トモヤはその日、いつも通りの時間に帰ってきた。

 玄関のドアを開けて、いつも通りに言う。

「ただいま」

 奥から聞こえてくる「おかえり」という母の声もいつも通りだ。
 トモヤはそのまま、自分の部屋に着替えを取りに上がった。
 彼の家は特に変わったところのない一戸建で、玄関から入ってすぐのところに階段がある。
 それを上がったところに二つの部屋があり、向かって右側がトモヤの部屋だ。

「暑い……」

 階段を上り下りする間にも、額から汗がふき出てくる。
 夏は終わりに近付いているが、例年になくまだまだ暑かった。
 部活動の練習で火照った体はなかなか冷めず、いくら拭っても汗は止まらない。

 練習着を洗濯に出すついでに、軽くシャワーを浴びた。
 それでようやく少し落ち着いたが、今度は腹がへっているのを思い出して、自然と台所へ足が向いた。

「メシ、まだか」

 食事の支度をしている母の背中に向けて言ってみたが、トモヤには母がなんと答えるか分かっている。

「まだ。お父さんが帰るまで待ちなさい」

 いつものことだ。父がまだ帰っていないのは、玄関に靴がないのを見てすでに知っていた。

「ちえ」

 トモヤは小さく舌打ちしながら冷蔵庫からお茶を出して、コップに注ぐ。
 一気にそれを飲み干した。
 一杯では足りず、空になったコップに注ぎ足してもう一杯飲んだ。

 返答が分かりきっていたのに敢えて「まだか」と言ってみたのには、特に意味はない。
 ただ単に駄々をこねているだけ、ようするに甘えているだけなのである。

 このまま台所に居てもしょうがないので、食事までの時間にテレビでも見ようと居間へ向かった。
 居間は、台所から廊下を挟んだ向かい側にある。
 歩いて行って廊下側の引き戸を開けると、中には姉のカナコが居た。

「なんだ、姉貴、帰ってたのか」
「ん」

 少し離れた位置に座りながら言う。
 聞いているのか聞いていないのか曖昧な返事だったが、いつものことなのでトモヤは気にしていない。
 彼女が何かをしている時は、まともな返事を期待してはいけないというのがこの家の常識だ。

 彼女は、何やら難しげな顔をして、ハードカバーの本を読んでいる。
 だったらなおさらだ。
 普通にテレビを見ているときですらそうなのだから、本を読んでいる時に話しかけてまともな返事をしてくれるはずはない。

 トモヤはテレビを見るつもりで来たのだが、読書の邪魔になりそうなのでやめることにした。
 とくに見たい番組があったわけでもないし、わざわざ不評を買うようなことをする必要はない。

「んっ……と」

 大きく背伸びをして、あお向けに寝転んだ。
 何をするでもなく、ただぼうっと天井を見ながら時間が経つのを待っていると、

(そういえば、何の本を読んでるんだ……?)

 ふと、そんなことが気になった。
 正直どうでもいいのだが、一度気になったことは確かめずには居られないのが彼の性分だ。
 体を起こして、姉の手の中にある本をちらりと盗み見てみると、
 その表紙にはめったに本を読まないトモヤですらよく知っているタイトルが書いてあった。

「『ターギオリアの英雄』? なんでいまさら、そんなモン」

 口に出してみたが、やはり姉はなんの反応も示さない。黙々と、それを読み続けている。

 トモヤが「いまさら」という言い方をしたのは、その言葉通り、大学生にもなる姉がいまさら読むようなものではないからだ。
「ターギオリアの英雄」というのはこの世界に伝わる有名な伝承で、小さい頃に母親から聞かされる類のもの。
 ちなみに「ターギオリア」というのはトモヤたちが住むこの世界を総称する言葉で、
 そこの「英雄」というのだから話の内容もおのずと知れてくる。
 ようするにどこにでも良くある「救世の英雄」というやつについての幼稚な話であり、
 大の大人が、しかもこんな難しげな顔をして読むようなものでは決してない。

(ま、別にいいんだけどさ。俺が気にすることじゃないし)

