九  天野 さつき

 セイジから教えてもらった「「悪」を感じる方法」というのは、信じられないほど私に馴染んでいるようだった。
 何しろ、あの夜は目の前の気配さえ感じ取ることが出来なかったというのに、きっと今では何十キロ先の気配の動きすら感じ取ることが出来ると思う。
 うまく行き過ぎて、なんだかちょっと気持ちが悪い。

 気持ちが悪いので、とりあえず、右腕に着けられたこの増幅装置のおかげだろうという事にしておきたい。
 実際、半分以上はそうなんだと思う。
 流石は、現行のもので最高級だというだけはある。こんな使いやすくて絶大な効果をもたらす装置なんて、今まで見たこともなかった。私の知っているこういう装置というのは、大した効果もなくて、その上使用者に対して必要以上の負荷がかかるという、あんまり良いイメージの物ではなかった。
 でもこれはというと、それはもう自分の知っているものとはまるで正反対。その効果ときたら、気配を探るという事を通り越して、意識を飛ばして直接目で探っているのではないかという錯覚に陥るほど。それでいて、疲れはむしろ何も使っていない時より軽いぐらい。何だかここに来てから驚かされてばかりなのはシャクだけど、さすがにこれは驚かずにはいられなかった。

 とにかく、その方法とこの装置のおかげで、難しいと思われた私の役目は意外なほどはかどった。だって、セイジが幾らやってもダメだったというそれを、私はたったの一週間(春樹くんには一日遅れちゃったけど)で果たしてしまったのだから。

 で、意外と言っていいのか予想通りと言っていいのか分からないその結果を伝えようと庭に出た時、あれを見た。どういう事か、私はあれを、どんな宝石よりも綺麗だと思いつつ、自分とは決して相容れぬものだと心の奥底で感じていた。いとおしくて欲しいと思うのに、眩しくて怖くて手を伸ばせない、そんな矛盾。
 
 どうしてなのかは分からない。
 とにかく、それが消えたのに気付いて気を取り直し、私が出したその結果を伝えると、セイジはいきなり「町に出るぞ」とか言い出した。直接町に行って、近くからその場所の気配を探すのだと言う。またあの夜みたいに抱えられるのかとちょっと身構えたけど、昼間からあんな目立つ真似は出来ないというので、普通っぽくタクシーで行くことになった。
 
 ……いや、高校生がこんなにも気軽にタクシーを使えるというのも、それはそれで普通じゃないっぽいけど、何故かセイジはお金を持っているので、それはよしとするしかない。
  
 そうして、町に出ての探索が始まった。一回目のその日は何も収穫なし。お喋りしながら町を歩き回るだけになってしまった。一週間ほど間の抜けた生活が続いて、それがやっと終わったと思ったらまたこれだ。何か全然危機感がなくて、ほんとに世界を救う気あるのセイジと隣で笑う少年に言いたくなるけど、正直これはこれで楽しいし、まあいっか、という気分にもなってしまう。
 
 その次の日、いきなり事件は起こった。昼間は全く前日と同じだったけど、夜になってから、セイジが「モノ」と呼ぶ敵に遭遇したのだ。

 遭遇したと言っても、それがそこに居るのは最初から分かっていたのだから、そう言うとちょっと語弊があるかも知れない。
 放っておいても慶が勝手に片付けるのかも知れなかったけど(そういえばあいつは何をしてるんだろう。セイジの力は相当に目立つからすぐにでも寄ってきそうなものなのに)セイジが自分たちで倒すのだと強引に主張するので仕方なく私たちはそれに従っただけだ。

 まあ、セイジがやれば何の問題もなく倒せるのだろうし、どっちにしても大した事にはならない、はずだった。
 けど、実際そいつの近くに行ってから口にしたセイジの台詞を聞いたとき、思わず「何考えてんのよ」と叫んでしまった。ほんっとに考えてんのか分からないそいつが、「真人、お前がやれ」とか言い出したから、頭に来てしまったのだ。そんなの無理に決まってる。いくら魔力が使えるようになったとは言え、彼はまだ実戦経験も何もない、素人同然の情けない奴なんだから。いきなり、あんなのを相手に出来るわけがない。

 だけど、そうやって必死に反論している私を遮って、春樹くんは
「天野。悪いけどそれ貸してくれないか」
 とか言った。それが私の手にした剣――イングラムの事を言っているのだと気がつくのに、しばらくかかってしまった。

「俺たちは、あいつ等の親玉と戦おうってんだろ? ならせめて、あいつには一対一で勝てるようにならないと。大丈夫、なんだかんだ言っても、危なくなったら聖司が助けてくれるんだろうしさ。それに、俺にはこいつもあるんだし」
 かすかに恐怖の翳りが見えるその表情で、しかし確かな決意を込めた声で、左手につけた籠手を見せつつ彼は言う。

 私は、何も言い返せなかった。黙って差し出したその剣を私の手から受け取り、そうして一人で敵に向かっていく彼。それを見て思わず不安になり、その背中に「春樹くん―――」と声を掛けたが、届かなかった。
 代わりに隣から、
「大丈夫だ。あいつを「信じて」やれ。男の無事を「信じて」待つのが女の役目だろ」
 とそんな声が聞こえてきた。思わず「じゃあ、あんたは何なのよ」と言い返すと、「オレは導くんだよ」と、そんな答えが返って来た。


 その後、気配を潜めて陰から見ていた私達の前で、散々に傷つきながらも、なんと彼は一人で敵を決定的なところまで追い詰めてしまった。けど、敵の体勢を崩し、得物を弾いて、次の一撃で首を跳ねるのだというところで、彼の剣は止まった。
 私の隣で息を潜めていた少年は、矢の様な速度でそこへと駆け出した。慌てて、私もその後を追った。

「それはもう人ではないモノ。躊躇うな。躊躇いとは、きっとお前にとってそのモノ以上に強敵だ。だからそれに勝て。勝たなければ、それに殺されるぞ」
 私が追いついた時、少年は震える手で黒い剣を握ったもう一人の少年にそんな言葉を掛けていた。その声に呼応するかのように、彼は「うわあぁぁァァァ!」とあの夜突然聞こえたあの声と同じ様に叫び、行動不能に陥っている目の前のモノの首を断ち切っていた。

