ニ 天野 さつき


―――どうしてなんだろう。

 それがはじめに起こったのは、四歳の時。構ってくれなかった、いや、自分の事を見ようともしなかった母親の代わりに自分を育ててくれた、優しい人。今なら分かるけど、それはきっと、乳母と呼ばれる人だったんだと思う。父親は何か変だとか、母親が自分に優しくしてくれないとか、そんな事はどうでもよかった。その人の温かい笑顔さえあれば、他に何も要らなかった。私は、十分幸せだったと思う。
 ―――なのに。酷い父親のせいで、その人はどこかへ行ってしまった。

 六歳の時。初等教育というもののために雇われた、家庭教師の先生。何も知らなかった私に、その人は勉強だけではなく、世界の素晴らしさを教えてくれた。世の中に居るのは、美しいものがたくさんあるんだって。優しい人もたくさん居るんだって。そのおかげで、私も外の世界に出てみたいと思うようになった。ただ漠然と怖いところだと思っていた外が、光に溢れた希望の世界に変貌していた。いつか君をそこへ連れ出してあげる、とその人は約束してくれた。
 ―――なのに。やっぱり父親のせいで、ある日を境に、その人は二度と私の前に現れなかった。
  
 それから。可愛がっていた、犬も。仲の良かった、お手伝いの女の子も。
 ―――そして、昨日。師と呼んだ、あの人さえも。
 みんな、居なくなってしまう。突然、私の前から姿を消してしまう。そんなのおかしい。どうして私がそんな目に遭わないといけないのか。どうして、私だけが―――

「……ああもう、うるさい!」
 パシッ、と両手で頬を叩いて、雑念を振り払う。私は、今から命を賭した戦いに臨まなくてはいけないのだから。そんな過去のことなんて、捨てるべきだ。
 覚悟は出来ている。今日一日、いろんなものとお別れしてきた。今までの日常。見慣れた、この町の景色。いつの間にか居心地のいい場所になっていた学校と、それを形作っていた、友人たち。
 ……そして。最後までろくに話すことも出来なかった、あの人にも。結局あの人が自分にとってどういう存在だったのか、最後まで分からなかったけど。でも、もういいんだ。きっとそれらは、今日を境に、もう二度と、私に関わりを持つことはなくなるんだから。
 未練はない。どうせみんな、いつかはまた、私の前から居なくなるんだから。だから、今回は、私の方から居なくなるだけ。
 失うことには慣れている。哀しみは消した。死ぬのが怖いハズはない。私には、もう何もないのだから。だから、私はきっと、負けない。塔子が負けたというのは、きっと何かの間違いだったに違いない。だって、彼女がまともにやって負けるところなんて、想像すらできない。それほど、あの人は優れた「守護者」だった。
 だから、その弟子である私が、後を継がないと。協会からは待機を命じられたけど、そんなの関係ない。だって、塔子は言っていた。あなたにはもう教える事はない、と。あとは経験だけだ、と。そんなもの、知識で補える。私はもう、立派な「守護者」だ。
 窓の外を見ると、辺りはもう、すっかり暗くなっていた。どうやら、随分と準備に時間が掛かってしまったらしい。……しかし、それはむしろ好都合だろう。人通りが少なくなる夜間の方が、一目に付きにくい。
 コートを着込んで、塔子が私のために残してくれた、唯一の武器を手に携える。元々は塔子の師のものであったというこの剣の名前は、イングラム。目立たない様に布で包まれたそれは、何だかいつもよりずっしりと重たく感じられた。

 ―――さて。外に出たところで、早速問題にぶち当たってしまった。気配を探ってみたけど、何の反応も感じないのだ。探り方が甘い、ということは無いと思う。自分で言うのも何だけど、魔力の探索には自信があるから。
 もうこの町に居ないのかも、という選択肢は却下。まだ居るに決まってる。この私が、探しているんだから。それを放ってどこかに行ってしまう奴なんてのが居たら、それこそ許さない。
 ともかく、ということは可能性としては二つ。遠くからでは気配も感じないほどの小物か、それとも完全に気配を消すことが出来る超大物か。でも後者だった場合、きっと私だけでは対処できないから、そっちは考えないことにする。残る選択肢は一つだから――つまり、気配を探りながら適当に歩いてみるしかないって事か。なんか計画性が無くて嫌だけど、今はこれしか方法がない。とりあえず、あたって砕けろ。夜の街を、一人闊歩する。
  
 まず手始めに、うちの近所。反応なし。
 次に、学校付近。―――ダメか。ここも反応なし。
 続いて、商店街。……おかしいなあ。また反応なし、か。
 気を取り直して、市街地。……なんで。全く反応がないなんて、どういうコトなの。
 焦るような気持ちで、路地裏。………………反応、なし。
  
