第15話







状況は最悪だった

当初予定されていた第三刑務所襲撃。その際に割り当てられていた戦力は、まさにギリギリ。事前の下調べで把握している敵戦力を、なんとか退けられるかどうかというだけのモノでしかない

爆撃と同時に突入。そして相手が体勢を立て直す前に目的人物であるホシノルリの確保。そして可能ならば、他のナデシコクルーも同様に保護する

その間にツキオミ達がやることは、敵の殲滅などではない。正面きって戦えば、間違いなく彼らは負ける

彼らが唯一出来ることは、ただの破壊

通信機を、そして足になりそうな物の全て、車からヘリから、それこそ自転車に至るまでの全ての足を破壊すること

目の前に瀕死の敵がいようとも、その向こうに無傷の自転車があるのならば、そちらを優先する

例えその目の前の敵が、銃を構えていようともだ

楽観的な思考回路など欠片も持ち合わせていないツキオミ達にとって、そんなことは魚が飛ばないことと同じくらい当たり前のことであった

敵を一人殺すよりも、足を一つ潰す方が遥かに効果がある

そして、もし敵が自分達の予測を上回るほどの戦力を保有していたならば、自分達の身を盾とし、捨て石にしてでもハーリーとルリを死守する

だが実際問題。いざその死を目の前にしたとき、果たして何人の人間がそこまで命令に忠実でいられるだろうか

自らの命を引き換えとしてでも、他人を生き延びさせるという選択肢を、果たして何人の人間が選べるだろうか

もし、本来守るべき人間を見捨てれば自分が助かるかもしれないという状況に置かれたなら、本当にそんな行動が出来るのだろうか

その状況下で銃を振り捨て、背中を向けて逃げだしたとて、誰が彼らを責められるだろうか

彼らもまた、人間であるのだから

だが状況はそんな彼らの内包する可能性など無視して進行する

そしてその現実は、悲しいほどに彼らの選択肢を狭めていく

想定していなかった存在が、この第三刑務所には二つも存在していたのだ

火星の後継者にとっての最強の切り札であり、そして決起寸前のこの時期には確実にどこか大規模な戦場へと配置されているはずであった男、北辰

その存在は、ツキオミ達にとって正に悪夢のようなモノだった

防弾仕様の、並の人間には重量だけで動けなくなるほどの外套を着込み、尚軽々と戦場を駆けるその男には、銃弾など足止め以外になんの効果も見込めはしない

そして、距離を取っての銃撃戦が不可能ならば、もはやその男に対して取れる策は、白兵戦しか有り得ない

だが、その戦法には唯一にして致命的な弱点がある

格闘技を修めている人間同士が殴りあう場合、そこには絶対的な実力差が生まれる。そこには期待できるような偶然などなにもなく、あるのはただ実力の差異のみ

そしてその実力で北辰を上回れる人間は、いなかった。少なくともツキオミの知る限りでは、一人もいない

周りを取り囲んでのリンチなどもっての他だった。その中の一人に密着され戦われれば、同士討ちを恐れて結局ただの一対一の連続にしかならない

それも確かに有効ではあるはずだ。いかに並外れていようとも北辰も人間。疲労という足枷からは逃れられない

状況にもっと余裕があったならば、そうしただろう

だが現実にそんな余裕など小指の先程もない。相手の疲労を待つなどというあくびが出るような腐れ戦法を取るような時間など、コンマ一秒もありはしない

故に、ツキオミが取るべき行動は一つしかなかった。それはつまり実力的には一番近いだろう自分が、その男の足止めとなる

一分でも一秒でも長く、この男の注意を自分へと惹きつける

それだけだった








機動戦艦ナデシコ

 Lose Memory 』






『 殺す理由、殺される理由 』

 

 







ツキオミと北辰が十メートルほどの距離を置いて対峙してから、随分と経った

外からは、相変わらず低い振動と小さな爆発音が断続的に響いてくる

だが、この廊下にいる二人にとってそれは別世界の出来事に等しかった

北辰はただ目の前に現れた獲物をいかにして仕留めるかを考え、ツキオミはそんな吐き気のするようなその殺気に、ひたすら身を硬くしていた

勝算は、ないわけではなかった

確かに自ら攻勢に出て目の前の男を仕留めるのは、困難にも限度がある

だが、こと純粋な格闘戦において勝負にならないというほど明確なレベルの差があるとも、ツキオミは思っていなかった

勝つことは難しいかもしれないが、本気で防衛にのみ意識を削げばろくに時間も稼げずに負けるということも有り得ない

それにそもそも、自分の目的は時間稼ぎだ。敵を潰さなくても良い。例え時間が経てば経つほど、自分の目的が達せられれば達せられるほど、その自分の生還出来る可能性が低くなろうとも

