「当然じゃあないか。僕はモンモランシーを心の底から愛しているのだからね」
「ああ、嬉しいわギーシュ。私幸せすぎてもう死んでしまいそう!」
「僕という薔薇は君ただ一人のために咲いているのさ、モンモランシー」

歯の浮くようなとはこの事か、とショウは思った。ホウライの武家では男女ともに慎みが求められる。人前でこのようなセリフを吐いたりいちゃついたりするのは、ショウの道徳観からすればかなり恥ずかしい事だ。
ヤンとキュルケの事は敢えて考えないでおく。郷に入っては何とやら、とも言うし。
そんな内心を表情には出さずギーシュの横を通り抜けようとした時、彼のポケットから何かが落ちた。ガラスでできた小壜で、中に紫色の液体が揺れている。ショウは足を止めてギーシュに教えてやった。

「おい、ポケットから壜が落ちたぞ」

が、例によって臭い(そして頭の悪い)セリフを連発しているギーシュはショウの言葉に気づかない。仕方なくショウはしゃがみこんで小壜を拾う。

「落としたぞ」

そしてそれをテーブルの上に置いた。
ワインを一口啜ったギーシュがそれに気づき、振り向く。次の瞬間、その瞳が大きく見開かれた。

「君は……ショウとかいったな、ルイズの使い魔の」
「ああ」

その瞳が熱を帯びた、射抜くようなものに変わる。知らず、ショウの体に緊張が走った。この少年はショウとは特に関係が無いはずだが、知らないところで恨みを買っている可能性もありうる。あるいはルイズの関係かもしれない。
相手は魔法使いだ。この間合では侍である自分が負ける要素はないが、油断していいわけでもない。それ以上に相手が貴族であれば下手な対応がトラブルに繋がる可能性もある。
そのショウの緊張を知ってか知らずか、ギーシュが立ち上がり、ずいっと一歩踏み出した。

「瓶を拾ってくれた事については感謝しよう。それから、だ……」

ショウは無言のまま、次の言葉を待つ。
間合いは半間(0.9メイル)、何かあれば一歩踏み込んで当身を食らわせる事の出来る距離だ。
空中でショウとギーシュの視線が交錯し、火花を散らす。
いつの間にか周囲から音が消えていた。二人の間にある異様な緊張に周囲も気づいたのだ。
その沈黙の中。

「ショウ、好きだ! 愛している! 君が欲しいっ!」

ギーシュは食堂中に響く大声で叫び、情熱的にショウを抱擁した。
ショウが、いや、周囲の人間全てが石になった。
生徒や教師、給仕をしているメイド達に至るまで、指の一本といえど動かせる人間は、今この場にいない。




   第三話 『石化』




話は数時間ほど前、朝食が終った少し後に遡る。

ショウとルイズが本当の主従の契りを交わしてから一週間余りが経っていた。
ショウとヤンが学園の外の草原を連れ立って歩いている。
二人ともこの前の休日に王都トリスタニアで買ってきた動き易い服の上から、鎧下に着る皮の胴着を防具代わりに身につけ、目の詰まった木材を削って作った粗末な木剣と、ヤンは盾も持ってきていた。ショウも背中に自分の剣を背負っている。
曰く、常住坐臥剣を手放さないのは侍の心得なのだとか。
実際にショウは寝る時も剣を抱いて寝ている。戦乱の時代に生きた人間ならではの心得だろう。

「それにしても何でもない一言で泣かれるとは。あの時はさすがに参りましたよ。あれに比べたら買い物にえんえん付き合わされるほうがどれだけましだったことか」
「あれはまぁ間が悪かったのもあるけど、ショウ君が悪いよ。そうでなくても男と女だったら泣かせた方が負けだ」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ。特にルイズちゃんみたいな子は下手に男のほうが意地を張ると引っ込みが付かなくなるから、ちょっとした事が原因で最悪の結果になっちゃう可能性もある。
 だから、そういう時は適当な所でショウ君の方から引いてあげないと駄目だよ」

むむむ、と眉を寄せてショウが唸る。まあ、男所帯で育った13才の少年には少々難しい話ではあろう。
周りで女性といえば母親か鬼のような継母だけ、同年代の友達も男ばかり、という環境ではむべなるかな。
ヤンも女性経験豊富という訳ではないが、それでも故郷では女の子達と遊ぶ事もあった(オモチャにされていたとも言う)し、トレボー城塞では年上の恋人とよろしくやっていた(若いツバメとも言う)し、こちらに来てからはキュルケに可愛がられているし……
ショウが考え込む傍ら、これまでのことを思い出したのかヤンはちょっと遠い目になっていた。

「……なんだか分からないけど、大変だったんですね」
「いやまぁ、それほどでも……あるかな」

会話が途切れた。いつもの場所に到着し、二人が向き直って互いに一礼し、構える。
しばらく機を窺っていたが、やがて二人が同時に踏み込み、草原に重い木剣同士のぶつかる鈍い音が響いた。

あの後、授業に出ても頬杖を突くか寝てるだけならいなくても同じだろうと言う事になり、それぞれの主の許可を貰って授業時間中は二人で鍛練をすることになったのである。
ちなみにリリスのほうは相変らず熱心に授業を聞いている。ここ二三日はタバサに字を教えてもらって、図書館にも入り浸っているらしい。
それは置いておいて、二人の鍛練は主に木剣での立会いと素振りであった。
二人ともレベルに差はあれ実戦を経験したベテランである。軽く走り込みなどもするが、基本的に基礎体力作りの段階はすでに終っているのだ。
むしろ剣を振り、立会いを繰り返す事で、より実戦向けの肉体を作り鍛えこむと言うのが彼らの世界における鍛練の常道である。
走りこみや腕立て伏せではなく、あくまで実戦の動きで実戦に即した肉体と技を作り上げる、という思想であった。



何十回目かの立会い、四合ほど打ち合った末に、一際重く鈍い音が響く。フェイントで体勢を崩され盾のガードが空いた瞬間、ショウの上段からの鋭い振り下ろしが決まり、打ち込みに耐えかねたヤンの剣が叩き落された。

「っち〜」
「はい、一本」

衝撃で痺れたか、右手をブラブラさせながらヤンが顔をしかめる。その額には大粒の汗が光っていた。一方ショウはうっすらと汗をにじませる程度である。
二人の立会いはこれでもう数百回、今日だけでも三十回目ほどになるが、今のところ全てショウの勝ちであった。
いささか情けない結果ではあるが、あちらはマスター侍、こちらはせいぜいが中堅レベルの平戦士、と力量に圧倒的な差があるのだから仕方がない。仕方がないのだが……せめて意地にかけて一本位は取りたいヤンである。
立会いは午前の授業終了の鐘が鳴るまで、あるいはヤンが気絶して続行不能になるまで続く。昼食の前にリリスと合流、回復呪文を掛けてもらって午後は座学。座学といってもショウによる『気』の扱い方のレクチャーがメインなので、実践形式である事も多い。
それから更に十回ほどヤンを叩き伏せた後、彼が肩で息をしているのを見てショウは小休止を取ることにした。
ヤンが草原に座り込んで水筒の水を貪るように飲み、むせる。ショウは珍しい穏やかな表情でそれを見ている。視線に気づき、ヤンが照れ笑いを漏らした。

「にしても、ショウ君は強いなぁ。俺もそこそこ経験は積んだつもりだったけど、その年でマスターレベルってのは凄いよね」
「生まれたときからずっと戦争でしたからね。経験を積む機会には事欠きませんでした。運良く生き延びる内にいつの間にか、と言う感じですね」
「そっかぁ。俺やリリスさんの場合、戦争なんて生まれる前の話だからなぁ。村の大人に話は聞いてたけど、いまいちピンと来ないんだ。トレボー城塞に行くまで剣なんて見たことも無かったよ」
「いい事だと思いますよ。戦争をやっているよりずっといい」
「……そうだね」

一瞬だけ、まだあどけなさが抜けきっていないショウの横顔が風雪を経た老人のそれのように見えた。恐らく、自分では想像もつかないようなことをこの年で見てきたのだろうとヤンは思う。

「そう言えば俺はお二人と1000年も離れてましたけど、ヤンさんとリリスさんも10年くらい離れてたりしないんですか?」
「それなんだけど、新人冒険者を紹介する催し――ここでベテランパーティの人たちが見込みありそうな新人を探して、パーティに迎え入れるんだ――で、リョウという人と一緒になったことがあってね。これがリリスさんの仲間らしいんだよ。
 リョウさんと俺がほぼ同時で、リリスさんとリョウさんも同時にトレボー城塞に来たみたいだから、リリスさんと俺の年齢差、6年が大体俺達のずれに当るんじゃないかってリリスさんは言ってたな」
「へぇ、同窓だったんですか。そう言えばワードナの迷宮とやらについては詳しく聞いたことがありませんでしたね。休憩の間に教えてもらえますか?」
「いいよ。そうだね、まずはトレボー様のことから話そうか」

ヤンの語る千年後の世界で起きた大事件の話に、ショウはしばし我を忘れて聞き入った。
リルガミン王家の由緒正しき血筋に生まれながらもその飽くなき征服欲で「狂王(Mad Overlord)」と呼ばれた男、トレボー。
主力が遠征中の隙を突き、その居城に攻め入った五ヶ国連合軍の前に風前の灯だったその生命を救ったのは、謎の大魔道師ワードナであった。
ワードナの召喚した謎の軍勢の前に五ヶ国連合軍は一夜にして壊滅し、ワードナはトレボーより褒賞として町外れの土地を下賜される。しかし、ワードナの本当の目的はトレボーの家に先祖代々伝わる伝説の『魔除け』だったのだ――

「『魔除け』! あの伝説の、"古きもの"を封じ込めたと言う!」
「そうそう。やっぱりショウ君の時代でも有名な話なんだ」
「それは勿論。聖典にも書かれてるくらいですからね」

『魔除け』を取り戻したくば我が迷宮へ来たれ、と言い残し、ワードナは『魔除け』を奪い去った。
怒り狂ったトレボーは軍勢を差し向けるが、ワードナが褒賞として得た土地にはその言葉どおりいつの間にか広大な地下迷宮が建設されており、しかもその中には無数の怪物たちがひしめいていた。
巨人族(ジャイアント)、不死族(アンデッド)、竜(ドラゴン)、獣人(ライカンスロープ)らを初めとする禍禍しい闇の生物達。そして魔界の奥底より召喚された悪魔族(デーモン)。
それら、かつて"『魔除け』の勇者"に封印され、既に伝説の中にしか存在しなかったはずの"古きものども"こそが、ワードナの命に従い五ヶ国連合軍を壊滅させた謎の軍勢の正体であったのだ。
派遣された軍隊は精鋭であったが、あくまでも人間同士で戦うために訓練された軍であり、人知を超えた怪物たちには歯が立たなかった。
数度の失敗の後、兵の消耗を恐れたトレボーは布令を出し、ワードナを倒し『魔除け』を取り戻したものに莫大な褒賞と比類無き名誉を与えると約束する。
そして各地から腕に覚えのあるもの、実戦で腕を磨きたいものが集まり、ワードナの迷宮の名は一躍世界中に広まったのである。

