第7話





「おや、起きたのかい」

寝不足の頭を抱えて階段を降りて来たハーリーに、台所で朝食の支度を行っていた老婆が声を掛けた

「あ、はい」

「良く眠れたかい?」

「え・・・・あ、はい」

「服は、合ってるかい?」

その老婆の言葉に、ハーリーは自分の体を見下ろす

今のハーリーは、ゆったりとしたパジャマズボンに、サイズの少しだけ大きいTシャツを着ている

それらをざっと見回すと、ハーリーは微妙な苦笑いを浮かべながら答えた

「ええ、ピッタリです。ありがとうございます」

ハーリーのその答えに満足したのか、老婆は機嫌良さそうに頷くと、再び朝食の支度へと戻った

今時珍しい畳敷きの和室。その部屋の中央に鎮座する丸テーブルには、すでに起きていたのだろう、もう一人のこの家の住人である老人が座っている

所在無さ気に立ち尽くすハーリーに笑いかけると

「まあ座りんしゃい。腹もすいとろう?」

そう言って、ハーリーのために用意した物であろう、三つある座布団の内の一つを薦めてきた

その老人の行為にさらに申し訳無さそうに縮こまると、ハーリーは小声でお礼を言いながら、その座布団へ座り込んだ

あの路地裏でこの老夫婦に出会った。彼らは、素人目に見てもド素人な構え方で自分達に拳銃を向けたハーリーを見て、怯えるでもなく、怒るでもなく、ただ優しく声を掛けてくれた

