えているはずがない。

「まあ、僕が君の叔父だってことは、今は重要じゃない。今日はちょっと、聞いてもらいたいことがあって来たんだ」

「聞いてもらいたいこと……?」

「うん。それで――立ち話もなんだし、できれば上げてくれないかな? それとも、どこか喫茶店にでも行くかい?」

 どうやら、話を聞かないという選択肢は与えてくれないつもりらしい。真人は頭を抱えた。

「すみません、ちょっと僕、今そんな余裕ないんです。これ以上、ややこしいことを持ち込まないでください」

「――さつきちゃんの記憶を奪ったのは僕だ、と言ったらどうだい?」

「……え?」

 いきなり男が言ったので、真人はきょとんとしてしまった。

「本当……ですか?」

「ああ。聖司君から聞いているんだろう? あの子がどうして君のことを覚えていないか。そうなるように暗示をかけたのは僕だよ。そういう能力が僕にはあるんだ」

「……そう、ですか」

 真人はため息をついた。どうしてこう、ややこしいことばかりが立て続けに舞い込んでくるのだろう。

「おや、なんだか淡白な反応だね。殴られるぐらいのことは覚悟してきたのに」

「……すみません。なんかもう、誰がやったかなんて、どうでもよくなっちゃって……」

 明らかに謝るところではない。が、他に言いようがなかった。

「分かりました。話を聞きます。上がってください」

 幸い、部屋は掃除したばかりできれいに片付いている。真人は男を招き入れて、テーブルの脇にあるクッションに座ってもらった。テーブルを挟んで反対側に、真人は腰掛ける。

「すみません、出せるような飲み物なんてないんで……」

 憎いはずの相手に対して敬語を使っているだけでは飽き足らず、こんなことまで言ってしまう。ちょっと自分で自分が嫌になった瞬間だった。

「ああ、いいよ、気にしないで。それより、早速話を始めていいかな? 順番に話すから、さつきちゃんの記憶に関することは後回しになっちゃうかもしれないけど」

「はい、構いません」

「ありがとう。それでね、その話というのは、実はどうして聖司君が君を弟子にしようとしたか、そのことにも関わってくるんだ。信じられないような話だけど、真剣に聞いてほしい」

 そう前置きしてから、男はゆっくりと話を始めた。

10

 青原家と天野家。この両者の対立という図式が、全ての根源にある。

 両者の因縁は、相当な昔にまでさかのぼる。さすがに西暦が始まる前のものまでは記録が残っていないが、もっとも古いものでは平安時代後期の戦乱に関する記述もあるという。とにかくそれぐらい昔から、この両家は争ってきたのだ。

 両家の血を引く者の特徴として、まず全員がOH(昔は「神子」だとか「鬼子」だとか呼ばれていたのだが)であることが挙げられる。それに加え、それぞれが普通のOHにはない特殊な能力を持っているのだ。

 青原の能力は、他人の体に変化を与えるもの。天野の能力は、自分の体を変化させるもの。それぞれ持っている能力は個人個人で違うのだが、大まかに言うとこのように分類できる。が、むろんこれだけでは、両者が対立する理由にはならない。

 対立の理由。それは、両家の「血」そのものにある。

 天野の血には、生物を殺すという作用がある。一度天野の血に触れるとそこから何らかの物質が入り込み、生命を奪う。量は関係ない。たとえ一滴でも皮膚かどこかに付着すれば、天野の血はその生物を確実に侵食し、死に追いやってしまう。要するに、非常に強力な毒のようなものである。ただし、解毒の方法はない。
 
 
 解毒の方法はないが、助かる可能性は二つだけある。一つが、血を付けられた人間も天野の血を引いていた場合。そしてもう一つが、青原の血を引いている場合である。

 他人の体に変化を与える能力を持つ青原だが、それはあくまで付加的な特殊能力によるものであって、その血そのものが他人に対して影響を及ぼすことはない。単に天野の血に耐えることができる、というだけだ。ただし青原の人間は、例外なくみな強い。通常のOHよりもさらに優れた身体能力を持っている。なので青原家の人間を相手にした場合、天野家の人間は一様に分が悪い。一時期猛威を振るっていた天野の勢力は、青原の登場によってやがて淘汰されてゆく。

 この両家の出自については、一切が謎に包まれている。天野の名前は突如として歴史に現れ、ついであとを追うようにして青原が登場する(といっても学校で習う歴史にこの両家の名前は出てこないが)。一説では天野は鬼や悪魔の血を引いた一族で、青原はそれを退治するためにやってきた神の使者である、と神話じみたことも言われていたりもするが、その真偽のほどは明らかにされてはいない。

 ただ分かっているのは、この両者のような血を引く家系は海外にも相当数存在するということだ。ひょっとするとそれらのうちのどれかが大本で、その血こそがこういった家系だけでなく全てのOHの始祖なのではないか、という説まであるのだが、まあそれは余談であろう。

 ちなみにこれらの家系は代が進むにつれて力が弱まる、ということはなかったのだが、力の遺伝にはちょっとした法則がある。それは、血を引いているのが父親であった場合よりも、母親であった場合のほうが生まれる子供の力が強くなるというものだ。これは単に精を提供するだけの父親より、胎内で子供を育てる母親のほうの影響が強いというだけであるのだが、そういう理由からこれらの家系では女児のほうが重宝される傾向にある。

 さて。話は一気に現代まで飛ぶ。今から二十年ほど前の話。青原家の娘、真弥が結婚して家を出ることになった。結婚相手は――そう、春樹秀彰、真人の父親である。

 この真弥であるが、生まれつき体が弱く、子供を産むのは困難と言われていた。が、結婚し、やがて懐妊を知ったとき、彼女は迷うことなく出産を決意する。青原家のためではない。秀彰の子を産みたかったからである。

 真弥の妊娠から約二ヵ月後。とある病院で、驚くべきことが発覚する。数年前に事故にあって以来植物状態になっていた真弥の妹、小百合が真弥と同じく妊娠しているのだという。事故にあったのは数年前なのだから、もちろんそれ以前に身ごもっていたのではない。動けない彼女に誰かが悪事を働いた、としか考えられなかった。

 しかしながら、当時の青原家の主人、貞雄は、堕胎手術を良しとしなかった。確かに植物状態での出産は例のないことではないのだが、出産後に母親が生き永らえた事例は世界を見ても存在しない。それを知ってなお、貞雄は意見を変えることはなかった。このまま植物状態を続けるよりも新しい生命の苗床となって死んだほうが小百合も喜ぶ、あの子はそういう娘だった――と悲痛な面持ちで語られては、誰も反対はできない。そうして、その赤子は植物状態の小百合の胎内ですくすくと育っていった。

 そして、十月十日後。秀彰の家庭で真人が産まれ、真弥は死んだ。

 偶然か必然か、小百合が出産したのもそれと同じ日だった。そして皮肉なことに、死が確実視されていた小百合は命を留めた。帝王切開の必要はなかったのだ。真人が生まれるのと時を同じくして、自分から這い出るようにしてその赤子は誕生し、小百合の体にかかった負担は非常に軽微であった。そして小百合はその後も長い間――具体的に言うとつい先日まで、植物状態のまま生き続けることになる。

 そう。そうやって生まれた赤子が、銀髪銀瞳の聖司なのである。父親は不明、血液型も既存のどれにも当てはまらない未知のもの、そしてその力は今までに生まれた青原の人間たちをもはるかに凌駕する。

 ――彼は何者か。それは青原慶にも、そして聖司自身にも分からない。

11

「確かに、ちょっと信じられないような話ですね」

 真人は苦笑した。聖司のことがあるので、男――青原慶が語ったことが丸きり信じられないというわけではない。信じられないと言ったのは、自分がそんな血筋を引いているということ、それと――

「さつきちゃんは天野だから――だから聖司は彼女を襲ったんだって、そう言いたいんでしょう?」

 そう。さつきが真人たちと一緒に暮らしていた頃に名乗っていた名字。それは佐宮でもなければ春樹でもない。天野だったのである。

「そういうことさ。そんなの、君にとっては言い訳にすら聞こえないだろうけどね」

 その通りだ。そんなの、何の関係がある? 彼女が何をした? そんなわけの分からない血筋を引いているというだけで、何故彼女があんな目にあわないといけないのだ。

「ふざけてますね。運命なんだ、とでも言うつもりですか?」

「そんな物分りのよさを君に求めはしないよ。……でも、意外だね。その様子からすると、君は僕の話を信じる気になっているわけだ」

「……僕だって、バカじゃありませんから。ただ、いくつか質問させてください。その両家の力というのは、生まれつき備わっている普通のOHの力とは違って、目覚めるのに何か特殊な条件が必要なんですね?」

