やや広めの落ち着いた感じのする夜の個室の病室。長きにわたって入院している患者のために、サイドテー
ブルには綺麗な花が生けられているし、いくつかのぬいぐるみ等も飾られている。ひっきりなしに病室に見舞
いに来る客が多いのだろう。それ以外にも、いくつもの見舞い品らしきものが置かれていた。

 そして、そんな病室の壁際に大きめのベッドが置かれてある。本来ならばそこに窓があるはずなのだが、防
犯のためか。窓はふさがれていた。が、その代わりというべきか。コミュニケによって作られるスクリーンが
外の風景をリアルタイムで映し出し、さびしくないように考慮されている。

 そして、そこのベッドで安らかに眠る一人の女性。つややかだった黒い髪は、艶を失い、生気に欠ける印象
をもたらし、少し痩せている。しかし、まとう空気はかつてと変わらぬ精力的な女性。かつて蜥蜴戦争時にお
いてND-001ナデシコの艦長を勤めた「英雄」ミスマル・ユリカである。(本人はテンカワ・ユリカであると主
張しているが)

 コミュニケのウインドウから差し込まれる青い月の光が、やや血の気のうせたユリカの顔に当たり、ただで
さえ青い顔が、まるで死者のような顔色になっている。が、彼女が生きていることは毛布に覆われた彼女の胸
が静かに上下している様を見れば一目瞭然であろう。

 そんな、ユリカしかいない静かな病室。そこに、突如虹色の光芒がひらめき、それが徐々に集合。人の形を
結び、最後に黒い衣服をまとった二十台半ばの青年が姿を現した。黒いシャツにズボン。そして、顔にゴーグ
ルをつけた彼は、通称「黒い皇子」プリンス・オブ・ダークネスと呼ばれる最悪のテロリストといわれている
青年。テンカワ・アキトである。

 アキトはボソンジャンプを駆使してユリカの病室を訪れたのである。アキトは息を潜め、静かにユリカの元
に歩み寄り、静かに眠る妻の顔を見た。そして、そのやつれた観のある彼女の姿に悲しみの表情を浮かべた。
そんなアキトの視線の先。ユリカがうっすらと目を開けて、アキトの姿を目にした。とたん、ユリカは穏やかに微笑む。

「久しぶりだね、アキト。最近あまりこなかったけど、どうしたの?」

「すまなかった、ユリカ。ちょっと忙しかったんでね。お前の立場もあるから、なかなか会いにこれなかったんだ」

 少しすねた感のあるユリカの言葉に、アキトは苦笑しながら答えた。アキトの今の立場は、手配中のテロリ
スト。そして、ユリカの立場はというと、「非道たる火星の後継者に拉致されていた悲劇のヒロイン」である。
この両極端にある二人が、堂々と日の当たるところで出会うことなどできようはずもない。なので、あの忌ま
わしい火星の後継者事件が集結しておよそ一年がたつ今でも、二人が会うことが出来るのは外との一切の干渉
が遮断された、この病室。それも、夜だけだったのだ。

「アキト、忙しいもんね。うんしょ」

 いいながら、ユリカは体を起こす。その仕草はいかにも辛そうだ。かつて遺跡に融合されていた後遺症のせ
いで、彼女の体はひどく衰弱している。それは、実験のせいで五感を失うはめになったアキトといい勝負といえた。

「無理をするな、ユリカ。お前のほうこそ大変だったんだからな」

 そう言って、アキトはユリカの体を支えてやる。それを受けてユリカはひどくうれしそうにはにかんだ。そ
の様子はまるで思春期の少女のよう。彼女はいまだ、夫たるアキトに恋をしているのだ。そんな妻の様子に、
アキトはほほえましく思う反面。辛い思いも抱えていた。

 が、アキトはそれをかみ殺しながら、笑顔を浮かべていった。

「ユリカ。今日はちょっと提案があってきたんだ」

「なに? あ、新居のことかな? それとも……」

「俺たちの新婚旅行をやり直さないか?」

「え?」

 アキトの言葉に、ユリカはきょとんとした。そしてしばらく沈黙してから、彼女は満面の笑顔を浮かべて、

「うん! うわあ、楽しみだなぁ。前はめちゃくちゃになっちゃったもんね。せっかくアキトとラブラブの
新婚旅行だったのに。プンプン!」

 そう言って頬を膨らませるユリカ。それを見てアキトはかつての新婚旅行を思い出す。思い出の地。火星に
行くといって、ステーション行きのシャトルに乗ったあの日。シャトルに現れた編み笠をかぶった謎の集団。
火星の後継者の裏の仕事を請けおう北辰率いる六人衆の手によってかどわかされたのは、忘れられない記憶だ。
今でも、連中のことを思い出すと憎しみがあふれ出る。が、アキトは喜んでいる妻の手前、それを表に出さな
いように自制する。

「ああ。だから、やり直したいんだ。俺たちの新婚旅行をな」

 

 機動戦艦ナデシコ AFTER STORY 〜Honeymoon〜




 ユリカはアキトの突然の提案にしばらく目を丸くしていた。が、直ぐにその内容を理解すると、目を輝かせ
て満面の笑顔になると、

「うん! ユリカは大賛成だよ! やっぱり火星だよね?」

「ああ。当たり前だろ。俺たちの故郷で、思い出の場所だ。……けどな、ユリカ」

「なに?」

「俺たちだけじゃちょっと不安だから……」

「分かってるよ。イネス先生と、後。ルリちゃんとラピスちゃんも行くんだよね?」

「あ、ああ」

 察しのいいユリカに戸惑いつつも、アキトは首を縦に振る。ユリカの言うとおり、予定している新婚旅行に
は二人の主治医であるイネスと、義理の娘であるホシノ・ルリ。そして、アキトに付き従っていた少女、ラピ
ス・ラズリもつれていくつもりだった。何も言わずともそれを察したユリカの洞察力にはいつもながら恐れ入
る。それと同時に思う。俺はユリカには絶対に勝てないな、と。そして、彼女とともにいられる時間が残り少
ないことを思い、胸の奥にずきり、と痛みを感じた。

 先日、イネス・フレサンジュに言われたことを思い出す。


                     *****


「先生。いや、アイちゃん。今、なんていった?」

 白い部屋。ネルガルの施設の一つに用意されたイネスの研究室兼アキトの病室でもあるそこで、アキトは今
しがた。目の前の理知的な空気をまとう、金髪の美女。イネスの言葉を聞き返していた。

 それを聞き、イネスは苦痛に耐えるように目をわずかに細め、それからもう一度今しがたアキトに伝えた言
葉を放つ。

「今言った通りよ、お兄ちゃん。……艦長は。ユリカさんは、長くてあと一週間。早ければ数日で死ぬわ。こ
れまでがんばってきたけど、もう限界なの」

「……なんてことだ」

 そういうと、アキトはその手で顔を覆い、椅子に腰掛けた。絶望が心の中を駆け巡る。ユリカの寿命が長く
ないことは知っていたつもりだった。しかし、ここまで切羽詰っていたとは思わなかったのである。その様子
を見て、イネスは辛そうに唇をかみ、

「ごめんなさい、お兄ちゃん。お兄ちゃんのことを治せないばかりか、ユリカさんも助けられないなんて……」

「いや。アイちゃんは悪くない。悪くないんだ」

 そう言って首を振るアキト。しかし、その心中にはやるせない思いが渦巻いていた。一年前。遺跡から救い
出された直後から、彼女は衰弱していた。その上でイネスはそんなユリカを治すべくがんばっていたことを、
そばで見てきたアキトはよく知っている。他の全てをなげうって、ただ彼女はユリカの体を治すことだけに専
念してくれたのだ。ネルガルのスタッフの中でも最高の頭脳を持つといわれている彼女が、である。そんな彼
女の努力を、アキトは感謝こそすれ文句を言う気は毛頭なかった。

 しかし、イネスは自分が許せなかった。アキトの言葉があったとはいえ、アキトの五感の回復よりも優先し
てユリカの治療に当たったのにもかかわらず、結局何も出来なかったのだから。いや、それだけではない。ユ
リカと同じく、ぼろぼろになっているアキトの寿命も、救出されてから無茶をしたおかげでもう残り少ないの
だから。だからこそ、科学という力を持ちながら無力である自分を、イネスは許すことが出来なかった。

 しばらくの間、部屋の中に気まずい沈黙が漂う。そして、その沈黙に耐えられなくなったのか、イネスが静
かに口を開いた。

「お兄ちゃん、これからどうするの?」

「…………」

 それに、アキトは沈黙で答えた。バイザーのしたの目を閉ざしていた彼は、天井を見上げる。感覚補助のバ
イザーを身につけていてさえ、わずかに翳って見える視界に天井の明かりが見える。しばらくそうしていた彼
は軽くため息をついて、

「もう、時間がないんだな」

「ええ」

「……わかった。じゃあ……」

 そう前置きして、提案したのが「新婚旅行をやり直す」だった。そして、それにイネスが条件をつけた。そ
れは、主治医として自分もついていくこと。それを聞き、アキトは当然だ、といった。次いで、

「ルリちゃんとラピスも連れて行くよ」

「ホシノ・ルリも? ラピスは分かるけど……どうして?」

 イネスはその言葉に疑問を感じた。ラピスを連れて行くのは分かる。アキトはラピスとリンクをつないでい
るからこそ、何とかまともに生活が出来るのだから。だが、ルリは違う。別に彼女とはリンクをつないでいる
わけじゃない。連れて行く必然がないのだ。

「家族だからね……最後なんだから、思い出を、ね」

 さびしそうに言うアキト。家族。アキトと、ユリカと、ルリ。かつて三人で築いていた家庭。それを、今で
も大切に思っているのだ。だからこそ、ルリを放っておくわけにはいかない。新婚旅行であるが、実際には家
族旅行としたい。そう思っているのが分かった。

「そう……」

 イネスはもう、何も言わなかった。家族という言葉を持ち出されては、部外者の自分には何も言う権利も資
格もない。それは、自分だけがのけ者にされている、という感じがしないでもなかったが、(ラピスもすでに
ユリカとは何度もあっており、ユリカはラピスのことを自分の娘のようにかわいがっている。ラピスもまた、
アキトが誰よりも信頼し、愛しているユリカのことを気にいったようであった)

