【第三の漢の入門】

目覚めると、暗く、息苦しく、妙に暑く、ついでに異臭が鼻を突き刺した。
生命の危機を感じ、取り急ぎ、寝床から出て周囲の状況を確認する。
そこは、まるで廃屋だった。
身体は蒸し暑さで溶けそうだというのに、彼は心が冷えていくのを感じた。

正直、部屋が汚いのには慣れている。
彼の同居人は、先天的に掃除というものが出来ない女性だった。
いや。今思えば、現在、彼自身が感じている様な寂寥感を補う為、無意識の内に物質で回りを満たそうとしていたのかもしれない。
いずれにせよ、ガチャガチャと物で溢れているのが、この部屋の本来の姿だった。
だが、今は何も無い。
正確に言えば、家具等はそのままなのだが、汚れているというよりも埃っぽい。
およそ、生活感というものが感じられない状態だった。
事此処に至り、頭が再起動を果し、彼は、現在置かれた己の立場を思い出した。
もう、二週間以上も女は帰ってこない。
つまり、自分は捨てられたのだと。

寂しくて、死にそうな気がしてくる。
だが、うさぎと違って、実際に死んだりはしない。
腹が減れば、買い置きのカップ麺を食べる。
そして、ボーと呆けたまま女の帰りを待ち、眠くなれば寝床に入る。
それが、これまでの彼の日常だった。

しかし、本日只今をもって、そんな生活とは別れを告げねばならなくなった。
そう。今、彼が感じている暑苦しさと異臭。
それは、冷房と消臭装置が途絶えたが故のものだった。
カレンダーを確認する。
5月31日、各種の振込みが行われる日だった。
疑惑はもう確信へと変わった。料金未払いで、この部屋の電気が止められたのだと。

かくて、彼は生きる上での決断を下さねばならなくなった。
もうすぐやってくる真夏には、平均気温が35度を軽々と超える、此処、第三新東京市にて、冷房無しで暮らせる自信なんて彼には無かった。
否、下手をすると、今日が彼の命日となりかねない状態だった。

もはや、迷っている暇は無い。
彼は、数年ぶりに部屋の外へと出た。
突き刺すような日差しに晒され、一瞬、生命の危機を感じる。
だが、これまで感じた事の無い感情。
生への渇望に突き動かされ、彼は、天に向って雄叫びを上げた。




歩く。歩く。歩く。
これ程の距離を歩いたのは、彼の生涯で初めての事かもしれない。
体中が悲鳴を上げる。
だが、心は歓喜で満たされていた。
これまでの自分は、女に飼われているだけの存在でしかなかった事を実感する。
広い世界は。取り分け、見上げる青空は、彼を魅了してやまなかった。
だから、彼は歩き続けた。もはや、自分は自由なのだと主張する為に。




「わ…判った。お姉さんが悪かったわ。
 だから落ち着つこうよヒカル君。ほら、同じ名前のよしみってゆ〜か、話せば判る?」

生を求める旅路の途中、公園で、眼鏡の女性と小柄な少年が対峙していているのを見掛けた。
女性は、酷く怯えている。
何故? 疑問が彼の中に生まれた。
性別というハンデを考慮しても、良く鍛えられた身体つきをしている彼女が、いまだ未成熟な肉体しか持たない少年を恐れる理由があるとは思えなかった。
興味を覚え、休息を兼ねて暫し見物する事にした。

「………此処は、2015年。担当さんは来ません、絶対に」

「そ…そうだね」

「愛君は、今も先生が指定した背景を書いてます。既に、原稿が落ちた事にも気付かずにね」

「うん。彼ってば、良いモブを書くよね」

「ヴィヴィは泣いています。
 例のホシノ ルリ専用ネコスーツとかを着たままね」

「うん、御蔭でモデルに困らなかったよ」

「カズヒロは、とうとう寝込んでしまいました」

「な…慣れない作業をぶっ続けだったもんね。ベタ塗りって、意外と神経使うし」

「俺達、出来る限りの事はしたと思ってます」

「いや、まったく」

「だったら………………なんで逃げるんだよ、アンタは!」

その後は、もう惨憺たるものだった。
辛うじて最後の理性は残していたらしく、眼鏡の女性を殴りつける様な事こそ無かったが、
彼女を拘束してゆく少年の姿には、一遍の慈悲すら感じられなかった。
特に、逃げられない様、左足首の関節を外した辺りには、偏執的な執念すら感じられた。

眼鏡の女性を背負って帰途につく少年。
その姿は、そこだけ見れば微笑ましくさえあっただろう。
だが、『帰ったら、ちゃんと嵌めてあげますよ』と言った時の、能面の如く人間味に欠けた少年の顔が、彼の心胆を冷えさせて止まなかった。




「頼むシンジ、見逃してくれ!」

「無理言わないでよ。
 立場が逆だったら、トウジだって僕を捕まえようとしたでしょ?」

「ソレはソレ。コレはコレや!」

二時間後。 今度は、何やら追いかけっこをしている二人の少年と擦違った。
アッと言う間に見えなくなってゆくその後ろ姿を見送りながら改めて確信する。
生きる事とは、絶え間ない闘争なのだと。




   カア、カア………

空が夕日に染まる頃。
出立から僅か8時間で、彼の旅路は終焉を迎えた。
常日頃の運動不足に加え、此処暫くの心労が祟ったのだろう。予想以上に早い最後だった。
だが、後悔はしていない。短い間とはいえ、自分は確かに自由だったのだから。

(さよなら)

虚空に映った女の幻想に別れの挨拶を告げた後、彼は静かに目を閉じた。





……
……………

「まったく、貴女という人は!
 ええもう。今日という今日は、ほとほと愛想が尽きました!」

激しい叱責の声に目を覚ます。

………目を覚ます? 
再起動を果たした頭で状況を確認する。
手足はある。周囲の様子も、あの世にしては俗っぽい。
結論。自分は、まだ生きている。
どうやら、行き倒れになっていた所を拾われ、此処で介抱されていたらしい。
そして、声の聞こえた方を見て更に驚いた。
昼間見掛けた少年の隣で、同様に正座し、うなだれている女性。
それは、彼が良く知っている女。葛城ミサトだったのだ。

「この子はウチで引き取ります。良いですね、葛城さん」

「………………ハイ」

とか何とか驚いている間に、自分の養育権の移譲が行われていた。

「おい」

気付けば、背後に男の格好をした赤毛の女性がいた。

「俺は、ペットとかいう惰弱な生き方をするヤツが嫌いだ。
 少なくとも、此処で暮らすならば、そんな真似は絶対に許さん」

彼女の言に心から頷く。
彼自身、そんな生き方には、もう嫌気が差していた。

「そうだな………
 取り敢えず、一人で生きていく為の術でも教えてやるか。喜べ、お前が通算で5人目の俺の弟子だ」

赤毛の女性は、そう言いながら右手を差し出した。

それは最終確認だった。
今ならば、その手を振り払う事も許される。
ちょっと残念な顔をした後、彼女は別の生き方を提示してくるだろう。
この辺は、本能が教えてくれている。

そして、彼は彼女の意図通りの道を選んだ。
恐らくは、過酷な生活を強制される事になる。
だが、何を恐れる事があろう。
彼女に師事するならば、本当の意味での自由への道が開ける。
もしも、志半ばで倒れる運命にあるならば、再び前のめりに倒れれば良い。
只、それだけの事だ。

「クヮ」

ゆっくりと、彼女の手に右羽を重ねる。

彼の名はペンペン。
後世、数多の動物研究家達に、『大空を制した唯一の温泉ペンギン』と呼ばれる事になる漢である。