目が覚めて、トモヤはまず自分が目を覚ましたことに驚いた。

 真っ白いベッドに寝かされていて、同じように真っ白い服を着せられている。
 傷の手当てもされているようだ。

(……生きている、のか?)

 不思議に思ったが、混乱はしていない。

 目に映るのは、ただ鉄の板をつなぎ合わせただけのような、無機質な天井。
 周りの壁も同じような鉄色で包まれていて、左右両側にあるガラス張りの窓だけがぽつんと浮いているような感じ。
 トモヤにとっては見慣れない光景だったが、ここが「あの世」というやつではないのは分かった。

(変だな……なぜ、そんなことが分かったんだ)

 奇妙な感覚。分かったというよりは、最初から知っているような感じがした。

 そもそも、何かがおかしい。
 自分が真っ白いベッドに寝かされているのも、傷が手当てされているというのもみんな、目で見て確認したのではない。
 目が覚めた時には、もう全てが分かっていたのだ。

 それだけだはない。
 冷静になってみると、トモヤは今自分の置かれた状況について、余すところなく理解していることに気が付いた。
 目を覚ましてからのことも、気を失う前の出来事についても。
 あの時はまるで頭の中にモヤがかかったようでなにも分からなかったが、今は全てを鮮明に思い出すことができる。

(そのわりには、悲しくもない)

自分が家族を失ったというのは、紛れもない事実。
 だというのに、あの時のことを思い起こしてみても、何も感じない。
 あまりにもいろんなことが分かりすぎるので、それに流されて感情がどこかへ行ってしまっている。そんな感じだった。

 もう動いても大丈夫なことは分かっていたが、何もする気が起きない。
 しばらくぼんやりと天井を眺めていると、耳のすぐ傍で「あ」という声がした。

「お目覚めに、なられました?」

 透き通った、少女の声だ。

 声が聞こえたのは突然だったが、ベッドの傍に誰かがいるのは分かっていたので別に驚きはしていない。
 ゆっくりとそちらへ目を向けると、声の主の外見はトモヤの予想をはるかに上回っていて、どちらかというとそれに驚いた。


「ご気分はいかがですか? 私、ルーリアっていいます」

 椅子に座ったまま、覗き込むようにして話しかけてくる。
 自然と、彼女の顔はトモヤの顔のすぐ近くに来ていた。

初めまして、と言って、ルーリアはにっこりと微笑んだ。
 なぜ彼女が微笑んでいるのか、トモヤにはよく分からない。

 トモヤを見つめ返してくるのは、まるでエメラルドがはめ込まれたような、深緑の瞳。
 どこまでも深くて、澄んでいて、見ていると吸い込まれそうになる。

 薄い唇に、ツンと高い鼻。
 見事に左右対称になった輪郭の向こうで、金色の髪が光に透けて、まるで純金の滝のようにさらさらと流れていた。

(天使―――)

 トモヤがそう思ったのは、たんに彼女の外見から連想したのではない。
 別に背中から羽が生えていたわけでもないのだが、彼女がそういう存在であるのだとトモヤにはすぐに分かった。

「えっと、混乱してらっしゃいますよね。
 ここは『シェキーナ』っていう、私たちの基地みたいなものの中です。
 危険はないので、安心して下さいね」

 少し緊張しているのか、ルーリアの純白の頬には少し赤みがさしている。

(天使と言っても、人間と何も変わらないな)

言葉を選びながらゆっくりと話す彼女の様子を見て、ぼんやりと思う。

なぜ彼女が天使だと分かったのか、そしてなぜそんなものが今目の前に居るのか。
 考えればみんな分かりそうな気がしたけど、トモヤは考えようとしなかった。
 そんなことはどうでもいいことだと、トモヤには分かっていたのだ。

(分かる、分かる、分かる、か。どうでもいい)

 自分が異常であると、トモヤは自覚していた。
 が、その原因を考えようとすると、とたんにどうでもいいような気分になってしまう。
 それはトモヤの性格とかが原因なのではなく、誰かに「考える必要はない」と言われているような感じだった。

「あの……? 私の言葉、分かりますよね?」

 トモヤが何も言わないので不安になったのか、ルーリアは少し困ったような顔をした。
 が、トモヤはやはり答えない。黙ったまま、体を起こした。

「あ、まだ動いては―――」

 ルーリアは慌てて手を差し伸べたが、トモヤはそれを邪険に振り払った。
 別に、彼女の行為が気に食わなかったわけではない。
 彼女が優しさを見せたとたん、急に自分自身に嫌気がさしたのだ。
 あの時、あのまま死ぬはずだった自分がこうして生きていて、こんな少女の看病をうけている。
 その事実が、どうしようもなく嫌だった。

「え? あの、私……」

 なぜ自分が拒絶されたのか分からず、ルーリアは混乱している。
 だけど、トモヤにとってはどうでもいいことだ。

 彼女を無視して、裸足のままベッドを降りた。
 足の裏に伝わるのは、ひんやりした鉄の感触。トモヤはそのまま、部屋の出口らしき方へ向かった。

「ちょっと、待って下さい。どこに行くんですか」

 後ろからルーリアの慌てた声が聞こえたが、無視して歩いた。 
 傷はまだ完全には治っていないらしく、体を動かすたび傷口に痛みが走る。
が、それは今までに感じてきた痛みという感覚とは明らかに違っている気がした。

(痛く、ない?)

 おかしな感じがする。痛みはあるのに、痛くない。
 痛い、という情報だけが脳に伝わっていて、感覚としての痛みは機能してないのだ。

 まるで、自分の感覚が体から離れて、何処かへ行ってしまっているよう。
 どこがどの程度痛いのか、詳しいことまで分かるので他人の痛みとはまた違うけど、かといって自分の感覚としてはなにもない。
 トモヤ自身よく分からなかったが、言うなればそんな感じだった。

(まあ、いいか。ようは、死ななければいいんだ)

 そう思ったあと、トモヤは自分で自分が可笑しくなって、少し笑った。
 だって、自分はあの時、そのまま死んでもいいと思ったのだ。
 なのに今は、死ななければいい、だって?

(いったい、死にたいのか死にたくないのか、どっちだ)

 自分というものが、どうしようもなくちっぽけで、つまらない存在に思えた。
 自己嫌悪、というやつとはまた違っていて、ようするに彼が思ったのは、自分なんてどうでもいいということ。
 どうでもいいのだから、嫌悪もしていない。

目の前では、いくつか並んだベッドの向こう側、まるで監獄みたいに色気のない鉄の壁に同化するようにして、同じく無機質な鉄のドアが閉まっている。
 ドアノブらしきものがないので一瞬戸惑ったが、前に立つとひとりでに、音もなく開いた。
 どうやら、自動ドアになっていたらしい。

「え―――」

 ドアが開くのと同時に、向こう側、つまり隣の部屋に居た人影がいっせいにこちらを向いた。

 三人の男と、一人の女。
 トモヤが出てきたのがよほど意外だったのか、全員椅子に座ったまま、驚いた表情でこちらを見ている。

 こちら側の部屋も、やはり無機質な鉄色に包まれていた。
 ただ、ベッドしか置かれていなかった先ほどの部屋とは違って、こちらには何やら、よく分からない計器のようなものがいっぱい並んでいる。
 それと向かい合わせにして、背もたれの付いた大きな椅子がいくつか置いてあって、四人はそこに座っていた。

(こいつらも、天使か)

 またもや、トモヤの頭の中に知らないはずのことが思い浮かぶ。
 もっとも、ルーリアと行動を共にしているのだから、彼らも彼女と同じ身の上であって当然なのだが。

トモヤは無言のまま、つかつかと正面にある出口に向かって歩いた。
 話すことなんて何もない。
 そのままドアの近くまで来たとき、いきなり天使の一人が勢いよく立ち上がって、乱暴にトモヤの肩をつかんだ。
 四人のなかで一番若い男。ジュリオだ。