「子供がそんなもの構えちゃあいけないよ」

それを聞いたとき、張り詰めていたハーリーの緊張の糸が切れたのは仕方がないことだと言えた

不慣れな状況の連続、目の前で撃たれた仲間、助けることが出来なかった憧れの人

そして今、無力なはずの老夫婦へと拳銃を突きつけている自分への想い

泣き出したハーリーを、その老夫婦は何を尋ねるでもなく、街から少し離れた郊外にある自分達の家へと連れて行ってくれた

そして、今に至る

「良く眠れたかえ?」

「あ、はい」

老婆と同じ質問をしてくる老人に、今度は余り戸惑うことなく返事をする

だが、実をいうとほとんど眠ることは出来なかった

布団に入ると、ドッと疲れと眠気が押し寄せてきた。だが、眠りにつこうと目を閉じる度に、脳裏に様々な映像が過ぎるのだ

撃たれたサブロウタの映像。最後に見たルリの姿。信用していたアキヤマの顔

眠れず、おそらく空き部屋を自分のために掃除してくれたのだろう、その寝室で何度も寝返りを打つ

そしてなによりもハーリーの頭にこびりついて離れないのは、この、家に泊めてくれている老夫婦への不信感だった

普通、あんな路地裏で拳銃を突きつけてくるような子供を、わざわざ自分の家に泊めるだろうか

警察などに届け出るのが、普通ではないのか

軍服のことを、なぜなにも質問してこないのか

他にも尋ねられるべきことがあるはずだ。なぜ自分のような子供が拳銃を持っているのか、家はどこか、どうしてこんなところにいるのか

もちろん、これらの問題は全て親切だから、という一言で解決することも出来る

家のことを聞かないのも、自分のことをなんの考えもなしに無鉄砲に家を飛び出した家出少年と思ってくれているのかもしれない

だが、それよりももっと簡単に説明がつく

この老夫婦が、あの佐世保ドッグで自分達を襲ってきたあの黒い装甲服の連中と、繋がりがあれば

こうして自分を泊めていてくれるのも、その本隊が到着するまでの時間稼ぎだとしたら

もちろん、常識から考えればそれこそ有り得ない。大体老人にも関わらずあんな連中と繋がりがある人間などいるはずがない。わかっている

だが、もしも、がある

そして自分はつい先ほど、そのもしもを体験してきたばかりではないのか

そう考えると、どうしても眠る気にはならなかった。眠っている間に、そのもしもが起こることを、なによりも恐れた

「あの・・・・」

丸テーブルに座り、三人で朝食を取っているときに、ハーリーは口を開いた

「ん?どうしたえ?」

「どうしたんだい?」

そのハーリーの言葉に、待ってましたとばかりに鋭い反応を返す老夫婦

外見年齢よりも余りに俊敏なその反応に一瞬身を引くハーリーだったが、その余りに期待に満ちている老夫婦の目に、半ば無理やり言葉をひねり出した

「その・・・」

「ん?」

面白そうに、さらに身を寄せてくる夫婦。だが、その二人に対して、ハーリーは申し訳無さそうに顔を伏せる

その態度に、不思議そうに眉を寄せる二人

ややあってから、ハーリーはゆっくりと口を開いた

「なぜ・・・なにも聞かないんですか?」






機動戦艦ナデシコ

 Lose Memory 』






『 少女の遺言 』

 

 





その質問に、一瞬だけ空気が止まった

二人が今どういう顔をしているのか、顔を伏せているハーリーにはわからない

なにを、という顔をしているかもしれない。それとも、それが当然。とでも言うように苦笑しているかもしれない

あるいは、勘付かれたことに対する、焦りの表情を浮かべているのかもしれない

顔をあげて確認する気には、なれなかった。すっかり弱気になってしまっている今のハーリーには、二人が焦っているような顔をしていたらどうしよう、という気弱な考えしか浮かばない

少しばかり自分には大きいズボンを握り締める。沈黙が、ハーリーには随分と長く感じた

どんな反応が返ってくるのか、家出少年と思って、なにか親は本当は君のことをきっと心配している。とかそういう気遣わしげな言葉が掛かるのだろうか

それとも

自分の想像に怯え、ハーリーはズボンを握り締める手により力を込めた

だが、次の瞬間ハーリーの耳に入ってきたのは、笑い声だった

思わず顔を上げると、可笑しくてしょうがないというように腹を抱えて笑う老人が楽しそうに老婆を指差している

「ほれ言わないこっちゃねえ。そりゃあ誰でも不審に思うがな」

その指差されている老婆は、ジロリと笑い転げる老人を睨むと、ハーリーへと顔を向けた

「ごめんねえ。やっぱり迷惑だったかい?」

「え?あ、いえ・・・そんな」

どうにも判断がつかない目の前の老夫婦の態度に、ハーリーも中途半端な生返事しか返せない

狼狽した様子を見せるハーリーに、老婆は再びなにかに気づいたような顔をすると、まだ笑っている老人の腹へ一蹴りいれて、続けた

「いやね、見た通り、この家にはこのモウロク爺さんと私の二人暮らしなのよ」

「は、はあ・・・」

正直なところ、ハーリーにはその老婆の説明よりも、その横で無防備な腹へ蹴りを落とされ悶絶している老人の方が気になる

「大丈夫よ。こんくらいじゃ死なないから、このゾンビ」

ハーリーの視線に気づいたのか、補足するように説明してくるがそんなに軽い事態には見えない

だが、大丈夫というのなら大丈夫なのだろう。ハーリーは観念したように、その視線を老婆へと戻した

それに満足したのか、大きく頷くと話を続けてくる

「で、見たところ貴方訳ありみたいだし、それになにか酷く怯えてるみたいだったから、取り合えず連れてきたのよ。ほら、なんせこんな爺さんと二人だけじゃあ、毎日味気なくてねえ」

