〜 2199年8月7日。テシニアン島、アクア=マリン(旧姓クリムゾン)の屋敷 〜

「………って訳で、結構元気にやってるから、心配は無用よ、お姉ちゃん

『誰も心配なんてしていません』

「そうなの? でも、私の方は、お姉ちゃんがチョッと心配だな〜
 特に、お姉ちゃんと付き合っているって噂の男性との事とか………」

  ピコン

「あちゃ〜、また怒らせちゃったか。失敗、失敗」

話の途中で唐突にブラックアウトしたTV電話の画面を前に、そう呟くアクア。
だが、反省の言葉を口にしているにも関わらず、その顔には“してやったり”と言わんばかりの満足気な表情が浮かんでいた。

「そうですか? 俺には、ワザと怒らせている様にしか見えませんけど」

そんな己の雇い主の所業に呆れつつ、日向健二は言わず物がな事を口にする。
だが、その内心では、彼女の手練手管に舌を巻いていた。
何せ、エージェント時代に培った彼自身の予備知識からいけば、どんな形にせよ、この異母姉妹がまともに言葉を交わす事自体があり得ない筈なのだ。
それが、最近は何故か、向こうから此方に頻繁に連絡を入れてくる。
それも、今回同様、最後にはシャロンが癇癪を起こして一方的にTV電話を切るという形で対話が終了するというにも関わらずだ。
一体、どういうマジックを使っているのだろう?
まあ、別に知りたいとは思わないが。

「やあねえ。そういう思考停止はイマジネーションの墓場よ、ケンちゃん。
 とゆ〜か、さっきのは仕方ないじゃない。可愛い妹としては、お姉ちゃん意中の相手ってのが、やっぱり気になるもんなのよ」

「はぁ」

「まして、その男に良くない噂があるとすれば、尚更だと思わない?」

そう。クリムゾングループ内にて頭角を現しつつある、新進気鋭の幹部候補生シャロン=ウィードリン。
その抜群の経営成績は、彼女自身の実力では無く、決して表舞台には出てこないブレインの。
時折、彼女が某高級料理店にて食事を共にするという、経歴の掴め無い謎の男の存在があったればこそ。
そんな噂が確かに存在する。

もっとも、肝心のその男に関しては、顔写真すら出回っておらず、彼女の切盛りするクリムゾン某支社の血も涙も無い経営戦略になぞらえ、
『アイツには青い血が流れている』とか『実はロバート会長の隠し子』と言った愚にも付かない噂ばかりが先行していて、その実在すら確認されていない。
それ故、『只のやっかみ。ライバル達が流した根拠の無い風評』という評価が定説なのだが。

「んな訳で、その辺の真偽を確かめる為にも、私としては早急に大好きな妹として、お姉ちゃんに噂の恋人を紹介して欲しいんだけど」

「(ハア〜)絶対無理ですよ、ソレ」

アクアの勝手な言い分に心底呆れつつ、健二はそう断言した。
無論、これは諫言なんて上等なものではない。
此処半年の間に培われた突込み体質故の。あるいは、只の愚痴とも言うべき戯言である。
だがそれは、今回は痛恨のミス。雇い主からすれば、格好の前フリに。

「そうね。差し詰め『複雑な家庭環境ゆえの愛憎が生んだ異母姉妹の確執』って所かしら?
 でもね、話数を稼ぐ為に、無理のあるストーリ展開でワザと相互理解の芽を潰している某昼メロじゃあるまいし、その気になれば、私達程度の行き違いを解消するなん簡単な事よ。
 ちなみに、和解コツは此方から誠意を見せる事。要は相手の信頼を勝ち得るに足る実績を上げればイイの。
 具体的に言えば、これからケンちゃんにやって貰う仕事とかでね

「……………それで、俺に何をさせる気ですか?」

暫し己の失策を悔いた後、健二はフラットな口調でそう尋ねた。
悟りの境地。専門用語で言う所の『開き直った』というヤツである。

「そうねえ。平たく言えば『ほとぼりが冷めるまでの、危険物の御預かり』ってトコかな。
 それじゃ(ピラッ)この間、シュン提督から御預かりしたジェットで一っ飛びして、此処に受け取りに行ってきてね。アクアのオ・ネ・ガ・イ