 ごろんと転げ落ちるモノの首。すぐに朽ちて砂の様になっていくそれを、彼はしばらく呆然と眺めた後、しかし自分がそれをやったのだという事に耐え切れなくなったのか、その場にしゃがみ込んで嘔吐した。
 彼を介抱しながら、私は思わず傍らに立つ少年を睨んだ。そうしながら「何考えてるのよ」とさっきと同じ様な事を言っていたと思う。
 でも、しゃがみ込んでいたもう一人の少年は、俯いたまま「いいんだ天野」とまたさっきと同じ様に私の言葉を遮った。

「俺、二人の気持ちを少しでも分かりたかったんだ。殺す殺されるの覚悟が当たり前の様に出来てるのって、どんな気持ちなのかなって。それが分かれば、少しは俺も「情けない」男を卒業できるかなと思ってさ。だってもともとは俺、天野みたいな女の子が戦って傷ついてるのが許せなくて、この話しを請けたんだぞ。それなのに、その本人に「情けないわねぇ」って言われっぱなしじゃあ、格好つかないだろ。で、どうかな。これで少しは情けない奴を返上できたかな?」
 しゃがみ込んだまま、まだ傷が癒え切らないその姿で私を見上げた彼の顔は、これ以上ないほど青白く、やっぱり情けなかった。そんな顔でそんな事言われても、説得力なんてこれっぽっちもないはずなのに、何故か私の心はそれで一杯になった。

「……バカ。あんたなんて、一生情けない男のままに決まってるじゃない」
 ―――ほんと、バカ。こんな時にも素直になれない私って、嫌になるぐらいバカだ。



 で、その日屋敷に帰って冷静になってみれば、よく考えたらこのままじゃあ私が取り残されて「情けない奴」になってしまうじゃないか、と気が付いた。とは言えセイジに「稽古をつけてくれ」と頼むのは相当な抵抗があったから、
「ねえセイジ、私も何か欲しいんだけど。春樹くんにだけあんな凄いものをあげて、私には何のプレゼントも無しってのは不公平じゃない?」
 と、もっともらしい言い訳をつけて言ってみた。言ってから、そういえば増幅装置があったかと気が付いたけど、彼は意外にも快く「そうだな」と了承してくれた。

 かといって、彼が何か物をくれたかと言うと、そうでもない。その代わりに、彼は私にモノから「悪」を切り離す方法というのを授けてくれた。特殊な念を練りこんだ魔力をぶつけ、それによって「悪」をその体から弾き飛ばすという代物だ。じゃあ、これを使えばあれを人間に戻せるのかと言えば、そうではないらしい。
 そもそも人間の体では「悪」の負荷に耐え切れず、あのモノたちは、何だか矛盾している話だけど「悪」の力によって身体を維持しているのだという。死んだらああなってしまうのは「悪」の力が抜け落ちてしまうからで、この方法を使ってもその順番が逆になるだけで、結果は変わらないのだという。

 ちょっと呆れた。つまりはこれ、確実にあいつらを殺すための方法ということだ。
 まあでも、確かに直接ボカスカやり合うよりは私の性に合ってるかも知れない。対象は一体ずつで、しかも発動にニ、三分間の集中する時間が必要というのは気に入らないけど、あの大剣の男にすら勝てなかった私にとっては、以後これが主力となりそうだ。



 次の日からは、毎回モノと遭遇した。
 モノたちがこの町に集まっているということが、この町に何かあるという事を証明しているに違いないのだけど、なんでか肝心の「場所」の探索は全く進まなかった。
 ただ町を三人で歩き回り、襲ってくるモノたちを片付けるだけ。やっぱりセイジは手を出さなかったから、確かに春樹くんの実戦経験と私のその「方法」の実践相手にはなったかも知れないけど、こんな事やってるだけじゃあいつまでたっても終わらない。

 いい加減イライラしてきたその頃、「なあ聖司。こいつら一体何人居るんだ」と私も気になり始めていた事を代わりに彼が訊ねたことがあった。その質問にセイジは分からないと答えた。襲撃事件で行方不明になったのは百人弱。そのどれだけが残っているのかはさすがに彼も分からないのだそうだ。

 まあそれはしょうがないとして、まだ他にも疑問点が幾つかあったので、この際全部ぶつけることにした。
 このモノたちには、あまりにも不自然な点が多すぎる。そもそも、一体なにをしているのか。昼間は気配すら見せないのに夜になれば何処からともなく現れ、意志もなくただ私たちの魔力に惹かれて襲い掛かってくるだけ。何の意志も感じさせないそれらは、話に聞いた男――確か、黒瀬奏眞という名前だったか――の命令に従って動いているに違いない。ならこいつらも「門」を探しているに違いなく、自分たちを襲うのは妨害の為に他ならないだろう、とセイジは言った。

 言われてみれば確かにそうだけど、一体こいつら、どこから現れているのかという疑問もある。ああして人としての意識をなくしたモノ達には、人に紛れてその身を隠すなんて事も出来ないし、一体、昼間はどこにいるのだろう。
 それに対する答えは、かなり単純だった。あれらが「悪」に意識を呑まれるのは、その力を増長させる闇に辺りが包まれてから、つまりは夜になってからなんだそうで、昼間は最近「悪」にやたらと敏感になった私にでも感じられないほど、その気配は微弱なんだということだ。
 あと、モノたちがこれだけ居て、何故一般人に被害が出ないのかという疑問もあったけど、これは私たちの中で「慶のおかげだろう」ということで勝手に決着がついた。まあきっと、その通りだと思う。

 何か、他にも分からない事があった様な気がするけど、その時はそれ以上思いつかなかった。
 その時、もっと重要なことを幾つも見落としていることに気がつかなかったのは、私らしくない失敗だったと言わざるを得ない。