二人無言のまま、時だけが過ぎる

地下へと赴いたはずのハーリー達は、どうしただろうか

無事、ナデシコクルーを保護出来ているだろうか。いや、そこまでは望まない、だが出来るなら、誰も死なせたくはない

突入前に、散々ハーリーに大人の理屈を聞かせていた自分を思い出し、心を苦笑が満たした

子供であることを受け入れ、それでも尚成長していこうとしている彼より、口先だけで結局心の中ではなにも割り切れていない自分の方が、余程幼い

そこで全く唐突に、一際巨大な振動が襲ってきた

外から響いていたあの揺り篭のような生ぬるい振動ではない。全神経を注いで臨戦態勢を保っていたはずのツキオミが一瞬身を揺るがすほどの、凄まじい振動だった

外からではない。これは、この施設の地下の方から直に響いてきたものだ

何かあったのだろうか。その振動にツキオミが僅かに意識を逸らした瞬間だった

「・・・・成る程、それが貴様の気掛かりの正体か」

前から響いてきた声に、視線を向ける

声を掛けてきたその男は、心底楽しそうに被っている傘から僅かに覗いている顔を歪めた

「だったら、どうした」

「自己犠牲か、くだらんな。実にくだらん」

馬鹿にしたような態度でそう言って来る北辰の言葉に、ツキオミもまた同じように嘲笑のそれを浮かべた

「確かに貴様から見ればくだらんだろうな。誰かのために命を賭けるなどといった行為など、貴様には想像もつかんだろう」

「勘違いするな否定しているわけではない。その行為自体は、我も嫌いではない」

その、目の前の殺人鬼にしては意外な言葉に、ツキオミは一瞬だけ目を見張った

が、すぐにそれを胸の奥に引っ込めると、笑う

「嘘をつけ」

「戯言ではない。確かに我にはなにかを守るという行為それ自体は理解など出来ん。だが、その想いのお陰で生み出される物の恩恵は、知っているつもりだ」

顔を上げた。今まで被っていた傘に覆われてほとんど見えなかったその顔が露わになる

その顔に、その爬虫類のような人間味などと言う言葉をどこかに置いて来たような顔に、怖気が立つような凄絶な笑みが浮かぶ

狂喜に目を見開く

「なにかを賭けると人間というものは強くなるぞお。比べようもなくなあ」

ただの言葉のはずだった。先程まで交わしていた、ただの言葉の中の一つのはずだった

なのに、ツキオミの背筋を嫌気が差すような寒気が舐め上げた

只者ではないのは、理解していた。あの火星の後継者事件の際、墓場で対峙したときから、そんなことはわかっていたはずだった

だが、今目の前にいるこの男は、違う

あのときはこんな重圧など感じなかった。何十人と従えた部下に取り囲まれていたあの男は、間違いなく強敵ではあったが、それ以上の存在ではなかった

だが、今はどうか

例え今どれ程の大人数でこの男を取り囲んでいようとも、きっと自分の心には欠片程の安心感も浮かばないだろう

銃弾が通用しないとか、肉弾戦で優れているとか、そんな理屈ではない

純粋に、勝てるという気持ちが沸かなかった。自分が目の前のこの男を叩き伏せる姿など、全く想像も出来ない

いや、自分に限らない。誰にあてはめても、この男が敗北する姿など、考えられない

例えそれが、この男に対して誰よりも強い拘りを持っているだろう、テンカワアキトであったとしてもだ

改めて思う。目の前の男は、あのときあの瞬間、自分と向き合っていた男とは違う生き物となっている

そんなツキオミの内心など無視し、北辰がその体を揺らして一歩を踏み出してきた

それだけの行為に、確かにツキオミは見た。男の周りを渦巻いているなにか不気味でとんでもないものが、合わせるようにゾロリと蠢くのを

その時初めて、ツキオミは北辰に向けているマシンガンを持つ手が震えていることに気づいた

脅えるように、まるでなにか全く未知で巨大で、底知れない生物と対峙したかのように、その震えは収まらない

「人の」

相変わらず顔を上げ、その身の毛もよだつような笑みを浮かべたまま、北辰は続ける

「人の価値とやらは、どれだけの人間を殺したかによって決まる。そしてそれはプラスに傾くのではない、マイナスに傾くのだ。殺した数だけ、その人間の価値は底なしに堕ちて行く」