「おい、待てよ。俺たちは、わざわざ出向いてお前を助けてやったんだ。なにか、言うことはないのか」

「……」

 ジュリオの声は明らかに怒気を含んでいたが、なおもトモヤは無言のまま、表情一つ変えない。
 睨み付けるでもなく、感情の無い冷めた目でジュリオの顔をじっと見ている。

ジュリオはいよいよ怒りを募らせて、トモヤの胸ぐらにつかみかかった。

「お前、人間のくせに―――」

「止めてください、ジュリオさん。その人、怪我してるんですよ」
 後ろからついて来ていたルーリアが、慌てて止めに入った。
 彼女の声で一瞬はっとしたジュリオだったが、すぐに気をとりなおした様子でルーリアに言い返す。
 トモヤにつかみかかった手は、離さないままだ。

「なぜこいつをかばうんだ、ルーリア。
 君だって、昨晩は寝ずに看病していたのに、どうせ礼の一つも言われていないのだろう」

「それは……でも私、ずっと隣に居ただけで、何もしてませんし。
 それに、その人を助けたのは私たちが勝手にしたことなんですから」

 ルーリアがそういう風に言い返してきたのは、ジュリオにとって意外だった。
 ジュリオの知る彼女はどちらかというと気弱なほうで、いつもなら何かを言われると黙り込んでしまう。
 なのに、今の彼女はどうしてこんな物言いをするのか。
 やはりこの人間の男のせいなのかと思うと、ジュリオはよけいに腹が立った。

「ルーリアの言うとおりだ、ジュリオ。いい加減、そのみっともない差別思想は止さんか」

 そこへ、ようやくアレクセイが口を開いた。

本音を言えば、トモヤの態度はアレクセイにしても多少は気に入らないところがある。
 ただ、彼がジュリオと違ったのは、トモヤの置かれた境遇について多少は同情の念をを抱いていたということ。
 とはいえ見ず知らずの、しかも自分とは違う
種類(・・) の少年を無条件にかばうほどのお人好しでもない。
 態度を決めかねて少しの間黙っていたが、このままだとジュリオの怒りはいっこうに治まりそうにないので、仕方なくそう言った。

「我々がなんのためにわざわざ異世界くんだりまで来たのか、まさか忘れたわけではあるまい。
 お前のその身勝手な思想のせいで、世界が救われなくなったらどうしてくれる」

 アレクセイに続いて、オリゲリスも加勢する。
 ラケルだけは何も言わず黙っていたが、ジュリオに加勢する様子もない。
 仕方なく諦めて、ジュリオはおずおずとトモヤから手を離した。だけど、離れぎわ、

「……認めないからな、俺は。お前なんかに、ルーリアは渡さない」

 他の者に聞こえないように、小声でそんなことを言った。

(たまらないな。どんな事情か知らないけど、俺を勝手に巻き込むな)

 そう思ったが、やはりトモヤは何も言い返さない。
 ジュリオが自分の席に戻るのを見届けると、そのまま踵を返してまた出口へと歩き出した。

「待ってくれ。我々に、事情を説明させてくれないか」

 それを呼び止めたのは、アレクセイの声だ。トモヤは一度足を止めかけたが、

(説明も何も。大体のことは、もう分かってる)

 そう思い直して、やはりそのまま出て行くことにした。

 ドアが開くと、その先は外へつながっていた。
 森か何かの中みたいで、見えるのは木の幹と葉っぱと、落ち葉に埋もれた地面だけ。
 薄暗かったので夕方かと思ったが、見上げてみると木々の間から青々とした空が見えたので、昼間なのだと分かった。

 少しの間、トモヤは出口に突っ立ったまま、じっと空を見上げていた。青い空、銀色の太陽。

青と、銀。

(そうだ、あいつ)

 一つだけ、分からないことがあった。
 家族を殺して、トモヤにも深手を負わせた、あの男。

(天使たちなら、何か知っているか?)

 あの時、理由も無く「あれは人間ではない」と思ったのを覚えている。
 いま冷静に考えてみても、確かにそれはそうだ。
 あんな外見をした人間は、この世界では見たことがない。

だけど、天使たちと比べてみると、どうだろう。
 あの透き通った蒼い目は、四人の中では部屋の右側に居た女(つまりラケルのことだが)のものに似ている。
 銀色の髪、という特徴はこの場の誰とも一致しないが、少なくとも自分たち人間と比べると、天使たちにはなんとなくあの男と近いものがあると思う。

他の「知っている」こととは違って、これはトモヤにとっても単なる予想にすぎなかったが、多分、あの男は天使だったのだ。
 ならば、同じく天使である彼らに訊けば、何か分かるのではないか。

「どうだ。なにか、訊きたいことはないかね?」

 上を見たままじっと考えていると、アレクセイがそんな事を言ってきた。
 ちょうどいい。
 このとき、トモヤは初めて天使の前で口を開いた。

「一つだけ―――」

 とは言っても、面と向かって言葉を交わしたのではない。
 視線は空から動かさないまま、背中ごしに言う。

「あの、銀色の髪の男。あいつの狙いは、俺か?」

 それを言ったとたん、背後で明らかに天使たちに動揺が走った。
 訊いてはいけないことだったのか、それとも何か他のことに動揺しているのか。
 なんとなく後者であると、トモヤには分かった。

「……そうか、分かった」

 天使たちは何も答えていない。
 が、トモヤにはそれで十分だった。
 口にしたときに違和感がなかったのだから、きっとそれで正解なのだろう。

 トモヤはまた歩き出した。

「待て。どこへ行くんだ」

アレクセイの声が聞こえたが、そんなのは訊かなくても分かりそうなものだ。
 というか、質問の内容からして既に間違っている。

「どこへも行かない。ただ、帰るだけだ」

 短く言って、彼は鉄の建物を後にした。

 

 

「銀色の髪の男、とは、やはり(エヴァ)≠フことだと思うか、オリゲリス」

 トモヤが去ってから、一行はしばらく無言だった。
 話し合うべきことが多すぎて、何から始めたらいいのか分からなかったが、やっとのことでアレクセイはそれだけ口にした。


「それはそうだろう。いくら世界広しと言えど、あのような所業はあの男にしか考えられんし、考えたくもない」

 内心、アレクセイはオリゲリスが否定してくれることを期待していたが、現実はそう甘くはない。
 これでまた、いつ見つかるかとビクビクしながら暮らさないといけないのだ。
 そう思うと、自然とため息が出た。

「じゃあ、あの人も危ないってことじゃないですか」

 そんな中、ひときわ大きな声を出したのはルーリアだ。
 普段ならばこういう時はめったに口出しをしないのだが、今日の彼女はどこかいつもと違っている。

「それはそうだが、彼は―――」

「私、彼に付いていきます。一人にはさせられません」

 言うが早いか、ルーリアはたっと駆け出した。
 ジュリオが「おい」と言って止めようとしたが、聞く耳を持たない。
 あっという間に、彼女の姿はドアの向こうへと消えた。

「―――」

残された四人は、少し呆気にとられてしまった。
 とりわけ父親であるアレクセイは、ぽかんとした表情で彼女が消えたドアを見つめている。

「……どうしたんだ、あの子は。いつにも増して行動的じゃないか」

 本来話し合うべきことも忘れて、アレクセイはそんなことを言った。

「たんに、オリゲリス様の予言を信じているだけでしょう」

 答えたのは、先ほどからずっと黙っていたラケルだ。
 彼女はルーリアの事に関してアレクセイから一任されているので、ルーリアの話題が出るとたいていは彼女が答えることになっている。
 ラケルは、さらに言葉を続けた。