 そうして、また一週間が経った日。あまりにも「門」の探索が進まないので、セイジの提案で、二手に分かれて行動してみようという事になった。戦力バランスから言って、どういう組み合わせになったかは言うまでもないと思う。……そういうわけで、私は今、夕暮れの町を春樹くんと二人で歩かなければいけないという事になってしまっている。

 ……何となく、気まずい。
 この二週間、私は、彼と二人きりになる事を出来るだけ避けてきた。だって、どう接していいのか分からない。これまでは、塔子の「彼はもう一般人なんだから、出来るだけ私達とは関わらない様にしましょう」という言いつけを守って、彼の事を意図的に避けてきた。
 けど、内心では、彼にもっと近付きたかった。彼と、いろいろ話をしたかった。

 そこへ、いきなり事態が一転したものだから、頭がついていかないのは当然だ。四六時中、ずっと彼が私の近くに居るこの状況は、私にとって願ったり叶ったりのハズなんだけど……正直、戸惑いが大きすぎて、どうしていいのか分からない。正体の分からないこの想いを、持て余してしまっている。

 ちらり、と隣を歩く彼の横顔を盗み見る。
 初めて会ったあの日から、片時も忘れる事のなかった、彼の姿。不意に再会して以来、密かに遠くから見てきたこの人は、こうして近付いてみると、はじめはなんだかちょっと変で、情けなくて、幻滅した。でも、それは見せかけだけの話だ、と気付くのには、そんなに時間は掛からなかった。だって、本当の彼はやっぱり、思ってた通りの、強くて優しい人だったんだから。

「どうだ? 何か分かったか、天野―――って、何だ、どうしたんだよ」
 その横顔をじっと見つめていると、不意にばったり目が合ってしまって、
「な、何でもないっ! いいから、気にしないで!」
 慌てて目をそらす私の言葉は、やっぱり慌ててたと思う。

「―――? まあいいけど。何かあったら教えてくれよ。俺は「悪」の気配なんてさっぱり分からないんだしさ」
「わ、分かってるわよ、うるさいわね。あんたなんかに言われなくてもちゃんとやってるから心配しないでっ」
 ……今の、変に思われた――かな、やっぱり。
 ああもう、ダメ。別のこと考えよう。
 今は、他の目的があるんだから。こんなこと考えてる場合じゃない。もっとマジメにやらないと、世界が危ないというのに、私は―――

「あ」
 と。私が必死に平静と保とうとしていると、突然、彼は頓狂な声を出しだ。
「なに、どうしたの?」
「―――まずい。隠れろ、天野」
「いたっ……ちょっと、なにすんのよ!」
 思わず抗議の声を上げたが、彼は聞かない。いきなり彼が私の腕を掴んだかと思うと、ぐい、と私は乱暴に物陰へと連れ込まれた。

「何なのよ。まずいって、一体なにが―――」
「―――しっ! ばか、大きな声出すな。気付かれるだろ」
「えっ? あ―――」
 ―――ああ、そういう事か。
 すぐに、私は彼が何に気が付いたのか、理解した。
 彼の視線の先を通り過ぎていくのは、私達が通っていた制服を来た男子生徒。彼は、その姿を見て、とっさに身を隠したのだ。

「―――――」
 何も言わず、黙ってそちらへ視線を向ける彼の横顔を、じっと見つめる。

 そういえば、この一週間、知り合いと出くわした事は不思議と一度もなかった。いや、多分セイジがそれとなく気を遣って、そうならない様にしてくれていたんだと思う。

 だから、今日もそうするべきだった。こんな、モロに下校時間なこの時間帯に、こんな学校の近くに来れば、どちらかの知り合いに出くわすことになるのは当然の流れと言える。
 知り合いに出くわして何がまずいのか、と言われると、よく分からない。けど、何となく会いたくない気がする。それは、こうして身を隠しているのだから、きっと彼にとっても同じなのだと思う。

「……知り合い?」
「―――ああ。同じ組の奴だ」
 じっと、過ぎていく男子生徒から視線を逸らさない、傍の少年。

 ……そういえば、彼は、自分が今までの日常を離れている事をどう思っているのだろうか。一時的な事とは言え、それを何とも思っていないハズはない。
 そう思って、彼の横顔に視線を向けた、その時。彼の瞳に、哀しみに似た色が浮かんでいるのに気がついて、不意にある事を確かめたくなった。
 ……でも、それは口にしていい事なのだろうか。もし、帰って来た答えが自分の思っているものと違っていたのなら、自分は拒絶されたのだと分かってしまうのではないだろうか。
 「怖い」という気持ちと、「確かめたい」という気持ち。―――どうやら、今の私の中では、後者の方が強いようだった。



   十  春樹 真人

 思えば、いろいろな事がありすぎて。自分が置き去りにしたものを思い出す事を、忘れていた。
 
 なぜ身を隠したのか、自分でもよく分からない。
 目の前を通り過ぎていく少年たちとは取り立てて仲がよかったわけでもないし、別に自分は疚しい事をしているわけではない。見つかれば、なぜ学校を休んでいるのか、と聞かれるぐらいの事はあるかも知れないが、そんなの適当に言い訳すれば済む事だ。

 なのに、彼らに見つかってはいけないと。あの少年たちに以前と全く変わらないその声を掛けられれば、自分の心はぐら付いてしまうと、彼らを見た途端、本能的にそう悟っていた。
 だって、全てが無事に終わるとは限らない。いつかはそこに帰る事が出来るなんていう保証は、どこにも無いのだから。

 知り合いか、と隣の少女に問われて、そうだと答えた。まったく、おかしなことになっていると思う。傍には、遠くから見ていたあの少女が居て、いつも近くにいたあの少年達からは、こうやって隠れているのだ。考えれば考えるほど不思議でしょうがない。
 少女からその言葉が発せられたのは、そんな事を考えている時だった。まるで今の自分の気持ちをそのまま鏡に映したような、そんな問いかけ。

「―――後悔、してる?」
 それはひどく言葉が足りなかったけど、俺にはすぐに彼女が何を言っているのか分かった。この決断に――今までの日常を離れ、それとは違う世界に身を置く事にしたその決断に、後悔してはいないか、と。彼女は、そう言ったのだろう。

