たくさんのアイ




 蜜柑を食べると涙が出る。

 恥ずかしい話だね。

 この妙な癖にはじめて気が付いたのはいつだったろう。

 それは母親だと信じていた人に言われたひとことがきっかけだったはず。

『すっぱかった?』

 なんのことだか、すぐにはわからなかった。

 コタツを囲んでの、家族との団欒のひと時。

 蜜柑をパクついていた私は、我知らず涙を流していたらしい。

 驚いた。

 なぜ自分が泣いているのかさっぱりわからないのだから、驚くなというほうが無理。

 悲しいわけじゃない。

 懐かしい何かに、胸を締め付けられる感じ。

 なんだろうな。

 手が届きそうなのに、どうしても届かなくて、たまらなく、とっても、もどかしい――

 それ以来、人前では蜜柑を口にすることのできない身体になってしまった。

 それどころか、蜜柑を見ただけで、涙腺がぐっと緩むほど。

 この私がよ?

 こんなことを他人に知られたら、恥ずかしくてもう外を歩けないじゃない。

 でも蜜柑は大好物だった。

 部屋に隠れ、鍵をかけ、カーテンを引き、泣きながら蜜柑をパクつく。

 私の隠れた楽しみだったりするわけだ。

 鉄の女とまで呼ばれた私ともあろうものが、泣きながら蜜柑を食す。

 ――倒錯しているさ。

 そんなことはとっくに承知。

 でもね――なんだか、心が休まるんだな。

 その理由も、今では思い出していた。

 だから、もう一度あの時の蜜柑の味を確かめることができることも知っている。

 はやる心を無理に押さえつけ、私は駆けるように階段を降りていく。









 ああ。

 この場所を私は知っている。

 心の奥で、パズルのピースがパチリと音を立ててはまった。

 火星の極冠に隠されていた古代遺跡の最下層。

 ここはボソンジャンプの中心地。

 時間と空間を貫く一枚の歯車が、ぎりぎりと軋みながら回りつづけている。

 それが演算ユニット。

 私の目の前で光り輝いている立方体の物体が、そう。

 こんなもののために、いま地表ではナデシコと木連艦隊が死闘を繰り広げている。

 私の運命も、こいつに捻じ曲げられたようなものだ。

 憎い?

 どうかな。

 ユートピアコロニーから過去の火星に飛ばされなかったら、どんな私になっていたんだろう。

 それを知ることができたなら、もしかしたら憎んだかもしれない。

 つい最近まで、私の心には、たくさんの欠落があった。

 五歳より前の記憶がなかったからだ。

 ネルガルのスタッフだった母親も父親も、本当の両親じゃなかった。

 でも不満はなかったな。

 私は二人にとって恥ずかしくない子供であろうとして努力を積み重ねてきた。

 少しがんばりすぎた気もする。

 気が付くと、両親と同じネルガルで、新造戦艦の主任設計者になっていた。

 ナデシコの基本設計を終えた直後、火星は木星蜥蜴の攻撃を受けた。

 二人は、そのときに死んだ。

 たぶん――本当の母親も、そのときにユートピアコロニーの地下で死んだんだろう。

 もっと早く記憶を取り戻していれば、本当の母親に会えたんだろうか?

 会いにいったんだろうか?

 イネスとしてではなく、アイとして?

 イネス・フレサンジュとしての私が、それは馬鹿げていると言う。

 ほとんど年齢の変わらない女が、いきなり「あなたの娘です」とあらわれるわけだ。

 信じてもらえるはずがない。

 しかし、私の中に蘇りつつあるアイとしての部分が、もう一度だけ「おかあさん」を感じたかったと駄々をこねる。

 困った子供。

 記憶のピースがひとつずつ私の中に収まり、アイが出来上がっていく。

 イネス・フレサンジュとアイが、いま私の中に拮抗しながら存在していた。

 少しずつアイの記憶が蘇り、その存在が大きくなっていく。

 すべてのパズルのピースがあるべき場所に収まったとき、私はイネスのままでいられるのだろうか。

 答えはもうすぐわかる。









 演算ユニットが活性化した。

 壁面を走る輝きが、すり鉢状のドームを柔らかく照らし出す。

 光は渦を描き、演算ユニットへ集中している。

 どこかで、大規模なボソンジャンプが行われているのだろう。

 どこか?