「特殊な条件というか……何か、精神的なきっかけのようなものが必要なのさ。それがなければ、一生ただの人として生きることになる可能性だってある。今の、君のようにね」

「なるほど。それで、力に目覚めたら、天野家の人間は青原家の人間の気配を、青原家の青原家の人間は天野家の人間の気配を、それぞれ感じ取ることができる。これはどうです?」

「それは少し違うかな。気配を感じ取るだけなら、血さえ引いていれば力に目覚めていなくても出来る。ただし感じることが出来るのは、相手が力に目覚めている場合だけなんだ。だから僕はさつきちゃんの記憶を――」

「ああ、それはいいです」言い訳は聞きたくない。「訊きたいことはまだあるんです。あなたか聖司、どっちかは分かりませんが、信原総合病院というところに通っていたりはしませんか?」

「どうしてそんなことを……と、訊き返す権利はないか。答えはイエス、それも僕と聖司君の両方だね。ついこないだまで生きていた姉さん――聖司君の母親であって、君の叔母である小百合という人が入院していたのがその病院だった」

「……そうですか。すみません、もう一ついいですか。聖司があの子――佐宮さんを襲ったとき、一時的にあの子が力を取り戻すようなことがあった、という話を聞いていませんか?」

「あった、らしいよ。聖司君にとってはあまり関係のないことだっただろうけどね」

「……分かりました。もうこれでいいです。いろいろ言ってすみませんでした」

 何故あの夜真人は都合よくさつきのところへたどり着くことが出来たのか、以前OHだったさつきが何故今はそうでなくなっているのか、真人をナイフ男へと導いた「あの感覚」は一体何だったのか、何故「あの感覚」を懐かしいと思うのか、いつかのさつきの不可解な言動の意味はなんだったのか。

 パズルのピースは出揃った。それらを組み合わせて出来上がった図柄は、真人が慶の話を信じる他にないということを示している。

 が、話はそれで終わりではない。

「それで? 一体なんのためにわざわざここまで来て、こんなことを僕に話したんです?」

 そう、それこそが本題であるはずなのだ。わざわざ歴史の授業をしにこんなところまで来たわけではあるまい。

「……そうだね。前置きはもういいか。僕が君に分かってもらいたいのは、聖司君のことなんだ」

「聖司のこと? あいつの、何を?」

「君は変に思わなかったのかい? 彼、やっていることがあまりにも中途半端だ。彼の能力ならさつきちゃんをあんな目にあわせることなく、一瞬で命を奪うこともできたはず。それこそ、君があそこにたどり着くよりも早く、ね。その上、君という闖入者にも気付かず、誤って傷つけてしまった。そしてそのあと彼は、さつきちゃんに止めも刺さず、逆に彼女のために救急車を呼んで、青原の力を使って君の傷を治すという選択肢をとっている。……あ、そうそう。もう気付いてると思うけど、聖司君の能力というのは青原の人間の傷を癒すというものなんだ。別にさつきちゃんを見捨てたわけじゃなくて、君しか助けられなかったというだけの話さ」

 ――この犯人は変だ、全く目的が分からない。

 そう話していた理佳のことを思い出して、真人はずきりと心が痛んだ。

「それにね。そもそも、彼は何故顔を隠す必要があったんだろう? 一瞬でコトを済ませてその場を立ち去れば、何も問題はなかったはずなのに。一体何から隠れていたんだろうね? 不思議に思わないかい?」

「……確かに、妙といえば妙ですね。でも、そんなこと、あなたにも分からないでしょう? それとも、聖司はあなたになら何でも話すんですか?」

「いや……残念ながら、彼は僕を嫌っているからね。何も教えてくれはしないよ。ただ、付き合いだけは長いから、推測することはできる。彼が顔を隠していたのは、そうしないと罪の意識に耐えられなかったからじゃないかな。自分以外の何かに成りすまさないと、何の罪もない女の子を傷つけるなんてことはできなかったんだ。ああ見えて、根は優しいからね、聖司君は」

「優しい……ですか。僕は被害者本人ですからね。とてもそんなふうには思えませんけど」

「まあ、最後まで聞いてくれよ。それで、彼が一思いに彼女を殺さなかったのは、踏ん切りがつかなかったからだと思う。それで、彼女をなぶる形になってしまって、余計に心が痛んだ。そこへ君がいきなり飛び出してきたものだから、さすがに彼もとっさには反応できなかったのさ。……それでね、この部分だけは推測じゃなくて、聖司君が僕に話してくれたことなんだけど。君が気を失ったあと、彼がさつきちゃんに止めを刺さなかったのは……瀕死の重傷を負っていた君に、足首をつかまれたから、だそうだよ」

「……え?」

「君は覚えていないかも知れないね。なかば無意識でやったことだろうし」

 ――いや、覚えている。そうか、あの手は届いていたのか。

「何故それだけで凶行をやめる気になったのか――詳しくは教えてもらえなかったけど。多分、君の意志が通じたんだろうね。そして、その時君の顔が秀彰さんに似ていることに気がついて、まさかと思って試してみたら、本当に傷が治ってしまった。君が春樹真人であると、その時彼は初めて知ったのさ。だから、彼は――君に賭けることにしたと言っていたよ」

「……賭ける? 何をです?」

「分からない。一体何を賭けたのか、君に何をさせるつもりなのか……まあ十中八九、『信剣』に関することだろうとは思うけど」

「シンケン? 何ですかそれは」

「ああ、いいんだ、気にしないでくれ。あまりいっぺんに説明すると頭がこんがらがってしまうだろうからね」

 いや、もうとっくにそうなってるんですけど。あなたが訪ねてくる前からずっと。

「とにかく、どうだい? 少しは聖司君のこと、分かってくれたかい?」

「分かるもなにも、ほとんどが――ええと、慶さん、でしたっけ? あなた個人の好意的な解釈に過ぎないじゃないですか。そんなものを聞かされて、僕にどうしろと言うんです?」

「うん……まあ、そうなんだけどね。でも、まんざら大外れでもないと思うから、聞くだけは聞いてほしい。……あ、そうそう、もう一つだけ言わせてくれ。聖司君がさつきちゃんを狙ったのは、単に天野の人間だからというわけじゃない。もっと深い事情があるんだ。どうして彼女が家を出て暮らしているのかということも含めてね。まだ詳しいことは話せないけど……どうだい? もし僕の考えが間違っていなかったとして、それでも君は少しも聖司君に対する見方を改める気にはならないかい?」

「それは……」

「許してくれとは言わない。少しでいいんだ。彼のこと、認めてやってくれ。このとおりだ」

 聖司は思わず目を疑った。慶が、真人よりも十は年上の慶が、真人に向かって頭を下げているのだ。

「ど、どうしてそこまで……」

「君たちの人生を狂わせたのは僕――いや、僕たちなんだ。今さら遅いかもしれないけど、少しでもその罪滅ぼしをしたい。君や聖司君に、正しい道を歩んでほしいんだ」

 その後、真人が了承の意を示すまで、慶は頭を上げなかった。

12
 
「銀ガキの居場所を教えろ、だあ?」

 夕食を終えて、リビングのソファーでくつろいでいたところにいきなり言われて、辰巳は困惑した声を出した。

「なんか逢引の日以来えらくヘコんでると思ったら……やっぱりなんかあったんだな?」

「なんかあった、どころの騒ぎじゃないんですよ。ねえ辰巳さん、一生のお願いです。教えてください」

 口調はわりと平静と保っているが、逢引という言葉に反応していないあたり、悠理も必死なのだと分かる。辰巳との距離もいつもより近い。かわいらしい顔に迫られて思わず身を引いている辰巳。やはり彼も男である。

「いや、別にそんな言われなくても教えるけどよお。別に隠すことでもねえし。けどお前、銀ガキとは神父の命日にしか会わないんじゃなかったのかよ? 春の七夕様とか言ってたじゃねえか」