 ウソをついて、カッコつけることも出来たんだと思う。だけど、ここでそんな事をしてしまっては、いけない気がして。ありのまま、包み隠さず言葉にする事にした。

「……正直、少し」
 隣で、少女が驚いたように息を呑むのが分かった。それをかき消す様に、言葉を続ける。

「―――でもな。もしあのまま見ないフリをしてたら、多分、もっと後悔してたと思う。だから、俺はやってみることにしたんだ。きっと、それは間違ってはいなかったと思う。だってそうだろ? 天野が、あんなに傷ついてまで戦ってるんだ。それを放って元の生活に戻るなんて、そんな事が正しいなんて、男としてありえないだろ」

 彼女の前で口にするのは少し気恥ずかしかったけど、それが、今の自分の、本当の気持ちだった。
 正直に言うと、世界を守るということにはさっぱり実感が湧かない。けど、これは、父親の言葉に従い、自分の意志で決めた事。いくら心が揺れる光景を見せられようと、その根底にあるものが揺るがされることなんてない、と言い切れた。

「どうかな? これでいいか?」
 何を確かめたのかよく分からないけど、隣の少女に何となくそんな事を言ってみた。
「……うん。ありがとう」
「なんだよ。別に天野にお礼言われるような事、言ってないぞ」
「いいの。いいから、お礼を言わせて」

 ……何だか、彼女のこんな声は初めて聞いた。優しい、というか――むしろ、甘えるような声だ。

 視線は、さっきから重なったまま。
 クラスメイトたちは、もうとっくに通り過ぎている。なら、もうここに居る必要はないはずだけど、体はまるで金縛りに合ったかのように、全く動こうとはしなかった。

 夕日に照らされた彼女の姿は、いつも以上に、思わずドキリとしてしまうほどに綺麗だ。その瞳から、目が離せない。まるでそれに吸い込まれるように、俺の目はぴくりとも動かなくなってしまった。

 ……そのまま、どの位の時間が経ったのか。もしかして、これは見つめ合っているというやつなんだろうか、と気付き始めた頃。不意に、その場に間の抜けた音楽が鳴り響いて、ようやく金縛りは解けてくれた。聞き覚えのあるそれは、俺の携帯の着メロだという事に気付くのには、きっといつもより間を要したと思う。

「あ――すまん天野」
 何に謝っているのかよく分からなかったが、なんとなくそう言った。果たして、助かったのか、邪魔をされたのか。
 ―――邪魔? 何の。我ながらおかしな事を言う。変になっていた自分を引き戻してくれたのだから、この電話の相手には感謝するべきに決まっているではないか。

 外部ウインドウで確かめると、相手は聖司だった。パカリと開いて、ボタンを押す。
「―――おう。何かあったか」
『何かあったか、じゃねえよ。サボってるだろお前ら』
「え? サボってるって―――」  一瞬、何の事かよく分からなかった。で、彼が今の自分たちの状況の事を言っているのだと理解した途端に、自分の声が慌て始めるのが分かった。
「――い、いやこれは別にサボってるわけじゃ――って、お前なんでそんな事分かるんだ」
『んなもん、気配で簡単に分かるんだよ。まあ、お前らを組ませた意図の一つは当たってくれたらしいけど、それだけじゃ困るからな。しっかりやってくれよ』
 最後によく分からない事を言って、聖司からの電話は切れた。

「……ま、あいつがよく分からないのはいつもの事か」
 呟きながら、携帯を再びポケットに仕舞う。まあ、どうやら自分たちは世界を守るためにこうして動いているみたいだし、文句を言いたくなるのも分からないでもない、か。

「セイジから?」
「ん、ああ。何かよく分からなかったけど、とにかくサボるなって釘さされた」
「ふふ。そうね、じゃ、マジメにやろっか」

 彼女は、いつになく上機嫌。踊るように道に出ると、くるりと振り向いて、
「頼りにしてるわよ、情けない春樹くんっ!」
 極上の笑顔で、そんな、どうやら矛盾してるっぽい事を言ってきた。



 まあ、そんなこんなでやる気を出した俺達だったけど、何事もそう簡単にはいかない。結局その後も、何の進展もなく、どうでもいい事を話しながら、ただ町中を歩くだけになってしまった。

 その「どうでもいい事」の中で比較的どうでもよくなかったのが、
「天野。こんだけ探して何も見つからないんだから、やっぱりこの町じゃなかったんじゃないのか」
 という、薄々感じていた疑問を口にした所から始まった件だったと思う。

 彼女は「そんな事ない」と自信満々に答えた。
 探索開始から今日までの間、一応彼女は屋敷からの探索も続けて行っていたんだそうだ。で、そうして感じる様になったのが、「蓋をした隙間から漏れ出るような恐ろしい気配」。つまり、言うなれば何かに封印されている様な感じでその場所がハッキリ感じ取れないけど、それが聖司の言っていた「門」の気配に違いないと確信している、と彼女は言った。

 じゃあ、このままいつまで続くのか分からない探索を続けなくちゃいけないのか、と半ばぼやく様に呟くと、
「いいじゃない、別に被害が出てるわけじゃないんだし。私は、もう少しこのままでもいいかなって思ってるんだけど」
 あの甘えるような声で、彼女がそんな事を言ってくるので、
「そうだな、それも悪くないか」
 と、そんな気分になった。



 午後七時になったところで、一旦聖司と合流して夕食をとることにした。
 適当に中華料理店に入って話を聞いてみると、やはり、聖司の方も特に収穫はなかったんだと言う。

「全く、これじゃあ埒があかねえな。せっかく二手に分かれたってのに、その収穫がお前らだけなんじゃあ、前に進んだとはとても言えねえよな」
 食事中、聖司は天津飯を口に運びながら、よく分からない事を言った。
「え? いや、俺たちの方も別に収穫なんてなかったぞ。人の話し聞いてたのか、お前」
「嘘つけ。お前ら、なんだか随分といい雰囲気になっちまってるじゃねえか。ったく、どの口で、収穫なんて無かった、とかほざいてんだか」
「えっ―――?」
 思わず、隣に座る天野と顔を見合わせた。で、その瞬間、ボッと顔が真っ赤になるのが分かった。
 彼女はというと、やっぱり俺の顔を鏡に映したように真っ赤になっていて、何だかその顔が可愛くて、よけいに顔が熱くなった。