その北辰の言葉と共に、ある種異常とも言える空気がツキオミの頬を撫でた

これは自分の弱気だ。相手に押され、だからこそこんな在りもしない感覚を持つのだ

呑まれるな。気を抜くな。僅かにでも意識を逸らせば、死ぬ

脂汗が浮かんでいる顔にそれでも気丈な笑みを浮かべ、ツキオミが口を挟む

「どうした? 今更罪の懺悔か? この異常者が」

その言葉に、向かってきていた足が止まる

「懺悔? 違うなこれは・・・・渇望だ」

「・・・なに?」

「堕ちていった価値は二度と戻らない。殺しすぎた我は、もうすでにそこらを転がっている小石ほどの価値すらあるまい。いや、無害なだけに、我が何百と集まった価値よりもその小石一粒の価値の方が高いかもしれんなあ」

言葉の意味を掴みかねているツキオミに、北辰は楽しげに口を動かしながら、さらに歩を詰めた

二人の間の距離は、すでに先程の半分程度しかない

その事実に、ツキオミは姿勢を低くする。相手がいつ襲い掛かってきても対処できるように

だがそんなツキオミの思惑など知ったことかとでも言うように、北辰はさらに無遠慮に足を踏み出す

「小石以下にまで堕ちた我に、一体どれほどの価値があるのか。否、価値などなかろう。ならば我は我の好きなようにする。これ以上堕ちようもないのだから、今更なにをしようと問題なかろう?」

「・・・なにが言いたい」

「先程も言ったろう?」

その瞬間、なんの前動作もなく、北辰が動いた

縮まっていた残りの距離を、一瞬でゼロにする。その人間離れにした挙動に、ツキオミはほとんど反射的にマシンガンを縦に構えた

突き出されていた北辰の短刀が、その鉄の塊とぶつかり合う

ギリギリとこめられてくる力に、ツキオミも歯を食いしばって耐える

目の前にある北辰の顔は、相変わらずの狂喜で塗りつぶされていた

「渇望だ。死がやってくるぞ。さあ我を楽しませろ、踊り狂え。全ての人間が手足が千切れる程の狂った舞を踊るのだ」

「なにを・・・・言っている!!」

押し切られぬようにマシンガンへと全力を込める。にも関わらず、目の前の男の顔にはなんの力みも感じられない。ただ楽しそうに、狂ったような笑顔を浮かべるだけだ

「わからんか? そんな訳がなかろう? なんせそれは今貴様らが必死で止めようとしていることなのだからなあ!!」

声を荒げ、あり得ないような力でツキオミとの力比べの均衡をあっさりと破った。その声は叫んだというよりも、抑えきれない歓喜と興奮によるもののように見える

弾き飛ばされたツキオミが、即座に体勢を立て直した。マシンガンを構え、一直線に連射する

元より致命傷になるとは思っていない。だがこの障害物一つ無い狭い廊下は、射撃には最高の舞台だった。そして北辰にとっても、マシンガンの弾は傷こそ負わないものだろうが、それでもその着弾の衝撃は決して無視出来るような物ではないはずだ