息をつきながら、頬に手を添える

「それにほら、貴方拳銃持ってたでしょ? だから警察に連れてく訳にもいかないし、こういうときの警察って色々面倒でねえ」

そうだった。と、ハーリーは思い出す。自分はこの老夫婦に銃を突きつけたのだった

慌ててハーリーは頭を下げる

「ごめんなさい! 僕」

「あら良いのよ。別に大事なかったんだから」

「そうだえ、気にするこたあないさ」

と、いつの間にか復活した老人が老婆の横で笑う

「でも!」

「あーまあまあ、落ち着きんしゃい」

尚も言葉を募ろうとするハーリーに、老人が苦笑しながら小さく手を振る

だが、それでは納得出来ないのか、まだなにか言いたげなハーリーの様子を見ると、老人は両手を組み、しばし物思いに耽るように目を閉じた

その体勢のまま数秒の後、老人はポンと両手を打ち合わせると、名案とでも言うように老婆へと顔を向けた

「どうじゃババア。その銃をワシらに向けたことに目を瞑る代わりに、しばらくワシらと一緒に暮らしてもらうというのフグオ!!」

まだ言い終わらない内に、老人の腹部に再び老婆が座ったまま鋭い蹴りを突きこんだ

軽く三センチほどめり込んでいるその蹴りに、思わずハーリーも腹部を押さえる

「それじゃ脅迫でしょうが、全くねえ、これだからモウロク爺は嫌だよ。死ねば良いよ」

「こ・・・・この糞婆が・・・!」

腹を押さえ蹲る老人に、老婆がニヤリと勝利の笑みを見せる。それに老人は悔しそうに身をくねらせた

畳に身を伏せている老人が這いずり回る光景は、正直余り見ていて気持ちの良いものではない

「あ、あの・・・・」

このまま目の前の怪老夫婦のペースに巻き込まれる訳にもいかず、ハーリーがおずおずと声を掛ける。すると、ようやくその存在を思い出したのか、二人の視線が彼へと集中する

それに少し後ずさりながら、ハーリーは引き攣った笑いを浮かべた

「え、えっと・・・・結局、どうして僕みたいな怪しい子供に、そんなに親切にしてくれるんですか?」

さっきからのこの二人の狂態を見ていると、どうにも自分の心配がちっぽけな物のように感じてしまい、ハーリーは自分でも驚くほどあっさりと、その質問を口にした

そして、それと同じくらいあっさりと、老婆が答えた

「それは貴方、面白そうだからよ」

言われた意味が一瞬掴めず、ハーリーは呆然とする

面白そう?と、ハーリーは心の中でその言葉を反芻した

ハーリーの常識では、考えられない答えだった。たったそれだけの為に、路地裏に現れた自分達に拳銃を突きつけてきた明らかに年齢に見合わない軍服を着込んだ少年を、家に連れてくるだろうか

ましてや、しばらく泊まっても構わないという、というよりも、むしろそうして欲しそうにすら聞こえる

混乱するハーリーを置き去りに、老婆はさらに面白そうに口を開く

「だって貴方そうじゃない? あんな路地裏に現れた子供で、しかもなぜか軍の人の服着てる子供よ? 子供、もう見るからに訳ありじゃない。きっとあれよね、研究所から脱走してきたんでしょ? 助け出してくれた最初は悪人だったけど最後の最後に生みの親らしく自分を庇ってくれた博士とかいたんでしょう? それともあれかしら? 落ちてきた? 落ちてきたのね? 空から落ちてきたんでしょう? 目的はなに? 調査? 調査なのね? この地球の人間がなんか良くわかんない銀河の連盟みたいなのに所属する資格があるか調査しに来たんでしょう?」