「はは、真っ赤になってやんの。ホントに分かりやすい奴らで楽しいよ、オレは」
 ケラケラ笑うそいつの様子に、からかわれたのだと気付いてむっとしたけど、何と言い返していいものか分からない。半分ヤケになって、目の前のチャーハンを八つ当たりするようにかっ込んだ。
「おいおい、食いすぎんなよ。この後も探索は続けるんだし」
 それを、面白い見世物でも見るかのような目で見てくる聖司と、俺の隣で「もう、バカ」とか呟く、俺と同じく何と抗議していいのか分からないらしい天野。
 世界を救おうというには本当に緊張感がないけど、確かにこういうのも悪くない。もう少し、こうしていたい。何となく、そんな気分になった。


 食事を終えて店を出て、また二手に分かれようとしたその別れ際、聖司は、少しマジメな事を俺に言った。
「―――気を抜くなよ、真人。人を守っての戦いというのは、お前が考えているよりずっと難しい。それが分かっていて、お前にさつきを任せているんだ。どういう意味かは、皆まで言わなくてもわかるだろ?」
 その言葉を実感したのは、もう少し後の事。それを実感するには、その時の俺は、あまりにも未熟すぎた。



 そうして、また二人で歩き始めて、十分ぐらい経った頃。

「どうだ、何か感じるか?」
 隣を歩く人物に、何となく夕方にも言った気がするそんな言葉を掛けてみた。
 彼女は、黙って首を横に振る。

 夕食を終えてからというもの、天野は一言も喋ろうとしない。
 聖司にからわかれたのを意識して――という感じではないと思う。きっと、モノが襲ってくる夜になって、より辺りを探ることに集中しているのだろう。
 ……どうも、さっきから顔色が優れない気がするのだが、それはきっと気のせいだろうという事にして、やはり自分も黙って歩き続ける事にした。

 それが杞憂ではなかったと気付いたのは、それからさらに三十分ほど歩いてから。もしかしたら、もう手遅れだったのかも知れない頃だ。

「……ん? どうしたんだ、天野」
 不意に彼女が足を止めたので、そんな声を掛けながら振り返った。そして―――。
「え? お、おい――――」
 ―――その姿を見て、思考が停止した。顔色が悪いなどというものではない。その顔からは色というものが一切失われており、肩は不安げにガタガタと震えている。自らを抱き留めるかの様にその肩に回されたその両腕は、まるで何かからその身を隠しているかの様だった。

「何よ、何なのよ……」
 弱々しく、何かを呟く。何かに恐怖している様にしか見えないその姿は、彼女らしさのかけらもない。まるで、五年前、初めて彼女を見たときの姿に逆戻りしたかのようにすら感じられる。

 ―――何故だか、それがどうしようもなく許せなくて。
「どうしたんだよ天野、しっかりしろ! こんなの、らしくないって!」
 我慢できなくなった俺は、理由もなく声を荒げていた。

「春樹くん……ここにいちゃ、駄目。速く、逃げなきゃ……」
 まるで、親に助けを求める幼子のような響き。焦点の合っていないその目は明らかに俺を捉えておらず、ただ一点、自分の背後の虚空に向けられている様だった。

 俺は、そこに何があるのか確かめようと振り向いて、
「な――――」
 思わず、言葉を失った。

 いつの間に、こんなところに来ていたのか。周りには人の気配がなく、辺りを照らす物もない。目に映るのは、ただ一面に広がった黒い暗闇のみ。

「何だ、どうなって……」

 その中心。
 何故暗闇に中心などあるのか、何故それを自分が認識できるのかは分からない。とにかくそこがこの空間の中心であり、どうやらそれを彼女は見つめている。自分も同じく見つめている。
 そうして。それが人の形もしているのだと気付いた時、ぞわっと全身の毛が総立った。

 ゆらり、ゆらり。その中心は、闇を引き連れてこちらに近付いてくる。闇に浮かび上がるようなそれは、その実周囲の闇よりもさらに深い闇であり、むしろそこから闇が吹き出しているようでもあった。

 それはこちらを見た。闇でありながら目を持っているらしく、人間と同じ形をしたそれを見開き、自分とその傍らの少女の姿を確かにそれに映したらしかった。

「―――ほう。天野の娘、か」

 どうやら、それは人の言葉を発したようだ。
 意味は分からない。ただ、それは自分に死を予感させた。
 この、左手に光る銀色を手にして以来、久しく忘れていたその悪寒。鋭く突きつけられたそれに、理性が「逃げろ」と激しく叫んだが、どういうわけかこの体はぴくりとも動いてくれない。まるで闇から手が生えてきて、自分をこの場所に縛り付けている様な感覚。幾ら力を入れても、無駄だった。

「くく―――なるほど、奏眞の言う通りだったというわけか。あれが拘りすぎているだけだと思っていたが」

 笑った。それは、人間でないそれには酷く不似合いな行為。だがそれは確かにそう呼ばれる行為であり、それが却ってそれへの畏怖を増長させた。

「い……や……」
「なに、私に恐怖しているのか? それは興味深い」
 傍らで漏れたその声。やはり彼女らしさのかけらもない怯えたそれに、どうやらその闇は反応を示したらしかった。

 その闇は、彼女を見ている。
 それは駄目だ。駄目だけど、どうやって止めたらいいのか分からない。

 俺が手にしているのは、奇しくも周囲を包むそれと同じ色をした、彼女からの預かり物。
 この一週間ですっかり手に馴染んだそれは、果たしてあれを止める力となり得るのか。闇を切り裂くというのはよく聞く言い方だけど、所詮それは比喩であり、事実剣にその様な事は出来ない。そもそも、相手は闇。そうである以上、移動しているというのも自分のただの錯覚に過ぎないのかも知れない。

