機動武闘伝
ナデシコ 

 

 

 

 

 

 時はやや遡る。

 

 使い古された表現だが、知らない天井。

 アキトは、ついぞ体験したことが無いような柔らかい感触の中で目を開いた。

 体の節々が痛む。手足は鉛のように重く、殆ど感覚がなかった。頭も朦朧としてはっきりしない。

 何より、体から気力が根こそぎ失われているのがわかった。

 

「無様、だな・・・・・・」

 

 呟いたつもりだったが、声が出なかった。舌すら今は上手く動いてくれない。

 ふと、すぐ側から嫌というほど聞き慣れたような、そしてついさっきも聞いたような声がするのに気がついた。

 奇妙な事に一人で喋っているばかりで相手の声が聞こえない。

 電話しているのだという、当たりまえのことに思い当たるのでさえ、今のアキトには一瞬の時間が必要だった。

 首だけを動かして声のするほうを見る。

 殆ど同時にチン、と音がして声の主がアキトの方を向いた。

 視線が合ったとたん、その顔に無邪気さと気遣いの同居したような、そんな笑みが浮かぶ。

 何とはなしに予想、ひょっとしたら期待していた相手だった。

 

「今食べるものを頼んだからちょっと待っててね。その様子だと御飯食べてないでしょ?

 あ、でも体がとても冷たくなってたから、まずは熱いシャワーだね」

「・・・・・・いや、いらん。風呂もいい」

 

 何故だかその笑顔を見るのが辛く、アキトは視線を逸らした。

 

「え〜、でも風邪引いちゃうよ」

「・・・・・疲れている。動きたくないんだ」

「駄目だよアキト。せめて濡れた服だけでも脱がないと」

「いいって言ってるだろう」

 

 ベッドの上に身を乗り出してアキトの顔を覗き込もうとするが、アキトはまた顔を逸らす。

 ユリカがねえってば、などと言いつつ揺すってみても反応も返さない。

 あくまでもアキトはユリカと目を合わそうとしなかった。

 その理由が「後ろめたさ」と言う感情である事には自身気がついていない。

 ユリカの気遣いを無視しようとするのも同じだ。

 後ろめたいから、辛いから、救われないこと、罰を受けることで罪の意識を軽減しようとしている。

 そのあたりがわかっているのかいないのか、ユリカが頬を膨らませてアキトを睨みつけた。

 

「あっそう。そういう態度に出るんだ。

 いいよ、だったらアキトの服を全部剥いでユリカが直接温めてあげるから。

 なおこの件に関しては拒否も反論も許しません。抵抗するなら実力を行使します」

「・・・・シャワーを浴びてきます」

 

 いろいろ問題のありそうなユリカの発言を前に、アキトはあっさりと白旗を揚げた。

 この幼馴染がこんなときに冗談を言うようなタイプでないのは身をもって知っている。

 ついでに言うと、今の自分は多分たいした抵抗も出来ずにユリカの為すがままにされてしまうだろう。

 と、言うわけで選択の余地はなかったのである。

 

 

 

 

 軽い音を立てて洗面所の扉が開く。

 開いた隙間から湯気がかすかに部屋の中に入ってきた。

 その隙間からアキトの頭だけが突き出る。

 大雑把に拭いただけの濡れ髪が張りつき、ツンツン頭で通している普段とは別人のように印象が違っていた。

 部屋の中を見回すが洗面所から見える範囲ではユリカの姿はない。

 紙をめくる音がしたリビングのほうに声をかけた。

 

「おーい、ユリカー?」

「んー、何? ・・・・・・え、ひょっとして背中流して欲しいとか! やだ、アキトのエッチ!」

「違うわぁ!」

 

 何を想像したのか、雑誌を読んでいたユリカが頬に両手を当てて顔を真っ赤に染めた。

 死角である洗面所の扉からそれが見えるはずもないが、

 首を突き出したままやっぱりこいつと付き合うのは疲れる、とアキトは額を押さえる。

 空腹と疲労で朦朧とする頭を振り、アキトは最初に聞くはずだった質問を思い出した。

 

「俺の服はどこだ?」

「ああ、ボーイさんに持っていってもらったよ。濡れた服を着るわけにもいかないでしょ。

 明日の朝には洗濯したのが届くから」

「そりゃそうだが、じゃあ何着ればいいんだ」

「もぉ。そこにバスローブがあるでしょ?」

「なんだそりゃ? 変なバスタオルの親玉みたいのならあるが」

「・・・それだよ、それ」

「ああ、これか。悪かったな、こう言うところは初めてなんだよ」

 

 少し呆れた口調になったユリカに、アキトも憮然と返した。

 まぁ野宿露天が当たりまえ、泊まるにしても大概は木賃か農家の納屋という生活を十年続けていればこうもなる。

 

 シャワーを浴びていた間に運ばれてきたのだろう、部屋にはキャスターつきのテーブルがあった。

 アキトをベッドに座らせ、ユリカがキャスターを押してその目の前に移動させる。

 すぐ食べられるものを頼んだのか、テーブルの上には点心と思しき幾つかのせいろと小さい土鍋が並んでいた。

 土鍋の蓋を取ると、湯気と共に鶏ガラ出汁の食欲を刺激する匂いが立ち上る。

 ごく控えめに具が入ったシンプルな中華粥だ。

 匙を入れ、口に運ぶ。

 美味い。とてつもなく美味い。

 それで、自分では気づかないほどに疲労し、消耗していた体が全力で栄養を欲していたのが良くわかった。

 一口ごとに死にかけた体の細胞が甦っていくように感じる。

 不意に両目に涙が溢れ、そしてこぼれた。

 武闘家として道を極めたホウメイが料理人との二足のわらじを選んだ理由が、少しだけわかったような気がした。

 ぽろぽろと涙を流しつづけながら、アキトは無心に匙を動かしつづけた。

 

 

 

 

 

「さてみなさん。前回はさぞ驚かれたろうかと思います。

 マスターホウメイとの対決、そして流派東方不敗の奥義即ち彼女の切り札とも言うべき石破天驚拳の教授。

 為す術も無く拉致されたメティス・テア、そして重傷を負ったダイゴウジさんとその苦悩。

 更にそれを責めたテンカワさんは己を見失い、姿を消してしまいます。

 一方己の存在意義に悩むダイゴウジさんもテンカワさんの言葉に激しい衝撃を受けてしまいました。

 果たしてテンカワさんとダイゴウジさんは互いを、無二の親友をこのまま失ってしまうのでしょうか?

 また、助けられたテンカワさんと助けたミスマルさんとの間に、一夜何があったのか?

 そしてこれが二人の関係に何をもたらすのか?

 そして何より、今日は決勝バトルロイヤルへの最後の関門、

 テンカワさんにとって第二の師匠とも言うべきシュバルツ・シヴェスターとの最終決戦でもあるのです!

 果たしてこの強敵を制することができるのか!

 それでは!

 ナデシコファイト・・・

 レディィィ!ゴォォォゥッ!」

 

 

 

 

 

第四十話

非情のデスマッチ! 

シュバルツ最終決戦

 

 

 

 

 

 

 

 

「美味しかった?」

「ああ、美味しかった」

「元気になった?」

「ああ、もう大丈夫だ。・・・・・・・・・・・・・ありがとう、ユリカ」

「よかった」

 

 にっこり、とユリカが微笑む。

 不覚にも、その笑顔にしばしアキトは見とれた。

 数秒後、表情を変えずにユリカがこう言うまでは。

 

「じゃあそこに正座しなさい」

「へ?」

「さっさとする!」

 

 アキトですらついぞ聞いたことのない、ユリカの獅子吼がスイートルームに轟いた。

 殆ど反射的にベッドを飛び降り、そのまま床に正座する。

 正直訳がわからないが、少なくともユリカが本気で怒っていることだけは良くわかった。

 日本家屋ならともかく、西洋式のホテルで絨毯の上に正座するのは割と間の抜けた光景ではあったが、

 なにせ不動明王か閻魔大王か、はたまた逆鱗に触れられた龍かと言った風情のユリカが目の前にいる。

 とてもではないがそんなことを気にしていられる余裕はなかった。

 

「むっ」

 

 表情と雰囲気を変えぬまま、ユリカもアキトと向かい合うように座る。

 正座のまま、アキトににじり寄った。

 反射的に離れようとして、だがユリカの視線に呑まれてアキトがまた動きを止める。

 文字通り膝を突き合わせる形で、ユリカがアキトに正対する。

 アキトの方が背は頭一つ上なのだが、

 自分より低いはずのユリカに何故か見下ろされているような気がした。

 

 互いに正座のまま、正対する。

 じ、と真剣な目がアキトを睨む。無言のまま、睨みつづける。

 時折そのプレッシャーに耐え切れずアキトが目を伏せようとするが、そのたびにユリカの叱責が飛んだ。

 

 別に何かユリカにしたわけではない。

 助けてもらったのは確かだが、そのお説教にしてもなにもここまでされる謂れはない。

 それなのに、正座を強要された挙句ずっと睨みつけられている。

 理不尽だった。

 だが、それに怒る気には何故かなれない。

 その実それは理不尽でも不遜でも傲慢でもないということが理解できていたから。

 理屈ではなしに、自分に怒られる理由があるということがわかっていたからだった。

 

「・・・ガイと、会ったのか」

 

 最初に口を開いたのはやはりアキトだった。

 こころもち上目遣いに、様子を伺うようにユリカに尋ねる。

 

「泣いてたよ。ガイさん、泣いてた。俺は女の子一人守れないのか、アキトのパートナー失格なのか、って」

 

 ユリカの目が鋭さを増す。

 アキトが唇を噛んだ。

 

「わかってるよ、それくらい。あの時、俺はどうかしてた。

 メティちゃんがさらわれたと聞いた時、思い出してしまったんだ。

 シュンさんが死んで・・・ルリちゃんが冷凍刑になって・・・しかもそれをやったのがアイちゃんだなんて・・・

 もう、もう誰も失いたくなかったのに、また・・・! そう思ったら・・・・抑えきれなかったんだ」

「それで、ガイさんに八つ当たりしたんだ」

 

 冷たい。

 ユリカの声に含まれたその冷たさが直接アキトの心を抉る。

 無論、返す言葉はない。

 詳しい事情を知らず、不可抗力だったと聞かされていなかったとは言え、

 アキトはメティの為に重傷を負ったガイに対して己の苛立ちをぶつけたのだ。

 「何故守れなかった」とアキトが思うことそれ自体を禁ずることは出来ないだろう。それは人情というものだ。

 だが、思いはしてもそれは決して口に出してはいけない言葉だ。

 理性と意志で押さえるべき言葉だったのだ。

 そして、その結果ガイは傷ついた。

 

 他人はいざ知らず、アキトは知っている。

 ガイは確かに物事を余り深く考えないし、気にしない。だが、断じて無責任な男ではない。

 メティの拉致と負傷によるパートナーとしての職務の不本意な放棄。

 その二つを誰よりも気に病んでいたのは、誰よりも責めていたのは他ならぬガイのはずだ。

 自分は、そのガイの傷口に手を突っ込んで無遠慮に抉りまわしたのだ。

 それがどれだけの痛みをもたらす行為だったか。

 

「わかっていた! そんなことはわかっていたんだ!」

 

 血を吐くようなアキトの叫び。

 彼とて、人を傷つけて平気でいられるほど冷たくはない。

 自分の過ちに心の痛みを覚えないほど恥知らずではない。

 だが、それでもユリカに容赦はなかった。

 

「わかっているなら黙って慰めてあげればいいでしょ!?