四つんばいになり、座り込んでいるハーリーに近づく

老婆がその距離を詰めれば、進んだ分だけハーリーが後ろに下がる

というよりも、後進しているハーリーの速度に、老婆が合わせているようにも見える

間合いを一定に保ちながら、二人はグルグルと和室の中を回った

逃げ回りながら、ハーリーは泣きそうだった。先ほどの老人とのやり取りでわかっていたが、まさかここまで濃い人達だとは思わなかった

さらになにか言おうと口を開いた老婆の背中に、不意になにかが乗りかかった

「むぐ」

潰れるような音を立て、その乗ってきた物の重さを支えられなかった老婆が、畳に突っ伏す

「はあ・・・やれやれスマンな。この干物、最近楽しいことなくて暇で暇でしょうがなかったと見える」

老婆の背中に乗ったままの老人が、ため息をつきながらハーリーへ頭を下げる

「いや脅えさせてすまなかった。そりゃあ怖いわなあ。こーんな生きた化石みたいな婆さんが四つんばいで迫ってくるなんて、そりゃあ怖いわ。PTAも大激怒じゃ」

「は、はあ・・・」

困惑気味に返事を返す以外に、ハーリーに出来ることはなかった

そんな様子を見て取ったのか、老人は笑いながら言う

「ま、そんな程度さ」

「え?」

「お前さんを泊めた理由。単純に好奇心なんだわ。だからお前さんも、そんな肩肘張らなくて良いべ」

その老人の言葉が、先ほどの自分の質問に対する回答だということに、ハーリーは一瞬気づけなかった

が、ハッとそれに気づくと、慌てて乱れていた姿勢を正した

「でも・・・・聞かないんですか?」

「ん? なにを?」

老婆の背中に乗ったまま、テーブルの上にあった朝食を食べ始めた老人に、ハーリーは告げる

「その、なんで拳銃持ってたのか、とか・・・・なんで軍服を着ていたのか、とか」

言いながら、自分でも不思議だった。なぜ自分は、こんな風にわざわざ不利になるようなことを尋ねているのだろうか。聞かれないのなら、それに越したことなどないというのに

そのハーリーの言葉に、老人は納豆をネリネリと混ぜる

「聞かせてくれるってえんなら、そりゃあもちろん聞きたいさ。でもまあ、言いたくないことなら、無理に聞き出そうとも思わねえのよ」

ふと、納豆を混ぜる手を止める

「それとも、聞いて欲しいのかえ?」

「え?あ、それは・・・・」

狼狽しながらも、ハーリーの頭に数々の映像が過ぎった

『行け!!』そう言ったサブロウタ

『ここからは先、もう誰も信用することは出来ません。降りるなら、今の内ですよ』そう言っていたルリ

この老夫婦の行為は、ありがたいと思う。だが、同時に思うこともある

巻き込むことは、出来ない

軍の施設に突入してくるような連中だ、こんな郊外にある民家など、ばれれば一捻りだ

不意に思い至った結論

忘れていた、いや、忘れようとしていた現実

だが、この目の前の老夫婦のお陰で、思い出すことが出来た

立ち上がる。不思議そうに眺めてくる老人に、ハーリーはゆっくりと頭を下げた

「ありがとうございました」

あれから一晩が経った。あの連中がどれほどの情報網を持っているのかは知らないが、どちらにしろこれ以上ここに留まるのは、迷惑以外の何者でもないだろう

軍服を着た少年を、老夫婦が連れて歩いていた

あのとき自分は泣いてばかりでそれどころではなかったが、やはりそんな三人が歩いていたのなら、少なからず目立っていたに違いない