「それにしても、あの人間の子。あの態度はなんとかならないのでしょうか。
 あれではルーリアがかわいそうです」

「彼に知識の実≠与えたのだから、仕方あるまい。
 彼にとって、会話というのは意味をなさない行為だからな」

 長く伸びた顎ひげを撫でながら、オリゲリスは言った。
 なにか含みのある発言をするときにそうするのが、彼のくせだ。

「ルーリアを行かせてもよかったのでしょうか。
 
(エヴァ)≠フこともありますし、そうでなくても彼女は人間のなかでは目立ちます」

 ジュリオは、またルーリアのことを言っている。
 彼の思惑としては、なんとかトモヤとルーリアが近づくのを防ぎたかった。
 できれば自分もルーリアの後を追いたかったが、さすがに立場上そんなことは出来ない。

「我々と一緒に居たところで、もし奴に見つかるようなことがあればどうしようもない。
 知識の実≠フ力を持つ彼と一緒にいたほうがまだ安全というものだ」

 そこまで言うと、オリゲリスは一度言葉を切って、ジュリオの顔をじっと見た。

「お前には無理なのだよ、ジュリオ。
 何度も言うようだが、お前は
適格者(ツィム・ツム)≠ナはない」

「……」

 オリゲリスの言葉には、容赦というものがない。
 いつも、事実だけを口にする。

「彼の家族を殺したのが奴だというのなら、むしろ好都合だ。
 彼には仇を討つついでに、世界も救ってもらうとしよう」

 不敵にそう言いつつも、オリゲリスにはひとつ気になることがあった。

(しかし、なぜ命≠ヘ、彼にだけきちんと止めを刺さなかったのだ?)

 

 

 外に出てみても、トモヤの異常はなくならなかった。

 体を撫でていく風。暖かな太陽の日差し。
 それらも、やはりただの情報としてしか受け入れられない。
 外の方が体にうける刺激が多い分、自身の異常さがよけいに際立っている感じだ。

 そもそも、彼は裸足で歩いているのだ。
 ところどころに石の出っ張った山道を、である。
 ふつうなら痛くて歩けないはずなのに、彼はなんとも思わない。
 腹の傷もまだかなり痛むのだが、感覚としては何もないので、トモヤはなんの支障も無く歩くことができた。

(大怪我をしたから、感覚がおかしくなった?)

 とんでもない大怪我をしたら、その後あまり痛みを感じなくなる、という話を聞いたことがある。
 でも、この異常はそういうのではない気がした。
 痛い、と分かっていても、感じない。

(これでは、まるで―――)

 自分が自分でなくなってしまったようだ、と思おうとして、トモヤは途中でやめた。

 だって、そんなの当たり前だ。
 あの時―――昨夜、銀髪の男に腹を貫かれた時に、トモヤは死んだのだ。
 死んだのだから、今ここにその人物が居るはずがない。

 そうだとすると、この異常にも多少は説明がつく。
 今まで自分であり続けたものが、死んだのだ。
 感覚もおかしくなって当然というものだろう。

(では、今ここに生きている俺は、何だ?)

 手のひらを、太陽にかざしてみる。
 うっすらと血の色が透けて見えて、たしかに生きているのだと分かった。

(トモヤの亡霊ではない。ここにはなにか、違うものが生きている)

 彼にとっての自分とはあくまで「トモヤ」であるのだが、今の自分はそれとは違う。
 自分であって、自分でない。
 その矛盾は不快でもあったし、逆に心地よくもあった。

 追いかけてくる気配に気が付いたのは、その時だ。
 それもやはり、振り向いたり足音を聞いたりしたのではなく、ただ「分かった」のだが。

(確か、ルーリア、だったか)

 その気配が彼女だということも、なんとなく分かる。
 無視しようかとも思ったが、あんまり必死についてくる様子だから、さすがに気になった。
 自分が眠っている間ずっと付いていたと言うし、彼女ならばこの感覚の異常についてなにか知っているかも知れない。
 トモヤは、彼女が追いついてくるのを待つことにした。

「あの、待って、ください」

 トモヤが振り向かないので気が付いていないと思ったらしく、彼女は必死に呼びかけてくる。
 全力で走ってきたのか、息も絶え絶えという感じだ。

(そんなに早く歩いたつもりはなかったんだけど)

 トモヤはそう思ったが、確かにいつの間にか、わりと長い距離を歩いたようだ。
 目の前では、もうすぐ山が途切れようとしている。
 自分はいま変な格好(真っ白な絹で出来た、天使たちと同じ服装だ)をしているのだから、人に見られるのは避けたい。
 ルーリアと話をするなら、山の中での方がよさそうだ。

 振り返ると、彼女はもうすぐそこまで来ていた。
 彼女の金色の髪が日の光を浴びて、いよいよ輝いて見える。

(確かに神々しいものを感じなくもない。天使というだけはあるな)

 生まれつきの金髪、というだけならこの世界にも居るが、あんな色はテレビの中ですら見たことがない。
 見たことがあるとすれば絵画の中、それも大昔の、神と天使の様子が描かれたようなやつの中でだけだ。

「ふう、よかった。やっと、追いついた」

 トモヤの目の前で立ち止まったルーリアは、ひざに手を突いて、肩で息をしている。

なにか、ハーブのような香りが彼女から漂ってくるのが分かった。
 香水やらシャンプーやらの匂いとは違って、自然にあるものをそのまま使っているようだ。

それは分かるのだが、トモヤはやはり何も感じない。
 トモヤにとってそれは匂いではなく、ただの情報なのだ。
 ようするに、どんな成分がどれだけ含まれているか、ということがつらつらと書かれた説明書を読んでいるような感じ。
 そんなものに、何かを感じられるはずがなかった。

「どうしたんだ、そんなに慌てて」

 感情のない声で、トモヤは言った。
 どれだけルーリアが魅力的だろうと、今の彼の心を動かすことはない。

 が、何を思ったのか。トモヤの声を聞いたルーリアは、ふふっ、と嬉しそうに笑った。

「なんだか、変です。さっきは、あんなにそっけなかったのに」

 弾むような声で、そんなことを言う。
 トモヤが口をきいただけでそんなに嬉しいのだろうか。
 よく分からなかったけど、今は訊きたいことがあるのだから黙っているわけにもいかない。

「ん。そういえば、さっきは何も言わなかったか」

「ええ。まだ名前も聞かせてもらってません」

 ようやく息が落ち着いてきたらしく、彼女はひざから手を離して、まっすぐに立った。

 思ったより、背が高い。
 トモヤも同年代の男の中では小さいほうではないが、ルーリアの頭は彼の鼻ぐらいまで来ていて、実質二人の背丈はほとんど変わらない。

 薄い胸に、すらりと伸びた細い足。
 女性、というよりは、なにかよくできた彫刻でも見ているようだ。
 天使の中ではどうなのか知らないが、もしこんな女の子がこの世界にいたら、たいていの男は気後れしてしまうだろう。

(名前、か―――)

 少し迷った。
 だって、ここに居るのはトモヤではない、とさっき思っていたばかりだ。
 にもかかわらず、今ここでその名前を名乗ったのならば、何か変な感じになってしまう。

 とはいえ、わざわざ偽名を使うのはもっと変だ。
 仕方なく、彼は言った。

「トモヤ、と呼んでくれ」

「はい。トモヤ様、ですね」

 ルーリアは、ますます嬉しそうに笑った。
 様、なんてつけなくていい、とトモヤは言おうとしたけど、彼女の顔を見ているとそんな気も失せた。

「それで……ルーリア、だったか」

「あ、はい。ルーリア・ガブリエルです」

「ガブリエル―――」

 知っている名前だ。
 トモヤは伝承やら宗教やらに詳しいほうではなかったが、その名前ぐらいは聞いたことがあった。

「たしか、前に読んだ本には『天使の中でも最高位にあたる』と書いてあった。
 なんだか、そんなふうには見えないけど―――君が、そうなのか」

「え」

トモヤが言うと、ルーリアはいかにも心外、という顔をした。
「なんです、それ。ガブリエル、っていうのはただの天使名で、特に意味はないですけど……」

「ん、そうなのか。で、その『天使名』というのは?」

「ええっと、そうですね、何と言えばいいか……私の場合、『ルーリア』というのが親に付けられた名前ですね。
 だけど、それとは別に、生まれた瞬間に神から与えられる名前、というものが天使にはあるんです。
 それが、私の場合は『ガブリエル』だったんですね。
 誰に教えられたわけでもないんですけど、物心ついたころにはいつの間にか知っていて、みんな自分から名乗りはじめるんですよ」

