轟音が響き渡る。
 鉄骨とトタン張りで組み上げられた殺風景な空間。
 どこかの倒産した企業が破棄したと思われる、崩れかけの倉庫。
 屋根は八割方落ち、差し込むきつい陽光の下を、舞い上がった塵芥がじわりと進んでいく。
 そこに二つの影があった。
 ひとつは黒。
 テンカワ・アキトと呼ばれたことのある、人間。
 もうひとつは無色。
 ラピス・ラズリという名によって、かろうじて存在が認められるだけの、影。
 二人は寄り添うようにして立っていた。
 アキトは右の手に大口径のハンドガンを握り。
 ラピスはアキトの黒いマントの裾を握り。
 ただ前方の一点を凝視している。
 もう一度轟音。
 アキトの手から放たれた銃弾は、倉庫の壁際に置かれた空き缶のすぐ脇に着弾し、あらたな塵芥を巻き上げた。
「……右上、コンマ2度修正」
 ラピスの平坦な声に従って、アキトの右腕がわずかに動く。
 もう一度轟音。
 空き缶が一点に向かってひしゃげ、次の瞬間に弾けて粉砕した。
「当たった。もう大丈夫」
 それは調整だった。
 アキトの。
 人としてはおよそ必要のない作業をアキトは必要としていた。
 火星の後継者の手によって奪われた五感のサポート。
 ラピス・ラズリという少女が、いまやアキトの眼であり耳であり、手でもある。
 遺跡を通じた超常的なつながりがその奇跡を可能とし、同時に"調整”という人間性を否定した作業を強いるのである。
 ハヤトセ・コロニーに潜み、そのハヤトセは北辰の狂気に抱き込まれ消え去った。追いすがる北辰との連戦にアキトの戦闘能力は確実に疲弊し、こんな誤魔化しのような調整作業でどうにか能力を維持しているのが現状であった。
「食事だ」
 そう言ってアキトが手渡したのは、チューブ式のMREレーションだった。味も素っ気も無い、ただの栄養補給。味覚を失ったアキトにとっては食事とはまさに栄養補給であったが、ラピスにとってもそうなのだろうか。少女はなんの不満も示さずに、ただもくもくとチューブを口にくわえている。
「不味いだろう?」
 わずかな罪の意識がアキトにその言葉を口にさせる。
 美味いはずがない。孤立した兵士がただ命をつなぐためだけに用意された、最低限の戦闘糧食なのだから。
 しかしラピスは首を横に振る。
「美味しい」
 たまらない罪悪感が、アキトの胸を締め上げていた。






『Martian Successor −火星の後継者−』
第二話






 暴力的だった。
 加速減速、ピッチ、ロール、ヨー。
 ありとあらゆる機動が、すべてパイロットをひねりつぶそうとして跳ね返ってくる。
 信じられない性能を持った機体だった。
 レーダーレンジに次々と新しい敵影が飛び込んでくる。
 十……二十……。
 すでに数え切れないほどの、そのすべてがリョーコを追跡するために投入された、演習用のダミー機であった。
 リョーコには反撃が許されていない。ただ逃げ切ること。
 それが演習目的なのだ。
「アキトの……やろう……」
 ぎちぎちと締め付けてくる対Gスーツが、かろうじて意識を現実に結びつけている。
「こんな……とんでもねえ機体…………この……!」
 そして叫ぶ。
 叫び、その黒い機体をフルバーニアで疾走させた。
「――くそったれがぁっ!」

