再び・時の流れに
 〜〜〜私が私であるために〜〜〜

 外伝 北斗の拳



 2178年 木連市民艦 れいげつ。
 広大なカーゴスペース内に建造された『市街』の病院で、男はじっと時を待っていた。
 そこにひっそりと、別の男が現れる。男はそれに気づいて顔を上げ、思わず驚きの表情を浮かべた。
 「春樹様……なぜこんなところに」
 「よいではないか。大事な部下が初めての子を得ようとしている時に立ち会ったとしても。それに本来ならおまえは」
 「そこまで」
 男……北辰は草壁春樹の言葉を止めた。
 「それは秘事。そして今更のこと。確かに我が影護は草壁大樹の血を引く一族。されどそれは闇の中のこと。お忘れ無く」
 「有無……私はそれこそ今更だと思うのだがな」
 かつて、このれいげつが今の地に転移した頃の話。当時の代表、紅六郎をその際に失った独立派はその次の位置にいた草壁を中心としてその苦境を乗り越えた。ただ、六郎の親友で、社長を務めていたとはいえ、大樹には六郎の跡を継ぐだけの器量はさすがになかった。これは大樹の能力が低いというより、六郎がすごすぎたというべきである。大樹はリーダーであるより議長――調整役に向いた性格の持ち主であった。彼は生き延びた人の中から優秀な人を見つけ出して登用し、現在の木連の核を作った。それが現在四方天や十二名家といわれる木連の指導階層である。
 影護家の祖は、その草壁大樹が妻にと望んだ望月虎子である。だが同時に虎子は情に溺れて独立派を地球に売った裏切り者とされている。一度は大樹の妻になることを承知した虎子であったが、大樹の愛情が深いのが逆に徒となり、約一年後、行き場のないはずの市民艦内で消息を絶った。落ち込んだものの立場のあった大樹は別の女性を妻に娶り、その孫が春樹である。
 その虎子は、大樹の子を身ごもっていたらしい。そしてそれが失踪の原因でもあったようだった。虎子の子は、武術に対してことのほか才能があったらしい。
 その子は成人して後、『母の贖罪』を理由に、その武を以て草壁家に尽くしたという。
 そんな彼に春樹の父、草壁優樹が送った姓が、『影護』であった。
 そして今、影護北辰は当代の草壁家当主、草壁春樹に仕えている。当時はまだ春樹もあくまで木連の一有力者であり、北辰もその影であった。
 
 おぎゃあ、おぎゃあ
 
 そこにいつの世も変わらぬ、赤子の泣き声が響く。
 
 「でかした、さな子!」
 滅多に声を荒げない北辰が、思わず叫ぶ。春樹もそんな北辰の肩を軽く叩き、
 「いい声だな。元気そうだ」
 と、腹心を祝う。
 だが、そのかわいい赤子の姿を見た時、二人の心に一抹の影が宿った。
 「なんと……」
 「これが将来、この子を不幸にしないとよいのだが……」
 生まれたのは女の子。だが、そのわずかな髪があまりにも見事に赤かった。



 先に名の上がった木連でも最大の裏切り者とされる女性、望月虎子。
 彼女は燃えるような赤毛をその特徴としていた。
 元々日系人の比率が高かった独立派において、髪の色はほぼ99%が漆黒で、天然の赤毛だったのは彼女一人であった。それが余計に悪かったのか、木連で『赤毛野郎』といえばそれは『裏切者』を意味する。
 二人はこの子が、その髪の色故にいじめられたりするのではないか、と不安になったのである。
 だが、そんなものではすまなかった。







 2182年 木連

 影護家の長女は、枝織と名付けられた。
 特に普通のこと変わった様子もなく、健康にすくすくと育っていった。
 いや、一つだけ北辰が惜しんだことがある。
 「こうと知っていれば、男の子に生まれるべきだったかもな、我が娘は」
 「あなた、仕方ないじゃないですか。それに女でもその道には行けるのでしょう?」
 「有無……だが、男と女の肉体の差は、時にはあまりにも越えがたい壁となる。そこがな」
 そう、彼女には4歳の時点で……いや、それ以前にもはっきりと判る、天性の『武』の才があったのだった。
 北辰の目から見ても、もし男に生まれていれば伝説の開祖の域まで上れるのではないか、と思うほどの資質であった。
 だが、この年北辰は思い知ることになる。娘の持っていたあまりにも深い『闇』を。



 「なんと……」
 「そんな、あの子が……」
 影護夫妻は、春樹を目の前にして蒼白になっていた。
 「だが、事実です。あの子は、6歳から12歳までの少年8人を、素手で殺害しました」
 娘は天才であった。北辰の想像を遙かに超えるほどに。
 だが、そこに『良心』という名のくびきが存在していなかった。
 