「ふうん」

 言われてみると、また例の「知っている」感じがした。
 ルーリアの言う天使名とは、要するに人間で言うセカンドネームのようなものだ。

ガブリエル、というのが格の高い天使だと伝えられているのは、たまたま人間が見たときに、そういう名前の天使がその地位に就いていただけ。
 別に、その名前が特別なのではない。

変な感じだ。
 知らないと思えば何も知らないし、知っていると思えば何でも知っている。
 そういうのが真に「知っている」ということなのだと、トモヤはなんとなくそんな気がした。

(まあ、いいか)

「行くぞ」

「え」

 トモヤが言うと、ルーリアはまた意外そうな声を出した。

「行くぞって……トモヤ様、お家に戻られるんですよね」

「ああ、そうだけど」

「付いていって、いいんですか?」

 ルーリアは、遠慮がちに言う。
 何を躊躇っているのかよく分からなかったけど、家に招かれること自体に抵抗を感じているのではない、ということは何となくトモヤにも分かった。

「別に、俺のほうにいやがる理由はないけど。
 君がいやなら、無理に付いてこなくてもいい」

 わざとそういう言い方をしてから、トモヤはくるりと後ろを向いて、つかつかと歩き出した。
 ルーリアがどういう反応をするか、トモヤには大体の予想はついている。

「あ、ちょっと待って下さいよ」

 案の定、彼女は慌ててついてきた。二人並んで、山を下る。
おかしな気分だった。死んだはずの人間が、生きている人間と―――いや、実は天使なのだが、とにかく二人ならんで歩いているのだ。
 なんだか、よく分からない。

途中、ルーリアはトモヤが裸足だったことに気付いて驚いたが、予備の靴なんてあるはずがない。
 ルーリアは自分の靴を脱いでトモヤに履かせようとしたが、大丈夫だからと断って、そのまま歩いた。

少し行くと、すぐに山は開けた。
 目の前には、色とりどりの屋根に、色とりどりの壁。
 人里に出たようだ。

「へえ。この世界の町って、こんなふうになってるんですね」

 ルーリアはのん気な声を出したが、トモヤは何も言わない。
 この時、トモヤはいよいよ自分の異常さを痛感していた。

(どうかしてるな、これは)

 あまりにも、分かりすぎる。

どの家にどんな人が居るのか。
 何をしていて、何を話しているのか。
 そこに立っているだけで、すべて分かるような気がした。

「……あれ?」

 ふと、ルーリアが何かに気が付いたような声を出した。

「そう言えば、トモヤ様。誰か、私たちが天使だってこと、言いました?」

「いや、聞いてない」

「でも、さっきの言い方だと―――」

「ああ。知ってる」

「……どうして?」

「さあ。俺にもよく分からない。むしろ、俺はそれを君に聞きたかったんだけど」

「え……私に、ですか」

「ああ。だいたい、なにかおかしいんだ。
 君は、俺が寝てるあいだ、ずっと傍にいたんだろう。
 そのとき、なにか俺の体をへんな風にいじらなかったか」

 言ってから、ちょっと誤解を招くような言い方だったかと思ったが、問題はなかった。
 ルーリアはトモヤが言わんとするところをすぐに理解したようだった。

「あ、そうか。そうでしたね。私たちのことをご存知なのは当然です。
 よく分かりませんけど、トモヤ様がご自身に異常を感じていらっしゃるのでしたら、それはきっと、トモヤ様の体に溶け込んだ知識の実≠フせいだと思います」

「知識の、実―――」

誰かがこっちを見ている様子はないし、こちらへ来るような気配もない。
 トモヤはそのまま言葉を続けた。

「最初の人間が、禁を犯して食べたっていう、あれか」

「ええ、そうです。よくご存知ですね」

「それが、俺の体に溶け込んだ? よく分からないな。どういうことだ」

「それは―――少し、長くなります。歩きながらお話しましょう」

「わかった」

 短く答えると、トモヤはまた歩き出した。
 今度は、ゆっくり。ルーリアのペースにあわせるように。

 家からは少し離れた場所だったけど、まったく知らない場所でもない。
 なんとか家の方向は分かるので、迷うことはなさそうだ。

トモヤの家があるのは、田舎でもなければ都会でもない、人口十万人ほどの町だ。
 人が居るところにはそれなりに居るが、少し裏に入ればとたんに人気は少なくなる。
 まして、今のトモヤには人の位置が把握できるのだから、人目につかないように歩くのは簡単なことだった。

 大通りはさけて、わき道へ。
 普段はあまり通ったことのない道を使って、家へ向かった。

 歩きながら、ルーリアはいろんな話をした。

彼女が言うには、知識の実≠ヘトモヤの傷を治すときに使ったのだという。
 オリゲリスは手を尽くしてトモヤの治療を試みたが、それだけでは間に合わなかった。
 もう手の施しようがなかったので、苦肉の策として知識の実≠与えてみると、みるみるうちにトモヤの出血はとまり、容態も安定したのだという。

 では、その知識の実≠ニは一体何なのか。

本当を言うと、「実」という表現は間違っている、とルーリアは言った。
 それはもともと丸くて硬い、石のようなもの。
 木に生っているわけでもなく、それは世界のどこかにたった一つだけ、普通の石にまぎれて転がっているのだ。

もちろん、食べることはできない。
 かと言って手に持っているだけでは何の意味もない。

それを扱えるのは、全世界にたった二人だけ。
 天使に一人、人間に一人。
 その二人のことを天使たちは
適格者(ツィム・ツム)≠ニ呼ぶのだが、その適格者≠フ手に渡った時、知識の実≠ヘたちどころに彼らの体に溶け込んで、そうしてようやくその力を発揮する。

つまりトモヤは、この時代における人間の適格者≠ネのだ。
 天使たちはオリゲリスの予言≠ノよってそれを知り、トモヤに接触してきた。

トモヤにはよく分からない話だったが、別のところではまた「知っている」感じがした。
 
 要するにこれが、「実」が彼に与える「知識」なのだろう。

 それによれば、彼が適格者≠ニして生まれたことに理由はないらしい。
 ただ、たまたま選ばれただけ。つまり神のいたずらというやつだ。
 それだけのために自分の家族が殺されたのだと思うとやるせない気持ちになったけど、いまさらどうしようもない。

 自分の中に、あらゆる知識が溶け込んでいる。
 そう思うと、確かに自分が何でも知っているかのようにも思えてくる。
 だけど、それでもたった一つだけ、分からないこともあった。

 例の、銀髪の男のことだ。
 あれは、一体何なのか。
 なぜ、トモヤを狙ったのか―――その肝心な部分を聞く前に、二人はトモヤの家に着いてしまった。

「……」

自分の家を見て、トモヤは複雑な気持ちだった。

 玄関の前に立って、じっと自分の家を見つめてみる。

飽きるほどに見慣れた佇まい。
 その前に立つと、いつも「帰ってきた」という気分になったものだ。
 だけど、それとは打って変わって、今そこに立って思い出されるのはあの時のことだけ。
 それ以外には、何もない。

