キ〜ン・コ〜ン・カ〜ン・コ〜ン

数時間後。HRの終了を告げるベルが鳴った。
何時も通り、別れの挨拶を一つした後、振り返る事無く去ってゆく北斗。
その後ろ姿を見詰めながら、レイは一人物思う。

(あの人は何?)

最近の彼女は、暇さえあれば、その事ばかり考えていた。

「さ〜て。今日も一丁、気合入れていくで!」

(鈴原トウジ。あの人の弟子。でも、全然似ていない。ちょっと前までは、ジャージという名前だと思っていた人)

「なんやシンジ、シケた面しよってからに。もっとシャッキとせんかい。
 自分が誰なのかもよう判らん様になったり、虹色の地平線が見えたりした、あの地獄の特訓に比べれば、今の稽古は楽なもんやないか。
 それに、やりとげた時の爽快感も格別やしな」

「そうだね。生きてる事を実感する瞬間だよね」

(碇シンジ。あの人の弟子。碇司令の息子。でも、どちらにも似ていない人)

「さ〜て、僕等も帰るよ日暮さん」

(相田ケンスケ。暇さえあればカヲリさんを盗撮している不快な人)

「(スゥ〜、スゥ〜)」

(日暮ラナ。カヲリさんに迷惑ばかりかける不快な人。
 でも、何故か嫌いになれない不思議な人。どこか、私に似ている人。そんな筈ないのに)

「(ハア〜)」

思考が脱線し始めた事を悟り、溜息を一つ。
そして、更に別の角度から考えを進める。

(赤木リツコ。エヴァと私の身体を管理する人。無類の猫好き)

(冬月コウゾウ。司令の右腕。そして、今は司令の代理を務めている人。最初の私の面倒を見てくれた人)

(葛城ミサト。何時もアルコール臭のする五月蝿い人)

(オペレーター達。確か、向かって右から、メガネ、童顔、ロンゲ………えっ!?)

自分の所属する組織でありながら、その内情をほとんど知らない事に。
より正確には、そんな瑣末な事を気にしている自分に驚くレイ。
だが、何故か嫌じゃない。

(温かい。これは絆。私の大切なもの。私が私である事の証明。三番目の私には受け継がれないもの)

(碇司令。私の存在を受け入れてくれた人。この世界と私を繋ぐ絆。でも、今は居ない人。とても哀しい)

(洞木ヒカリ。皆からは委員長と呼ばれている人。
 でも、本当はそう呼ばれるのが嫌いな人。私が『ヒカリさん』と呼んだ時、嬉しそうに照れた人)

(山岸マユミ。最初に会った時、『貴女は昔の私と同じ目をしている。それじゃ駄目よ!』と言って、私とカヲリさんとを引き合わせてくれた人。とても感謝。
 私が唯一人名前を呼び捨てにする相手。これを親友と言うらしい。
 でも、私の瞳は、彼女の様に黒く変わらない。ちょっと悔しい)

(カヲリ=ファー=ハーテッド。どこか碇司令に似ている人。でも、全く違う人。
 そして、何時かはお別れしなければならない人。
 『それは別れじゃないわ。前に進むだけってことよ』と、あの人は言っていたが、私には同じ事。その日が来る前に無に帰りたい)

(そして、影護北斗。恐れる者、敵視する者、その力を利用しようとする者。
 それらの思惑を頭から無視して、自分の意のままに生きる人。
 まるで、その存在が一つの宇宙であるかの様な錯覚を覚える人。
 仮初の身体を纏ったとしても………いえ、本来の力を取り戻したとしても勝てる気のしない人。あの人は何?)

「どうしたのレイ?」

気が付けば、目の前には、帰り支度を整えたカヲリの心配げな顔が。
どうやら、外界と隔絶されるくらい深く、思考の海に沈みこんでいたようだ。
一言謝罪した後、彼女は慌てて帰り支度を始めた。

「………と、今度出来たケーキ屋のザッハ・トルテが美味しいそうなんです。一緒に行きませんか?」

その間に、はにかんだ声色で。だが、ハッキリと明瞭な口調で、カヲリ達を放課後のお茶会に誘うマユミ。
その手の道草的な遊蕩に拒絶反応があるため渋るヒカリに対し、『私、オゴッちゃいます』と、強引に説き伏せる辺りも、
つい半年前の彼女とは、ほとんど別人の様な積極性である。