「じゃあ、色々と準備をしないとね」

「ああ、忙しくなるな。……すまない、アイちゃん」

「いいのよ。気にしないで」

 謝罪するアキトの言葉に、イネスはそう言って穏やかに微笑んだ。


                     *****

 
 少しひるんだ様子のアキトに、ユリカはきょとんとしてから、

「それでアキト。いつ行くの? ユリカ、今すぐでもいいな。あ、でもそうなら服がないよね。やっぱりアキ
トと旅行に行くなら、綺麗な服を着ていきたいもん」

「そうだな。もう準備はほとんどすんでるから、直ぐにいけるよ」

「ほんとに? すごいね、アキト」

「あ、ああ。……ユリカ」

 無心に喜んでいるユリカの姿を見ていると、本当に辛くなってくる。それは、ユリカが何も知らないから、
ではない。むしろ、逆なのだ。彼女は知っている。自分の命のともし火が、もう残り少ないことを。しかし、
それでも彼女は自分らしさを捨て去らない。燃え尽きる前であっても、その日は煌々と燃え盛っているのだ。

 それを思い、アキトは一年前のことを。ユリカの寿命が、自分と同じに残り少ないことを聞いたときの事を思い出した。


                     *****


 火星の後継者の乱を鎮めた後、ユーチャリスに乗ってボソンジャンプをし、月のドックに戻ってきたアキト
は、しばらくの間。まるで魂が抜けてしまったかのような様子になっていた。

 怨敵たる北辰を葬り、火星の後継者の野望を駆逐したこと。そしてユリカを救い出したことで目標を見失っ
たのである。

 火星の後継者。その残党が未だに生き残り、ひそかに暗躍していることはアキトとて知っている。が、その
残党狩りなどといった作業に従事するほどに、アキトは血に飢えてはいなかった。火星の後継者の生き残りな
ど、どの道ろくなことも出来ず、汚名返上に燃える統合軍やこの機を利用して返り咲こうとする連合宇宙軍の
連中に任せておけばいい。「戦い」から身を引いたアキトは、見るべきものを失い。ただ現実から逃避するだ
けだった。その抜け殻のような様子のアキトに、「黒い皇子」の面影はない。そこにいたのは、ただの無気力
な人間だった。

 自室のベッドに寝転び、静かに天井を見つめるアキト。同室にラピスがいるが、彼女も何をするでもなく、
じっと椅子に腰掛けるだけだった。そんな部屋に、来訪者がある。こんこん、とノックがなり、部屋が開いた。
顔を出したのは、

「エリナか……」

 エリナ・キンジョウ・ウォン。ネルガル会長、アカツキ・ナガレの秘書を務める才女だった。その彼女は、
何をするでもなくただ腐っていくだけのアキトを見て悲しげな顔をした。

「アキト君。ユリカさんが目を覚ましたそうよ。会いにいかないの?」

 言いながら、胸に痛みを感じるエリナ。ミスマル・ユリカ。この男の妻であり、アキトの心をつかむことが
出来た女性。自分には出来なかったことをなした女性。それを思うと、辛い。彼女がいない間。自分がアキト
と体を重ねたことを思うと、特に。

「……いまさら、どの面を下げて会いにいける? 今の俺は、大量虐殺者だぞ?」

 唇の端を吊り上げて、自嘲して言うアキト。彼の言うとおり、今。アキトは社会的には大量虐殺を行ったテ
ロリストである。火星の後継者たちが決起したとき。彼等はテンカワ・アキトの名を出し、A級ジャンパーの
テロリストの危険性を訴えたのだ。そのせいで、いまや全世界でテロリスト・テンカワアキトの名を知らない
ものはいない。

「ユリカさんはそんなことを気にしないわ」

 言いながら、さらに辛くなるエリナ。そう。ユリカはいった。そんなことは関係ない。私はアキトに会いた
い。会わなければならないのだ、と。まっすぐに前を向いて言ったその言葉に、エリナは負けた、と思ったの
だ。この女は、強い。自分ではとてもかなわない、と。

「だろうな……ユリカらしいよ」

 苦笑するアキト。その言葉を聞き、その表情を見て、やはりこの男はユリカのことを思っているのだと確信
した。その瞬間、涙かあふれそうになる。が、それをこらえ、エリナはポーカーフェイスを守り抜く。

「それに、ユリカさんは長くないのよ」

「何……?」

 その言葉に愕然とするアキト。その様子を見ながら、エリナは心を凍らせて淡々と事実だけを述べた。

「遺跡に接合されていた影響で、ユリカさんの神経が遺跡のナノマシンに侵されているの。今は末端神経が徐
々に機能を停止しているだけだけど、それがだんだんと中枢神経に浸透していく。末端神経だけだったら、代
替することが出来るけれど、中枢神経はそうも行かないから……」

 そのエリナの説明に、アキトは言葉を失った。そして、歯を食いしばると、壁にこぶしを叩きつけた。すさ
まじい音が鳴り、壁にひびが入る。その様子に、エリナもラピスも驚いた。

「くそ! 何とかならないのか!」

「……ドクターが火星の後継者のラボから引き上げた資料を検索して打開案を探しているけれど……」

 見込みは少ない。というより、絶望的だとエリナは言った。それを聞き、アキトはくず折れた。全ての希望
を絶たれた。そんな思いだった。

「だから、会いにいってあげて欲しいのよ」

「エリナ……?」

 驚くアキト。体を重ねたのだから、アキトとてエリナが自分に向ける思いをすでに理解している。だからこ
そ驚く。「会いにいって欲しい」今、エリナはそう言った。エリナ自身が、アキトにユリカと会うことを望んだのだ。

「だが……俺は、ユリカを裏切った」

 エリナの言葉を聞き、それでも。いや、だからこそ逡巡する。自分は、ユリカという妻がいながら。彼女の
生存を信じ、求めながらそれ以外の女を抱いたのだ。それは、許しがたい裏切りだった。少なくとも、アキト
はそう思った。その瞬間、

「ふざけないで!」

 その言葉とともに、エリナが目に怒りをためてそう叫んだ。その激しさに、アキトは言葉を失う。

「会うのを恐れるのに、私を言い訳に使わないで! 艦長はね、ユリカさんはもう知っているわよ! 私があ
なたと寝たことを!」

「何だって……?」

 その言葉に愕然とする。知られたくない、と思っていたことを、すでにユリカは知っているという。それを
知らせたのは誰か、と考えるが、直ぐに馬鹿馬鹿しいと思う。その答えは、考えるまでもなく目の前にあるで
はないか。

「ユリカさんはなんていったと思う? 『ありがとう』って言ったのよ? 自分の夫を寝取った女に! そし
て『ごめんなさい』って言ったのよ! 辛い思いをさせて。自分が何も出来なかった間に、自分の夫を助けて
くれて! 嫌味でもなく……」

 それ以上、言葉を続けられなかった。エリナはぼろぼろと目から涙をこぼす。それを見て、アキトは沈黙。
心の中に、深い罪悪感が湧き上がってきた。それは、目の前にいるエリナに向けたものであり、同時にユリカ
にでもある。二人の女性を傷つけてしまった。全ては、自分の弱さゆえに。

 ならば、どうすればいい? そう考えて、直ぐに答えが出た。

 会いに行けばいい。ユリカに。それだけが、唯一の答えだ。自分の弱さを見据え、それと戦うこと。それだ
けが、自分のとるべき道だ。それが、ユリカに愛され、ユリカを愛し。目の前の女性を傷つけた男のとるべき
道なのだろう。

 そう判断すると、アキトは立ち上がった。

「ラピス」

「アキト?」

 状況を理解できず、固まっていたラピスを呼ぶ。呼び声に答えて歩み寄ってきたラピスの頭をなでて、

「ラピス。今から、ユリカに会いにいくよ。お前のことも紹介しなくちゃな」

「ユリカ。ミスマル・ユリカ?」

「ああ。俺の……一番愛する人だ」

 その言葉に、エリナが肩を震わせる。が、アキトはそれを目にしながら湧き上がる罪悪感に耐え抜いた。そ
して、ポケットに入れたCCを握る。ユリカがいるところはわかる。すでに聞いているし、イメージしやすいよ
うにそこの映像も見ている。「いつでも会いに行けばいいさ」アカツキはそう言っていた。

 そしてアキトはラピスの手を握り、ジャンプの準備に入る。その目はまっすぐに、目の前にいるエリナを見
る。二人は沈黙する。ジャンプフィールドが形成され、二人の体が包み込まれる。後数秒もすれば、二人の体
はかなたに跳躍する。それを見送っておしまい。エリナはそう思っていた。そのとき、アキトの口が開く。

「エリナ。……俺を愛してくれて、ありがとう」

 アキトは必死に自制して、そう言った。自制しなければ、「ごめん」といってしまいそうだった。そう言っ
てしまうと、彼女の心ばかりか、女としてのプライドも傷つけてしまう。だからこそ、謝罪ではなく、感謝の
言葉を放ったのだ。

 そして、彼の姿が消える。虹色の光芒となり、彼の愛する人の元にいってしまった。それを見送って、エリ
ナはその場にくず折れた。涙が堰を切ってあふれる。はじめから、成就しない思いだと思っていた。あくまで
も、彼の一時の避難所になれればいい、と。そのつもりだった。しかし、自分がそれで我慢できないのだと、
今思い知らされた。

「馬鹿。そんな言葉、欲しくなかったのに」
 
 言いながらも、最後の言葉を喜んでいる自分がいた。しかし、そのせいで彼への思いが本物であったことを
認識させられたのだ。だから、辛い。そして、もう会えない。そう思った。


 その後。テンカワ・アキトはエリナ・キンジョウ・ウォンの姿を目にしてはいない。彼女はこの後、ネルガ
ル会長アカツキ・ナガレの元に行き、退職願を提出したためだ。彼はそれを予想していたのか、対して驚く風
もなく、それを受け入れる。ただし、彼女が知っているあらゆることを口外することを硬く禁じる誓約書にサ
インをさせられ、口止め料代わりの多額の退職金を手にして、だ。その上で彼女の身辺は、さりげなくネルガ
ルの監視下に置かれることになるのだが、彼女はかまわなかった。黙ってサインして、そのままその場を後に
する彼女。ただの一度も振り向くことなく、エリナはネルガルを後にしたのである。


 エリナの下を去ったアキト。彼は直接ユリカのいる病室にジャンプアウトした。その場にいたのは、幸い。
ミスマルコウイチロウやホシノ・ルリ。イネス・フレサンジュといった身内だけだったので騒ぎにならずにす
んだが、当然、ちょっとしたいざこざが起こった。