あの時は、中に入ると異様な臭いがした。
 家族が皆殺しにされた臭いだった。
 そして、奥へと進んで、それからトモヤはあの赤い沼を見た―――。

あれから、半日。

この世界の人々は、誰もあの惨劇を知らない。
 きっと、これからも知ることはない。
 トモヤの家族は三人とも、永遠の「行方不明者」になってしまったのだ。

三人の遺体が見つかることはない。
 トモヤを連れて行ってから、天使たちはもう一度この家に来た。
 その時、バラバラになった遺体を片付けて、あの鉄の建物の近くに埋葬したのだそうだ。
 人に見つかって騒ぎになると、いろいろ都合が悪かったのだという。

「勝手なことをしてしまってすみません」

 ルーリアはそう言ったが、トモヤは正直どうでもよかった。
 あんな風になってしまったのだから、どっちにしろまともに慰霊を拝むことなんて出来やしない。
 人に見つかるまで放置されていたのだとしたら、むしろそっちのほうがかわいそうな気がする。

「いいから、入るぞ」

 そっけなく言って、トモヤはドアノブをつかんだ。
 天使たちが出入りしていたのだから、とうぜん鍵は閉まっていない。
 ドアを開けて、ルーリアと一緒に中へ入った。

 当たり前だが、中はしいんと静まり返っている。
「ただいま」と言ってみようかとも思ったけど、あまりにもバカバカしいのでやめた。

かすかに、あの臭いが残っている。
 だけどやっぱり、それも情報として脳に伝わるだけだ。
 感覚として、トモヤの鼻を刺激することはない。

ルーリアは嫌がるかと思ったが、案外彼女もけろっとしている。

「それで」

 トモヤの顔色をうかがいながら、何かを訊いてくる。
 くせなのだろうか、さっきからずっと、右手の指に後ろ髪を巻きつけるような仕草をしている。
 少し気になったけど、それについてトモヤは何も言わなかった。

「うん?」

「『うん?』じゃありませんよ。ここへ、何をしにきたんですか」

「何をって―――ここは、俺の家だ」

「知ってます」

「そうか。ならいい」

 それだけ言って、トモヤは奥へ向かった。
 何もすることはないけど、玄関に突っ立っているわけにもいかない。
 最初、何も考えずに居間へ行こうとしたけど、そういえばそこはあの惨状の現場になった所だ。
 いくら天使たちが片付けたと言っても、元通りになっているはずはない。
 そう思うと少し足がすくんだけど、もう一度見ておくべきだという気もして、結局そのまま居間へ向かった。

「あの、トモヤ様」

 ルーリアが、しつこく話しかけてくる。

「なんだ」

「まさか、本当に、帰ってきただけなのですか?」

「だから、そうだと言ってるだろ」

 それを言うと、背後でルーリアはため息をついた。
 呆れている、というよりは、何か困り果てているような感じだ。

「どうした。何か言いたそうだけど」

「ですから、話はまだ終わっていません。私たちがトモヤ様に会いにきた理由を―――」

「いや、いい」

 トモヤは短く言って、そのまま居間へ向かった。
 さっきからいろいろ聞いてはいたけど、正直言ってルーリアの話に全く興味はない。

「あ、ちょっと待ってください。あなたがこんなところに居たら、危険なんです。
 いつまた、あの男が襲ってくるか分からないんですよ」

「構わないさ」

 本当にどうでもいい事のように、トモヤはさらりと言ってのけた。

「今あいつが襲ってきて、殺されるのだとしたら、それでいい。
 今の俺には、生きたいと思う理由がない」

「――――」

 言葉を失っているルーリアを放って、一人で居間に行った。
 本当に、どうでもいい。
 ルーリアのことも、自分のことも。

やはり、居間の入り口は開いたままだ。
 そのまま入ってみると中は予想以上に片付いていて、トモヤは少し驚いた。

散らばっていた臓物やら骨やらはもちろんきれいになくなっていて、一面に広がっていた血の跡もほとんどない。
 あの惨状の名残といえば、畳のかすかな黒い染みとなって残っているだけだ。
 部屋の真ん中に立って見回してみても、少しだけ残っている異臭のほかは、ほとんどいつもと変わらない。
 家族みんなで過ごしていた時のままだ。

(ここであんなことが起こったなんて、なんだか信じられないな)
 だが、目を閉じると、あの時の光景がありありと浮かんでくる。
 マグマのような赤い沼。鼻をつく異臭。
 まるで、地獄のようだった。

(家族みんながああなったんだ。今ここに居るのがトモヤであるわけがない)

 銀髪の男がを狙っていたのだとすれば、なおさらだ。
 他の三人はあんなにひどい殺され方をしたというのに、本来の目的だったというが、五体満足で生きている。
 そんなこと、あるはずがないと思った。

 しばらくぼんやりと考えていると、ふと、本棚の上に置いてある一冊の本が目に留まった。
 昨日の夜、銀髪の男が現れる前に、トモヤの姉が読んでいた本だ。

 何となく手にとってみると、自然に、それを読んでいた姉の姿が思い出されてくる。

 そういえば、昨夜も姉はトモヤのくせのことを言っていた。
 たしか、姉がこの本を読んでいて、トモヤはその横でなにもせずに寝転んでいたときのことだ。

 トモヤには、手持ちぶさたになると左右の人差し指の爪をはじいて、カチカチと音を鳴らすくせがある。
 ほんの小さな音しか鳴らないはずなのだが、一緒に住んでいる家族にとっては気になるらしくて、ことあるごとに注意された。
 とりわけ、家族の中でいちばん神経質だった姉には、いったい何度言われたことか。

(けど、もう二度と注意されることはないわけだ)

 そう思うとすこし寂しい気もしたが、悲しいのかどうかは分からない。
 やっぱり、感情というものをほとんど失ってしまったのだろうか。

トモヤは、もう少し思い出してみることにした。

(ターギオリアの英雄―――)

 それが、昨日姉が読んでいたこの本のタイトルだ。

 そういえば、この「ターギオリアの英雄」についても、昨夜は何かを話した気がする。

『この伝承には、いろいろと分かっていないことがある』

 たしか姉は、そんなことを言っていた。
 大学の講義でそのへんのことを扱うから読んでいるのだ、と。

 ちなみにこの「ターギオリアの英雄」というのは、この世界に住んでいる誰もが知っている物語だ。
 この世界で最も有名な伝承であると言ってもいい。
 タイトルにある「ターギオリア」というのはトモヤたちが暮らしているこの世界の呼称であり、そこの「英雄」というのだから自ずと内容も知れてくるだろう。

 要するに、いわゆる「救世の英雄」についての物語だ。
 世界を救うために立ち上がった一人の男と、世界を滅ぼそうとする悪魔との戦いが描かれている。

 一体この話のどこに「分かっていないこと」なんかがあるんだろう、と昨夜はそう思ったのだ―――そんなことを、思い出していた時のこと。
 トモヤの後ろから、なにか妙に明るい声が聞こえてきた。

「あ。それって、本当にこっちの世界にもあるんですね」

 他でもない、ルーリアの声だ。
 背中越しに覗き込むようにして、トモヤの手の中にある本を見ながら話しかけてくる。

「うーん、じゃあやっぱり本当にそうなのかな。
 トモヤ様、こっちの世界でもやっぱり、世界全体のことを『ターギオリア』っていうんですか」

「……ああ」

 彼女が、無理に話題を作ろうとしているのは明らかだった。声の調子も、さっきまでと比べて妙に弾んでいる。

「やっぱり。トモヤ様、知ってます? 『ターギオリア』っていうのは―――」

「おい」

 ルーリアの話を途中で遮って、トモヤは短く言った。

「無理に和まそうとしなくてもいい。少し、黙っていてくれ」

「あ……はい。ごめんなさい」

 しゅん、となって、ルーリアは目を伏せた。
 彼女が何を言おうとしたのか、トモヤにはおおよその予想はついている。
 おそらく、「ターギオリア」という言葉について何か言おうとしたのだろう。
 だけど、それが神々の言語で「世界」という意味だというのはもう知っている。
 誰に教わったわけじゃないけど、「知識」として知っている。
 あるいは、何故その言葉がこの世界に伝わったのか、ということをルーリアは言おうとしたのかも知れない。
 それはトモヤにも分からないことだったけど、別に興味はないので、聞きたいとも思わなかった。