 場所なんて決まっている。

 私はコミュニケを起動させた。

 やっぱりだ。

 ナデシコ、カキツバタと木連艦隊との戦いは激化し、木連はチューリップを火星極冠に降下させたのだ。

 大規模な木連兵力がチューリップを通してボソンジャンプで投入されようとしていた。

 そして遺跡の内部に飛び込んでくる二機のエステバリスがいる。

 アキトくんとアカツキくん。

 言い争いながら戦っている声が、コミュニケを通して聞こえてくる。

 ふふ。

 思わず笑みがこぼれる。

 なんだか子供のケンカみたい。

 しようがないわね、この子たちは。

 エステ・ライダーとしても舌戦でも、アカツキくんのほうが一枚上手のようだ。

 アキトくんの背後を取ったアカツキくんが、ランサーでアキト機のフィールドを中和しようとしていた。

 彼にはここまで来て欲しい。

 “私”に会ってもらいたいと思うから。

「アキトくん、想像しなさい。ジャンプのイメージを」

 私からの通信にアキトくんは一瞬だけ驚いて、次の瞬間に跳んだ。

『CCが無いのに、ボソンジャンプした!?』

 ナデシコのクルーが驚愕している。

 そんなに驚くことじゃないのに。

 私は説明してあげた。

 ボソンジャンプというのは、空間移動ではない、時間移動なのだということを。

 いったん過去の遺跡に跳び、そこから未来に送り返すことで、空間移動のタイムロスを相殺しているのだということを。

 だから遺跡にジャンプフィールドが常時張られているのは当然じゃないの。

 過去の遺跡から未来へと跳躍しなければならないのだから。

 説明を終えたとき、演算ユニットが激しく鳴動した。

 これまでとは明らかに異なる反応。

 なにかが来る。

 私の直感がそう告げていた。

 ついにこの時が来たのだ。

「アキトくん」

 私は彼に呼びかけた。

 彼にここにいて欲しい。

 アイである私が、「おにいちゃん」を求めていたから。

「いらっしゃい。お出迎えをしないと」

 演算ユニットのすぐ脇に、ボソンアウトの輝きが走った。

 光の粒子は渦を巻きながら徐々に広がっていき、ついにはちりぢりに消えていった。

 そしてその後に残されていたのは、一人の少女。

 胸の前に、大切な宝物のように黄色い蜜柑を抱いていた。

 芳醇な香りが私を包み込む。

 それがパズルのピースの大事な部分を埋めていく。

「ユートピアコロニー、レインボー小学校1年5組 12番」

 パチリ、と音を立てて、記憶のピースが埋まっていく。

「好きな人――お母さん」パチリ。

「好きな食べ物――スパゲティ」パチリ。

「好きなお話――シンデレラ」パチリ。

 次々に記憶が蘇り、私の中のアイが完成していく。

 少女は大粒の涙をこぼしながら怯えていた。

「いいのよ泣かなくて」

 そう、怖がらなくてもいいの。

「――おかえり」

 私の中の、アイ。









 段差に並んで腰をおろし、私たちはアキトくんの到着を待った。