ならば、この場所が特定されるのも、時間の問題だ

「行くのかい?」

老人を押しのけて座った老婆の言葉に、ハーリーは頷いた

「やらなきゃいけないことが・・・・ありますから」

実際、この家を出た後どうするのか、ハーリーには見当もつかない

だが、いつまでも行動を起こさないわけにはいかない。こうしている間にも、統合軍や宇宙軍が、クーデターの準備を進めているのだ

「あの・・・僕の服は」

「ああ、洗濯してるよ。悪いけどもう少し待ってくれないかい?」

「あ・・・・そうですか」

服がないと、どうにも出来ない。出来れば目立たないような普通の服が良いのだが、さすがにそこまでこの夫婦に世話になる気にはなれなかった

勢い込んで「ありがとうございました」と言ってしまったものの、出発はもう少し先になりそうだ

先走った自分に少しだけ赤面しているハーリーに、老人が声を掛けた

「のお、お前さんや」

「え?」

「差し支えなければで良いが、お前さんがなにをしようとしとるんか教えてもらえんかな?」

「・・・・すみません」

「ん、謝るこたあない。言いたくないんなら言わずとも良いさ」

頭を下げ謝るハーリーに、老人は苦笑する

「ただ、どうせ出発するんなら、もう少しだけ待ってくれんか」

「? どうしてですか?」

不思議そうにするハーリーに、老人は「なに、大したこたあない」と前置きした

「昨日の内に頼んどいたんだが・・・そろそろ来る頃じゃて」

「?」

なんのことを言っているのかわからなかった

ハーリーの目に映るのは、相変わらず穏やかに笑っている老夫婦

と、そんなとき、不意にチャイムが鳴った

「お、来た来た」

年齢を感じさせない動きで立ち上がる老人を目で追うと、彼は得意そうに笑った

「なに、ちょっとした餞別じゃて。お前さんもおいで」

「?」

なんのことかわからず、ただ促されるままに老人の後に続く

木作りの、時代を感じさせる廊下を抜ける。老人の後をハーリーが、そしてその後を老婆が

急かすように、もう一度チャイムが鳴った

「はいはいっと、タケ坊の奴も随分セッカチになったもんじゃな」

玄関に辿りつく

老人が、引き戸に手を掛ける

また、チャイムが鳴った

「はーい」

勢い良く開け放たれた扉の向こう

「!!」

ハーリーは、目を見開いた

予想の範疇では、確かにあった

考えてなかった訳では、なかった

ただ今こうして、目の前に現実として突きつけられた光景は、ハーリーにとって心底意外であると同時に、どうしようもないほどの致命傷でもあった

黒い装甲服を纏った男が、三人立っていた





「・・・・・・」

パイロット用のシミュレーターの前に、クラシキは立っていた

その手に握られているのは、セトに渡された、例のブラックサレナ用のシュミレートデータの端末

クラシキにも、わかっている。まだ駆け出しとはいえ、伊達に整備士をやっているのではない

この手に握られているデータには、おそらく常人では耐え切れない程の無茶苦茶なスペックが込められている

ブラックサレナを操るパイロットに掛かる負担は、並の機体の比ではない。それはブラックサレナのそれが、現在開発されている重力制御で相殺しきれるGの許容量を、遥かに超えているからだ