だが、あり得ないことが起こった

吸い込まれるように北辰へと突き飛んでいった弾丸が、その目標の鼻先で何かに弾かれたように軌道を逸らしたのだ

「な!?」

驚いた一瞬の隙を、しかし今度は見逃してはくれなかった。そのまま瞬きをする間に再び距離を詰められた

驚愕の余り膠着しているツキオミのマシンガンを片手で掴む

楽しそうに、鼻先に突きつけた短刀越しに、北辰は告げる

「こんな無粋な物など使うな」

言って、それを無造作にツキオミの手から放り捨てると、今度は鳩尾へと衝撃を放った

反射的に両手を交差させその衝撃を受け止める。だがその体勢のまま、ツキオミは一メートルほど地面を滑った

靴と床との摩擦で、焦げたような臭いが鼻を突く

受け止めたはずの両手が、ビリビリとしびれていた。装甲服の上から受けたにも関わらず、この威力

その瞬間、ツキオミは自らの思い上がりを悟った

明確な差がないなどと、とんでもない自惚れだった。目の前のこの男は、その気になれば自分など十秒も掛けずに始末出来る

「それほど驚くことはなかろう」

痺れた両腕の向こうから聞こえてくる声に、ツキオミは信じられない者を見るような目つきを向ける

「三ヶ月前、貴様らの会長もこれと同じ物を使ったそうではないか。それを我が持っていた、それだけだろう?」

「人間サイズの・・・・ディストーションフィールド発生装置」

その答えに満足したように、北辰は大きく頷くと、再び前進を始めた

余りのプレッシャーに、ツキオミは今度こそ後ずさりした

相変わらずの歪んだ笑みを浮かべたまま、北辰は持っている短刀を弄ぶように右手を振る

「まだ銃弾を弾く程度の出力が限界だが、これは中々に便利な代物だ。耐久性と持続性に難があるが、実用化まで後一歩といったところだ」

「・・・ふざけるな。それはネルガルの技術のはずだ。他の企業はおろか軍も、そんな物の実用化などまだ夢にも思っていないはずだ」

「侮ってもらっては困る」

ツキオミの言葉が、全く見当外れの三流推理だとでも言いたそうに、北辰は短刀を向けた

「元々貴様らより最初に相転移エンジンやボソンジャンプの技術に触れたのは我々木連の人間だ。それが幾ら優秀とはいえ、たかが地球の一企業が何十年ものアドバンテージを僅か数年で埋められると思うか?」

およそ四年前の戦争で、圧倒的少数のはずの木連があそこまで地球軍を押すことが出来たのは、当然ながら相転移エンジンやディストーションフィールドを備えた無人兵器のお陰だった

戦争が勃発した年から見れば、確かに木連も地球軍も古代火星人の技術に触れている年月はそれほど大差ない

だが、実際は違う。戦争を始めるまでの下準備、戦力の補強、地球の軍勢と対等に戦えるようになるまで、幾らそれらの技術を用いようとも、ゼロから積み重ねたとなれば、実に十何年、ひょっとしたら何十年もの月日が掛かる

だがそれは、同時にある一つの事実を示してもいた

「隠していた・・・・とでも言うのか。木星が、木連が、停戦したにも関わらず! 和平条約を結んだにも関わらず、自分達の技術を地球側に秘匿していたとでも言うのか!!」

和平を結ぶ上で、地球も木星連合ももっとも重視した公約がある。それは双方の持っている古代火星の技術を一切の包み隠しなく世間に公表すること

特に地球側にとってみれば、その条件は絶対だった。物資人材共に圧倒的に不足しているはずの木連がここまで自分達を苦しめた要因は一重にその相転移エンジンや無尽蔵とも思える数を展開する無人兵器であり、そしてボソンジャンプであったからだ

その技術の公開が認められなければ、和平などもっての他だった。和平を結べば、当然今度は物資も人材も向こうに流れる、もしそうなり、そしてそのときにまだ木連に地球側の知らない技術があれば、そのときこそ間違いなく地球は敗北する

木連側の技術公開とは、つまりそういう意味なのだ。彼らの持っている技術を地球側も得ることにより、両者の明確な戦力差はなくなる。そうなれば、どちらも簡単に戦争など起こせない

五分の力と力がぶつかり合えば、それは見るも無残な泥仕合になることなど明白だ。そんな選択など、例え政府が望んだとしても、民衆が許しはしない、そんな選択など誰も選びはしない

だからこその、和平条約の締結だったはずだ。撃てば撃たれる。歪んだ形ではあるが、それは確かに平和であることに間違いはないのだから

だが、実態は違った。木連は、地球に全ての技術を公開などしなかった

そしてもしそれが事実であったのなら、それは最悪の可能性へと至る、最短距離を示すことになる

和平条約を破られていたと知れば、地球側は今度こそ木連を信用などしなくなる。そうなれば、待っているのは戦争だ

それも、ただの戦争ではない。双方の内どちらかが存在する以上安心など出来ない。和平や休戦などもっての他の、相手の最後の一人まで徹底的に叩き潰す

殲滅戦争

「クサカベハルキはしたたかな男だ」

自身の思い至った考えに固まるツキオミを見ながら、北辰は愉快でたまらないとでも言いたそうに口元をゆがめた

「四年前の戦争も、前回の火星の後継者としての反乱も、全てはこのクーデターの為の布石だ。止めたければ止めるが良い、だがそのときにこそ木連の隠していた最悪の事実が発覚する。そうなれば今度こそ、互いを絶滅たらしめる究極の殺し合いが始まるのだ」

奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、ツキオミは怒りの形相で北辰を睨みつけた

「それが・・・・貴様の狙いか」

「左様。我にとってクサカベの目的も地球の連中の思惑も関係ない。確かにクサカベにしてみれば技術の秘匿など今回のクーデターを有利に運ぶための手段の一つに過ぎないのだろうがな」

言うと、北辰は右手に持っていた短刀を唐突に己の左腕に突き立てた

鋭く光った刃物が、左腕の血管を引き裂いて肉体へと侵入していく

その余りに常軌を逸した行動に、ツキオミが再び驚く

だがそんなことなどまるで無視し、北辰は楽しげに左腕に突き刺した短刀を引き抜く

血飛沫が上がる

ベットリと短刀にこびり付いた黒光りする血液を、舌で丁寧に舐め上げる

「くくく、興奮し過ぎてなあ、こうでもして気を逸らさねばこの滾りは収まらんのだ」

快楽に溺れたような恍惚とした表情を浮かべ、北辰は己の血飛沫に見惚れるように目を細めた

「クサカベも統合軍総司令も、連合宇宙軍総司令もそして連合政府の大統領も、皆驚くことになるであろうなあ。なにせ連中にとって我など使い捨ての道具以外の何者でもない消耗品のはずだ」

歓喜の興奮を抑えきれないのか、北辰はその余りに力の入りすぎているために震えている手で、傘から覗く己の顔を鷲掴みにした

「クーデターが成功しようと失敗しようとも、もはや我にとってはどうでも良い。成功すれば我が自らこの事実を明かす。主らに封じられたのならば、その事実は自ずと白日の元に晒されるだろう。どちらに転んでも、もはや人類に殺し合い以外の道などない」

爪を立て、自らの顔に突き立てた。ゾリゾリと自分の頬の肉を削ぎ、血に塗れながらも尚嬉しくて堪らないといった表情で笑う北辰の顔は、もはや狂人のそれ以外の何者でもなかった

この男は、狂っている

しかもその狂気は、自らの存在すら飲み込み、世界の全てを血と怨念で満たそうとすらしていた

ツキオミは、覚悟を決めた

この男を、殺す。こいつを生かしておくのは、危険過ぎる

自分達の作戦が成功すれば木星と地球との最終戦争への引き金になる危険があるとか、そんな話をしている場合ではない

この男の狂気は、存在させること自体危険なのだ。そこにあるだけで、この男のそれはありとあらゆるものを傷つけ、巻き込み、ズタボロにする

勝負にならないとか、勝てないとか、実力差とか、そんな生ぬるいことを言っている場合ではない。殺さなければいけない、この男は、確実に

まるでツキオミのその覚悟が終わるのを待っていたかのように、その瞬間、北辰とツキオミとの間の壁が爆発で吹き飛んだ

その衝撃に、足を踏ん張って耐える。おそらくロケット砲かなにかの流れ弾だろう

爆風で体が浮くのを懸命に抑える。廊下の壁に拳を突き立てて、なんとか堪えた

真っ赤な炎が、僅か二メートル程前方で燃え盛っている。もしこの爆発の元が少しでもずれていれば、自分は死んでいた

そしてその目の前の真っ赤なはずの炎の中に、不意に黒い影を見た

正体などわかりきっている。例のディストーションフィールド発生装置を持っている以上、この程度の火炎など物の数ではない

後ろに飛び、距離を取る

それとほとんど同時に、その炎の中から、薄い白色のベールを纏った北辰が歩み出てくる

道化のような芝居がかった仕草で両手を広げる

爆炎を背後に背負ったそのシルエットは、巨大で不気味で歪な、十字架のように見えた

「さあ始めよう。もはや貴様らに出来ることは踊ることだけだ。約束された終点へと全力で駆けるが良い。レールは我が敷いてやる。貴様らはなにも心配することなく、ただ馬車馬のように撒き散らした涎で地面を汚しながら狂ったように走れば良い」

影の中で、北辰の真紅の左目だけが、不気味に光を湛えている

「存分に楽しもうではないか。余興の始まりだ」

「・・・・行くぞ」

決意と共に、目の前のもはや狂ってしまった男を見る。人の道を踏み外してしまった男を見る

己の価値を見出すことが出来ず、それゆえに修羅へと身を落とした男。すでに戦うことでしか乾きを潤す手段を知らぬ、愚かで憐れで強大なはぐれ狂人

止める。この男は、ここで止める

無手のまま、構えを取る。木連式柔と評される、自分が唯一修めた武道の型を

そのツキオミの迎撃体勢を見て、北辰は心底楽しそうに目を歪めた

燃え盛る炎の中で、意地と狂気のぶつかり合いが始まった







「さて・・・・いよいよだな」

暗がりの中で、老人が呟く。それに目の前にあるウインドウに映る男が答える

男の格好は、この十九番目の会議室に現れるような、いつもの物と違った。首回りまであるゴツゴツとした黒い装甲服を着込み、額の上にはガスマスクのような重厚なゴーグルがある