むろん、彼女も考えなしにそんな話題を出そうとしたのではないのだろう。
 トモヤを元気付けようとしているのだということは分かっていたけど、それが逆に鬱陶しくもあった。

(……おかしいな。俺って、こんなに嫌なやつじゃないはずだけど)

 ふう、とため息をついて、トモヤは窓のほうへ目を向けた。
 窓から見える外の景色は全くいつも通りで、その先にある人々の日常もやっぱりいつも通りに営まれている。
 そんな中、自分だけがどこか違う場所へ行ってしまって、二度ともとへは戻れない。
 なんだか、そんな気分になった。

「あの……トモヤ様」

 またルーリアが話しかけてきた。
 さすがに、今度は遠慮がちな声だったが。

「……なんだ。まだ何かあるのか」

「いえ、そういうんじゃなくて―――あの、これ、何ですか」

 そう言って、彼女は何かを手に取った。
 見れば、それはいつも居間に飾ってある、家族四人で写った写真だった。
 確か旅行かなにかの時に撮ったもので、みんないい顔をしているから、と言って父がわざわざ写真立てに入れて飾っておいたものだ。

「何って、写真だろう。知らないのか」

「しゃしん……? なんだろう、絵―――でもないか。念写みたいなものかな」

 振ったり裏返したりといろいろやりながら、ルーリアは物めずらしそうに眺めている。
 何やら一人でぶつぶつと呟いたあと、もう一度トモヤの方に向き直して言った。

「あの、これ貰ってもいいですか」

「へ?」

 思わず、間抜けな声を出してしまう。

いきなり何を言い出すのかとトモヤは思ったが、考えてみれば写真なんてどうでもいい。
 家族がみんな無事であったなら、それを見て「ああ、こういうこともあったな」と楽しい思い出に浸ることも出来るけど、今となってはそれも虚しいだけ。
 むしろ、そんなものをいつまでも飾っておいたら気が滅入るばっかりだ。

「別にいいけど。どうするんだ、そんなもん」

「いえ、ちょっと。じゃあ、ありがたく貰っておきますね」

 ルーリアがお茶を濁したので、トモヤもそれ以上は聞かなかった。
 彼女は何やら大事そうに、写真を懐に仕舞った。

 それを見ながら、トモヤは思う。

(天使、か)

 仕草、表情、感情の動き。
 見れば見るほど、人間となにも変わらない。

(だけど、あれは確かに、人間以外の何かなんだ)

 一体どこから来たのかは知らないけど、それは本来、ここに存在するはずのないもの。
 今まで通りの日常を送っていれば、トモヤの前には決して現れるはずのなかったもの。
 それなのに今は家にまで上がりこんできていて、しかも自分はそれと平然と話をしている。
 それこそが、自分が今までの日常を失ってしまったことの証であるような気がした。

(まあ、ここに居るのはトモヤじゃないんだし。今まで通りの日常、なんてものがあるはずないんだけど)

 もう一度、トモヤは大きくため息をついた。これからどうしていいのか、見当もつかない。

(とりあえず、姉貴の部屋でも見に行くか)

 そう思って、居間を出て行こうとした―――その時だった。

「う―――?!

 突如、トモヤは急激な目まいに襲われた。

(なんだ、これは―――)

 頭が混乱する。
 今までに経験したことのない感覚だ。
 立ち眩みだとかそういうのとは全く違う。

まるで、世界そのものがぐにゃりと曲がっているかのよう。
 真っ直ぐに立っていられず、ふらふらとトモヤは壁にもたれかかった。

やがて、頭の中を妙な感覚が支配する。

なんだか、気持ちがいい。
 ふわふわと、浮かんでいるような感じ。
 目の前では、全部がぐにゃぐにゃに曲がっている。
 足元も、世界も、自分の体も。
 何がなんだか、よく分からない。

麻薬やらシンナーやらをやったときの感じに似ていたのだが、もちろんトモヤにそんな経験はない。
 彼にとっては、初めての感覚だった。

「だい…………ですか、ト……さま!」

 ルーリアの声がしたけど、途切れ途切れで、何を言っているのか分からない。

(空だ―――)

 そう、空。
 そこに、このおかしな状態を引き起こしている何かがあるような気がして、トモヤは窓の方に行こうとした。

 が、真っ直ぐに歩けない。
 それはそうだ。
 何もかもが真っ直ぐでない。

よろよろ、よろよろ。
 まるでパチンコの玉にでもなったかのように、壁と壁の間をいったりきたりした。
 それでもなんとか窓のところまで行って、空を見上げて、そこに何かおかしなものが見えたような気がした―――その瞬間。


「おかえりなさい、トモヤ」

 急に、目まいがおさまった。

 

 

「バカな! あれがまた、境界線を越えたというのか!」

 アレクセイは、今正にそれを目に映しながらも、やはり信じられなかった。

(エヴァ)≠ェこちらへ来ているのだ。このような事態も、予想するべきだった―――」

「ルーリア! ルーリアは、賢者の石を持っているのですか!?

「そんな……! これじゃあここも、私たちの世界の二の舞に……」

 天使たちは、混乱の極みにある。
 誰一人として、自分たちがどうしていいのかを分かっていない。ただ、うろたえるだけだ。

「とにかく、ルーリア達を―――」

「アレクセイ様!」

 そんな中。
 ラケルの悲痛とも言える声が、部屋にこだました。

(エヴァ)≠ェ……」

 一同は、はっとして、いっせいに窓の外へ視線を向ける。

 彼らの視線の先で佇んでいるのは、一人の男。

 蒼い目、銀色の髪―――

 

 

 人々は歓喜した。

 文字通り、天から振って沸いた、幸福に。

「おお、金だ、こんなにある―――」

「ああ、やっと分かってくれたか、僕は君が―――」

「はははは、俺が一番だ! 一番なんだ―――」

 傍目には、狂っているようにしか見えない。
 が、誰も彼らを変に思うものはいなかった。
 なぜなら、彼らを見るその人もまた、同じように狂っていたのだから。

 彼らの目に映るのは、己が求めてやまなかった、幸福のかたち。
 何より欲しかったものが今目の前にあるのだから、それ以外はもはや目にも入らなかった。

「あ―――ああ―――」

 やがて、彼らの目は虚ろになっていく。
 そして、一人、また一人。
 糸の切れた人形のようにバタバタと倒れていって、それきり何も言わなくなった。

 彼らは、死んだのだろうか。

それはよく分からない。
 少なくともこれは、一般に恐れられている「死」というものとは明らかに違っている。

しかし、だ。

現に、彼らの肉体はそこに倒れたまま、もう二度と動かないのである。

 

 

トモヤは、驚いて振り返った。

長年、聞きなれた声だ。間違えるはずがない。

「おかえりなさい、トモヤ」

 母は、いつも通りの声で、言った。

「ああ、トモヤ。今日は父さんのほうが早かったみたいだな」
「早くしなさいよ。もう夕ご飯なんだから」

 みんな、居る。
 いつも通りにテーブルを囲んで、トモヤの帰りを待っていた。

(ああ、そうだ。これが―――)

 当たり前の日常。
 トモヤが生まれてから、今までずっと続いてきた平穏。
 それがいきなりなくなってしまうなんて、考えたこともなかった。

「ごめん。急ぐよ」

 これからトモヤは、二階の部屋に着替えに行かないといけない。
 それから部活の練習着を洗濯に出して、シャワーで軽く汗をながして、そうしたらみんなでご飯を―――

「……違う」

 その日常が壊れたのは、誰のせいだったか。

「こんなの、もう二度と、ありえない」

 あの時。日常を捨てて、一人で逃げ出したのは、誰だったか。

「俺のせいで、死んだ。……いや、違う」

 もしあの時、自分ひとりで、逃げ出したりしなければ。

「見捨てた。見殺しにした。それも―――違う」

 自分が、適格者(ツィム・ツム)≠ネんかじゃなかったら。

「……殺したんだ」

 この家の、家族でなかったなら。

「俺が、殺したんだ―――」

 この世に、生まれてこなかったなら。
 彼らは、死んだりはしなかったのだ。

「消えろ。こんなもの、俺は要らない」

 噛み潰したような声でトモヤが言うと、その通りになった。
 それの姿は一瞬にして消え去って、あとに残ったのは、誰も居ない部屋、血の跡がついた床―――

(……憎い。憎くて堪らない)

 心の底から湧き立つような憎悪。
 自分はこのまま死んではならないのだ、と彼は思った。

 復讐をしなくてはいけない。
 家族を奪った、誰よりも憎い、一人の男に。

(許さない。俺はお前を絶対に許さない。トモヤ……!)