 わかっていたけどなんて、そんなの最低の言い訳じゃない!」

「・・・・・・・・っ」

 

 もう目を合わせていられなかった。

 恥ずかしくて、悔しくて、顔を上げられない。

 二日前アキト自身がそうしたように、ユリカの言葉はアキトの傷口を一片の情けもなく抉り回していた。

 

 

 

 

「ねえアキト。もう一つ、聞いていいかな」

 

 頃合を見計らい、ユリカが口を開く。

 アキトの顔が上がる。

 視線が合ったが、返事は返ってこない。

 それを無言の了承と取ったか、ユリカが続けた。

 

「アキトにとって、ガイさんってなんなの?」

 

 強張っていたアキトの眉が、困惑の形に緩んだ。

 明らかにユリカの真意を測りかねている。

 

「なんなのって・・・・・友達だろ。それ以上でも以下でもないぞ?」

「そうじゃなくて」

 

 ユリカがちょっと考え込んだ。

 アキトは困惑しながら次の言葉を待っている。

 

「アキトはガイさんと一緒に一年間、ナデシコファイトを戦い抜いてきたんだよね?」

「ああ」

 

 困惑したままでアキトが頷く。

 ユリカが言葉を継ぐ。

 

「ガイさんはただの友人じゃなくて、ナデシコファイトをともに戦うパートナーでもある訳だよね?」

 

 もう一度、アキトが頷く。

 ユリカの気のせいかもしれないが、理解の光が僅かながらにその顔の上に差したようにも見えた。

 

「ガイさんが悩んでたんだよ。アキトにとって、自分はどう言う存在なのかって。

 ひょっとしたら自分はアキトに必要とされてない、頼りにされてないんじゃないかって。

 相棒とかパートナーとかじゃなくて、友達が数合わせに連れて来られただけなんじゃないかって」

 

 今度こそ、そんなことはないと叫びかけてアキトは口をつぐんだ。

 ガイがいなくても、とか。

 それでも俺の相棒か、とか。

 そんなことを言ってしまった覚えが確かにある。

 

 今更ながらに己の軽率が悔やまれた。

 だが一度口に出してしまった言葉は引っ込めることが出来ない。

 同じように時を戻すことも、心の傷を塞ぐ事もできない。

 できるのはただ、別の何かで埋め合わせをすることだけだ。

 

 アキトが顔を伏せた。

 痛みに耐えるようなその表情・・・いや、事実痛みに耐えている・・・に、

 先ほどに続いて再びズキリ、とユリカの胸が痛む。当たりまえのことだ。

 サディストでもなければ他人が・・・それも大切な人間が苦しんでいるのを見て喜びはしない。

 たとえそれが当人にとって有益な産みの苦しみであったとしても、見ていて気持ちがいい訳がない。

 ましてや他ならぬ自分の言葉がアキトを傷つけているのだと思えば、

 到底いたたまれない気持ちを抑えることなどできない。

 そんな痛みを押し隠して、ユリカが再び口を開いた。

 それでも自分がやらなければならないことだとも思うから。

 聞いておかねばならない、と。考えてもらわねばならない、と。そう思うから。

 惚れた腫れたを別にしても二人はユリカの幼馴染であり、10年来の友人なのだから。

 

「もういっぺん聞くよ。アキトにとって、ガイさんはどう言う存在なの?

 わからなかったら今は答えなくてもいいけど、考えて欲しいの。

 そうでなかったら、友達としてわだかまりは解けてもこれからのファイトでパートナーとしてやっていけないと思う」

 

 もちろんユリカはガイがネオロシア戦で感じた無力感だとか何だとか

 具体的なことまで知っているわけではないし、そもそもガイの悩みもそこまではっきり確かめたわけではない。

 実のところ半ば口からでまかせのようなものだ。

 

 だがあのガイがあそこまで懊悩するのだ、その悩みの奥に決して軽くはない何かがあるのは間違いないだろう。

 ならば事実と多少の違いがあってもそれで仲直りできるならいいではないか、とユリカは考える。

 大切なのはアキトとガイが改めて互いの関係について考えることなのだから、と。

 要は嘘も方便と言うことらしい。

 

 それはともかく、黙り込んだアキトをユリカはじっと見つめていた。

 何分、あるいは何十分かの間アキトは黙り込み、ユリカはそのアキトから視線を外さないでいた。

 その沈黙を破ったのは、アキトの短い一言だった。

 

「わからん」

「わからん、じゃないでしょう。真面目に考えてるの?」

「考えてるよ。でもな・・・」

 

 言いよどむ。

 その顔には精神的な疲労の跡がありありと伺えた。

 

「・・・でも?」 

「ガイは親友で相棒だ。ずっとそうとしか考えてなかった。

 その先を考えようとすると、途端に頭の中に靄がかかって何がなんだかわからなくなるんだ」

 

 ユリカが唸る。こう言う反応は想定していなかったらしい。

 少し考えてから口を開いた。

 

「それじゃあね、ガイさんが悩んでるきっかけは何だと思う?」

「・・・・・俺の言葉、だな」

 

 そうユリカが尋ねた途端、アキトの舌が重くなる。ようやくという感じで言葉が搾り出された。

 

「じゃあ、それがどうしてきっかけになったのか考えてみて。

 私には、これ以上何もいえないから」

 

 言って、ユリカが一つ息をついた。

 

「アキト。自分がガイさんにどれだけのことをしたのか、もうわかったでしょ?

 じゃあ、これからどうすればいいかもわかるよね?」

「・・・・・・ああ」

「よろしい」

 

 にっこり、と再びユリカが笑った。

 さっきアキトが見とれたその笑みだった。

 ぱんぱん、と両手を打つ。

 

「じゃ、お説教はおしまい。立っていいよ。・・・あ」

 

 言いながら立ち上がろうとして、ころん、とユリカが斜め前、アキトの右側に倒れる。

 もがきながら起き上がろうとして、振り向いたアキトの視線に気がついた。

 泣き顔と誤魔化し笑いがごっちゃになってその顔に浮かぶ。

 ・・・・・・・・・ひょっとしなくても、足が痺れたらしい。

 

 ぷ、とアキトの唇から息が漏れる。

 次の瞬間、爆発的な笑いの発作が部屋を揺るがした。

 今までの緊張の反動か、目に涙を浮かべながらアキトはげらげらと笑っている。

 文字通り腹を抱えて笑う幼馴染を、ユリカが唇を尖らせながら睨んでいた。

 

 

 

 くっくっ、とアキトが含み笑いをこぼしている。

 先ほどの笑いの発作が未だ完全には収まっていない。

 

「お前が他人に説教なんてしたのが間違いなんだよ。慣れない事はするもんじゃないな」

 

 ベッドに並んで腰掛けながら、アキトがユリカをからかう。

 これ以上ないほど不機嫌そうだったユリカが、更に数段不機嫌そうな顔になった。

 もっとも不機嫌なのはアキトに大笑いされたからだけではないだろう。

 うー、と唸りながら未だに両足を揉みほぐしているのがその証拠。

 結局一人では立てずに、アキトにベッドまで引っ張り上げてもらったのだ。

 やはり洋風の暮らしをしていると正座はきつい。

 対してアキトは座禅も正座も修行でよくやらされていたこともあって平気な顔である。

 恨みがましげな目でその顔を見上げるが、

 下手に何か言うとアキトの言葉を認めるようなものであるからして、何も言うことが出来ない。

 非常に不本意であった。これも、ユリカが不機嫌な理由の一つであったりする。

 もう一度、アキトの顔を見上げると視線が合った。

 その笑いを含んだ目に、また一つユリカの不機嫌の種が増える。

 とりあえず、この腹立たしい男を放置して感覚の戻り始めた足をさするのに専念することにした。

 

 

 

「そう言えば、アキトは何でネオジャパンの人たちの所に帰ってないの?」

 

 唐突に、ユリカがそんな事を聞いてきた。

 しびれも取れたのか、さするのを止めて足を動かしていたユリカを

 ぼんやりと、どこか微笑ましげに眺めていたとき。

 急に放たれたその質問は和んでいた雰囲気をいっぺんに消し飛ばした。

 口を開こうとして、やはり言いよどむ。

 ちらり、とユリカがそんなアキトを見た。

 

「やっぱりね」

「? やっぱりってなにがだよ」

「わかってるよ、アキトもやっぱりガイさんに謝りたかったんでしょ?」

「あのな、ユリカ・・・・」

「でも謝っても許してもらえる気がしない、

 いやそもそも八つ当たりしちゃったのに今更領事館に帰って顔を合わせるなんて出来ない」

「おい、人の話を・・・・」

「だからメティちゃんを探すって言って、ずっと戻ってないんでしょ?」

 

 違うの? とアキトに目で問い掛ける。

 全部見透かされているような気がして、思わずため息が漏れた。

 少し違うような気もするが大した差はない。ユリカの言う通りだ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ、そうだよ」

 

 結局のところ問題はそこだ。

 アキトはもう言いつくろいようがないほどの口下手だし、ついでに人間関係そのものも苦手なほうだ。

 尤もナデシコファイターの場合、如才なく人付き合いができる人間のほうが少ないのだがそれはさておき。

 

「大丈夫だよ。ガイさんはアキトのお友達。そうでしょ?」

「あ、ああ・・・」

「だったら、ちゃんと謝れば許してくれるよ、きっと」

「そうかな・・・」

「そうだよ!」

 

 ふっ、と。

 優しげな笑みがユリカの顔に浮かんだ。

 

「怖がることはね、ないんだよアキト」

「・・・・・」

「大切なのはね、気持ちを言葉にしてはっきり伝えることなの。

 やっぱり言葉にしないと伝わらないことってあるから。

 でもね、言葉は本当は只のきっかけなの。一番大切なのはお互いの気持ち。

 だから、すれ違っていることに気がついて、アキトとガイさんがそれをどうかしたいと思ったら・・・

 本当に、今すぐにでも仲直りできるよ?