 はじめに、アキトの姿を確認したユリカが感極まって泣きながらアキトにしがみついたのだ。

「アキト、アキトアキトアキトアキト! ごめんね、アキト。こんなにつらいおもいをさせて。ごめんね、アキト!」

 そう言って、ただアキトにしがみつき泣くユリカ。そんなユリカをそっと抱きしめて、

「俺こそ、すまない。お前をこんな目にあわせて、泣かせてしまって。それに、裏切ったんだ、俺は」

「うん。知ってるよ。エリナさんに、悪いことしちゃったね」

「ああ。悪いことをした」

「謝った?」

「いや。礼だけを言ったよ……」

「うん。さすがアキト。えらいね」

 いいづらそうに、しかしはっきりといったアキトの言葉にユリカは笑顔で答えた。その笑顔にアキトは癒さ
れつつも、やはり罪の意識は強い。そんなアキトの姿を、ユリカは微笑をたたえてみる。そして、

「アキト君」

 そう声をかけたのは、状況を見守っていたカイゼル髭の男性。ミスマル・コウイチロウだった。その声に、
アキトはかしこまったように背筋を伸ばし、ユリカから離れる。それをユリカは少し残念そうにするが、特に
何も言わなかった。

「お義父……おじさん」

「お義父さんでいい、アキト君」

 いいなおしたアキトの言葉を訂正するコウイチロウ。それを聞いてアキトは動揺しながらも、喜びも感じて
いた。が、目の前のコウイチロウの表情は厳しい。そして、彼は続けた。

「話は聞いている。アキト君。君の事情はよく分かっている。だが」

 そう言って、こぶしを握るコウイチロウ。それを見て、アキトは歯を食いしばった。顎の筋肉の動きで、そ
れを察したコウイチロウは何も言わずにそのままアキトの頬にこぶしを叩きつける。腰のはいったパンチを受
けて、アキトはぐらつくも、予想できていたので倒れたりはしない。

「お父様!」

「ミスマルのおじ様!」

「アキト!」

 ユリカが、ルリが、ラピスがそれぞれに声をあげ、コウイチロウに非難の目を向ける。が、態勢を立て直し
たアキトが手を挙げて三人を制し、

「いや。俺はユリカを裏切り、泣かせたんだ。大事な娘を泣かされたお義父さんは俺を殴って当たり前だ」

「……アキト君」

 アキトの言葉に、コウイチロウはぐ、と義理の息子のその言葉に感極まったように歯を食いしばる。が、直
後にうっすらと涙を浮かべ、深々と頭を下げた。

「すまなかったな、アキト君。我々が不甲斐ないばかりに、君にはとても辛い思いを。とても重い十字架を背
負わせてしまった」

「そんな。頭を上げてください。お義父さんのせいじゃないでしょう。悪いのは火星の後継者であって、勝手
に動いた俺なんです。救出された直後に俺がきちんとお義父さんを頼っていたら……」

 コウイチロウの謝罪にアキトはそう言った。しかし、コウイチロウはその言葉に苦渋の表情をする。よしん
ば、あの時アキトがコウイチロウに頼ったところで、おそらく何も出来なかっただろう、と。あの時点で。統
合軍が結成された時点で、連合軍はほとんどお飾りになり、コウイチロウたちは発言権など無きに等しかった
のだから。だから、あの時。連合軍が、ではなく、ネルガルが主体に動いていたのは理にかなっていたのであ
る。

「お父様。せっかくアキトが来たのに、そんなことばかり言いあっていたら、アキトがもっと苦しむでしょう」

「う、うむ。そうだったな。夫婦でつもる話もあるだろう。せっかくの感動の再会だ。我々は席をはずさせて
もらおう。いこうか、ルリ君」

「あ、はい。……アキトさん。もう、どこにも逃げないでくださいね?」

「ああ。分かったよ、ルリちゃん」

 ルリの嘆願に、アキトは笑顔で答える。それをみて安堵したように胸をなでおろすルリ。それから彼女は立
ち去ろうとして、ふと足を止めた。振り返って、じっとアキトの傍らに立ち尽くすラピスに目を向ける。金色
の瞳。薄桃色の髪。かつて、電車の中でアキトに付き従っていた少女であり、ユーチャリス(ルリは艦名は知
らない)のオペレーターをしていた少女。名前は、ラピス・ラズリといったか。

「アキトさん。その子は?」

 名は知っていたが、あえて尋ねる。そういわれて、コウイチロウは初めて気づいたようだった。アキトのほ
うにばかり意識が向いていたのだろう。今になって、この場にいた皆の目がラピスに向いたのである。

「ああ、この子はラピス・ラズリ。見ての通り、ルリちゃんと同じ身の上の……マシンチャイルドだ」

 そう前置きして、簡単に紹介する。ネルガルの研究施設で生み出されたマシンチャイルドの一人で、火星の
後継者に拉致されていたこと。その後、救出されて紆余曲折を経てアキトの感覚を補助する役割を担い、アキ
トの復讐劇に付き合い、戦艦のオペレーターをしていたこと。そのようなことを言うと、皆一様に複雑な顔を
していた。そんな中、ユリカはゆっくりと身を起こして、ラピスのほうに身を寄せると、そっとラピスを抱きしめた。

「ありがとうね、アキトと一緒にいてくれて。アキトを助けてくれて。優しい子なんだね、ラピスちゃんは」

「……? アキト?」

 ラピスは少し戸惑ったようにアキトに目を向ける。そして、アキトは笑顔で返した。それを見てラピスは驚
く。ラピスはアキトとずっと一緒にいた。しかし、アキトのこのような表情を見たことはない。こんな優しい、
穏やかな微笑を自分に向けたことは、一度もなかったのだ。

 初めての笑顔。それに戸惑うも、同時にラピスは暖かいものを感じ。喜びも感じていた。そして、自分を抱
くユリカの体温とやわらかい感触も。人の温かさ、というものの心地よさを、ラピスは今。初めて知った。

「私はテンカワ・ユリカ。よろしくね、ラピスちゃん」

「ユリカ。アキトの、一番大切な、人」

 先ほどのアキトの言葉。そして、戦いの最中アキトとリンクすることで感じていたその思いが、ラピスにそ
う話させていた。それを耳にして、ユリカが一瞬だけきょとんとし、すぐに満面の笑顔になり、

「うん! アキトは私が大好きで、私はアキトが大好きだもん! アキトは私の旦那様で、私はアキトの奥さんだから!」

 そう言ってユリカはラピスからはなれ、にっこりと微笑みかけながら頭をなでた。が、その動きは少しぎこ
ちない。ユリカの神経が劣化し、体の末端。この場合は指などを動かすのに障害がでているのだ。これをどう
にかするために、代替の人工神経を移植し、IFSを使用して対応するといっていたが、腕や足を何とか動かす
のならばともかく、指先を完全に動かすのは難しいといっていた。ユリカの日常生活には、最低限のヘルパー、
あるいはハウスキーパーロボットの補助は不可欠になるであろう。

 ユリカのそんなさりげない動きから、現実を突きつけられたアキトは息が詰まる思いに駆られた。自分にも
覚えがある。脳神経をいじられたせいで、感覚神経がぼろぼろになったアキト。対応するために、アキト自身
もIFSを応用したシステムで擬似的に感覚を復活させ、生活どころか戦闘すら可能になった。が、アキトが幸
運だったのは、あくまでも犠牲になったのが感覚神経だけであり、運動神経はほとんど無傷に近かったことだ。
が、ユリカは双方ともにダメージがある。それが、この二人の最大の相違だった。

「ねえ、アキト」

「なんだ?」

「ラピスちゃん。どうするの?」

 その言葉に詰まるアキト。ラピスの身の振りよう。それに関しては、これまでもアカツキあたりに何度もつ
つかれてきたことだ。そのたびに態度を保留してきたアキトだったが、(無気力化していたため、どうでもい
い、という態度になっていたのである)ユリカにこう尋ねられては逃げようがない。

 引き取る、という言葉がでかかった。が、それは直ぐに頭の中から排除される。当然だ。ユリカに残された
時間は、長くて数年。そして、自分も似たようなものだ。残り少ない時間しか持たない自分たちが、これから
十分な未来を持つラピスに何を残してやれるというのか。それを思えば、信頼できる里親でも探し、引き取っ
てもらうのがベストだろう。

 そう思い、ラピスに目を向ける。そして、ラピスの不安げな眼差しを見た。リンクで表層的な思考が伝わっ
たのだ。それにより、ラピスは自分が捨てられる、と思ったのだ。

「アキト。私はもう要らないの?」

「ラピス! それは違う。ただ……俺は、お前にも幸せになって欲しい。だから」

「アキトと離れたら、いや」

 そういうラピスの言葉を聞き、アキトは答えに困窮した。しかし、どの道別れは遠くないのだから。それを
思えば、今のうちに別れていたほうがいい。そう思い、それを言おうとした。そのとき、

「ねえ、アキト。ラピスちゃんも引き取ってあげようよ」

「ユリカ。そうは言っても……」

 そこまで言って、先を続けられない。『俺たちはもう長くないんだぞ』そう続けるには、勇気がいった。エ
リナの話によると、ユリカは自身の命が残り少ないことも、アキトが同様であることも知っているという。だ
からこそ、なぜこんなことを言うのか分からなかったのだ。

「一緒にいられる時間は少ないかもしれないけど、それでも思い出を作ったらとっても素敵でしょ? 家族が
増えたら、それだけ楽しいじゃない。ルリちゃんがお姉さんで、ラピスちゃんが妹。とてもいいと思わない?」

 そう言ったユリカは、嬉しそうで楽しそうでありながら、どこかさびしそうであった。が、それは直ぐに掻き消えて、

「ね、ラピスちゃん。それはいや?」

「家族? よく分からない」

「一緒にいて、暖かい気持ちを共有するの。辛いことも分かち合うし、助け合う。私たち四人でね」

 そう言ってラピスの頭をぎこちなく撫でる。それを、ラピスは戸惑いながらも受け入れる。それはラピスが
ユリカを完全に受け入れた、ということだろう。その姿を見て、アキトは短い時間。精一杯がんばろう、と思
う。このユリカの夫として。負けるわけにはいかないと思ったのだ。ちなみに、ルリはその光景に微笑を浮か
べており、コウイチロウは涙を流しながらさりげなく自分が忘れ去られていることに思い至っていなかったりする。