「今でも一攫千金や出世を夢見る人たちが集まって来ていてね。ピンからキリまでの冒険者達が六人パーティを組んで毎日迷宮で戦い続けている。俺やリリスさんもそういう冒険者の中のひとりだったってわけ。
 何せ迷宮の中では怪物どもが金貨を落す上に今じゃ中々作れない魔法の武器や防具、その他貴重なアイテムがざっくざく出てくる。腕を磨くのと一攫千金が同時に出来て、しかも王の近衛隊に入れるとなればこりゃ人が集まらないほうがおかしいよ。
 今じゃむしろそう言った冒険者たちのおかげで町が大いに潤ってるくらいでさ」
「なるほど……それであんな貴重な装備に身を固めていたんですね。その守りの盾もそうですが、俺の時代だったらあの装備のうちどれかひとつだけとっても城か屋敷が建ちますよ」
「あはは、俺の装備は俺自身が稼いだ物じゃなくて、パーティの先輩方に融通してもらったものなんだけどね」

それからしばらくは装備の話に花が咲いた。剣や甲冑は前衛職の彼らにとって命を預ける相棒であり、自然見栄えや価値よりは切れ味だの使い勝手だのの方に話が行くことになる。
とりわけ西方出身であるヤンにとってショウの剣は非常に興味深い物であった。

「ショウ君の持ってるのは"カタナ"だよね。俺はカタナと言えばパーティの先輩が持っていた『村正』しか見たことが無いけど」
「村正! それは俺の時代のホウライでも、もう伝説の中の存在ですよ。ヤンさんの時代にはリルガミンに流出しているのか……ああ、俺の持ってるのは当然そんな国宝級の代物じゃなくて、真改という、まぁそこそこの刀ですが」
「国宝級か。確かにとんでもない破壊力だったなぁ。妖刀なんて言われてるのも納得できるよ。同じ位強いはずのロードの先輩のカシナートでさえ全然及ばないんだから。そこそこって言うけどショウ君のもカシナートより強いのかな?」
「まぁ、ある意味カシナートより上と言えば上なんですが……」

どう説明した物かと考え込むショウ。二人の間にはかなり大きな認識の違いがあった。
それも当然でショウの出身地であるホウライは侍と忍者の発祥の地であり、当然その装備についても質量ともにヤンの出身地であるリルガミンとは比較にならない。
ヤンの時代には何者かの手によって数本の国宝級の名刀がワードナの迷宮に持ち込まれており、そのうちの一振りがヤンのパーティの先輩(トレボー城塞では最強クラスの侍)が持つ『村正』である。
したがってヤンの認識では「刀=村正=最強武器」なのだが、ホウライ出身者のショウにとっては一口に刀と言ってもそれこそ村正や伝説のクサナギといった国宝級の代物から、殆ど世に知られない無名の刀工の打ったものまでピンキリである。

ショウの真改は鳳龍家に代々伝わる銘刀であるが、格としては当主であるショウの父が持つ『国綱』に大きく劣る。後年のショウも手柄を立てたときに下賜された『一文字』を佩刀にし、真改は家に置いていた。
とは言え真改もそれなり以上の格をもつ銘刀であることには違いなく、下級の侍には中々手に入るものではない。あくまでも一流の国綱や超一流の一文字に比べると、という話である(ちなみに村正は評価不可能レベル)。

付け加えるならば彼らの世界の刀にはいわゆる数打ち(大量生産品)というカテゴリーが存在しない。
侍発祥の地ホウライであっても前衛職が全員侍と言う事はさすがに無く、侍の数がそれほど多くないのがひとつと、形が刀であっても戦士でも使えるような大量生産品は一緒くたに長剣(ロングソード)に分類されてしまうためである。
ホウライではそうした数打ちも「刀」と言うことはあるが、通常は「刀」といえば侍にしか扱えない、つまり侍の剣技を発揮できる一定以上の質を持つ銘入りの剣のみを指す。つまり、同じ「刀」でも戦士が使うのは長剣、侍が使うのが本物の刀と言うわけだ。

話を戻すと村正が最強の武器である事はショウとしても異論が無いのだが、それは村正に他の魔法の剣を凌駕するような強大な魔力が付与されているからでは決してなく、村正が侍の能力を最大限に引き出している結果に過ぎない。
侍だから強力な武器が持てるのではなく、侍が使うから強力なのだ。
剣技の話に限定するならば、肉体的な強さを追求した戦士やロード、スピードを身上とする忍者と言った他の前衛職に対して、侍は"気"を使った攻撃に特化したクラスである。
そもそも"気"を操ることを主眼とする侍の剣技を最大限に生かす武器として生み出され進化してきたのが"刀"であり、それ以外の武器では侍の発揮できる剣技は戦士やロードと大差ない。

例えば同じカシナートの剣を使う場合でも戦士やロードは純粋に鋭く強く振る事でダメージを与えるが、侍の剣技は斬撃そのものよりも剣から放つ"気"を用いてダメージを与える事を主眼としている。
だがいかに名剣カシナートとはいえ本来はあくまでも戦士やロードの為の武器。
戦士の剣技に最適化された重量、分厚い刃、頑丈な刀身は鋭く重い斬撃を繰り出す事ができるが、"気"の精密なコントロールに向いていないその刀身では、侍といえども放出できる"気"の精度と密度は戦士やロードとさほど差は無い。
結果、最終的な威力を比べた場合、侍の得意とする"気"の威力も他のクラスが持ち味とする膂力やスピードによって相殺されてしまうのだ。
カシナートの持ち味である硬度や頑丈さといった特質も、侍にとっては無用の長物とは言わないまでもメリットよりデメリットのほうが大きいのである。
対してショウの真改のような"刀"は形状、材質、鍛造方法に至るまで"気"を制御するために工夫された武器である。
腕力に任せて振るうのであれば頼りないとしか思えぬその細身の刀身や薄い刃も、ひとたび練達の侍が"気"を通せば巨人族の大剣をも凌ぐ破壊力を発揮する。
村正ともなれば、本人が意識せずともただ握るだけでその"気"を収束・放出し、ひとたび振るえば1レベルの侍がただの一太刀で巨人族を絶命させたと伝えられるほどだ。
結果として、戦士にとっては最高クラスの剣カシナートに剣としての質そのものでは劣るものの、真改は使い手次第で"気"を操ってそれに匹敵する破壊力を生み出すことができる。
一撃の威力は同等でも高レベルの侍にとってはそちらのほうが戦術に応用の利く分戦いやすい。ショウの言った「カシナートよりは上」というのはそういう意味だ。

「我が家に伝わる金言では侍の剣術の要諦は気の制御(コントロール)にあり、と言いますが、侍にとって刀は剣であると同時に"気"の制御に用いる導体の役目を果たしているんです」
「ああ、侍の剣術は"気"の制御ってのは訓練所で聞いた覚えがあるよ。戦士やロードの剣術は気の爆発的放出、忍者の剣術は気の集中、だったっけ?」

単純に言ってしまうと"気"をそのまま相手に叩き付ける戦士やロード、放出するのではなく武器に集中させ、体術と組み合わせて斬り裂くのが忍者、と言うことである。
(ちなみにこの"気"の集中という特性は忍者の代名詞であるクリティカルヒット=即死攻撃を繰り出すのにも一役買っている)

「俗にロードの達人は剣圧で山を吹き飛ばす、などと言いますね」
「凄い人は本当に凄いからねー」
「そうか、ヤンさんは高位のロードが実際に戦うところを見たことがあるんでしたっけ」

ちなみに、ショウは直接にロードが戦うところを見たことがない。只でさえ希少なクラスである上に、彼の故郷ホウライではロードはホウライ王家の人間のみがなれるクラスであった為だ。
それでも彼の父や兄であれば敵にしろ味方にしろ戦場で見たことがあるのだが、ショウはたまさか召喚される時までそうした機会がなかったのである。
一方、ヤンの修行していたワードナの迷宮ではロードもさほど珍しくはない上に(勿論数は少ないが)、彼の所属していたパーティの事実上のリーダーは戦術の天才と謳われた高位の女ロードである。
同じパーティの侍にはさすがに劣るものの、ヤンから見ればその剣撃の威力は驚異の一言であった。

それはともかくこれらのクラスが(ロードや忍者と言ったエリートクラスでも)相当の高レベルでなければ意識して"気"を扱う事は出来ないのと対照的に、侍は素質のあるものであればそれこそ1レベルであっても気を用いた剣術を使いこなす。
刀身から圧縮した気の刃を噴出させて間合いの離れた敵を斬る事もできれば、極限まで集中して鋼を豆腐の如く斬ることも容易い。高レベルの侍が名刀を持てばその力はまさしく隔絶。これこそ侍が破壊力において他のクラスの追随を許さぬ理由なのだ。
勿論これは侍が無敵であると言うことではない。一般論で言えばともかく実際には力量、素質、装備や経験の差、あるいは時の運によっていくらでも勝敗の天秤は傾く。
ただ「村正を持った侍」が最強の剣士の代名詞であることには殆どの人間が異論を唱えないだろう。

うん、とショウが伸びをして立ち上がった。話に熱中していたせいか、少々休み時間を長めにとってしまったらしい。

「さて、そろそろ再開しましょうか」
「よし、今日こそは一本取らせてもらうぞ!」
「その意気や良し。ですが易々と取らせるつもりはありませんよ」

ヤンが木剣と盾を構え、気合を入れなおす。青眼に構えたショウが不敵な笑みを浮かべた。



結局ヤンが一本も取れず叩きのめされ続けている内に学院の鐘が鳴り、午前中の授業の終了を告げた。二人は立会いを切り上げると、肩を並べて学院に向かって歩き出す。
ショウが薄く汗ばんでいる以外平常どおりであるのに引き換え、ヤンの頭にはいくつもこぶが出来、体も打ち身だらけだ。歩く足取りもやや頼りない。この二人の対比はここ数日もうおなじみになりつつあった。
今日はまだましなほうで、二日目などはショウの一太刀をまともに貰ったヤンが額を割って気絶してしまい、血だらけのままショウに学院まで引きずられる羽目になった。
おまけに学院に戻ったときには血を見たメイドや女生徒達が卒倒してちょっとした騒ぎになりもした(なので、次の日からは学院の門の外でリリスと待ちあわせし、そこで回復呪文を掛けてもらうことにしている)。
ちなみにショウたちの中には血を見た位でどうにかなる人間はいない。ショウたち三人やタバサは戦場なり迷宮なりで戦ってきたベテランであるし、ルイズやキュルケも初日の斬殺シーンを見てしまったからには今更気絶したりはしない。
さすがにキュルケは大怪我をさせたショウに食って掛かっていたが、これも鍛錬にはつき物だとヤン本人に言われてはしょうがない。
やり場の無い怒りにむくれるキュルケとそれをなだめるのに一生懸命なヤンを見て、リリスなどはくすくす笑っていたものである。
もっともヤンを治療したのもそのリリスであるから怒るに怒れず、その日一日キュルケのストレスはたまりっぱなしであった。
ヤンによると「あの日は昼よりも夜の方が酷い目に会った」そうだが、その夜何が起きたのかは当の本人たちのみぞ知るところである。
ただ翌朝部屋から出てきたキュルケが実にスッキリした顔をしており、対してヤンはリリスに快癒を掛けてもらうまで死人のような顔をしていた事は記しておこう。

そして今日もまた、校門前でリリスが待っていた。水の入った桶と濡れ手ぬぐいを用意して来ているあたり、もう慣れた物である。二人に絞った手ぬぐいを渡しながら、ヤンを頭から爪先までざっと眺める。

「今日もまた、随分やられたわね。やっぱりショウ君には勝てない?」
「ですねぇ。打ち込みの早さや正確さもそうですけど、動きに無駄が多すぎるって何度も言われましたよ」
「右の脇が結構喰らってるわね。まだ癖が治ってないの?」