 ガイさんはアキトの大切なお友達だし、アキトもガイさんの大切なお友達なんだから」

「そう、だな・・・・」

 

 「大切なお友達」などとはっきりと言われたのが気恥ずかしかったか、

 はにかむように視線を逸らして言葉を濁す。

 ふと、ある事に気がついてその眉がしかめられた。

 心なしか冷めた視線がユリカを見る。

 

「確かにそりゃその通りなんだが・・・考えてみるとお前に言われても説得力がないな」

「えー、なんでなんで!?」

 

 相当に意外な一言だったらしく、ユリカが目を白黒させて叫んだ。

 声が高いのは不服さが滲んでいるせいか。

 斜にユリカを見やりつつ、こちらはそこはかとない冷やかさを滲ませて、アキトがユリカを追求する。

 

「おまえ、昔からいつも俺にまとわりついてきてるけどな・・・・

 お前の気持ちとやらを言葉にして聞かせてもらったことがないぞ?」

「え? いつも言ってるでしょ? アキトは私が好き! アキトは私の王子様!」

「いやそうじゃなくてだな・・・・お前はどうなんだよ」

「ほへ?」

「お前は俺をどう思ってるんだ? その、好きなのか?」

「私はアキトが大好き! 当たりまえじゃない!」

 

 一瞬沈黙があった。

 

「初めて聞いたな、それ」

「嘘ぉ!」

「本当だよ」

「嘘!」

「本当だってば」

「嘘!」

「ホント!」

「嘘!」

「ホント!」

「嘘!」

「ホント!」

「嘘!」

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

「いや本当にお前が俺をどう思ってるか、今まで聞いた覚えがないぞ?」

「うーん・・・・・・・アキトはわかってくれてるんだと思ってたよ。驚いちゃった」

「言葉にしないと伝わらないこともあるからな」

 

 皮肉のつもりだったが、ユリカには通じなかったらしい。

 満面の笑みでそうだね、と頷く。

 

「うん、私はアキトが好き。アキトは私の王子様!」

「こんな、みっともなくて格好悪い男でもか?」

「うん!」

 

 かなり本気で言ったアキトの自嘲も、ユリカには通じない。

 やはり一筋の曇りもない満面の笑みで、一瞬の遅滞もなく頷く。

 

 不意に、この幼馴染がひどくいとおしく思えた。

 衝動的に、その鍛えていながらも女性らしい、柔らかく、肉付き豊かな暖かい体を抱きしめる。

 

 抵抗はなかった。

 するりと、極々自然に二人がベッドに倒れこむ。

 顔を真っ赤にして、ユリカはアキトに為されるがまま、組み敷かれている。

 混乱している。突然のアキトの行動に反応できていない。

 

「あ、やだ・・・・・」

 

 顔は横を向いたまま、視線だけでアキトの方をうかがう。

 視線が合った瞬間、再びユリカは恥ずかしげに目を逸らした。

 その頬に手をやり、顔を正面に向けさせる。視線は恥ずかしげに逸らされたままだ。

 有無を言わさず、唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして現在。

 ユリカの裸身が目の前にある。

 安心しきった無防備極まりない姿で、アキトに体を預けて寝息を立てている。

 硬直から覚めるとまず最初に心に浮かんだのは罪の意識だった。

 

 浮浪者のようにさまよっていた自分を案じて、ここに連れてきてくれた。

 体を温め、食事も用意してくれた。

 うじうじしていた自分を叱ってくれさえした。

 それなのに自分のしたのは・・・劣情に任せて彼女を奪うことだった。

 衝動を抑えきれず、彼女の純粋な好意につけ込んだ。

 同じ過ちを犯してガイを傷つけたばかりで、そしてそのことを叱られたばかりだったというのに。

 

 勿論アキトからの一方的な、それだけの行為であれば、ユリカがあんなに安らかな寝顔をするわけがない。

 だが自己嫌悪に陥るアキトにそれに気がつくだけの心のゆとりはなかったし、

 マスターホウメイの元で過ごした十年間の修行の中、そういった経験を積む機会は皆無であったこともある。

 傍から見れば滑稽ではあるが、アキトにしてみれば切実だった。

 

 上半身を起こし、頭をかきむしる。

 彼女を傷つけてしまったのに、

 謝らなければいけないのに、言葉が出てこない。

 言葉が形にならない。

 ユリカの顔を見る事すらできない。

 怖かった。

 どうしようもなく怖かった。

 欲望にまかせてユリカを傷つけてしまった事が。

 彼女との間にある絆が壊れてしまう事が。

 そして何より、自分はやはり衝動のままに人を傷つけてしまう人間であったのだと言う事が。

 

 (俺は・・・・・・最低だ)

 

 自分が軽蔑されるほどの価値もないような最低の屑に思えた。

 家族が、友が、師匠が、世界中が自分を蔑んでいるような気さえした。 

 

 今、アキトはたったひとりだった。

 

 

 

 自己嫌悪こそは、最も辛い罰の一つであると言えよう。

 生きていくことだけに必死で余計なことを考えていられない、という状況でもない限り

 人は多かれ少なかれ自分に誇りを持って生きている。

 無意識のうちにでも自分にそれなりの価値があると思って生きている。

 自己嫌悪というのは、その今まで誇りに思っていたものが、

 自分の持つものの内で価値があると考えていたものが、全て無価値に思えるということなのだ。

 元から誇るものが何一つないということではない。そんな人間は自己嫌悪など感じはしない。

 奪われてしまうのだ。

 守るもの、すがるもの、支えとなるもの、それら全てを無慈悲に、徹底的に奪われるということなのだ。

 裸にされた人の心は、ひどく弱い。ほんの些細な刺激が、強い痛みを産む。

 それは皮膚を剥ぎ取られたむきだしの人体にも似ている。

 自己嫌悪、即ち自尊心を否定されるあるいは自ら否定せざるを得ない事の苦痛とは、そういったものなのだ。

 

 

 

「おはよう、アキト」

 

 柔らかい声がアキトの耳朶を打った。

 打つというほど大きくも鋭くもない声ではあったが、

 今のアキトにとってはその柔らかい声こそがまさしく己を弾劾する刑吏の声そのもの。

 他の何よりも自己嫌悪の痛みを喚起する物であった。

 背後からの声に返事も出来ず、黙って俯く。

 そんなアキトに気づかず、こちらも上半身を起こしたユリカが俯くアキトの肩にしなだれかかった。

 まだ夢を見ているような、幸せそうな表情が、ややあってきょとんとしたそれに変わった。

 

「アキト・・・・・?」

 

 反応はない。

 もう一度呼びかける。揺さぶった。

 小さく、何事かをアキトが呟いた。

 聞き取れなかったユリカが更にもう一度、呼びかけた。

 

「ユリカ・・・・・・・その、ごめん」

 

 ただ、それだけだった。目を合わせようともしない。

 む、とユリカが唇を尖らせた。

 何とはなしに置いてけぼりにされてるようで面白くない。

 

「ごめん、だけじゃわかりません。昨日も言ったでしょ。

 何が言いたいのか、はっきり言わないと駄目だよ」

 

 またしばらく、間が空いた。

 

「だって、その・・・・昨日俺はお前を・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・?」

「だから、俺はお前を無理矢理・・・・」

「なぁんだ」

 

 あっけらかんとしたユリカの声。

 カチンときたのか、思わずアキトが振り向く。

 

「なんだっておまえ・・・・!」

「アキトだって男の子だもん。だから、今回の事は許してあげます」

「え・・・・」

 

 何を言う暇もなかった。

 振り返って何かを言おうとするアキトの、その頭を優しく抱き締めた。

 温かい両手と豊かな乳房に柔らかく包まれ、アキトの思考が一瞬停止する。

 アキトを抱いた腕に、僅かではあるが力がこもった。

 

(震えてる・・・アキトが震えてる。怖いんだ。自分のしちゃったことが。

 優しいから・・・わたしの事、傷つけちゃったんじゃないかって怖がってるんだ。

 馬鹿。そんなの、気にしなくていいのに)

 

 ユリカが右手でアキトの頭を胸に抱いたまま、左手をアキトの背を抱く。

 ゆっくりと、やさしく、ユリカはアキトの頭を撫でる。

 震え、怯え、自らを責め苛むアキトの心をユリカの指がやさしく撫でてゆく。

 

「いいの。私、嬉しかった。たとえ誰かに慰めてほしかっただけだとしても、

 アキトは私を選んでくれた。私、その事がとても嬉しい」

「ごめん・・・・ごめん、ユリカ」

「いいの。いいんだよ、アキト」

 

 顔をユリカの胸にうずめたままアキトの腕がぎゅっ、とユリカの背中に回され、

 すがりつく様にユリカの体を抱きしめる。

 不安がる子供とそれをあやす母親のように。

 あるいは聖母の腕のなかで許しを請う罪人のように。

 そのまま、二人はしばらくの間抱き合っていた。

 

 

 どちらからともなく、二人は離れた。

 改めてアキトがユリカと向き合い・・・目を泳がせる。

 視線に気がついたユリカが赤くなってシーツを胸元まで引き上げた。

 

「どこ見てるのよ!」

「その、胸が、さ・・」

「何よ、アキトのえっち。昨日さんざん見たり、その・・・したじゃない!」

 

 改めて言われると恥ずかしいのか、上目遣いになりながらユリカが反論する。

 こちらも恥ずかしげに、ごにょごにょとアキトが答えた。

 

「いやその、だな、それはまぁそうなんだけど・・・」

「それに昨日はその・・・凄かったんだから!」

 

 恥ずかしげな様子はどこへやら、一転頬に手を当ててイヤンイヤンとユリカが首を振る。

 普通思春期の少女がやるからまだサマになる仕草なのだが、

 れっきとした大人の女性でありながら全く違和感がないのがなんともはや。

 ひとしきり昨夜の回想を一つ一つ口に出しながら恥ずかしがった後、アキトの反応が全くないことに気が付き、

 妄想モードに突入し掛けていたユリカの言葉が途切れる。



 見れば、アキトは真っ赤になって俯いていた。

 今度は恥ずかしくて顔が上げられないでいるらしい。

 

 

 

 

 開け放しになった洗面所の扉から、ユリカの浴びるシャワーの音が聞こえてくる。

 アキトは素っ裸のまま、ベッドに一人大の字になりながらこれからのことを考えていた。

 ユリカの事ガイの事、今日のファイトの事、メティの事ホウメイの事デビルホクシンの事ナデシコファイト全体の事・・・・・。

 思考が際限なく広がるのを抑え切れず、アキトは思案を止めた。

 とりあえず、手近なところから片付ける事に決めて、ユリカが出てくるのを待つことにする。

 

 気が付けばいつの間にか、水流の音は鼻歌とかすかなブラッシングの音に変わっていた。

 結構長く考え込んでいたらしい。

 間もなく出てきたユリカは、既に着替えていた。

 

「お待たせ、シャワー空いたよ。ジュン君待たせてるから、先に帰るね。

 料金は私が払っておくから、服が届いたらそのまま帰っちゃっていいよ」

「一晩待たせてたのか!? い、いやそれはいいけど・・・。

 そのだな、こう言うのって男が払うもんじゃないのか?」

「お金もカードも持っていないくせに生意気言わない」

 

 アキトを遠慮がちに言ってみたのを指を鼻先に突きつけ、ぴしゃりとユリカが切り捨てる。

 事実だけにぐぅの音も出ないアキトであった。

 

 