 右腕で、左腕を思い切り掴んでみる。
 爪がくいこんで、やがて血が出た。

 なのに、痛くない。そう、痛くないのだ。

(ここに居る俺は、トモヤではない)

 ならば、好都合だ。
 この体のどこかに居るはずの、トモヤという男を、殺してやる。
 究極の方法で、それも散々に痛めつけてから。

それまでは、この正体不明の「自分」という存在も、生きなくてはならない。

「……ヤ様! トモヤ様、大丈夫ですか?!

 そう思ったところで、ようやく意識がもとに戻った。
 必死に叫んでいるルーリアの声が、少しうるさい。

「まだ、俺をその名前で呼ぶのか」

「え?」

「……いや、なんでもない」

 彼女が自分をそう呼ぶのならば、それでいいと思った。

 復讐すべき相手は、唯一自分の中にある。
 彼女がその名を呼ぶたびに、それを思い出すことができるのだから。

「俺は大丈夫。それより、何があった」

 もう一度空を見上げてみると、今度ははっきりと、おかしなものが目に映った。

 ここから見える大きさでは、太陽の五倍、いや十倍はあるだろうか。
 形は円形。ほぼ真ん丸だ。

 色はよく分からないが、とりあえず白い。
 白の中に、紫や赤、黄など色とりどりの線が斜めに入っており、それがくるくると横に回転している。

「そんな、落ち着いて言ってる場合じゃありませんよ、トモヤ様! このままじゃ、世界が、この世界が……!」

 ルーリアは、明らかに錯乱している。
 当たり前だ。
 それだけの大変な出来事が、今この世界で起こっているのだ。

 だが、対照的に、トモヤには慌てる様子など全く無い。
 落ち着き払った態度で、空を見上げている。

「アラボト天球―――あれが、どうしてここに」

 またも、知らないはずの単語がトモヤの口から出た。

アラボト天球。
 言い換えるならば、それは「天国」だ。
 本来は、天使たちの世界である
形成(イェ)()世界(ラー)≠ニ、人間たちの世界である造営(アッ)()世界(ャー)≠フ狭間に存在するもの。
 そこから形而下の状態でなくなった人間や天使の魂、つまり死者の魂に望む物を与えて、それを受け入れたものを吸収し、次に生まれ変わる時が来るまで内部で待機させる。
 要するに、魂の休息所と言ってもいい。


 だが、それはあくまで狭間に存在していてこそ機能するもの。
 今のようにどちらかの世界に出現してしまえば、形而上の状態にある魂、つまり生きている人々の魂にまで「天国」を与えてしまい、そしてやはり、それを受け入れた者の魂を吸収してしまう。

 要するに、先ほどトモヤが見た幻はアラボト天球が与えたものだった。
 トモヤはそれを受け入れなかったが、今この世界に居る全ての人々も、彼と同じような幻を見ていることになる。
 しかも、彼らはそれを幻とは思わない。
 感覚として、それは現実。
 触れることも出来るし、いつか消えてしまうこともない。
 彼らが求めて止まない理想、そのものなのである。

自分の求めているものが突如目の前に現れたとき、果たして人はどういう反応をするか。
 それを拒否することなど、考えもしないのではないだろうか。
 しかし、あの幻を受け入れることは、魂を失うこと、つまり死を意味するのだが―――。

「どうしよう、トモヤ様、私たち、せっかくこっちの世界に来たのに、これじゃあ、まるで―――」

「落ち着け。焦っても仕方がない」

 トモヤの声は、落ち着いていると言うよりは、感情がない。
「それで、なぜ君は無事なんだ?」

「あ、それは、このチョーカーのおかげ……
 って、トモヤ様、そんなこと言ってる場合じゃないんです!
 あの、空に浮かんでるあれのせいで、この世界は―――」

「そうか、これにはそんな効果があるのか」

 必死にまくし立てるルーリアを無視して、トモヤは彼女の胸元にあるチョーカーを手にとってみた。
 それの先端部分には、ゴルフボール大の丸い石のようなものが付いている。

賢者の石。
 それが、この石の名前。トモヤはまた知っていた。
 これは、ある特定の原石からしか作れない、貴重なものだ。
 これを持つ者は、神の加護を受けることが出来ると言われている。

とはいえ、手にとってみても、手触りはただの石ころと変わりない。
 とても、何か特別なものだとは思えなかった。

「あの、トモヤ様……」

「他の天使たちも、同じようなものをつけていたな。
 ということは、彼らも無事なのか」

「あ……はい。そうですね。そのはずです」

 仲間のことを思い出して少し冷静になったのか、ルーリアの声はようやく落ち着いた。

「じゃあいったん彼らのところへ戻ろう。その先のことは、それから考えればいい」

 それだけ言うと、トモヤは返事を待たずに歩き出した。

「あ、ちょっと、待って下さいよ」

 トモヤがあまりにも独りよがりに動くので、ルーリアはまた慌てた声を出してしまう。

 自分の世界が危機に晒されているというのに、そしてそのことを十分に理解しているはずなのに、
なぜトモヤは平気な顔をしていられるのか。
 ルーリアには信じられないことだったが、きっと彼はまだ実感できていないだけなのだ、とその時は思っていた。

 しかし、外へ出て、実際に倒れている人を見つけた時も、彼は一切の感情を見せなかった。

「これは、死んでるのか」

 平然と、そんなことを言う。

「死んでいる、と言っていいのかどうかわかりませんが……魂がアラボト天球に吸収されたんです。
 まさか、こっちの世界もこうなってしまうなんて……」

 ルーリアの声は、悲しみに満ちている。
 彼女は、天使の世界でもこれと全く同じ現象を経験した。
 それが、この世界でもう一度起ころうとしているのだと思うと、どうしようもなく悲しかった。

「そうか。あの幻を受け入れると、こうなるんだな」

 だというのに、トモヤの声には少しも感情というものが感じられない。
 それだけ言うと、トモヤは動かなくなった人間を放って、つかつかと歩いて行った。

(なんて、冷たいひと……)

 ルーリアは、心底そう思った。
 トモヤは本当に、世界なんてどうでもいいと思っているのだ。


「でも、そうですね。急ぎましょう。
 オリゲリス様なら、なにかいい方法を考えてくださるかもしれません」

 気を取り直して、ルーリアは歩き出した。
 確かに今は、目の前で倒れている一人の人間に構っている場合ではないのだ。

 今度は、人の目を気にする必要はない。
 だって、動いている人は誰も居なかったから。
 幾人もの倒れている人を横目に見ながら、最短距離を歩いて、二人は鉄の建物のところまで戻ってきた。

 そうして鉄の建物の前まで来た時、トモヤはある事に気が付いた。

(誰も、居ない?)