                     *****


 改めて家族となった日のことを思い出して、アキトは同時にそれがここだったことも思い出す。わずか一年
前のことだが、とても昔のことのように思える。ここでの再会劇を思い出していたアキトの懐かしむ顔を見上
げて、ユリカはふわり、と笑った。

「懐かしいね。私たちが改めて家族になった日のこと」

「ああ。そうだな。……さりげにお義父さんのことを忘れてたのは悪かったけど」

「ふふ。そうだね、お父様には悪いことしちゃった」

 言い合って軽く笑う二人。そしてしばらく笑顔をたたえあってから、

「お父様。忙しいから行けないんだね」

「ああ。それに、家族に水はさせないって言ってたよ。お義父さんも、大切な家族なのにな」

 新婚旅行に行くことをコウイチロウに伝えにいったときのことを思い出しながら言うアキト。これが最後の
別れになることをコウイチロウも理解していたのか、まじめな顔をしてそう言って、アキトのことを力強く抱
きしめ、「ありがとう、アキト君。君のおかげで、ユリカはとても幸せだったよ」と言ってくれた。感極まっ
て泣いてしまったアキトを、誰が責められようか。大の男が二人。抱き合って泣いている姿はかなりシュール
だったが、雰囲気としては、まあ。いいものではあった。

「……ねえ、アキト。ハサミ、持ってない?」

「いや。持っていないが」

 即答するアキト。ハサミを持ち歩く人。それはかなり特殊な人ではないだろうか。ソーイングキットを持ち
歩く人がいても、その中に入るハサミは糸切りバサミであろう。

「うーん。じゃあ、ナイフとか、ないかな?」

「それならあるが……どうするんだ?」

 答えながら、アキトは折りたたみ式のナイフを取り出した。常に最小限の武装をしているため、こうした刃
物の類も持ち歩いているのである。それをユリカに手渡すが、ユリカはそれをポロリ、と落とした。それを見
てアキトは眉根を寄せながら、ナイフを改めて自分の手に持ち、

「何を切りたいんだ?」

「あのね、アキト。私の髪の毛。肩のあたりでばっさりと切ってくれないかな?」

「……ユリカ?」

「お父様に……遺しておきたいから」

 そう言って、ユリカはアキトの目を見た。アキトはそれを受けて、深く頷く。悲しみをたたえた深い瞳を前
にして、拒否することなどできようはずがない。

「分かったよ、ユリカ」

 そういいながら、アキトはユリカの髪を手に取る。と、同時に、ユリカの目の前にコミュニケのウインドウ
が浮かび上がり、まるで鏡のようにユリカの姿を映し出す。それを使ってユリカの指示のもと。アキトはユリ
カの長い黒髪をばさりと切り、それを髪にまとめた。そして、ユリカの言葉を聞き取り。文をしたためる。あ
まり長くはないが、これまでの人生の感謝を込めた、心のこもった文を。まるで、結婚式のときのようなそれ
を書きとめながら、アキトはわずかに涙を浮かべた。一番幸せだったときのことを思い出したのだ。見ると、
ユリカも少し。目に涙を浮かべていた。悲壮感の漂わない、悲劇の匂いを感じさせない文。それを考え、口に
出すことがこんなに辛いとは。

 そして、その短い文を書き留めると、それに「テンカワ・ユリカより、お父様へ」と封筒に書いて、サイド
テーブルに置いた。それを、二人はしばらく静かに眺める。

「なあ、ユリカ。本当に、良かったのか?」

「ん? なにが?」

「この一年。もっと別のすごし方をしていたら……」

 アキトの言葉に、ユリカは短くなった髪を左右に振った。

「アキト。私は、後悔してないよ。私は精一杯がんばったもの。アキトと、ルリちゃんと、ラピスちゃんと。
ほとんどが、この部屋だけだったけど、それでも思い出は作れたもの。忙しい中、少しでも時間を作って、ね」

「そうか。この一年。大変だったからな」

 そう言って、アキトはユリカとともに歩んだこの一年を。「闘争」と呼ぶにふさわしい一年を思い返した。


                     *****


「あのね、アキト。私は戦うよ」

 口を開いてそう言ったユリカの言葉を、アキトは理解できなかった。それは、その場にいたイネスも、ルリ
も同様であったらしく、首をひねっていた。ともにその場にいたラピスはあまり状況がわからないらしく、ユ
リカに手渡された(見舞いの品の)バナナを食べていたが。

「戦うって、ユリカさん。火星の後継者の残党は、統合軍や連合軍が……」

 そういうのは、ルリ。忙しい軍務に駆られている毎日を思い出す。(連合軍は相変わらず日陰者扱いを受け
ているが、大失態を演じた統合軍を監視する、と言う名目があるため、以前よりは忙しくなってきている)

 ルリの言葉に、ユリカは首を横に振った。

「ううん。私の戦う場所は、そこじゃないよ。私は、法廷に立つの。そこで、全てを明らかにしたいの」

 まっすぐな目をして、そういうユリカ。それを聞いてアキトは少し考える。法廷で戦う。しかし、そんな必
要があるのだろうか、と。すでに火星の後継者の主要メンバーは逮捕され、その処分は決定していると言って
もいい。クーデターを起こし、それに失敗したのだ。ほとんどの中枢メンバーは、すでに死刑が確定している。

 そのことを、ルリは言った。ユリカはそれを聞き、ゆっくりと首を横に振って、

「でも。みんなのことは、そこでは触れられていないもの」

「みんな?」

 ルリは首をひねる。が、アキトは直ぐに理解した。ユリカが言った「みんな」とは、すなわち。火星の後継
者に拉致され、さまざまな実験の結果。命を落としたA級ジャンパー。すなわち、火星市民のことに他ならない。

 同様のことに思い至ったのか、イネスもまた複雑な顔をしている。蜥蜴戦争に、火星の後継者の乱。この二
つによって、火星に住んでいたものたちは根こそぎ命を落とし。もはや、火星に生まれた人間はここにいる三
人だけになってしまった。そして、世間はそのことから一切目をそらしている。そう。蜥蜴戦争終結時におい
てさえ、木連による火星大虐殺は全てなかったことにされていたのである。友好的な付き合い、と言う形を大
事にしたかった連合政府。および旧木連は、口裏を合わせて火星で起こったことになるべく触れないようにし
たのだ。これに関しては、火星にいたもののほとんど全てが死に絶えたことで、容易に行うことができたと言
えよう。まさに、死人に口なしとはよく言ったものだ。

 無論、わずかにいた火星市民の生き残りはそのことを承諾するはずもなかったが、そうした火星市民の生き
残りも、全て死んでしまったのだ。そう。いたって都合よく、火星の後継者の手によって、だ。

「だから、私にはそれを声高に叫ばなきゃいけないの。あそこの地獄で死んでいった人たちのためにも。全て
がなかったことになんて、してはいけないから」

「そうね。その意見には賛成するわ。でもね、ミスマル・ユリカ。あなた。自分の体のことを理解しているのかしら?」

 厳しい顔をして指摘するイネス。その言葉を聞き、ルリとアキトも表情を引き締める。ただでさえユリカに
残された余命はみじかいのだ。その時間を大切にしたい、と思うのは皆同じ思いである。

 ユリカはそんな皆の顔を見て、透明な笑顔になった。

「分かってるよ。無理をしたら私の命がもっと短くなるってことくらい。でもね、このまま放っておいたら、
あの人たちの苦しみをここに収めたままでいて、逝っちゃったら。みんなに顔向けできないし、アキトたちと
一緒にいても笑えないもん。だから、私は戦わないといけない。アキトが、そうしたみたいに」

 そういいきったユリカの言葉に誰も何もいえなかった。ルリは、ユリカの見た地獄を知らないために。イネ
スは資料として閲覧した火星の後継者の狂気の実験を閲覧したが故に。そして、アキトはともにあの地獄の坩
堝にいたが故に。

 アキトはユリカに言われ、あの地獄を思い出した。百人を超えるA級ジャンパーたち。それらの全てが、あ
る人はアキトの様に過剰なナノマシンの実験台にされ、体が持たずに生きながら腐っていき、ある人はジャン
プ実験のために脳に直接電極を刺され、そのままジャンプフィールドを形成させられた挙句、途中で脳に流さ
れた電流でそれをキャンセルさせられて発狂して果てていった。

 そうした光景を、まるでモノを見るような目で見る科学者や、脅え、叫ぶ被験者たちのその表情を嘲笑する
兵たち。女性の被験者の中には愚劣な兵の慰めものになるものも多かった。

「あ、アキトさん」

 ルリの驚いた声が病室に響く。あの地獄を回想していたアキトは、つい感情的になり。顔に白い光が走って
いたのだ。アキトに刻まれた傷痕。あの地獄が残したものである。

「ユリカのいいたいことは分かる」

 そういう。そう、確かに。自分にも大きな傷は刻まれたが、体だけではなく、心にも大きな傷を負った。あ
の地獄で。目の前でたくさんの人たちが家畜のように殺されていって。ただ一人生還し。ユリカを残したまま
のうのうと外にいた自分。戦いに赴く気になったのは、ユリカを助けたいと思うこと。自分から全てを奪った
やつらに対する復讐と言う思いもあったが、それと同じく無念の中、尊厳も何もなく屠殺されていった火星の
同胞たちの怨念も背負っていたと言える。
 
 だからこそ、ユリカのいいたいことは分かるのだ。が、

「だが、お前が直接動かなくてもいいだろう? データはすでにあるんだ。それを表に出して訴えていけばいい」

「それじゃ足りないよ。それだけじゃあ、『火星の後継者』たちのことだけが暴かれるだけだもん」

 その言葉にユリカ以外の面々は怪訝な顔をした。が、ユリカはそのことに突っ込んだことを言うことはなく、

「それに、もうアカツキ君やプロスさんに話は通してあるし」

「ハイ。そういうことでして」

 と、言う言葉とともに病室の扉が開き、いつもの赤いベストにちょび髭姿のプロスペクターが姿を現した。
それに一番驚いたのは、アキトだった。立場上、アキトは常に外の気配には気を配り、いつでもボソンジャン
プで退避できるようにしている。にもかかわらず、プロスペクターの気配には気づかなかったのである。