 どうにか気を取り直し、ユリカを見据えた。

 今ここで、言わなくてはいけないことがある。

 大切なことが。

 

「・・・ユリカ」

「なぁに?」

 

 意を決して、言葉をつむぎだす。

 首を傾げたユリカの微笑が、今はことさらに無邪気に思えた。

 

「結婚しよう」

「はへ?」

「その・・・こういうことになった以上、俺も男として責任の取り方はわきまえてるつもりだ。

 だから・・・・ユリカ。俺と、結婚してくれ」

 

 真剣そのものの、アキトの顔。

 思わず頬に血が上って、同時に失笑しそうになった。

 ユリカならずとも今時、一晩を共にしただけで「責任をとる」などと言う人間がいるとは思うまい。

 ユリカが昨晩まで乙女であったとしても、だ。

 

 もっとも、彼女にしても「初体験は初夜で〜」などと割と真面目に考えていたのだから人のことは言えない。

 二人とも、国宝級という点では似たもの同士に違いなかった。

 

 脳の片隅を検索し、アキトの情報を引っ張り出す。

 聞いた話では、アキトはユリカがネオジャパンコロニーから引っ越したすぐ後くらいにホウメイに弟子入りし、

 それからの歳月の大半をホウメイと二人きりで修行に励んでいたというから、

 やはりそういった方面には恐ろしく疎いのだろう。

 今まで知らなかった意外な一面にちょっと呆れて、

 同時にそう言うことを言い出すアキトがひどく可愛く思えた。

 さっきの仕返しも兼ねて、少しからかってやる事にする。

 ぴっ、と指を立てて、ちっちっち、と横に振った。

 とどめにふふん、と鼻で笑ってやる。

 

「だ〜めだよ、アキト。ライバルである私をそんな風に動揺させようとしたって。

 そんな下手っぴな誘惑に乗せられるほど、ユリカは甘くないんだぞ」

「そんなんじゃない!」

 

 ふと、かすかな違和感を感じた。

 意地になるアキトをからかいつづけるうちに、その違和感がどんどん大きくなる。

 どうも、アキトは大事なことを忘れているらしい。

 心の中で溜息をついて、アキトをからかうのを止める。

 

「ユリカ。俺は本気だぞ!」

「・・・・あのね、アキト」

 

 いきなり、表情と声音が真面目なものになる。

 そこにはアキトも殆ど聞いたことがないほど濃厚な、真摯さの成分が含まれていた。

 熱くなっていたところに冷水を浴びせられたような感触を覚え、思わずアキトが黙りこむ。

 

「アキトの気持ちはとても嬉しいよ。

 でも少なくともナデシコファイトの優勝が決まるまで私たちは敵同士だっていうのを忘れないで。

 こう言う関係になっちゃったけど、本来違う国のファイター同士が親しくするのは凄い危険なことなんだよ。

 アキトにどんな事情があるにせよ、私は優勝を譲るつもりはないし、それはアキトだって同じでしょう?

 私たち個人の間でなら、ファイトはファイト、個人的なお付き合いはお付き合い、って割り切れるけど

 国とか軍とかいうのはね、組織の論理、組織の倫理で動いてるの。

 おしゃべりしたりお食事したり、一緒にファイトを見るくらいならまだ大目に見てもらえるかもしれないけど

 結婚なんてことを、それもファイトが続いている最中に言い出したら、いくら弁解しても聞いてもらえなくなるよ。

 だから、この部屋から出た瞬間、私達は優勝をかけて鎬を削るライバルに戻るの。

 戦って、戦って、戦い抜いて。最後に誰か一人が残るまで、私達はそういう関係じゃなくちゃいけない。

 だから、その、嬉しいけど・・・とても嬉しいけど、今アキトに答える事は出来ないの」

 

 ユリカが大きく息をついた。

 やや紅潮した顔で、胸を抑えている。

 しばし、沈黙が落ちる。

 それを破って口を開いたのは、やはりユリカだった。

 

「・・・それに、考えてみたらね」

 

 くるっ、とユリカの表情が反転した。

 その顔は既に普段の色と快活さを取り戻している。

 

「私とアキトが結婚するのは子供の頃からの約束でしょ?

 今更改まって言う事でもないじゃない♪」

「・・・・うるさい!  何を言うかと思ったら結局はロクでもないデタラメか!

 もういいからさっさと自分の宿舎に帰れ!」

 

 一瞬呆気に取られたアキトが照れ隠しか大声をあげ、枕を投げつける。

 あはははは、と明るい笑い声を残して一瞬早くユリカが扉に滑り込み、素早く閉じた。

 閉めた扉に当たり、妙に気の抜けた音を立てて枕が床に落ちる。

 

 アキトの完敗であった。

 

 しばらく、何とはなしにその扉を見つめていたアキトだったが

 やがて、ふう、と息をついて再びベッドに大の字になった。

 一人きりになると、とたんに今までの事で心が一杯になる。

 ガイのこと、メティのこと。そしてユリカのこと。

 

 (俺は、昨日このベッドで、その・・・ユリカを・・・抱いたんだよな)

 

 そう呟いた途端。

 昨夜指先に感じたユリカの肌のしっとりとした滑らかさや狂おしく吸った甘く柔らかい唇。

 ねっとりと絡めた舌の感触、己の胸板に押しつぶされた豊かな胸乳の弾力と突起の感触。

 抱きしめた体の柔かさ、吸い付いてくるような肉付き、男のそれとは全く違う吐息の甘さ。

 必死に痛みを堪えるユリカに感じた愛おしさ、夢中でしがみついてくるユリカの喉から漏れるあえぎ、

 そしてふわりと広がった髪の香り・・・・

 それらの感覚が一気に甦った。

 

 何も考えられなくて、ただただ必死に動いていただけの筈なのに

 自分でも信じられないほどはっきりと、アキトはそれを記憶していた。

 カッ、と顔に血が昇るのと同時に、昨夜さんざん酷使した筈の分身が無節操にまたいきり立つ。

 慌ててシーツで下半身を隠し、抑えようとしても収まらない生理現象にしばらく意味もなくあたふたした後、

 どたばたとシャワールームに走りこみ冷水を浴びる。

 別に誰も見ていないのだから慌てる必要はないのだが。

 多分。

 

 全身の火照りが引き、動悸が収まってゆくのにつれて勢いを失ってゆく自身を見下ろし、

 何かを言い訳する様にアキトが一人ごちる。

 

「まあ、その、なんだ。

 これくらい元気なら今日のファイトもそれほど問題はないだろう」

 

 この場にシュバルツが、あるいはホウメイがいたら問答無用で鉄拳制裁を受けそうな言い草ではあった。

 

 

 

 

 ちなみに帰り際、服を届けてくれたボーイに渡すチップがなくてまたもや恥を掻いた事を追記しておく。

 

 

 

 

 

 

「ごめん、ジュン君ちょっと車で待ってて。アキトを寝かし付けたら帰るから」

 

 そう言って、彼女は半ば意識を失っている男を支えながらホテルに入っていく。

 ジュンに出来たのは、ただその言葉に頷いてその背を見送ることだけだった。

 それはジュンの見ている夢。だが、昨夜現実にあったこと。

 

 

 コンコン、と運転席の窓を叩く音でジュンは目を覚ました。

 窓の外にユリカの顔を確認すると、仮眠を取るために倒していたシートを元に戻して後部座席のドアを開ける。

 ユリカが腰をおろすと、そのままジュンは車を出した。

 

 「寝かしつけたら帰るから」と言っていた彼女が今まで出てこなかったのは、まぁ、そう言うことなのだろう。

 にもかかわらず、意外と自分が冷静である事にジュンは驚いていた。

 勿論胸の奥深くにこらえがたい痛みは有るのだが、取り乱したり我を失ったりはしていない。

 ただ、諦観を伴った喪失感があるだけであった。

 

 ともかく、走りながらこれからのことを考える。

 まぁコウイチロウは上手く言いくるめておいたし、

 無断外泊と公用車を出しっ放しにした件についてはどうにかなるだろう。

 一番まずいのは、ユリカとアキトが二人でホテルに入ったという事実が公になる事だ。

 個人的なスキャンダルで済めばまだしも、成り行きによっては

 ナデシコファイトの公平性を著しく損なったなどとしてネオジャパンともども即時失格になりかねない。

 そうなったら最後ユリカはおろかコウイチロウも責任を取って良くて退役、最悪軍事裁判送りになる。

 それだけはなんとしても避けたいが・・・こればかりはジュンの手には余った。

 昨夜のアキトはジュンですら一目では気づかないほどに様子が変わっていたから、

 ユリカがホテルに連れ込んだ相手がネオジャパンのナデシコファイターだったと言うことに

 誰も気づかなかったことを祈るしかない。

 そんなジュンの様子にはやっぱり気がつかず、ユリカが声をかけてくる。

 

「あのさ、ジュン君。領事館・・・お父様のほうには連絡はしてくれた?」

「大丈夫、上手くごまかしておいたよ」

「わ、さっすがジュン君! 頼りになるね!」

「あはは・・・僕はユリカの友達だからね」

「うん、ジュン君はユリカの一番のお友達だよ!」

 

 そんないつもどおりのやり取り、いつもどおりの苦笑。

 いつもと同じ、だがどこか決定的に違うユリカの笑顔に、

 自分の十年越しの片思いはやはり片思いで終わったのだな、とジュンの中に漸く実感が込み上げて来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の登場は例によって唐突だった。

 ネオジャパン領事館の、ガイに割り当てられた個室。

 うとうとしていたガイのベッド脇に、あの新宿以来御馴染になった三色の覆面がいきなり現れる。

 鮮やかなトリコロールに顔を覗き込まれた瞬間いっぺんに目が覚めて、慌てて上半身を起こした。

 急激な運動に体が軋み、いっせいに悲鳴をあげて抗議する。

 刺すような(実際刺されたのだが)胸の痛みと強烈なめまい、それに吐き気もセットでガイを襲う。

 胸を抑え、脂汗を浮かべたガイが盛大に顔をしかめた。

 

「あらごめんなさい。驚かせちゃったかしら」

「当たりまえだ! まったく、どうやって入って来た・・・って聞いても意味ないか、アンタにゃ」

「簡単よ」

 

 胸を抑えたまま、それでも落ち着いたらしくガイが苦笑を漏らすと、答えるシュバルツの声にも笑みが混じった。

 白い手袋に覆われた右手がつるり、と顔を撫でる。

 黒、赤、黄のトリコロールカラーによってドイツ製であることを強固に自己主張していた覆面が

 ガイとも顔見知りのネオジャパン領事館勤務の軍医の顔に化けた。

 

「ざっとこんなところだ。納得はいったかな?」

「声まで変わるのか、器用なもんだな。それもゲルマン忍法ってヤツか」

「まぁね」

 

 素直に感心しているガイに、今度は地声(という保証はないが)で答え、もう一度顔を撫でる。

 元通りの覆面が撫でた手の下から現れた。 

 

「で、何しに来たんだ? もう明日はウチとアンタんとこでファイトだってのに。

 あの首相のことだ、下手すりゃ失格にされかねねぇぞ」

「あら、ご挨拶ね。お見舞いよお見舞い。思ったより元気そうで安心したけど」

「・・・そうでもねぇんだけどな」

 

 はっきりと、ガイの顔が自嘲に歪む。

 シュバルツの目がいぶかしげに細められた。

 ガイはそれっきり何も言わない。

 ややあってシュバルツが口を開いた。

 

「ふむ。話せることだったら話してみない?