 少女が誇らしげに蜜柑を私に見せて言う。

「あのね。あのね。これ、おにいちゃんからもらったんだよ。あたし、こんな大きな蜜柑はじめて。いい匂い」

 火星の痩せた土では、こんな見事な蜜柑はめったに取れることは無い。

 アキトくんは、私たちに一番いい蜜柑をくれたのね。

 彼から蜜柑をもらったとき、どんなにうれしかったかを思い出した。

 またひとつ、パズルのピースがパチリと音を立ててはまる。

「お兄ちゃんはもうすぐここに来るからね。もう一度御礼を言おうね」

 うん、と少女は嬉しそうにうなずいた。

「おばちゃん、一緒に食べよう。あたし、皮を綺麗にむけるんだ。おかあさんがね、上手いねって誉めてくれるんだよ」

 ああ――そうだった。

 次々に記憶が蘇る。

 だから、私は蜜柑が大好きだったんだ。

 お母さんが誉めてくれるから。

 それが嬉しくて、誇らしくて。

 少女はうんうんとうなりながら、ゆっくりと丁寧に皮をむき始めた。

 親指を蜜柑のへたの部分に差し込んで、力を入れる。

 へたの側からむいたほうが、すじが一緒に取れて綺麗にむけるから。

 私もそうやって蜜柑の皮をむいていた。

 アイの記憶を失っていても、そんな部分で自然と同じ行動をとっていたのだ。

 たまらない愛おしさが、私の胸に湧き上がっていた。

 目の前にいるアイという少女と、自分の中に蘇ろうとしているアイという記憶を、一緒に抱きしめたかった。

 そんな衝動をどうにか堪えていると、少女は皮をむき終わりオレンジ色の実だけになった蜜柑を二つに割った。

「はい。おばちゃん」

 差し出された半分の蜜柑を受け取り、その重みを感じる。

「……上手に……むけたね」

 声が震えてしまう。

 少女は満面の笑みを見せると、蜜柑の実をひとつ口に放り込んだ。

 そして身震いしながら、楽しそうに悲鳴をあげた。

「すっぱぁ〜い!」

 まだ若い実だったのだろう。

 私もひとつ口にしたが、たしかにすっぱい。

 熟れきっておらず糖度が足りないのだ。

 しかし、これまで食べたどんな蜜柑よりも、恐ろしいぐらいに鮮烈な味だった。

「……すっぱかったの?」

 少女が心配そうな声色で、そう私に問い掛けた。

 私が泣いていたからだろう。

 とめどなく涙があふれてくる。

「……そうね。ちょっと――すっぱいね」

 でもこの味は――

 もう二度と忘れない。









「おばちゃん、おかあさんとおんなじ匂いがする」

 蜜柑を食べ終え、することの無くなった少女は、私の身体に頭をすり寄せながらそんなことを言った。

 私の中のアイが驚いている。

 おかあさん?

「おばちゃん、おかあさんみたい」

 少女の小さな体が、たしかな重みとぬくもりを私に与えてくれる。

 私の中のアイが、母親を求めていた。

 でもどうしようもない。

 こんなに近くに母親と同じぬくもりがあると知ったのに、それを感じるすべがない。

 私の中のアイが、手の届かない寂しさに身悶えしていた。

 私も寂しいんだろうか?