「そ、それは……」

 七夕様、というのは織姫と彦星のこと。何年か前、年に一度しか会えない聖司と自分の境遇を例えて、悠理が言った言葉である。自分で言ったことだけに悠理もさすがに恥ずかしかったのだろう、少しばつの悪そうな顔をした。

「とにかく、ちょっと事情が変わったんです。ねえ、セージはどこに居るんですか? 辰巳さんになら知ってるでしょう? 感覚で探すにしても、私、あまりうまくできないし……」

「いや、知ってるもクソもねえ。あいつはずっと、青原家があった場所――今は、秀彰のやつが建てさせた家に住んでやがるよ。あんまし家から出てねえみたいだから、行けば簡単に会えるんじゃねえか?」

 悠理はほっとため息をついた。

「そうなんですか。よかった、行方不明とかになってたらどうしようかと……」

「行方不明だあ? なんだか知らねえが、よっぽど妙なこと言われたんだな、お前」

 う、と悠理は言葉につまる。

「詮索しないでください。デリカシーないですよ、辰巳さん」

「そりゃ悪かった。で、銀ガキの居場所を知って、お前はどうするつもりなんだよ? 夜這いでもかけるつもりか?」

 ボッ、と音が出そうなほど見事に、悠理の顔が真っ赤になった。

「そ、そんなバカなことはしませんっ。辰巳さん、怒りますよ?」

「ん……?」

 この種の冗談ではうろたえないはずの悠理にしては、おかしな反応だった。まさか図星だったのではあるまいな――と、訝しむような視線を辰巳は送る。

「とにかく……明日は私、少し家を開けますから。おばさんのことはヘルパーさんにお願いするとして……辰巳さん、ご飯はどうします? 作り置きしておきましょうか?」

「いや、いい。オレも明日は出掛ける。……というか、もう二度と戻ってこないかも知れんな」

「……へ?」

 いきなり何を言うのか。冗談かと思ったが、そんな様子でもない。悠理は何と言っていいのか分からなくなってしまう。

「そういえば、洗い物が途中だったっけ」

 明らかに流れを無視した一言だが、ちょうどいい逃げ口上だったのだろう。ふと思い出したように立ち上がり、キッチンに向かう。

 その途中、

「……辰巳さん」

 振り返らずに、悠理は小さく言った。

「あん? なんだ?」

「兄さん、って呼べなくてごめんなさい」

 バタン、とドアが閉まって、悠理の姿が消える。

 辰巳は、無言だった。

13

 旧春樹邸。柳の木の前に立って、聖司と慶が話している。

「……それで、あいつは何だって?」

「さあ。結局、はっきりとした返事はもらえなかったからね。けど、何かを思ってくれていることは確かだよ」

「あんたが勝手なことばかり言って、あいつにそれを鵜呑みにされちまうと困るんだけどな」

「そうかな? 僕は、勝手なことだとは思っていないけど」

「……ちっ」

 聖司は舌打ちする。どことなくいつもと雰囲気が違うのは、慶に遠慮がないからだろう。いつもより半歩ほど余計に踏み込んでいる。そのせいか、聖司にもどことなく感情らしきものが見え隠れしているように感じられなくもない。

「君には真人君が必要なんだろう? 僕はただ、その手助けをしているだけさ」

「それが勝手だと言ってる。俺にはもう時間がない。あいつの相手をしてるヒマなんてねえんだ。『信剣』(ビリーヴス)はあんたがあいつに渡してくれればいい」

「違うね。それは君の本心じゃない。姉さんが亡くなって、その時の君の顔を見て、やっと気がついたんだ。君も一人の人間、それもまだ十七歳の子供なんだってね」

「……人間、だって? 俺の顔をよく見ろよ。死人から生まれた、父親の居ない化け物の姿だ」

「いいや。君は姉さんの息子さ。誰が何と言おうとね。君が人である以上、ひとりでは生きられない。もう無理はしてほしくないんだ」

「無理なんてしていない。俺は常に自分の思うとおりに生きてきた。常に最良の道を選んで歩んできて、今この場に立っているんだ」

「……そう断言できる君が、ちょっとうらやましいね。自分という存在に自信を持っているということだから」

 慶は胸のポケットからタバコを一本取り出して、火をつけた。一体、いつ以来になるだろうか。もうずっと長い間吸っていなかった。

「でも、その道が正しかったと誰が証明してくれるんだい? そんなこと、誰にも分からないだろう?」

 ふう、と煙を吐き出すと、それと一緒にずっと自分の中にたまっていた何かが抜け落ちていく気がした。

「このままだと、君は一人ぼっちで最期を迎えないといけなくなる。誰もそばに居てくれない。本当にそれでいいのかい?」

 聖司は何も言わない。慶は言葉を続けた。

「強い君が、弱い君を抑えつけすぎているんだ。誰でもいい、少しは本当の君をさらけ出すことのできる相手が必要だよ」

「強い俺が、本当の俺だ。もう一度言うが、俺は無理なんてしてねえよ」

「まあ、君の場合は本当にそうかも知れない。でも今のセリフ、自分には弱い部分もあると認めたということだね?」

「……」

「揚げ足をとるようなことを言ってすまない。だけど君、もう限界だろう? 焦って、全てを拒絶して、それが一体何になるっていうんだい?」

「……俺に、どうしろと? 何をするにしても、もう遅すぎる」

 慶は空を仰いだ。時は黄昏、吐き出す煙が赤く染まった雲に吸い込まれてゆく。

「そう、かも知れないね。でもせめて、最期だけは幸せに迎えてほしいから」

 感情を隠すよう、慶はきびすを返した。そのまま庭の出口へと向かう。

「たぶん君とはこれが最後だ。だから言いたいことを言わせてもらったよ。ほんの一割でもいい、もし君が僕の言葉を心に留めておいてくれるなら……少しは、僕の人生も報われるというものだ」

 慶は旧春樹邸をあとにする。聖司はじっと動かない。立ち尽くしたまま、小さく、吐き捨てるように言った。

「……クソッ。勝手なことばかり言いやがって」

 その声は慶の耳に届いていたが、彼はもう、振り返らなかった。

13

 次の日。真人はさつきを連れ、ある場所へと向かっていた。

「でも、どうして連れてってくれる気になったの? こないだはなんか、理由があるから駄目だ、みたいなこと言ってたじゃない」

「ま、ちょっと考えが変わってね」

 さつきは先ほどまで追試を受けていたので、制服姿である。学校まで彼女を迎えに行った真人は、そのままの足でバス停へと向かった。今はその道中というわけだ。

「佐宮さんが、何か思い出してくれるといいんだけど」

「……うん。がんばってみるね」

 二人の行き先は、旧春樹邸。懐かしき我が家に、彼女を招待――いや、彼女と一緒に帰ってみようという決心を真人はした。もちろんいきなり住み着こうというわけではなくて、一度足を運んでみて彼女の反応を見てみようというだけである。

 そのことを提案したとき、さつきは少し戸惑ったような顔をしたが、すぐに了承してくれた。それどころか、がんばって思い出してみる、とまで言った。どうやらあの日――真人の前で彼女が涙を流した日以来、彼女はすっかり真人のことを信じてしまったらしい。

「どこかに出掛けるのって久しぶり。なんだかちょっと、うきうきしちゃうよ」

 彼女は笑顔を見せる。この笑顔は今度こそ本物だ――と思いたい。

「追試も終わったし。やっと私の春休みが来たって感じ。……って言っても、もう明日から学校なんだけどね。なんか、すごく損しちゃったみたい」

 口数も増えてきた。いい傾向なのだと思う。このままの調子で彼女が元通りになることが出来るよう、最善を尽くしていくつもりだ。今旧春樹邸に向かっているのもその一環としてなのだが――大きな不安要素が、そこにはある。

 そう、聖司のことだ。彼のことはさつきに話していないのだが、もしかすると顔を見せた途端にまた襲い掛かってくるのではないか。いやそんなことにはならない、そんなことをするぐらいなら彼はもっと早くに再び襲撃してきたはずだ――と自分に言い聞かせてはみるものの、やはり一抹の不安は拭い去ることができない。もしもの時のため、いつでも彼女を逃がすことができるようにしておこう、と真人は心に決めた。