 力になれるかどうかわからないけど、一人で溜め込むよりかは大分マシだと思うわ」

 

 返事は返ってこなかった。

 シュバルツも、無言のまま待つ。

 時計の針が時を刻む音だけが部屋に響き、二人の間に下りた沈黙を強調する。

 シュバルツはなおも無言のまま辛抱強く待ち続けた。

 

 大きく、息をつく音が部屋に響く。

 ガイが再び苦笑しながらシュバルツを見やった。シュバルツが再び目元に笑みを浮かべる。

 覚悟を決めたのか根負けしたのか、ともかくもう一回深呼吸してから、

 一言ずつ区切るようにしてガイは話し始める。

 それを聞いていたシュバルツの表情が、次第に固い物へと変わっていった。

 

 気が付けば、ガイはあらいざらい――起こった事実だけではなく、誰にも話したことのない心の裡まで――

 今までずっと感じていたアキトの役に立てていないのではないかという不安、

 戦術面で役に立てないコンプレックス、本当に自分が必要とされているのかという疑念、

 そんなものまで喋ってしまっていた。

 シュバルツは僅かな相槌を打ち、呼び水を向けるだけで後は黙って話を聞いている。

 終わる頃には、その目に固いを通り越して剣呑なものが宿っていた。

 ガイの話が終わった途端、ぶちまけるようにシュバルツが叫ぶ。

 

「・・・・・・・ったくもう、本当に救いようのない馬鹿ね、あの人は!」

「『あの人』?」

「アキト君のことに決まっているでしょう!」

 

 珍しく、シュバルツは本気で腹を立てているようだった。

 大抵のことは苦笑するか相手を軽く嗜めて終わらせるような、落ち着いた人物だと思っていただけに

 ガイにとってはこの反応は少々意外だったが、もっと意外だったのは彼女の言葉遣いの方だった。

 アキトに対して「あの人」などという言い方をシュバルツが使ったことはない。

 それに普通、明らかに年下の人間を差す時に使う表現ではないだろう。

 何か引っかかった。

 だが、その違和感を確かめる暇もないままにシュバルツの次の言葉が来る。

 

「ガイ君がどういう状態だったか、見ればわかりそうなものじゃない!

 20にもなって、そんなくらいの気遣いが出来ないようでどうするのよ!

 アキト君はいつもそうなのよ。子供の様に目先の事しか見えていない。

 周りの人間の気持ちなんかこれっぽっちも見えちゃいないのよ。

 だから自分の気持ちだけにかかずらって、ガイくんの気持ちを思いやる事も出来なかった。

 ・・・・もっとも、拳を交えなければお互いを理解する事も出来ない武闘家なら

 ある意味それが当然なのかもしれないわね」

 

 今度はガイの方が黙ってシュバルツの言葉を聞いていた。

 シュバルツとの会話と違和感の正体とアキトへのもやもやした感情が三つ巴になって攪拌され、

 意識をどれかに集中できないほどに激しく、心の中で渦巻いている。

 到底、返事を返すまでの余裕はなかった。

 

(・・・しかし、なんでこんなことまで喋っちまうかなぁ。ルリちゃんやハーリーにならまだしも)

 

 だがそれより何より、他の誰にも話していないことをシュバルツに話してしまったのが一番の不思議であった。

 誰にも話したことはないし、金輪際話す気もなかった。

 ルリやハーリー、もしくは今は亡きシュンやアイといった『家族』になら聞かれたら話したかもしれない。

 だが赤の他人であり、ましてや他国のファイターである。

 今まで誰にも漏らした事のない秘め事を伝える相手として適当であろうとは到底思われなかった。

 

 尤もそのガイも、ユリカに薄々悟られていた事には気が付いていない。

 ガイも結局のところ人の心の機微には疎いほうであるし、隠し事も苦手である。

(もっとも、今までユリカ以外には悟らせなかったわけだし、ユリカもガイと幼い頃からの付き合いでなければ気が付かなかったに違いない)

 今頭の中で複数の思考が絡み合って渦を巻いているように、考えを整理するのもどちらかと言えば苦手だ。

 もっとも、次のシュバルツの言葉でその渦も綺麗さっぱり消えてしまったが。

 

「それとパートナーとしての役割の話だけど・・・・・・

 そうね、あなたが役に立てていないと言うならその通りなんでしょう」

「むぐっ」

 

 ごくあっさりと、シュバルツが端的かつ無慈悲な結論を下した。

 自分でもそう思ってはいるが・・・わかってはいてもきついと思わざるを得ない。

 あからさまにへこんだガイを見て、シュバルツの声が優しくなった。

 

「けど、一人で何もかもできる人間なんてどこにもいやしないわよ。どこにもね。

 そんなの当たりまえの事でしょう? ・・・ま、勘違いしてる人もいるみたいだけど。

 それと同じように、出来ないものは出来ないのよ。人には能力差とか向き不向きとかがあるんだから」

「じゃあ、どうすればいいんだよ?」

「できることをやればいいのよ」

 

 月並みな答えだけどね、と付け足してガイを見つめるシュバルツの目が一際優しくなる。

 何とはない気恥ずかしさを感じ、ガイが目を逸らした。

 

「出来ない事を無理にやる必要はないし、それはむしろアキト君にとってもマイナスよね。

 なら、今自分の能力の範囲で可能な事をやるしかないじゃない?

 勿論、できることを増やす事、自分のレベルを高める事も選択肢のうちだけど」

「・・・・・・」

 

 唇を引き結んだガイを見て、シュバルツは心の中で笑みを漏らした。

 彼の性格はよく知っている。

 不器用だが、きっかけさえあれば何が何でもゴールまでたどり着く、こころの力強さがある。

 もう後は自分で答えを出せるだろう。

 シュバルツには自信があった。なにせ、殆ど生まれたときからの付き合いなのだから。

 

「ところで、そのアキト君は今何をしてるのかしら?」

「んあ? ああ、アイツなら昨日の朝メティちゃん探すんだー、って言って出て行ったきり音沙汰なしだとさ」

 

 ガイが肩をすくめる。

 くすくすとシュバルツが笑う。

 

「ふふ。相変わらずね、彼も」

「相変わらずって・・・・」

「ほら、昔から言うでしょう」

「・・・・・」

 

 じ、と二人が見詰め合う。

 次の言葉が出たのは全く同時だった。

 

「「馬鹿は死ななきゃ治らない」」

 

 くすくすと、またシュバルツが笑う。

 ガイの口からも、自然に笑いがこぼれた。跳ね上がるように笑い声が大きくなっていく。

 

「・・・・・は。 は、はははは・・・・・・あはははははははははははははははははははは!」

 

 笑う。辺り憚らぬ大声で、鬱屈した物を、何もかもを吹き飛ばすかのように、腹の底からただ笑う。

 一笑いするごとに腹に溜まった澱が吐き出されていくように思えた。

 笑いながら、気持ちよさそうに言葉を吐き出す。

 

「馬鹿は死ななきゃ治らない、か! 確かにその通りだな!」

「あなたと同じでね」

 

 空気が喉に詰まったのか、アヒルが踏み潰されるような音を立ててガイが沈黙した。

 しばしあって表情を変え、大袈裟に嘆息する。

 先ほどの笑い声に比べ、こちらはかなりわざとらしい。

 

「おいおい、否定はしないけどそいつぁひでぇなあ。

 怪我人に聞かせるにはちぃとばかし愛の足りないセリフじゃねぇか?

 落ち込む余り自殺でも考えたらどうしてくれるんだ」

「あらごめんなさい、私のポリシーなのよ。気遣いは必要があるときだけすることにしてるの」

「やっぱりひでぇな」

 

 相も変わらず目に笑いを浮かべたまま、シュバルツが切り返す。

 ガイの笑顔に、ごく僅かだが苦笑が混ざった。

 と、表情を今度は真面目なものに切り替えてガイがシュバルツに問う。

 

「ところで参考までに聞かせてくれないか。アンタはクルーとどう付き合ってるんだ?」

「あら、そう言うことだったら参考になれないわね。私クルーがいないもの」

 

 ふとした思いつきでした質問だったが、返ってきた答えを聞いてガイがまた目を剥いた。

 

「クルーがいない!? 体調管理や戦術サポートはまだしも、整備とかはどうやってるんだよ?」

「自分でやってるわ。ナデシコシュピーゲルには自己修復機能もあることだしね」

「自己修復機能!? ンな、デビルホクシンじゃあるまいし!」

「ふ、ネオドイツの科学技術は世界一、出来ないことなどないのよ。

 自律型金属細胞がネオジャパンの特許だとは思わない事ね」

 

 笑みを含んだ声でシュバルツがお国自慢を始める。

 が、すぐに肩をすくめた。

 

「もっとも、制御に成功してる分性能はアルティメット細胞よりも随分と落ちるけどね。

 熱変換を元にした自己増殖による再生とある程度の簡単なプログラミングができる程度」

「十分すげぇよ。それにしてもそんなもんの開発にいつ成功したんだ?