 気が付くと、私は少女を抱擁していた。

 少女から感じる懐かしい匂いが私を満たす。

 ふしぎと心が穏やかになっていく。

 私の中のアイも、私と一緒に少女を抱きしめた。

 そうすることで、母親への思いが癒されていくのがわかる。

 もうどこにもいない母親が、確かに感じられる。

 またひとつ、パズルのピースが私の中に収まるのを感じた。

 パチリ。

 もうすこし――もうすこしで私の中のアイが完成する。

 アイが完成したとき、イネスはどうなるのか。

 でももう怖くはなかった。

 そのとき私の腕の間から、光があふれ出た。

 少女の体から、ボソンジャンプの輝きが発せられている。

 ナノパターンが輝きを増し、幻想のように瞬いた。

 少女が――アイが、また跳ぼうとしていた。

 次に現れるのは、二十年も過去の火星の砂漠だ。

 そのショックで、アイは記憶を失ってしまうだろう。

 母親のぬくもりも、ここで一緒に食べた蜜柑のことも――おにいちゃんのこともすべて。

「こわい、こわいよ、おばちゃん」

 そう、怖かった。

 なにもわからずに投げ出された火星の砂漠は、とっても広くて、なにもなくて、ただただ恐怖だけが満ちていて。

 何日も何日も、水の一滴も口にできないまま、あてども無く彷徨って。

 夜になると赤いぼんやりとした二つの月が、私が力尽きるのを待っているみたいにじっと見つめていて。

 泣いても泣いても、誰も返事をしてくれなくて。

 そのうちに――

 なにもわからなくなった。

 これから、この娘がそんな思いをしなければならないのだ。

 こんなに小さい子供が、正気を失うほどの体験をするのだ。

 その前に、この娘の小さな願いだけでもかなえてあげたかった。

「アキトくん、急いで!」

 しかし、歴史は無情に定められた道筋をたどっていく。

 アイの体を包み込むボソンジャンプの輝きは力強さを増し、今すぐにでも少女を時間の彼方に跳ばそうとしていた。

「やだよ、おばちゃん! あたしまだ、おにいちゃんにあってないよ。まだぁ……」

 私はアイの手を取り、せめて自分の中にあるアキトくんの記憶だけでも渡そうとしていた。

「逢えるわ。いまは逢えなくても絶対に逢える」

 たとえ記憶を失ってしまっても、絶対にこのことだけは忘れないで欲しい。

「だから忘れないで。あの人の顔、あの人の声。たとえどんなことがあっても忘れないで――忘れないでね」

 忘れないで。

 忘れないで――

 アイは涙にぬれた目に微笑を浮かべると、次の瞬間に消えた。

 私の手の中に確かに存在していたアイのぬくもりも、アイが存在していた空間になだれ込む風に吹き散らされ消えていく。

 私は最後のぬくもりを手の中に閉じ込め、胸に抱いた。

 忘れないでね、アイ。

「アイちゃん!」

 天井に張られていたディストーション・フィールドを突き破り、二機のエステバリスがドームに飛び込んできた。

 私はゆっくりと立ち上がり、あの人を迎える。

 忘れないでね、アイ。

 忘れなければ、もう一度あの人に逢える。

 逢えるんだから。

「イネスさん、アイちゃんは!?」

 アサルトピットからアキトくんが叫んだ。

 一年以上、同じ戦艦の中で過ごしてきたというのに、なんでこんなに懐かしいと思えるんだろう。

 私の中で泣いていたアイが、その顔をあげて、あの人を見た。

「……タッチの差。だから急いでって言ったのに」

 アキトくんがアサルトピットから飛び降りてこちらに走って来る。



 私の中のイネスがそれを見ている。

 さまざまな感情に揺れ動く少年。

 知り合ってから一年の間、いろいろな事件に巻き込まれ、つまずき溺れそうになりながらも、必死に前に進んできた少年の顔。

 少し大人っぽくなったね、アキトくん。



 私の中のアイがそれを見ている。

 ユートピアコロニーの地下シェルターで蜜柑をくれたおにいちゃん。

 笑っている顔が本当に優しそうだったんだもん。

 だからデートしようって約束したよね。

 覚えていてくれるかなぁ、おにいちゃん。



 二つの私が、最後の記憶のピースを得て混ざり合っていく。

 イネスとアイ。

 なんの抵抗も無く、その二つは一つに融合しようとしていた。

 記憶の中に封じられていた、たくさんのアイがあふれ出てくる。

 なにかが足りないと感じていた私を、たくさんのアイが満たしていく。

 そしてたくさんのアイが、言葉という形をとって、外に飛び出していった。





























「――――ようやく逢えたね、おにいちゃん――――」







































あとがき


四ヶ月ぶりに書いてみました。
TV版最終話前後のイネスさんビューです。
……電波?(笑
リハビリのつもりで一気書きしたので、かなり電波ですねぇ。
まあいいや。

セリフも展開も完全にTV版最終話と同じにしたかったんですが、無理でした。
説明台詞多いよ、イネスさん。

ではでは。

 

 

管理人の感想

ぼろぼろさんからの投稿です。

いやー、いいお話ですね。

相変わらず見事な話を書かれますね、ぼろぼろさんは。

イネスさんのアイちゃん(自分)に対する心境の複雑さが、よく書けていたと思います。

アイちゃんの”おばちゃん”発言には苦笑しちゃいましたけど(笑)