「WATER!!」




 ごつん、という鈍重な音が響いている。
 立て続けに鳴り響く不快な音に、軍服を着込んだ男は表情を歪め、唾を吐き出すように言葉を洩らした。
「見ていて気持ちのいいものではないな」
 軍人の視線の先に、異様な光景がある。それは裸身の少女だった。幼い身体がありえない角度で捻じ曲げられ、高い透明度を誇る硬質ガラスチューブの内側で踊るように蠢いている。硬質ガラスチューブの内部には液体が満たされているのだろうか。少女の身体はその中央に浮かび、薄い色調の頭髪がすべてを覆い隠すように広がっている。水中に薄く広がった血のような桃色の髪――――
 少女の白い裸体が跳ねた。背を折れんばかりに反らし、後頭部を硬質ガラスに叩きつける。ごつん、という濡れた鈍い音が響く。天を見上げた少女の口は悲鳴を吐き出すためにぱっくりと開き、棒のような舌を突き出していた。
「この娘はなぜ苦しんでいる」
 軍人は横に並んでいた白衣の学者に目を向けた。少女が示す狂態が楽しくてたまらないのか、学者の口元には誤魔化しようのない笑みが広がっている。
「なに、傷はつきませんから、ご心配なく」
「なぜ苦しんでいるのか、と訊いている」
 学者は軍人の詰問にも薄笑いを浮かべたままだった。
「生まれようとしているのですよ。産みの苦しみとはよく言いますがね、本当は生まれるほうだって苦しいんです。赤子は子宮から狭い産道を通って産み落とされる。その一時には呼吸も停止して、死の恐怖を味わうのです。羊水の保護を失い、初めて感じる大気の冷たさに恐れおののき、泣き声をあげるのですよ。生まれるために死を味わう。それが自然界の摂理というものです」
 少女がもう一度、嫌な音を響かせた。ごりっ、という骨が堅いものにこすりつけられる音。
「何を言っているのか残念ながら理解できないな。なぜそんな必要がある。これまでのケースではこんなことは一度もなかったはずだ」
「これは特殊な実験体でしてね。ネルガルのラボから奪取されたときにも、この人工子宮のチューブの中に浮かんでいたのです。外見は10歳程度ですが、実際は製造されて15年になる。一度もこのチューブの外に出たことがなかったのでしょう、発育の遅れがひどい。もう手遅れでしょうね」
 ごつん。
「それで?」
「チューブの外に出されなかった理由は、この実験体に自我が芽生えなかったからです。つまり人ではなかった。ただ人と同じ材料で作られただけのカタマリ。実験体ではなく、実験材料として生かされていた」
「動いているじゃないか」
 少女は背を丸め、身を掻き抱いて震えている。
「動くようになったのですよ。自我を芽生えさせることに成功した、と言い換えてもいい」
 ほう、と軍人は感心したように息を吐き出した。
「興味深いな。どうやったんだ」
「説明したつもりですが。生まれるために死を味わう、と」
「だから苦しんでいると? では、わざと苦痛を与えているのか」
 学者は首肯した。瞳の中に喜悦の色がある。
「赤子は子宮の中にいるときには自己を認識してはいない。羊水に溶けているようなものです。母体の一部でしかない。それが死に至る恐怖を感じ、初めて自己と世界の境界を意識するようになるのです。それが自意識の発現です。生まれ落ち、産声をあげて、初めてヒトとなるのですよ。私はそれを再現し、この実験体をヒトとして生まれ変わらせることに成功したのです」
 傲慢とも取れる言葉に、軍人はわずかに表情を歪めていた。濡れ光る学者の眼から視線を外らし、少女の波打つように震える背に移す。少女の全身の筋肉が、意思とは無関係に独立した生物のような不気味な痙攣を繰り返していた。
