ユーチャリスは翼だった。
 アキトとラピスを乗せ、どこまでも羽ばたく翼。
 そしてユーチャリスは牙だった。
 アキトの復讐心を糧にどこまでも深くえぐる牙。
 しかし、この新しいユーチャリスは違う。
 翼でも牙でもなく、それは腕だった。
 ラピスをつつみ、置き忘れてきてしまったふたりを抱きとめるための腕。
 アキトはその腕を一杯に伸ばし、飛んでいた。
「ラピス。セカンドフェーズシフトの起動シーケンスを実行してくれ」
「いいの? 爆発しちゃうかも」
「しないかもしれない。これは賭けだ。このユーチャリスが俺を認めてくれるかどうかのな。怖いか?」
「ううん。全然。アキトが一緒だから。シーケンス実行するよ」
 すでにユーチャリスは、通常の小型艦の限界を遥かに上回る速度で飛翔していた。
 しかし、まだ足りない。
 アキトの力となるには、まだ非力だった。
「出力上昇。臨海突破まであと5……2……臨海突破。全セーフティ解除。イグニションライン、オールクリア。――いくよ、アキト」
「ああ」
 ――俺に力を貸せ、ユーチャリス!
 アキトの想いに応えるように、相転移炉の奏でる詩声が高く、低く響き渡った。
「セカンドフェーズシフト、起動」
 すべての音が消えた。
 相転移炉の詩声も、自分の呼吸音も何もかも。
 すべての音が、何かに吸い込まれている――そう気づいた次の瞬間、音が逆流する。
 龍の雄叫びのような魂を打ち砕く轟音。それは相転移炉が謳う開放の喜悦の詩。
 その瞬間、ユーチャリスはアキトの腕となっていた。
「セカンドフェーズシフト、起動を確認!」
 凄まじい加速に、アキトとラピスはシートにめりこんでいた。
 慣性制御がほとんど役に立たっていない。それほどの加速をユーチャリスがしているのだ。
「この感覚……こいつは……」
 途切れ途切れに息を吐き出し、アキトはラピスを見た。
「大丈夫か、ラピス。我慢できるか」
「あ……う……苦、しい」
「すぐに慣性制御が追いつく。少しの我慢だ」
 その言葉通り、徐々にだが、ラピスを圧迫する力が緩んでいく。後頭部に向けて流れ落ちていた涙が、頬に落ち、最後に膝に落ちた
「く……はぁ。少し……潰れた……かも」
 なにが、とは訊かず、アキトは操舵に集中していた。
 速度が増せば増すほど、その操縦感覚はアキトの記憶を呼び起こす。その感覚はブラックサレナ――アキトが命を預けた、あの漆黒の機動兵器のものだった。
「とんでもない化け物を作ったな、イネスさん。――こいつは、俺のテリトリーだ!」
 アキトのIFSの紋様が強い光を放った。それに機敏に反応し、ユーチャリスが疾駆する。もうアキトは戦艦を操舵しているということを忘れていた。
 これは機動兵器なのだ。戦艦では、ない!
 統合軍艦隊との戦域まで、ほんの数秒だった。
 通常ではあり得ない速度。しかしユーチャリスはそれを難無くこなしてみせる。
「多いな」
 全天を覆い尽くすかのような戦艦の数に、アキトは吐息を洩らした。
「ラピス。旗艦を識別できるか」
「待って……。第一、第二、第四艦隊の旗艦をそれぞれマーク。情報転送したよ、アキト」
「よし。まずは挨拶といくか」
 慣性航行から、全エネルギーを傾注したグラビティブラストの一撃。それはユーチャリス本体よりも太い光条だった。圧倒的な破壊の奔流が、敵艦隊へと吸い込まれていく。
 艦隊にぽっかりと穴が開いていた。ユーチャリスはそこに向けて突進する。
 敵のグラビティブラストの一斉砲撃。
 追いつかない。敵戦術AIの未来予測を遥かに凌駕する加速で、ユーチャリスは虚空を切り裂いていた。
 艦隊の懐に飛び込んだところで、ぐいと艦首を曲げる。そのまま目指す第一艦隊旗艦へと正面から突っ込んだ。
 旗艦のディストーションフィールドをユーチャリスがじわじわと中和し侵食していく。
 同士討ちを恐れ、統合軍は攻撃の手を止めた。
 ついにディストーションフィールドを打ち破り、ユーチャリスは第一艦隊旗艦に取り付くことに成功した。
「ラピス。接触回線を開け」
「了解」
 ごつん、と艦と艦が接触する衝撃。ユーチャリスの船腹から伸びる蛇のようなアサルトプローブが、第一艦隊旗艦の外部ジャックへと伸びていく。
 プロテクトカバーを溶解させ、アサルトプローブが突き刺さった。
「侵入開始。敵AIの侵食率20%。回線オープン」
 メインスクリーンに旗艦のブリッジが映し出された。
 そこにあるどの顔も完全に混乱している。ハッキング攻撃を受けないための通信途絶なのだ。それなのにこのような直接的な手段でハッキングを受けるなど、前代未聞だった。
「第一艦隊提督、ミスマル中将はおられるか」
『……私がそうだ』
 スクリーンに動きがあった。威厳に溢れる壮年の男が前に進み出る。