だがそれでも、やらなければならない

遠回りしているような時間はない。現在軍で使われているような機動兵器から徐々に体を機動戦に慣れさせていくような時間など、クラシキにはない

少なくとも、本人はそう思っている

多少強引でも構わない。無理矢理でもなんでも、とにかく体を慣れさせなければ、話にならない

端末をシミュレーターに接続し、乗り込む

このシミュレーターは、通常の軍に配備されている物と同様に、実際の実機と同じありとあらゆる状況をシミュレートする

被弾時の揺れ、加速で体に掛かる重力負荷、格闘戦時の反動

データがロードされる。このときこの瞬間から、このシュミレーターはブラックサレナのアサルトピットへと早変わりする

耐Gスーツを着ているときに掛かる負荷と同じように設定すると、クラシキは新たに目の前に映し出された光景を睨む

宇宙が、そこにあった

最新の機器で再現されている宇宙は、本物とほとんど遜色がない

その漆黒の宇宙の果てに、小さな光がちらつく

仮想敵として設定した、ネルガル製の最新鋭機、アルストロメリア

緊張で渇いた喉につばを押し流すと、クラシキは右手に打ち込んだIFSにイメージを送った

直後、腹に拳がめり込んだ

それは、正確にはクラシキの錯覚であったが、それは決して誇大表現ではなかった

爆発的な加速によるGが、クラシキにそう錯覚させたのだ

「っかっ!!」

余りに予想以上の衝撃に、蛙が潰れたような声が漏れる

だが、加速は止まらない

呻いたときに前に出た顔面が、背後にあるパイロットシートへと叩きつけられた

IFSコンソールの上に置いていた手が、重力に引っ張られる。パイロットシートの向こうへと押し流され、腕が関節を無視した曲がり方をする

余りの激痛に悲鳴を上げそうになるが、口が開かない

加速は、尚も止まらない

腕がいよいよ悲鳴を上げ始める。同時に、パイロットシートに押し付けられている体から、間違いなく、空耳ではなく骨が軋むような音が聞こえてくる

心臓が引き絞られたかのように、激痛が走り抜ける

潰れる。死ぬ。無理だ、こんなのは無理だ。有り得ない

こんな物、人間が乗る物じゃない

腕がさらに捻じ曲がり、体が悲鳴を上げる

口が開かない。酸素が足りないのか、それとも単純に体が限界を超えたのか、意識が遠のいていく

このままでは、死ぬ

必死だった。死に物狂いで腕を握り締め、限界を超えるような力で、緊急停止のスイッチを叩きつける

全身の戒めが、一瞬で解けた

シュミレーターから転がり出る。地面に四つん這いになり

「っ」

胃の中の物が、逆流した

まるで胃を握り締められているように、全身が握りつぶされようとしているように、体が動かない

足が、腕が、痙攣する

クラシキに出来る唯一のことは、惨めなほどに体を折り曲げ、その激痛の波に耐えることだけだった

「あっ・・・・うあ・・・・うあああ・・・」

経験したことのない、余りに桁違いの激痛に、嗚咽が漏れる

痛みを紛らわそうと、爪を立て、床を引っかく

我を、加減を忘れているためか、力が込められすぎているその爪が、ベリベリと剥がれる

クラシキは、気づかない。そんなことで紛れるような痛みではなかった

クラシキはそのまま、痛みにのた打ち回った

痛みが、段々と引いていく。焼けた鉄を押し当てられたような痛みも、遠のいてきた

「・・・・っはあ」

大きく息をつく、腕や足の痙攣も、大分小さくなっている

蹲っていた体を起こし、地面に座り込んだ。そのとき、手の先から僅かな痛みが響いてくる

そのとき初めて、クラシキは自分の爪が半分ほど剥げていることに気が付いた

まだ痛みでハッキリしない頭でその事実を認識すると、ボンヤリした視線を前に向ける

そこには、つい先ほどまで自分が乗り込んでいたシミュレーターが、無言で佇んでいた

「・・・・っ」

悔しくて、涙が滲んだ

こんな程度だったのか、自分の復讐の想いは、こんなちっぽけなものだったのか

なにが許さないだ。なにがこのままでは終われないだ

「・・・・くそお・・・」

爪の剥がれた腕を、床に叩きつける

血が飛び散る

「くそお・・・・! くそお・・・! ・・・・・くそお!」

何度も何度も叩く。まるで自分を痛めつけるように、情けない自分の首を、締め上げるように

涙が濃くなった。歪んだ視界の中で、しかしそれでもクラシキはその動作をやめない

一際大きく腕を振り上げ、渾身の力で振り下ろした

自分には、無理だ。現実は、そう物語っていた

「ちくしょお!!」



それから、どれくらいそこにいたのか、覚えていない

十分だったかもしれない、一時間だったかもしれない。あるいは、一日だったかもしれない

気が付いたときには、その部屋にいた

もはや主を持たない、無人となった、その部屋に

ラピスの部屋。正確には、元ラピスの部屋

私物も、備え付けられていた一切合財の家具全てを引き払われ、すでにその面影すら残してはいない、その部屋にいた

うずくまり、ただただ己の無力さを嘆いた

土台、無理な話だったのだ。訓練もなにも受けていない、どこにでもいる、ひ弱なただの整備士には、過ぎた願いだったのだ

歯を噛み締める。もう、自分には、なにも出来はしない。出来ることなど、なにもない