「ユリカさんに言われたとおり、こちらとしても訴訟の準備は進めておりまして。証拠集めなどに皆さんの協
力を願いたい次第でして」

 眼鏡を持ち上げ、きらりと輝かせるプロスペクター。わずかに見せたその鋭い気配にアキトは苦笑。どうや
らはじめからはめられていたらしい、と思う。

「しかし、もう俺の出番などないと思うが?」

「いえいえ。アキトさんのジャンパー能力はむしろこれからお役に立ちますよ。ラピスさんのオペレーター能
力とともにね」
 
 プロスペクターはそう言って笑みを浮かべる。それを聞いてアキトは少し顔を曇らせた。ラピスとともに活
動し、互いの能力を生かしあう。それはあの黒い皇子として活動していたころと同じである。

「ラピスと? しかしユーチャリスは」

 自分が使っていたあの船を思い出して言うアキト。証拠として扱われることを懸念し、すでにユーチャリス
は解体されている。(とはいえ、艦体そのものは残っており、大幅な改装を行って試験艦として運用される予
定である)

「ううん。アキト。そんなのは必要ないよ。携帯用のハッキングツールがあればデータの引き出しくらいはで
きるから。そのあたりをお願いしたいの」

「つまり、俺がラピスを伴ってジャンプして、現地でハッキングを行う、と?」

 ユリカの言葉から、彼女の意図を察するアキト。重要なデータなどの場合、物理的にネットワークから遮断
された領域に保存されているケースが多い。そうしたデータを入手するには、ボソンジャンプで現地に飛び、
直接ハッキング用のデバイス、ツールを用いてデータを吸い出すしかない。

「うん。お願いしたいんだけど……ダメかな?」

「いや。お前の頼みを断れるはずがないだろ? ユリカ」

 苦笑しながら言うアキト。現存しているA級ジャンパーの中で特にジャンプに秀でているのがアキトである。
なので、この役割は自然とアキトのものとなるであろう。だから、アキトはそれを受け入れた。そんなアキト
に申し訳なさそうな顔を向けるユリカ。

「しかし、何を調べればいいんだ? お前が無理をしてでもする気になったわけだから、何かあるんだろうが」

 そう怪訝な様子で言うアキト。単に火星の後継者の悪事を暴くなら、それこそユリカ自らが動く必要などな
い。ユリカが自身で動き、法廷に立つといっているからには、ユリカが自分の立場を利用する必要があると判
断したはずだ。そう、『蜥蜴戦争の英雄』であり、『火星の後継者に拉致された悲劇のヒロイン』であると言
う肩書きを利用しなければならない事情が。

「それは、直ぐに分かると思う。とてもいやらしくて、腹立たしくなる、そんな現実が。……だから、このま
ま放っては置けないの」

 ユリカは遠くを見て。まるで、視線の先に許せない敵がいるような目で、そういいきった。その迫力に押さ
れるアキトたち。憎しみではなく、怒りと悲しみがそう言った迫力をもたらしているのだ。そして、それを目
の当たりにしてしまったため、もう。誰もユリカに思いとどまるように意見することなど出来なかった。「自
分らしくある」そのために、彼女は戦うのだ。それが分かったが故に。


 そして、彼女の戦いは始まった。はじめに彼女は法廷に立ち、火星の後継者の行った非人道実験のことを証
言した。ネルガルが押さえていた証拠とともに、である。(出所は連合軍ということにしたが)

 それはセンセーショナルな話題となった。もとより時の人となるに十分な素養を持っていたミスマル・ユリ
カである。(本人はテンカワ・ユリカだと言い切ったが)テロリスト、テンカワ・アキトの妻であった、とい
うこともあり、彼女に対する世間の目はかなり微妙なものであったが、彼女の証言などから火星の後継者と言
う集団の危険性が知られることになり、世間は彼女の味方になったと言える。

 しかし、これは序の口だった。これを切り口にして、ユリカはもっと深い闇を掘り出すつもりだったのであ
る。ユリカの指示の元。アキトは、ネルガルのシークレットサービスたちは動き出し、さまざまな資料を探し
当てた。それを見ながらユリカはこういった。

「あの火星の後継者の決起。成功していたとしても、結局長くは持たなかったはずだよ」

「どういうことだ?」

「こういったら悪いけど、草壁中将には指導者としての素質はないから。木連の内部分裂も抑えられなかった
人が、そこから問題点を洗い出したとしても、地球と木星をあわせた統合政府を押さえることは出来なかったと思うし」

 そういわれて、アキトは少し考え、確かに、と思う。かつて草壁春樹は思想統制されていた木連の一部が反
旗を翻し、熱血クーデターを引き起こした際、それを抑えきれずに逃走すると言う失態をさらしている。この
事からも分かるとおり、草壁という男は一つの思想に凝り固まった集団を導くことしか出来ない男に過ぎない。
それは火星の後継者を見ても分かることであろう。

「それに、火星の後継者の戦略って、結局のところ長距離ボソンジャンプによる奇襲以外何もなかったわけで
しょ? 確かに奇襲は有効だよ。奇襲を行って、それで攻撃するのはうまくいくと思う。でも、その後に続か
ないと意味はないんだよ。どこかを占領したら、そこを守らないといけないのが戦略って言うものだから。そ
れに必要なのは、数だよ? 確かに、統合軍の一部が火星の後継者のほうに流れはしたけど、それでも圧倒的
に数が多かったのは火星の後継者の敵に回ったほう。数が多いほう相手に、拠点防衛をしたところで勝ち目な
んてないから。だから、結局火星の後継者には勝ち目はなかったんだよ」

 ユリカはそう言った。確かに、そうである。たとえ火星の後継者がターミナルコロニーを占拠したところで、
数では圧倒的に劣るのだ。おまけに、蜥蜴戦争後地球側の装備も整い、質でも互角以上になっている。そこか
ら考えても、火星の後継者の勝ち目は非常に薄いと言わざるを得ない。特に、火星の後継者の擬似A級ジャン
パーたちがナビゲーションできるのはせいぜいが十数人の歩兵と、二、三機の機動兵器だけなのだから。(そ
の数の不利を覆すために火星の後継者はマシンチャイルドの研究をも行ったが、それは頓挫した。理由の一つ
としては、せっかく確保したラピス・ラズリを奪還されたこと。そして、連動宇宙軍が二人のマシンチャイル
ドを確保していたことである。なお、この動きは実はネルガルが裏から手を引いていたためである。その理由
としてはマシンチャイルドであるルリとハリが火星の後継者に拉致されないためにである。そうでもなければ、
いくらなんでも十一歳の少年を軍人になんてしないであろう)

「そうだねぇ。正直なところ、戦略的に見たボソンジャンプの有効性って言うのは軍の展開を早くすること、
兵站の充実。後は奇襲。これくらいのもの。確かに重要な要素ではあるけれど、火星の後継者の規模を考える
と持久戦は出来ないわけだしね。彼らに勝ち目は薄かったのは事実さ。それに、よしんば占領に成功したとこ
ろで、草壁の統治に賛成する市民なんてなきに等しいしね」

 そう言ったのは、その場にいたアカツキだった。立場上頻繁に顔を出せるわけではないが、それでも必要な
らば訪れる男ではある。エリナがいなくなり、多少忙しくなったようであるが、新しい秘書を雇い、それなり
にうまくやっているようであったが。

「確かにな。木連と地球の確執は思ったよりも根深い」

 アキトの言うとおり、この二つの確執は根深い。当然だろう、木連の人間はは生まれたときから「地球は許
すべからざる仇敵である」と教えられており、逆に地球の人間はチューリップから出てくる無人兵器によって無
差別攻撃を頻繁に受けていたのだ。百年の禍根と、現在の被害。この二つが、両者の確執を生んでいるのだ。
それを考えると、たとえ草壁が支配者となったところで統治などできようはずがない。もしそうなったら。考
えるだけでぞっとする、とアキトは思う。おそらく草壁は統治するために、何のためらいもなく粛清を行った
であろう。何万。いや、何億と言う人間を殺しつくし、恐怖で統制する。それは、間違いなく行われたはずだ。
価値観が違い、反感しか持たない民を抑えるにはそうするしかないことを、悲しいことだが歴史が証明してい
るのだから。そして、それを理解している市民たちは。決して草壁などを受け入れはしないだろう。

「それに、遅かれ早かれ火星の後継者は内部分裂していただろうしね」

 肩をすくめて言うアカツキ。それを聞き、怪訝な顔をするアキト。が、ユリカは平然としている。それを疑
問に思ったが、

「火星の後継者の後ろにいた連中が、草壁のいかれた統治なんて認めると思うかい? はじめから、火星の後
継者には内部分裂するための火種がくすぶっていたんだよ」

「そうだね。クリムゾンが協力していた時点で、内部分裂は避けられなかったはずだし」

 アカツキの言葉にユリカが続けた。クリムゾンは決して政治結社でもなければ革命家でもない。純粋な営利
企業である。その営利企業としては、草壁の統治する世界など何の意味もなかったはずだ。何せ、まともに商
売できない世界になるのだから。(理想と思想統制に凝り固まった社会など、結局は共産主義と大差ない社会
になるであろう)そうなれば困るのはクリムゾンである。なので、はじめから内部に火種を用意し、うまく立
ち回って被害をかぶらないようにしていたはずである。

「なら、俺のしたことは無駄だったと?」

 かすれた声で言うアキト。草壁の統治する社会は、自分が何もしなくても訪れることはなかった。ならば、
自分のしたことはなんだったのか。

「それは違うね。テンカワ君のおかげでネルガルはチャンスをつかめたし、何よりも艦長を救い出せた。統合
軍が面子にかけて分裂を始めた火星の後継者を殲滅したところで、艦長は間違いなく遺跡に接合されたまま放
置されていたはずさ。ボソンジャンプは利用価値が高いからね」

 その言葉にしかめっ面をするアキト。が、アカツキの言うとおり、A級ジャンパーによるジャンプはきわめて
戦略的価値は高い。特に、諜報戦においては絶大な価値があることはアキト自身が誰よりも熟知していることである。

 はあ、とため息をつくアキト。色々と気疲れしたのである。が、彼が本当に疲れるのがこれからであること
を、このときのアキトはまだ知ることはなかったのである。

 それをアキトが知ったのは、この会話がなされてから数日後。ユリカの指示によって、ラピスとともにネル
ガルSSの資料を元にある場所にボソンジャンプで訪れ、内部から情報を引き出してからであった。