 その男は、アキトの記憶とはわずかに異なって見えた。深い皺を刻み、頭髪に白いものさえ散らせている。
 老いたのだ――。アキトは小さな衝撃と共に、自分がどれだけの時間を失っていたのかを知った。
『何者だ。なにが目的でこんな大それた真似をしでかした』
「……ひとつだけ、言っておきたかった」
 ミスマル中将が不審に表情を曇らせる。何かを確認しようとするように、食い入るようにアキトを見ていた。
『まさか……』
「あなたの娘、ミスマル・ユリカを連れて行く。それを伝えたかった」
『まさか……まさか君は……!』
 追いすがるような声を断ち切り、通信を終了する。アキトは天を仰ぎ、シートの手すりを握りしめた。
 しかしそれもわずかな時間に過ぎない。
「……いくぞ、ラピス」
「うん」
 ユーチャリスはふわりと第一艦隊旗艦から離れ、一気に加速。雷光のような機動で戦域を離脱していく。
 安全を確認し、アキトはバイザーを取り外した。
「……もうほとんど視力が無くなった。久しぶりだよ、この感じ」
「平気?」
「ああ。昔に戻っただけだ。大途絶も本格的に始まったようだな」
 アキトの五感のほとんどは、火星の後継者に捕らわれの身となった時に失われている。いままで健常者に近い活動ができたのも、ラピスのサポートのおかげだった。
 遺跡のボソン通信を応用した神経リンクによって、視神経の調整を常時ラピスが行っていたのだ。
 しかし“大途絶”によって、それも失われようとしていた。
「ジャンプする」
 アキトのナビゲートで、ユーチャリスがボソンジャンプの体勢に入る。
 ユーチャリスの船体が、ジャンプフィールドの輝きに包み込まれた。しかし次の瞬間、光の粒子は粉々に弾け飛んでいた。
「……キャンセルされたよ、アキト」
 ラピスが冷静に状況を報告した。
「完全に大途絶が始まってる。もう誰もボソンジャンプできない」
「……そうか、それでいい。もう俺たちがここに留まって時間を稼ぐ理由もなくなったわけだな。これで安心して行ける」
「どこに行くの」
 アキトは振り返らず、静かな声で言った。
「月へ――」
 
 
 
 
 月面ファーサイド・セレーネベース。
 そこは月殖民の黎明期に建造された、外宇宙への掛け橋だった。
 月より外の世界へと飛び立つための橋頭堡として建造された地下施設は、現在に至るまで増築を繰り返し、地球統合軍の月面基地のひとつとして運用されている。
 ホシノ・ルリは、そこで五年の日々を過ごしてきた。
 火星の後継者の乱で発揮した高い能力が、彼女自身を縛りつける鎖となったのだ。
 独りであれば、孤独に耐え切れなかっただろう。しかし彼女は独りではなかった。
「ユリカさん、痛くないですか?」
「ん。平気。痛くないよ」
 ルリは、ユリカの黒髪を三つ編みにまとめていた。
 腰より遥かに下まで伸びた髪は、ほとんど手入れをされないままでありながら、美しく艶を保っている。この髪が色あせないうちはまだ希望はある――ユリカのがらんどうの笑みに心の痛みを覚えながら、ルリはそう信じようとしていた。
 すべての始まりは火星産児育成法だった。
 A級ジャンパー管理法とでも言うべき法律は、ユリカからすべての自由を奪い去り、この薄暗い地下施設に、彼女の人生を閉じ込めた。
 そして最も悲運なことは、彼女が子供を身ごもっていたということだった。
 遺跡との融合により生体時間を止められていたため、胎児は細胞分裂を開始した段階であったが、執拗な検査の結果、それは判明してしまった。
 ただちに必要な処置が取られた。
 堕胎である。
 火星産児育成法の元、A級ジャンパーとして生まれてくるであろうその子供は、人間とは認められなかったのだ。
 ユリカに微妙な変化の兆候が現れたのはそれからだった。
 その変化は、おそらくルリにしか見抜けなかったに違いない。
 いつも通りの太陽のような笑みの裏で、なにかが確実に崩れ落ちていた。
 それは月日を追うほどに深く大きくなり、いまではユリカの内側はカラッポだった。
 ルリが身の回りの世話をしなければ、おそらくユリカは、自分からはなにもしようとはしないだろう。笑顔を顔に張り付かせた、ただの人形。それが今のユリカだった。
「髪を結い終えたら、昨日の続きをしましょう。たしかわたしの10勝2敗、勝ち越しでしたよね」
「もう、ルリちゃん強いんだもん。チェスはやだ。別のにしよう」
 膨れたような顔で言うユリカ。
 しかし戦術の天才であるユリカが、同じ起源をもつチェスに弱いはずがない。現実に、ナデシコ時代のユリカは、ほとんど負け無しの状態だったのだ。
 いつからこうなってしまったのか、ユリカはその輝くようだった知性も衰えさせている。思考を停止している――そんな状態なのだろうとルリは思う。
