何層にも張り巡らされたディストーションフィールドが、ときおり目の前を飛ぶように過ぎ去っていくのを、アカツキ・ナガレは一枚一枚、心の中で数え上げていた。
 火星極冠に隠された遺跡と、それを守るフィールドは、人類が到達する遥かな以前からそこに存在していた。
 過去にはその存在をめぐって戦争が勃発したことすらある。この遺跡は、現在では人類共通の遺産として厳重に管理されていた。
 その共通遺産に直接手を触れることのできる人間はほとんどいない。その数少ない人間とは、いまだ解明しきれない異星の技術を研究することを許されたトップレベルの知性を有する学者、権力の頂点に立ち、共通遺産を管理するに足ると認められた為政者、そして、アカツキのように、世界の経済を動かすだけの資本を持つ、巨大企業の経営者だった。
 アカツキは火星に本拠を据える複合企業ネルガル重工の若き会長である。この遺跡に手を触れるに十分な地位を誇っていた。
「それで、いつごろから兆候が見え始めたんだい?」
 ディストーションフィールドの層を十二まで数えたところで、アカツキは同行していた学者に尋ねた。
 アカツキと学者のほかに、三人の同行者がいる。一人はアカツキの秘書を勤める麗人、エリナ・キンジョウ・ウォン。残りの二人は、一方が全身を黒尽くめのマントとバイザーで隠した男。もう一方はその男の影に隠れるようにして寄り添う、色素の薄い少女だった。
 学者はこの二人の名を知らない。アカツキに遺跡の異常を報告し、直接視察することが決まった今日になって、いきなりアカツキが同行させたのだ。
「それらしい変化は一月以上前から検知していました。しかし、はっきりとした変化として現れたのは二日前になります」
「どうせなら、もっと早く報告して欲しかったわね。職務怠慢だとは思わなかったの」
 エリナの声色はとてもきつい。
 たかが秘書とはいえ、その権力は並みの重役レベルを軽く凌駕する。アカツキ会長の懐刀としてネルガル内で知らぬ者はいない彼女だった。
「は、いえ……計器の誤差範囲の変化だったもので、報告の必要はないと判断しました」
「情けないわ。イネスが指揮を執っていればこんなミスはありえなかった」
「いない人間のことを言っても仕方がないさ。問題は“大途絶”がいつ始まるのか。それだけだ」
 黒づくめの男だった。アカツキがそれに相槌を打つ。
「まさか本当に始まるなんてねぇ。もちろんメッセージプレートの内容を疑っていたわけじゃないんだけどさ。本当にその時が来てみると、なんだかビックリだよ」
「翻訳が正しかったということね。あの言語は時制がとても複雑で、けっこう博打だったのよ。過去現在進行形だとか、未来過去完了形だとか、信じられる? 翻訳した専門家の話では、言語発祥の段階から、基本文法に含まれていただろうっていうんだから」
 エリナの手に、一枚の金属板が握られていた。
 黄金に近い光沢を放つ、薄いプレート。その表面には、びっしりと何かの文字のようなものが刻み込まれている。
 黒尽くめの男は温度を感じさせない声で言った。
「それが古代火星人だからな。そうでなけりゃ、あの遺跡を使いこなせない。時間と空間を感じる能力がオレたち地球人類とは桁違いなんだよ」
「古代火星人という呼び方はやめて欲しいわね。正しくは"訪問者"よ。地球連合の総会で正式にそう決定したんだから、それに従ってちょうだい」
「慣れちまったからな。古代火星人のほうがしっくりくる。エリナは好きに呼べばいいさ」
 エリナが少しだけ拗ねたような表情を作る。ごく身近な知り合いだけに見せる、彼女の少女の部分だった。
「そうするわよ。アキトくんこそ、お好きにどうぞ。ふん、だ」
「まあまあ、おふたりさん。ケンカなんてよそうよ。ほら、もうすぐ最下層だよ」
 アカツキが二人の間に割ってはいる。大企業の会長とは思えない腰の低さだった。
「……十九、二十、と。これが最後のフィールドだ。着くよ」
 アカツキの宣言を待たずに、エレベータが減速を開始した。体が重くなったような感覚。それはすぐに無くなり、大型貨物に対応した巨大な扉が、上に向かってゆっくりと開いていく。
 目の前に遺跡の最下層、「演算ユニットの間」が広がっていた。
 すり鉢状の野球場のような広間と、わずかな輝きを放つディストーションフィールドの天井。十年以上も昔にアカツキたちは一度だけこの場所を訪れたことがあった。
「変わってないね、ここも」
 一度は宇宙の彼方に飛ばされた「演算ユニット」も、いまでは回収されて元の位置に収められている。すり鉢の底で、その人間大の立方体は黄金の体表に幾何学模様の光の筋を走らせながら、彼らの来訪を待ち受けていた。