 「警察は押さえました。報道関係にも、まだ知られてはいません」
 「でもなぜ……我が家ではあんなに素直ないい子なのに」
 「まだはっきりとはしていませんが、あの子は敵と味方の区別をかなり明確に付けるみたいです。敵、味方、無関係。そして敵は同族として見ない……殺害をはじめとするタブーが存在していないみたいです。蚊を潰すのと自分を苛める馬鹿を殺すのが、まったく同じ事に感じるようです」
 「我は『味方』だったというわけか」
 「はい」
 
 この事件は犯人の年齢もあって公式に不問となった。いわゆる通り魔事件として扱われ、そのまま迷宮入りしたのである。被害者の親たちも、まさか自分たちの息子達が苛めていた4歳の童女が犯人とはかけらも想像しなかったため、事件の大きさからすれば意外にも、あっさりと埋没していった。
 だが北辰にしてみれば、事はそんな段階では済まなかった。
 北辰は娘と、少し突っ込んだ会話をしてみた。
 もちろん相手は4歳、論理的な話が出来る歳ではない。
 だがそれでも理解できてしまった。
 この娘には良心も、同族愛も、禁忌も存在しない。
 己の欲するままに、他者の命を奪うことを何とも思わない。
 他人の痛みが判らないわけではない。だが、それを慮るということがない。
 それは北辰からすれば、業を感じさせずにはいられないものであった。
 
 「皮肉よの、さな子……」
 「あなた……」
 北辰は娘を誰よりも理解した。娘の気性は、闇に生きるものとして究極の理想であった。
 天性の殺害者。このまま育てば、娘はいかなる人物をも殺害してのける稀代の暗殺者となる資質がある。
 だが同時に、真っ当な人間としての幸せには一切無縁となる。得られないのではない。価値を見いだせないのである。
 同時に人間社会にも適応できない。このままだと娘は、誰かに使われる殺人人形になってしまう。
 そして北辰は決断した。
 「さな子……我は、あの娘の『究敵』となる。あの子の憎悪を、闇を、この一身に集める。さすればあの子は、他の人間を『味方』と理解し、ごく真っ当に生きることが可能となろう。もちろん、我が影護の定めからは逃れられぬだろう。いずれは主家に仕え、影働きをすることとなる。だがそのときでも『人形』となる定めからは逃れられよう」
 「判りました。そのときが来たならば、私の命、存分にお使いください」
 さな子には判っていた。枝織にとって『究極の味方』が母であるさな子である。北辰が『究敵』となるためには、おそらく自らの手で愛妻を殺害することになる。
 北辰は、ただ一言、言った。
 「すまぬ」
 「あの娘のためですもの」
 
 
 
 
 
 
 
 一つだけ見込みがあったのは、彼女が殺人を犯したのが、数少ない『味方』であった少女……紫苑零夜を守るためだったということである。というかそもそも、彼女は自分が『苛められている』という意識そのものがあまりなかった。いじめっ子達が直接手を出すのは控えていたというのもある。普段のいじめは言葉やものを隠すなどの間接的なものが主体であった。直に手を出していたら、もっと早い段階で教訓を身に刻んでいたであろう。その代わり、命を落とすこともなかったはずである。
 ちなみに零夜は、事件のあまりの凄惨さ……小さな女の子が、笑いながら自分より遙かに大きな相手に向かっていき、あっという間に昏倒させ、最後は相手の持っていた刃物で容赦なく止めを刺していく……そして相手の喉笛や頸動脈を掻き切ったため、返り血にまみれた姿で「大丈夫? 零夜ちゃん」と言う枝織の姿にそのままこてんと気絶し、事件のことをすっかり忘れてしまっていた。








 北辰はその日以来変わった。
 元々冷酷ではあったが、さらに残忍になった。
 元々殺戮者ではあったが、さらに容赦ない人殺しになった。
 家庭ではよき父であったが、仕事での荒み方をそのまま家庭に持ち込むようになった。
 母を虐待し、女は役に立たん、赤毛が鬱陶しい、我に逆らうな、など、理不尽な理由で母も、枝織もいじめ抜いた。
 時には枝織の目の前で母を犯すことすらあった。
 そして数年にわたって蓄積された『憎悪』が、ついに爆発した。
 
 
 