 そう思ってもう一度寝転ぼうとした時、いきなり刺々しい姉の声が飛んできた。

「うるさい。止めろっていつも言ってるでしょ、それ」

 不意をつかれた形となったトモヤは内心少し驚いてしまって、返事をするのに少し間があいた。

「え……あ、ああ、俺、またやってたか」

 一瞬何のことか分からなかったが、すぐに姉が自分の癖のことを言っているのだと気が付いた。
 手持ちぶさたになると、左右の人差し指の爪を弾いてカチカチと音を鳴らすのがトモヤの癖だ。
 ほんの小さな音しかしないはずなのだが、一緒に住んでいる家族にとっては気になるらしく、ことあるごとに注意されている。
 とりわけ、四人家族の中でいちばん神経質な姉のカナコに注意されるのは、これで一体何回目になるか分からない。

「人の話は聞いてないくせに、変なところだけは気になるんだな」

 自分が悪いのだということはトモヤにも分かっているのだが、なんだか癪なので皮肉を言ってやった。
 が、姉弟というものの常で、昔からトモヤは口げんかで姉に勝ったことが一度もない。

「別に、聞こえてないわけじゃないのよ。こたえる気がないだけで」
「……そうかい」

 悪びれもせずに言う姉に、トモヤは返す言葉もなかった。
 口げんかに勝ったことがない、というのは厳密に言えば違っていて、この姉弟の場合たいていはこういう風に口論にすらならない。
 つまらないので、トモヤは話題を変えることにした。

「それで、なんでいまさらそんなモン読んでるんだ」
「ああ、講義で使うから読んで来いって。この話って、いろいろと謎があるのよ。アンタは知らないだろうけど」
「ふうん」

 訊いてみたもののあまり興味がなかったトモヤは、曖昧に返事をした。
 こういうところが、この姉弟の似ているところだと言える。

 そうこうしているうちに父親が帰ってきて、トモヤにとってはお待ち兼ねの夕食となった。

 いつも通りの日常、いつも通りの団欒。
 トモヤにとっては生まれてこの方ずっと続いてきたものであったし、
 これからも変わることなくずっと続いていくものだと、その時は信じて疑わなかった。





 異変が起こったのは、すっかり夜も更け、日付が変わろうとしているころだった。
 すでに二階の部屋でベッドに潜り込んで うとうと(・・・・) していたトモヤは、
 突如聞こえてきたガシャンという大きな音に思わず飛び起きた。

(何だ、今の……下から?)

 心臓がどきどきいっている。
 あまりに突然の出来事にしばらく体が硬直していたが、なんとかきを取り直し、恐る恐るベッドから降りた。
 部屋のドアの前に立って、しばし考える。

(さっきの音は、皿を落として割ったとか、そういうんじゃない)

 聞いた感じでは、窓ガラスが割れる音だとしか思えなかった。
 この家は閑静な住宅街に位置しているので、
 何かが飛んできて偶然窓ガラスが割れてしまった、などということは起こりにくい。
 もし本当に割れたのは窓ガラスだったとすれば、誰かが故意的にやったとしか思えないのである。
 そう思うと部屋から出るのがためらわれたが、家の中には母や姉も居る。
 自分がここでじっとしているわけにはいかない気がした。

 ゆっくりとドアを開け、外の様子を伺う。
 廊下の明かりは消えていて、暗い。
 なんとか目をこらして、とりあえず見わたせる範囲に異常がないのを確認した。

 音を立てないように、そろそろと足を踏み出す。
 自分の寝間着が擦れる音に、一瞬びくっとしてしまった。

(バカか、俺は。しっかりしないと)

 大きく深呼吸をして自分を落ち着かせてから、もう一度歩を進め始める。
 ゆっくり、ゆっくり。
 ほんの少ししかないはずの階段までの距離が、やたらと長かった。

 やっとのことで隣の部屋の前まで来てみると、開いたドアの隙間から姉が顔を覗かせている。
 残念ながら、トモヤの聞き間違いということはないようだ。

「トモヤ……」

 小さな声で、名前を呼ばれる。
 癖を注意してきた時とはまるで違う、不安そうな声。
 それが余計にトモヤの緊張を高まらせたが、少なくともここで弱音を吐くほどには、彼は情けない男ではなかった。

「うん。俺が見てくるから、姉貴は部屋に入っててくれ」
「……ごめん。お願いね」

 小声で囁き合う。
 姉の表情は暗くてよく見えなかったが、トモヤの言葉にうっすらと微笑み返してくれたような気がした。

 姉が部屋の中に引っ込んだのを確認してから、トモヤは慎重に、階段へと足を踏み出した。
 二階に何も無かったということは、やはり異常が起こっているのは下なのだ。
 トモヤはなんだか、まるで自分がこれからとてつもなく危険な場所に踏み込んでいくかような気分になった。