「この娘は数少ないIFS強化体質の持ち主だ。このまま壊れてしまっては、我ら『火星の後継者』にとっては手痛い損失になる。本当に大丈夫なのか」
「傷はつかない、と申したはずですがね」
 学者は愉快そうにくつくつと笑いを洩らしていた。
「ヤマサキ・チームが研究していた内容をご存知で?」
「ITSか? 人間翻訳機がどうとかいう」
「それです。『人間翻訳機』たるA級ジャンパーに、B級ジャンパーの跳躍イメージを伝えるためのイメージ転送システム。ヒトとヒトの間で精神的なリンクを確立する技術ですね。この実験体を覚醒させるために、その技術を流用させていただきました」
 学者はまわりくどい説明を喜々とした調子で続ける。
「つまり、この実験体と、あるA級ジャンパーとの間に精神的なリンクを作り上げたのです。実験体には、遺跡を通じてA級ジャンパーの感じている感覚や思考が流れ込んでくる。この実験体を覚醒させるために必要なあらゆるスパイスがそこに含まれているわけです」
「……なるほどな。では、いまこの娘が苦しんでいるのは――――」
「お待ちを」
 学者はコンソールの上に滑らかに指を走らせた。スクリーンにいくつかの文字が表示される。
「ふむ。今の時間ならば、そのA級ジャンパーは手術の最中ですね。髄液の交換と脾臓の摘出となっている。パイロット用のありきたりな対G術式のようだ」
 不快な想像に軍人の喉が鳴った。
「そのすべての感覚を……この娘が感じているのか」
「この世に生まれ落ちるためには必要な試練なのです。与えられる刺激が強烈であればあるほど、世界と自我の境界が明確になっていく。この実験体が、“自分”と“世界”の違いを知るのはそう遠くはない。一度“自分の形”を知ってしまえば、実験体は急激に学習を開始するでしょう。教材は精神リンクを通じていくらでも流れ込んでくる。ヘレン・ケラーが、汲み上げポンプから流れ落ちる水を感じて世界を知ったように、この実験体も世界を知ることになるのです」
 軍人は嘔吐感に耐えていた。意識を保ったまま腹を裂かれ、内臓をえぐられる感覚とはどのようなものなのか。この小さな身体で、それに耐えられるものなのか。
 少女の裸身がひときわ大きく波打った。陸に打ち上げられた魚のように暴れながら、額を硬質ガラスに打ちつける。頭の中で直接響いているかのような不快な音に、軍人の嘔吐感は耐えがたいものになっていた。
 少女の狂ったような動きは、正常な神経を逆なでする不気味なものになろうとしている。意思ある生物のする動きでない。ヒトの姿をした人外のモノが、人の理(ことわり)の外で舞う死の舞い。恐怖すら感じ、軍人は視線を少女から外らそうとした。
 そのわずかな瞬間――――少女が軍人を見た。
 少女の金色の瞳が一瞬だけ意思の光を宿し、確かに軍人を見た。がらんどうの洞窟のようだった金色の瞳の中に、軍人は確かに意思の光を見ていた。
 驚愕に肺の空気を全て吐き出しながら、もう一度少女に視線を戻した時、すでに意思の光はそこから消え失せていた。照明の加減が見せた錯覚だったのか。いや、そうではないと、なぜか軍人は確信していた。
「……この精神リンクによる拷問を、いつまで続けるつもりだ」
 自分の声が掠れていることに気づく。少女の死の舞いはさらに激しく、狂気に満ちていくようだった。
「この実験体が、自分の意志で精神リンクを閉じるまでですよ。意思ある者ならば、そのコントロールが可能なはずなのです。外部からでは手の出しようが無いというのが本当のところなんですけどね」
 学者は笑って答える。
 軍人は喉の奥で言葉を吐きながら、少女に背を向けた。
「下衆(げす)が――――」