 冷静に考えると、そんな危険を冒してまで行く必要があるのか、と思わなくもないのだが、これ以上足踏みしてはいられない。明日から学校が始まるのだし、善は急げ、というではないか。

 そのまま少し歩いて、バス停近くの交差点で信号待ちをしているときのこと。

「ねえ春樹君。その家って、遠いの?」

「ん……まあ、バスに乗って十五分くらいかな。そんなに遠くはないよ」

「そっか。じゃあさ、歩いて――」

 と、さつきは何かを言いかけて、そこでぴたりと止めた。どうしたのかと様子をうかがってみると、彼女はなにやら一点を凝視しているようだ。真人もそちらに目を向けてみる。

「あ――」

 そして、すぐに気がついた。道の向こう側に立っている、見慣れた制服姿。――理佳。

 理佳は、一瞬遅れてこちらに気がついたようだった。一瞬息をのむような表情をしたあと、たっと背中を向けて逃げ出そうとして――

「待って!」

 さつきが叫んだ。周囲の人々が何事かと視線を向けてくる。

 理佳は止まらない。さつきは小さく左右を確認すると、赤信号を無視して走り出した。

 ――どうするべきなのだろう。真人は迷った。さつきの背中はみるみるうちに小さくなっていく。

 追いかけるべきなのか? だけど、追いかけてどうするというのか。自分が出ていったところで、余計に事態を混乱させるだけではないのか。

 信号が変わった。真人はのろのろと歩き出す。足は、自然と二人が走り去ったほうへと向いていた。
 
14

 聖司はじっと動かない。誰も居ない玄関前の廊下でひとり、仰向けに倒れている。

「……くそ。限界です、ってか?」

 薬の瓶は、彼の手の届かない位置に転がっている。どうやら錠剤を取り出そうとして失敗したものであるらしく、ふたが半開きになっていて、錠剤が床に散らばっている。

「まさか、本当に動かなっちまうとはな……なんか、すげえ惨めだ」

 彼は自分の手に目を向けた。びくびくと震えている。痙攣しているわけではない。動かそうとして力を入れているのに、いうことをきかないようだ。

「まあ、いいか。このまま死ぬ――わけでも、なさそうだしな。いい加減、この痛みにも慣れた。しばらくこうしているのも、いいかもな……」

 天井に向かって、彼はため息をつく。目を閉じることはしない。虚空を見つめながら、物思いにふけっている。

「このままだと、君は一人ぼっちで最期を――か。それの何が悪い」

 聖司は口元をゆがめた。

「それが俺の理想じゃねえか。誰も寄せ付けない。誰も俺のことを求めない。誰も――」

 どさり。ふいに彼の足元で、何かが落ちるような音がした。

「――セージ?!」

 招かれざる、客。

15

 五分ほど歩いただろうか。やがて真人は二人の姿を見つけた。

 バス停からビル街をはさんでぐるりと反対側に回ったところにある、川辺の桜並木。その下で、さつきが理佳に詰め寄っている。

 ――なんという皮肉。ここはさつきが聖司に襲われた、あの時の場所だ。

 恐らくは偶然なのだろう。だけど背筋が寒くなる。今、この場でもう一度、何も出来ない自分に俺は打ちのめされようとしているのではないか?

 どうやらさつきは怒ってはいないようだ。落ち着いた態度、しかし口調は必死で理佳に説明を求めている。ねえ、どうして来なくなったの。どうして電話にも出てくれないの。

 理佳は何も答えない。ただ黙って下を向いている。

 さつきはさらに言葉を募らせる。ねえ、私たち、友達じゃないの?

 ――と、その時。ちらりと顔を上げた理佳と、真人は目が合ってしまった。

 理佳の口元が自嘲に歪む。まずい、と思ったときにはもう、理佳は口を開いていた。

「――友達? 私の気も知らないで、よくそんなことが言えたモンね」

 低い声。さつきの言葉がぴたりと止んだ。

「あんた、何様のつもり? 何の権利があって私にそんなことを言うワケ?」

「り……理佳? なに、どうし――」

「うるさい! あんた、本当は気付いてるんでしょ? ずっと前から気付いてて、心の中では私のことをあざ笑ってたんでしょう?!」

 やめろ。頼むからやめてくれ。真人の言葉は、声にならない。

「り、理佳、落ち着いてよ。私、理佳が何言ってるのか――」

「ほら。またそうやってしらばっくれる。なに? そうやってカマトトぶってたら、春樹君も優しくしてくれるワケ?」

「え……春樹、君?」

 その時になってようやく、さつきも真人の存在に気がついたようだ。きょろきょろと、理佳と見比べるようにして視線をさまよわせる。――そして、

「私、言ったのよ? 春樹君に、好きだって」

 その一言で、静止した。

「ねえ、意味わかる? 私がはっきりとそう言ったのに、あんたが春樹君と一緒に居るってことの意味、分かるよね?」

「そ……そん、な……」

 さつきの視線が、真人にすがりついてくる。

「ほ、本当なの? ねえ、春樹く――」

「――っ!」

 ぱしん。声にならない理佳の叫びと同調するような音が、異様なほどに鋭く響いた。

「え……?」

 信じられない、という表情で、恐る恐る、真っ赤になった自分の頬に手をやるさつき。

 友達だと思っていた相手に叩かれるというのは初めての経験なのだろうか。理佳はOH候補者なのだから、かなり手加減したのだと思う。だけど、さつきの心を打ちのめすには、それで十分すぎた。