 建物の中には、気配が一つもないのだ。

(どこかへ行っている? いや、違う、これは―――)

「死んでる」

「え?」

「中の天使たちは、みんな死んでいる。
 ……いや、一人だけはかすかに生きているみたいだけど、かなりの重傷を負っていて、もう助からない」

「そ、そんな……そんなはずありません! どうしてそんなこと言うんですか」

「……」

 トモヤは何も言わない。
 どうしてと言われても、トモヤには中の様子が手に取るように分かったのだ。
 彼は、それをそのまま口に出しただけのこと。

無言のトモヤを見て何かを悟ったのか、ルーリアはいよいよ悲愴な顔をして、鉄の建物のほうへ駆け出した。

 そうしてドアが開いた瞬間、ルーリアが息をのむのが分かった。

「うそ……そんな……」

 ルーリアの背中が、鉄の建物のなかへ消えていく。

 トモヤは、後を追わなかった。
 外に立ったまま、ぼうっと鉄の建物を見つめている。

(これであの子も、俺と同じような身の上ってわけだ)

 運命というものの皮肉に、トモヤは吐き気がするような思いだった。

(……いや、違うか。天使たちが死んだのは、別にあの子のせいじゃないものな)

 空を見上げると、そこにはあのおかしな丸い物体。
 確か、アラボト天球だとか、さっきの自分は言っていた。

(天使たちはもう居ない。この世界の人々も、ほぼ死に絶えた)
 多くのことが、一度に起こりすぎる。
 なまじっかそれらの全てが分かるばっかりに、トモヤは余計に、何がなんだか分からなくなっていた。

(さて。これからどうすればいいのか―――)

 考えてはみても、答えはまるで見つかりそうにもなかった。

 

 

「うそ……そんな……」

 ルーリアは、今目の前で起きていることが信じられなかった。
 いや、信じたくなかった。

 トモヤの時と違って、天使たちは無残に殺されていたのではない。
 ただ、賢者の石を奪われただけ。
 つまり、彼らは魂をアラボト天球に吸い取られた。
 奇しくも、さっきルーリアが「死んでいると言っていいのか分からない」と言ったのと同じ状態だ。

が、彼女は今、間違いに気が付いた。
 いざ自分の身に降りかかってみると、これは間違いなく死んでいるのだと分かった。

だって、もう動かない。
 もう二度と彼らが笑うことはないし、語らい合うことも出来ない。

(いや……誰か、うそだと言って)

 彼らはみんな、何か満足そうな顔をして、あお向けに倒れている。
 まったく外傷はない。
 まるでただ眠っているだけのようにも見えて、だからルーリアは余計に、彼らがもう動かないのだということをどうしても受け入れられなかった。

 天使の世界が破滅した時も、そういえばそうだった。

突如、親しい人たちがバタバタと倒れた。
 それきり動かなくなった人々を前にして、一体何が起こっているのか、その時のルーリアにはまるで分からなかったのを覚えている。

 ルーリアが助かったのは、たまたま父から貰った賢者の石をお守りとして身に着けていたから。
 そして、さらに運の良いことに、彼女と親しい人物も二人、同じような偶然で難を逃れていたのだ。

 一人は、彼女の実の父親であるアレクセイ。
 もう一人は、ルーリアが幼い頃に亡くなった母の代わりをずっとしてくれていたラケル。
 支えてくれる人たちが居たからこそ、彼女は立ち直ることができた。

 だが。その「支えてくれる人」を、彼女はいま失ったのだ。
 今度こそ、完璧に。
 なんの疑いようもなく。

「お願い、誰か……」

 誰かにすがりたい思いだったけど、彼女を助けてくれる人はみんな死んだ。
 もう、どうしようもなかった。

「ルーリ、ア……」

 しわがれた声で名を呼ばれたのは、その時だ。

「オリゲリス、さま……?」

 声は、隣の部屋から聞こえたようだった。

よろよろと、歩いていく。
 ドアのところまで来て、それが開いた瞬間、彼女はもう一度息をのんだ。

「なんて、ひどい……」

 隣の部屋で倒れていたオリゲリスの体は、上半分しかなかった。
 腰の辺りから下を切り取られ、残った上の部分が彼女の名前を呼んでいる。
 下半身は、まるで大きなゴミのように、部屋の片隅に投げ捨ててあった。

「よかっ、た。お前は、無事、なのだな……」

「オリゲリス様……!」

 ルーリアは彼に駆け寄ったが、抱き上げていいのかどうか分からない。
 ただおろおろと、半分になったオリゲリスの体を見つめるしかなかった。

「オリゲリス様……一体なにがあったのですか」

「命≠セ。奴に、見つかって……ここに居ては、お前も危ない……」

「しっかりしてください、オリゲリス様!」

 ルーリアは、泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。
 彼女が泣かなかったのは、あることを思い出していたから。
 世界が滅んで、彼女が泣いてばかりいた時、「泣くな、強い子になれ」と何度も声をかけてくれたのが、オリゲリスだった。

「ルーリアよ、予言を、言い渡す。私の、最後の、予言だ……しっかりと、聞け……」

 黙ったまま、ルーリアはうなずいた。
 最後の、なんて言ってほしくなかったけど、それは口に出せなかった。
 さすがにこの惨状を目の前にして、それでも助かるのでは、なんて思えない。
 彼女は、それほど都合のいい性格ではなかった。

「お前は……適格者(ツィム・ツム)≠ニ共に、この世界をまわり、異端者≠スちを集める。
 そして、命≠倒し、世界を、救うのだ。分かった、な……」

「……はい。分かりました、オリゲリス様」

 精一杯の声で、ルーリアは返事をした。

果たしてそれが、オリゲリスに届いたのかどうか。
 彼は満足そうに、ふう、とため息をついて、やがて息を引き取った。

 それを見届けたルーリアは、今度こそ、泣いた。
 声を上げて、大粒の涙を流しながら。

 

 

 ルーリアが泣きはらした目をして出てきたのは、もう日が暮れ始めてからのことだった。

それから、彼女が全員を埋葬する、と言うのでトモヤはそれを手伝ってやった。
 死んだら土に還る、というのが天使たちの考え方なのだそうだ。

 土を掘る道具は鉄の建物に積んであったけど、ただでさえ二人で四人分の墓を掘るのは大変だ。
 しかも途中でルーリアがまた泣き出したりして、結局のところ、ほとんどトモヤが一人でやったようなものだった。
 やっとのことで穴を掘り終えて、天使たちの埋葬を終えたころには、もう夜が白み始めていた。

 ルーリアは、彼らの墓に向かって、黙って祈りをささげている。
 まだ少し泣いているようだったので、トモヤはもう少し待った。

 朝日が昇っていくのを、トモヤはじっと見つめている。
 朝日といえば綺麗なものなのだけど、今のトモヤには何も感じることが出来ない。

いつかまた、これを見て素直に「綺麗だ」と思える日がくるのだろうか。
 きっともう二度と来ないのだ、とトモヤは思った。

しばらくして、辺りもすっかり明るくなった頃、そろそろいいかと思ってトモヤは話を切り出した。

「それで、これからどうするんだ?」

「……この世界の人々も、みんな死んでしまったのではありません。
 中には、生き残った人たちも居るはずです。
 私は、その人たちを助けに行かなければなりません」

 思ったよりしっかりした声で、彼女は答える。

「それで、あの―――」

「分かってる。俺も付き合うよ」

 生き残った人々。
 それはつまり、あの幻を受け入れなかった人々のことだ。

(いったい、どんな奴らなのか)

 人の望むものを、無条件に与える幻。
 しかもただの幻ではなく、信じたものにとってはそれが現実となるのだ。

 それを受け入れない人。
 望むものが何もない人。
 生きることに、何の希望も抱いていない人―――

 そんな人々を助けるために、あちこちに死体の転がる世界を巡って、旅をする。
 それは一体、どんなものだろうか。

 銀色に輝く朝日と、狂ったように回り続けるアラボト天球。
 その二つを並べて目に映しながら、どうでもいい、とトモヤは思った。