 それは、いかなる理由だったのか。
 枝織は、父が好きであった。母が好きであった。
 実のところ、枝織は感受性が鋭すぎた、といってもいい。
 生まれ持った赤毛故、世の大半の人は自分を疎んじていることを感じていた。
 はっきりと敵対心を向けてくる人もいた。
 幼い枝織には、その概念は理解できない。だが、世の中には、自分が『いてもいいよ』と認めてくれる人と、『近寄るな』と遠ざける人、『いなくなれ』と思っている人の3つがいることは理解していた。
 そのうちの『父』が『母』を苛めている。発達してきた枝織の『理性』は、それがよくないこと、父が母に、『いなくなれ』という意識を向けている、と思っている。
 なのに枝織の『感性』は、まだ父も母も『いてもいいよ』と言ってくれるのを感じている。
 枝織が初めて抱えた、深刻な矛盾であった。
 このままだと母は父に壊される。それはいやだ。今の父は、母をいぢめる、おかす、きずつける。
 でもじぶんにはわかる。父さまは、じぶんがいてもいいとおもってる。
 いなくなれ、と、おもってるなら、こわしちゃえばいい。
 でも、ちがう。
 だから、しおりには、とうさま、は、こわせない。
 
 
 
 そこに、『触媒』が投げ込まれた。
 
 
 
 
 
 
 
 北辰にしても、意識した言葉ではなかっただろう。北辰はプロである。妻や娘を苛めるのは演技であったが、そこに容赦はない。死ぬ一歩寸前まで容赦なく追い詰めた。
 そんなときにののしり言葉として吐いた、一つの言葉。
 「この役立たず! おまえもだ! どうせ産むのならこんな赤毛娘ではなく、我が家の跡取りとなれる立派な男子を産まんか!」
 もちろん、そんな心は北辰にはない。跡を取るのに必要なのは才能であり、性別ではないと、北辰は骨の髄から思っている。徹底した実利主義者であった。それ故、自分の意志と相反した無頼を演じる際に、普段から自分が唾棄している思想が言葉となって出たのであろう。
 だがそれが、その言葉が、思わぬところに結びついた。







 そっか、あたしにはむり。でも。
 えーと、むかし、かあさまが、いってた。
 こどもの、なまえはね。おとこのこだったら、ほくと。おんなのこなら、しおりにしようと、きめていたのよ。
 うん。しおりには、だめ。とうさま、こわせない。
 だから、おねがい。
 「ほくと」
 かあさまを、たすけてあげて。
 
 
 
 
 
 
 
 そして『枝織』の心は、深き淵へと沈んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 とてつもない殺気を感じ、反射的に北辰は容赦なくそれをたたき落とした。
 落としてからようやく気がついた。
 娘の様相が一変している。それまではいくら虐待しても、どこか残っていた甘さのようなものがそげ落ちている。
 (認められたか)
 北辰は内心、大きな歓喜を感じていた。
 心に大きな欠陥を抱えていた愛娘。しかし今の彼女には、『人としての心』が感じられた。北辰は確信した。今、娘の持つ『敵』の認識は、すべて自分に収束したと。
 自分が娘の『究敵』になったと。妻を、さな子を、殺す前に間に合ったと。
 「枝織、我に逆らう気か」
 冷酷に言ったつもりだったが、わずかな笑いが混じった。
 だがそれがかえってよかったかも知れない。現にさな子は、理性では判っていたが、思わず夫が本心から邪悪に染まったかと思えたほどに、ゆがんだ笑みを浮かべていたのだから。
 そして、枝織は。
 「枝織と呼ぶな」
 妙にぶっきらぼうな、今までとはがらりと変わった声音で、北辰の前に立った。

 「我は北斗! 母様を護る!」

 子供とは思えない力で殴られ、北辰は一瞬たたらを踏んだ。
 娘に何が起こったのか、北辰には理解できなかったが、鍛え上げた体は反射的に一撃で枝織の……北斗の戦闘力を断ち切っていた。
 娘が完全に気絶していることを確かめた北辰は、今までの憎悪に満ちた形相を一変させて、妻をいたわるように支えた。
 「さな子、いったいこれは……」
 「判りませんわ、私にも。でも、きちんと医者に診せないといけませんわね」
 「ああ。それと」
 「まだなにか?」
 「時が来たかも知れぬ。枝織を里に預けねばならん」
 「……初めてですものね。この子があなたに手を上げたのは」
 「うむ。そうなればもはや我の元にいるわけにはゆかぬであろう。師に預け、我を倒せるだけの『武』を身につけさせねばなるまい」
 「……ですわね。寂しくなりますわ」
 「ああ。後、申し訳ないが、おまえに対する苛めも、まだやめるわけにはゆかぬ。この子が見ていなくとも、話というものは必ず伝わる。今少し、見極めねばな」