甘えた声でそう言いながら、意味ありげなウインクなどして見せる。
そんなアクアの白々しい媚態を黙殺しつつ、差出された荷物受領用の書類を黙って受け取る。
無論、敢えて『隠匿したと言うんですよ、アレは』などと突っ込みはしない。
そんな学習能力の無い失態を繰り返すなんて真似は、どこかのマヌケな副官にでも任せて置けば良い事だ。

「ああ、そうそう。帰りは荷物の関係で船旅になるから、骨休めを兼ねてゆっくりしてきてね

お…落ち着け、俺! 平静を保て。こんなミエミエのエサに釣られて喜んでんじゃない。
あの『上手くいった』と言わんばかりな、邪悪な笑みを見ろ。どうせ裏があるに決まってるんだ。



   〜 10日後。午前6時、再びテシニアン島 〜

元明日香インダストリー諜報部の精鋭、日向健二は多才多芸である。
特に乗り物関係に明るく、実質的な技術こそ及ばないものの、取得免許の数ならば、あのハルカ ミナトにも負けないくらい揃っていたりする。
だが今は、そんな己の特技が恨めしくてならなかった。
何故なら、こんな呪われた危険物を積んだ小型ステルス潜水艦の操縦をしなければならなかったから。
翻って考えれば、その受け取り場所だった地への移動手段たるVTOL型ジェット機の操縦が出来てしまったのだから。

「着いた………漸く着いた(泣)」

島に接岸して錨を降ろしながら、万感の思いを込めてそう呟く。
まずは一段落。だが、これは終りではなく始まりに過ぎない。
そう。一刻も早く、アクアに真意を。シャロンのそれも込みで問い質さねばならない。
どういう裏取引があったかは知らないが、こんな危険極まりないものを預かるなんて愚の骨頂。
姉妹揃って狂っているとしか思えない所業だ。

「(バタン)Missマリン! 貴女は一体何を考えてるんですか!?」

砂浜から別荘までの約1kmの距離を一気に走破し、その勢いを維持したまま、無用心にも鍵の掛っていなかった雇い主の私室に怒鳴り込む。
半分は感情の赴くままの行動だが、半分は意図的な打算だ。
そう。口では絶対に勝てない相手。寝込みの隙を付いて、一気呵成にキメなければならない。

「(ふああ〜〜っ)どうしたのケンちゃん、こんな朝早くに?」

だが、そんな健二の苦肉の奇策も虚しく、アクアは暢気に欠伸などしながら普段以上にポケポケとした調子で応じてきた。
それも、ネグリジェの肌蹴た胸元を隠そうとすらせずにだ。
流石、何度となく死に直面している経験は伊達じゃないと言うべきか?
それとも、先天的に、コイツの神経はナイロンザイル製なのか?

「とゆ〜か、その『Missマリン』って呼び方は止めてよ、いい加減。
 私の事は『アクア』もしくは『アクアちゃん』って呼んでって、何度も言ってるじゃない」

幼子にでもする様に『めっ』とか言わんばかりの態度でそう宣う姿に確信する。間違いなく後者だと。
とは言え、奇襲が失敗したくらいで怯んでは………

「なんなら『お嬢様』でも良いわよ

「お願いですから、それだけは勘弁して下さい」

色んな意味で痛恨の一撃を貰い、思わず白旗を揚げ全面降伏を。
矢張り、彼我の戦力差は決定的。どうやっても口では勝ち目が無いらしい。
だが、今回ばかりは引く訳には。石に齧りついてでも、せめてアレの事だけは翻意させなくてはならない。

「(コホン)そんな事より、あの荷物の中身が何なのか御存知ですか?」

「ええ。お姉ちゃんが送ってきた、天地無用で賞味期限が2週間の生物のコンテナ。
 種別は確か『狂科学者ヤマサキ ヨシオ』と『お徳用マシンチャイルド』の詰め合わせだったわよね」

そんな気力を振り絞っての問いに、アクアは悪びれもせず、まるで『それがどうしたの』と言わんばかりに、あっけらかんとそう答えた。
だが、いくら冗談めかそうと、その本質が変わる訳では無い。
萎えそうになる気力を振り絞り、更なる追求を。