「実は、チョッと臨時収入が入ったんですよ」

「そうね。軍資金に問題ないわ」

マユミの援護射撃を始めるレイ。
そう。彼女の懐もまた、嘗て無いくらい温かかった。

「ふ〜ん。それで、昨日はどのくらい勝ったのかしら?」

二人の攻勢に押され気味だったヒカリの前に立つと、カヲリは、二人にとって一番痛い所を突いてきた。

「貴女達をスカウトした御二人は、多少変わった性格だけれども、どちらも信義に厚い方よ。
 当初の約束以外の事を、貴女達にさせたとは思えないわ。
 となれば、昨日、急用で私が席を外した後、何が起こったのか? 答えは一つよね」

事が完全に露見している事を悟り、硬直し冷や汗をかく二人。
だが、アレは仕方ない。
出来心と言うか、鴨がネギしょって鍋の中に入って来たと言うか。
兎に角、自分達だけの責任では無いという確信が、彼女達にはあった。

「でもでも、賭けを持ちかけて来たのは、あの人達の方なんですよ。
 おまけに、『バイト代を超えた負け分は払わなくて良い』という話だったので、ついやってみたくなって………
 それに、眼鏡を掛けた、良く判らない専門用語を並べ立てる饒舌な人。
 あの人、7順目で字牌が場に一枚も切れていない状態から躊躇いも無く『発』を打ってきたんですよ。
 役満を当てて下さいって言ってる様なものじゃないですか」

「点ピン(千点100円)で『トリプル役満あり』のルールにしたのは向こうの方」

「短い髪のサングラスを掛けた人の方も、ポンポン鳴いてすぐ裸単騎になるものだから、
 此方のリーチに対して全くの無防備で。しかも、上がりを拒否すると『天の声には逆らうべきじゃない』とか、訳の判らないことを言って怒り出すんですよ。
 これでは、私達が大勝ちしたとしても、仕方ないでしょう?」

「一発で当り牌を掴む方が悪いのよ」

口を尖らせて自己弁護を図る二人。
マユミが状況を説明し、レイがその要点部分を語る、中々コンビネーションの取れた話術だ。
その所為か、麻雀に関する知識が皆無のヒカリにも二人が博打をしていた事が伝わったらしく、真っ青な顔となる。

「大丈夫。ルール的に、それ程大金にはならないし、相手は御爺様の御友人で、信頼のおける方達だから。
 只、御職業が科学者な所為か少々変わっていて、御二人とも、趣味の事となると平気で幾らでもつぎ込むという悪癖があるのよ。
 そういう意味では、今回のケースなんて話の種レベル。可愛いものだわ」

そう言って、ヒカリを宥めた後、

「兎に角、返却しなさいとは言わないから、せめて貯金しておきなさい。無駄遣いは感心しないってことね」

カヲリは、二人にそう厳命した。

(貯金。将来に向けて………お姉さま(ポッ)との)

(貯金。未来に対する備え。これがある間は人生安泰)

「は〜い(問題ないわ)」

やや受け取り方がズレているものの、それに素直に従う二人だった。



   〜 同時刻 ネルフ第二実験区画 〜

「綾波レイ、14歳。マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の被験者。
 現在は、ファーストチルドレンして、エヴァンゲリオン試作零号機の起動実験に従事。
 また、過去の経歴は全て抹消済み………か」

特殊ベークライトによって凍結されている零号機の発掘作業を見上げながら、そうひとりごちるミサト。

「それで、先の実験の事故原因はどうだったの?」

そして、躊躇いがちにリツコにそう尋ねた。
その顔色が優れないのは、零号機を照らすライトと、ベークライトを削る火花の灯りを顔半分に受けている所為だけでは無い。
そう。零号機の参戦不可は、そのまま使徒戦の敗北へと繋がりかねない重要事項なのだ。
初戦のトラブル&惨敗によって陥っていた思考の迷宮から脱出し、それが判る程度には自分を取り戻したミサトだった。

「いまだ不明よ。但し、推定では操縦者の精神的不安定が第一原因と考えられるわ」

「精神的に不安定? あのレイが?」

「ええ。彼女にしては信じられないくらい乱れたの。
 そして、それ以外の失敗原因は、今の所、見つかっていないわ。
 そんな訳だから、明日の起動実験も、成功確実とは虚勢でも言えないわね」

「あちゃ〜」

ネガティブな返答に落ち込むミサト。だが、すぐに気を取り直すと、

「まあ良いわ。それじゃ、一昨日提出した意見書通り、初号機の修復を最優先に。
 零号機の方は、レイのコンディションを考慮してジックリ進めて頂戴。
 取り敢えず、ポジトロンライフルが完成しない限り出番は無いわ。
 ATフィールドが使えない現状では、装甲の脆弱なアレは、後方支援に回すしかないもの」