 「ええ。上手の手から水が漏れるようなことになれば、今までの苦労がすべて水の泡。それだけは避けないといけませんものね」
 それが自らを殺し、愛する夫の心すら殺すことになるのを判った上で話すさな子。
 見方によっては彼女も壊れていたと言えようし、また別の見方をすれば北辰にとって究極の嫁でもあったということだろう。
 そしてその日のうち、目も覚まさぬうちに、枝織は……いや、北斗は、市民艦の奥深く、危険な警備ロボットなどがいるために常人では踏み込めない地域へと運び込まれた。
 元の場所に戻るためにはいまだ恐るべき戦闘力を保つ、この独立警備ロボットを自力で撃退せねばならない。それ故に今まで決して一般市民には知られることの無かった『里』へと、彼女は運び込まれたのであった。
 
 
 
 
 
 

 目が覚めた時、目の前にいたのは奇怪な人物であった。金色の目のみが見える覆面付きの装束。反射的に飛び起きて攻撃していたが、それはあっさりといなされた。
 「目が覚めたか?」
 そう語る声は、意外にも女のものだった。それも思ったより若い。
 「ここは……そしてあなたは」
 自分が『北斗』であることをもう一度自認しつつ、彼女は目の前の人物に問う。
 「ここは『里』とのみ呼ばれている。一応『れいげつ』の中じゃが、余人では決してたどり着けぬところに存在している。ここに送られるのは、極めつけに『武』の才を持つもののみ。表、裏、いずれにせよ、卓抜した腕を持たねば、常世には帰れぬぞ」
 「常世と来たか。ならここは冥府か?」
 「さして変わりはあるまいて」
 覆面の女性はそう返した。
 「さて、北斗。そなたは今日より、儂の弟子となる。何、堅苦しいことは一切言わぬよ。心残りがあるのなら強くなれ。そのために儂を利用してみよ。幸い今の里には大して人はおらぬ。儂を除けば男ばかりじゃが、それが問題になることもなかろうて。ただ今のおまえにはここが何処かも、どうやって食を購い、寝床を得、武を磨くかも判るまい。とりあえずはついて参れ」
 それだけ言い捨てると、女性はその場を離れていく。最初はゆっくり、北斗が立ち上がると同時に速度を上げていく。そのタイミングは後ろに目があるかのようであった。
 よく判らなかったが、北斗は彼女の後を追った。追いついたところで一つ気になっていたことを聞く。
 「一つだけ聞きたい」
 「なんじゃ」
 「名は。俺はあなたのことをなんと呼べばいい」
 「名はとうに捨てた。そうさの、師匠、と呼べ。それが一番ふさわしい」
 「判った、師匠」
 
 
 
 そこは不思議な空間であった。ここは人工物、巨大とはいえ宇宙船の中のはずなのに、その一角には森があり、畑があり、川まであった。
 森の中には獣らしきものの気配までする。
 どう見ても物語などで見聞きする、山奥の隠れ里であった。
 「なんだ、ここは……」
 「恐ろしい技術力よの」
 師匠は答える。
 「見た目は驚くじゃろうが、大半は遊びの技術じゃよ。閉鎖空間内に大規模遊技場を作るための技術をちょいといたずらして作り上げたのがこの『里』じゃ。今となってはまともに理解できんが、この船をよみがえらせた人物が残した資料を基に、その直弟子あたりの人物が作り上げたらしいの。本来ここは今の市街の者達に『自然』を体感させるのが目的だったらしいが、変調した警備兵器のため、世人は此処へは来られぬ。今では立派な隠れ里、という訳じゃ」
 北斗にはよく判らなかったが、彼の脳はそういう時無駄に考えない。あるものは存在する、と、無条件に肯定した。
 
 
 
 それから数年が過ぎた。
 意外に話のうまい師匠に、北斗は己の目的が『父を倒して母を救う』事だとしゃべらされてしまった。師匠はそれについて肯定も否定もしなかった。
 「まあ、それで当分はよかろう」
 それだけを言った。
 「とにかく腕を磨く事じゃな。そなたに木連式の基本を授ける。そなたの才なら、型にはまった動きの中に潜む、神髄の『意』をすぐに読むじゃろう。さすれば理屈はいらぬ。一度見ればあらゆる動きの『理』をつかむことが出来るようになる。まずは馬鹿馬鹿しくともただ覚えよ。いかなる学問、技術も、はじめの一手だけは『無条件で覚える』事が絶対となる。これこそが『原点』じゃからじゃ。世人はそこをはき違えたあげくに、せっかくの才を潰す馬鹿が多いからの。そなたは間違えるなよ」
 そして北斗は過酷なまでの『基本』をその身に刻まれた。
 完全に覚えるまで、愚直なまでに何千、何万と同じ動きを繰り返す。はじめの頃は全身が悲鳴を上げた。が、慣れ、身に技の動きがなじむにつれて、才ある北斗は悟っていた。
 あまりにも単純すぎて使えないと思っていた原初の技こそ、あらゆる動きの『核』である事を。そしてここにいる他の『弟子』は、その意味に気づかず、いろいろ威力のある『技』を師から教えてもらって、それを振るっているだけの『馬鹿』であると。
 一見したところ彼らは強い。だが北斗の目からすればその技に繋がりがない。山ほど武器を抱えた、古い物語の武人のようだった。
 それ故、北斗は彼らを恐れなかった。年頃になり、女として生まれた肉体が男を誘う形を整え始める頃、当然のように北斗は里の男達から狙われた。大半は口説くなどと言うことはせず、直接犯しに来た。
 だが、まったく相手にならなかった。確かに北斗は『秘伝』や『奥義』などと称される動きは習っていない。だが、それより深いところに秘められている『基本』の神髄に気がついていた。
 基本無くして奥義なし。不幸にも北斗相手に奥義を見せた相手は、あっという間により完成した奥義を返されることになった。
 北斗が15になり、肉体も出来上がってくる頃には、里の住人は師匠と北斗の二人きりになっていた。
 そしてある日、師匠は北斗に告げた。
 