「貴女は、アレがどういう存在だか判ってるんですか?」

「まあ、概略くらいはね」

「充分です。それなら判るでしょう? アレが此処に居るとバレたら………」

「やあねえ。バレたら本気と書いてマジと読むくらい困るからこそ此処に送ってきたんじゃない
 でなきゃ、あの意地っ張りなお姉ちゃんが、私に頼ってくる訳が無いわ」

そう言って、さも可笑しそうにコロコロと笑うアクアの姿を呆然と眺めながら確信する。コイツは本物の狂人だと。
鍛え抜かれたエージェントのカンが激しく訴える。『ニゲロ、ニゲロ、ニゲロ、ニゲロ………』と。
かくて、これまで微妙なバランスを保ってきた健二の心の天秤は、プロとしての矜持から己の生存本能へと一気に傾いてゆく。だが、

「それでね。お姉ちゃんが言うには、なんでも『裏切り者の改造人間に秘密基地を壊滅させられた』って言う、
 まるでショッ○ーみたいな事になった所為で利用価値がなくなったから、私の所で後腐れが無い様に始末して欲しいんだって。なんとも世知辛い話よね」

その後に続いた補足説明に納得。一応は根拠があっての企てだったと知り、少しだけ恐怖が緩み天秤の傾きが持ち直す。
そう。本来このテシニアン島は、バリア関係の先端技術を誇るクリムゾン御用達の実験場だった場所。
その関係から、周辺の海域や国々にもクリムゾンの息が掛っており、情報統制の為の包囲網が引かれている。
そして、一時期、チューリップが安置されてきた事によって実験施設は廃棄された為、今ではアクア名義の只の保養地でしかない地。
もはや同業他社の諜報員達の目を引く事も無い。
つまり、完全に無価値となったという訳である。

だが、これには思わぬ副産物が生まれた。
情報の空白地帯であるが故に、此処で起こった大抵の事はバレやしないのだ。
この破格の好条件を、老練なロバート=クリムゾンが放って置く筈が無い。
一族の鼻摘み者、アクア=クリムゾンを拘束して置く為の豪奢な監獄という隠れ蓑の下、
各種裏帳簿等の島の外観を損ねない類のグループの暗部を隠しておく為の金庫番として有効活用したのである。

この心理的間隙を突いた奇策は、半年前までは実に上手く機能した。
アクアの奇行は、社交界を始めとするその筋の関係者には余りにも有名だった為、誰も真実に気付く事が無く、今もって完全にノーマーク。
あのネルガルの道化師ですら、その地での調査権を与えられながら(原作の第12話参照)疑おうとすらしなかった。
その絶対的な有為性から、かのロバート会長ですら『アレが初めて役に立った』と腹心達に洩らしたという逸話まである程だ。
従って、知られては拙い事を闇から闇へと葬るには、もってこいの場所ではあるのだが………

「でも、どうして此処なんです?
 相手はクリムゾングループの幹部候補生ですよ。わざわざ貴女にカリを作らなくても、それくらい他にいくらでもツテがあるでしょうに」

「ああ、それがね。実は、お姉ちゃんたら、ヤマサキさんの事はお爺様にもナイショでやってたらしいんで、そういうのには頼れないのよ。
 それに、彼の行なった研究のデータとかも渡したく無いから、此処で預かってて欲しいんだって」

「…………それがどういう類のものだか、判っていて言ってるんでしょうね?」

「ええ。ちなみに主な内容は、ナノマシンの投与による精神波増幅に関する物みたいよ。
(クスッ)もっとも、私に言わせれば、そんなの無駄な努力以外の何物でもないんだけどね」

薄笑いすら浮かべてそう宣うアクアの姿に、健二は再確認した。この姉妹は狂っていると。

さて。此処で、何故クリムゾンが此処に手を出せないのかを語らせて頂こう。
事の発端は、半年前の事。突如として行なわれたアクアの独立宣言だった。
海のリハクどころか諸葛孔明の目をもってしても見抜けなかったであろう、このあり得ない事態によって、クリムゾンは彼女にアキレス腱を握られる事になったのだ。
それでも、周囲の認識は『ああ、また何かの漫画の影響でも受けたのか』ぐらいのもので、最初は全く危険視はされなかった。
問題が表面化したのは、そんな彼女にお灸を据えるべく、事情を知るグループ幹部の一人が親族として呼び出した席上での事。
そこで何が語られたかは割愛させて頂くが、その時からアクアは、只の狂人から高い知性を有した狡猾な狂人として認識される様になり、その身柄を押さえるべく追っ手が掛った。
だが、何故かスルスルと逃げられ、まんまとテシニアン島への帰還を許してしまい、そこにある幾つかの切り札をバックに、おいそれとは手の出せない状態となってしまったのである。