『・・・良いのか? 予定決起時刻までしばらくあるが』

「だからこそだ。開戦の合図が総大将代理では締まらんだろう」

老人の言葉に、ウインドウの中の男が僅かに驚いたような表情を浮かべた

『意外だな。貴様がまさかクサカベ閣下を総大将に据えてくれるつもりだったとは』

「矢面に立つには、あの男は打ってつけの人材だ。ワシらはその背後から、安寧と進撃させてもらう」

その一言に、ほんの僅かだけ上がっていた老人の評価が、再び下降する

『ふん、自ら先陣も切れぬような腰抜けが』

「だがその腰抜けの力添えが無ければここまで来れなかったのも事実のはず。つべこべ言わずに行ったらどうかな?」

不快な表情を隠そうともせず、男は乱暴に吐き捨てた

『恩には報いる。例え貴様のような輩に受けた物でもな。クサカベ閣下は必ず救出する』

「カカ、救出、か。看守もなにもかもがすでにこちら側の人間なのにか?」

『・・・万が一という可能性もある。そのために私も行くのだ』

「総大将代理が総大将を迎えに行くか、よいのか? もしその万が一が置きそれを防げなかった場合は、火星の後継者は指導者無しの戦争を強いられるぞ」

その言葉に、男はウインドウの外を見、視線を気まずそうに逸らすと、ボソリと告げた

『そのときは、貴様の指示に従うようにと部下には伝えてある・・・・不本意だが、貴様の有能さは私も買っているつもりだ。貴様が言う通り、貴様らの協力が無ければ、ここまで円滑に事を運べなかったろうからな』

「円滑、ね。本当に円滑に進めたいのなら、根回しした選挙でお前さん辺りが大統領の座でも取れば早かったのではないのかな?」

『それではなにも変わらん。痛みを伴わぬ変革など、誰も実感など沸かぬし、意識のない変化などなんの役にも立たん』

老人は笑うと、座っている机の上を指先で軽く叩いた

「マコト、お前は木連の人間だよ。目的のために敢えて茨の道を進むか」

『茨であることは認める。だがこれがもっとも短い距離だ。このくらいの距離なら、走りきれる』

男は、確かめるように自らの右腕を見つめ、何度か開閉を繰り返した

『四ヶ月。私にとっては確かにそれだけの時間だが、クサカベ閣下にとってのこの作戦は、火星開戦以前から始まっていたのだ。我々のみならず、見たことも会ったこともなかったはずの地球の人間のことまで考え、今回の作戦を施行されたのだ』

開閉を繰り返していた手を力強く握る

『時空跳躍は危険なのだ。今のままの管理体制では、それは確実に人類全ての死を招く。その為に悩み、考え、そして決断されたその御考えを、我々はなんとしても実現してさしあげたい』