 
 
 「ふむ、だいぶ極まったな。もう少しか」
 この頃の北斗の修練は主に師匠との実戦であった。師匠は動きの基本と、体力をはじめとする躰そのものを作る技術だけを彼女に伝授した。ただその中には、世間の常識などの知識や、男としての、女としての振るまいとその違い、料理や家事なども入っていた。
 「師匠、なぜこのようなことを」
 と聞く北斗に、彼女はこう答えた。
 「北斗、そなた、その肉は女でも、心は男じゃな」
 「ああ。俺が俺であることを自覚したあのときから、その認識だけは変わらない」
 「儂も保証しよう。だからこそ、意識して覚えねばならんのだ」
 男と女では、肉体の作りが違う。男の意識で女の体を動かすと、どうしてもそこに狂いが生じる、と。
 「そしての、男の意識で女を動かそうとするなら、余計に一度、女の動きを極めておく必要がある。逆に言えば、一度女を極めておけば、男そのものの振る舞いをするなど訳はない。所詮男など女の変形に過ぎぬ。これは理論的な事実じゃ。おぬしの内に眠る枝織が女である自分を否定して生まれたのがおぬしなら、特にの」
 「まったく。何でアレが俺なんぞを生み出したのか、さっぱり判らん。女の考えというのはどうしてこう訳が判らないんだ?……っと、師匠、申し訳ない」
 北斗には枝織として生きてきた記憶もあった。だがそれはあくまでも『記憶』と言うより『記録』に過ぎず、それは他人の人生を聞かされてそれを覚えているような感じしかしなかった。思い出に付随する情感が、すっぽりと抜け落ちていたせいであろう。
 そのせいか、北斗には己が枝織から『分かたれた』という自覚もあった。だが、それが何を意味するのかはさっぱり判らなかった。自分は自分である。あれ以来ずっと枝織が起きるようなことはなく、自分と枝織が同一人物であるなどという自覚も薄い。
 ただ、彼女がまだ『いる』事だけは確信できている。これがなかったら北斗は枝織のことなど完全に忘れていただろう。あるいは自分は北斗に『生まれ変わった』と自覚しただろう。

 そしてそんなある日、北斗は、初めて師匠から一本を取ることが出来た。
 「これは不覚。早くもここまでたどり着いたか」
 師匠はそう言うと、試合を止めた。
 「北斗、明日よりおまえの禁忌を解く。望むなら常世に戻って父と対峙してもよい」
 「本当ですか?」
 「二言はない。但し、確実に勝ちたいのならもう一段、我が元で修行してゆけ。次からは儂も封を外す。試合ではなく、死合になる。ま、最後の一線は押さえるから殺しはせん。もしその線を外せれば、儂の元での修行は完全に終わりじゃ。ま、後数年かかるじゃろうがな」
 
