三 春樹 真人

  
 ……体が動かない。全身が硬直している。
 考えてみれば、こうして、常識外の戦いを目の当たりにするのは、初めてかも知れない。目の前で起こっている事なのに、それはまるで、異次元の出来事かのようだった。
 自分を振り向かせた音というのは、紛れも無く、剣と剣がぶつかる音。自分の知っている少女が、見知らぬ男に斬り掛かった音だった。
 その初撃は、造作も無く、弾かれたらしい。男が手にしているのは、見た事もない様な、盾かと見間違う程に巨大な、大剣。少女が手にした黒い剣は、それによって、いとも簡単に弾き返された。
 すぐに二撃目が振るわれた。しかし、それもまた、大剣だけを叩いて、弾き返されるだけだった。
 剣戟が弾かれては一旦退き、また斬り掛かる。それが幾度と無く繰り返された。彼女のその動きは、自分では目で追うのがやっとの疾さだ。明らかに、常軌を逸している。
 それでも、男は全く動じない。何度それが繰り返されようと、その剣戟は悉く男の大剣に弾き返され、静かな川辺に甲高い音を響き渡らせるだけだった。
 大剣は、まだ一度も振るわれていない。男はただ、ニヤニヤしながら、彼女の動きに合わせて、剣を弾くだけ。つまり、彼女の攻撃は、一方的に攻めているにも関わらず、何一つ効果を示していないという事だ。

 俺は、草むらに身を隠して、その様子を食い入る様に見つめていた。
 一体、何故そんなものを見ているのか。いつまで、こんな所に居るつもりなのか。自分でもよく分からない。
 きっと、今すぐ逃げるべきだ。気付かれる前に、早く逃げるべきなのだろう。でないと、死ぬ。あの男に襲われたなら、俺では抵抗など出来はしない。何も出来ず、ただ殺されるだけ。それが分かっているのなら、何故逃げないのか。
 今の自分が矛盾しているなんて、そんな事とっくに分かっている。しかし、この体は、一向に動いてくれそうもなかった。
 この異次元の戦いの結末は、すでに明らかだ。攻めているのは、自分が見知っていたはずの少女。だが決して、彼女が優勢なのではない。男の方に、攻める気がないだけ。彼女が何度走っても、何度剣を振るっても、それは自分の体力を奪っていくのみで、何の効果も示してない。男には、何の焦りも戸惑いも見受けられない。ただ、その表情に、少しずつ落胆に似た色が濃くなってきているだけだ。
 きっと、男がこれに飽きれば、そこで戦いは終わる。きっと男は、何の感情も持たないまま、彼女を無残に斬り殺すのだ。それ以外の結末など、これを見る限り、自分には想像も出来ない。
 ―――恐らく、彼女自身も、既に悟っているだろう。自分では、この男には敵わない、と。なら、彼女は何故こんな事を続けているのだろうか。
 考えるまでもない。それは、その表情を見れば明らかだ。
 苦しげに息を乱し、肩で呼吸をしつつ、それでも男を睨みつける、その瞳。月光に照らし出された、綺麗な筈のその姿を歪ませているのは、間違いなく、憎しみだ。
 今、彼女を突き動かしているのは、「守護者」である事の使命感などではない。彼女はただ、塔子さんという、自分の最も大切な存在を奪った相手が許せないだけだ。だから、敵わないと悟りつつも、ただ己の命じるままに、男に襲いかかっているのだ。
 ならばきっと、それは止まらない。彼女は、その命がある限り、それを止めないだろう。塔子さんが彼女の全てだったと言うのなら、今の彼女には何もない。ならば、死を恐れる事など、あるはずがない。
「――――」
 思わず歯を噛み締めた。つまりは、自分は、彼女を見殺しにしようとしているのだ。
「なんだよ。期待外れだな」
 その時だ。段々と失望の色を濃くしていた男から、そんな声が発された。……それは、彼女にとって、死の宣告となるに違いなかった。
 ゆっくりと。一度も構えなかった男が、大剣を掲げる。
「もういい。死ねよ」
 ついに振るわれた男のそれは、まさに雷。ぶつかる剣と剣が火花を散らし、暗闇が一瞬照らされる。轟いた雷鳴じみた音は、今までのものとは明らかに質が違っていた。
 ―――瞬間。彼女は飛んでいた。
 否。人間の許容量を超えた衝撃に、まるで蹴り飛ばされたボールの様に吹き飛んだのだ。
「う―――ァ……」
 どさりと地面に落ちた彼女が、苦しげに声を漏らした。
 もう動けないに違いない。吹き飛ばされる程の衝撃をうけて、無事な筈がない。
 これで、彼女の戦いは終わり。まだ彼女が生きているだけでも幸運、いや、奇跡と言うべきかも知れない。あの黒い剣がなければ、彼女はすでに、その師と同じ様に、その体を二分されていただろう。
「へぇ、まだ折れないなんて。いい剣だな、それ」
 だが、それもここまで。もう戦いは終わったのだから、例えどんな奇跡だろうと、その結末を覆せはしない。もしその可能性があるとすれば、不確定要素の発生、つまりは予想に含まれない第三者に拠るものにしかあり得ない。
「まあ、もう関係ないけどな。こんどこそ、だ」
「う――く……っ」
 彼女は立ち上がることも出来ない。その命は、次の一撃で、確実に失われるだろう。
 ―――そう。死ぬ。あの剣が振り下ろされれば、彼女は死ぬ。そんなの、ダメだ。
「………」
 違う。止めろ。そんな事をすれば、自分が死ぬ。自分が死んだ後、やっぱり彼女も殺されるだけ。そんなの無駄死にだ。そもそも自分は死にたくない。止めてくれ。死にたくないに――――