作戦部長の顔を作り、矢継ぎ早に意見を述べた。

「ミサト………変わったわね貴女」

これまで散々手を焼かせてくれた親友の思わぬ成長振りに、内心小躍りするリツコ。
だが、そんな彼女の心の隙を狙うかのように、

「えへへっ。有難う、御世辞でも嬉しいわ。
 あっ、そうそう。例の北斗君っ家への訪問。7時頃迎えに行くから準備しといてね」

と、御馴染みの爆弾発言がもたらされた。

「あれ、言ってなかったっけ?」

絶句した親友に不審を憶えたのか、恐る恐る尋ねるミサト。
だが、リツコの方はそれどころではない。
何しろ、第三新東京市最凶最悪の魔境に。ゼーレの円卓会議に呼ばれる方がまだマシと思えるそこへ連れて行こうと言うのだ、この女は。
それも、当事者に何の承諾を得ずに!

「聞いていないわよ! 大体、何故そんな事を!?」

「だってだって、一昨日その話をしたら、なんか羨ましそうな顔してたし。
 昨日は追込みで超忙しそうだったけど、締切り明けの今日なら良いと思って………
 あっ。大丈夫、和食が中心だから、リツコの苦手な油っこい物は出てこないわよ。
 それに、零ちゃんの料理ってば超美味しいし」

前言撤回。コイツは何も変わっていない!
内心、そう絶叫するリツコだった。



   〜 19:20 影護邸 〜

「さて、逝きましょうか」

本音を言えば、現段階では関わり合いになりたくない。
と言って、約束を違えれば、もっと酷い事になりそうな気がする。
そんなこんなの葛藤の末、いまだミサトが五体満足でいる事に一縷の望みを託し、結局は参加する事にしたリツコだった。

「い…何時見ても不気味な所よね。
 ほら、あの辺の空間とか、チョッと歪んで見えない?」

漢字の誤変換をおこしたり科学的根拠の無い事を口にしたりと、明瞭な頭脳を持つ彼女とは思えない奇矯な言動。
正に、いっぱいいっぱいの状態だが、これを臆病と誹るのは些か酷だろう。

「や〜ね、リツコってば。そんな訳ないでしょ、格闘漫画の読みすぎよ」

リツコの不安を一笑に伏すミサト。
堂々と戦場を駆け回る者と、ビクビク怯えながらも職務を果す者。どちらが真に勇敢な兵士か?
そんなナポレオンのエピソードを思い出させる光景である。

「ねえ? 私の記憶が確かなら、貴女は此処に、スカウトに来ているのよね?」

何時もの掛け合いをこなした事で、多少冷静さを取り戻す。
たが、その御蔭で、いらん事まで………ミサトも自分も全くの手ぶらである事に気付いてしまい、思わずそう尋ねる。

「ええ、そうよ」

予想通りの何も判っていない返答に、つい欝になる。と言って、今更、敵前逃亡する訳にもいかない。
かくて、ミサトに促され、刑場に引き出される死刑囚の様な足取りで門を潜るリツコだった。



「美味しい」

数分後。メインの金目の煮付けに舌鼓を打ちつつ、心からそう呟くリツコ。
だが、彼女の内面世界では、喜び以外の感情が荒れ狂っていた。

(ミサト………味覚オンチのクセに、この一週間、毎晩こんな物を!
 私が、これと同じクラスの料理を食べようとしたら、名のある料亭にでも行かない限りは無理。一体幾らかかると思ってるのよ!)

あまりの事に、思わず親友に殺意すら抱く。
意地汚いと言う無かれ。
大航海時代、胡椒や肉桂といった調味料が、同じ重さの金と等価値だった事や、
紅茶や珈琲のような嗜好品を作らせる為に、某紳士の国が植民地政策を取り続けた事例が示す通り、
古来より、食い物の恨みほど単純かつ深刻なものは滅多にないのだ。

毒舌を吐く代わりに、御猪口の吟醸酒を傾ける。これもまた、溜息の出る様な一品だ。
これまでリツコは、日本酒とは、米麹をアルコールで割った、ベシャベシャと甘いだけの物だと思っていた。
だが、このお酒からは嫌な臭いが全くせず、只の歌い文句と思っていた、米の中心部分だけを使った吟醸酒特有のフルーティな自然な甘さが確かにする。
何より、目の前の料理と実にマッチするのだ。
魚料理と言えば白ワインというこれまでの認識を、改めざるを得ない程に。