「うそ……理佳……」

 うつろな目をしたまま、さつきはすとんとその場にしゃがみこんでしまった。

 ――ああ。やっぱりそうなのだ。俺は、約束を、守れない。

 時が静止していた。しゃがみこんださつき、下を向いてしまった理佳、呆然と立ち尽くす真人。誰一人として、動けない。

 そして。悪いことは重なるもの。どうして今なのだ。よりにもよって、こんな時に。

 ――あの感覚が、やってきた。

16

「ちょ、ちょ、ちょっとセージ、どうしたの?!」

 いきなり悠理は大いにあわてた。どうやら先ほどの音は、持ってきた荷物を彼女が取り落とした音であったようだ。

「こんなところで寝てる――んじゃないよね? 風邪? どこか痛いの? ……わ、凄い脂汗!」

 あたふたあたふた。駆け寄って聖司の様子を見た彼女は、いよいよパニックに陥り始める。

「な、なに、なんなの?! ひょっとして、大変なことが起こってる?!」

「……おい」

「そ、そうだ薬! この家、薬とかないの? あ、ひょっとして、あそこに転がってるのがそう? え、でもなんであんなところに……」

「……おい、こら」

「ああもう、何がどうなってんのか……と、とにかく、今しなきゃいけないことは……そうだ、こんなところに寝かしてちゃダメだよね。奥に――」

「おい、バカユーリ!」

 ぴたり、と悠理の動きが止まった。

「今、なんて……」

「……うるせえ」

「セージ、今、私の名前――」

「うるせえってんだよ! 何しに来やがった! とっとと帰りやがれ!」

 びく、と肩をふるわせる悠理。聖司の言葉一つ一つに一喜一憂する彼女は、まるで親を前にした子供のようだ。

「……ごめん。やっぱり怒ってる? 私が約束やぶって会いに来ちゃったから……」

「それは……もういい。いいから、帰れ。邪魔だ」

 あまりにもぞんざいな扱いに、さすがに悠理もむっとした顔をする。

「そんな言い方しなくてもいいじゃない。せっかく人が心配してあげてるのに」

「それが、うぜえ、って、言ってる……んだよ。お前の、助けなんて、いらねえ……」

「そんな苦しそうにしながら言われても、ぜんぜん説得力ないって。……ねえ、ホントにどうしたのよ? 救急車、呼んだほうがいい?」

「……いらん。いつもの、ことだ」

「い、いつものこと? それ、余計だめじゃない? なんか、とんでもない病気とかだったら――」

「だから……余計な、心配、するな。どうせ、俺はもう……」

「俺はもう、何? ……え?」

 その時、彼女の中でずっと未完成だったジグソーパズルに、最後の一ピースがようやくはまった。はまるはずの無いピースが、はまってはいけないはずの形で。

「うそ……まさか、そういうこと? 年に一度しか会わないって決めたのも、いきなり『これが最後だ』とか言い出したのも、全部そういうことなの?」

「……ち。相変わらず、変なところだけ、鋭い奴、だ……」

 聖司は悪態をつく。もう観念したのか、ごまかすようなことは言わない。

「やだ……ねえ、否定してよ。勝手なこと言うなって、怒ってよ!」

 聖司の胸元にすがりついて、やがてぽろぽろと涙を流し始める悠理。

「何よ、何なのよそれ……そんなの、やだよぉ……」

 ぽたり。聖司の頬に、彼女の涙がかかる。

 聖司はため息をついた。

「クソ……最悪の、展開じゃねえか……」

17

 真人たちの前に現れたのは、やはりナイフ男だった。

 逃げるのには、気付くのが遅すぎた。真人が感覚に気付いたすぐ後にはもう、川辺の道の向こうから歩いてくる黒いレザージャケットの人影を視界がとらえていたのだ。

 相手はOHだ。逃げたところですぐに追いつかれる。OH候補者である理佳だけならなんとかなるかもしれないが、あとの二人は無理だろう。

 真人は携帯電話を取り出して、一一〇番を押した。

 機械的な受け答えが聞こえる。真人はOHに襲われていることと、今居る場所だけを手短に伝えて電話を切った。

「……春樹君? どうしたの?」

 さすがに、二人も真人の異変に気付いたようだ。緊張のせいで真人にはどちらが言ったのかすら分からなかったが、一応その声は耳に届いた。

「佐宮さん、あいつだ。塔子さんを殺したっていう、あのOHだ。……菅永さん、ここに居たら巻き込まれるよ。あいつの目的はよく分からないけど……多分、用があるのは俺たちだ。菅永さんは逃げたほうがいい」

 必死に声を落ち着かせて、真人は最低限度の説明をする。ナイフ男の姿は見る見る近付いてくるが、当然、これだけでは理佳は納得してくれない。

「な、何なの? 一体、何がどうしたっていうのよ?」

「ごめん、詳しく説明しているヒマはないんだ。一言で言うと……多分、俺たちは今からOHに襲われる」

「……え?」

「今警察に連絡したから、もう少ししたらOH課の人が来てくれると思う。だから、きっと大丈夫。菅永さんはここから離れてくれ。……佐宮さん、立てる?」

「……うん」

 真人がさつきに手を差しのべた瞬間、理佳の肩がぴくりと動いたのに気付いたが、さすがにそんなことに構ってはいられない。さつきを立たせ、自分の背中でかばうようにして真人がその前に立つ。

 理佳は動かなかった。逃げることも、それ以上口を開くこともせずに、ただその場でじっとしている。

「よう、ガキ。また会ったな」

 そこへ、ナイフ男の声がかかった。彼と真人との距離はもう十メートルもない。

「お前、よく逃げなかったな。オレの気配には気付いてたんだろう?」

「……逃げたって無駄なことぐらい、分かる」

 しぼり出すようしにして言った真人の声は、少し震えていたかも知れない。さつきをかばっている背中を冷や汗が伝って、嫌な感触がする。

「くくく……まあ、そうだろうな。……さて、実はな。お察しの通りオレは天野の人間だが、あいにくと用があるのはお前じゃねえんだ。今日はただ、うちの妹を返してもらいにきただけなんだよ」

「うちの妹」ときた。なんておぞましい響きだろう。それが誰のことを指しているのかを理解しているのはこの場で真人ぐらいのものだろうから、そのことが唯一の救いである。

「何が妹だよ。彼女は――俺の、家族だ」

「おいおい。何も知らねえガキが、勝手なこと抜かしてんじゃねえよ。……おい、さつき。あのキザ野郎のせいで思い出せねえだろうが、うちの妹ってのはお前のことなんだよ。オフクロがお前に会いたがってる。一緒に来い」

 ひ、とさつきが喉をひきつらせる。真人は振り向いて、穏やかな声を出した。

「大丈夫。佐宮さんに手出しはさせないから」

「でも、あの人……今、なんて……」

「聞いちゃいけない。全部デタラメだから」

「おいガキ、聞こえてんだよ。デタラメ言ってんのはてめえの方じゃねえか」

 気付けば、男の手にナイフが握られている。前も不思議に思ったのだが、あれは一体どこから取り出しているのだろう。ひょっとすると、天野の能力と何か関係しているのかも知れない。

「邪魔すんなって言ったよなあ、オレ。てめえが秀彰の息子だっていうからこないだは見逃してやったが、あいにくと今日は――」

 ナイフ男の言葉が、途中で止まった。

「え……?」

 驚きの声がさつきの口からもれる。真人も、思わず息をのんで目の前の光景を見つめた。

 さつきをかばって立つ真人の前に、さらにもう一つ背中が立ちふさがった。それは――

「あんた、頭おかしいんじゃないの? なにさっきからワケわかんないこと言ってんのよ」

 理佳、だった。

「何だお前。無関係の人間が――」

「無関係じゃない!」

 鋭い声。怖気というものがまるで感じられない。さすがにナイフ男も目を丸くした。

「私は……私は……っ!」

 ぐ、と理佳の拳に力が入っているのが見える。彼女はぐいと顔を上げて、ナイフ男の顔をにらみつけながら、言った。

「さつきの、友達だ!」

「……菅永、さん……」

 真人はもう一度息をのんだ。理佳は振り向かずに言う。

「……ごめん、さつき。私、ホントはあんなこと思ってるわけじゃないの。私、なんかワケわかんなくなっちゃってて……ホントにごめん。あんなことしちゃって、許してくれとは言わないけど……」

 さつきは何も言わない。理佳は言葉を続けた。

「こんなことで、罪滅ぼしになるとも思わないけど……でも私、やっぱり、あんたが酷い目にあってるのを黙って見てるなんてできない!」

「……理佳」

 さつきは小さくつぶやく。そこにどんな感情がこもっているのか、今はそれが悪いものではないことを願うしかない。

 ナイフ男が口を開いた。

「邪魔だ、どいてろ――と言いたいところだが、言っても聞かねえだろうってのは、お前の目を見りゃわかる。何があったのか知らねえが、そこのガキよりよっぽどいい目をしてやがるぜ」

 言い終わった瞬間、ナイフ男の姿は瞬時にして理佳の眼前に迫っていた。

 さすがに一瞬ひるんだ様子を見せた理佳だったが、すぐに気を取り直し、いきなり男の顔面に向かって拳を繰り出した。
 びゅ、という風を切る音がした。先ほどさつきの頬を叩いた時のものとはまるで違っている。

「OH課の人が来るまでの時間、なんとか稼いでみるから。二人はそこから動かないで」

 力強い理佳の声。体をひねって彼女の一撃をかわしたナイフ男だったが、予想外の鋭さに顔色が変わった。

「……なるほど。候補者の中級、ってところか」

 ナイフ男の言葉には聞く耳を持たず、次々と拳をふるう理佳。手の動きだけでなく、追いすがるフットワークもすさまじく速い。

 これが、理佳の力。じっとしていろ、などと言われるまでもなく、真人が割り込む隙などどこにもありはしない。呆然とそれを見ていることしかできなかった。

「何かスポーツでもやってるのか? 体の使い方を知ってやがるな」

 が、やはり彼女はOHではなくて「候補者」である。ナイフ男に焦りはない。理佳の拳はことごとく空を切る。最初の一撃は不意をつかれただけだったのだろう、ナイフ男の表情には再び余裕が戻っている。

「でもまあ、相手が悪かったな。本物のOHには敵わないってことは分かってんだろ? 候補者ってやつはみんなそうだ」

 理佳は黙って拳をふるい続ける。答える必要がないと思っているのか、それとも答える余裕がないのか。

 やがて。攻撃がかすりもしないので埒があかないと思ったのだろう。小さくバックステップをとって、今度は蹴りを繰り出そうと――

 ぱしり。足を半ばまでも振り上げないうちに、ナイフ男の手がそれを受け止めた。

「おいおい、はしたねえなあ。下着が見えるぜ?」

 ど、と重い音がして、ナイフ男の拳が理佳の腹部にめり込む。彼女は小さくうめいて、その場に崩れ落ちた。

「菅永さん!」「理佳!」

 二人の声が重なる。ナイフ男は倒れた理佳の体を抱き上げると再びこちらに歩いてきて、ある程度距離が近付いたところで、投げつけるようにして理佳の体を真人に渡した。あわててそれを受け止める。