さすがマスターレベルの司教、いや元マスター僧侶と言うべきか、リリスの観察眼は鋭い。
迷宮での戦闘では負傷したり麻痺や石化などの状態に陥った仲間を素早く回復させる事が求められる。当然、仲間の状態を素早く、かつ正確に把握する事は回復呪文の使い手にとって必須のスキルである。
もっとも今はその鍛えた眼力も大して意味がない。緊急性が無い上にどのみちヤンには快癒(マディ)をかけて全快させてしまうからだ。
一方怪我もなければさほど消耗もしていないショウであるが、こちらにも一応大治(ディアルマ)をかけて疲労を取り除いておく。
快癒は勿論、ただの疲労回復に大治など、かつてのパーティメンバーが見れば目をひん剥く事だろう。快癒が切り札的呪文である以上、大治は最も使用頻度の高い回復呪文である。平和だからこそできる贅沢であった。
その後再びショウたちはリリスと別れ、井戸で水を浴びてから食堂で昼食を取る。
初日に汗をかいたまま食事をとろうとして女性陣からブーイングを浴び、食堂に来る前の水浴びを義務付けられてしまったのだ。リリスやタバサはそう言った臭いにも免疫があるのだが、やはり好んで嗅ぎたい臭いではないらしい。
まぁ、汗の臭いを好んで嗅ぎたがる人間が友人であったらそれはそれで嫌だろうが。
そして昼食。体を動かしているせいか、ここ数日は明らかに二人の食べる量が増えている。そして食事が終った後は食休みがてら六人で雑談にふけるのが習慣となりつつあった。
今日はその途中でショウが手洗いに立ち、ここで冒頭の事件に繋がるのである。



一方その少し前。ギーシュは、数分後に自分が食堂全体を石化させるなどとも知らず、脳天気に歯の浮くセリフを吐いていた。

「当然じゃあないか。僕はモンモランシーを心の底から愛しているのだからね」
「ああ、嬉しいわギーシュ。私幸せすぎてもう死んでしまいそう!」
「僕という薔薇は君ただ一人のために咲いているのさ、モンモランシー」

なーにーがー、君ただ一人のために咲いているー、よ。
モンモランシーは思う。
二人でいてもかわいい下級生が脇を通ればそちらに目が行くし、私に言ったのとそっくり同じ褒め言葉で他の子を褒めちぎるし、酒場ではちょっと席を立った隙に給仕娘を口説くし、あまつさえデートの約束をすっぽかしてよその女の子のために花を摘みにいってしまうし。
授業中、斜め前の女生徒のスカートがめくれ上がって太ももが露出していたのをマリコルヌと一緒に熱心に観察しているのに気づいた時は、二人まとめて息の根を止めてやろうかさえと思った。
おまけに睨みつけた視線に気づいたマリコルヌが、恍惚の表情でくねくねする不気味な光景まで見てしまい、不機嫌のボルテージは上がりっぱなしである。
ケティには完璧な勝利を収めたものの、やはり大本を断たねば問題は再発しつづけるらしい。
とりあえずあのデブには女に嫌われる香水でも送ってやろうかと思いつつ、モンモランシーは問題の最終的な解決を図るべく、これまで香水の調合でこつこつ溜めてきたお金を全部つぎ込んで最終兵器――惚れ薬を完成させたのだった。

そして今日、たまたまギーシュの友人達は側におらず、食堂の片隅でモンモランシーはギーシュと二人きりで食後のひと時を過ごしていた。あらかじめ内側に惚れ薬を塗っておいたグラスにワインを注ぎ、にっこりと微笑みながらギーシュに差し出す。
惚れ薬の効果を考えればどちらかの部屋で二人っきりになれる機会を見計らうべきであったろうが、もはやモンモランシーは一分一秒一刹那たりともギーシュの浮気を我慢できなかったのである。思えばこれがモンモランシーの第一の致命的ミスであった。
グラスを打ち合わせ、モンモランシーはギーシュと見詰め合いながらワインを飲む。このままギーシュがワインを飲み、目を合わせれば……飲んだっ!
しかし、モンモランシーはここで第二の致命的なミスを犯していた。ギーシュの口元に集中する余り、声を掛けてきた少年に気づかなかったのである。
ショウがテーブルに瓶を置いたのと、ギーシュがワインを口に含んだのがほぼ同時。この時点でモンモランシーは初めてショウに気づいた。あっと思う間もなくギーシュはワインを嚥下してショウに振り向く。
そしてギーシュはショウと熱烈な恋に落ちてしまったのであった。ただし一方的に。





周囲全てが石化している中、ギーシュはショウを抱きしめたまま、またもや延々と「愛している」を連発しようとして、

「うわぁぁぁぁぁぁ!??!?」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

ショウとモンモランシーの悲鳴にそれを中断された。
同時にショウが思い切りギーシュを突き飛ばし、完全に戦闘時の動きで3メイルほど飛び退る。右手は無意識に背中の剣の柄に掛かっていた。
荒く息をするショウ。心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。生まれて13年、戦場でもこれほどの恐怖を味わった事は無かった。それ以前に状況が未だに理解できていない。
そして左手の甲に刻まれたルーンが強い光を発していることに、彼も、周囲の人間もまだ気づいていなかった。

ショウが飛び退ったのと同時に、悲鳴によって周囲も硬直から解き放たれた。
ざわめき、むしろどよめきと言うべきそれが食堂を揺るがす。

「ギーシュが男に告白したぞっ!?」
「ついにそっちにまで……」
「いや、ひょっとしたら女生徒に手を出しまくっていたのはその性癖を隠すためだったのか!?」
「おお、始祖ブリミルよ、なんと言う……ぽっ」
「なんて破廉恥な!」

ハルケギニアにおいて同性愛は宗教的タブーであるわけではないが、さりとて一般的なものでは決して無いし、変態的かつ倒錯的な嗜好であるのは無論である。
自然周囲からギーシュに注がれる視線も、絶対零度とはいわないが概ねはかなり冷たい。

「ちょっと! ちょっと通して!」

ショウの悲鳴を聞きつけたか、ルイズが駆けつけてきた。少し離れたところにキュルケ達の姿も見える。今まで見たことの無いような、恐怖に強張るショウの顔を見てその目が丸くなった。

「一体何があったのよ、ショウ?」

ショウとようやく起き上がったギーシュを見比べて気遣わしげにルイズが尋ねる。この頼りになる使い魔が恐怖を表情に出すからには余程の事であろう。こう言う時こそ主としてしっかりせねばなるまい、と決意する。
しかしその問いに答えたのはショウではなく、気障に前髪をかきあげたギーシュであった。

「お答えしよう、ルイズ。僕は真の愛を知ったのさ。そう、我が永遠の伴侶ショウへの愛に目覚めたのだ!」

かくん、とルイズの顎が落ちた。

さて、くどいようだがショウは成長半ばの13才の少年である。
この数年後には逞しい長身の青年になるが、今は年齢の割に長身とはいえ女の子並みの身長しかない(ちなみにそれぞれの身長はヤン180サント、キュルケ171サント、ショウ162サント、リリス158サント、ルイズ153サント、タバサ142サント)。
体つきも力ではなく"気"を重視する侍ゆえに、鍛えてはいても筋骨隆々ではなく、むしろ無駄な肉がついていないために同年代の少年と比べてもスマートで細身の印象を受ける。
しかも女顔ではないが割と可愛い系でつぶらな瞳の美少年だ。
そのショウに、こちらも細面の美形であるギーシュが熱烈に迫る様子はかなりあれである――つまり、色々と洒落にならない。
女生徒の中には頬を赤らめてキャーキャー言っているものもいたが、ショウとしては心底おぞましいばかりであった。

「結婚してくれ、ショウ! 僕は末子だが、必ず功を上げて取り立てられ、君を幸せにしてみせる!」
「だから俺は男だっ!」
「誰にでも欠点はあるっ!」
「欠点があろうとなかろうと男同士で結婚できるかっ!」
「そうか、わかった!」

叫んで、くるりと身を翻すギーシュ。その目の前にはいまだショックで固まったままのモンモランシーがおり、口元に両手を当てた、悲鳴をあげた時の姿勢のまま呆然としている。
ショウが助かったと思ったのも束の間、次のギーシュの言葉は彼の想像の遥かに上を行くものであった。

「モンモランシー、水系統の魔法で姿を変える術があると聞く。僕をそれで女にしてくれないか!? それならショウも僕との結婚を承諾してくれると思うんだ! あ、いや待てよ。むしろショウを女の子にしたほうが色々と……」

熱烈な懇願をしていたギーシュが、途中から自分の妄想の中にはまり込んでだらしなく鼻の下を伸ばす。
それに対するモンモランシーの返答は、渾身の力で振り下ろされたワインの瓶であった。
ワインとそれ以外の赤い液体をぶちまけ、ギーシュがあえなく昏倒する。
たった今傷害の前科一犯が付いたモンモランシーは瓶を振り下ろした姿勢のまま肩で息をしていた。
そのままがっくりと膝をつき、床に座り込んでうなだれる。今彼女は色々な物に完全に打ちのめされていた。
ころん、とモンモランシーの手を離れてワインの瓶の残骸が床を転がる。
そんなモンモランシーの内面など知る由も無く、女友達たちが動かなくなったモンモランシーをレビテーションで部屋まで運んでいく。裏の事情を知らぬこともあって、その顔は一様に同情的であった……ひょっとしたら、知っていても同情したかもしれない。

ちなみに系統魔法には顔を変える魔法はあっても体全体を変身させる魔法、ましてや男を女にするような魔法などは無い。
意外とどこかの変態貴族が開発していたりするかもしれないが、仮に存在していたとしてもドットの水魔法使いであるモンモランシーの手に負えるものではあるまい。

閑話休題。

そんなモンモランシーを横目で心底気の毒そうに見やりながらルイズが一歩前に出る。丁度、ギーシュからショウを庇うような立ち位置だ。
それとほぼ同時にむくり、とワインまみれのギーシュが起き上がった。全力で殴られたにもかかわらず意外にダメージは小さいらしい。
そんなギーシュに、ルイズは楽しみにしていたクックベリーパイにたかっていたワモンゴキブリを見るような目を向ける。

「何か言いたいことはあるかしら、ギーシュ?」
「ああ、ルイズ! 申し訳ないが僕は君の使い魔に恋してしまった! 真実の愛なんだ! 必ず幸せにするから彼を僕に譲って……」
「死ね」

爆発がギーシュを吹き飛ばす。今回に限ってはブーイングも野次も無く、恐らく生まれて初めて、ルイズの失敗魔法は満場の喝采と拍手をもって迎えられた。



動かなくなった――いや、痙攣はしているから生きてはいるのだろうが――ギーシュを見て、ようやくショウが緊張を解いた。剣から手を放し、手近の席にへたり込む。
そんなショウの顔をルイズが心配そうに覗き込む。

「大丈夫?」
「あ、ああ」

俯いたまま返事をして、しばらくそのままでいたショウが顔を上げた。
目の前には相変らず心配そうな顔をしているルイズがいる。
ヤン、キュルケ、リリスも少し離れた場所から心配そうな視線を送って来ていた。

「その……ルイズ」
「何?」
「ありがとう、助かった」

ルイズの頬にうっすらと赤みが差す。
ぷい、と顔を背け、腰に手を当てる。

「ふ、ふん。当然でしょ、私はあんたのご主人様なんだからね! 使い魔がピンチの時は助けてあげるのが当然よ!」
「ああ、今回ばかりは恩に着る」
「むむむむむ……」

素直に答えるショウに調子が狂ったか、横目でちろちろとショウを見ながら、しばらく無言で口を尖らせるルイズ。やがて、なにやら思いついたのかぱっと向き直って勝ち誇った表情で指を突きつける。