    ◇

 わずか一時間前だ。
 そのとき、リョーコはアカツキ・ナガレの横面に、思い切り拳を叩き込んでいた。
「やっぱり、てめえらか! てめえらがアキトの奴に手を貸してやがったんだな!」
「そうよ。それが悪い?」
 轟然と言い放ったのはエリナ・キンジョウ・ウォン。どこかで――何かを諦めてきたような、そんな表情だった。
「でも、それを望んだのはアキト君だもの。それが悪いとでも言うの」
 そこはネルガルの月面ドッグだった。
 しかし、そんな施設がその場所に建造されているという事実は、ネルガルの上層部でも一握りの人間にしか知らされていない。そこには試験的に建造されている、いくつもの戦艦や機動兵器が眠っていた。
 そしてリョーコの眼に、ある試験艦と試験機が飛び込んできたのだ。
 淡い乳白色の流線型の戦艦。そして、通常の機動兵器より一回り巨大な漆黒の機体。
 それはユーチャリスとブラックサレナだった。
 忘れるはずがない。ターミナルコロニー・アマテラスで遭遇したそれらを。それらをテンカワ・アキトが操っていたのだから。
「悪いかだと!? ああ、言ってやらあ! とんでもねえ極悪人だ、てめえらは! またアキトを利用しやがった――利用して都合が悪くなったからって、あっさり切り捨てやがったな! ふざけんじゃねえ!」
「利用じゃない、協力だよ」
 頬を押さえながら、アカツキがどうにか立ち上がってくる。
「テンカワ君は復讐の手段を手にし、ボクたちは試験機の実動データを手にする。ギブアンドテイクとしては上々の仲だったさ」
「詭弁だぜ、そりゃあ。だったらなぜアキトを切り捨てた。やっとわかったぜ。こんな時期に都合よくテストパイロットの座が空いてるなんて、そんなことあるわけなかったんだ」
 ぐいとアカツキの襟首をつかみ、引き寄せた。
「……アキトだったんだろう? 本当のテストパイロットはあいつだったんだ。危なくなって切り捨てちまったから、代わりのパイロットが必要になった。だからオレに声をかけたんだな。そうなんだろうが!」
「……違う」
 危うく聞き逃してしまいそうな、わずかな声だった。
「切り捨てるなんて、そんなことしない……わたしがそんなこと……」
 それはエリナだった。
「わたしが絶対にそんなことさせない! でもいなくなっちゃったのよ! 止めたのに……何度も止めたのにいなくなっちゃったのよ、しかたないじゃない! どうすればよかったっていうの、教えなさいよ!」
 冷徹とすら感じていたエリナの双眸が、いまは激しい感情に揺れていた。
「あなたを呼んだのはね、わたしよ! 連れ戻して欲しかったから――アキト君を連れ戻して欲しかったから、あなたを呼んだのよ! これは命令よ! わたしを手伝いなさい、スバル・リョーコ!」
 一瞬、リョーコは言葉を失っていた。
「……命令? お願い、の間違いじゃねぇのか?」
 すべてを見透かした眼差しでエリナを見つめる。
 エリナは居心地悪げに視線を逸らした。
「その……お願い……でもいいかもね……」
「……ったく!」
 呆れたように言う。
「どいつもこいつも、揃いも揃ってアキト一人連れ戻せねえのかよ。地球でユリカに頼まれたと思ったら、月ではウォン女史かい。オレは便利屋かっての!」
「ユリカさんも……?」
「ああ、頼まれたさ。自分は身動きできないから、代わりにお願いってな」
 複雑そうなエリナの表情を見て、リョーコは降参した。
「わぁったよ! 乗ってやる! アキトの奴を捕まえられるだけの機体はあるんだろうな!?」

    ◇

 そしてリョーコの前に現れたのが、この機体だった。
 ブラックサレナの発展機。開発コンセプトは「一騎当千」。
 それはエース専用の機体だった。
 そもそもが、先の「火星の後継者の乱」はあらゆる面で想定外の事態の連続だったのだ。
 統合軍の数割がクーデターに参列していた事実。
 積尸気(ししき)によるボソンジャンプ急襲戦法。
 そしてナデシコCとその艦長ホシノ・ルリによる、広域ハッキング。
 すべてが――
 すべてが、参謀首脳陣の想定していたマニュアルの枠を大きく逸脱していた。
 そしてそれに対抗し得たのは、リョーコを含む一部のエース級パイロットたちだけだったという現実。
 アカツキが作り出そうとしていたのは、そんなあらゆる事態に対抗できるだけの圧倒的な能力を備えた機体である。
 誰もが操れなくとも構わない。エース級パイロットでも持て余すような、絶対的な性能。
 一騎当千――
 それが、この機体だった。