 ―――強く、優しく生きなさい。

 こんな時でも、俺は、その言葉に従おうというのか。

「じゃあな。悪いけど、お前との一時はちっとも楽しくなかったよ」
 男の剣が、振り上げられる。それと、
「うわぁぁァァァッ!」
 俺が叫びながら飛び出したのは、ほぼ同時だったと思う。
「なっ――」
 思わず剣を止め、驚きの声を発する男。突然の第三者の登場は、さすがに男も予想外だったらしい。
 ―――その隙に。
「天野……!」
 飛び出したそのままの勢いで、彼女を跳ね飛ばした―――
「―――え?」
 その瞬間。どさり、と、俺の体は、地面に倒れこんだ。
「……バカが。大人しく隠れていれば、わざわざ殺す理由もなかったのによ」
 男が迫って来る。逃げないといけない。けど、何故だか体が動かない。鮮血が、アスファルトを赤く染めていく。
 ―――血? 誰のだ。天野はちゃんと目の前に居て、確かに痛々しい姿だけど、出血はしていないと思う。大剣の男のものである筈がない。あいつは全く傷ついてなどいないし、そもそもあれに普通の血が流れているのかどうかも分からない。なら、一体誰の―――
「う、そ……春樹、くん……?」
 彼女が、その名前を、途切れ途切れに漏らした。
 ―――ああ、そうか。ここには、もう一人、人間が居たじゃないか。
 つまり、この血は、俺の。春樹真人が、流したものなのか。
 それに気が付いて、ようやく自分の状況が理解できた。天野と男との間に割って入った俺は、大剣の男に、恐らく背中から斬り付けられて、倒れ伏しているのだ。
「まったく、余計なことさせやがって。俺はな、殺しを邪魔されるのが、一番嫌いなんだよ。そのまま、死んでろ」
 男が何か言っているようだが、よく聞こえない。
 不思議と、痛みはあまり感じない。脊髄が断ち切られたせいなのか、或いはもうそれを感じる必要がないからなのか。ただ、寒い。地面の赤い染みが広がる度に、体が冷えていく。そして、眠い。意識が、段々と闇に落ちて行く。
 どうやら、聴覚が閉ざされているらしい。目には、少女が、何かを必死に叫んでいる姿が映っているが、何も聞こえない。
 バカ―――早く逃げろよ。
 そう言いたかったけど、口が動かなかった。視界が、ゆっくりと、黒く塗りつぶされていく。
 これは、眠りに落ちて行くのとは、何か違う。ここで寝たら、二度と目を覚ませない様な気がする。……二度と目を覚まさないなら、それは―――
 ―――何だ、そういう事か。俺、死ぬのか。
 何だか、あっさりと受け入れた。
 死ぬ間際には、思い出が走馬灯の様に駆け巡るとか言うけど、そんな事はちっともない。きっと、突然すぎたんだと思う。自分が死ぬ、と受け入れている割には、現実感がない。
 まるで人事の様だな、と思った。なら、それでいい。恐怖を感じなくて済むなら、それに越した事はないだろう。
 ―――でも、天野が、心配だな。
 そう思ったのが、最後。意識は、そこで途絶えた。




 

代理人の感想

えー、完結の後で。