 一応技術者の端くれのつもりだが・・・・全然聞いたこともなかったぜ」

「当たりまえよ、国家機密だもの」

「なるほど・・・・って、おいっ!」

 

 さらりと言った言葉の内容に頷きかけ・・・ぎょっとしてガイが目を剥く。

 笑みを含んだ声でシュバルツがそれをいなした。

 

「大丈夫よ。この大会が終わったらその存在を内外に公表するつもりらしいから、

 この程度の情報を漏らすくらいなら別に問題はないわ」

「そ、それならいいけどよ・・・」

 

 冷や汗を拭うガイを見て、シュバルツが楽しそうに笑っている。

 その笑みに気が付いたガイが白い目を向けてもその笑みが消えることはなかった。

 くすくす、と本当に楽しそうに笑っている。

 ふと、既視感が生まれる。

 友人の妹。今はデビルホクシンに魅入られ、その虜となった少女。

 ミカンが好きで、こましゃくれていて、頭の回転は子供と思えないほど速くて、

 それでいていつも大好きな兄にべったりだったあの少女も、

 こんな風によくガイやハーリーをからかってけらけら笑っていた。

 

「・・・・どうしたの?」

「あ、いや、なんでもねぇよ」

 

 ズズッ、とガイが洟を啜った。

 サイドテーブルのティッシュを乱暴に引っ張り、二、三度盛大に鼻をかむ。

 首を傾げながらも、シュバルツは何も言わずその様子を見守っていた。

 

 

 

 

 

「それと、もう少しいいかしら。貴方に聞きたいことがあるのよ」

「俺に? ・・・・って事は、アレか」

「そ、多分ご想像の通りよ」

「あの時の事ならエリナ達には話してあるんだから、記録を直接持ってけばいいじゃねぇか。

 どこにあるかオレは知らないけど、あんたなら簡単に持ってけるだろ?」

 

 自国のセキュリティを欠片ほども信用していない物言いだった。

 もしエリナ達が聞いていたら泣くか怒り出すかのどっちかだろう。

 もっとも、この謎の女性にもガイをしてそう言わしめるだけの実力が確かにあるのだが。

 

「そうだけど直接聞きたいこともあってね、お見舞いついでにこうしてお邪魔したわけ」

「まぁ、知ってる事ならな。別にエリナから口封じもされてねぇし」

「それを言うなら口止めよ、ガイ君」

 

 質問はメティのさらわれたその時の状況から始まった。

 2度目でもあり、それなりに淀みなくガイが質問に答えていく。

 その中でもシュバルツが特に熱心に尋ねたのは、最後に直接ガイを刺し、メティを拉致した影についてだった。

 

「顔は見たかしら」

「いや、影だけは見えたんだが、なんせ朦朧としてたからなぁ。

 中肉中背だった、って位しか・・・・・・あ、平均よりゃ背は高かったかな」

「どんな声だった?」

「ん〜、サビの入った渋い声だったと思う。後、妙に物言いが時代がかってたかな」

「気配は、全然感じなかったのね?」

「ああ、全く」

「他には?」

「ん〜、いまんとこ覚えてるのはそれで全部だ」

「そう」

 

 眉を寄せ、シュバルツが腕を組んで考え込む。

 さすがに疲れたのかガイが大きく息をつき、頭をぼりぼりと掻いた。

 

「すまねぇな、役に立てなくてよ」

「いえ、それだけわかれば十分よ。・・・おかげで、重要な情報が得られたわ。

 ありがとう。長話させて悪かったわね」

「なぁあんた・・・・」

「そうそう、忘れてたわ」

 

 連中の事を知っているのか、とガイが尋ねようとしたのと同時に、シュバルツが何かを取り出した。

 家電の量販店で使われるような、ありふれた紙の手提げ袋がベッドに置かれる。

 タイミングを逃したガイが仕方なく袋を膝の上に引き上げて中を覗きこんだ。

 小さ目のブリーフケースほどもある、これもありふれた包装紙に包まれた箱が入っている。

 大きさの割に重くはないが軽いという程でもない。

 

「これは話のお礼というか、お見舞いね。確かこれで貴方のコレクションも完成すると思ったけど」

 

 その物言いに、本日三度目の違和感を感じたガイが顔を上げて何か聞き返そうとしたときには、

 シュバルツの姿は既に部屋の中にはなかった。

 

 

 

 そして一分後。

 ネオジャパン領事館全体に爆音が轟いた。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」

 

 

 この時最も大きな被害を蒙ったのは、当然だが扉の前でガイの部屋を警護していたSPたちであった。

 殆ど音響爆弾並みの音量に二人とも一瞬耳を抑えてうずくまったが、そこはプロ。

 ショックから立ち直ると即座に態勢を整え銃を抜いた。素早くアイコンタクトを交わして扉を蹴り開ける。

 完璧なタイミングを取って突入、拳銃を構え・・・・・・・・・思わず一歩引いた。

 

 確かに、いい年をした男が滂沱の涙を流しながら玩具の箱を抱えている姿というのはサマになるものではない。

 と、言うか怖い。

 

『ゲキ・ガンガーV+ゲキガビッグ&ゲキガコスモ

 DX大熱血合体セット初期バージョン』

 しかもネオホンコンやネオタイ製のパチモンじゃなくて

 クローバートイス純正品っ!

 画期的な変形機構により設定通りの合体を完全再現、

 かつ伝説級の可動範囲とプロポーションを誇る

 史上最強の超合金アイテムになるはずが

 倒産により生産ラインが停止、

 どさくさ紛れに金型も紛失して

 ついに初期ロット1000個分しか発売されなかったという

 一億ゲキガンマニア垂涎の幻の一品が!

 俺の、この俺の手に!」

 

 ガイの肩が小刻みに震えていた。

 シーツに、ぼたりぼたりと熱い水滴が滴っている。

 男泣きであった。

 

「ぐ・・・・う・・・・ふぐうっ!・・・・・」

 

 誰も、声をかける事が出来ない。

 SP二人が辛そうに目を逸らした。

 そのままそそくさと部屋から退出していく。

 それにも全く気づかず、ガイは随喜の涙を流しつづけた。

 

「うおおおおおおおおおおおおん!

 俺は今、猛烈に感動しているっ!

 ありがとう心の友よ!

 俺は今こそお前に永遠の友情を誓おう!」

 

 

 部屋の外でSP二人がげんなりしているのを、無論この男は知らない。知っても恐らく気にしない。

 と、そのげんなりしていた片方が携帯通信機を取り出す。

 回線を開くと、目の下に見事なクマを作ったエリナの顔が映っていた。

 いつもならつやのある黒のボブに映える白い肌も、今は心なしか張りと輝きを失っている。

 それでもこれは張りのある、毅然とした声が男に報告を要求する。

 

『状況の報告を』

「はっ。本日1104時ネオジャパンナデシコファイトクルー、ダイゴウジ・ガイの部屋から爆音が発生。

 突発事態と判断して我々二人は即座に突入し、その結果爆音はダイゴウジガイの声と判明、

 問題なしと認めて通常任務に復帰しました」

『ダイゴウジ・ガイに危害を加えるような要因もしくは加えられた痕跡は無かったのね?』

「肯定です。ダイゴウジ・ガイ本人に肉体的異常は見受けられませんでした」

『・・・で、一体全体何があったのよ』

 

 そこでエリナの声にどっと疲労が滲んだ。軍人口調も崩れている。

 男が思わず同僚と顔を見合わせた。

 溜息を一つつき、こちらも軍人口調を止めてどこか投げやりに報告を続ける。

 

「男泣きに・・・って言っていいものかどうか判りかねますがとにかく泣いてましたよ。

 ありゃ感動の涙って奴なんですかねぇ」

「おいほら、アレ」

「ああ、そうそう。なんか見舞いの品らしき玩具の箱を抱えてました。DXゲキガンガー・・・とかなんとか」

『・・・そう、ありがとう。色々大変だと思うけどもうしばらく頑張ってね』

「「サー・イエッサー」」

 

 それだけで、経緯は把握できたらしい。

 額に皺を寄せ、疲れきった表情のエリナがSPの労をねぎらう。

 通信機のモニターを挟み、鏡に映したようにそっくり同じ、疲れきった表情でSPたちが答えた。

 

 

 

 

 

 ひとしきり感動し、涙を流し、叫び、舐めるように視線を這わせ、頬擦りし、鼻息を荒げ、目を血走らせ、

 その他あれこれしてしまうと漸くガイは平静になった。

 あるいは正気を取り戻した、という表現のほうが正確かもしれない。

 

 まぁそれはさておき、この見舞いの品を見た瞬間頭から綺麗さっぱり吹き飛んでいたが、

 考えれば考えるほど一つの大きな疑問に行き当たる。

 

「それにしてもシュバルツの奴は、この俺様ですら持っていない希少品をどうやって手に入れたんだ?

 しかも未開封の完品かつ超美麗品。一体全体どんな手品を使って・・・・・・・」

 

 ではなくて。

 

「って、待て待て待て待て! それより重要なことがあるじゃねぇか!」

 

 自他ともに認める、筋金入りのゲキガンマニアであるガイである。

 人生の半分とは言わないまでも、三分の一くらいはゲキガンガーに費やしたといっても過言ではない。

 元々家がそれなりに資産家かつ本人も意外に高級取りの上で

 収入の殆どをゲキガングッズ、特に超合金の蒐集に惜しみなくつぎ込んで来た男だ。

 そのコレクションのおかげで、その筋ではちょっとした有名人ですらある。

 そのガイですら所有しておらず、同時にガイが所有してない唯一の超合金アイテムこそ、

 この幻の、否、伝説の初期バージョンであった。

 

 何せゲキガンガーは殆ど全てのコロニー及び地上で放映されたかなりメジャーなアニメであり、

 世界中にファンがいる、つまり需要が極めて高いにもかかわらず

 全地球圏にたった1000個しかない究極のレアアイテムなのだ。

 販売数だけを比べるなら、イベント限定のカラー違いバージョンとか販売店限定の特殊バージョンなどは

 更にもう一桁数が少ないが、こちらは知名度が違う。

 

 本来、これも傑作トイと呼び声も高い超合金『ゲキ・ガンガー3 超熱血合体セット』の後継アイテムとして

 メインスポンサーたるクローバートイスから堂々発売されるはずだったのが

 放映半ばにしてクローバートイスが倒産、会社側と製作側の奔走により

 急遽他の玩具会社をスポンサーにつけたが、不幸な事故により金型と設計図が焼失。

 更にはゲキガンガー本編もスポンサー倒産のあおりを受けて1クールの短縮を余儀なくされてしまう。

 

 結局一般発売された標準バージョンでは可動範囲が減少、支援メカとの合体ギミックはオミットされ、

 DXタイプでも本編に登場しなかったドラゴンガンガーへの合体は再現されなかった。

 本編の設定どおり5タイプに変形合体する(それで名前が「ゲキ・ガンガー『V』」という訳だ)アイテムは

 海賊版や個人製作などを除けばこの初期バージョンのみなのである。

 

 つまり本来メインスポンサーの発売する基本アイテムであり、かつ超合金玩具の中ではもっとも大型、

 更には非変形のものやリメイク版などを含めた数多のゲキ・ガンガー超合金の中でも

 最高の完成度を誇るにもかかわらず、地球圏全体でただの1000個しか生産されなかった代物なのだ。

 この幻の初期バージョンは発売当時、既に伝説のレアアイテムだったのである。

 ただ単に数が少ないだけの限定カラーバージョンや珍しいだけのパチモノなど、到底及ぶところではない。

 

 ガイですら所有できなかった理由、そしてガイがここまで感動し、驚愕した理由がそこにある。

 しかし、今ガイを悩ませている理由は別のところにあった。

 この伝説のレアアイテムですら誤魔化せないほどに違和感は大きく、今や殆ど確信に達しつつある。

 

「あん時、ヤツは・・・シュバルツは『これであなたの超合金コレクションも完成ね』って言ってた、確かに言った!