 だが、そのルリにしても、時間の感覚が自分から徐々に失われているのを自覚していた。ふいの時に、とっさに日付が思い出せない。こんな精神状態を突き詰めると、おそらくいまのユリカのようになるのだろう。
「……わかりました。なら、なにがしたいですか」
「うーん。べつになにも。ぼおーっとしてたいかも」
 また笑う。
 それがルリの心を痛くさせるとも知らずに。
「少し泳ぎましょうか。運動不足だと、太っちゃいますからね。ユリカさん、最近この辺が危ないんじゃありませんか?」
 脇腹をつまむと、珍しくユリカが不平の声を洩らした。人間らしい反応。ルリは、静かに安堵の息を吐く。
「太ってなんかないもん。ルリちゃんみたいに細くないけど、これでも平均値のずっと下なんだから。いいよ、見せてあげる。プール行こう」
 ユリカが自分から行動するのは、数週間ぶりだろうか。
 まだ平気だ――ルリは部屋から出て行こうとするユリカの背を追い、そう思っていた。
 地下を掘りぬいた、天井の低い通路を歩くふたりは、エレベータを目指す。
 地下18階の大ホールに屋内プールがある。数少ない、立ち入りを許された場所。ふたりはそこに向かっていた。
 通路の向こうにエレベータの扉が見え始めたとき、突然警報が鳴り響いた。
 訓練以外で初めて耳にする音だった。続いて非常ランプが灯り、これが訓練でないと警告する。
「なんでしょう。いったい」
 慌ててユリカの手を取り、身を寄せ合う。
 そのふたりを、激しい振動が襲った。
「うきゃっ!」
 ユリカが悲鳴をあげる。これは誤報ではない、本当の緊急事態だと悟ると、ルリはユリカの手を引いた。
「ここは地表が近いから危険です。地下に避難しましょう!」
「う、うん」
 エレベータは停止する危険がある。辛いが階段を使うのが正解だろう。訓練を思い出しながらルリはユリカの手を引いて走った。
 いくつ目かの通路を横切った時、突然ユリカが立ち止まった。
「ユリカさん!」
 ユリカは通路の岐路に立ち、右方向の何かを見つめている。
「ユリカさん、どうしたんですか。急がないと――」
 角を覗き込み、ユリカがなにを見ているのか確認する。
 なにもない。ただ白い通路が、まっすぐに伸びているだけ。
「そっちじゃありません。急ぎましょう」
「女の子……」
「え?」
 ポツリと洩らしたユリカの言葉は、現状にあまりにそぐわなかった。
「女の子が立ってたの。ルリちゃんみたいに髪を二箇所で結わえてるんだけど、あまり長くないからツノみたいになってた。黒髪の小さな女の子」
 いるはずがない。この施設はほぼ隔離された場所だ。いるのは訓練を受けた軍人と自分たちだけ。小さな子供は一人だっていない。
「カナタが生きてたら、ちょうどあれくらいなのかな。かわいい娘だったよ。でも、なんでこんな場所にいたんだろう。迷い込んじゃったのかな」
 ルリの背に冷たいものが走っていた。ユリカの言動は常軌を逸している。
 カナタとは、殺されたユリカの子供の名だった。子供ができたら男の子でも女の子でも“彼方”と名づけよう――そうアキトと約束していたことを、ルリは知っていた。
「ユリカさん! しっかりしてください。そんな子はいないんです。だってこの通路にはどこにも隠れる場所なんかないじゃありませんか! ユリカさん!」
「だって、いたんだよ。おかしいな、どこいっちゃったんだろう。お話ししたかったなぁ」
 もう限界だ。そう判断したルリは無理やりにユリカをその場から離そうとした。
 しかしユリカはそれを頑なに拒んだ。じっ、と何もない通路を見つめる。
「もう少しだけ待って、ルリちゃん。あの娘がそう言ってた気がするの。だから少しだけ――」
 言い終わるより早く、天井が落ちた。
 轟音と土煙が通路を満たし、何も見えなくなる。聞こえるのは落雷のような爆音と、自分の叫びだけだった。
「ユリカさん! ユリカさん!」
 必死で伸ばした手が、何かに触れる。それはふっと近寄ってくると、ルリを抱き寄せた。
「大丈夫だよ、ルリちゃん。大丈夫だから」
 ユリカの声だった。何かに満たされたような声。
「ユリカ……さん?」
 土煙が晴れていった。
 視界が回復していく。そして、そのベールの向こうに、ルリは機動兵器を見ていた。
 ピンクのエステバリス。ルリが驚きに声を失ううちに、そのアサルトピットが開放され、パイロットが姿をあらわした。
「――来い!」
 ただ一声だった。
 その言葉だけで、ルリは体を震わし、涙を溢していた。
 黒いスーツに身をつつんだ男の言葉は、ルリの止まっていた時間をもう一度動かしたのだった。

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