もっともこの時点では、過去の事例から、いまだアクアを甘く見ている者が少なくなかった。
実際、先の玉 百華による襲撃事件は、そんな幹部の一人が勝手にやった事だった。
その結果は御存知の通り。しかも、アクアはその直後、極一部の者しか知らない筈のロバート会長への直通回線にて『次は無いわよ』と、ぬけぬけと脅しを掛けているのだ。
かくて、アクア自身も外に出られない代わりに、外部からも手の出せない現在の体制が完成したという訳である。

また、これは蛇足だが、先に述べた二人の幹部を粛清しただけで、ロバート会長自身はこの件を全く問題視していない。
何故なら、アクアは情報を握っているとアピールしただけで、その隠匿まではしていないからである。
つまり、『裏帳簿の金庫番に話が通じるだけの知性が生まれた。結構な事だ』というのが、彼の認識なのだ。
イザという時は、単に島ごと消滅させれば済む事でしかない。
それが必要となった時、躊躇う理由など何一つ無いのだから。

「もっとも、お姉ちゃん的には満足のいく結果だったらしいわ。
 何せ、それとなくだけど『出来れば、どんな形でも良いから生かしておいて欲しい』みたいな事を言ったくらいだもの。
 そんな訳で、可愛い妹としては、その期待に全力で応えたいんだけど………」

「正気ですが!? 相手は非道な人体実験を行なった、先の大戦におけるA級戦犯ですよ!」

アクアの口上を遮り、健二は吐き捨てる様にそう言い放った。
だが、そんな彼を冷めた目で。まるで出来の悪い生徒を諭す女教師の様な態度で、

「それって一方的な話だと思わない? 彼は上から命じられた役目を果しただけなのに。
 とゆ〜か、人体実験なんて、どこの国でも多かれ少なかれやっていることでしょう?
 たとえばそう、今一番の有名どころ。ネルガルが開発したマシンチャイルド。
 あの子達が産まれるまでに、一体何人の犠牲者が出たんだんか。正に人情紙風船の如しよね〜♪」

「ソレとコレとは話が別です!
 まさかとは思いますが、かのヤマサキ博士もまた戦争の被害者だったとか言い出す気じゃないでしょうね!?」

興奮を押さえきれず、健二は激昂しつつ反論を重ねる。
エージェントとしては失格な態度だが、相手は規格外のモンスター。定石などに拘ってはいられない。
此処はなりふり構わず、どんな手を使ってでも、雇い主の抱いている馬鹿な考えを捨てさせなくてはならない局面なのだ。

実を言えば、現役時代に『科学者という人種には倫理観など存在しない』と、確信するに足る様な事例を。
某秘密実験施設にて、凄惨な人体実験の現場を目撃した事さえある。
そういう意味では、アクアの提示した理屈には共感すら覚える程だ。
だが、後世の歴史家として語るのならばまだしも、目の前の上司は現在進行形で進む歴史の渦中にある人間。
まして、当代最悪の犯罪者を匿おうというのだから、明らかに大問題である。

そう。善悪の規範は総て、その時代の世界情勢によって決定される。
今でこそ、チョビ髭の伍長と呼ばれ独裁者の末路を語る上での代名詞ともなっているアドルフ=ヒトラーも、
ハンガリー戦線での主導権を取り返し、油田の確保とブダペスト奪還を企図したPlattenseeoffensive(春の目覚め作戦)が、
圧倒的な連合軍の物量を前に失敗しドイツ軍の敗北が決定的となるまでは、世界で最も恐れられた男。
世界でも五本の指に入る高価な絵画として知られる『ひまわり』を描いたゴッホも、その生涯においては全くの無名のまま終った画家くずれ。
そして、基本的には正義を尊ぶ人格者であり、誰よりも真剣に祖国の未来を案じていた憂国の政治家、元木連首相の草壁春樹も、今では獄中の人。
それが、この世界の掟。非情なる現実なのだ。