 その場所とは、地球連合中央情報局。そこで入手した情報が、アキトに深い憤りを感じさせたのである。

 その情報によると、火星の後継者にA級ジャンパーの情報をリークしたのが地球連合中央情報局によるもの
である、と言う事実だった。

「ふざけるな! 俺たちは……政府に売られたって言うのかよ!」

 アキトはそう叫び、病室の壁を殴りつけた。それを見て、ユリカが「こぶしをいためるから、ダメだよ」と
声をかける。

「ユリカ、お前は腹が立たないのか? この事実を前にして!」

「腹は立つよ。でも、予想できていたことだから」

 首を力なく振って言うユリカ。それに愕然とするアキト。ユリカは全てを見抜いていたのだ。そして、

「さすが艦長だねぇ。いや、恐れ入ったよ」

 そう言ったのは、アカツキだった。が、アカツキ本人も予想はしていたようで、その態度はいつもと変わり
ない。何も知らなかったのは自分だけだったのか、とアキトは呆然とした。

「うん。だって、火星の後継者にあそこまでの情報収集能力はないはずだもん。中枢にいたのが木連組みだか
らね。クリムゾンのSSが動いていたとしても、その動きを連合情報局が見逃すとは思えないから」

 ユリカが言う。その言葉は事実である。そもそも火星の後継者は、潜伏していたときには人員がそれほどい
たわけではない。裏の人員となると特に、である。確かに、火星の後継者には北辰をはじめとするメンバーが
いたが、彼等は裏の仕事は得意ではあるが、地道な情報収集には不向きである。なので、火星の後継者がA級
ジャンパーたちの。火星の生き残りたちの詳細なデータを彼らが短期間に集めることなど不可能であろう。

 そして、アキトが知ったもう一つのこと。それは、暗躍していた火星の後継者。その動きを、全て連合政府
は事前につかんでいた、と言う事実だった。それは実質的に、政府が火星市民たちを売り渡し。見捨てたということだ。

「目の上のこぶのA級ジャンパー。そして、『英雄』を葬る絶好のチャンスだったってことだね」

 アカツキの言葉は、そのまま事実であった。火星の後継者と言う「悪役」によって、火星大虐殺の生き証人
でもあり、潜在的脅威であるA級ジャンパーを処分し、その中に含まれる蜥蜴戦争終結の立役者であり、「英
雄」と呼ばれ、社会的影響力を持っていたテンカワ夫妻を抹殺する。それが、この茶番劇のシナリオだったの
である。

「それだけじゃないよ。政府では決して出来ない非合法なジャンプ実験を行わせるって言う目的もあったはず
だよ。クリムゾンだけじゃないこの資金の流れがそれを照明しているしね」

 データを見ながら言うユリカ。彼女の言うとおりであった。火星の後継者の行った非人道的なジャンパー実
験。それは、ボソンジャンプの研究には不可欠ながらも、人道的には決して行えないシロモノばかりである。
つまり。

「火星の後継者が隠れ蓑に使っていたヒサゴプラン。実際には、あいつらはそのために利用されていたってことか?」

「そういうことさ。利用するつもりがされていたって訳。所詮、草壁ごとき。老獪な連合政府の古狸にとっち
ゃ操りやすい道化人形に過ぎなかったんだろうね」

 つまらなさそうに言うアカツキ。資料を読めば読むほど、その真実味が明らかになってくる。特に、終戦後。
かなり早い段階で草壁の居所を突き止めていながら放置していた、ということがそれを証明しているようであ
る。はじめから、そのつもりだったのであろう。草壁は、格好のスケープゴートだったのだ。そして、それに
巻き込まれた多くの人たち。特に、木連組は悲惨である。現在、火星の後継者の乱のせいで木連組は非常
に肩身の狭い思いをしているのだから。

「……吐き気がする」

 はき捨てるように言うアキト。自分が仇敵だと思っていた連中。それが、ただの道化に過ぎなかったのであ
る。本当の敵は、その姿さえ見せていなかったのだ。自分もまた、用意された舞台の上で踊っていた道化に過
ぎず、敵はそれを見てあざ笑っていたのだ。そう思うと、今すぐにでも全てをぶち壊したくなる。

「まあ、彼らとしてもだからこそ切り札として艦長を残しておいたんだろうねぇ」

 そう言ってユリカのほうをちらりと見るアカツキ。それを受けて少し顔をゆがめるユリカ。

「そうだね。彼らも私を利用するつもりだったんだと思う。ううん。いざと言うときの恫喝材料として、だね」

 ユリカはそう答えた。ユリカという存在がいまだ健在であることを示すことで、火星の後継者たちは自分た
ちを操っているであろう連中を牽制していたのだ。とはいえ、それが彼らの限界であったようだが。

 そういう意味では、今ユリカのしていることはある意味では火星の後継者たちの思惑に乗っていることにな
るのだが、そんなことには構いはしなかった。それよりも、自分たちにこんな目にあわせたものたちを日の下
に引きずり出し、公正な裁きを下さなければならない。そうでなければ、本当に虫けらのように命を落とした
全ての火星の人々の死が無為なことになるであろう。

 アキトは歯を食いしばり。怒りをこらえて闘志を奮い立たせた。それはユリカも同じであろう。その目には
強い光があふれている。衰弱したからだとは反対に、彼女の目はとても力強かったのだ。

 それから、アキトはユリカの指示に従ってラピスらと主にボソンジャンプで飛び回り、情報を集め、それを
元に裏づけを取ってからユリカはネルガルのバックボーンとコウイチロウの支援の下、法廷に立ち続けて戦い
続けた。そして、闇に閉ざされていた真実が一つ一つ、徐々に光のもとにさらされていく。時の人となってい
たユリカであればこそ可能だったその行為。それは、まさに死闘だった。動くたびに彼女の命は削られていき、
また、法廷に立つ彼女の命は常に暗殺の危機にさらされた。なので、病室の窓は封鎖され、ディストーション
フィールドでガードされ、さらに法廷への行き来はボソンジャンプを持って執り行われることになった。それ
でも、彼女がこの一年で命の危機にさらされた回数は三桁を超えたのである。


                     *****


 この一年の戦いの日々と。その合間の家族の思い出を振り返って、アキトは口元をほころばせた。どちらに
せよ、ユリカは強く輝いていたと思う。毅然として戦うユリカ。家族とともに笑顔でいるユリカ。ともに、彼
女は常にユリカであり続けた。戦いの日々は、まだ終わってはいない。が、とりあえず一段落し、ユリカ自身
が動かなければならないことはないと思える。アキトの目には、張り詰めた弦が切れたように、今のユリカは
非常にはかなく見えるのだった。

 そして、ユリカの命のともし火は、もう。消えようとしている。

 死人のような顔色をし、それでも輝きは消えないユリカを前にして、アキトは

「じゃあいこうか。ユリカ。みんなが待ってる船に」

 そう言って、ユリカを抱き上げるアキト。抱き上げられてユリカはわずかに頬を染めるが、すぐに童女のよ
うな笑顔になって、

「うん。そうだね」

 ユリカの返事を聞き、笑顔になったアキトはCCを手に取る。そのアキトの手に、ゆりかはそっと手を重ね
た。ジャンプイメージはアキトに任せる。が、そうしたいと彼女は思ったのだ。その重ねられた手を見て、ア
キトは笑みを浮かべ、そして。

「「ジャンプ」」

 二人は声を重ねてジャンプした。病室に虹色の光芒がひらめき、そしてその場から二人が姿をけす。そして、
そこは無人になった。この一年間。ずっとそこにいた主は、二度とそこにもどることはなかったのである。


 虹色の光芒が集結し、人型を結ぶ。そして、ユリカを抱き上げたアキトが狭い艦のブリッジに現れた。機能
的にまとめられたコンパクトなブリッジ。そこには先客がいた。それは、ルリであり、イネスであり、そして
ラピスだった。

「アキト! ユリカ!」

 そう言ってラピスは顔をほころばせると駆け寄ってくる。この一年で、ユリカと何度も触れ合ったラピスは
別人のように明るくなった。まあ、マキビ・ハリとも友人づきあいをしているが、それもまた関わりのあるこ
となのだろう。そんな彼女を見ながら、アキトはユリカをブリッジのシートに座らせると、

「ようこそわが船へ」

 と、少し気取って挨拶する。それを聞き、ラピスはその場に立ち止まり、わずかに胸を張って、

「ようこそ、私たちの船に。ユリカ」

 と、笑顔になった。そしてユリカに抱きつく。彼女も知っているのだ。ユリカと後わずかで永遠の別れが待
っているのだと。精神的にこの一年でずいぶんと成長したラピスにはそれを深く理解している。だからこそ、
甘えられるときに甘えようと言うのだろう。

「アキト。この船は?」

 抱きついたラピスの体温と体重を感じながら、不自由な両腕を動かして抱きしめてそうアキトに質問するユリカ。

「ユーチャリスさ。まあ、大幅に改装されて原形はとどめていないけどな」

 そういいながら、二人の前にコミュニケのウインドゥが現れる。それが表示した艦の外観は、アキトの言う
とおりユーチャリスの原形をとどめていなかった。縦に長い、槍の穂先のようだったユーチャリスは、なんと
言うか。コンテナ船のような外観になっていた。現在のユーチャリスは、ネルガルが保有する実験船であり、
同時に輸送艦としての役割を担っているのである。民生用のディストーションフィールドおよび相転移エンジ
ン。および新型の管制コンピューター(オモイカネ級の廉価版、と言う名目)の実験艦。それが今のユーチャ
リスの役割である。ちなみに、名目上の艦長はラピスである。彼女がマシンチャイルドである、と言う事実は
伏せられているものの、オペレーター用のIFS保持者である、ということで、わずかな人員でどれだけ艦を
運用できるかの実験を行っている、と言う名目で現在航海中なのである。

「今はどれくらいかな?」

「ターミナルコロニーはずいぶんと経由してますから、火星まではあとわずかですよ、アキトさん」

 アキトの言葉に答えたのは別のシートについていたルリである。アキトの襲撃。および火星の後継者の乱の
影響で一時期ヒサゴプランの成果であるターミナルコロニーは完全閉鎖され、ボソンジャンプネットワークは
使用できないようになっていたが最近、破損したコロニーおよびチューリップを修理し、運用を再開したので
ある。なお、修復されたターミナルコロニー「アマテラス」には、火星の後継者の乱で命を落とした全ての人
々の冥福を祈った慰霊碑が作られている。

 アキトに声をかけたルリであるが、彼女もまたどこかさびしげであり、それを押し隠しているのが手に取る
ように分かる。これがユリカと、そしてアキトとの最後の思い出になることは彼女もよく分かっているのだ。