「で、異常ってのはなんだい」
 アカツキの問いに、学者は足を踏み出した。演算ユニットに向けて足早に近づいていく。
「定期的に、演算ユニットが異常稼動するのです。三日前まではそれが八時間に一回だったものが、今朝には四時間に一度にまで縮まりました。何かが始まっているのは間違いありません」
「異常稼動って?」
 エリナが問う。
「通常状態ですと、演算ユニットの稼働率は10のマイナス10乗にも達しません。それだけの負荷で、人類版図内すべてのボソンジャンプが処理されてきました。しかし、異常稼動中は、瞬間的に稼働率が100%近くにまで跳ね上がるのです。その時間はわずかですが、どれだけの質量をボソンジャンプさせようとも、こんな現象はいままで一度も観測されたことはありませんでした」
「つまり瞬間的に演算ユニットがフル稼働することがあって、その周期がだんだん短くなっていると?」
「そうです。いったい何をしているのかは、まったく不明ですが」
「このまま現象が進行するとして、どうなると予測されるの?」
「今から82時間後、地球標準時で三日後の午後2時前後に、演算ユニットは連続的なフル稼働状態に入ると予測されます。そうなった場合、我々人類は演算ユニットを使用することができなくなるでしょう。――つまりあらゆるボソンジャンプが不可能になります」
「“大途絶”の日、というわけか」
 黒づくめの男が、すべてを承知していたかのように呟いた。
「やっぱり、このメッセージプレートは本物だったのね」
 エリナは手にしていた金属板をアカツキに投げ寄こした。
「――それで。どうするつもりかしら、アカツキ会長。ついにこの日がやってきたわけだけれど、本当に計画通りに進めるつもりなの? その勇気があなたにある?」
「心外だね。ボクはいつだって本気さ」
 アカツキは、おどけた様子で肩をすくめながら、金属板を指の間でくるりと回転させてみせた。
「そのために地球を捨てて、ネルガルのすべてを火星に移したんだ。ネルガルは火星の王。火星に君臨し、火星を守って戦うのさ」
「そのための準備は、すべて整っている」
 黒づくめの男が言葉を継いだ。
「計画の発動は、大途絶の開始と同時だ。襲撃の目標は出産コロニーと、統合軍火星駐留艦隊の司令部。大途絶が完全に始まる前に、この二箇所だけは制圧しておく」
「やっかいなのは、出産コロニーね。何千人という女性と子供を人質に取られているようなものだもの。それにあそこにはカナタがいる。……気になる、アキトくん?」
「待て――!」
 いきなり黒づくめの男が、エリナの言葉を止めた。
「わかるか、ラピス」
 そして、自分の影に寄り添い、一言も口を開くことのなかった少女に問いかけた。
「……うん。アキトとのリンクが弱まってきてる。遺跡が力を貸してくれない」
「ああ……」
 アキトと呼ばれた黒づくめの男は、顔の半分を覆い隠していた漆黒のバイザーをはずした。その下から現れた黒の瞳は、どこにも焦点を結んでいない。明らかに視力に障害を持っているのだ。
「もうほとんど見えない。おまえのサポートが受けられないのは不安だな。すっかり忘れていたよ」
 ラピスが、ぎゅっとアキトの腕に抱きついた。それは、自分はここにいるという、意思表示なのだろう。
「始まるよ、アキト」
「ああ」
 次の瞬間、演算ユニットが膨大な光を発した。
 光を発しながら、その姿をじりじりと変化させていく。
 まるで眼に見えない子供が、粘土細工で遊んでいるかのようだった。立方体だった形が、ぐにゃりとねじれるように変化し、引き伸ばされていく。
 その形は何かに似ていた。
 花……だろうか。つぼみとなった演算ユニットは、ゆっくりと開花しようとしているようだった。
「これが異常稼動? ずいぶん派手だねぇ」
「ここまで変化したのは初めてです。これでは、まるで……まるで……」
「――まるで……生きているみたいだわ」
 エリナが言葉を発すると同時に、変形を続けていた演算ユニットがさらに強い光を発した。
 それが最後の力だったのかもしれない。
 演算ユニットは、驚愕する人々の目の前で、ビデオテープを逆戻しするように、元の形へと戻っていった。
 どれだけの時間が経過しただろうか。アカツキが溜息ともつかない言葉を吐き出した。
「……いやはや、驚いた。こりゃ、本物だ。計画は、予定通り実行するしかないな」
 ゆっくりと、自分に言い聞かせるように喋る。
「ちょうど三日後に、出産コロニー――アマテラスに、ヤボ用で招待されているんだ。ボクが直接乗り込むことにするよ」

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