だが、健二を取り巻く環境は更に苛酷だった。

「う〜ん。チョッと聞き方を替えてみましょうか。
 ケンちゃん。貴方、ヤマサキさんの辞書に『反省』とか『後悔』って言葉が載ってると思う?」

「………はい?」

「判らない? なら、もっとハッキリ言っちゃおうかしら。
 私の見立てでは、ヤマサキさんは純粋に私利私欲だけでマッドをやってる人。『人体実験をするな』って厳命しても多分無駄だわ。
 そんな訳だから、(クスッ)自分の貞操は自分で守ってね、ケンちゃん

前後の展開を無視して、アクアは悪戯っぽく笑いながら既にヤマサキ博士を匿う事を前提に語り出した。
そう、彼女に常識なんて通じない。それもまた動かし難い現実だった。



   〜 2時間後 停泊中の小型ステルス潜水艦内 〜

「やあ、もうこんな時間かい。新しい朝が来た、希望の朝だね。
 おまけに、漸く目的地に到着したみたいだし。早起きは三文の得って感じだよ。
 それじゃあ、早速この部屋の鍵を開けてくれないかい?
 いや、チョッとした手違いから、もう二〜三日は持つ筈だった食料の備蓄が底を突いていたりするんだな。
 僕とした事が、育ち盛りな二人の子供の健啖を甘く見過ぎていた様だね。失敗、失敗。
 それにほら、僕ってば確かにインドア派だけどさあ、こう暇だと偶には外の空気を吸いたく………」

結局、アクアのサイコな説得に負け、反抗の意思を刈り取られた健二は、彼女に求めるまま唯々諾々と船内へ。
だが、外から厳重にロックしてあるコンテナから聞えてきた、無駄にフレンドリーな感じの催促に、中のアレが決して触れてはいけない存在であった事を思い出し身震いを。

そう。この10日、アレのとんでもない繰言を半強制的に聞かされ続けてきただけに、自分には良く判る。
伝え聞いたその悪名の数々は、誇大どころか寧ろ過小評価されたものだったのだと。
それ故、理解出来ないし、したくもない。どうやったら、アレを自分の手駒として使おう等という妄想を抱けるのかが。
どういう裏取引があったかは知らないが、あんな危険極まりない人物を預かるなんて愚の骨頂だ。しかも、

「んじゃ、チョッと行ってくるね」

「本当に一人で行くつもりですか?」

「や〜ねえ。『ヤマサキ博士と折り合っていく自信が無い』って、泣き言を言い出したのはケンちゃんでしょ?
 だから、可愛い部下の為に『私が一肌脱ぎましょう』って事になったんじゃない。
 大丈夫。貴方が余計な心配をしなくて済む程度には彼をキチンと教育してくるから任せておいて

そう言ってコンテナの中に一人で入って行く、アクア。
健二は付いて行かない。否、付いていく事が出来ない。
エージェントとしての理性が『足手纏いよ』との彼女の評価を冷静に認めていたし、本能の部分もまた、この中に入る事を拒否していたが故に。

だが、そうした打算的な理屈では、自分の感情までは納得させられない。
再び閉ざされたコンテナのドアの前にて佇みながら、結局、アクアの愚行を何一つ止められなかった、己の弱さを呪う健二だった。

その頃、コンテナ内では、

「(パチ、パチ、パチ)素晴らしい。
 もう土壇場まで来ている事は判っているでしょうに、それでもなお己の信念のままに生きんとする、その態度。
 正直、脱帽よ。叶う事なら、私もかくありたいものだわ」

拍手と共に、自分の要求を総て却下したヤマサキに心からの賞賛を送る、アクア。
そう。開始から3分と経たずに、説得工作は失敗に終っていた。
だが、それは予定通りの展開。終わりでは無く始まりに過ぎなかった。

取り敢えず、一応人事は尽くしたっぽいから、これで天命を依頼出来るわね
そんな独創的な結論に達した彼女は、思念波を遠い異郷の地へ。
とある計画を実行する下準備として有為の人材の確保に奔走して貰っている、己が敬愛する大神官の心へとチャンネルを繋いだ。