「安心しろよ。ちゃんと手加減はした。内蔵にダメージはねえ。気を失ってるだけだ」

 男の言うとおり、確かにきちんと息はしているし、顔色も悪くない。ひとまずは心配なさそうだ。真人としてはなんだか彼女の肩を抱くことに罪悪感を覚えてしまうが、今はそんなことを言っている場合ではない。

「……それで? 女に戦わせて、その後ろでみっともなくビビってたお前は、次にどうするんだ?」

 ナイフ男の顔をにらみつけてはみたが、どうにもならない。真人は理佳の介抱をさつきに任せて、ナイフ男の正面に立った。

「あんたの目的は、一体何なんだよ。何のために佐宮さんを狙うんだ」

「だから、言ったじゃねえか。オレはただ、妹を返してもらいに来ただけだって。さつきを傷つけるつもりは毛頭ねえ。それをお前らが勝手に騒ぎ立ててるだけだろうが」

「……彼女を天野家に連れ帰って、何をさせるんだ?」

「何もしねえよ。ただオフクロに――」

 パン! と乾いた音がして、それと同時にナイフ男が驚くべき速さで動いた。


 今の音、映画やドラマなんかでよく聞いて知っている。――銃声だ。

「……ち。相変わらず気配の薄いやつだ。薄すぎて、気付かなかったじゃねえか」

「それはあなたの注意力が足りないだけでしょう、辰巳さん」

 向こうから歩いてくるのは、慶だ。右手で拳銃を構え、狙いをナイフ男に定めている。

 一発目の銃弾を、どうやらナイフ男はかろうじてかわしたらしい。銃弾がかすめたのだろう、頬がわずかに切れて血が出ている。

 思わずぞくりとした。あの血に触れただけで、人が死ぬのだ。慶が一人で来ているのも、それを踏まえてのことなのだろう。

「こんなところでそんな危ねえモンぶっ放してんじゃねえよ。一般人にあたるぜ? お前らの大好きな一般人によお」

「ここへの出入りは、一時的に封鎖させてあります。気付かなかったんですか? 先ほどから、誰もここを通らなかったでしょう?」

 言われてみればそうだ。もっとも、元からあまり人通りの多い場所ではないのだが。

「天野辰巳。佐宮塔子殺害の容疑並び、暴行の現行犯で逮捕します。大人しく署に同行してください。従わない場合は――その場で殺害もやむなし、との許可がおりています」

 慶は高らかに宣言した。この時初めて、真人はナイフ男の名前を知った。

「おいおい、ふざけんなよ。礼状もなしか? それに、あの女は――」

「そんなこと、どうだっていいんですよ。本当はね」

 かちり、と右手に構えた拳銃の撃鉄を起こす。彼の持っている拳銃はオートマティック式ではなくて、西部劇に出てくるようなリボルバー式のものだ。

「あなたをこの場で殺す。僕の目的はそれだけです。あなたにこれ以上、子供たちの人生をかき回させるわけにはいかない」

「ああん? かき回してるのはどっちだよ。人の妹の記憶を奪っておいて、よく言うぜ。……それにな、そもそも前提を間違ってるぜ。男種のお前が、オレに敵うとでも思ってるのかよ?」

 す、とナイフを構えて姿勢を低くする辰巳。油断無くそれを見据えながら、慶は言った。

「何をしてるんだ真人君。早く逃げろ。この先に行けば、僕の同僚が保護してくれる」

 半ば呆けていた真人は、それではっと正気に戻った。そう、せっかく理佳が危険を顧みずに時間を稼いでくれて、やっとそれが報われたというのに、ここで呆けてしまっていてどうするのか。

「行こう、佐宮さん」

「……うん」

 理佳はまだ目を覚まさない。彼女を抱き上げようと手を真人が伸ばした――その瞬間だった。

「逃がすかよ!」

「なっ……!」

 辰巳の鋭い声と、慶の驚嘆が重なったのとほぼ同時。真人の右足に、すさまじい痛みが走った。

「う……あっ……?」

 あまりにも痛みが酷すぎて、叫び声もろくにあげられない。見れば、辰巳のナイフがふくらはぎから刺さって、脛まで貫通している。

「は、春樹君!」

 それに気付いたさつきが、真人の代わりとばかりに悲痛な声で叫んだ。当の真人はといえば、その場でうずくまってしまって動くことができない。

 辰巳は慶に拳銃を突きつけられている状態から、いきなり真人に向かってナイフを投げつけたのだ。無謀としか思えないこの行為が逆に慶の意表をつく結果となったらしく、慶は対応できていない。銃声はしたものの、銃弾は見当違いの方向に飛んでいった。

「――よそ見してんじゃねえよ、間抜け」

 そして、事態はさらに最悪な方向へと突き進む。慶が真人のほうに気を取られてしまった、その一瞬の出来事。

 辰巳はおそろしく速かった。瞬きするほどの間に慶との距離をつめて、真人には視認できないほどの速さでナイフをふるう。

 何かが宙を舞った。それはぐるぐると回って、ちょうど真人の前に落ちてきた。

 ――腕。拳銃を握った、慶の腕だった。

 さつきが悲鳴をあげる。見るな、という言葉すら出てこない。真人も目の前の異常な事態にすっかりのまれてしまっていた。

 さつきの甲高い悲鳴と慶の低い叫びが混ざり合う中、辰巳はさらに動く。低い姿勢からナイフを斜めに振り上げ、慶の右わき腹から左肩にかけてを斬った。

 血しぶきを上げながら、ど、と慶が倒れる。死んだ、のだろうか。なんて――なんて、あっけないんだろう。

 辰巳は呼吸すら乱していない。倒れた慶には一瞥もくれず、そのまま真人の方へ向かってくる。

「くっ……」

 真人は立ち上がろうとするが、どうしても右足に力が入らない。返り血を浴びて真っ赤に染まった辰巳の姿が迫ってくる。

 それが眼前にまで来たとき、真人はいよいよ覚悟をした。OH課の人間である慶をいともあっさり殺した男。自分などアリを踏み潰すがごとく簡単にやられてしまう。

 ――が。取るに足らない存在と判断されたのか、辰巳は真人の肩を掴んでぐいと押し退けただけだった。真人の体が一瞬宙に浮いて地面に叩きつけられるには十分な力だったが、命を奪うものではない。

 背中を打った衝撃で咳き込みながらも、真人はあわててさつきのほうに目を向ける。その視線の先、辰巳はさつきが抱き寄せていた理佳の体を強引にどけて、さつきを抱え上げた。

「は、放して……っ!」

 小脇に抱えられたさつきは、当然のように暴れる。辰巳はもう一方の手で顔についた返り血を少しぬぐうと、信じられないほど穏やかな声で言った。

「何をそんなに嫌がることがあんだよ。危害は加えねえって言ってるだろうが。ただ家に帰るだけだ」

「家……?」

 ぴたりと、さつきの動きが止まる。

「ああ。天野の家だ。お前のオフクロが待ってる」

「天野……お母さん? 私の……?」

「ああ。名前は加寿子。ずっと、お前を待っている。お前を家から連れ出して秀彰に預けたのはオレだったんだが……すまんな、やっぱり失敗だった。オフクロには、お前が必要なんだ」

「天野……お母さん……兄さん……家を出た……秀彰、の、おじさん……」

 小声で、何かをつぶやき続けるさつき。そして、ふいに真人のほうを見て――言った。

「……まさ、と?」

 ――震えた。全身が。
 この感覚。あの声。そう、これが――

「まさと!」

 もう一度聞こえた。真人は応える。

「――さつきちゃん」

 カチリ。何かが、切り替わる音がした。

18

 悠理はなかなか泣き止まなかった。

 聖司はじっと、何も言わず、その姿を見つめている。全身を走る痛みに表情をゆがめているにも関わらず、真人がダイアモンドと評したその瞳にどこかしら穏やかな光がともっているように見えるのは、やはり気のせいなのだろうか。

「……ねえ、セージ。それって、一体どういうことなの? 病気? ガンとか? ちゃんと病院には行った? セージのことだから、また勝手に自分で判断して言ってるだけだったり――」