「って、一寸待って。ミサト、貴女は禁酒中じゃなかったの?」

「いいえ、それは般若湯です」

リツコの詰問に、ミサトに代わってそう反論する零夜。

「般若湯って………日本酒と言うかアルコールでしょ、これ?」

「般若湯です」

「いやでも」

「般若湯なんです!」

「………判ったわ」

(なるほど。まさか教師自ら、ティーンエイジャー定番の法律違反を犯していると認める訳にはいかないということか。
 まして、この娘の性格では尚更よね)

上座で、堂に入った仕種で御猪口を傾ける北斗を見ながらそう結論付ける共に、ミサトのエビちゅ禁断症状が比較的軽い理由を悟るリツコだった。

「零ちゃ〜ん、御銚子もう一本頂戴♪」

「零ちゃんと呼ぶの止めて下さい! これはもう、何度もお願いした筈ですよ」

「良いじゃない別に。零ちゃんのイケズ〜」

訪問から約一時間後。晩酌と呼ぶのは躊躇われる酒量に達したミサトの痴態を見ながら、此処までの経緯を反芻する。
既にシンジと鈴原兄妹が席を辞し、北斗もまた、つい先程、晩酌を切り上げて席を立った。
この間、一度も勧誘らしき事をしていないのだが、これはまあ仕方ないだろう。
実際、北斗を前にそんな真似をする度胸は、自分にだって無い。

問題なのは、この奇妙な人間関係だ。
出会い頭に、『えろうすんませんでした』と、トウジに謝罪されたのには少々驚いた。
理由と言えば、3週間前に、ハウスキーパーを勝手に解雇した事らしい。
だが、これは無理ない事だと、リツコ自身も思っている。
何せ相手は、回って来た報告書を読んだ時、『いくら監視が主目的(例の事故は隠蔽されている為、司法組織に訴えられると結構困る)
だからって、もう少しマシな人間を就けられなかったのかしら?』と、眩暈を覚えたくらいハウスキープ能力の欠如した人間なのだ。
弟子入りして以来、就寝時以外は此処で生活を送っている兄としては、可愛い妹をアレに預けるのは躊躇われるのも当然の事だろう。

また、シンジがミサトに敵意を持っていなかったのも一寸意外だった。
それどころか、例の般若湯を出してくれる様に零夜に頼んだのも彼らしい。
『これがホントの『昨日の敵は今日の友』ってヤツよね』と言って、親友は御気楽に笑っていたが………
いや、何か裏があると考えるのは些か穿ち過ぎだろう。
実際彼は、DNA鑑定をしたリツコ自身でさえ血縁関係の存在を疑うくらい、容姿・性格共にゲンドウに全く似ていない。

そして北斗。概ね好意的っぽい印象を受けるが、彼については予測を立てるだけ無駄なので割愛する。

此処までがミサトに好意的な人間。
他の者には、嫌われているという程ではないが、好かれてもいない。

トウジの妹については、その理由は簡潔なもの。単にアルコール臭が苦手だからだ。
いかにも懐いている様子だった零夜に、食後はまったく近寄ろうとしないし、年少組用の卓袱台の下に、さり気無く消臭剤がセットされている事でそれが判る。

御隣りのナオについてはもっと簡単。ミサトを頭から信用していないのだ。
実際、影護家へと向かう途中、後方から『ミリア〜!』と叫び声がした時。
とりわけ、なまじミサトが道を譲らないものだから済崩しに彼の駆るバイクと平走する事になり、その間に浴びた敵意の視線は、正直ゾッとするものがあった。
だがまあ、彼に関しては、恋人に僅かでも危害を加える可能性のある相手には、誰であろうと同じ態度をとるらしいので、心配する程の事では無いだろう。
ミリアの評価は未知数だが、ナオの精神安定の為、彼女はミサトと距離を取るだろうから此方も同様である。

複雑なのは零夜だ。
直属の部下と同じ資質と言うか、怒った顔が怒った様に見えない顔立ちではあるが、
何度か陰険漫才を演じた事もある間柄故、本当に怒っている時は、リツコにはそれとすぐ判る。
そして、今見ている感じでは、態度は明らかに嫌っているが、口で言う程の敵意は感じない。
丁度、手の掛かる自堕落な姉と、なんだかんだ言いつつも、その面倒を見るしっかり者の妹という風に見えなくもない自然な雰囲気なのだ。

これらの事象を総合し分析する。
歓迎されているとまではいかないものの、概ねその存在を認知されているとみて間違いない。
スカウトの見通しこそ全く立っていないが、リツコ自身、これについては長期戦を覚悟しているので、今はこれで良い。
それどころか、事実上の独裁国家とまで言われるこの芍薬に、曲りなりにも自分の居場所を作ってしまった事だけとっても賞賛に値するだろう。