 結局、その日北斗は師の元を去った。
 警備ロボットを難なく打ち倒し、しばらくぶりの我が家を訪れる。
 そしてあっさりと返り討ちにあった。
 「強くなったな。だが、所詮は付け焼き刃。裏の世界で闇に携わっていた我を敵とするにはあまりにも不足……しかし、その腕そのものは捨てがたい。枝織、いや、北斗よ。親としておまえに情けを掛けてやろう」
 情けのかけらもない冷たい声音で、北辰は言った。
 「我に従え。我が命に従い、闇に生きてみよ。我に従うなど、おまえには憤懣やるかたないであろうがな」
 「当たり前だ!」
 激高する北斗。だが、次の言葉が、その興奮に冷水を掛けることになった。
 「仕事は果たしてもらう。だが、その後我の命を狙うは自由。そう簡単に取らせはせんが、隙あらば我の命、見事奪ってみよ。何、我もそのくらい活きのいい方が使いでがあるわ。但し、先も言ったとおり、仕事は仕事。逆らうこととしくじることは許さん」
 「……仕事で経験を積めば、勝ち目も見える、というわけか」
 「そうだ。ついでに母の元にいることも許そう。我が憎ければ掛かってくるがよい。無駄であろうがな」
 しばし後……北斗はその話を受けた。北辰の命に従うのは業腹であったが、それ以外の利点がそれを補うほどに大きかったからだ。
 そして裏の仕事をいくつかこなした北斗は、北辰に対する見方が少し変わったのを感じた。憎いことも、許せないことも変わりはない。だが、その徹底した公私の使い分けには感心せざるを得なかった。
 上司としての北辰は部下に情を挟まなかった。裏切られることなど考えないかのように、もし自分が裏切ったり失敗したりすれば自分や他の仲間が危地に陥るようなところに、平気で自分を配置する。
 その点だけは北斗も彼を認めざるを得なかった。そのせいか、北辰に対する憎悪が、ほんのわずかだけゆるんだ。
 それがアレを引き起こすことになった、と、後に北斗は思った。



 理屈では判る。さらにこれは『仕事』だ。だが、判っていても心の平静を保ちきれない自分を、北斗は自覚していた。
 今北斗は、豪奢な衣装を身に纏い、顔面にはべたべたするものが塗りたくられている。おまけに髪には染め粉がべったり。外面だけ見ればどえらい美女だが、これらの感触は北斗をひたすら不快にさせた。
 拒絶反応といってもよかった。
 女性の身を生かし、潜入しての暗殺。はっきり言って北斗の腕なら、そのまま忍んで殺した方が早い。そうでないのは北辰の言に依れば、『ただ殺すのではなく、相手が堕落していることを示す工作のため』とのこと。北斗には今ひとつ理解できなかったが、要は殺される男が女に対して自堕落であることを示す工作なのであろう。実は今の北斗の姿は、別のある工作員にきわめてよく似せてある。そちらは色事専門で荒事は出来ないため、こうなった次第である。
 作戦自体は馬鹿馬鹿しいくらいに簡単であった。かなり苦しい北斗の演技にさえ気づかない馬鹿男は、あっさりと天に送られた。
 ここでくだんの女工作員と入れ替わる。この段階で北斗の憤懣はかなりヤバいところまで来ていた。
 とりあえず髪の染め粉を落としたあたりで限界が来た。化粧を落とすのにはさらに手間が掛かる。幸い髪を洗って幾分さっぱりした北斗には、この程度なら我慢できた。それより憤懣が押さえきれなかった、というべきであろう。
 「覚悟っ!」
 いつもに比べて隙だらけで荒々しい北辰への襲撃。放った後で北斗の狂熱が冷めた。
 (いかん! 俺は何をやっている! 返り討ちではないか!)
 当然の如く返り討ちにあう……はずだった。なのになぜか一瞬、北辰の動きが鈍った。
 その隙につけ込めれば、殺すまでは行かなくても北辰の牙をへし折ることには成功していただろう。そうすれば始末はたやすい。
 なのに今度は北斗の側が動揺してしまった。
 (今の隙はなんだ? まさか北辰め、俺の『女姿』に動揺したのか!)
 実際、ある意味その通りであった。但し、北斗の考えたような『女姿』に、ではない。
 思ったより健やかに育った『娘姿』に動揺したのだった。
 そしてこの襲撃は北辰の勝ちになった。見事なまでのクロスカウンターが決まる。
 その衝撃の中、肉体の痛みよりも遙かに大きく、北斗の心が打たれていた。
 (俺は所詮女でしかないのか? 北辰も女には惑う男でしかないのか?)
 かすかな罅。そこら吹き出す『何か』。
 北斗の心は、その衝撃で二度吹き飛ぶこととなった。



 「む、いかん、やり過ぎたか」
 お互い予想外に攻撃がずれたため、かえって手ひどいダメージを与えてしまった可能性がある。北辰はあわてて愛娘の様子を調べた。
 幸い特に異常はない。師匠の仕込んだ肉体は、この程度で壊れたりはしない。が。
 「う〜ん、あれ、ぱぱ?」
 それは決して北斗が口にすることのない言葉。
 「枝織……か?」
 「うん。おひさしぶり、かな?」