その言葉はウインドウの向こうにいる老人にではなく、むしろ自分自身を鼓舞するために言い放っているように聞こえた

そしてその視線を拳から老人へと移すと、男はなにを思ったのか

頭を下げた

「・・・なんのつもりだ?」

『先程の言葉の通りだ。私の部下には確かに未熟者も多い。だがその志だけは、立派な我々の仲間だ・・・・だからもし私やクサカベ閣下に万が一のことがあれば、彼らを頼む』

顔を上げる

『どうか、よき方向へと導いてやって欲しい。悔しいが、貴様にはそれほどの器があると思っている』

「・・・随分とナーバスだな。成功率など限りなく百に近いはずだが、そんなに不安か?」

『不安、などではない。これは万が一のために備える。当たり前の準備だ』

「その万が一のために、あれほど嫌っておったワシに頭を下げるか」

からかうようなその口調に、しかし男は答えなかった

ややあって、老人が再び口を開いた

「まあ、引き受けた。お前達の身になにかあったときは、ワシが引き受けよう。だから安心して、行ってくると良い」

『・・・感謝する』

「頭を下げるのは、戻って来てからにせい。お前も木連軍人の一人ならな」

その老人の言葉に、もう一度男は頭を下げる

そして、通信が切れた

ただ一つの光源を失った会議室の中は、全くの闇の中だ

その中で、老人は一人だけ机に両肘をつき、なにか考え込むようにどことも知れない暗闇の中に視線を向ける

「くく・・・・」

だが、不意に老人の口元が歪んだ

堪えるように、しかし本当はそんな気持ちなどこれっぽっちもないとでも言うように、老人の体が小刻みに震える

その震えは、浮かべている笑みのためか、それとも武者震いによるものか、それとも全く別のなにかによるものなのか、それはまだわからない

老人の笑みの訳を知る人間は、まだほんの一握りの人間しかいないのだから





一方のハーリー達は、ツキオミと別れた後、とにかく迷いなく階段を疾走していた

目的地は最下層。星野ルリが捉えられているはずのブロックだ

ハーリーの周りを固めるのは、ツキオミの部下である男五人

いずれの人間も物腰に隙がない。こうして階段を降りているハーリーに速度を合わせてくれているが、本当はもっと早く目的地へと辿り着けるはずだろう

「す・・・すみません、足、引っ張っちゃって」

走りながら、謝罪の言葉を述べる。相手はつい先程ツキオミと別れるときに自分を引っ張ってくれた男だ

年のころは二十代後半だろうが、その若々しさに溢れる顔立ちは、ちょっとムリをすればサブロウタと然程年齢差を感じさせない雰囲気を持っている

他の人間達に比べて明らかにその男は若かった。だからこそハーリーは、比較的年齢が近くもっとも話しかけやすかった彼に喋りかけたのかもしれない

「いえ、自分の任務はマキビさんの護衛でありますから。その様なお気遣いは全くの無用です」

返って来た返答は、自分の予想を遥かに超える程丁寧で穏やかな言葉だった

今まで周りの人間に敬語を使われた経験がないハーリーは戸惑ってしまった。こんな、明らかに自分よりも年上な男性にこんな馬鹿丁寧な言葉で話されるのは、どうにも落ち着かない

実に五つ目の階段を折り返し、六つ目の階段を駆け下りながら、ハーリーは口を開く

「け、敬語は結構です。あ、あんまり、そういう経験、ないもんで」

「いえ、その様な訳には参りません。マキビさんはこれからの作戦を担う大事なお方です。自分などより遥かに世界にとって大事なお方です」

その言葉に、苦笑いする以外ない。なんとも居心地の悪い感覚を感じながら、それでもハーリーの言葉に息一つ乱さずに返答を返してくるこの男は、只者ではないと改めて実感する

そしてそんな人間に敬語を使われるのは、やはり落ち着かない

「いや、でも、あの」

「何度言われても敬語はやめません。これは自分の意思です。マキビさんが御心を痛める必要などありません」

そこまで言われては、何も言い返せない。敬語で話されることには違和感があるが、しょうがないだろう。彼の言う通り、そうでないと話せないというのなら、まあ、そうしておこう

無理矢理納得したハーリーは、意識を自分の足元に持っていく

階段を一段飛ばしで跳ね降りながら、床に塗ってあるペンキの文字を見つける

8だ。ルリが居ると知らされている場所は確か地下十階。もう一分も掛からない

こんな全力疾走は初めてのため、息が苦しい。それに時折襲ってくる微妙な振動にも気を使ったせいで、随分と体力が減っている

だが、こんなところでへばる訳にはいかない。ルリを救出してからも、自分の遣るべきことはまだ山のようにあるのだから

地下十階に辿り着いた。疲れきった体を両膝に手を置いて休め、辺りを見回す

廊下の構造は、一階となんの違いもない。何メートルか置きに扉が設置されている、真っ直ぐで見通しの利く、静かな廊下だ

先程の男以外の四人が、固まって進撃する。前方が安全なことを確認すると、無言でこちらを手招きしてきた

「行きましょう」

疲れているハーリーを気遣ってか、力づけるような笑みを浮かべて、手を優しく引っ張ってくれた

その力に抗うことなく付いて行く。姿勢を低くしたまま数メートルを動き、辺りの様子を伺う

「・・・・妙ですね」

聞こえてきた小声にハーリーが顔を向ける。男は装着していたヘルメットについている通信機で、前を行っている四人の男と会話をしているようだ

「ええ、わかっています・・・・はい、自分の方は大丈夫です。後方からも反応ありません。はい・・・・」

「・・・どうかしたんですか?」

先程まで自分に向けていてくれたあの笑顔とは打って変わった緊迫した表情に、ハーリーが不安げに声を掛ける

その声に、しかし男はその表情のまま答えた

「どうも敵の様子が妙なんです。待ち伏せがない・・・・注意していてください。もしなにかあれば、一気に走りますよ」

自分達の目的など、敵は先刻承知のはずだ。ならば、ルリのいるだろう場所に続くこの見通しの良い廊下は、待ち伏せには正に最適の場所のはずである。にも関わらず、敵の気配がない