「来ない…で……」

 ―――しかし。あれは、確かに動いている。意思を持って、もはや逃げることも思いつかないらしい彼女に興味を持ち、近付いてくる。
 ……なら。もしかしたら、あれは闇などではなくて、本当はその形通りの人間なのではないのか。

 そうだ、自分は知っているではないか。空間を支配するものの存在を。そして、それはこれ以上なく人間なのだという事を。光と闇の絶対的な違いこそあれ、目の前の闇は確かにそれと同種だ。ならば、きっとあれも人間。今はどうあれ、その礎となっているのは人間に違いない。
 それが「事実」。ならば、「受け入れ」ろ。
  
「この……! さっさと動け……っ!」
 強く念じたその瞬間、体を縛っていたものが解かれるのを感じた。

 そうして駆けた。本能に近いそれへの畏怖を事実で埋め尽くし、それへと向かった。



   十一  元靖 聖司

 一体、自分たちが食事をしている間に、何があったというのか。

 夜の町は、昼間のそれとは全く別のものへと変貌していた。
 あちこちで蠢く黒い気配。そして、恐らくあまり何にも興味を示さないであろう、周囲を黒く染めていく様なそれ。まるで町全体が「悪」に呑まれてしまっているかの様だった。

 確かに今までもその傾向はあったが、これほどまでにあからさまな物ではなかったし、当然この町でモノ以上の気配を感じるのは今夜が初めてだった。
 何か、変化が起きている。一体それが何を意味するのか見当もつかないが、ただ、見過していいものでない事だけは明らかだろう。

「―――何だってんだ」

 しかし、どうやら今、自分が最も気にしているのは、その事ではない様だった。
 町の人並みに紛れ、他所から見ればそのうちの一人にしか見えないはずの今の自分。それを見分けられるという事は、それは相当細密に気配を読むことが出来る相手であるという事だ。

「―――気に入らないな」

 敵意を持っている訳でもなく、監視しているふうでもない。
 ……ただ、見ている。そんな視線が、先ほどから自分に張り付いて離れない。

 どうやらそれは、「悪」に関係ある者では無いようだった。巧みに隠された気配は微弱。恐らく、普通の認識ならばそこに存在している事にすら気付かないだろう。そんな状態で、しかしこちらの気配はしっかりと探り当てており、それが只者でない事を物語っている。
 思いつく可能性の中で、それらの条件に全て当てはまる人物というのは一人しか思い当たらない。一体何の目的でそれが自分を見ているのか、確かに疑問ではあったが、敵意を持たないと言うのであれば敢えて構う必要はないだろう。

「さっきから何なんだ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ」
 それは分かっていたのだが、人気のない公園に出たところで我慢できなくなった。
 外灯のあまり無い、暗い公園の向こう側。気配のする方を、じっと睨んで口にする。

「―――参った。気配は完全に消していたつもりだったんだけどね」
 降参、と両手を挙げながらゆっくりと姿を現わす。すらりとした長身痩躯のその姿に、微かだが見覚えがあった。

「……やっぱりあんただったか、柏原慶。天才、間宮塔子の後釜が「協会」最強と呼ばれる男とはな。恐らく、自分で志願したんだろ?」

 記憶を手繰り寄せ、口にする。目を通しただけの情報なので不確かではあるが、恐らく間違ってはいないだろう。

「大当たり。さすがだね、噂の元靖聖司君。どうやら君が優れているのは戦闘能力だけではないらしい」
「そんなことはどうでもいいんだ。二つ、聞きたいことがある。一つは言わなくても分かると思うが、もう一つ。何故今までオレ達の前に姿を現さなかった。この一週間、一体何をしていたんだ」

 男の言葉を跳ね除けて口にすると、そいつは大げさに肩を竦めてみせた。
「姿を現す必要があったかい? 僕は必要のない事はしない主義でね。あくまで僕の役目は善良で無力な人々を守ること。君たちはその対象外だというわけさ。それどころか、本来なら君達も「異分子」として排除の対象になってもおかしくないところだ。そうしないだけでもありがたいと思って欲しいね」

 男の目は、嘘を吐いていない。こう見えて、どうやらこの男は、その言葉通り、純粋に己の責務のみに生きる者らしい。

「そうか、いいだろう。取り敢えずその言葉は信じるとして、じゃあ何故今になってオレの前に姿を現したんだ。その「必要な行動」とかに当てはまるとはとても思えないが」
「おいおい、人を冷血動物みたいに言わないでくれ。僕にだって良心というものがある。それが判断基準になる時だって、多々あるんだからね」
「―――じゃあ、今がそうだって言うのか? それこそ理解できない。人を物陰からじろじろ見ることに、一体どんな良心があるというんだ」
「そういう言い方をすれば確かにそうなるか。いや、違うんだよ。僕はただ心配で、見守っていたんだ。君は気付いているのかなと思ってね、君の身体の事に」
「―――――」

 自分が顔を強張らせるのが分かった。
 他ならぬ、自分自身の事だ。気付かないはずが無い。確かに力の本質を見抜くことの出来る人物になら、外から見てもそれは分かることなのかも知れない。しかし、そうだとして、何故この男はわざわざこんな事を言うのか。

「その顔は、やはり知っているんだね」
「……だとしたら、どうだと言うんだ。まさかとは思うが、戦うのを止めろと言いたいのか」
「その通り。一人の大人として、君の様な少年を放っておくわけにはいかないのでね」
「ふざけ――――」
 るな、と言おうとして、そこで会話が止まる。

 もう少し、早く気付くべきだった。どうやら、目の前の男に気を取られすぎたらしい。
「―――お喋りに集中しすぎた、かな。ここまで囲まれているのに二人して気がつかないなんて、失態だね」
 言って、男は虚空に手を伸ばす。その手から淡い光が伸び、男の身の丈ほどの槍が形成された。
 ―――空想具現化。自分がそれを使いこなす人間を見るのはこれが二回目であり、否応なしにその一回目を連想させた。