 ちぃとでも事情を知ってるなら、この幻の初期バージョンはまず持ってないだろう、って事は推測できるだろう。

 だが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 オレがそれ以外のアイテムを全部持っていることを、どうして知っているんだ?!」

 

 世間話で、何かの拍子にそんな話が出たのかもしれない。

 だが、理由はわからないがそんな単純なことではない、とガイの勘は告げている。

 今日、何度も感じた違和感の正体。

 違和感が一つなら気に留めずに忘れていたかもしれない。

 だが違和感を違和感として認識してしまった今、忘れることはもう出来なかった。

 じっとり、とガイの額に汗が滲む。

 理由はわからないが、この違和感を突き詰めた先に、何故か恐ろしい結論が出てくるような気がしたのだ。

 

 カチリ。

 

 唐突に、頭の中でパズルのピースが全て嵌った。

 考えまいとして、だがガイの脳はその「ひらめき」という働きによって違和感から答えを導き出してしまった。

 自分でも信じられない結論。

 だが、何度考えてもそれを決定的に否定する要素が見つからない。

 最後にたった一つ残った真実。

 それ以外に答えのない、残酷な真実。

 

「何て・・・こった・・・」

 

 ショックの余りか視界が暗転する。体に力が入らず、ベッドに倒れこむ。

 先ほど病み上がりで大声を出したせいか、あるいはたった今導き出された結論のせいか。

 ガイの意識はふっつりと途切れ、心地よい落下感とともに深い闇の底へ落ちていった。

 

 

 

 

 ネオジャパン=ゴッドナデシコ対ネオドイツ=ナデシコシュピーゲル。

 決勝リーグ戦の最後を飾る大一番。

 その日の、試合開始の三時間前にようやっと放蕩息子は帰って来た。

 家長・・・もとい責任者であるエリナが腕を組んでアキトを睨みつける。

 心なしかやつれた頬とあいまって、その視線の生み出す迫力はちょっとしたものだった。

 

「二日連続で外泊した挙句に朝帰り? いい度胸してるじゃない!

 今日はシュバルツとのファイトが・・・」

 

 それを手で遮り、アキトが口を開く。

 

「知ってるよ。済まなかったな、迷惑をかけた。ガイはどうしてる?」

「意識不明よ。アキト君にキツいこと言われたショックが来たのかもね」

「・・・ああ、そうかもしれないな」

 

 カチンと来て皮肉をぶつけては見たが、返って来た反応はエリナにとって少々意外なものであった。

 ガイの事を心配していないわけではないし、責任を感じていないわけでもないのは見て取れる。

 それでいて痛いところを突かれた時にいつも見せていたような心の乱れが見えない。

 何とはなしに、今までなかった落ち着きのようなものが感じられるのだ。

 この二日間の間に何があったのかという疑問を抱きながら口調を変え、改めて質問に答える。

 

「・・・・とりあえず身の危険は無くなったみたいだったから、ネオジャパンの息の掛かった病院に移送したわ。

 ケガのほうは無理をすれば決勝バトルロイヤルには間に合うかも、と言うところ」

「そうか」

 

 頷き、アキトがマントを翻して格納庫のほうへ歩き始めた。

 エリナが思わず呼び止めようとして、上げたその手が途中で止まる。

 悠然と歩み去るアキトのその背は、明らかにエリナの記憶しているそれよりも大きくなっていた。

 本当に何があったのかという疑問に改めて捕われながら、エリナは形容しがたい表情でアキトを見送っていた。

 

 

 格納庫には、さざなみのようなざわめきが満ちていた。

 恐らく整備員の誰かがアキトの姿を見ていたのだろう。

 アキトが格納庫に足を踏み入れると、ざわめきが低くなる。

 代わりに、ある種緊張した雰囲気が漂い始めた。

 

 悠然と、アキトが歩く。

 視線を動かさず、また視線の焦点を定めずに、視界に収まる全てに意識を向ける。

 周囲を観察、または警戒するときの基本だ。

 これができるということは冷静さを失っていないという目安にもなるが、

 それでも何かに備える態勢を無意識に整えているのは、アキトが緊張している証だろうか。

 ややあって僅かに身を翻し、その進行方向を変える。

 真っ直ぐ進む先にハーリーがいた。

 

 

 格納庫に入ってきたときから、ハーリーはアキトに気がついていた。

 最終チェック項目を纏めたメモから顔を上げ、傍らの整備チーフとの会話を中断してアキトを注視する。

 下手すればハーリーの祖父といってもおかしくないベテランの整備チーフも

 一瞬怪訝な顔をした後にアキトに気がつき、僅かに緊張した顔でアキトの一挙手一投足を見守っている。

 

 アキトがハーリーの前で立ち止まる。

 そのまま気負いもためらいもなく、ごく自然に頭を下げた。

 

「ハーリー・・・・済まなかった。整備のみんなもだ。迷惑をかけたな」

 

 整備員たちが互いに顔を見合わせる。

 露骨に驚いた表情を見せるもの、皮肉げな笑みを浮かべるもの。

 反応はさまざまであったが、彼らの間に流れる空気はおおむね好意的だった。

 唯一、ハーリーだけが硬い表情を崩していない。

 僅かにためらった後、口を開いた。

 

「あの・・・・」

 

 が、そのまま口をつぐむ。遠慮しているようにも、口に出していいものかどうか計りかねているようにも見えた。

 アキトが苦笑してぱたぱたと手を振った。

 

「ああ。判ってるよ、ガイのことだろ? ファイトが終わったら、病院に行って殴られてくるさ」

「いえ、そうじゃなくて・・・」

 

 ハーリーの硬い表情は崩れない。表情が晴れるどころか俯いて口篭もってしまう。

 そこで、漸くアキトが怪訝そうな顔になった。

 視界の隅で、ハーリーが拳を握ったり開いたりしているのに気がつく。

 アキトと整備班チーフが見守る中、なおも暫くハーリーはためらっていたが、やがて意を決したか顔を上げた。

 唾を飲み込み、大きく息を吸う。

 

「その・・・・・・・・・メティちゃんは、見つかりましたか?」

 

 意外と言えば意外、当然といえば当然な質問にアキトの表情がはっきりとした陰りを見せる。

 その表情だけでハーリーには十分だった。フォローしようとしてるのか、慌てて言葉を継ぐ。

 

「その、兄さんの事はまだいいんです。

 怪我はしたけど無事だし、アキトさんとの喧嘩も初めてって言うわけじゃないし。

 でも、メティちゃんは正体も何もわからない奴等にさらわれちゃって・・・

 そんなときに、僕は何も出来なくて・・・・・!」

 

 言葉が途切れた。

 自分の言葉に昂ぶったのか、顔を紅潮させてぶるぶると震えている。

 その肩に、アキトの手がそっと置かれた。

 自分を見上げるハーリーに、淡々とアキトが言葉をつむぐ。その目が優しい。

 

「それは、俺も同じさ。ガイに偉そうな事を言って、結局何も出来なかった。けど、当てがないわけじゃあない。

 メティちゃんをさらったヤツが誰かは知らないが、いずれデビルホクシンがらみだろう。

 ならデビルホクシンを追って行けばおのずとその所在は明らかになる。取り戻す事だって出来る。

 だから・・・今はやっぱりナデシコファイトで勝ち進むのが遠回りに見えて確実だと思う。

 だからハーリー。ガイがいない今俺が頼れるのはお前だけなんだ。力を貸してくれ」

 

 返事が出来なかった。

 戸惑ったわけではない。勿論嫌だった訳でもない。

 こんなにも頼りにされたのは、多分生まれて初めてだったから、ただ心が一杯だった。

 返事が出来ないでいるうちに、チーフの節くれ立った固い手が、どん、とその背中を叩いた。

 その皺だらけの厳しい顔が、太く固く、それでいて優しさを感じさせる男の笑みを浮かべてハーリーを見ている。

 

「そうですよ、主任。俺たちは、俺たちにできることをやりましょうや。

 それに『頼れるのはお前だけ』なんて言われて奮い立たないようじゃ男がすたりますよ?」

「班長・・・ありがとうございます」

 

 泣きそうな顔で礼を言い、ハーリーがアキトに向き直る。

 打って変わって真摯極まりないその視線を、正面からアキトが受け止めた。

 アキトの目を見据え、ハーリーがはっきりと、思いを言葉にする。

 

「メティちゃんのこと、お願いします。僕は・・・アキトさんがファイトに勝てるようにゴッドを整備しますから」

「・・・・ああ。任せておけ」

 

 その変化に僅かながら目を見張りつつ、大きく笑みを浮かべてアキトが頷いた。

 男子三日会わざれば即ち刮目して見よ、と古人は言う。

 この三日の間に、この二人もまた刮目すべき成長を遂げていた。

 

 

 

 その二人の姿を横目に、微笑を浮かべたまま整備チーフが大声を張り上げる。

 40年間鍛え上げた喉は格納庫の隅から隅までよく通った。

 

「よぉっし、野郎ども! 漸くノロマ野郎のファイター様が来やがったからな! コクピットの調整はじめるぞ!

 モビルトレースシステムのテストもするから、センサーまわりは早いとこチェック済ましちまえ!」

「「「ウッス!」」」

「後三時間しかねぇんだ、モタモタするなよ!」

「「「ウッス!」」」

「マキビ主任のガールフレンドを助けるためだ、俺たちも一肌脱ごうじゃねえか!」

「「「ウォォッス!!」」」 

 

 全員、さっきの会話はきっちり耳に入っていたらしい。

 チーフが檄を飛ばすたびに威勢のいい返事が返ってくる。

 ついでに口笛や冷やかしまでが盛大に飛びかい、ハーリーが再び真っ赤になった。

 

「止めてくださいよ! メティちゃんと僕とは単なる友達であって、その・・・・そう言う関係じゃ」

「はは、照れなくたっていいでしょうに」

「違いますってば!」

「まぁ、若い頃は何事も素直になれないもんですからなぁ」

「だから!」

「全くですよ。まぁ目と目で通じ合うってのもいいんですが、

 ここぞと言う時にははっきりと言葉で気持ちを伝えなきゃいけませんぜ、主任。

 あーあ、俺もあの時、ちゃんとコクってりゃあなぁ。今ごろは美人の嫁さんとしっぽり・・・」

「人の話を聞いてくださいよぉ!」

 

 結局整備員たちにからかわれるハーリーだった。

 人間、成長はしてもそうそう変われる物ではないらしい。

 苦笑しながらその場を離れようとしたアキトを、そのハーリーが呼び止めた。

 

「あ、ちょっと待って下さいアキトさん。モビルトレースシステムの最終調整をしたいんですけど、

 コクピットに入ってもらえますか?」

「ん? 今までそんな事はした事が無いぞ?」

 

 戸惑いを含んだアキトの答えに、ハーリーが一瞬口篭もりながらもさらに言い募る。

 

「その、ライジングナデシコとは全く違う癖が出ていて・・・両方とも設計したのは僕ですけど

 僕にもわからない、何か特殊な調整が施されてるみたいなんです。

 残っていたデータだけではそれが再現できなくて、

 その、兄さんだったらそんなことをするまでもなく調整できたんでしょうけど・・・」

「そうか、分かった」

 

 声と表情が僅かに平板になった。

 ハーリーにも気づかれてはいないだろう。

 だが、この時アキトは確かに喪失感を覚えていた。

 

 

 

 

「さて、いよいよ決勝バトルロイヤルだね」

「ええ。残すこの対戦が終われば、です。」

 

 何が楽しいのかホウメイの独白にくすくす笑いながら、

 メグミがモニターに表示されるゴッドナデシコとナデシコシュピーゲルの映像を指す。

 ネオホンコン行政庁の地下。

 ナデシコファイト決勝が始まって以来、メグミとホウメイの密談に使われることをもっぱらとしてきた

 この部屋もそろそろその役目を終えようとしている。

 

「アキトさんとシュバルツは一度ナデシコファイトで対戦したことがあったそうですね?