ひょっとしたら自分達の作戦が予想以上に上手く行っているのかもしれない。だが、当然罠の可能性も捨てきれない

この第三刑務所に最初の爆撃があってから、まだ八分前後。少なくとも十分には届かない

確かに敵にしてみれば自分達の襲撃など想定外だろうから、罠を張る時間もないはずではある

ハーリーはそう考え、それを目の前の男に言おうとして、やめた

そんなことは、おそらく彼らも承知の上だ。そしてその上で、もしかしたらを警戒して進んでいるのだ。彼らは自分などよりも遥かにこんな状況に慣れている、プロなのだから

だから自分に出来ることは、ただ邪魔にならないように後を付いて行く事だけだ。自分のやるべきことは、その先にある

無言のまま、六人はただ前を目指す

目的地は、もう見えていた。廊下の突き当たりに見える真っ白な扉。頑強過ぎるほどの作りを施されているそれの向こうにこそ、おそらくルリの拘束されている独房があるはずだ

地下であるだけあって、その扉までの距離は果てしなかった。結構な距離を進んでいる気がしたが、まだその扉まで目算でざっと二十メートル、ひょっとしたら三十メートルに届くかもしれない

逸る気持ちを懸命に抑え、時折背後を振り返りながら、男の背中に付いて行く

そしてそれは、唐突に起こった

「がっ!」

自分達より先を行っていた四人の男たちが、うめき声を上げながら次々と倒れた

全員、同じように頭から血を噴出している。間違いなく死んだ

「!」

その事実を認識すると、男は素早く身を屈め、踵を返し、ハーリーの手を取り駆け出した

咄嗟のことで反応出来ないハーリーは、ただ呆然と為すがままだ

「体を振って!」

先を行く男の声に、ようやく我に返る。男はそのまま立ち止まり、ハーリーの体を前方へと押し投げる

「行って!」

「あ、アナタは!?」

「私はここで敵を足止めします! 早く!!」

言うが早いか、男はそのまま背後を振り返ると、持っていたマシンガンをガムシャラに連射した。相手の姿は見えない、おそらくあの白い扉のどこからか、狙撃しているのだ

銃を撃ちながら懐から取り出した煙幕弾のピンを抜き、投げつける

巻き起こった白煙で扉が見えなくなることを確認すると、男はそのまま踵を返し、ハーリーの下へと駆けつけた

「なにをしているんです! 早く!」

「で、でも艦長は!」

「大丈夫です。まだ建て直しは十分にききます。とにかく一旦他の場所を制圧しているはずの味方と合流します。上にはツキオミさんもいるはずですから」

背後から迫る煙幕から逃げるように走る。突き当たりにある階段を目指して

だが、その望みも消えることになる

その階段から、突然何人もの装甲服を着込んだ黒い集団が現れた

それを見たハーリーが、目を見開く。見間違えるはずがない。こんな格好をしている連中など、少なくとも自分は他に知らない。それに見覚えがある

ハーリーと男の前に、その数実に十を下らないだろう人数の黒尽くめの連中が、銃を構えた

その光景に、ハーリーは思わず息を呑む

こうして近くで見れば、良く分かる。間違いなく、あの連中だ

あのとき佐世保ドッグを襲った、あの連中だ

無数の銃口を向けられ、ハーリーも男も、動けなかった










あとがき



以上。北辰、はっちゃけるの巻。をお送り致しました



こんにちは、白鴉です

弱くて頼りないけど、それ以外にたくさんのものを見つけられる人間と

誰より強いけど、それ以外なにも見つけられない人間

果たしてどっちが幸せなのでしょうかな。いや、知った風なこと言ったら絶対前者が幸せとか言ってしまいそうですが、強くてそこに幸せを見つけられるような人もいるかもしれないわけで

例えば北辰さんとか、この人は楽しそうだなあ

ちょっとというか、もう死ぬほど問題ありますが





それでは次回で