「ああ、そうね。感謝してるなら形で示すのが筋よね」
「形でというと……なんだ?」
「敬語よ、け・い・ご!」

ずい、と突きつけてくる指に半目になってショウがぼやいた。

「しつこいな、お前も。それは話が別だ」
「この頑固者!」
「お前がそれを言うか?」

さっきのしおらしさはどこへやら、一転してぎゃあぎゃあとがなりはじめたルイズをショウが疲れたようにあしらう。どちらが年上だかわかったものじゃないなぁ、などとヤンは思ったが、例によって口には出さなかった。

「本当、どっちが年上か分かったもんじゃないわねぇ」
「キュルケ、それは私も思ったけど余り口に出さない方がいいんじゃない?」
「実際あの通りなんだもの、しょうがないでしょ」
「なんですって!」

出さなかったが、この二人に挟まれてはそういう気配りも意味がないのであった。

「あらルイズ? 召喚した時だって、いつぞやの朝の口ゲンカだって、3つも年上の割にはまるっきり同レベルで言い争ってたじゃないの」
「あ、あれはショウが言いがかりを付けて来るから悪いのよ!」
「年上なら余裕を見せてほどほどのところであしらってあげればいいじゃない」

耳ざとくキュルケの発言を聞きとがめたルイズが矛先を変えた。つっかかるルイズをキュルケが闘牛士よろしくひらりひらり翻弄するという、まあお馴染みの光景だ。
それを楽しそうに見ながら、ふと先ほどからタバサの姿が見えないのに気づいてリリスはあたりを見回す。周囲のテーブルに座っていた人間に尋ねてみると、なにやら色々と聞いてきた後に厨房の方へ行ったらしい。

「あ、戻ってきましたよ、リリスさん」

リリスが厨房のほうを向くのと、ヤンが声を上げたのがほぼ同時。
未だにざわめく人ごみの中、青い頭とごつい杖がひょこひょこ歩いて来ていた。



「謎は全て解けた」

ぴっ、と指を立て、開口一番タバサがのたまった。
くいっ、と眼鏡の位置を直した拍子に、食堂を照らすロウソクの炎を反射してレンズがキラリと光る。
タバサのかもす訳の判らない迫力に、ルイズでさえも一瞬黙り込んだ。

「これからモンモランシーに会いに行く。多分、今回の件ではギーシュも被害者」
「さっすがタバサ、体は子供でも頭脳は大人ね!」
「……余計なお世話」

一瞬自分の胸元を見下ろし、珍しく怒ったようにタバサがキュルケを睨む。

「あはは、ごめんごめん。でも褒めてるのよ?」

そのままキュルケがタバサを抱きしめて頭を撫でる。
褐色の豊かなバストに顔を埋め、タバサの眉がさらに1ミリほど、不機嫌そうに寄せられた。だがそれも一瞬のこと、またいつもの無表情に戻って今は為すがままにされている。
この時の表情をキュルケが観察していたら、わずかにその目元が柔かくなっていたのに気がついたかもしれない。
やがてタバサを愛でるのにも飽きたか、キュルケが抱擁を解いた。
乱れた青い髪をリリスが撫で付けて直してやる。

「それじゃ、ついて来て」
「あ、ちょっと待ってタバサ。一応"これ"も連れて行く?」

と、リリスが指差したのはまだ痙攣し続けているギーシュ。
少し考えた後、タバサは首を縦に振った。

「確かに連れて行ったほうがいいかもしれない」
「え? でも、ショウが」
「俺は別に構わないぞ」

ルイズが難色を示しかけたが、先ほどのショックからは完全に立ち直ったのか、ショウの目に恐怖や混乱はもう無い。
代わりに思い切り胡乱なものを見る眼差しになっていたが、その程度で済むのはギーシュにとってまだましといえよう。

「構わないんだが。なぁ、ルイズ。また迫ってくるようだったら斬っていいか?」
「……斬るのはダメよ。変態でも一応私の同級生なんだから。死なない程度に殴るなら許可するわ」
「わかった」

思わず頷きそうになったが、ギリギリで自制心を発揮してルイズは踏みとどまった。
互いに顔を見合わせて頷いた後、主従揃って屠殺場の豚を見るような眼差しをギーシュに注ぐ。期せずして、今二人の心はひとつであった。
そう言った意味でルイズはギーシュに感謝しても良かったかもしれないが、実際にそうするかといえば、西から太陽が昇ってもそんな事は有り得まい。

「キュルケ、ヤンに運ばせて」
「何で? レビテーション使えばいいでしょ」
「お願い。あなたがレビテーション使ってもいいけど」
「? わかったわ」

ワインと煤のこびりついたギーシュをヤンに抱えさせるのは嫌だったのか、キュルケがレビテーションを唱えて気絶したギーシュを宙に浮かべ、一行はそのまま女子寮に向かう。目的地は勿論モンモランシーの部屋だ。
先導していたタバサがモンモランシーの部屋の扉をノックする。
しばらく待っても返事はなかった。

「部屋の奥……横になっている……のか? 動いていないようだ」
「あんたそんな事も出来るの?」

ショウが一歩前に出、壁に手を当てて中の気配を読み取った。戦闘専門と思っていた使い魔の意外な芸にルイズやキュルケは酷く感心した様子である。
しかし、ショウの気配察知をもってしてもそれ以上のことはわからない。
ショウはマスターレベルの侍としてもかなり正確に気を読む事ができるが、気配だけでは敵意や殺気と言ったものは読めても、大雑把な位置以上の事を読み取るのは至難の業なのである。
プロの盗賊(シーフ)か、或いはそれこそ忍者でもいれば中の音を聞き取り、呼吸音から起きているのかどうか判別する事もできるのだが、あいにくこの中にはそうした技術を持つ人間はいなかった。





「へっくしっ!」

ここはトリステイン魔法学院学院長オールド・オスマンの執務室。貴族としてはいささかはしたない大きなくしゃみが、絵に描いたような有能な美人秘書であるミス・ロングビルの口から飛び出した。
いつもの彼女らしからぬ所作に、窓際で外の景色を眺めながらなにやら物思いにふけっていたオールド・オスマンが意外そうな顔で振り向く。

「おや、ミス・ロングビル。風邪かね? いかんのう、そういう時は体を暖めねば。ささ、こっちに来なさい。わしが抱きしめて暖めてあげよう」
「あらオールド・オスマン。お気遣いありがとうございます」

表面だけは好々爺の笑みで、恋人を迎え入れるように両手を広げるオールドオスマン。ミス・ロングビルも微笑んで立ち上がり、接吻でもするかのようにその首に両手を回すと、そのまま抱きしめようとするオスマンのみぞおちに無言のまま鋭い膝蹴りを突き刺した。

「えぐっ、ぐほっ、むぐぉっ!?」

なまめかしい脚線美を誇る太ももを惜しげもなくスカートから覗かせ、ミス・ロングビルの膝が二度、三度と的確に急所をえぐった。そのたびに首をロックされたままのオールド・オスマンがびくんびくんと痙攣する。
やがて十分だと思ったのか、飽きたのか、それとも単に疲れたのか、ミス・ロングビルはその芸術的なピストン運動を停止して、力を抜いた。首をロックした両腕を外そうとして、オスマンのつぶやきに僅かに眉をひそめる。

「し、白……」

次の瞬間、オスマンのこめかみを極めてコンパクトかつ鋭い横回転から繰り出された膝蹴りが撃ち抜いた。
数十回の膝蹴りにも意識を保ったオールド・オスマンであったがさすがにこれには耐えきれず、学院長室の床に轟沈する。
乱れた呼吸を整えながらその様子を冷やかに眺めていたミス・ロングビルが、ややあって深い深い溜息をついた。
言い知れぬ空しさと疲労感に襲われたのである。
秘宝「破壊の剣」を盗み出すために、この学院に潜入してはや3ヶ月。いくら可愛い妹の生活費を稼ぐためとは言え、毎日セクハラにさらされていては気も萎えようと言う物だった。

(けっこー蓄えあるしー、あれとあれとあれ売り払えばわりかし持つしー。いっそ盗賊辞めちゃおうかなー)

宙に目をさまよわせて人生設計を考え直してみたりするミス・ロングビルである。
部屋のドアがノックされたのはそんなときだった。

「オールド・オスマン!」
「なんじゃね?」

返事を聞く間ももどかしく、飛び込んできたのはコルベールだった。
ミス・ロングビルは何事もなかったように机に座り、事務仕事を続けている。オスマンは腕を後ろに組んで、重々しく闖入者を迎え入れた。
こう言うときだけ息がぴったりと言うのもどうかとは思うが、ともかくコルベールは何も気づいていない。
顔は殴らなかったので外見から先ほどまでの暴行が露見する心配もない。ミス・ロングビル、さすがであった。

「たた、大変です!」
「大変なことなど、あるものか。すべては小事じゃ」
「ここ、これを見てください!」

そう言ってコルベールが差し出した本を見て、オスマンがごく僅かに真面目な表情になった。

「ふむ、ミス・ロングビル。すまんが席をはずしてくれんか」

一礼してミス・ロングビルが退室する。
ドアが閉まるのを待ってオスマンが再び口を開いた。

「それでは詳しく説明してくれんかの、ミスタ・コルベール」





「鍵は……かかってる」

モンモランシーの部屋のドアのノブに手をかけ、タバサが呟いた。

「鍵が掛かってるなら開ければいいじゃない」

あっさり言い放つとキュルケが「アンロック」を唱える。
学院内でアンロックの呪文を使うのは理由の如何を問わず重大な校則違反であるが、キュルケは今更そんな事を気にする玉でもないし、ルイズはギーシュと真犯人へのムカツキでそれどころではなく、またタバサは黙っていれば大丈夫だと思っている。
勿論使い魔の三人はそんな校則など知らないから、キュルケの呪文詠唱を止めるものは誰もいなかった。
ただ他の呪文を発動させた当然の結果として「レビテーション」の呪文への集中が解け、ギーシュが1.5mほど落下したが、殆ど誰も気にしない。ヤンだけは顔面から落ちたギーシュを見てちょっと同情していた。

タバサが扉を開くと、果たしてモンモランシーはベッドに突っ伏して泣いていた。
キュルケやルイズなどは同情を覚えずにはおれない姿であったが、タバサは一向に斟酌する様子もなく、肩に手を掛け意外に強い力でモンモランシーを引きずり起こす。

「た、タバサ? 一体何よ!?」

手首をつかまれながらも真っ赤になった目でタバサを睨み、文句を言おうとするモンモランシーであったが、キュルケやルイズの後ろ、部屋の入口から中を覗き込むショウの顔を見た途端、その言葉も尻すぼみになって消える。
その様子をいぶかしんでキュルケやルイズが振り返るが、彼女らにはその理由が分からない。ショウやヤン、リリスも同様である。
しかしただ一人タバサにとっては、その不審な挙動こそ容疑を固めるものに他ならない。
ずい、と顔をモンモランシーの顔に近づける。

「解毒剤を作りなさい」
「なっ、な、な、何の、ことよ!?」

囁くようなタバサの言葉は覿面だった。モンモランシーは息を詰まらせ、しゃっくりでもするかのように途切れ途切れにしか言葉をつむぐことができない。
そんなモンモランシーを冷やかに眺めつつ、タバサは容赦なく追い討ちをかける。

「ひとつ。ディテクト・マジックで強い水の力がグラスから検知されている。生半可な魔法の薬ではあれだけ強い反応は出ない。恐らくは水の精霊の涙を使っているはず」

とある理由から、タバサや薬物や毒物には非常に詳しい。トリスタニアの多くの薬屋には足を踏み入れた事があるし、闇屋にも何度か足を運んで馴染みになっていた。
その知識に照らし合わせて、あれだけ強力な水の反応を出す薬物は精霊の涙以外にはほぼありえない。その推測が正解である事はモンモランシーの強張った顔が教えてくれていた。