「茶碗酒は止めて下さい。これも何度も言った筈ですよ!」

「ゴメ〜ン。でも、最後はコレで締めないと飲んだ気がしないのよん♪」

二人の掛け合いを見るにつけ、なんとなく、気が付いたら友人だった大学時代のミサトとの出会いを思い出すリツコだった。



「ほな、わしらはこれで」

午後9時。鈴原兄妹が帰宅の挨拶をしつつ玄関へ。
此方も御暇しよう………にも、ミサトはシンジとのゲーム対戦に熱中しており、根を張ったかの様に動きそうも無い。

「ひょっとして、何時もこうなの?」

大人気ない。しかも、シミュレーションゲームで中学生を相手に劣勢を強いられているその姿を眺めながら、零夜に一つで二つの意味を持った質問をするリツコ。

「ええ、大体こんな感じですね。
 でも、ゲームで負けた後は、大抵そのまま不貞寝を始めますから楽なものですよ」

「ちなみに、過去の対戦成績は?」

「0勝6敗。あっ、もうすぐ7敗です」

最近、ミサトが遅刻をしない理由に納得。
早寝早起きに、バランスの取れた美味しい食事と、めっきり健康的な生活サイクルとなった親友の立場がちょっぴり羨ましいリツコだった。

「あっ、そうそうシンジ君。お願いがあるんだけど」

「なんですか、リツコさん?」

ゲームを中断し、リツコの方を向くシンジ。
この辺、零夜の教育の賜物である。

「これ、レイに渡しておいてくれないかしら?」

「IDカードですか?」

「ええ。今日更新されたんだけど、一寸した手違いでゴタゴタしていた所為で渡しそびれてしまったのよ。
 旧IDは明日には使えなくなるから、放課後、レイが下校する前に渡しておいてね」

「……………」

カードに貼られた写真を見詰めるシンジ。
そんな彼を見て、ウンウン唸っていた顔を一転させ、ミサトはニヤァ〜と口の端を歪め、

「おっ、どーしちゃったのかしらぁん?
 レイの写真、熱い目でジィ〜っと眺めちゃったりしちゃってさぁ。ひょっとして、あの娘に気があったりするの?」

背後から、『このこのぉ〜』と突く。
それをあしらいながら、シンジは、ぼそりと呟いた。

「やだなあ、寧ろ逆ですよ。僕、彼女に嫌われているものだから、ちょっと気が重いなって」

予想外の返答に『へ?』と疑問符を洩らしつつ固まるミサト。
彼女の認識では、レイが他人に敵意を向けるなんて、シンジが一目惚れするよりもあり得ない事である。

「大丈夫。多分、気のせいよシンジ君。
 レイはとても良い子よ。貴方のお父さんに似て………」

と、フォローの言葉を入れようとしたリツコもまた絶句する。
そう。『生きる事に不器用だけれども』と、続けようにも、遥に不器用な………
しかも、誰よりも自分に正直に生きている北斗を良く知るシンジに対し、そんなセリフでゲンドウとレイを擁護してみた所で、逆効果となるだけなのだ。
結局、適当にお茶濁しな話をして誤魔化す二人だった。

「あっ、結構近くなんですね。じゃ、僕、ちょっと渡してきちゃいます」

「チョっち待って! まだ勝負は………」

「次のターン、シャクヤクに、グラビティ・ブラストで全力射撃。それで決まらなかったら、ミサトさんの勝ちで良いですよ」

呼び止めるミサトにそう言い残すと、シンジは玄関へと向かう。

「えっ!? 嘘、なんでこんな所にナデシコが居るのよ! おまけにチャージまで終ってるし!
 え〜と。HPが1/10位しか残って無いから、ディストーション・ブロックが成功しても結果は同じ。
 修理装置も使い切っちゃってるから回復も無理だし………」

既に決定している敗北を回避すべく頭を抱えるミサト。
それを無視して、北斗も席を立ち、

「それじゃ、俺もついて行くとするか。
 丁度、アレには生活指導が必要だと思っていた所。家庭訪問がてら、説教でもしてくるとしよう」

その言葉に、レイの住宅事情を。
そして、カヲリとマユミの連名で、転居願いが出ていた事を思い出す。
今はもう、あの住居に拘る人間は居ない故、それを認めた所で問題はない。
余計な記憶は、三人目に移行する際に消去すれば済む事だ。
いや。そもそもゲンドウの補完計画自体が、当人の失踪と共に絶望的となっている。だが、