(それでは、お願いしてあった通りバックアップをお願いします)

(本当にやるのかね、同志アクアよ)

(勿論です。確かに、人の身には許されざる技。タオの御教義からは外れる行為かも知れません。
 ですが、御承知の通り、あの計画には突出した異才が。フレサンジュ博士級の実力を持った医師が必要不可欠。
 そういった事情を考えれば、彼は捨てるには惜しい人材です)

(判った。但し、やるからには必要最小限に留めるぞ。でないと、タオに要らざる御迷惑をお掛けする結果となりかねん)

(はい。それは私としても不本意極まり無い事。
 こうして大神官様に御助力をお願いしていますのも、そうしたアクシデントが起こらぬ様、万全を期する為なのです)

(うむ。ならば良かろう)

(有難う御座います。それでは、例のXデーまでは、御互いタオにはナイショという事で)

「さて。それじゃあ始めましょうか」

「えっ? ………なっ! 一体何をする気だ」

「大丈夫、人格を書き換えるなんてヤボな真似はしないから、安心して頂戴。
 とゆ〜か、それをやったら因果律がおもいっきり狂っちゃうしね」

「な…ナニヲイッテイ………アア、アタマガイタイ」

「それじゃ、自分を再発見する為の旅に。歪んでしまう前のピュアな心を探しに出発進行!
 あっ、そ〜れ! 運転手は君だ、車掌は私♪」

「ヤメロ…ヤメロテクレ▲×◎◆▽*●□」




で、それからどうした?

   チャ〜〜チャチャチャ、チャッチャチャ

「ヤーマサキ一番! ヤーマサキ一番! ヤーマサキ一番!ヤーマサキ一番! 
 ヤーマサキ一番!(チェスト〜)ヤーマサキ一番!(ドギャ〜) ヤーマサキ一番!(チャハハ〜)ヤーマサキ一番! (オッパイよー)」

何故こんな事になったんだろう?
目前にて繰り広げられるサバトの如き饗宴を前に、健二は溜息と共に胸中でそう問うてみた。
答えは簡単。あの時、自分がアクアを止められなかったから。
我ながら情けない回答だった。特に、全くの無表情のままタンバリンを鳴らしている幼い少年少女達には、申し訳ない気持で一杯だった。

「た〜とえ嵐が、吹〜き荒れるとも、め〜ざせヤマサキ、己のた〜め〜に〜(ピアノ!)」

    シ〜〜〜ン

「って、どうしたのよ、ケンちゃん。此処は貴方の独奏パートでしょ?」

ヤマサキと共に気持良さそうに熱唱していたアクアが、怪訝そうな顔でそう尋ねる。
だが、それが呼び水となり、堪っていたものが一気に爆発した。

「オンドゥルコナランディイディスカ!?」

「ほえ?」

突然の意味不明な奇声に、面食らうアクア。
それをフォローするかの様に、ヤマサキは医者っぽく淡々と症状の分析を。

「おや、これりゃ拙いな。自律神経の失調から構音障害に陥ってるみたいだよ」

「まあ。つまりオンドゥル語。剣崎○真さんのものまねなのね」

「うん、そうとも言うね。本人は多分、あれでも『本当にこんなんでイイんですか?』って、言っているつもり………」

「ウギャ〜〜ッ!!(バ〜ンポロパラボラ!)」

ついには錯乱しだした健二が、叫び声を上げつつピアノの鍵盤を乱打する。
そんな溢れる情熱のままに紡がれる激しい演奏を、生暖かい目で見守るアクアとヤマサキだった。

その後ろで、静かに佇むマシンチャイルド達。
いまだ感情の発露を知らぬ人形の様な顔をした彼等だったが、その目には何故か憐憫の情が浮かんでいた。
だが二人は、敢えて大人達の会話に口を挟んだりはしなかった。賢明な判断である。