「ふたつ。あなたは食後にわざわざ新しいグラスとワインを給仕の娘に頼んでいる。それまで飲んでいたワインとグラスがあるにもかかわらず」

呼吸を整える隙も反論する隙も与えず、タバサはモンモランシーを次々と追い詰めていく。

「みっつ。ギーシュが同性愛者であることを示す兆候はこれまで全くなかった。潜在的にそのような嗜好を持っていたとしても、召喚されてから一週間以上経った今になってショウに恋愛感情を持つのはタイミングとして不自然」

タバサが調べ上げた事実と筋道立った推論を披露するのにつれ、どんどんとモンモランシーの顔色が悪くなっていく。

「そして最後のひとつ。トリスタニアの闇の魔法商店であなたが非常に高価な秘薬を購入したと店の主人から聞いた」

勿論これははったりである。
事件が起こったのはついさっきなのに、トリスタニアまで行って証言を取って来れる筈もないし、世間話でそんなことを漏らすほどタバサが店の主人と仲がいいわけでもない。
だが、先ほどからタバサの言葉によって追い詰められていたモンモランシーには十分すぎるとどめであった。
ベッドに腰掛け、がくりと崩れるように俯いたその丸い背中が、タバサの言葉が紛れもない真実である事を自ら証明している。

「真実はいつもひとつ!」
「……あれ、楽しんでるのかしら?」
「多分ね」

ルイズとキュルケが囁き交す声など聞こえないかのように、ぴっ、と指を突きつけるタバサであった。

その指の先で、唐突にモンモランシーが立ち上がった。
その顔には捨て鉢と言うか、開き直りめいた表情が浮かんでいる。

「証拠よ! 証拠を出しなさい! 今までの話は全てあなたの想像でしょ!? 裏の商売をしている人間が何か言ったからと言って、それは証拠にはならないわ!」

それ以前に裏の商売をしている人間がわざわざ証言をしたり、ましてや客の情報を漏らすわけがない、などと言う所に頭が働かないのがモンモランシーの世間知らずなところである。もっとも海千山千のタバサと比べるのは、言うまでもなく些か酷であろう。
それはともかくちゃぽん、と中の液体を揺らしてタバサが香水を入れるようなガラスの小瓶をつまみ出した。

「さっきのワインの残り。薬学に詳しい水のメイジに調べてもらえば一発で分かる」

ものも言わずモンモランシーはその瓶をひったくった。
窓を開け、中身を外にぶちまける。

「ほーほほほ! これで証拠は消えたわね!」

勝ち誇るモンモランシー。表情を変えず、タバサが同じような瓶をマントの中から取り出した。中には先ほどと同じ色の液体が揺れている。

「実はここにもう一本」

今度もモンモランシーはひったくり、窓の外にぶちまけた。
全く表情を変えず、タバサが新しい瓶を取り出す。
またモンモランシーがそれをぶちまける。
そうして外の芝生が10本近くの小瓶の中身を吸ったあたりでタバサがまた瓶を取り出したのを見て、ようやくモンモランシーの動きが止まった。

「もう外に撒かないの?」
「あと、どれだけあるのよ……」

特に運動をしているわけでもないモンモランシーである。あっさり息切れを起していた。

「実はまだこれだけ」

そう言って広げたタバサのマントの内側には無数の隠しが付いており、その一つ一つに大きさは違えどもガラスや陶器の小瓶がずらりと並んでいた。
これだけあればマントが重みで垂れ下がってばれそうな物だが、タバサはこっそりレビテーションを使ってマントが自然に動くように見せていたのである。先ほどわざわざキュルケにレビテーションで運んでもらうように頼んだのもこのためだった。

「うわー」

マントの内側にじゃらじゃらと並ぶ無数の瓶、その絵面のシュールさにルイズが呆れたような声を上げる。
モンモランシーはもはや言葉もない。

(ねぇ、あれのどれが本物なの?)
(全部残り物のワインを入れただけの偽物だって。本物は私が預かってるのよ、これが)

キュルケとリリスのひそひそ話を聞き取る余裕もなく、今度こそモンモランシーはがっくりと床に崩れ落ちたのであった。



「解毒剤」

その後、一部始終を白状させられて最早抵抗する気も失せたか、床に座り込んだモンモランシーがタバサが放ったセリフにうつろな目で彼女を見上げる。
その首が力無く横に振られた。

「ちょっと! ここまでやらかしておいてほっぽりっぱなしにする気!?」

真っ先に噛み付いたのはルイズだった。
同情すべき所もないではなかったが、それでも彼女の大切な――本人はそう言われたら全力で否定するであろうが――使い魔を脅かす原因を作ったモンモランシーに対しては、只でさえ外れやすい自制心のタガが、それはもう凄い勢いで緩みまくっている。

「はい、どうどう、ルイズ。けどねモンモランシー? 脅すつもりはないんだけどね、彼、あのままにしてたら命の保証は出来ないわよ?」

そういってキュルケが指差したのは廊下に放置されたままのギーシュであった。
さすがに痙攣はもうしていないが(呼吸はしている、念のため)、体中煤だらけ、服はボロボロ、金髪はちぢれて全身からカリカリに焼いたトーストのような香ばしい香りを放っている。

「ギーシュ!?」
「ルイズはショウの事がとても大事大事〜だからね。またギーシュがショウに迫るようだと、同じ事がないとも限らないわよぉ?」
「ちょちょちょ、ちょっと、キュルケ!?」

顔を真っ赤にしたルイズをキュルケが例によって軽くいなす。その後ろでぽりぽりと頬を掻いているショウをリリスが微笑ましげに横目で見ていた。
一方、ギーシュの惨状に愕然として立ち上がったモンモランシーであったが、すぐに力無く椅子に座り込み、再び首を横に振った。

「ちょっと、どう言うことよ? あなただってギーシュをあのままにしておきたいわけじゃないでしょ? 作れるんでしょ、解毒剤」

さすがにいぶかしげな表情になったキュルケに、モンモランシーは三度力無く首を横に振る。

「違うのよ、作りたくても作れないの……」
「何でよ!」
「落ち着け、ルイズ」

がぁっ、と威嚇するルイズをショウが宥める。彼も最初は少なからず腹を立てていたが、いきさつの余りの馬鹿馬鹿しさに今は怒る気も失せていた。

「お……」
「お!?」
「お金がないから。秘薬を買うお金がないから……」

タバサを除く一同が互いに顔を見合わせた。さらにタバサが質問する。

「なら惚れ薬に使った秘薬はどうやって手に入れたの?」
「香水を作って、この数年間こつこつ溜めたお金を全部つぎ込んで……同じ物を買うだけのお金なんてもうない、実家から送ってもらうにしても、うち余り裕福じゃないし……」
「あー」

額に手を当ててルイズが唸った。キュルケが顔を近づけて小声で尋ねる。

(そうなの?)
(何年か前に事業に失敗して借金こさえたとか聞いたことがあったわ、そう言えば)
(どうせその事業とやらも今回みたいにいらん事して失敗したんじゃないの?)
(さぁ)
(推測に過ぎないけれども蓋然性はけして低くない)

実際キュルケの想像は大当りだったりするのだが、それはそれとして。

「惚れ薬は残ってるんだし、これから解毒剤を作る訳には行かないの?」
「無理。一度魔法的に結合した素材を元に戻すことはスクエアクラスの錬金使いでも不可能」

リリスが預かっていた瓶を取り出してちゃぷちゃぷと揺らすが、タバサににべもなく否定される。

「効果が自然に切れるのを待つって言うのは?」
「効力は何ヶ月か、それとも一年かわからないけど、相当長い間続く」
「勘弁してくれ」

ヤンの消極的なアイデアにもタバサの答えはやはり否定的なものであった。ショウがげんなりした顔になる。
次に口を開いたのはルイズだった。

「その水の精霊の涙だっけ、それっていくらくらいするの?」
「たぶん、必要な最低量でエキュー金貨400か500枚くらい……」

げっ、と言う顔になったのはルイズとキュルケ。彼女たちの家はそれぞれの国でもかなり、というか指折りの大金持ちであるが、それでも学生に過ぎない彼女達にとっては結構な大金だ。
特にラ・ヴァリエール公爵家は掛け値なしにトリステイン一の大富豪であるが、ルイズの母親は子供の小遣いには(大貴族の割には)厳しい人だったのである。
キュルケも出そうと思えば1000エキュー位はポンと出せるお金持ちのご令嬢だが、男へのプレゼントならともかく、たかがポーションの材料で500と言うのはとんでもない額らしい。よく分からない金銭感覚だが、ツェルプストーの血筋はそんなものなのだろう。

逆にいまいち納得しきれない顔をしているのはリリスとヤン。冒険者暮らしが長い彼らにとって、金貨500枚など正直はした金だ。平民にとってはともかく、貴族にとってそれくらいがなんなのか、という感じである。
何せ毒消しのポーション一瓶でも金貨300枚。ちゃんとした板金の甲冑(プレートメイル)を買おうと思えば魔法のかかっていない物でも金貨750枚と言うのがボッタクリ……もといボルタック商店の相場だ。
特にヤンにとっては金貨500枚など一週間分の宿代に過ぎない(まぁもっとも、恋人に見栄を張って一番高い部屋に泊まっていただけなのだが)。
ついでに言うとヤンの装備一式をボルタックで整えようと思ったら金貨で55万5000枚という天文学的な額が必要になる。最高レベルの冒険者ともなれば、そういう額でも必要とあればすぐ出せるのだ。
とは言うものの、それは彼らが田舎の自給自足の生活から、一足飛びに冒険者としての金銭感覚に慣れてしまったせいであって、彼らの世界でも金貨500枚と言えば普通の都市住民や下級貴族にとっては目のくらむ大金である。

そしてそもそも金銭感覚というものを実感として持たないショウは、難しい顔をしてタバサの背中をつついていた。

「なぁタバサ。金貨500枚と言うとどのくらいなんだ、こっちでは?」
「貧乏貴族かそこそこ裕福な平民の年収がそのくらい」

うーむ、とショウが唸った。説明しては貰ったが正直あまり良くわかっていない。
先日街に出たときに買い物をする所を間近で見ているから、金貨500枚が大金だということはわかるのだが、実を言うとショウは自分で買い物をした経験が全くない。よって感覚としてどの程度のものなのかさっぱり理解できないのである。
ハルケギニアで言えば貴族階級のボンボンと言ってもいいそこそこの家の生まれなのもそうだが、彼の場合それだけが理由ではない。

何せショウの生まれたのは約一千年前。この時期はホウライにおける貨幣経済への過渡期に当っており、商取引は物々交換と金銭がどうにか半々と言う時代である(日本でいうと平安から鎌倉あたり)。
貨幣と言う概念は知っていたし実物を見たこともあるのだが、それが色々な「物」になるということがどうもぴんと来ないのだ。
彼にとって食料とは領地で取れる米や豆、海の幸山の幸によってまかなうものであるし、服や鍋釜、布団に行灯と言った生活用品は領地に住まわせて養っている職人に作らせるものだ。
武具は名工の刀や甲冑などを絹の反物や金の粒などであがなう事もあるが、鳳龍家の手勢が身につける槍や胴丸などは、やはり領地で養っている職人が作るものである。