    ◇

「ピーキーすぎるんだよ、アカツキが!」
 ちょっとした姿勢制御だけで暴れ馬のように跳ね回る機体に毒づきながらも、リョーコの口端には少しずつ笑みが広がりはじめていた。
「……でも、こいつはスゲエ。ねじ伏せてやるぜ。力ずくで――オレの力で!」
 固形燃料が詰まっていた増槽をパージ。一気に本来の重量と理想的な推力重心を取り戻した機体は、さらに爆発的な性能を発揮し加速。あらゆる追尾を振り切り、天頂にむけて駆け上がっていく。




    ◇◇◆◇◇




 血の香りというのは、海のそれと似ている。
 そんなことを悟ってから、すでに二時間経つ。
 おそらく自分は狂い始めているのだろうと、チア=ランは奇妙に冷静な心持で考えていた。
 キーボードの上の指だけが、なにか自分の身体から独立した生き物のように、ひたすら動きつづけている。
 なぜ自分は、こんなにも心静かでいられるのか。
 なぜこの指は、こうも忙しく働きつづけているのか。
 あらゆるものから切り離された場所で、チア=ランはそれらの不思議について思考をめぐらせていた。
 ぱしゃり、と湿った音が背後で発せられた。
 機械仕掛けのように、身体が勝手にそちらを振り返る。
「…………。北辰……どこにいっていたの」
 そこに影を落とす男は、痩躯だった。
 まるで蛇のようであった。
 左眼が紅い義眼だった。
 左の腕が根元から失われていた。
 右腕で、背に肉の塊を背負っていた。
 歯には剥き出しの日本刀を咥えていた。
 ぬらりとした刀身。
 右眼の濁った輝きは、その刀身によく似ていたかもしれない。
 鞘を失った抜き身の刀――そんな男であった。
「……どこにいっていたの」
 機械仕掛けの身体が煙草を欲している。
 勝手に上着のポケットに手を伸ばし、一本の煙草を口にくわえて火をつける。
 血の鉄味と紫煙が混ざり合って、吐きそうなぐらい不味い。
 不味いが、機械仕掛けの身体はそれを気にかけてはくれなかった。
「……喰わねば闘えぬ」
 ゆっくりと北辰は答えた。
 そして背に担いでいた肉の塊を、床の上に無造作に投げ出す。
 べちゃり、という音。
 それは犬だった。
 痩せ細った、おそらくは野良犬だったであろう赤茶の毛色をした犬。
 北辰は血の泥濘と化していたリノリウムの床に、直接あぐらをかいて座り込んだ。
「頼んでいた事はどうだ」
 右手に日本刀を握りなおし、北辰は犬に向かう。
「……手がかりは……見つけたと思う。火星に近いミクナギ・コロニーで、レーダー網が正体不明の物体を捕らえて――それは、唐突に消えているの。たぶん、あの男……だと思う」
「そうか……」
 北辰の薄い唇が、引き攣れるように横に広がった。
 笑み――人以外の爬虫類が浮かべるであろう笑みがそこに出現していた。
「そうか……ミクナギにいるか……テンカワ・アキト……クカカ……そこにいるのか。クク……カカカ! ゆくぞ。すぐに、ゆく。待っておるがいい……すぐだ……すぐに我がゆく。殺しにゆく。肉も骨も腐れきり、死を待つばかりのヌシにとどめを刺しにゆく。クカカ……待っておれ。待っておれよ……クカカカ……」
 ぶつぶつと呪詛のような言葉をもらしている。
 変わり果てた北辰の姿を見下ろしていながら、チア=ランの心には何の波風も立とうとはしていなかった。
 ――おかしい。
 自分は間違いなく、おかしくなっている。
 少なくとも、ほんの数ヶ月前まで――クリムゾン・グループの諜報部に所属していた自分は、この北辰という男に好意を持っていたはずなのだ。
 到底人好きのする容貌とは言えない男であったが、その芯の部分に理想に殉じる鋼のような意思を秘めているのを感じた。
 それを知り、自分はこの北辰という男を、それとなく好もしく思っていたはずなのだ。
 二日前に、死んだと思われていた北辰が突然姿をあらわした。
 左腕を失い、さらには心の鋼も失った姿で。
 そして、自分の同僚たちを躊躇なく殺戮しはじめてから――
 何もかもが狂い始めたのである。
 北辰の吐き出す狂気に、すべてが侵されようとしていた。
 自分もまた、その狂気に呑まれているのだろうか。
 ただひたすら、何もかもが自動的で、機械仕掛けだった。
「喰え」
 感情を失ったチア=ランの鼻先に、北辰の日本刀が突きつけられていた。
 その濡れ光る刀身の上には、赤い肉の切れ端が乗せられている。
 新しい血の匂いが、つんと鼻を刺した。
「よくやった。喰って休め」
 部屋の片隅に無造作に積み上げられた元同僚たちが、何の光もたたえない眼でじっとこちらを見つめている。
 彼らの居る場所に行くか――
 それとも北辰の堕ちた場所に、自分も共に堕ちるか――