「ねえ、北斗くん。本当に、それが必要だと思う?」

それでもリツコは、これ以上のレイの変質が怖かった。

「あの娘は今のままがベスト。
 戦場では、余計な感情は邪魔にしかならないわ。貴方になら、それが判るんじゃなくて?」

故に、自分の言が詭弁である事を承知で翻意を促す。
だが、北斗の返答は、にべもなかった。

「笑わせるな。冷静である事と感情が無いのとは、まったく別だ。
 アイツのそれは、只の意志薄弱。今のまま戦場に出したりしたら、チョッと窮地に立っただけでアッサリ死ぬぞ」

実戦経験者。それも、苛烈極まりない戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ言葉の重みに、二の句を失うリツコ。

「俺は、己の意志で生きようとしない奴は嫌いだ。たとえ、いかなる理由があろうともな」

止めを刺すかのようにそう言い捨てると、北斗は、シンジを追って綾波邸へと向った。
その後ろ姿を見送りながら、言われた事を反芻する。
グウの音も出なかった。より正確には、反論する意志さえ持てなかった。
何しろ、彼の理屈で語るのならば、ゲンドウに屈服して操り人形の様に生きてきた自分など、死んでいるのと同じなのだから。

「(ハア〜)真紅の羅刹とは良く言ったものだわ。
 明王と昇華する事を拒み、敢えて地獄の炎を背負し修羅。あの髪の色は、まるで彼の気性をそのまま表わしているかの様ね」

「え? ………ああ、そう言えば。
 真紅の羅刹の二つ名は元々、北ちゃんの燃える様な赤毛になぞらえて付けられたものでしたね」

リツコの洩らした独白に、怪訝な顔でそう言う零夜。

「でしたね?」

「あっ、すみません。なにせ昨今では、もう一つの理由の方が定説になっているものでして」

「そうなの? それじゃ(ポン)って、なによミサト?」

その定説を教えて貰えるかしら?
と、続けようとした所を、後ろから肩を叩かれて制される。
不機嫌そうに振り返るリツコ。
だが、耳元で囁かれたミサトの忠告は、それに冷水をかけるかの様なものだった。

「そ〜ゆ〜質問はやめてよ、怖いから。
 もしもその由来が『返り血で真っ赤に染まった姿から』なんて答えが返ってきたら、ど〜すんのよ。
 下手すりゃそれが、アタシ達が聞いた最後の言葉って事になりかねないわよ」

「そ…そうだったわね。(汗)」

改めて、自分達が相手にしてる者の危険性を再確認。
と同時に、あれだけ好き勝手にやっている様に見えて、実は、致命的なポイントだけは的確に回避している親友の生存本能の確かさに、内心、舌を巻くリツコだった。



その頃、噂の幽霊住宅では、

(私、どうしたら良いの?)

レイが、昼間に中断していた考察を再び行っていた。

(食事。栄養価は充分。でも、美味しくない)

各種サプリメントの瓶を玩びながら、つい半年程前までは思いつきもしなかった事柄について考える。

(美味しい食事。カヲリさんの料理が食べたい。でも駄目、あの人には仕事がある)

(仕事。糊口を凌ぐ糧を得る為の手段。私の御弁当の材料費もそこから出でいる)

(お金。私は、生活費の全てをネルフに頼っている。自由になるのは、タンスの中にあるバイト代だけ) 

レイ特有の、連想ゲームの様な考察。
本来これは、物事を三段論法的に捉え、一つ一つ段階的に答えを導き出す、極めて有効なものである。
だが、その前提条件となる客観性。これまでは、彼女に標準装備されていたそれが失われている所為で、肝心の答えの部分が歪んでしまっており、
結果として、出口の見えない思考の迷宮へと突き進んでいた。

(マユミ。彼女の声が聞きたい。でも駄目、電話をかけたら迷惑になる)

(携帯。ネルフとの情報伝達手段の一つ。そして、その通話内容は全て盗聴されている)

(自宅への訪問も駄目。彼女の父親は保安部の課長。彼の口から、私の異常行動が赤木博士に知られてしまう)

と、レイの思考がネガティブなものとなり始めた時、

   ドン、ドン、ドン

「お〜い、レイ、居るか? (駄目ですよ、北斗さん。もう少しTPOを考えて下さい)」

乱雑にドアが打ち鳴らされ、外から、二人分の声が聞えた。

「なんだ、開いているじゃないか」

「って、何をするんですか。此処は女の子の部屋………」

返答が無いのに焦れ、勝手に上がり込む北斗。
それを諌めるべく、申し訳なく思いながらも、その後に続いてレイの部屋に入り、そのあまりの異常さに絶句するシンジ。

パイプベッドに、椅子が一脚。小さなタンスと、小さな冷蔵庫。
壁は、剥き出しのコンクリートで飾り気も何もなく、カーテンも、単に最初から付いていたのを、そのままにしてある事を窺わせる地味で変色した色合いの物。
止めとばかりに、ゴミ箱には、無造作に棄てられた生々しい血染めの包帯が散乱しており、その横の壁にもたれかかる体勢で、部屋の主たるレイが座り込んでいるのだ。
下手なお化け屋敷よりも演出効果万点だろう。