要するにショウは何かが欲しければ作るか作らせる(または作れる人間を雇う)かしかなく、「買う」と言う概念がまだまだ乏しかった時代の生まれなのである。
(ちなみにショウが生まれたころから貨幣経済は急速に浸透し、百年も後には都市部の住民なら平民でも普通に貨幣を使うようになっていた。
 本来の歴史ではショウがイヅモの国に仕官したときに初めて金の使い方を仲間の忍者と司教に習い、しばらくの間四苦八苦することになるのだが、ここでは関係ない話である)

ついでに言うとショウの時代は彼が生まれる前からリルガミンとの戦争が続いており、物心ついてからと言うもの修行に明け暮れ、剣術と軍略その他最低限の学問を叩き込まれるばかりの人生を過ごしてきたのも理由の一つだ。
そう考えるとかなり不憫な人生を送ってきているのだが、それを微塵も感じさせないあたりは持って生まれた人徳であろう。

閑話休題。

「まぁつまるところ、お金がないから解毒剤は作れないと」
「うん……」

うーん、と頭を付きあわせて悩む一同。モンモランシーにしてみても解毒剤を作りたいのは山々であるが、無い袖は振れない。ましてや彼女の家はルイズやキュルケの実家とは比べ物にならないくらい台所事情が厳しい。

「キュルケ、タバサ。今手元にどれくらい残ってる?」
「新金貨で150枚と少し」
「私は新金貨が20枚くらいかなー。ルイズは?」
「エキュー金貨で250…いえ、260枚くらいだったと思うわ」
「合わせてもエキューで400いかないかぁ。一応聞いておくけどモンモランシー、あなたは?」
「15エキューくらい……」

トリステインの新金貨は3枚で2エキューに相当する。つまり4人の手持ちを合わせても400エキューに少し足りないくらいだ。
こんな事になるならこの前の虚無の曜日の買い物で見栄を張らずにもう少し節約しておけば、ともルイズは思ったが後の祭りである。

「ところで、何であんたそんなにお金ないのよ? ツェルプストーって結構お金持ちだって聞いてたけど、意外に貧乏なの? それとも男漁りに使って残ってないのかしら?」

ルイズの挑発にも動じず、ふっ、と余裕たっぷりにキュルケが笑みを浮かべる。ただしちょっと苦笑気味に。

「あー、ちょっとね。ダーリンの鎧の修繕するのに、錬金を頼んだのよ。いいものらしくてこれが結構かかってねぇ」
「……すいません」

居たたまれない顔でショウが頭を下げた。ヤンの甲冑を中身ごと両断したのは紛れも無く彼である。
その頭を笑いながらキュルケが撫でる。

「いいのよ、事情があったんだし。ショウ君だから許しちゃう」
「ううっ」

ショウにとっては結構屈辱的な情景であるが、状況が状況だけにいつぞやのように振り払うこともできない。
結局ショウはキュルケが彼の頭の感触を存分に楽しむ間、耐え忍ばなければならなかった。
そしてキュルケが手を引っ込めた次の瞬間、ルイズが思いっきりその頭をはたく。

「いてっ!」
「こここここ、この馬鹿使い魔っ! よりによってツェルプストーの前で恥をかかせるなんてっ!」
「ちょっと待て、今のはどう見てもお前の自爆だろう!」
「原因を作ったのはアンタでしょ!」
「そりゃ責任転嫁だ!」

今回ばかりはショウにも負い目があるため今一つ強く出れないが、この状況が彼のせいばかりでないのもまた事実であろう。
例によって始まる子供同士の口ゲンカをキュルケが割って入って止める。

「はいはい、こんなときに下らないことで言い争わないの。それはともかく、足りなかったらヴァリエールの名前で信用買いするのはどうかしら?」
「冗談言わないでよ、そんな闇商売の店でヴァリエールの名前なんて出せるもんですか!」
「じゃあ小切手切るしかないかしらね」
「裏の店が信用買いにしろ小切手にしろ、現金以外の取引をしてくれるとは思えない」

タバサの言葉にうんうん、と頷くモンモランシー。実際、闇屋を紹介して貰った時にも紹介者には現金払いが鉄則であると念押しされていた。
それではとにかく足りないかもしれないけど買いに行こう、とルイズが言いかけたとき、何かに気づいたような顔でショウが口を開いた。

「今まで思いつかなかったが、学院の先生方に事情を話して解毒剤を調合してもらうのは?」
「ちょっと、やめてよ!」

ショウの提案にモンモランシーが悲鳴をあげた。

「何故だ?」
「それは、その……」

うっ、とモンモランシーが詰まる。今更隠してもしょうがないことなのだがやはり抵抗があるらしい。
その逡巡をズバッと断ち切ったのはやはりタバサであった。

「惚れ薬は違法」
「……よね」
「自業自得だな」

ショウが冷たい視線をモンモランシーに向けた。
さらにタバサが追い討ちをかける。

「学院に知れたらまず退学。その上で罰金か禁錮刑。場合によってはモンモランシ家にも何らかの処分が下る可能性がある」
「そんなぁ…」

モンモランシーの顔からさっと血の気が引くが、タバサは容赦しない。

「事情を隠して教師に相談するにしても調べられれば惚れ薬というのはすぐにバレる。相談しなくてもその内おかしいと思う人間は出てくるはず。
 そうなるとギーシュと何らかの関わりがあって、ポーションを作る技能と動機を持っているとなればまず上がるのがモンモランシーだから、どのみち発覚と処分は免れない」
「あ、あああ……」
「私は別にそれでも構わない。というか事態が解決するのであればすぐにでもそうするべき」
「タバサ〜!」

もはや半泣きでモンモランシーがタバサにすがりつく。もう恥も外聞もない。

「わ、私が悪かったから、お願い、それだけはやめてぇぇぇぇ!」
「じゃあしょうがない。リリス、ギーシュに解毒(ラツモフィス)をかけてあげて」
「りょうか〜い」

何でもない事のようにタバサが言ったのを、リリス以外の全員が一瞬理解できなかった。
男二人はあんぐりと口を開けている。惚れ『薬』と名前がつくだけに、その効果を『毒』を取り除く呪文で解除できる、その可能性を完全に失念していたらしい。まぁ、治療呪文の専門家ではないからしょうがないことではあるが。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「何?」
「だったら今までの会話は一体……」
「単なる事実の列挙」

端的なタバサの答えに、ルイズとモンモランシーががっくりとこうべを垂れる。舌を出している所を見ると、リリスも最初から共犯だったのだろう。
一人キュルケだけは面白そうな顔で眉を寄せていた。タバサの耳にそっと囁く。

「ひょっとして、モンモランシーに意地悪したかった?」
「……秘密」

真実は闇の中である。



「そうね、解毒(ラツモフィス)と言わず快癒(マディ)のほうがいいかしら。解毒したはいいけど怪我で死んじゃった、じゃ困るし」

黒焦げのギーシュを見下ろしてリリスが苦笑する。

「別に私は構わないわよ、それでも。というか私の手でとどめを刺したい位だけど」
「ルイズぅ〜、私が悪かったから〜」

半泣きのモンモランシーが今度はルイズにすがりつく。
それを苦笑交じりに宥めたのはショウであった。

「それくらいにしておいてやれ、ルイズ」
「何よ、誰のために怒ってると思ってるの!」
「悪いのはこっちの黄巻き髪だろ。こいつも今回は被害者だ」
「原因作ったのはこいつじゃないのよ……」

口の中でごにょごにょと呟いて大人しくなるルイズだったが、今度はモンモランシーがショウの言葉尻に噛み付く。

「ちょっと、今のは聞き逃せないわ。人の自慢の髪を黄巻き髪ですって!?」
「と、何かまずかったか?」
「黙りなさいよ黄巻髪。誰のせいでこんな状況になったか分かってる?」

冷やか、かつ怒りを湛えた器用な表情でモンモランシーを睨むルイズ。正直腰が引けるほどに怖い。今にも「誰のせいやと思うてけつかるんや、ああ〜ん?」とか言い出しそうな凄みがある。
結局モンモランシーに出来たのはただ平謝りすることだけであった。

そんな感じで三人漫才をやっている間に、リリスの詠唱は終っていた。
快癒独特の柔らかな光がギーシュの全身を包み込み、全身のダメージを癒し、体内および皮膚表面の異物を除去し、精神的異常をも修復していく。最後にギーシュの意識を覚醒させて呪文は終了した。
服がボロボロで煤だらけなのは変わっていないが、ちぢれた髪も鼻血を出していた顔も元通りである。
この世界には存在しない強力無比な治療呪文の実演に、キュルケやタバサは感心したようにその効果の程を見守っていた。
一方そんな事を考える余裕もなく、すがりついたモンモランシーがギーシュの体をゆする。

「ねえ、わかる? ギーシュ、私よ、あなたのモンモランシーよ!」

ギーシュは優しい笑顔でモンモランシーに微笑む。そしてショウに向かって手を上げた。

「おおっ、ショウよ、我が永遠の恋人よ……ぶぎゃっ」

覚醒して3秒後、ギーシュの意識はショウの拳によって再び闇の中に叩き落とされた。
目の周りに見事な青痣を作って昏倒するギーシュとすがりついて泣きわめくモンモランシーは放って置いて、一同は額を寄せる。

「どうしたの? 治ってないじゃないのよ?」
「快癒で直らないって事は、やっぱり薬の類には効果がないんじゃ?」
「うーん、手応えが変だったのよね。不純物は完全に除去したんだけど、変な魔力が体に残っているというか」
「リリスは快癒は毒や怪我は治せても呪いは除去できないと言っていたから、それかもしれない」

五人の視線がタバサに集中した。

「何か思い当たることでも?」
「惚れ薬の原料となる『水の精霊の涙』はラグドリアン湖に住む水の精霊の肉体の一部。そして水の精霊は水の力の凝り固まったもの、生きた水の魔力そのものだといわれている。
 水の力は身体の組成を司るから、肉体と心を操るポーションには必須の材料……」

タバサははっとして口を閉じた。今、何か重要なひらめきを得た気がする。通常の毒消しで除去できない毒。体内に残留する魔力。
通常のポーションは魔力を媒介として薬効を得ているに過ぎない。しかし、魔力の塊のような物質を用い、その魔力そのものが人体に影響を与えるポーションと言うのもあるのではないか? 
そうしたポーションが存在するとするなら、それはいずれ体外に排出される薬効成分ではなく魔力を媒介に効果を発揮するがゆえに長く体内に留まりつづける。
だとすればそうしたポーションを中和するには薬ではなく、むしろ……。
そこまで考えたところでタバサの思考は中断された。

「どうしたの、タバサ?」

僅かに心配そうな色を滲ませ、キュルケがタバサの顔を覗き込んでいる。
首を振ってタバサは思考を切り替えた。

「何でもない。それよりも話の続きだけど、水の精霊の涙は魔力の塊。薬や毒では無く、魔力という形でギーシュの体内に残留しているのだとしたら、快癒でも除去するのは難しいかもしれない」
「なるほど、それで『呪い』なのね……ボルタックのスケベ親父はどうやって解呪してたのかしら。サコンさんたちに聞いておけばよかったなぁ」

結局頭を突きあわせて出た結論は「お金をかき集めて水の精霊の涙を買いに行く」と言うものであった。確かにそれ以外手段が思いつかない。

「お金を渡すから今すぐ行って来なさい、モンモランシー」
「今すぐ?! 午後の授業はどうするのよ!」
「違法なポーションの作成」
「……行くわよ、行けばいいんでしょ!」