(落ち着け……ここは、俺の家なんだから)

 そう自分に言い聞かせて、階段を降りて行く。
 一段降りるごとに大きくなっていく心臓の音がうるさかった。

 階段を降りきったところで、再び辺りを見渡してみる。
 やはりどこにも異常は見当たらない。

(ここから死角になってるところと言えば、居間の方か)

 というか、人が侵入できるような窓は、もうそこしかない。

 正直、行きたくなかった。
 出来ることならばこのまま部屋に戻って、何も無かった事にしてそのまま寝てしまいたかったが、
 意思に反して彼の足は、そちらへと歩を進めていく。

 トモヤの緊張はピークに達していた。
 一階の廊下は二階よりもさらに暗い。
 今にも何かが飛び出してきそうな気がして、彼はまるで怖がりの子供のようにびくびくしていた。

 居間の前まで来たところで、ついにトモヤは異常らしきものを見つけた。
 一番奥の窓が、割れているようだ。廊下に散らばったガラスの破片が、月明かりできらきらと光っている。
 そこへ近付こうとしたとき、視線の先で何かが動いたような気がして、トモヤは「ひっ」と声をあげそうになった。

「だ、誰……?」

 震えを必死に抑えながら、かなり上擦った声で言うと、聞きなれた声が返ってきた。

「……トモヤか?」
「なんだ、親父かよ。びっくりした」

 思わず胸をなで下ろした。緊張しっぱなしで限界に近付いていた心臓が、ようやく少し落ち着いた。

「こっちだ。足の裏、切るなよ」
「分かってる」

 そうは言ったものの、割れた窓ガラスのまわりにはかなりの破片が散乱しており、歩きにくい。
 爪先立ちで、一歩一歩足の踏み場を探しながら、なんとか父が立っているところまで辿り着いた。
 そうして窓の方へ視線を向けてみると、トモヤはそこでなんとも不思議な光景を見た。

 機械か何かを使ったのだろうか。窓ガラスの中心部だけが、きれいな円形にくり抜かれている。
 一切の歪みを感じさせない。
 見事に、中心部だけが無くなって、丸い穴が開いている。

 そう。 穴が開いている(・・・・・・・) のだ。
 割れて音を立てたのはくり抜かれて落ちた部分だけで、残った部分にはヒビさえ入っていない。
 まるで、最初からそういう風にデザインされているかのようだ。

「最近の機械って、こんなことも出来るのか」

 機械、と口にすると、なにか妙な違和感があった。
 確かに最新の機械を使えばこのぐらいのことは出来るのかも知れないが、
 今目の前で起こっているのはそんな単純なことではないと、誰かが言っているような気がしてならなかった。

「バカ、そんなこと言ってる場合か。わざわざ機械を使ってるんだから、明らかに侵入が目的ってことだろう」
「……そうか、そうだよな。機械を使って、泥棒が侵入してきたんだ。
そうに決まってる。そうじゃなきゃ、他にどんな意味があるってんだ、こんなの」

 トモヤは、自分の中のおかしな感覚を振り払うように、言葉を続ける。

「それで、親父は何か見たのか」
「いや、何も。お前どうしたんだ、何か、急に……」

 と、その時だった。二人の背後で、ごそりと、何かが動くような物音がした。
 あわてて振り返ってみたものの、誰も居ない。
 目に映ったのは壁だけだったが、しかし、その壁の向こう側には居間がある。

 もう一度、物音。
 もはや間違いなかった。
 壁の向こう側、つまり居間には、何かが居るのだ。しかもそれは、悪意を持った侵入者である可能性が高い。

 二人は顔を見合わせ、頷いた。

「母さんは……?」
「寝室から出ないように言ってあるから、大丈夫だ」

 父はそう言いながら、傍に立て掛けてあった木製バットを手に取った。
 どうやら、あらかじめ持ってきていたようだ。
 正体の分からない侵入者に対してあまりに心細い武器ではあったが、何もないよりはましだろう。

 入り口がある方へ、二人一緒に回る。
 いきなり部屋から何かが飛び出してくるかも知れないと思うと、トモヤの鼓動は異常なほど早くなった。

 前に立っていた父がふり返り、目で合図をする。
 トモヤが頷くと、父はゆっくりと、居間の引き戸をスライドさせた。
 きい、と軋んだ音を立てて、引き戸が開いていく。
 それを見て、トモヤはなぜか、別世界への扉が開いていくような感覚を覚えた。