「おい……なんだよ、その、俺のことだから、ってのは」

「だって。セージっていつも、私に何も言わないで突っ走っちゃうから……」

 ふう、とセージは息をはいた。

「まあ、そうかも知れねえけど。でも、今回は……そういう、問題じゃ、ねえんだ。お前、俺の生まれが、どんなだったかってことは……知ってる、よな?」

「うん。お父さんが居ないって……ねえセージ、話してて大丈夫なの? セージがそんな顔するってことは、相当苦しいのよね?」

「気にすんな。今すぐ、どうこうってわけじゃ、ねえ。……それでな。知っての通り、俺は、生まれるはずのない、存在、だった。『信剣』(ビリーヴス)と、『静剣』のことがあるから、産み出されただけで……本当は、俺なんて、存在しちゃ、いけないはずなんだ。だから……世界が、帳尻を、合わせようと、してるのさ。タイムリミットって、わけさ。十七年もあれば、この力で、どうにでもなるだろう、ってな」

「何よそれ……分かんないよ。私は――」

「お前に分からなくても、そうなんだよ。諦めろ。俺は、最初から……これぐらいまでしか生きられないように、作られてたんだ」

「そ、そんな……ねえ、いつから? いつから知ってたの?」

「ずっと、前から。物心ついたころから、なんとなく、分かってた。もっとも、そのころは……死ぬってことが、どういうことか……分かっちゃ、いなかったがな」

「うそ……なら、どうして話してくれなかったのよ! 知ってたら私だって、もうちょっと――」

「それが、ウザいから、だ。たった、十七年しか、生きられない、ってのに……お前なんかに、付き合って、られるか……」

 悠理は黙った。もう涙すら出ないようだ。

「お前に、一つだけ、頼みがある」

「……ほんと、自分勝手だよね、セージって。……いいよ、なに?」

「宿命に、従え。佐宮――いや、天野さつきを、天野家に、連れ帰って……『静剣』を、渡せ」

「え……どうして? 私、宿命とか、青原とか天野とか……正直、どうでもいいんだけど」

「分かってる」聖司は少し笑った。「お前が、そういう奴だってことぐらい、知ってるさ。知ってて、言ってる、んだ」

「……何か、理由があるのね?」

 聖司はゆっくりとうなずいた。

「……分かった。セージの言うとおりにするよ」

「よし。今から、辰巳の、居る方向を教え――ん? なんだ、気配が、二つに増えた……? 天野さつき、か?」

「そっか、じゃあきっと同じ方向だね。私が感じる気配も、なんだか大きいのがいきなり一つ出てきた」

「……そうか。あいつ、か。やっと、目覚めやがったか……」

「この気配のするほうへ行けば――えっと、さつき……さん、も居るのね?」

「ああ。どういう、状況になってるのかは、よく、分からねえけど……お前の力を、使えば、もし戦いになってても、止めさせ、られるだろう?」

「うん、分かったよ。……ねえ、セージ。私、もう見てられないよ。あれ、セージの薬なんでしょう? 痛み止めかなんか?」

「ああ、全身の感覚がなくなって、眠くなるやつだ」

「じゃあさ、奥に行って、あれ飲もうよ。飲ませてあげるからさ。今、お水を……」

「いや、水は、いらん。場所も、ここでいい。二粒ほど、とってくれ」

「とってくれ」の部分が意外だったのか、悠理は少しおかしな顔をしたが、すぐに言われた通りにした。

「じゃ、口あけて」

「む……」

 照れた様子などかけらもない悠理に対し、一瞬ためらうような気配を見せる聖司。が、それもやはり一瞬、やがて素直に口を開けた。悠理がその中に薬を放り込むと、いつも通り、水なしでごくりと嚥下する。

「……じゃあ、俺は寝る。あとで、春樹真人と一緒に、天野家へ行くから、待ってろ」

「え……? うちへ来るの?」

「ああ。その時が、本当の意味で最後になる」

 薬が効き始めたのか、途切れ途切れだった聖司の声が穏やかになってゆく。悠理はしばらく何かを考え込んでいたが、やがてふと思いついたように言った。

「ねえセージ。この薬って副作用とかないよね?」

「ああ、そのはずだ」

「じゃあさ、いくつか貰っていってもいい?」

「……? 構わねえけど、何に使うつもりだ?」

「えっとね……ヒミツ。じゃあ私、行ってくるね。うちで待ってるから」

 悠理は旧春樹邸から出て行く。何かを振り切ったようにも見えた。

 彼女が去ったあと、聖司は目を閉じて大きく息をはいた。

「さて、どうなるかな。俺が目を覚ますまで生きてろよ、真人」

19

 目覚めたのは真人だけでなく、記憶を取り戻したさつきも同様である。

 さつきは全身に力を込めて、すぐに辰巳の腕から抜け出した。

「むっ……?」

 不意をつかれた顔をした辰巳に向かって、真人が駆ける。右足に刺さっていたナイフはすでに引き抜いた。むろん痛みは残っているが、そんなことに構ってはいられない。

 さすがというべきか、辰巳もすぐに状況を理解したらしい。体勢を立て直し、真人を迎え撃つ構えをとる。

 いくら力に目覚めたとはいえ、しょせんケンカもろくにしたことがない真人である。辰巳とまともにやりあって勝てるとは思えない。このまま真っ直ぐ突っ込むのは無謀。しかし長引かせたらもっと不利だ。奇策を弄し、一か八かで挑む。それしかない。

 辰巳の眼前まで迫ったその瞬間、真人は左足で思い切り横向きに地面を蹴った。急激な方向転換。ど、と物凄い音がして、真人の視界から辰巳の姿が一瞬だけ消える。次に、今度は右足で地面を蹴った。さすがに傷口が痛んだが、真人の目論見は成功。そのままの勢いで、辰巳に回し蹴りを叩き込む。

「ガ、ァッ!」

 ゴ、と重い音がして、立った姿勢のまま三メートルほど辰巳の体が地面を滑る。

 僥倖。力に目覚めたばかりだというのに、自分でも驚くほどうまくいった。真人が一連の動作に要した時間は、全てを合わせても半秒に満たない。辰巳の感覚にしてみれば、真っ直ぐ自分に向かってきていたはずの相手の姿がいきなり消えて、それと同時に死角から蹴りを入れられたようなものだっただろう。かわせなかったのは当たり前、衝撃の直前に足を踏ん張って吹き飛ばされないようにしただけでもさすがである。

「くっ……ガキが! 調子こいてんじゃねえ!」

 が、真人にとって誤算であったのは、辰巳という男の精神力である。真人の蹴りが直撃した左腕は無残にあらぬ方向へと折れ曲がり、口からはわずかではあるが吐血もしているというのに、立っているのだ。真人をにらみつける眼光には、依然として一点の曇りもない。

 一体、何がこの男をこうまでさせているのだろうか。真人は背筋が寒くなるのを抑え切れなかった。

「兄さん! もうやめて!」さつきが叫んだ。「お母さんが私に会いたがってるなら、会いに行くから! だからお願い。これ以上やる意味なんて、どこにもないでしょう?」

「兄さん、か……」くくく、と声を忍ばせて辰巳は笑った。「その響き、マジで久しぶりだ。さつき、お前が記憶を取り戻してくれたのは嬉しいけどな、残念ながら、まだ戦う理由はあるんだぜ? それもオレにじゃなくて、そこのガキのほうにな」

 ぎろり、と辰巳は真人をにらみつけてくる。

「おい、ガキ。まさかこれで満足だとか言わねえよな。てめえの親父を殺した野郎に対して、蹴りを一発くれてやっただけで満足だなんて、そんなヘタレなこと言わねえよなあ?」

「……それは」

 何故今、そんなことを。

 忘れていたわけではない。忘れられるわけがない。この男が、あの一言を口にした時の衝撃。今だって、この男をめちゃくちゃに殺してやりたいという衝動は確かに真人の中に存在している。だけど――

「……まさと」

「うん。分かってるよ、さつきちゃん」

 そう。もっと大事なものが、ここにあるじゃないか。

「辰巳……さん。あんたが何を考えてそんなことを言うのか、分からないけどさ。俺も、いい加減わかりつつあるんだ。何故親父がいつも自分のことを『吸血鬼』だなんて言っていたか。どうしてあの頃の俺が、OH検査という名目で毎月採血をうけていたか――」