 その時はシュバルツの圧勝だったとか・・・・」

「今のテンカワは心技体ともに格段の進歩を遂げている。あの時のような無様は晒すまいよ」

「ふふ、大した自信ですねホウメイ先生・・しかしこれを見ても同じ事が言えますか・・?」

 

 メグミの表示させた映像を見て、さすがのホウメイが一瞬息を呑む。

 

「全勝同士の最後の一戦は、特別に電流金網時限爆破デスマッチで行います。

 リングの周囲と上方は強化した金網で完全に覆い、更にそこに電流を流す。

 制限時間内に相手を倒さない限りリングの外には出られず、

 設置された五万発の時限爆弾で、リングもろとも・・・というわけです」

「随分と悪趣味じゃないか。こんな舞台をわざわざしつらえて・・・何か意味があるのかい。

 下手すれば今までの努力がすべて無駄になるんだよ」

「当然ですとも。我々の目的はアキトさんを最強のファイターにすること。

 最強の敵に加えて絶対の死地を用意することで、アキトさんはさらに強くなるのではありませんか?」

 

 常に最強の敵を。常に絶対の死地を。

 決勝リーグが始まった当初より、ホウメイが言いつづけてきたことである。

 そして、それで死ぬようなら所詮それまでとも。

 

「それにデビルホクシンを完全復活させるためにはあらゆる障害を取り除いておかねばなりません。

 あの女を、シュバルツ・シヴェスターを排除できるならリスクを冒す価値はあるでしょう」

「・・・・・・」

 

(そう、あらゆる障害は取り除いておかねば・・・・)

 

 無言のまま、メグミが視線を鋭くする。

 ホウメイがこれも無言のまま、それを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 拳が風を切り裂く。

 踏みしめた軸足が力を大地から汲み上げ、腰を経由して蹴り足に低く、重い唸りを上げさせる。

 身を翻し、肘。

 大きく踏み込み、左右の連続突き。

 両手が円を描くように回転し、相手の体勢を崩す。

 そこにとどめの突き。

 いずれも一撃必殺の技一つ一つを滑らかな流れの中で繋げ、実戦的な戦闘技術へと昇華させている。

 流派東方不敗の演武。アキトは躍動的でありながら舞うが如き淀みなく美しい動きでそれをこなしていた。

 

 ファイト開始時刻まで後三十分。

 サムライが斬り合いの前に己の愛刀を研ぎ磨くように、

 会場の人気のない片隅で、アキトはシュバルツとの決戦に向け己の心と体を仕上げている。

 相手はシュバルツ・シヴェスター。幾度となくアキト達を助け、導いてきた謎の戦士。

 かつてアキトを容易く下したその実力は、恐らくマスターホウメイにも匹敵するものがあろう。

 だがそれでもアキトは負けるわけにはいかない。

 ならば選べる選択肢はただ一つ、勝つことのみ。

 

 いつの間にか現れたナオ、舞歌、リョーコ、そしてユリカたちシャッフルの面々がそれを見ていた。

 笑みを浮かべるもの、厳しい目つきで睨むもの、興味深げに見るもの、表情はさまざまではあるが、

 皆程度の差はあれ、その顔に共通して感嘆かそれに近いものを浮かべている。

 彼らも、見かけはどうあれその道一筋でやってきた猛者たちである。

 動きを見ただけでもう、今のアキトに迷いがない事がわかるのだ。

 

 演武が終わった。

 空手の息吹のように脇を締めて大きく息をつく。

 最初に口を開いたのは、先ほどからアキトを睨みつけていたリョーコだった。

 その眼差しは厳しいながらも、先ほどに比べて険は薄れている。

 

「おい。なんかやけに爽やかな顔してやがるが、アイツには謝ってきたんだろうな?」

「いや、意識不明って話だったからな・・・・・・ファイトが終わったら行って来るさ」

「そうか」

 

 言って、息をつく。リョーコとしてはそれだけで十分なのであろう。

 後ろのナオも似たような表情をしていた。

 代わって舞歌が口を開く。

 リョーコが常に素直に生きているのと同様、こんな緊張した状況でも、相変わらずこの女性は艶っぽい。

 

「いよいよ、ね。共に全勝同士、最後の戦い」

「ああ」

「私も・・・というかアキト君以外四人ともだけどシュバルツには負けちゃってるからね。

 あなたが最後の砦って訳なのよ。・・・で、勝つ見込みはあるの?」

「さあな。俺はいつもの通り全力でぶつかるだけだ」

 

 いっそ素っ気無いほどに答える様は本当にいつも通りで、思わず舞歌が微笑む。

 そこへナオが割り込んだ。

 

「に、してもメグミ首相も相変わらずろくでもないことばっかり考えるよなぁ。

 互いに全勝同士、放っておけばどっちも決勝進出確定なのに、わざわざデスマッチを設定するんだぜ?

 生き残れるのはどちらか一人、悪くすりゃあ両方とも」

 

 そこで言葉を切り、握った拳を開いて爆発のジェスチャーをするナオ。

 

「BOMB! だ。マスターを優勝させるための策にしても、ちと陰険過ぎるぜ」

「いや・・・それが主たる目的とは思えないな」

 

 ポツリと呟いたアキトの言葉にまずナオが、次いで舞歌が反応する。

 

「ほう? そいつぁどう言うこったい?」

「それは私も興味があるわね。何かあったの?」

「いや・・・・・・・」

 

 そのまま僅かに間を置く。

 

「悪い、忘れてくれ。俺も自信のある話じゃあない」 

「あ、そう」

「ま、何にせよ応援してるぜ」

「ああ、テンカワにゃ勝ってもらわないといけないな」

「わかってるさ」

 

 さっきから喋ってない人間がいることに気がつき、舞歌が隣に座っていたユリカに目を向けた。

 普段ならアキトに鬱陶しがられるくらいに話し掛ける彼女が、今日に限っては一言も喋っていない。

 

「あなたは何か言わないの? 応援できる最後のチャンスよ」

 

 決勝バトルロイヤルが始まれば互いに敵同士なのだから、と言外に滲ませる。

 その言葉に少しためらった後、ユリカが二三歩踏み出し、アキトに呼びかけた。

 

「あ、あの・・・」

「・・・・なんだ?」

 

 二人の視線が交錯する。

 こぼれるように、ユリカが微笑んだ。

 

「頑張ってね、アキト」

「ああ」

 

 アキトも微笑んで返す。

 言葉だけを聞けば、何気ないやり取り。

 が、ユリカが言いアキトが答えたその瞬間、他の三人の動きが止まった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 リョーコは唖然と。ナオは信じられないものを見たという顔つきで。

 そして舞歌は邪悪な微笑みを浮かべつつ、実に興味深げに。

 戸惑うアキトとユリカに視線が集中する。

 舞歌やナオはまだしも、そちらのほうには疎いリョーコですらはっきりとわかる程、

 今の受け答えは自然で、そして濃密だった。

 

 アキトとユリカが何か不安げに周囲を見た。

 三本の視線が更に強さを増し、無言の圧力に二人がたじろぐ。

 その奇妙に緊迫した雰囲気の中で最初に口を開いたのは、やはりというべきか舞歌だった。

 目が異常なまでにキラキラと光っている。だが、開いた唇から言葉が漏れる前に。

 

「ふ、仲がよくて結構な事ね」

 

 その寸前、均衡は破られた。

 五人がいる空間の奥、うず高く積まれた木箱の山の上。

 たった今まで何者の気配も感じなかったその場所に、人の気配と声がある。

 間違いなく、彼ら新生シャッフル同盟を相手にこんな真似ができるのは一人しかいなかった。

 

「シュバルツ・シヴェスター!」

 

 確かに誰もそこにはいなかった。

 いずれ劣らぬ猛者であるシャッフルの面々だ。

 こんな近距離に人がいたとすればたとえ気配を消していても気がつかぬわけがない。

 だが現にシュバルツはそこに出現していた。

 悠々と、海風に白衣をなぶらせて腕を組み、仁王立ちで5人を見下ろしている。

 

 アキトは、己が無意識のうちに構えていたのに気がついた。

 気配を悟らせずに己の攻撃圏に姿を現したシュバルツを、体が本能的に敵と判断している。

 ちらと横を見れば、他の4人も同様だった。シュバルツに視線を戻し、叫ぶ。

 

「ファイト前に何の用だ、シュバルツ・シヴェスター!」

「ただの挨拶よ。パートナーを失ってしょげた顔をしているかどうかも確かめたかったしね」

 

 アキトの、そしてユリカのシュバルツに向ける視線の中に怒りが混じる。

 怒りを向けられた本人は悠々とそれを受け止めていた。

 

「貴様とは関係のないことだ! それにたとえガイがいなくとも・・・・俺は勝つ!」

「ふふふ。鼻息だけは一人前だけれども、それだけで私に勝てるとは思わない事ね」

 

 挑発を繰り返すシュバルツ。

 思わず怒鳴りかけた自身を抑え、アキトがいっそう強く、その澄まし顔を睨みつけた。

 笑みを浮かべたのか、シュバルツの覆面の口元が僅かに歪んだ。

 

「まあいいでしょう。言ってわからないのならばこれから貴方の体に教えてあげる。

 それに、この私を倒せないようでは所詮デビルホクシンには太刀打ちできない!」

 

 自分を指し、次にアキトを指して断言するシュバルツ。

 アキト以外の四人の顔が屈辱とは少し違う、矜持を傷つけられた痛みとでも言うべきものに歪んだ。

 

「た・・・確かにシュバルツ一人に総崩れとあっては、シャッフル同盟の存在意義は無い!」

「負けちまった俺たちが言うのもなんだが・・」

「頼むぜ、テンカワ!」

「ああ、言われなくてもそのつもりだ! たとえ相手が誰であろうと、ただ全力でぶつかるのみ!」

 

 シュバルツの目が笑みを含んで細められる。

 だが、笑みには違いなくともそれは紛れもなく肉食獣のもの。

 戦いの予感に牙を剥き相手を威嚇する、雌豹の笑みだった。

 

「ふふ・・・良い気迫だこと。ならば話の続きはファイトでする事にしましょう」

 

 出現したときと同様、その姿が瞬時に消える。

 自分に向けられたユリカと、他三人の視線にアキトが大きく頷いた。

 マントを羽織り、身を翻す。

 風に真紅の衣をなびかせるその様には、出陣するサムライの風格がある。

 無言のまま、視線にそれぞれの思いを込めて四人がその背を見送った。

 

 

 

 

 

その二へ