「誰か居るのか」

 父の、少し強張らせた声が聞こえる。
 父の背中ごしに見える居間の中は真っ暗で、まさに異空間といった感じだ。
 トモヤは恐ろしくなって、やけ気味に言った。

「親父、電気、電気だ。電気、つけよう」
「お、おい」

 半ば父の体を押しのけるようにして、右側の壁にあるはずのスイッチへ手を伸ばす。
 焦っているせいか、なかなか見つからなかったが、なんとか探り当ててスイッチを入れた。
 ピン、という音とともに、蛍光灯の明かりがつく。
 真っ暗だった空間に光が差し、部屋の中が照らし出された。

 何かが、居た。


 まず目に入ったのは、まるで純銀のような色をした、長い髪。
 風なんてないはずなのに、さらさらと、優雅になびいている。

 後ろを向いたまま振り向こうとしないので、男か女かは分からない。
 しかし それ(・・) を見た瞬間、理由も無く、 それ(・・) が人間ではないとトモヤは確信していた。

「誰だ……?」

 父が恐る恐る言っているのが聞こえたが、そんなことをするべきではないのだ。

(逃げないと……)

  それ(・・) それが振り向いていないなら、今ならまだ間に合うかも知れない。
 今のうちに、早くここから離れるべきだ―――
 理由は全く分からなかったが、
 そんな脅迫じみた観念に襲われて、トモヤは一歩後ろに退いた。

 その瞬間。

「何を畏れる、人間の 適格者(ツィム・ツム) ≠諱v

  それ(・・) は、恐るべき速さで振り向いた。

 蒼い目。蒼い目が、トモヤを見ている。蒼い蒼い、どこまでも蒼い―――

「う、うわああああああっ!」

 彼は、ついに逃げ出した。
 部屋を飛び出し、玄関へ。
 靴を履くこともせず、そのまま裸足で外へと逃げ出した。
 当たり前のこと。
 今、彼は命を懸けた逃亡をしているのだ。靴を履いている閑などあるはずがない。

 トモヤは走った。
 走って走って、それでもまだ後ろを振り向けばあの蒼い目が見据えているような気がして、だからまた走った。

 なぜ、あの目が怖いのか。
 いや、あの感情は、怖い、などというものではない。

 畏怖だ。
 そのような感情を抱いたことは今までなかったが、これが畏怖と呼ばれるものなのだとトモヤは確信した。

 あの蒼い目。
 あれは、明らかに人間の目ではない。
 もっと恐ろしくて、もっと純粋で、もっと高貴な―――

「うわっ」

 無理がたたったのか、いきなり足がもつれた。
 全力で走っていたトモヤは踏みとどまることが出来ず、そのままの勢いで地面に倒れこんだ。
 世界が回転するような感覚。

「いっててて……」

 とても痛い。
 それもそのはず、倒れこんだ先は硬いアスファルトだ。
 部活動をやっているグラウンドとは違って、もともと人が滑ったり転んだりしていい場所ではない。

(……あれ? なにやってるんだろう、俺)

 ふと、なぜ自分が走っていたのかが分からなくなった。
 分かるのは、息が荒くて、全身が熱いということ。
 それは当たり前だ。こんな暑い夜に、長い距離を全力で走ってきたのだから。

(とにかく、帰らなきゃ)

 こんな夜更けに、靴も履かずにアスファルトの道を全力疾走して、その挙句ド派手にすっ転んだのだ。
 こんなところを近所の人に見られでもしたら、どんな噂を立てられるか分からない。

「つっ……」

 立ち上がろうとすると、体のあちこちに痛みが走った。
 結構強く打ったところもあるみたいで、所々擦りむいているもいるようだ。

(姉貴に、なんて言われるか……)

 姉、という単語が出たとき、何かを思い出しそうになったが、何なのかは分からない。
 ため息をつきながら、今来た道を戻り始めた。

 思ったほどは長く走っていなかったようで、家に帰り着くのにそれほど時間はかからなかった。
 帰り着いてみると、玄関のドアが開けっ放しになっている。
 どうやらそれは自分の仕業らしい、ということは、なんとなく分かった。

(危ないな。泥棒が入ったらどうするんだ)
 
 泥棒、という単語が出て、また何かを思い出しそうになったが、やはり何なのかは分からない。

 鍵を閉めて玄関を上がると、鼻をつく強い異臭に気がついた。

(なんだ、この臭い……)