「(コホン)ラビス=ラズリちゃんとマキビ=ハル君の二人を預かる事に関しては全面的に同意します。
 この子達には安全を保護する人間が必須ですし、その立場上、表の世界に出す為には様々な問題をクリアせねばなりませんからね。
 また、その準備期間中に、情操教育を施したいというMissアクアのお考えにも賛同します。
 勿論、出来れば此処以外が望ましいのですが、無い物ねだりをしても仕方がないですしね。
 (コホン)ヤマサキ博士を御預かりする事も、色々思う所はありますが、どうにか折り合いを付けましょう。
 実際、博士が居なければ、二人の体調管理が出来ないのは厳然たる事実ですから。
 それさえ無ければ………(コホン)いえ、この話も横に置きまして。
 この際ですからストレートにお聞きします。何が哀しくて、某新興宗教の研修セミナーみたいな事をやらねばならんのですか?」

十数分後。どうにか落ち着きを取り戻した健二が、忙しく咳払いなど交えつつ、そう尋ねた。
その不自然な強調と前フリが過多な質問に、アクアはさも意外そうな声音で、

「何故って、ケンちゃんがピアノを弾けるからに決まってるじゃない。ソロ演奏はね、ある意味ボーカル以上に重要な曲の華なのよ」

「うんうん。せっかくだから、あのパートは生演奏に拘りたい所だよね」

此処に来る前と同じな。相変わらずの軽いノリでコクコクと頷きながら、アクアの弁を支持するヤマサキ。
だが、その身が纏う雰囲気は、彼を良く知る者にとっては戸惑いすら覚えるものに。
嘗てのPrince of darknessが出会ったとしたら、そのあやふやな視力と聴力故に、良く似た別人だと誤認しかねないくらい清々しいものに変化していた。

そう。今の彼は、これまでの悪行の所為で澱の様に貯まっていた悪意や憎悪といった憑き物が総て洗い流された、まっさらな漂白状態。
頑張れば美少○戦士セーラー○ーンにゲスト出演できそうなくらい、ピュアな心の持ち主だった。
もっとも、いずれは再び汚れが蓄積してゆき、元のヤマサキ ヨシオに戻るのだろうが。
これは単に時間の問題でしかない。何故なら、彼が胸に抱いた理想は、その出発点からして歪んでいるのだから。

ちなみに、アクアは何度でも洗って使う気でいる。 罪悪感など微塵も無い。それ所か、それが彼を己の手駒にした自分の責務とさえ思っているのだ。
それが正しいか否か? 双方共に常識など通じない相手だけに悩む所である。
或いは後世に。二人の残したトータルな業績を見てから判断すべき事なのかもしれない。
まあ、いずれにしても人間としては終っていると言わざるを得ないのだが。

「拘るべき所が違うでしょう!
 見損ないましたよMissマリン! どの様に言い包められたかは知りませんが、情操教育の一環と称して、こんな洗脳ソングで幼気な少年少女を懐柔しようだなんて!」

無論、そんな裏事情など知らない健二にしてみれば、これはヤマサキの陰謀としか思えない展開。
己の先入観に基づく状況証拠を掴んだ事もあって、どこかの迷刑事の如く必死の熱弁を。
だが、これは同作品以上に相手が悪かった。

「(クスクス)あらまあ、酷い誤解ね」

「何が誤解ですか! あの歌詞の内容は如何考えても………」

「だから、落ち着いて。あのカラオケ画面を良く見て頂戴。
 この歌はね、伝説の名番組『ポケットモ○スター』がポ○モンショックを起こして中断した穴を埋めたという偉大な実績を誇る、あの『学級王ヤマ○キ』のOPよ」

暖簾に腕押しなアクアに、『もう、ケンちゃんたら早とちりばっかり』と言わんばかりな調子で諭され、煙に撒かれる結果に。
そう。感情論に走った時点で、敗北は必然。同じ土俵であれば、より非常識な方が勝つに決まっているのだ。

「判りました。一万歩譲って、そういう事にしておきましょう。ですが、」

と、此処で、アクアからヤマサキへと向きを変え、

「これだけは、そうした戯言を抜きにして答えて貰います。
 ヤマサキ博士、貴方の目的は何ですか? 貴方は此処で何をするつもりなんですか?」

『虚偽の返答は許さない』という必殺の気合を込め、健二は敢えて最大の問題点について尋ねた。
これは、同じ倫理観ゼロの化け物ならば、基本的に戯言しか口にしないアクアよりも、意外と嘘だけは吐かないヤマサキの方が組し易しと踏んでの事である。
もっとも、真実であるが故に、もうどうしようもない答えが返ってくる可能性が高いのだが、その時はその時と腹を括る。
他に、この二人の真意を推し量る術などない。