「おいおい、きれい事抜かしてんじゃねえぞ。てめえがオレを許せるワケがねえ。忘れてねえよなあ? オレがヤったのはなあ、秀彰だけじゃねえぞ。さつきを保護していた佐宮塔子も殺したし、たった今あのキザ野郎も殺した。そこに倒れてる、てめえらの友達だとかいう女にも手を出した。そんなオレを、許すってのか? オレが大手振ってお天道様の下を歩いてて平気だって言うのか、てめえらはよぉ!」

「……だから。警察へ行こうよ、兄さん」

 さつきの声は、悲しみにあふれていた。

「塔子さん――いえ、姉さんのことなら、もう私、なんとなく分かったから。姉さん、疲れてたんだね。ずっと私にウソついて、ずっと本当のことを隠して生きていくのが。それと、天野の人間と一緒に暮らすっていうことにさ。何かの間違いで私の血とかに触れちゃうと、それだけで命が危ないんだもんね。だからもう……限界だったんだ。私たちのところに兄さんが来て、もう私の過去のことを隠しきれないって思っちゃったから……だから、あんなことをしたんだよね」

「塔子さん」と一度言ったところを、あえて「姉さん」と言い直した。さつきが記憶を取り戻したからといって、塔子との日々が嘘になってしまったわけではないのだ。

「警察だと……? やっぱり何にも分かっちゃいねえな、てめえらは。警察の連中は、天野の血のことを知ってやがる。オレに手出しは出来ねえ。その証拠に、今日だってそのキザ野郎が一人で――」

 辰巳の目が大きく見開かれた。倒れ伏して絶命しているはずの、慶のほうに目を向けた瞬間である。

 誰も気付いていなかった。慶が上半身を起こし、残り一本となった腕で拳銃を構えて辰巳に狙いを定めている。

「そうです、ね……あなたの、言う通りです。だから、あなた、は……ここで、死ぬんですよ。子供、たち、の、人生、を……もて、あそんだ……だいしょ、うと、して……」

 真人にうけたダメージのせいで、辰巳は動けない。

「やめてえぇぇ!」

 さつきが悲痛な叫びを上げたのと、ほぼ同時。一回、二回、三回、と銃声が響いて、その度に、辰巳の腹に穴があいた。

「う、ぐ……っ!」

 ごぽっ、という空気のもれ出るような音がして、大量の血が辰巳の口から吐き出された。

「兄さん!」

 ひざをついた辰巳を、さつきが抱き起こす。慶は再び倒れこんで、もう動かない。

「く、そ……あんな、野郎に、オレが、殺される、なんて……」

「兄さん、もうしゃべらないで! 近くに警察の人が待機してるんだったら、きっと救急車も……」

 理佳は少し離れた位置に倒れている。彼女に辰巳の血がかからないようにしないと――なんて、冷静に考えている自分が、真人は少し嫌になった。

 辰巳は大きく息を吸い込んで、叫んだ。

「ちくしょう! 何が宿命だ! 何が天野の血だ! そんなくだらねえモンのせいで、なんでオレの家族がバラバラになんなきゃいけねえんだよ!」

 魂の叫び。これこそがそうなのだと、真人は思った。

「……おい、秀彰のガキ。てめえと……あと、銀ガキにも言っとけ……」

 銀ガキ――ひょっとすると、聖司のことだろうか。まだ辰巳の目が見えているのかどうか分からなかったが、喉が詰まって声を出せなかったので、真人は黙ってうなずいた。

「……オレの、妹たちを、泣かせたら……承知、しねえ……ぞ……」

 言い終わるのと同時に、がくりと辰巳の全身から力が抜けた。その後もさつきは何度も「兄さん」呼びかけたが、それに辰巳が応えることはもう二度とない。

 まだ温かい亡骸を抱きしめて、さつきは泣く。

 真人はどうしていいのか分からない。せっかく彼女が記憶を取り戻してくれたと思ったら、その途端にこの仕打ち。――何なんだ。俺たちの道は、絶対にうまくいかないようにできているのか?

「……ん?」

 そのとき、不意に何かが聞こえた。

 誰かの声――いや、声ではない。何だろう――と思っていると、いきなり猛烈な眠気が襲ってきた。

「え……? なんだ、これ……」

 全身から力が抜ける。立っていられなくて、真人はひざをついた。

「さつき、ちゃん……」

「まさと……なに、これ……」

 かすかに聞こえるさつきの声もうつろだ。やがて二人は、辰巳の亡骸と重なり合うようにして、どさりと地面に倒れた。

 まぶたが異様に重い。だけど今目を閉じたら確実に一瞬で眠りに落ちてしまう。必死にこらえていた真人の耳に、今度はちゃんと聞き取れる人の声が届いた。

「辰巳さん……本当に、あれが最後になっちゃったんですね」

 春の小川のよう、という表現がしっくりくるだろうか。信じられないほど澄み切った女の子の声だったが、真人に伝わってくるのは言い知れぬ悲しみである。

「やったのはあなた? ……いえ、違うか。というか、そんなの気にしちゃだめよね。……ああもう、泣くのもダメ。しっかりしなさい、悠理」

 女の子の気配が、そっと真人の耳に近付いてきた。

「ごめんなさい。あなたのお姫様は頂いていくわ。でも、心配しないで。またすぐに会えるから。引き離される悲しみは、私も十分に知っているつもりよ」

 まるで子守唄のよう、おだやかに真人の脳裏に響く少女の声。

 真人は意識を失った。








ゴールドアームの感想

 ゴールドアームです。
 
 なんか、話がいい感じで動いてきましたね。ちょっと重めの話ですが、いわゆる超能力モノというより、青春ドラマの趣があります。
 読んでみて少々判りにくいところがあるかな、とは感じましたが、これはまあ仕方がないかもしれません。上手い下手というより、描写の限界というやつもありますので。詳しく書きすぎると文章の流れが止まりますからね。
 一気に読ませる勢いはあると思うので、後は誤字脱字に気をつけてください。一カ所明らかに人の名前が間違っていたところがありましたので(自分で自分を殴っていました)。
 欠点でない欠点をあげるとすると、ここまで読んで感じましたが、現段階では舞台とテーマが不適合を起こしているところでしょうか。
 超能力的なモノでありながら、『家系の宿命』以外の要素に超能力が超能力である必然性が薄いのがちょっと引っかかっています。今の展開とテーマですと、二つの家の確執の源がOHという能力である必然性がない気がしてしまいましたので。以後の伏線になっている可能性もあるのでこの段階で言うのは本当はおかしいんですが、ちょっとそこが気になりましたので。
 こんなことはまあ世の中の物語にはよくあることなんですけど、OHと家系の設定が、単にギミック扱いにするには重く、ストーリーの中の比率としては軽いという、中途半端なイメージを受けてしまっているので、あえて書きました。
 逆に言うとこの辺が上手く消化されると、そのお話は良作から傑作へとレベルアップします。新人賞なら佳作と大賞の壁とでも言いましょうか。
 本当によくできた話というのは、『なんでこんなことが』と思っていたような事項が、話が収束するにつれてピタリピタリとジグソーパズルを埋めるようにあるべき所に収まっていくのです。で、物語が完結したとき、全ての伏線が回収され、設定された事項にすべからく意味があることが判るのです。
 私にだってここまでの話は書けるものではありませんが、過去幾作か、そういう物語に出会ったことはあります。良作の推理小説は物語の構造上この傾向が強いですが、一般小説でこれに出会うと本当に感動します。読後感が違いますからね。

 ちなみにこれを意識する場合、『代替がきかない』というのが設定のポイントになります。必然性と言い換えてもいいでしょう。作者にはどんな無茶な設定でもする権限がありますが、権利に義務が付随するように設定には必然性が付随します。
 逆に言うとどんなむちゃくちゃな設定(銀髪紫眼で万能超人のモテモテとか)でも、そこに必然性があることを読者に納得させることができれば、それはアリなのです。
 この話についてはもう先もできているでしょうから何も言えませんが、是非とも最終話で驚かせていただけることを期待します。
 では、頑張ってください。ゴールドアームでした。