「―――はぁ……」
 川辺に出たところで、思わずため息が出た。もう二時間は経っただろうか。まさか、これだけ探して何の手がかりも得られないなんて、さすがに予想外。
 ……なんか、気合が削がれてしまった。ちょっと休憩。ちょうどいい具合にベンチがあるし。
「――――っ」
 腰を下ろした途端、頭痛が走った。探索開始から、約二時間。ずっと集中しっぱなしってのは、さすがに無理があったのかも。
 ふう、ともう一度ため息をついて、星でも眺めようかと天を仰いでみた。
「……あれ。今日って、満月だったんだ」
 夜空を見上げた視界の片隅に、西の空に浮かぶ真ん丸い黄金が映った。そんな事に今更気付くなんて、どうやら自分は、よっぽど切迫していたらしい。
 ―――ふと、思い出した。いつだったか、塔子と一緒に、こうして月を見上げた事があった。あの時、塔子と何を話したんだっけ。
 そうだ。塔子は確か、「月って綺麗だけど、私の方がきっと綺麗よね」とか、そんな馬鹿らしい事を言っていたと思う。それで、そんなの自分でいう事じゃない、と嗜めてやろうと口を開きかけたけど、月明かりに照らされた彼女の姿は本当に綺麗で、何も言えなかったのだった様な気がする。
 少しずつ、思い出してきた。私がどんな顔をしていたのかは分からないけど、何も言わない私を見て、彼女は
「羨ましい? でも、あなたもきっと、今に綺麗になるわよ」
 確か、そんな事を言った。ホント? と、思わず嬉しくなって聞き返すと、
「そりゃあそうよ。だって、私の弟子なんだもん」
 とか、何だかよく分からない答えが返ってきた。何よそれ、と思わず私はむっとしたけど、そんな私の頭を、彼女は優しく撫でてこう言った。
「まあ、恋の一つも知らないうちから綺麗になろうったって、無理よ。女が一番輝く時ってのはね、恋をしている時なの」
 そう言われて、真っ先に頭に浮かんだものがあった。一度しか会った事のなかった、あの人の姿。どうして、恋と言われて、真っ先にそれが浮かんだのか。その理由を考えると、ボッと、顔が熱くなったのを覚えている。
「ん、どうかした?」と訊かれて、初めてその事を彼女に話してみた。一度だけ会っただけなのに、忘れられないのだ、と。話した内容まで、全て鮮明に思い出せるのだ、と。
 黙って私の話を聞く彼女に、これは恋なのかな、と尋ねてみた。すると、「それは自分で考えなさい」とか、そういう類の言葉が返って来たと思う。

「………」
 それに、私がどういう反応をしたのか。そもそも、それがいつ頃の話だったのか。それ以上、どうしても思い出せなかった。
 それは、いつもと何も変わらない、なんでもない出来事だった。私と彼女のやり取りは、いつもこう。彼女がおどけて、私がむっとする。それで、逆に私が嗜められる。いつも、そんな繰り返しだった。
 ―――だけど、それはもう、全部過去の出来事だ。
「………」
 つ、と頬を涙が伝った。
 楽し「かった」。幸せ「だった」。それはもう、目の前には存在しない、思い出だけのもの。
 そんなの、嫌だ。あまりにも突然すぎる。まだまだ、これからも、もっと、塔子と―――
「随分と無防備なんだなあ、「守護者」って奴は」
「―――っ?!」
 その声は、耳の傍で言われたのかと思うほど、近くで聞こえた気がした。
 慌てて、涙で霞んだ目を擦る。そうして振り返った自分の目が映し出したのは、十メートル程離れた位置に立っている、一人の男の姿だった。
「うそ―――何の気配も、感じなかったのに……」
 何の魔力も感じさせないそれは、しかし一目で「イレギュラー」だと判るものだった。でもおかしい。確かに、私は感傷に浸ってしまっていたかも知れない。でも、ここまで接近されて何も感じないほど、私の感覚は間抜けではないはずだ。
 じっと、男の姿を注視する。目を引くのは、その肩に担がれた、身の丈程もある大剣。普通の人間ではあんなのを振り回す、いや、持ち歩く事すら不可能だろう。でも、魔力が使えれば、話は別だ。あの男ぐらいの体格があれば、造作も無く出来る事だろう。
 ……だけど。いや、だからこそ、か。とにかく、目の前のあれは異常だ。だって、こうして正面から対峙しているのに、ひと欠片の魔力すら、あれには感じられないのだから。
「おっ、よく見りゃあ、なかなか可愛いお嬢ちゃんじゃねえか。嬉しいねえ、やっぱ、獲物はこうでないと」
 その、全身を舐め回すような視線に、悪寒が走った。
 全く魔力を放っていないその姿は、しかし、何かまた別の、異様なものを感じさせる。そもそも、あんな物を持っている時点で、あれが何の力も持っていないなどという事は有り得ない。
 ―――なら。さっきの選択肢は、後者こそ正解だったという事に、なってしまうのではないか。
 どうすればいいのか。正体が分からない異常、闇雲に斬り掛かるのは余りにも危険すぎる。でも、私の武器はこの布に包まれた剣一本だけ。斬り掛からない事にはどうしようもない。……拙い。これって、もしかして、追い込まれている、というやつだろうか。頭が回らない。次に何をすればいいのか、何も、思い付かない―――
「俺、ついてるなよあ。昨日の姉ちゃんといい、二日続けて最高の獲物にありつけるなんてな」
 ―――しかし。その男の言葉で、迷いは吹き飛んだ。
 そうだ。迷う事などありはしない。言われる前から分かっていたではないか。あの大剣。あれが、塔子の体を両断した、凶器に違いない。あれは、あの男は、塔子を殺した、私の仇なのだから。
「ほら、ビビってないで、来いよ。相手、してくれるんだろ?」
 それは違う。恐怖なんてものは、とっくに消えた。私の力は揺るがない。そもそも、私の心を定義付けるのは「恐れない事」。恐怖など、最初から、存在していないのだ。
「―――――」
 自分を奮い立たせるように。一度だけ、大きく息を吸い込む。
 
 そうして地面を蹴った。それに斬りかかる為に。私から塔子を奪った、憎しみの対象を、殺すために。
 あるいは、自分にとってそれは死への疾走となるのかも知れない。でも、恐れはしない。私にはもう、失うものなどありはしないのだから。


代理人の感想

・・・・・・・・・・・・・・む。

なんとなくこの構成、「ブギーポップ」っぽいですねぇ。

その通りだとすると、終わってみなければ感想なんか書けない訳で。

ついでに言うと、通し読みしないと余り面白くない可能性も高いわけで。

 

 

・・・・さて、どうしよう。w