今度こそ本当に泣きながら、モンモランシーは馬を借りてトリスタニアへ出かけていった。勿論タバサは、金が足りないようなら装飾品か何かを売って足しにするよう脅しておくのも忘れない。
ギーシュは簀巻きにふんじばって猿轡をかました上で杖を取り上げ、仮睡(カティノ)と彫像(マニフォ)の呪文をかけてモンモランシーの部屋に閉じ込めておく。強制的に睡眠させられた上全身硬直を起したギーシュは、まさしく彫像の如く動かなかった。
それを見届け、ルイズたちは午後の授業に、ショウとヤンも修練に向かう。
これで夜にはこの問題も片付いているだろうと思えば、ルイズの顔にも気分爽快と言った表情が浮かぶのも当然であったろう。
タバサも一瞬そんな顔をしていたようにキュルケは思ったが、本当にそうかどうかは彼女も自信が無かった。



「『水の精霊の涙』が買えなかった?」
「モンモランシー、納得のいく説明をしてくれるんでしょうね?」

夕食の後。戻ってきたモンモランシーに、にこにこにこと満面の笑みを浮かべて迫るのはルイズ。
人間、怒りが臨界に近づくと笑顔になるというのは本当のようだ。はっきり言わなくても非常に怖い。

「お、落ち着いてね。話せばわかるから」
「ええ、私は冷静よ。だから早くいいわけを聞かせてもらえるかしら?」

笑顔を崩さず杖を弄ぶルイズに恐怖しながら、モンモランシーは水の精霊の涙が品切れだったこと、最近ラグドリアン湖のトリステイン側は怪物が出現するために危険であり、再入荷もほぼ絶望的である事をどうにか伝える。

「なら、直接ラグドリアン湖に赴くしかないな」
「あなた私の話聞いてなかったの? 怪物が出て危険だって話なのよ?」

簡単に言い切るショウを呆れたようにモンモランシーが見るが、ヤンとリリスは大きく頷いた。

「怪物退治なら俺たちの得意分野だよ。な、リリスさん」
「ええ、そうね。ショウ君たちもいるし、大概の敵ならどうにかなるでしょ」
「……しょうがないわね。でも余り期待しないでよ? 状況がどうなってるかわからないんだから」
「何でモンモランシーに期待するのよ?」

キュルケのもっともな疑問に、目を怒らせてモンモランシーが反論する。

「失礼ね! モンモランシ家はトリステイン王家と水の精霊との仲立ちを何代も務めてきたのよ! だから交渉役は私がやるに決まっているでしょう!」
「はいはい、せいぜい頑張ってね」
「キーッ!?」

極めて投げやりなルイズの激励に、モンモランシーはハンカチを噛んで本気で悔しがった。





次の日の早朝。
一行は馬を借りて早速出立する事にした。
ショウとヤンは甲冑に身を固め、この世界に来たとき以来の完全装備である。リリスは動きやすい厚手の服であったが、これが済んだらトリスタニアで皮鎧とは行かないまでも、丈夫な皮の胴着か何かを買ってもらおうと思っていた。
ちなみにギーシュは簀巻きを解き、再び仮睡(カティノ)と彫像(マニフォ)をかけた上で自室に放り込んである。朝食が終ったあたりで動けるようになるだろうが、追いかけてくることはできまい。
モンモランシーを含め、積極的に彼を連れて行こうと提案する者は誰もいなかった。いてもショウとルイズの猛反対にあっていただろう。

道中は何事も無く、一行は無事にラグドリアン湖に到着した。余りの呆気なさにショウやキュルケは却っていぶかしんだくらいである。
一方モンモランシーは水位の上昇に怪訝な表情をしていた。よく見れば沈んだ木々や寺院の塔が湖面から突き出しているのも見える。

「モンモランシーが交渉している間、ショウとヤンは念のためにそれぞれ別の方向の警戒を。私とタバサは二人の後ろで待機してるのがいいかしら」
「その辺だと思う。ルイズとキュルケは万一に備えてモンモランシーを見ていてほしい」
「わかったわ」
「頑張ってね、ダーリン♪」

リリスとタバサが指示を下し、ショウとタバサ、ヤンとリリスがそれぞれ一行の後ろを警戒する。
後ろのキュルケとルイズからプレッシャーを感じつつ、モンモランシーは祈るような気持ちで使い魔のロビンを湖に放した。
程なく水面がキラキラと光り始める。水の精霊が現れたのだ。
透明な粘体は虹色に輝き、モンモランシーの呼びかけに応じて彼女の裸身を模した姿を取る。

「光るスライムみたい」

リリスの呟きにヤンが嫌な顔をした。彼はバブリースライムに噛まれて死んだことがある。
幸いその呟きは水の精霊には届かなかったようで、彼女(?)がヘソを曲げることは無かった。
精霊は毒を撒き散らして湖を汚す魔獣がいることを語り、その退治と引き換えに体の一部を分けてもらうことでどうにか話はまとまった。
最後にモンモランシーは水位が上昇した理由を尋ねた。
「盗まれた秘宝を取り戻すために全世界を水で覆うのだ」と言う答えに、全員が呆れたのは言うまでもない。

「そこまでして取り戻したい秘宝ってなんなんだ?」
「蛙の置物。我と共に時を過ごした愛しき彫像だ」

一瞬、何故か全員が赤と青のケープを羽織って二本足で立ち、「YEAH! YEAH! SHAKE IT UP A BABY!」と激しくツイスト&シャウトするアマガエル(緑一色の、つるんとした種類)を思い浮かべた。

「今おまえたちが思い浮かべたヴィジョン。それで間違ってはおらぬぞ」
「「「「間違ってないの!?」」」」

リリスとキュルケとモンモランシーとルイズが、思わず同時に突っ込んだ。



しばらく沈黙が続いた後、ヤンが口を開いた。

「あー、じゃあ精霊さん。その秘宝だかなんだか、俺達が取り戻して来るから水を元に戻してくれないかな? こんなになっちゃって、皆困ってると思うんだ」
「あ、ちょっと!」

このお人よし丸出しな発言に顔色を変えたのはモンモランシーだった。
折角「水の精霊の涙」を譲り受ける交渉が上手くいったのにぶち壊しになってはたまらない。
水の精霊は返事を返さずに点滅するだけで、人間で言えば沈思黙考という体だが、実際にどうなのかは分かるはずもない。

「余計な口を挟まないでよ!」
「え、でも」
「キュルケからもなんとか言ってよ! ここで余計なこと言われたら全部おじゃんよ!」

ヤンを説得するのは望み薄と見たか、今度は相手をキュルケに変えるモンモランシー。実際に被害を受けているのが恋人だけあって、結構必死である。

「ん〜、ダーリンがそうしたいなら私には止める理由はないわねぇ」

が、その努力もキュルケの微笑みの前にあっさり瓦解する。

「ダーリンは優しいんだもの。困ってる人たちがいると思うと放って置けないんでしょ?」
「ま、まあね」

肩口にもたれかかったキュルケの上目遣いの艶やかな視線から、僅かに頬を染めてヤンが目をそらす。

「ふふ、そういうとこ、可愛いんだから」
「からかわないで下さいよ……」

完全に二人だけの世界を作っているヤンとキュルケを忌々しげに睨み付けるモンモランシーだが、自分がギーシュと二人で同様の空間を作り出していた事は気づいていない。
それはともかく振り向いた彼女は自分が孤立無援である事を知った。
リリスは笑みを浮かべて賛成の意思を示しているし、程度の差はあれ他の面子も反対はしていない。
ヤンとリリスは農村育ちであり、冒険者になる前は額に汗して働いていた。洪水や干ばつと言った自然現象に翻弄される辛さはよく理解できるのである。

「ああ、その。それはともかくそういう事でどうにかお願いできないかな。いついつまでにとか約束は出来ないけどさ」
「精霊よ、俺からも頼む。秘宝とやらは俺達が取り戻してくるから水を戻してくれないか」
「ショウ君……」
「ちょっと、ショウ! あんた勝手に!」

感極まったようにヤンがショウを見つめ、ショウは苦笑して視線を逸らそうとするが、その前に今度はルイズが割り込んだ。
不満そうにショウを睨んでいる。

「あなたは私の使い魔でしょ! 勝手に動いていいと思っているの!」
「それは分かっている。だけど俺も放っておけないんだ。可能だったらと言う事でいい。頼む、ルイズ」

ショウが頭を下げる。しょうがないわねとか平民を助けるのも貴族の務めだとかごにょごにょ言いつつ、結局ルイズはショウの頼みをあっさり聞き入れた。
後ろでキュルケがにやにやしているのに気づかなかったのは、キュルケ以外の全員にとって幸いであったろう。
一方、面白くない顔をしているのはモンモランシーである。

「ふん、言ってればいいわ。いきなり現れた、しかもメイジでない人間の言うことを精霊が……」
「よかろう、水を元に戻してやろう」
「聞きいれたっ!?」
「秘宝を取り戻してくれるのであれば、あえてこの世を水で覆う必要もない」

点滅を繰り返し、精霊がはっきりと言葉を返す。
代々交渉役を務めてきた矜持だか何かにひびが入ったらしく、モンモランシーは額に手を当ててよろめいた。

「ガンダールヴは遠き過去に我との誓いを守った。ガンダールヴならば信じるに値する」
「ガンダールヴ?」
「何の事だルイズ?」
「知らないわ」

リリスもタバサに視線を向けるが、タバサも首を横に振る。
首をかしげたショウが何のことだと聞き返そうとした時、湖畔に野太い牛の鳴き声、いや咆哮が轟いた。





一方ショウ達が出発して数日経ったトリステイン魔法学院では、恋の炎に胸を焦がす一人の少年が愛しい人に会えぬ辛さを嘆いていた。

「なんと言う辛く苦しいことだろう。こうしてまぶたを閉じればいつでも君の面影、君の笑顔が蘇ると言うのに、本物の君を見られない、ただそれだけの事にこんなに悲しく胸張り裂けるような切なさを感じるとは」

舞台の上でもないのに胸元に手を当て、薔薇をかざして己の身の不幸を嘆く彼こそ、誰あろうこの数日で女の子どころか男友達にさえ敬遠されるようになって、今も周囲5メイルに人っ子一人近づかない空白地帯を形成しているギーシュその人である。

「ああ、翼が欲しい。僕のこの身を恋焦がれるあの人の元へ運んでくれる翼が欲しい」

誰も見ていない独演会を延々と続けていたギーシュは、ふと自分に向けられた視線に気づいた。
ケティ・ド・ラ・ロッタとその隣に立っている平民の黒髪のメイド。
名前は知らないが、服の上からでも女性のスリーサイズを見抜くという隠れた特技を持つギーシュはかねてからそのスタイルのよさをひそかにチェックしていた。綺麗な緑色の瞳もかなり気に入っている。
ここらへん、ショウに恋愛感情を抱いているとは言え、女性に対する興味がなくなったわけではない節操の無さがギーシュらしい。
それはともかく、ギーシュと視線があったケティはあたふたしながら隣のメイドと何事か囁きかわし、ギーシュの側に歩み寄った。後ろにはメイドが水の入ったグラスとデキャンタを盆に載せて付き従っている。
ケティがギーシュの前に座った。シエスタはケティの前に水をおき、一礼して下がる。
その際交わした目配せがまるで友人同士のそれのようにギーシュには思えた。

「彼女は? 随分親しいみたいだけれども」
「シエスタです。私のお友達ですわ」

あれ以来ケティはシエスタにすっかりなついていた。奔放に育てられた一人っ子の彼女にはシエスタのような姉的な存在が新鮮だったのだろう。
一方シエスタのほうも、わがままな妹に対するような感覚を彼女に覚えている。大家族の長女というのはどうしても年下に優しくなるものだ。