 この肉の切れ端を口にするかどうか。
 たぶん、それこそが答えであろう。




    ◇◇◆◇◇




「――――――――――――――――――――っっ!!」
 声にならない悲鳴をあげて、ラピスは飛び起きた。
 心臓が跳ね回っている。
 真っ暗だった。
 ぼろぼろの倉庫の片隅で、毛布に包まっていた。
 怖い夢を見ていたのだ。
 なにか人でないものが、自分とアキトを殺すために追いかけてくる。
 北辰から逃げ回る日々がそんな夢を見せるのだと、冷徹で計算高いラピスの一部が答えをはじき出してくる。
 しかしそれとは別の部分が、不安に震えていた。
「アキト……」
 横に眼を向けると、少年のような表情で寝入っているアキトがいた。
 震えていた心が、それだけで静かになっていく。
 いや――ラピスはその感情が不安や安堵であるとは理解していない。
 ただ感情の揺らぎとして認識しているだけだ。
 昼の間――アキトが活動し、その五感のサポートに能力の大半を注ぎ込んでいる間、ラピスの少女としての感情は機能を失っているに近い。
 こうしてアキトが寝込み、五感のサポートを必要としなくなったときだけ、ラピスの感情はよみがえり、その秘めた不安を夢という形で知らせてくるのだった。
「アキト……」
 ぺたぺたと、幼くぎこちない動きでアキトの頬に触れる。
 それですべてを忘れることができた。
「おやすみ……」
 そして、今度こそ深い眠りに落ちていった。




    ◇◇◆◇◇




「へへへぇ〜〜」
 ハイスコアである。
 それも、地球圏・火星圏・木星圏のすべてを通じての、正真正銘のトップスコアであった。
「ビクトリ〜!」
 ぶいっ! と、ギャラリーに向けてVサインをしてみせる。
 場末のアミューズメントセンターが、いつに無い興奮で沸き返っていた。
 その中心でゲームのカプセル型筐体に身を沈めていたユリカの腕から、ピピピ――という呼び出し音が鳴り響いた。
 コミュニケが自動着信機能を起動させて、浮遊型ウィンドウを空中に表示させる。
『プレイ再開です −ERECTRIC SHEEP』
 そんな文字が表示されていた。
「おっとっと」
 ちょっと焦った感じで、ユリカはカプセル型筐体のシートに、もう一度背を預ける。
「本番、本番。がんばるぞ――っ!」
 ぐいっと腕まくりをして、ユリカはコンソールに手を乗せた。

『Martian Successor −火星の後継者−』

 世界的な人気を誇る、戦術級シミュレーションゲーム。
 その仮想の世界にユリカは没入していく。








あとがき

冒頭のアキトとラピスのシーン。なにか記憶に引っかかるな、とよくよく考えてみたら
「ロボコップ」でした(笑
廃棄された工場跡。二人きりでの照準調整。ミール状の食料――って、まんまやん!
無意識ってコワイですぅ。

えっとそれと、起承転結で言うと次回が転にあたるんで、たぶん長くなるはずです。
アキトvs北辰。ユリカ&ルリvs火星の後継者残党。そして、アキトvsリョーコ。
うわ、長そう……

ちょっと遅くなるかもしれません。気長にお付き合いいただけると幸いです。
ではでは〜。

管理人の感想

ぼろぼろさんからの投稿です。

うわ、ラピスの境遇が悲惨だ(汗)

アキトの甲斐性無しも、ここに極まりって感じですねぇ。

以前は追い掛ける側だったのが、今では追いかけられる側ですしね。

それと北辰、せめて肉には火を通した方がいいぞ(苦笑)

 

次回は戦闘シーンの連続らしいですが、アキトだけ連戦ですか?