 錆びた鉄の臭いに似ている、と思ったが、そうではない。
 もっと不快で、もっといやらしい。
 汚い便所の臭いにも似ている気がした。
 吐き気を覚えそうになったが、なんとかこらえて、奥へと入っていく。

(何かが、おかしい)

 臭いの他に、違和感があった。
 本当にここは、住み慣れた自分の家なのだろうか。
 いや、間違いなくそうなのだが、やはり何かがおかしい。
 空気が、体に馴染まない。
 まるで、全く知らない場所に迷い込んでしまったような感覚すら、トモヤは覚えていた。

 臭いのせいもあってか、頭がくらくらした。
 ろくに考えもしないまま、ただなんとなく、奥へと向かっていく。
 これ以上踏み入れてはいけない気がしたが、
 今さら引き返したところでもう遅い気がして、ついにトモヤは、居間の前まで来てしまった。

 そして、見た。

「なんだ、これ……」

 ドアは開いたままだった。
 明かりもやはりついたままで、まるで、見ろ、と言っているかのように、その光景を赤々と照らし出している。

 居間は、文字通り真っ赤に染まっていた。

 いや、染まっていた、などという生易しいものではない。
 端的に言えば、沼だ。
 真っ赤な泥で満たされた沼が広がっており、
 そのところどころにぶよぶよした気色の悪いものや、白い尖ったものとかが浮かんでいる。

 原型など、留めていない。もはや、元々何であったのか全く分からない。

 ようするに、臭いのもとはこれだった。
 一面に広がった血の臭いと、散らばった臓物から放たれる糞便の臭い。
 近くまで来ると、もはや鼻を覆わずには居れなかった。

「親父……母さん?」

 そんな惨状の中、トモヤがそれと判別できたのは、たったひとつだけ、原型を保っている部分があったからだ。

 それは、まるで奇妙なオブジェのように、二つ並んでテーブルの上に置かれている。

 一方は、きれいな顔をしていた。静かに目を閉じ、まるで眠っているかのようだ。

 それとは対照的に、もう一方は、恐怖に慄いたままの形で固まっていた。
 大きくひん剥かれた目がこちらをにらみ付けていて、
(お前が一人で逃げたから―――)と、トモヤを呪っているような気がした。

 トモヤが叫び声を上げなかったのは、あまりにも現実感がなかったからだ。
 夢だ、とも思えなかったが、かといってこれが現実だとはとうてい思えなかった。

 頭上で、ごとり、という物音がしたのはその時だ。

(姉貴……!)

 急に、彼はそのことを思い出した。
 そう、この家にはまだもう一人、家族がいるのだ。

 彼は、再び駆け出した。
 なぜ駆けているのかはやはり分からなかったが、今度は逃げるためではない。
 それは分かった。
 今度は、ということは、じゃあさっきは逃げていた? 
 何からだろう。やっぱり分からなかった。

 階段を駆け上がって、そのまま姉の部屋へ。
 ドアが閉まっていたので一瞬躊躇したが、心を決めてドアノブに手をかけた。

 ドアを開けると、 それ(・・) が居た。

 今度は、明かりはついていなかった。月明かりに照らされて、銀色の髪がきらきらと光っている。

 その蒼い目がこちらを向いた瞬間、それの姿がぶわっと揺らいだ。
 あっ、とトモヤは思ったが、もう遅い。
 それの腕は一瞬にして伸びてきて、そのままトモヤの腹を刺し貫いた。

「――――」

 うめき声すら出ない。
  それ(・・) が腕を無造作に引き抜くと、トモヤはそのまま、その場に崩れ落ちた。

 倒れた床は、赤く濡れている。
 トモヤの血ではない。
 あの赤い沼が、ここにも広がっているのだ。

(もう、いいや)

 このまま死んでしまえばいい、とトモヤは思った。
 この一家は、このわけの分からない事件に巻き込まれて、みんな死んでしまうのだ。
 一人だけ生き残る、なんてことがあってはいけない。