 しかし、今はその様な感慨に構っている場合ではない。
「それは大した問題じゃないな。そんなことより、オレが気にしているのはもっと遠く。予想外の事だが、どうやら仲間が敵に目をつけられたらしい。出来れば、こいつらの相手はあんたにお願いしたいところなんだが」
「ま、僕としては君には戦わせたくないワケだし、了承したいところなんだけど―――けど、いくら僕でも、一人でこれだけの数を相手にするなんて、ちょっと荷が重いんじゃないかな」
「―――ふん。言ってろ」

 じり、と、自分たちを取り囲んだモノたちが距離を詰めてくる。
 どうやら、このモノたちの役目は足止め。気配の先では、二人とそれを闇から観察する者の距離が迫っている。
 ―――時間が無い。この男に見られるのは気に入らないが、出し惜しみをしている場合ではなさそうだ。

 理想郷の名を冠するそれを胸の前に翳し、「信じる心」を抱く。光が刃を形成したそれを見て、何だそれは、と男が驚きを漏らしたが、構わず、自分を取り囲むモノに斬り掛かった。

 闇を駆けるその心に、焦りはない。何故なら、このモノたちを始末して二人を助けに向かうまで、五分と掛からないのだから。



   十二  春樹 真人

「ハァ……ハ……」
 息が荒い。

 始めの一撃は造作もなくかわされた。
 ―――それだけ。激しく斬り合ったわけでもないし、攻撃を受けたわけでもない。一度だけそれに向かって走り、剣を振るった。たったそれだけで、しかしこの体はまるで長距離走を走り終わった後の様な疲労感に襲われていた。

「―――驚いたぞ。まさか、動けるとはな」

 かといって、今の一撃が全て失敗だったわけではない。一番の目的、彼女からあれを遠ざけるという事には成功した。俺の一撃を、あれは後退してかわしたのだ。そして、そうする必要があったという事は、あれは剣による攻撃が通じる相手であったという事になる。

「大した力は感じなかったのだが―――成る程、私の観察不足だったか。魔力の放出量が安定しない。あの男に並ぶ程の者にも感じられるが、そこらの屑ども以下のようにも感じられる。―――さしずめ、未完の大器と言ったところか。いや、人生とは分からぬものよ。まさかこんな所で、このような面白き者と出会おうとはな」

 くくく、とくぐもった笑いを浮かべるそれ。生憎と、俺にはそれに応える余裕はない。こうしている間にも正体不明の疲労感は増してきており、今では立っているのがやっとという状態にまで追い込まれている。その様な状態で口を開くなどという事は自殺行為に等しいと、半ば酸欠状態にある自分の脳でも簡単に察しが付いた。

「もう少しゆっくり話がしたいものだが、生憎と時間がないものでな。―――いざ」

 だけど、そんな状態じゃ気がつけなかった。その闇は俺の気付かないうちに姿を消し、気付かないうちに、自分の腹に巨大なハンマーで叩いたような衝撃を叩きつけていた。
「ごっ……!」
 そうして飛んだ。その衝撃に、前のめりになりながら後ろ向きに吹き飛ぶという、奇妙な現象を体験していた。

 どのくらいの距離だったのか。体を地面に擦り付けながら、長い距離を吹き飛ばされた挙句に、自分の体はようやく止まった。
「か……はっ……」
 擦り剥けた皮膚はすぐ再生する。へし折れた肋骨にしても、きっとそうだ。
 しかし、息が出来ない。いくら酸素を取り込もうと口を動かしても、ただ「あ……あ」と意味の分からない声が漏れるだけ。

 それだけでも充分苦しいのに、何を思ったのかその闇は一瞬にして自分に覆い被さり、何か細長いものを俺の心臓に突き立てようとしており、俺はろくに動きもしない体を必死に捩らなければいけなかった。

「づっ……!」
 鋭い痛みに襲われる。不幸中の幸いと言うべきか、それは何とか心臓からは外れて、自分の肩口辺りに突き刺さった。

「―――ほう。この状況において尚、死から逃れたか。その若さで、命のやり取りをそれほど経験しているわけでもなかろうに――全く、大した生存本能だ」
「ぐぁァ……ッ!」
 呻いた。左肩に突き刺さったそれは、まるで肉を掻き回すかのように、ぐちゃぐちゃとおぞましい音を立てながら体の中で蠢いたのだ。
「さあ、見せてくれ。次はどう逃れるのだ」
 ―――おかしい。痛みが緩和されない。ちゃんと籠手はつけているのに、こんな、直接死を連想させる感覚がやってくるなんて。

「あ、づ―――っ」
 こんなのいけない。これでは、この左手のおかげでせっかく抑えられていた「死への恐怖」というものが、再び鎌首を擡げてしまう―――。
「ほら、死ぬぞ。こうしてもう一本をお前の脳天に突き立てれば、そうして呻くヒマもなく死ぬぞ。それは嫌だろう。嫌なら、早くどうにかしてみろ」
「く――そ……」
 そんな物に呑まれている場合じゃないのに。自由になっている筈の右腕さえ、動いてくれない。自分では、これには敵わないというのか。俺では、彼女を守れない、と―――。

 己の無力さに唇を噛み締めた、その時。
「む―――なんだと? く……これからが面白いという所で。全く、役に立たぬモノ共め。足止めもろくに出来んと見える」
 何の前触れもなく、自分に向けられていた死は、唐突にその姿を消した。

「……まあ、よい。簡単に殺してしまっては惜しいと思い始めていたところだ」
 肩の物が引き抜かれるのを感じた。
 それを感じた頃には、周囲の闇は既に取り払われており、辺りは元の姿に戻っていた。

 どうやら闇は去ったらしい。ただ、その去り際、
「お前には期待している。私に殺されないよう、せいぜい足掻いてみろ」
 そんな声を、聞いた気がした。

 ―――だけど、それにはあまり気が回らなかった。

「く―――天野―――」
 きっと、痛みと恐怖で、頭がどうにかなっていたんだと思う。
 それが去ってから真っ先に自分がとった行動は、助かった事に安堵することでもなければ、自身の傷の心配をすることでもなかった。
 ただ、彼女の下へとその体を動かす。そんな、俺自身にすら意味が分からない行動をとっていたんだから、恐らくそうに違いない。