先ほど感じた怒りが、また鎌首をもたげた

「ちくしょう!!」

腹立ち紛れに、壁を殴りつける

コトリと、音がした

ハッとなって顔を上げる。その視界には、相変わらずの殺風景な部屋の姿しか映らない

いや、違う

正確に、真っ直ぐに整えられている部屋の壁面。そこの一部が、僅かだけ突き出ていた

クラシキの膝ほどの高さに、机の引き出しのような突起が生まれていた

「・・・・?」

何事かと、クラシキはその突起に、ノロノロと近寄る

よくよく見ればその突起には、本当の机の引き出しのように、へこんだ取っ手がついていた

訝しげに、クラシキはそれを手前に引き寄せる

ほとんどなんの抵抗もなしに、それは壁から頭を出した

「!」

それは、本当に引き出しだった。隠されていたらしいその引き出しには、縦に収納された白い紙袋が、ギッシリと詰め込まれていた

恐る恐る、その中の一枚を摘み上げる

「!!」

そこには、子供らしい手書きの丸い文字で、名前が綴られていた。月ドッグの、自分も知っている整備班の中の一人の名前だ

心臓が、脈打った

クラシキは、取り憑かれたように、そこから何枚も何枚も、その白い封筒を取り出す

『コンドウへ』『タナカへ』『ホソサカへ』

見覚えのある名前が、次々と目にとまる

そして、実に三十三枚目の封筒を取り出したとき、そこに、名前を見つけた



『クラシキへ』



心臓が、爆発した

緊張で震え始めた手で、その封筒を丁寧に開く

中から出てきたのは、一枚の便箋だった

その冒頭には、こう綴られていた

『遺言状』

通常、戦艦に限らず、軍に属している人間は、遺書を書く

それは戦争に出かける前に書くことが規則とされる、万が一のための物だ

書き出しは、こうだった

―――クラシキへ



クラシキへ

これが読まれているということは、きっと私が死んだってことだと思います

規則だとエリナが言っていました。敬語で書くのも、そうだって言っていました

敬語というのは良く分からないけど、敬語で書きます



死んじゃって、ごめんなさい

もしかしたら悲しくないかもしれないけど、それでも、ごめんなさい

戦場って言うのは、皆死ぬかもしれない場所です。だからきっと、私が死んじゃったのも、きっとそういう場所だからです

だから、誰も恨まないで下さい

恨まないかもしれないけれど、それでも、恨まないで下さい

皆、私のことを子供と言うけど、それでも、なんとなく分かるときがあります

きっと私が殺した人の中にも、アキトみたいな人がいたと思います

だから、私が死んじゃうのも、きっとそのせいです。殺しちゃったから、死んじゃったんだと思います

だから、恨まないで下さい。それはきっと、しょうがないことだからです

なにを書けば良いのか、良く分かりません。だから、お願いを書きます

泣かないで下さい。多分私は、死ぬとききっと、幸せだと思います

皆に、色んなことしてもらいました。ラーメンも食べました、コーヒーも飲めるようになりました

色んな人を、好きになりました

だから、泣かないで下さい。泣かないかもしれないけど、泣かないで下さい

皆が泣いたら、悲しいからです。悲しいのは、嬉しいことではないからです

でも、悲しくない泣くもあることを、私は昨日知りました

アキトと一緒に、昨日泣きました

悲しくなかったです。嬉しかったです

だから、嬉しい泣くなら、泣いてください。一杯泣いてください

それが、お願いです。悲しい泣くは、やめてください

そして、アキトを、お願いします

アキトは、きっと泣いています。一杯、悲しい泣くをしています

だから、クラシキへお願いです

アキトの、家族になってください

家族がいると、悲しいことは半分で、嬉しいことは倍になると、聞いたことがあります

だから、家族になってください。そうしたらきっと、楽しいです

遺言状というのは、良く分かりません。死んだときっていうのが、よくわかりません

終わり方も、よくわかりません。だから、これで終わります

今まで、ありがとうございました

さようなら



「・・・・無理だよ・・・」

便箋を持つ手が、震える

つい先ほど読んだ一文が、頭を過ぎる

―――泣かないで下さい

「・・・無理・・・・だよお・・・・!!」

床にへたり込み、泣いた

押さえても押さえても堪えようがなく、それはドンドンドンドンと溢れてきた

力が入り、握りつぶされた便箋

小さな少女が、小さいなりに、精一杯自分の死を語ろうとした手紙

不慣れなことをしたせいか、不器用で、まとまりのないその手紙

それでも皆に愛され、そして、死んでしまった少女の残した、手紙

その最後には、こう綴られていた



―――バイバイ お兄ちゃん





その日、妹が出来た

家族に、なった






あとがき



リンゴをつぶせる握力よりも、ウンコを掴める勇気が欲しい



こんにちは、白鴉です

なんかスラスラ書けます。なぜでしょうか

次回は、おっさんの鉄拳が炸裂します。しないかもしれませんが

そんでもって、皆さんから結構言われてしまったAIことアウインが、ホンのちょっとだけ活躍したりするかもしれなかったり・・・・やっぱりしなかったり

まあとにかく、そんな感じです



それでは次回で