 何日か経って、誰かがこの惨状を見つけて、事件が報道される時のことを想像してみた。

「一家四人、惨殺」

 そう、それがいい。
 自分一人だけが生き残ったりしたら変だ。
 もしかしたら、なにか変なふうに疑われるかも知れない。そんなのはごめんだ。

 そんなことを考えながら、トモヤはゆっくりと意識を失っていった。





 もう一つの異変は、トモヤの家からは少し離れた、人気の無い山の中で起こった。

 何の前触れもなく、物音もなく、突如としてそれは現れた。

「ラケル、反応はどうか」

 太い、男の声がする。
 鉄の、約十メートル四方の建物の中で、だ。

「大気成分、セフィロトのエネルギー量、共にデータと一致しています。
 間違いありません。我々はいま、 造営の世界(アッシャー) ≠ノ居ます」

 興奮気味に答えたのは、女の声だ。建物の中には、三人の男と一人の女が居る。

「外は、夜か。どうする、オリゲリス。朝になるのを待つか」
「いいや、アレクセイ。何か、胸騒ぎがする。急いだほうが良さそうだ」

 オリゲリス、と呼ばれたのは、長いひげを蓄えた、四人の中で最も年長者である男だ。

 彼を含め、四人はみんな、同じような服装をしている。
 白い絹に頭と腕を通すための穴を開けただけの、簡素な衣服。
 物語に出てくる、天使が着ている服によく似ていた。

「そうか、分かった。いますぐ行こう」

 アレクセイ、と呼ばれたほうの男がそう言って立ち上がったが、そこへ異を唱えるものが居た。

「本当に行くのですか。人間に力を借りるなど、恥ずべきことです」
「しかしだな、ジュリオ。我々に残された道は、もうこれしかない。
 手段を選んでいる場合ではないのは、君にだって分かっているだろう」

 ジュリオ、と呼ばれたその男は、まだ若い。
 年齢はまだ二十を超えたばかりと言ったところで、まだ少年であると言ってもよい。

 そんな彼が、一団のリーダーであるアレクセイに向かって異を唱えたのは、
 どうしても気に入らないことがあったからだ。
 それは今彼が言ったように、「人間」に力を借りることが気に入らないというのと、実はもう一つある。

「ルーリアは、どうするのです」

 むしろこちらの方が、彼に異を唱えさせた要因としては大きい。
 ルーリアというのはアレクセイの娘であり、ジュリオが密かに想いを寄せている相手でもある。
 そんな彼女に対して先日与えられたオリゲリスの予言≠ェ、どうしても彼には納得できなかったのだ。

「ルーリアか……そうだな。ラケル、あの子は今どうしてる」
「たぶん、奥で休んでいると思います。いろいろと、疲れているようでしたから」
「そうか。では無理に連れて行く必要はない。
 一人で残して行っても危険はないと思うが……ラケル、念のため、君がついていてやってくれ」
「分かりました」

 ラケルの返事を確認すると、アレクセイはもう一度、ジュリオの方へ向き直った。

「では、行くぞ」

 今度こそ、彼らは鉄の建物を出て、目的地へと向かった。
 全く勝手の分からないはずの異世界において彼らが目的地の方向を把握できていたのは、
 やはりオリゲリスの予言≠フおかげである。

 目的地に着くと、オリゲリスの「胸騒ぎ」は確信に変わった。

「どうやら、ただ事ではないぞ」

 中に入ると、あらゆることを経験してきた彼らですら目を背けたくなるような、とんでもない惨状が広がっていた。
 アレクセイは、もはや遅かった、と諦めかけたが、オリゲリスは冷静だった。

「上だ」

 彼らの唯一の希望である少年は二階におり、まだ生きているという。
 俄かには信じがたかったが、とにかく彼らはその言葉を信じ、階段を駆け上がった。

 果たして、そこには一人の少年が居て、確かにまだ生きていた。
 しかしながら彼もかなりの深手を負って倒れており、早急な治療が必要であるのは明らかだった。

「どうだ、オリゲリス。助かりそうか」
「保障はできんがな。いずれにせよ、ここでは無理だ。シェキーナに連れて帰るぞ」
「シェキーナに人間を入れるのですか。空気が汚れます」
「うるさいぞ、ジュリオ」

 戻る途中、オリゲリスはもう一度、この家の惨状に目を向けた。
 幸せであったはずの家庭で繰り広げられた悲劇。
 状況からみて、恐らく少年はこの惨状を目の当たりにしたはずである。

(助けたところで、果たして協力する気になるかどうか)

 恐らくなりはしない、とオリゲリスは思った。
 もしこの少年が普通の神経をしているのなら、まず立ち直れない。
 死にたい、とすら思うかも知れない。

(……どちらにせよ、私には関係のないことだが)

 外に出ると、少し肌寒い風が吹いていた。
 暑かった夏は、もうすぐ終わりを迎えようとしている。