「このヤマサキ ヨシオには夢がある」

その気合が通じたのか、ヤマサキは普段のおちゃらけた態度を捨てて真面目な顔つきに。
そして、俗に『強力若本』と呼ばれるコミカルな部分を廃した、渋さと鋭さを併せ持つ声質と独特な抑揚で知られる若本○夫ボイスで。
一瞬、『このマッドサイエンティストとて人の子、話せば判る』と、健二が顔を輝かしたくらい、常ならぬシリアスな態度で滔々と己のビジョンを語りだした。

「人間を人間以上の存在に。この手で、進化した新たな人類を生み出す事。
 その夢の為ならば、これまで僕は如何なる努力も惜しまなかった。
 ナノマシン然り。マシンチャイルド然り。ブーステッドマン然り。総ては、その為のステップに過ぎない」

だが、語られたその内容は、彼の許容範囲を明らかに超えていた。
反省の欠片も無い。それ所か、これまでの悪行を誇るかの様な態度に、呆然とする健二。
だが、そんな彼を尻目に、

「そして、此処へ来て、僕の研究は新たな局面を迎えたのだよ。
 使徒の魂を持った超人類。才能と可能性の塊とも言うべき使徒娘の存在を知った事でね。
 だが、正面からお願いしてモルモットになって頂くという、これまでの様な安易な方策は取れない。
 何故なら、今の僕には彼女達を捕獲する為の術が無く、仮に在ったとしても、その実行を試みる事が許されない団体に属しているからだ。
 ならば諦めるか? 無論、その答えは否だ。そんな事が出来る筈が無い。
 ならばどうするか? 答えは簡単だ。前提条件に抵触しない様、アプローチの仕方を変えれば良い」

「………はい?」

「やれやれ。どうやら『出来もしない事を』と思われている様だな。
 いや、無理もない。確かに、これまでの僕は、どこにでも居る平凡な。
 モルモットの供給が滞る事など想像すらした事の無い恵まれた環境を、当然のものとして享受してきた科学者だからね。
 だが、もうあの頃の様な甘っちょろい考えをしていられる立場じゃない。
 プライドなど捨てよう。現体制に合わせた最低限のTPOも守ろう。目的の為には、敢えて悪辣な詐術さえも使おう。
 そう。この際、過程は問題ではない。要は必要なデータさえ取れればそれで良いのだよ」

「え…え〜と」

惰性で打たれる相槌を、勝手に意訳。
己の意図を汲んでくれる真摯な聴衆を得た事で、ヤマサキの独白は更に熱を帯びてゆき、

「おお。進化の先駆者の恍惚と不安、我と共にあり。
 この手で人類を新たなステージへと押し上げる瞬間を夢想する時、僕は眩暈にも似た感情を禁じえない………」

   ドサッ

最後に、糸が切れた操り人形の如く、唐突にブっ倒れた。

「って、どうしたのヤマサキさん!? しっかりして!」

悲鳴と共に駆け寄るアクア。
そのまま抱き起こしつつ必死に声を掛けるが、ヤマサキは息も絶え絶えに力無く、

「いや。慣れない事をしたもんで、チョッと神経にダメージがね………
 (フッ)すまないアクア君。やっぱり、一緒に海には行けそうも無い。(ガクッ)」

「ヤマサキさ〜ん!」

目の前で展開される、そんな三文芝居を前に、健二は改めて確信した。コイツ等には、何を言っても無駄なんだと。
そして、その数分後。そんな諦観に追い討ちを掛けるが如く、

「ヤーマサキ一番!(二十三世紀は僕だ!)ヤーマサキ一番!(誰が二番ですか?) ヤーマサキ一番!(僕を見ろ!)
 ヤーマサキ一番!(ワオ〜!)ヤーマサキ一番!(ヤッター!)ヤーマサキ・イ・チ・バ・ン!(パイなら〜)」 

うん。さよなら、俺の平穏な生活。(泣)
何事も無かったかの様に再開された饗宴を眺めているうちに、ホロリと零れた一粒の涙と共に胸中でそう呟く。
そう。自分が足抜け出来ない深みに嵌ってしまいる事を、今頃になって漸く自覚した日向健二だった。




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