「ほら、見えてきたよ! アキト!」

 そうユリカの声が聞こえるので、アキトは前に目を向けた。外の光景が見えるように改装されたブリッジ。
そこから、外の光景が。テラフォーミングの結果、地球のような色彩となった火星の姿が見える。

「火星だ……」

 複雑な心境を押し殺してそう答えるアキト。なつかしの故郷であり、全ての災厄の現況ともなった星。しか
し、こうして目にすると、つい。

「火星か。何もかも懐かしい……」

 と、大昔のアニメの名台詞の真似事などをしてしまう。言いながら、ああ、自分もまた根本的に変わってな
いんだなぁと苦笑する。

「アキトさん。そろそろ大気圏に突入しますよ」

「頼むよ、ルリちゃん」

 そう言ってアキトはルリに制御を任せる。ユーチャリスが傾き、火星の大地に向かって降りていく。その光
景は、かつてナデシコで火星に降り立ったあのときを思い出させた。

「わぁ。綺麗」

「相変わらずだね」

 火星に突入し、ナノマシンの層にたどり着いてラピスがそういい、それとともにユリカも答えた。火星の大
気の調整用のナノマシンの層。きらきらと輝く雲のようなそれは、幻想的な美しさである。かつてはなんとも
思わなかったそれも、今のラピスにとっては綺麗と写るようだ。それを見ながら、人はよくも変われるんだな、
と感心する。

「どうする? ユリカ。このままユートピアコロニーに直行するか?」

「ううん。しばらくこの船であちこちを回りたいよ。せっかくの旅行だもん」

 アキトの提案に首を横に振るユリカ。それにアキトは「了解」と答え、船を動かす。ユーチャリスは火星の
大気の中、その巨体をすべるように動かした。

「再入植は順調なんだな」

 あちこちを回る中、復興が始まっているコロニー跡地を見てそう思うアキト。ここに再入植している人の多
くは木連からの人たちだ。自らの手で滅ぼした大地に。そこに住んでいた人たちの命の散った場所に入植を始
めた人たちは何を思うのだろうか。ちらりと考えたそんなことを、アキトは直ぐに頭から追い出す。今は、そ
んなことを考える必要はないだろう。ただ、懐かしい故郷をこの目に焼き付けておきたい。それだけだった。

 新しく命の芽が吹き出した火星の空をユーチャリスが行く。破壊され尽くしたまま放置された場所も多く、
それは痛ましく写りはするものの、やはり生まれ故郷たる火星の大地をこうして落ち着いて目にするのはとて
も落ち着くものだった。

 しばらくの間、ユーチャリスに乗ったまま火星の空を行き、火星の大地を目に焼き付けていたクルーたち。
が、静かなブリッジの中に、くぅー、という間の抜けた音が響く。その音の主は、ラピスだった。全員の目が
ラピスに集中し、

「アキト。おなか減った」

 と、訴えてくる。それを聞いてアキトは微笑むとラピスの頭に手をやり、

「そうだな、じゃあ飯にしようか。……ちょっと時間がかかるけど、いいかな?」

 アキトはそう言いながらブリッジ内を見回す。それに全員頷いて見せた。アキトはその返事に満足げに微笑
むとブリッジを後にする。厨房に向かったのだ。

 元々のユーチャリスには、厨房はなかった。なので、今のユーチャリスに備え付けられている厨房は改装時
に新たに付け加えられた施設である。その、コンパクトながら設備の整った厨房に足を踏み入れたアキトは、
一度ため息をついた。一度は諦めた。いや、今でももう二度といけない、コックの道。その真似事をするのは、
正直気が引ける。が、もう逃げない。そう誓ったのだ。だから、アキトは意を決して歩んだ。

「……これが、最後だしな」

 厨房に立ち、何かを料理するということ。それは確かにこれが最後になるだろう。「客」を喜ばせることは
もうできない。だから、コックはもう出来ない。そして、個人的に料理をして本当に喜ばせたい人に食べさせ
ることが出来るのも、これが最後。だから、アキトにとってこれが最後の料理となるだろう。だからこそ。

「一世一代のものを作らないとな」

 そう言って気合を入れると、袖をまくって準備されていた白いエプロンを身につけた。その気合の入れよう
はまるで出陣前のようであったが、そこにいたのは「黒い皇子」ではなく、一人の料理人であった。


 それからしばらくの時間がたち、コミュニケを使ってブリッジに連絡を入れるアキト。それを聞いて、ブリ
ッジにいた者たちは食堂に赴く。ユリカは車椅子に乗せられ、ルリとラピスがそれを押していた。「楽しみだ
ねー、ルリちゃん、ラピスちゃん」と、はしゃぐユリカに、二人も笑顔で答える。間近に迫る悲しみを、今だ
けでも忘れよう。それがこの二人の、この旅行に参加するときの誓いだった。

 そして食堂に入ったとき、ルリは驚いた。食堂に漂う匂い。それは、自分の知っている匂いだったのだ。

「テンカワ特製ラーメン……」

 呆然と呟くルリに、アキトは厨房で苦笑しつつ、

「まあね。って言っても、昔の記憶をもとに作っただけだから、完全なものとはいえないけど」

 味見が出来ないアキトには、確かにかつての味を再現するのは不可能であろう。が、それでも味覚、嗅覚以
外を駆使して可能な限りかつてのものを再現するために、アキトは血のにじむような努力を続けた。ちなみに、
それに付き合ったのはイネスである。彼女もまた、かつてのアキトの屋台の常連客だったので、その味をよく
覚えていた。だから、彼女が試食を担当したのである。食堂に入ってきた彼女にアキトは目だけで「ありがと
う、アイちゃん」と伝えると、イネスは軽い笑顔で答えた。「いいのよ、お兄ちゃん」と。彼女としては、も
はや先がないながらも、それでも前向きになっているアキトの手伝いが出来るだけでも満足だったのだから。

 そして、昼食が始まった。と言っても、アキトやユリカにとっては時間的には夜食に近いが。もはや手が不
自由になっているユリカは、箸を握ることは出来ない。なので、アキトがその手でユリカに食べさせていた。
まるでバカップルのように食べさせるも、その二人の仕草はとても自然であった。それは心の通じ合っている
ことがよく伝わってくる様である。

 その光景を見て、ルリはあの戦いが無駄ではなかったと思う。わずかな時間であっても、この二人は夫婦と
して本当に幸福な時間をつかめたのだから。

「おいしいね、アキト」

「そうか?」

 穏やかに微笑み会う二人。が、すでにユリカの味覚もかなり麻痺している。なのでユリカの言葉は嘘のよう
に思えるかもしれない。しかしアキトにはユリカが嘘を言っていないことを知っていた。家族でそろって、楽
しい雰囲気でご飯を食べる。おまけに、食べる料理はアキトが作ってくれたものだ。その雰囲気。暖かさが、
ユリカに「おいしい」と感じさせる。そして、そんなユリカの顔を見るだけで、アキトも満たされるのである。

 和やかな時間が食堂で流れる。これが最後の食事になること。誰もがそれを理解しながらも、笑顔で食事を
終えた。

 そして、食事を終えてその後片付けがすみ、ブリッジに戻ってしばらく経ち。

 ユーチャリスはついに終着点に。ユートピアコロニー跡地にたどり着いた。

 かつて綺麗だったそこは、今は無残な荒野である。チューリップが落ち、さらにかつてのナデシコがそこを
訪れた際の徹底的な無人兵器の砲撃のせいで大地はえぐれ、砕かれてかつての姿はほとんど見当たることはな
い。そんな無残な故郷の姿を、無言でアキトとユリカは眺めていた。

「じゃあ、降りようか」

「そうだな」

 ユリカの言葉にアキトが答えて、アキトはユリカの乗った車椅子を押した。それをみながら、ラピスは船を
操作し、着陸させる。コロニーから少し離れた草原に。


 さあぁ。と風が吹き、緑色のじゅうたんがなびく。それを見ながら、涼しい風を浴びる二人。

「懐かしいね」

「ああ。気持ちのいい風だ」

 触覚がかなり弱っているため、風の心地よさと言うのは肌では感じられないながらも、耳に響く風の音と、
日光を浴びて緑色に輝く草原の、海の波の輝きにも宝石にも見えるその美しさがアキトにそういわせた。ユリ
カも同じことを思っているのだろう。そう思いながら、アキトはゆっくりと草原の中を車椅子を押して歩む。

「本当は自転車に乗りたかったんだけどな」

「そうだね。昔みたいに二人乗りで」

 残念そうに言うアキトの声に、ユリカも笑みを含ませながら答える。そして、しばらく二人は無言で歩み続
けた。風が舞う音。葉擦れの音。そして、車椅子の立てる小さな音。それだけが、二人の間に存在していた。

「ここで、私たちは出会ったんだよね」

「……昔のお前から、今の姿は想像できないけどな」

「あ、ひどーい。ユリカは昔からかわいかったよ?」

「自分で言うか? ったく。そっちじゃない。昔は俺の後ばっかついてきて、泣き虫だったのにさ。ほんと、
強くなったって思うよ、実際」

 まぶしそうにユリカを見ながらそういうアキト。それを聞いて、ユリカは肩をわずかに震わせた。それを目
にして少し眉根を寄せるアキト。そんなアキトに、

「私はそんなに強くないよ……」

 そう言ってから、顔を上げて背後のアキトをうかがう。目に涙を浮かべた彼女は、手をアキトに伸ばして、

「アキト。お願い。私を抱いて」

 そう言ってきた。だから、アキトはためらうことなくユリカを抱き上げ、そして、彼女に言われるまま草原
に座り込んだ。アキトにもたれかかる形になるユリカ。ユリカはそのままアキトに顔を向けて、

「私は強くなんてないよ、アキト。今も、ずっと怖かったもん」

「ユリカ……」

「つかまって、実験されて、変なことされて、遺跡にくっつけられて夢を見させられて……ずっと、ずっと怖かった」

 ぼろぼろと涙を流しながら言うユリカ。そのユリカに、アキトは胸を打たれる。これまでずっと、弱音を吐
くことのなかった彼女。だが、そんなはずがなかったのだ。彼女もまた。一人の人間であり、女性なのだから。
これまで気を張って、ずっと耐えていたのだろう。