 砕けた肋骨はすでに治療されたようで、ありがたい事に歩く事には支障が無かった。肩の痛みはなんだか彼女に近付く度に益々酷くなっている気がするが、それはあまり関係ない。
 赤い液体を吐き出し続けるその傷口を押さえつつ、熱を持ったその体で、怯えた様子でうつろに震える彼女の前に立った。

「―――天野。あいつはもう居ない。だから、そのらしくない顔を止めてくれよ」
 呼びかけに反応を見せない彼女に、しかし何度も呼びかける。彼女が反応を見せるまで、震えるその肩に掴みかかって、天野、天野、とバカの一つ覚えにその名を呼んだ。

 馬鹿げているのは分かっている。傷ついた体を無理やりに引き摺ってまで、一体俺は何をやっているのだろう。でも、それ以外に何も思いつかないんだから、しょうがないじゃないか。

「あ……はるき、くん……怪我……」
 ようやく反応を見せた彼女の声は、しかしやっぱり彼女らしさを取り戻しておらず、余計に胸が締め付けられた。

「こんなの大丈夫だ。すぐに籠手が治してくれる。それより一体どうしたんだ。こんなの、天野らしくない」
「……駄目よ。それ、全然治る気配が無いじゃない。すぐに戻って、手当てしないと」
「俺は大丈夫だって言ってるんだ。おい、あま―――」
「お願い、何も聞かないで。今は、早くこの町を離れたいの」
「っ――――……」

 弱々しい、許しを請う様な彼女の声。そんなのを聞いて、それ以上何も言える筈がなかった。
 掛ける言葉もなく、触れる事も出来ず。ただ、己の無力さに歯噛みした。

 とりあえず、もうこの町には居られないというのは言われるまでもない事だ。聖司に連絡を取ろうとすると、ちょうどそこへ彼がやってきた。

 彼は、自分たちの姿を見るなり
「―――すまん、遅れた」
 などと、珍しく息を荒げた様子でそう言ってきた。
 その様子で、何となく、あの闇が退散したのは彼の接近を感知したからなのだ、と分かって、なら十分に間に合っているではないかと思ったのでそう伝えると、彼は違うのだと答えた。お前たちはまだあれと会うべきではなかったのだ、と。

 そう言って、彼はゆっくりと俺の肩に手を置いた。そうすると、いつもの痛みが和らいでいく感覚が戻ってきて、ずいぶん楽になった。

「とりあえずこれでその傷は何とかなるが、すぐに治るものでもない。無理は出来ないし、今日はタクシーで帰るぞ」
 彼は、これを着てその真っ赤に染まった服を隠せ、とジャケットを脱いで差し出してくる。確かにこのままで町は歩けないので、彼に従ってそれに袖を通すと、らしさを取り戻そうとしない彼女に「帰るぞ」と声を掛け、大通りへと出た。

 タクシーを止めて、屋敷へと向かう。
 道中、聖司は彼女の様子について何も訊かなかった。俺も、何も言わなかった。
 二人とは少し間を空けて座る彼女には、何者も寄せ付けない様な張り詰めた拒絶と、触れれば壊れてしまいそうな、どうしようもない儚さがあって、何とかしたいのに何にも出来ず、募るのはやはり己の無力感のみだった。
  


 結局、その日はお互い何も語らないままそれぞれの部屋に下がっていき、そのまま就寝となった。

 あの闇は、一体何だったのか。何故肩の傷にだけ、籠手の効果がなかったのか。本来懸念すべきそれらは今の自分にとってはどうでもよく、ただ、彼女のあの姿だけが許せなかった。
 彼女がどうしてああなってしまったのかは、分からない。考えてもしょうがない。そもそも、俺には難しい事など出来はしない。春樹真人に出来るのは、事実を「受け入れる」事のみ。今、自分に用意された事実とは、彼女があの闇のせいでああなってしまったのだという事と、俺はそれが許せないのだという事。ならば、自分がすべき事は、もう決まっている。
  

 今夜も、携帯に着信があった。ウインドウに映し出されたその名前は、やはり「井上永治」。すっかり着信履歴を埋め尽くしたその人物からの着信に応答があった事は、この二週間で一度もなかった。
 今夜もそれは変わらない。マナーモードに設定された留守電の向こうで、「お前、一体なにやってるんだよ」と、やはりいつもと同じ台詞が繰り返された。



  十三  元靖 聖司
  
 ―――そうして、今日もそれはやってきた。それは、言わば日課の様なもの。だから別に辛いとも感じないし、そもそも自分にそんな感情があるのかどうかが疑問だった。

「く――――」

 だが、今日のそれはいつもより多少長引くようだった。原因は分かっている。少年に刻まれたあの黒い傷。純度の高い「悪」であったそこに渦巻いていた物を取り除くのが、モノ達を相手にすることなどよりも遥かに負担が大きいのは、当たり前の話だろう。

「はぁ、は―――」

 背骨が軋むような感覚。そこから全身へと広がっていく。自分の全てを破壊するようなそれは、その実ただの錯覚に過ぎない。もしそうなるのならそれを行った直後にそうなるのであり、今自分を襲っているのは、あるいはこれ以上やれば本当にそうなるぞ、という警告のつもりなのかも知れない。

「つ―――――くっ」

 もしそうなら止めて欲しい。何故なら、そんな事はとうに分かっている。分かっていてそうしているのだから、警告などをされても意味がない。

「っ――――……」

 そうして、意識を失う。朝が来る頃には収まっているだろう。それはいつも通りだ。いつもより長引くと言ったが、それはあまり関係がなかったか。結局こうして、いつも通りに一日を終えるのだから―――。





代理人の感想

覚悟完了話。

なんつーか、ヒロインが型にはまりすぎてる気が。

そこまでして読者に媚びないでもいいのにな、と思いません?

 

>空想具現化

いや、これはまずいでしょ、これは。(苦笑)