 さすがに北辰も娘を医者に連れて行った。そこであっさりさじを投げつけられ、やむを得ず北辰は頼りたくないこと一番だが頼りになることも一番な男……ラボの山崎博士を頼った。
 現にこの総合科学者はこの問題をあっさりと解決してのけた。
 「男女の認識による人格転換か。こういうのは真面目に解決しようとしたらそれこそ一生ものだよ。とりあえず実利的な面から何とかするのが一番だね」
 「具体的には」
 「スイッチを付けるのさ。自動でも他動でもよし。特定の『何か』をきっかけにして人格を切り替えられるようにすればいい。付け方によっては本人達が自分で切り替えられるようにもなるから、まともに直すより楽かもね」
 催眠暗示による「スイッチの形成」は、思ったよりたやすいことであった。キーには北辰が下手の横好きで吹いた笛の音を用いることにした。あまり単純なものだと偽装されやすいという問題があったのに加え、北辰が吹いた、という点が暗示の深度を深くしやすかったからである。
 「君が吹けば多少音がキーからずれても大丈夫だよ。人の脳は音を周波数で記録している訳じゃない。タイミングや揺らぎなんかも総合的に覚えるからね。逆に君以外がキーの曲を吹いてもそう簡単には人格転換は起こせないよ」
 「助かる」



 『枝織』に戻った北斗は……枝織は、打って変わって北辰になついた。技もほぼ北斗と同様に振るうことが可能だった。
 だが北辰の目は見切っていた。枝織の技は『再現』に過ぎない。北斗の振るう『生きた』技に比べると、応用で劣り、また成長がない。
 その代わり、枝織には『枷』がなかった。殺気なしに人を殺す力。それは究極の暗殺術になった。もし枝織にその気があったら、北斗の心の影響があったなら、北辰はあっさりと倒れていたであろう。
 この時期、木連の暗部に、その噂が流れた。
 真紅の羅刹、超常的な技を持つ赤毛の暗殺者の噂が。



 その時より、『枝織』と『北斗』は、ある程度の時とともに入れ替わることが多くなった。
 たいていは睡眠がきっかけになる。北辰が例の『笛の音』を使わない限り、覚醒状態の時に入れ替わることはほとんど無かった。そのせいかさな子は、娘が目を覚ました時、今日はどちらなのかを訪ねるのが習慣になってしまったほどだ。
 自発的に入れ替わることは、どちらにも自在には出来なかった。何らかのきっかけで入れ替わってしまうことは無くはなかったが、先にも言ったとおりごくまれなことであった。
 おかげで北斗に悩みが一つ増えた。『枝織』の復活直後から、女性としての必然……生理が始まったのだ。まるで枝織が戻ったことで自分の体が『女』であることを思い出したかのように。
 幸いというか、不思議なことに、というか、生理が来る時期、たいてい人格が自然と『枝織』に切り替わるようになっていた。そのため北斗が不快な思いをするのは、仕事で強制的に北斗に切り替わっている時だけであった。
 この点は北辰も、あの山崎とか言う医者も不思議がっていた。
 「僕たちが思う以上に、北斗君は『男』なのかも知れないね〜」
 と、医者はのたまっていたが。
 そして、この時期が、ある意味一番平穏な時期、ともいえた。



 それが破綻したのは、ほんの些細なことであった。
 北辰は北斗と枝織のことを見ている内に、少し考えを改めた。
 人格の分裂が幸いしたのか、特に枝織の持つ暗黒面にある種の『歯止め』が掛かるようになってきていた。
 根本的な面では直っていないが、自分にとって本当の意味で『敵』となる人物が意外に少ない、ということを理性が理解しているように見えてきていた。
 『北斗』は枝織ほどの暗黒を持っていない。師の教えもあったせいか、殺人に禁忌は持たないが興味もない。『無意味に殺す』事に対する嫌悪もあるようだ。
 強い敵を『倒す』事には燃えるが、『殺す』事は嫌悪する。
 この様子なら、もはや自分が『外道』の仮面をかぶらずとも、世の中に潜むことは可能かも知れない、と思えてきたのだった。
 その日北辰は珍しく家に土産を買ってきた。心のゆるみが、何となくそう思わせただけのこと、単なる気まぐれであった。
 たまさか、さな子の好きだった和菓子が、宣伝の一助でか店先で派手に売っていたのに惹かれたせいかもしれない。
 それをいくつか買い求めた北辰は妻と娘の前で、それでもぞんざいにそれを放り投げるようにして渡した。
 「たまにはよかろう」
 そう言われて渡された菓子に、さな子は心から喜んだ。同時にそれがあることを伝える好機に、そしてこの芝居生活をそろそろ終わらせるにふさわしいきっかけになる、とも思った。
 