 軍人がこの部屋を訪れるのは二ヶ月ぶりのことだった。前回の訪問で感じた狂気に、無意識のうちに部屋へ向かう足が鈍ったのだろう。少女が二ヶ月の間にどのような凄惨な経験をしてきたのか、想像することすら避けたい思いだった。
 しかしいま、軍人は個人としてではなく『火星の後継者』の一員としての義務をもって部屋へと向かっていた。S級の緊急事態を告げる警告灯の輝きに赤く染まり、右の手の中には愛用のパウダーガンを握りしめながら。
 少女は硬質ガラスチューブの中で、胎児のように丸くなっていた。前回のように苦しみにもだえてはいない。しかし、その全身を包み込む輝きはいったい何なのか。
「ずいぶんと騒がしいですね」
 問い掛ける学者は落ち着き払った様子で椅子に深く腰掛けている。酷薄な笑みは二ヶ月前となにも変わってはいなかった。
「襲撃された。おそらくネルガルの手の者だろう。私の部下が防衛にあたっているが、どうにも分が悪い」
「ほう。この施設の警備は万全とお聞きしていましたが、どうやら違ったようで。世の中、思い通りには進みませんね」
 学者が寒気をもよおすような声で笑う。
「体制は万全だったんだよ。しかし、いまは防衛システムのほとんどが機能していない。どうやら施設内から妨害を受けているようなんだ。だから私がここに来たというわけだ」
「妨害、ですか。残念ながら私には身に覚えがありませんね。私は研究一筋で、それだけで満足な男なのですから」
 たしかに学者の言うとおりだろう。この男はそういう人種だ。あらゆるものを犠牲にしても自己の知識欲を優先する。それさえ満たされていれば、『火星の後継者』の理念など意にも介さないのだから。
「防衛コンピュータをハッキングしている者が、この区画のどこかにいることはわかっている。そしてそれが可能な設備はこの部屋にしかないんだよ。貴様でなければ誰だ。この意思を持たない娘がやっているとでも――――」
 そこまで喋り、軍人は少女を凝視した。この少女を包み込む輝きはなんだ。少女はIFS強化体質『マシンチャイルド』だ。そしてマシンチャイルドがその能力を開放する時、体内のナノマシンが活性化し、光り輝くという。ならば――――
「やめさせろ!」
「私が強制しているのではありません。わずか二ヶ月で、この実験体はすさまじい速度で学習を進めてきた。驚くべきことだ。私はそれを見守りたい。この実験体がどこに向かおうとしているのか、それが知りたいだけだ」
 軍人は一瞬のためらいもなく、右手のパウダーガンを少女に向けた。学者が制止の怒声をあげるよりも早く、パウダーガン特有の轟音が響き、硬質ガラスチューブが砕け散る。
 溢れ出る人工羊水の流れの中に、少女の姿があった。クロームの床に突っ伏し、羊水の流れに薄い桃色の髪をなびかせる。その左胸から深紅の液体が命と共に流れ出していた。
「なんてことを!」
 学者の声に反応するように、銃口が横にスライドした。その先はぴたりと学者の頭に向けられている。
「もっと早くこうするべきだった。直感に従うことも、時には重要だな」
 轟音。火薬の匂いが軍人の鼻に届くより早く、どさりという重い音が床に響く。軍人はその結果を確認することなく、通信機に向かった。
「状況はどうだ」
『たったいま防衛システムが回復しました。施設内の占拠率40%……50%。敵の撤退行動を確認。追撃に移ります』
「許可する。損害は」
『データベースの一部と、実験体のA級ジャンパー数人が奪取されたとの報告がありました。計画に関するデータは無傷です』
『火星の後継者』蜂起に関する実害はなかった。防衛システムが機能していなかったことを考慮すれば、かなり運がよかったといえるだろう。
 軍人は床に横たわる二つの死体に目を向けた。いや、そこにあるのは二つの死体ではなかった。一つの男の死体と、立ち上がろうともがく少女だ。
 背中まで貫通した銃痕は、急所をわずかに逸れていた。
「外れたか」
 いや、外したのだと軍人は知っていた。少女に銃口を向けたとき、一瞬だったが軍人の胸に躊躇があった。それが正確無比な軍人の射撃の腕を僅かながら狂わせたのだ。
 軍人は無表情に銃口をもう一度少女へと向ける。その照準が揺れていた。
 少女が背を丸めて口から大量の羊水を吐き出した。血が混じっている。銃弾が肺を傷つけたのか。少女は、もがき苦しんでいた。
「……ア……キ…………ト……」
 水に濡れそぼったびちゃびちゃという音に混じって、確かに聞こえた声。それが人工の子宮と、人工の羊水から零れ落ちた少女の、最初の産声だった。




あとがき
なんか暗い雰囲気ですが、ナデシコの年表中でどの部分にあたるエピソードかお分かりでしょうか。
本文中ではあえて登場人物の名前を伏せた形で進め、年代も明記していません。あとがきで本人が解説しちゃうのもアレなので、このまま終わる事にしときます。

ではでは〜。 




代理人の感想

おお、なるほど。確かにこう言う解釈もありですね。

リンクは存在するとして、何のためにそれを作ったのか、という解釈は割とどこでも似たようなものだったりしますからね。

新鮮な心持ちで読ませていただきました。

・・・・もっとも、作中で伏せてあるということはこの彼女が○○○本人だという確証も無いと言う事なのですが(苦笑)

(あくまでも作品的にはね)