「……何をしに来たの?」

誰何の声を掛けるレイ。普段通りの声音なのだが、彼の耳には、いつも以上に冷たく響いた。

「あの、IDカード。リツコさんに頼まれて、更新された物を………」

シドロモドロにそう言うと、恐る恐るカードを差し出すシンジ。

「それと、抜打ちの家庭訪問だ」

そんな彼の困惑を尻目に、何事も無かったかの様に話し出す北斗とレイ。
そう。二人には、この程度の事を異常と感じる様な感性など、存在しよう筈もないのだ。

「最近、調子はどうだ? ちゃんとメシは食ってるか?」

「身長、体重、共に微増。成長期特有のものと思われる。栄養摂取が順調に行われている証拠。問題ないわ」

その後も、ややズレてはいるものの会話は続き、家庭訪問らしき事が始まった。
てもちぶさたから、レイに許可を取り、部屋の掃除を始めるシンジ。
基本的に物が無く、また、生ゴミも無いので、家具を雑巾で拭くだけのもの。
それでも、窓を開けて空気を循環させた効果もあって、埃っぽさが大分和らいだ気がする。
そんな中、シンジの目に留まる物があった。タンスの上に置いてあるそれは………

(眼鏡? 綾波のかな?)

何となく近づき、手にとって見ると、そのひび割れた眼鏡には、『G・Ikari』と名が書いてあった。

(父さんの?)

こんな物が、なぜ此処にあるのか理解出来ず、困惑するシンジ。
そこへ、『それに触れないで』と、レイの叱責の声が飛んだ。

「ほ〜う。人形のお前でも、そんな拘りを見せる物があるのか?」

謝罪のセリフを遮り、そう宣う北斗。
此処に至り、シンジは己の失策に気付いた。
この二人のソリが合わない事は、初対面の時点で良く知っていた事。
それにも関わらず、その会話から目を離すなど、自殺行為も良い所である。

そして、既にリカバーのチャンスも無い。
今日を生延びる為、北斗の顔色を窺うスキルが日々進化を遂げているシンジには、はっきりと判る。
彼の機嫌が、初登場で堂々第1位に輝きそうなくらい急速に悪化している事が。
ぶっちゃけて言えば、もう完全に手遅れなのだ。

『逃げなきゃ駄目だ』
生存本能がしきりにそう訴えるが、両足が思う様に動いてくれず、彫像の様に立ち尽くすシンジ。
あたかもそれは、ライオンに襲い掛かられた草食動物を髣髴させるものがあった。

「シンジ、レイを連れて此処を出ろ」

「え、え〜と。それはどういう………」

「ふむ。ちと、言葉が足りなかったか?
 まあ簡単に言えば、これから『要らないものを処分する』という事だ」

不敵な笑みを浮べつつ、そう宣う北斗。
その言葉に、シンジは、これから何が起こるのかを悟った。
正直、眩暈を禁じえない。だが、当然ながら、彼を止めるなどという愚行は犯さない。

「綾波さん。残念だけど、この部屋とはもう御別れだよ。微笑んでサヨナラを言ってあげて」

「何故?」

「ゴメン。僕自身、信じたくは無いんだけど、多分、間違いないよ。
 兎に角、天災にでもあったと思って、大事な物を抱えてすぐに逃げるんだ」

かくて、その15分後。シンジの予測通り、レイの住んでいた部屋を基点に、幽霊マンションは倒壊した。
嘗て、ゲンドウとユイが暮らした思い出の地という名の束縛と共に。



   〜 翌日 赤木ラボ 〜

「(カチャ)それで、結局どうなったの?」

その日の昼下がり。
昨夜の事故(?)の事後処理を終え、いかにも『今日も一日、良く働きました』といった顔でソファーにグデ〜と身を預けているミサトに、
リツコは、コーヒーを差し出しつつそう尋ねた。

「なんか〜、相手が専門用語を連発したんで経過の方は良くは判んないだけど〜、
 『面倒臭いから、スパ〜と結果だけにして』って言ったら、ホントに結果だけを教えてくれてさあ〜
 それによると、どうも示談成立って言うか、御咎め無しみたいよ」