 だが。
 最大の悲劇はそんな幸せの絶頂こそを狙っていた。
 
 その日の娘は枝織であった。
 親子三人でお茶とともに和菓子をつつく。平和の極みのような光景。
 その菓子を口に入れたさな子が、突然口を押さえてうずくまった。
 ここで真相を語っておこう。
 さな子は二人目の子供を身ごもっていた。むしろ出来なかったのが不思議であった。
 ただ、そのため体調に変化のあった彼女には、大好きだった菓子が違った味に感じられただけのことであった。
 このとき北辰の反応が後一歩早ければ悲劇は避けられたかも知れない。あるいはその場にいたのが『北斗』だったならば。
 母の様子に、枝織の中で父に対する叛意を押さえていた何かが切れた。
 弾けるように襲いかかる枝織、わずかに反応の遅れた北辰。
 
 そして、そんな二人の間に割って入った……さな子。
 
 それは起こってほしくなかった、負の奇跡。
 達人同士の技の応酬に、素人であるさな子が割っては入れるはずもない。
 にもかかわらず、母の、妻の愛がそれを凌駕してしまった――中途半端に。
 「だめっ!」
 割って入ったさな子の躰は、枝織と北辰、二人の強力無比な拳によって貫かれていた。
 
 一瞬の後。
 
 枝織は狂乱した。
 狂乱が幸いして、北辰は彼女を取り押さえることに成功した。
 代償として片目を失うことになったが、小さいことであった。
 
 
 
 その日以後、枝織の理性は退行してしまった。成長し掛かっていた理性はものを覚えることをやめ、極度に記憶力が低下していた。自らの拳が母を討ったことも忘れてしまっていた……幸いにも。
 『北斗』はそんな枝織を護るかのように、自分こそが主人格であるかのような風に自らの記憶を改竄してしまっていた。それ以外には問題はないように見えたが、極度の方向音痴という困った弊害が現れていた。
 そして北辰は、娘達の心を護るために、今でも外道の演技を続けている。外道の極みに妻すら殺した男として。
 もし自分もまた母を殺す一翼になっていたということを思い出したら、娘達が今度こそ壊れるのは間違いない。影護北辰、不器用な漢であった。



 最後に一つ補足しておこう。
 この事件後、『北斗』は一度師匠の元に戻ろうとした。ぐちゃぐちゃになった記憶の中、より確実にあの男を殺すための技を求めて。
 だが、北辰は隠れ里にたどり着くことが出来なかった。道が判らない。
 そして迷い込んだある部屋で、奇怪な敵から奇妙な光線による攻撃を喰らった。
 ちなみに北斗はレーザー光線の攻撃をわずかな時間で回避できる。照準が完全に合っているレーザーの最初の一撃こそ不可能だが、それが連続照射になる前にその場から逃れている。照準されていることを感知できればそもそも当たらない。ただ、警備用の自動機械は極度に殺気が薄いのでさしもの北斗でも感知は難しいのだ。
 だがその光線はそのような光学兵器とはまるで違った何かだった。照射されたと同時に全身が麻痺し、その光を回避できない。やがて全身に及んだ照射の衝撃に、さすがの北斗も意識を手放した。
 ただ、不思議なことに、最後の瞬間、目に入ったのは師匠の金色の瞳だったような気がしていた。
 
 
 
 その日以来、北斗は大半の日々を座敷牢で過ごすことになる。
 実のところ、閉じこめると言うより、徘徊防止の意味の方が強かったのであるが。
 仕事も極度に減った。
 枝織は知性が極度に低下して子供並になってしまっており、北斗は潜入などがこなせなくなってしまったためだった。
 それでも、戦闘力だけは北辰をもしのぐ。
 そして真紅の羅刹は、闇に埋もれた伝説となった。
 
 その扉が開かれたのは、テンカワアキトという男が歴史に登場したことによる。






 というわけで外伝です。
 以前にも言ったとおり、この話は構成を時ナデに準拠しているので、ここで外伝を挟まないと、というわけで北斗裏話。
 でも、いちばん再び的に重要なエピソードがうまく挟めずにおまけチックになったのは内緒だ!
 シリーズを通して読んでくれている人には見当が付くと思いますが。
 
 さて、19話も急がないと。

 

 

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代理人の感想

まー、元の話が作者とは別の人が書いた付けたしですから、構成的にはむしろオマケっぽくするのがいいんじゃないかなー、と書いた本人が言ってみたり。
しかし北辰が漢度高い!
こーゆー見事な顔の使い分けを無意識に真似て枝織と北斗が分かれたんじゃなかろうかと思えるくらいです(笑)。
時ナデに比べても枝織の理性が低い理由も明かされましたし、
それと方向音痴がこう言う事情だったという理由つけはさすが。
精神的ショックで認識能力に変調でもきたしたのかな。

追伸
やたらよく間違えられますが北斗は「深紅」ではなく「真紅の羅刹」なのでご注意。