「いいんだよ、ユリカ。素直になれよ。泣いたらいいさ。胸にたまったもの、全てを吐き出して楽になれよ」

 言って、ユリカの頭を。髪を切り、短くなった彼女の髪を撫でる。

「どうして、どうして私たちがこんな目にあわなくちゃいけなかったの? 私、死にたくないよ! ずっとア
キトと一緒にいて、アキトの子供をたくさん産んで、アキトと一緒にラーメン屋さんを切り盛りして、二人で
一緒に年をとって、皺を数えあって、『昔あんなことがあったね』って二人で言い合って……そんなふうに生
きて、穏やかにいけたらよかったのに!」

 そう叫んで、アキトにしがみついて大声でなくユリカ。そのユリカを抱きしめて、アキトもまた涙を流した。
今ユリカの言った『当たり前の』未来。それは、アキトの望みでもあった。永遠にかなうことのない、無残に
摘み取られた幸せ。

 それを思い、涙するアキト。憎い。本当に憎い。自分たちの幸せを奪った連中が。ユリカを泣かせたやつら
が。そして今。彼女の涙を止められない自分が。

 無力感に耐えながら、アキトは号泣するユリカを抱きしめながら泣き続けた。それからいかほどの時間がた
ったであろうか。気分が落ち着いたのか、泣き止んだユリカが顔を上げる。そして、

「でもね、アキト。私は幸せだったよ? アキトに出会えて。アキトを好きになって、アキトを愛して。……
本当に、幸せだったよ?」

 それは、過去形。もはや時間がないことを、彼女は理解しているのだ。だからアキトはユリカを抱いたまま、

「ああ、俺も、幸せだったよ。この星でお前とであって、あのナデシコで再会して。好きになって、結婚して。
愛し合って。……本当に幸せだった」

 そう言って、少しユリカを放す。ユリカはそれに不満そうな顔をする。が、直ぐにそれは掻き消えた。アキ
トが、ユリカの唇に自らのそれを重ねたからだ。少し驚いたものの、ユリカはすぐに眼を伏せてアキトとのキ
スを味わう。しばらくの間、二人はそうして唇を重ね、離れた。ユリカは少し名残惜しげであったが、それで
も満足げな様子になる。

 それから二人は並んで座り、草原を、火星の空を眺めながらぽつぽつと話をした。そして、

「ねえ、アキト。なんだか眠くなっちゃった」

「そうか? なら、寝ろよ。俺がついてるからさ」

「うん。そうだね、アキト。ずっと一緒にいてくれるもんね。もう、離れないもんね」

 そう言って、ユリカはアキトに目を向ける。その目は朦朧としているようだった。そんなユリカの手を、ア
キトは握る。その感触に、ユリカは微笑んだ。まるで赤子のように、邪気のない純粋な笑顔。

「ああ、アキト。あったかいね」

「お前もな、あったかいよ」

「うん。あのね、アキト。最後に一つだけ」

「なんだい?」

「あのね、アキト。本当に、あ り が と う」

 ユリカはそう言って、はかない笑顔を浮かべると、アキトにもたれかかった。ずるり、とその体から力が抜
けて体がずれる。それを、アキトは支える。すでに、彼女の体から命が抜け落ちているのは分かっていた。ア
キトの目から、留め止めもなく涙が流れる。そして、彼女の顔を見る。幸せそうな、穏やかな顔。間違いなく、
彼女の最後は幸せだったはずだ。

「ユリカ。俺のほうこそ、礼を言わなきゃいけないんだ。お前がいてくれたから、俺は生きてこれた。目標を
見つけて、歩くことが出来たんだ」

 そういいながら、もはや骸となったユリカの体を抱きしめる。それから、

「本当に……ありがとう、ユリカ」

 心の底から言うアキト。心残りがあるとすれば、彼女が生きている間にその言葉をかけられなかったことくらいか。

 アキトはそれからユリカの骸を抱き上げて立ち上がり、振り向いた。そして、そこにいたルリやラピス、イ
ネスに振り向く。

「アキトさん、これからどうなさるおつもりなんですか?」

 アキトの答えを予想しながらも尋ねるルリ。ルリの問いかけにアキトは透明な笑顔を向けながら一度自分の
腕の中で眠るユリカの骸に目を落として答えた。

「ここで、墓守をね。ユリカのそばにずっといてやるって。そう約束したから」

 ルリの予想通りの答えを返してきた。はじめからアキトはここにユリカを葬るつもりだったのだ。それは、
ユリカ自身の望み。であればこそ、彼女は髪を切ったのだから。そして、アキトはそんなユリカとともに朽ち
ていくことを選んだ。そのことにルリは言いたかった。「一緒に帰りましょう」と。しかし、言えなかった。
それを言えば、ただアキトを苦しめるだけだから。自分の言葉では、アキトを引き止めることが出来ないから。

「アキト……」

「ラピス。お前はもう大丈夫だ。俺やユリカがいなくても生きていける。お前にはルリちゃんが。お姉さんが
いるだろう? 友達がいるだろう? 居場所はあるだろう? だから、大丈夫。お前は俺たちの自慢の娘だか
ら、幸せになれ」


 涙ぐみ、アキトを引きとめようとしたラピスだったが、アキトの力強い笑顔とともに吐き出されたその言葉
に涙をこらえる。「自慢の娘」その言葉が、ラピスに力を与えた。無理やりに顔を引きつらせ、笑顔になりき
らない微妙な表情を作るラピス。それを見てアキトは満足げに頷き、

「そうだ。お前は強い子だ。ルリちゃんと。姉妹で仲良く、強く生きていってくれ。ルリちゃん、悪いね。……ラピスを頼むよ」

「頼まれなくても、ラピスのことは面倒見ますよ。私にとっても、かけがえのない妹ですから」

 わずかに涙を浮かべながら答えるルリ。結局、私は娘以外にはなれないんだな、とルリは諦めを感じながら
思う。しかし、それでももう、今しかいえないことを言うことにした。

「アキトさん」

「なんだい? ルリちゃん」

「私は、アキトさんのことが好きです。これだけは、言っておきたかったんです」

 苦しめることは分かっていた。でも、言っておきたかった。自分のために。このままだとここでとらわれた
まま、進めなくなるから。

「ごめん。ルリちゃん。君の思いには応えられないよ。俺には、ユリカがいるからね」

「ハイ。分かってます。でも、言っておきたかったんです」

 そう答え、涙をつ、と一筋流しながらもルリは笑顔で答えた。胸にちくりと痛みが走ったが、同時にすっき
りとした。これで、心残りはない。すっきりと別れることは出来る。だから、ルリは笑顔になって、

「では、アキトさん。さようなら。私、あなたと出会えて。娘になれて本当に幸せでした」

「ああ。俺もだよ、ルリちゃん。至らない男で悪かったけど、君の父親になれて本当に良かった。……幸せに
なってくれ。俺と、ユリカの分まで」

「ハイ。ラピスと一緒に世界で誰よりも幸せになりますよ。ね、ラピス」

「うん。さよなら、アキト」

 ルリに促されて、ラピスもそう言った。そして、二人はアキトに背を向けて、背後のユーチャリスに向かっ
ていく。最後に残ったイネスに、

「アイちゃん。あなたには感謝の言葉もない。本当に……ありがとう」

「お兄ちゃん。……さよなら」

 その目に深い悲しみをたたえ、イネスはただ一言そう言った。それだけで十分だった。そうとだけ言うと、
イネスは白衣を翻し、二人に背を向けると先行するルリとラピスを追う。三人とも、アキトのことを振り返る
ことはなく、艦に向かい、その中に姿をけした。

 しばらく時間がたち、ユーチャリスが駆動音を立てるとその巨体を宙に浮かせた。そしてアキトとユリカを
その場に残したまま艦首を天に向けると、ゆっくりと加速していく。だんだんと加速しながら天に昇っていく
その姿を見送って、その姿がきらめく火星の空に消えるまでアキトはずっと天を見つめていた。

 その姿が消えてから、アキトはユリカを抱いたままその場に座り込む。

「なあ、ユリカ。俺もつかれたよ。……お前のところに、いっていいよな?」

 傍らのユリカにそう語りかけ、そして目を閉じる。

 そして、アキトの意識が闇にとらわれ、溶けていく。そして、火星の草原に物言わぬ骸が二つ。寄り添うよ
うにしてひっそりと残されていった。



  あとがき

 ええと、予告どおりナデシコ短編「〜Honeymoon〜」を書きました。
 うーん。長い。ひたすらに長い。自分でも思います。こりゃ、中編模だな……短編のはずなのに。とりあえ
ず、この長さに負けずに読んでいただけると幸いです。ちなみに、これを読んで「こんなのユリカじゃねえ!」
とおっしゃる方が少なからずいるかもしれませんが、自分から見たユリカ像とはこんなものなのでご容赦くだ
さい。付け加えるなら、自分自身、もしテレビ版のユリカしか知らなかったらこんなふうには彼女を描写でき
なかったと思います。あの、ナデシコ長屋とかのストーリーを描いたナデシコ小説を読んだから、こういうふ
うに彼女のことを捕らえられたもので、あの小説を読まずに単にユリカヘイトになっている人は一度手にとっ
て読んだらいいのではないでしょうか。(それでも美化しすぎ、といわれるかもしれませんが)
 後、なんか途中で冗長的なエピソードはさみすぎ、という方も多いと思いますが、(自分でもそう思う)ま
あ、ぶっちゃけた話ちょっとした考察も加えてこういう形にしたものでして。
 しかし読み返してみたら、やっぱり「どこかで見た話」だと思います。まあ、ナデシコSSの劇場版アフター
でアキトとユリカの最後、という形で煮詰めていけばこういう流れになるのは当たり前なので仕方がないとい
えますが、自分の想像力の貧相さには呆れてしまいます。まあ、そう思いながらも読んでいただけて、時間の
無駄に成らなかったな、と思っていただければありがたいと思います。
 それではまた、なにかの折に。

 

 

代理人の感想

なんと言うか・・・TK-POさんはやはり設定をあれこれするのが好きなんだなぁと。w

こう言っては何ですが話の大筋は割とありがちなものなので、途中にああいった展開をはさんだこと自体は

悪くないと思うのですが、結果としては主題がややぼやけてしまったかなと思います。

こちらの方面に走るのであれば、戦いを終えたユリカとアキトが穏やかな満足を覚えて力尽きる、

という流れでもよかったかもしれません。

まぁ、書きたいものがあって書いているわけですからなかなかそうは行かないんですが。

ですが楽しませていただきました。

それではまた、機会があれば。