ちなみに、リツコの報告を受け、関係改善の兆しが見え始めた事を察した冬月は、その日の内に新たな辞令を発行。
渋る暇を与えず、破格の役職手当を提示して、二つ返事でこれを了承させた。
その結果、今日付けでミサトは、『作戦部長兼パイッロット』に加え『真紅の羅刹対策主任』に就任。
北斗に関する一切の交渉は、すべて彼女を窓口に行われる事になったのである。

「一寸待って。住宅一棟が丸々倒壊したのよ。本当に、それで終わりなの?」

その担当者も気の毒に。
と、内心呆れつつも、そうツッコむリツコ。

「う〜ん。そう言えば、なんか先住権の問題がどうとかとも言ってたかなあ。
 でも、それだって特に問題だって訳じゃ無いらしくて、なんか知んないけど、相手さん、寧ろ喜んでるみたいだったわよ」

「そ、そう………(なるほど。家屋自体が無くなってしまった以上、レイはあそこを出て行かざるを得ない。
 しかも、どうせ更地にするしかない物件。解体の手間賃が浮いて万々歳といった所かしら)」

失踪と同時に、その重責によって政府に没収されたゲンドウの資産の中に、件の幽霊マンションが含まれていた事を思い出す。
競売の結果、誰が落札したかまでは知らないが、物件の担当者が多少の常識外れに目を瞑れる胆力の持ち主ならば、まあ妥当な所だろう。

「それで、レイの落ち着き先はどうなったの?」

「ああ。それなら、芍薬の104号室よ」

   ピシッ

その時リツコは、何かが崩れる音を確かに聞いた。

「私、ちょっと疲れているのかしら? 
 何故か、レイが此処の宿舎以外の場所に住み着いたかの様に聞こえてしまったわ」

とりあえず、自分の聞き間違いであるという前提の元に、そんなふうに韜晦してみる。
そう。人類補完計画の鍵であるという裏面の事情を抜きにしても、虎の子のチルドレンを、わざわざ監視不能な場所に住まわせる筈が無いのだ。
いくら取り仕切った担当者がミサトだからって!

「いやだって、レイってば、もう完全に難民ルックっていうか、荷物なんて、壊れた眼鏡と茶封筒しか持ってなかったから、
 宿舎に入れてもまっとうな生活なんて出来そうに無かったし。
 そんな訳で、取り敢えず私の所に引き取ろうとしたんだけど、何故か零ちゃんが猛反対して、
 でもってそのすぐ後に、話を聞きつけたらしくてカヲリちゃんが駆けつけてきて、
 『レイの事はお任せ下さい』って言い出して、いきなり賃貸契約を結んじゃったのよ。
 向こうの担当者も〜、最初は胡散臭い目で見てたんだけど、彼女が名刺を差し出したらもうビビリ捲くっちゃってさあ。
 いや、あれはチョっち面白かったわよ、水戸黄門みたいで。
 まあ、彼女は水戸の御老公じゃなくて、最近、巷で噂になってる大会社の会長の孫なんだけど」

かくて、リツコの信じていた常識という名の防波堤は、濁流の如きミサトの弁舌の前に脆くも崩れ去った。

「………それで、レイの様子はどう?」

失意と諦観の襲う中、どうにか質問の声を絞り出す。
レイの確保は既に不可能だとしても、彼女としては、この辺の状況確認だけでもやっておかなければならない。

「もうバッチリよ。
 食事は北斗君の所で出してくれるし、衣服の方も『当座の間に合わせってことね』とか言って、
 カヲリちゃんがクローゼットごと自分の服を持ってきてくれたから。
 まあ、住居の方はチョっち殺風景っていうか、それと寝具しか置いてない状態だけど、
 これは、レイの友人達をまじえて、次の休日にでも見立てる事になってるから問題ないっしょ。
 元々彼女は、読書以外の娯楽には興味が薄い娘だし」

「見立てるって、家具を? 
 おかしいわね、そんな話は回ってきていないわよ。一体、どこから出たのその予算?」

「へへ〜ん。ソッチもノープロブレムよん。
 良く判らないけど、見舞い金って名目で、その辺の経費は全部向う持ちって事になってるから」

此処に至り、事態が完全に自分の手に余るものになっているのだと理解する。
そう。レイのこれまでの生活は、何も予算が無い故のものではない。
彼女の自我の発達を押さえる為の処置なのだ。
だが、北斗が生活指導をする以上、そんな思惑は物理的に排除されるだろう。
言い換えれば、三人目の移行は、これで絶対に避けられなくなったという事である。

改めて、己が犯している罪の重さを再確認し、それに押し潰されそうになる。
せめてもの罪滅ぼしに、これからの短いレイの人生に幸あれと、彼女への給料の給付手続きを始めるリツコだった。




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