「そうだ、忘れていたよ。君にも謝らないといけないんだった、ケティ」
「謝るだなんてそんな……」
「いや、そうしなければ僕の気がすまない。あの時は済まなかった。許してくれ」

深々とギーシュが頭を下げる。
無言のままギーシュを見つめていたケティが、秒針がたっぷり一回りするほどの時間を置いて口を開いた。

「それは、もういいです。済んだ事ですから。でもギーシュ様。私は、ギーシュ様はモンモランシー先輩の事がお好きなのだと思っていました」

今度はギーシュが黙り込む番だった。
先ほどのケティよりも長い時間を掛けてその口が開く。

「モンモランシーには本当にすまなく思っている。彼女に向けた愛が偽りのものだったとは思わない。けれども僕は本当の愛を見つけてしまったんだ。この気持ちを偽ることはできないんだ」
「ギーシュ様……」
「おかしいと思うだろう? 男が男に恋するなんて。グラモン家のとんだ恥さらしさ。でも、後悔はしてないんだ。本当に好きだから」

いっそ潔くと言っていい程にギーシュが言い切る。
目を輝かせて、その手をケティがとった。

「分かりました、ギーシュ様」
「ケティ……?」

熱く真剣な眼差しがギーシュを見つめる。

「たとえギーシュ様がモンモランシー先輩にも、ご家族にも理解を得られなくても、私はギーシュ様を応援いたします」
「ケティ……」
「シエスタ、あなたもそう思うわよね?」
「ええ。たとえ男同士でもそこまで人を愛する事ができると言うのは素敵な事だと思います」
「シエスタも……ありがとう、二人ともありがとう……っ!」

そんなギーシュは、美少年同士の禁断の愛を扱った小説が今トリステインの女性たちの間でひそかに大ヒットしている事を知らない。勿論、この二人がその愛読者である事も。
よって、彼は素直に二人の言葉に感動していた。まぁ、彼女らにしてもギーシュを応援しようと言う気持ちが全く無いわけではないのだが。
感極まったか、ギーシュは立ち上がって両手を広げ、あらん限りの大声で叫んだ。

「好きだぁ! ショウ! 愛しているんだぁ! ショウーッ! 好きなんてもんじゃない! ショウの事はもっと知りたいんだ! ショウの事はみんな、ぜんぶ知っておきたい! ショウを抱き締めたいんだ! 僕のこの心の内の叫びをきいてくれ! ショーウ!」





ラグドリアンの湖畔に水牛のそれを遥かに猛々しくしたような咆哮が響いたのと同時、唐突にショウががくがくとその身を震わせた。甲冑の装甲板が触れ合い、耳障りな音を立てる。

「ショウ君!」
「ど、どうしたの、ショウ?!」
「な、何だか凄い寒気が……」
「ショウがそこまで言うってことは、それだけあいつが強敵って事かしら」
「いや、それとは違うと思う……何となくだが」

気を取り直して、ショウは咆哮の発生源を見つめた。
80メイルほど先、森から出てきたそれは形としては水牛に似ているが牛ではありえない。
並みの水牛に比べても二周り以上は大きいし、大体体が緑のかった金属色で目が赤、しかも全身が甲冑のような鋼鉄の装甲板に覆われていると来ては、そもそも真っ当な生物であるかどうかすら疑わしい。
精霊の体がゆらゆらと揺れ、右手が"牛"を指差した。

「丁度いい。あれが湖を汚す獣だ。約束どおり倒してみせよ」
「ゴーゴン」

短く、しかし鋭くタバサが呟いた。その顔には珍しく緊張が現れている。ヤンも緊張した面持ちで素早く剣を抜き、前に出る。リリスが酢を飲んだような顔になり、水の精霊に食って掛かった。

「ちょっと、何よあれゴーゴンじゃない! 毒を撒くんじゃなかったの?!」
「あ奴が垂らす涎が湖に入ると魚も藻も石になってしまうのだ。言わなかったか」
「聞いてないわよっ!」
「そうか。だが聞かれなかったのだからしょうがあるまい」
(こいついつか蒸発させてやる)

密かな決心をしつつ、憤りを抑えてリリスは振り向いた。ゴーゴンともなれば、いかにマスターレベルの冒険者であるリリスといえど、気を抜いていい相手ではない。
板金鎧の数倍の厚みを持つ重装甲やその突進力、低レベルの冒険者なら即死する威力の毒のブレスも恐ろしいが、最悪なのはそのブレスに石化の毒があるということだ。下手をすればブレスを一発食らっただけでパーティ全員が石になりかねないのである。
しかも相手は一体ではなかった。森の奥から、咆哮に誘われるように現れた異形の影がさらに四体。
そう、まさしく異形であった。体は獅子に似るが後ろ足は山羊、背中には竜の翼を持ち、しかもその三つの首を併せもつ生物など、確かに異形と呼ぶしかあるまい。

「キメラまで!」

キメラは見てのとおりの恐るべき合成魔獣である。三つの頭による連続攻撃は強烈であり、加えて竜の頭は火のブレスを吐く。連続してブレスを吐かれたら、ショウはまだしもリリスでは耐え切れまい。鍛えてないルイズやモンモランシー達では言わずもがなである。

「精霊! 水の壁を作って私たちを守れない!?」
「我の力は水の中に限られる。陸の上にいるおまえ達を守る事は出来ぬ」

使えないわね!と口には出さず毒づき、リリスは腹を決めて振り返った。

「いよぉーっし! それじゃやるわよみんなっ!」

応!と威勢のいい声が返ってくる。タバサも無言で頷いたが、一人モンモランシーはおろおろしている。それには構わずリリスは言葉を続けた。

「キメラは私が呪文で薙ぎ払うから、ショウ君は残りを! ヤンはキュルケと一緒に牛! タバサは風の呪文でゴーゴンの毒の息を防いで! ルイズは当てなくてもいいから爆発でキメラを撹乱! モンモンは私たちのほうを水で守って!」
「誰がモンモンよっ!?」

最強の冒険者グループに鍛えられ、彼らと別れてからも姉とともに迷宮で積んで来た、計七年に及ぶリリスの戦闘経験は伊達ではない。ことモンスターに対するそれであれば、タバサや同じマスターレベルのショウをも大きく凌ぐ。
それを理解できればこそショウやタバサ、ヤンは素直にリリスの指示に従ったし、それを見たルイズやモンモランシーも渋々ながら呪文を唱え始める。
リリス達が戦闘態勢を整えたのに気づいたか、ゴーゴンとキメラは猛然とこちらに向かって駆け始めた。ゴーゴンにはヤンと少し遅れてキュルケとタバサ。そしてキメラたちにはショウが、それぞれ走り向かう。リリス、ルイズ、モンモランシーもショウに遅れないよう走りながら詠唱を始めた。
第一撃はやはり詠唱の早いルイズの爆発であった。先頭のキメラの鼻先で爆発が起こり、一瞬足が止まる。後続も動きを鈍らせ、僅かながらも移動速度を落とした。
ゴーゴンとキメラたちの距離が開き、一頭だけ突出したゴーゴンをヤン達が食い止める形になる。その脇をすり抜けてショウがキメラ達に向かおうとした所で、リリスの攻撃呪文が放たれた。

戦闘開始直後、詠唱を始めようとしてリリスは一瞬迷った。
彼女の世界では結界の施されていない場所で攻撃呪文を唱える事は禁中の禁であり、破った場合は死罪の上で蘇生できないように死体を無期限に封印という重罪である。
つまり彼女でさえ結界がない状態で攻撃呪文を使うのは初めてなのだ。俗に結界の外なら威力は十倍以上というが、それ以上に範囲がつかめない。
彼女の修得している僧侶系の最強攻撃呪文、死言(マリクト)など唱えようものなら、ショウたちを巻き込んでしまうこと必定である。
やむを得ず、彼女は修得している集団攻撃呪文の中では一番威力の低い魔術師系3レベル呪文、大炎(マハリト)の使用を選択した。

詠唱が完成し「力ある言葉」を解き放った瞬間、キメラ四体を全て巻き込んで、ショウの目の前すれすれに優に直径20メイルを越す範囲を、渦を巻いた紅蓮の炎が焼き焦がす。
スクウェアにも勝ろうかという火の呪文にキュルケが思わず感嘆の声を上げた。
これでは一体たりとも生き残ってはいまいと、リリスを除く全員がそう確信する。

だが呪文を唱えた瞬間、リリスは己の失策に気がついていた。
獅子と山羊に火竜を合成した魔獣であるキメラには火のブレスを吐く能力を持つとともに強い火への耐性がある。全くダメージを受けないわけではないが、その身に備わる竜の血がその効果を半減させてしまうのである。
炎の呪文で確実にキメラを倒そうと思えば、最強の攻撃呪文である爆炎(ティルトウェイト)くらいしかない。
通常はより高位の魔術師呪文「大凍(マダルト)」などを用いるので問題にはならないのだが、この場合いかに結界の外とはいえ、大炎程度の呪文では範囲はともかく威力は爆炎に及ばない。
結界の外ゆえ効果範囲という要素ばかりに気を取られていて、肝心の威力に対する考慮が足りなかったゆえのミスであった。
それでもかなりのダメージを与えたことには違いなく、幸いにも四体のキメラのうち一体は高熱によってショック死していたが、それでもまだ三体が生き残っている。
残る三体はいずれも大きく息を吸い込んでいる。ブレスの準備動作だ。
その時ショウの振り上げた刃から不可視の"気"が薄い刃となって迸った。胴体の半ばまでを両断され、さらに一体が地に伏せる。だがまだ間合いは10メイル余り。ショウと言えども一足飛びに越えられる距離ではない。

(間に合わない!)

モンモランシーの呪文が完成し、水の壁がリリス達を覆ったのと、残り二体のキメラの口から炎の吐息が迸ったのがほぼ同時であった。

「きゃあっ!」
「熱い!?」

戦場が分断されていたがゆえにヤンたちへのとばっちりはなかったが、モンモランシーの作り出した水の壁を蒸発させ、炎はリリス達へも届く。
水の壁に相殺されて威力は大幅に減少していたが、それでも体力の少ないルイズやモンモランシーにとってはかなりのダメージであった。
もうもうたる水蒸気の中、魔力の消費と火傷のショックで、モンモランシーが力尽きたようにへたり込む。ルイズも倒れかかったが、ショウのことを思い出して耐えた。
ショウは自分たちと違って、遮る壁が無いままにあのブレスの直撃を受けたのだ。考えたくはないがひょっとして……そこまで考えたところで水の壁が蒸発してできた水蒸気が風に吹き散らされる。
ルイズが、そしてリリスも目を見張った。顔の前に刀をかざし、ショウが立っている。周囲の大地は炎に焦がされて黒く焦げ、薄く煙をたなびかせているのに、ショウの顔には火ぶくれ一つ無い。
ショウが走り出す。
キメラたちは慌てたように再び息を深く吸い込むが、ショウが二度目の剣撃を放つほうが早い。
五歩ほど離れた間合いから放たれた"気"の炸裂が残り二匹のうち一匹のキメラを肉片に変える。
だがその時、最後の一匹は既に息を吸い終わる直前だった。一撃は耐えてそのまま倒すしかないと覚悟を決めてショウが走り出した矢先、キメラの顔面で小規模な爆発が起こり一呼吸だけブレスが遅れる。だが、ショウにとってはその一呼吸で十分だった。
素早く間合いを詰めたショウの横薙ぎの一振りが空を裂き、三つの頭とついでに翼をまとめて胴から切り離す。後ろ足で立ち上がってもがくように前足をばたつかせた後、重い音を立てて最後のキメラは地面に崩れ落ちた。
後ろを振り向くと、ルイズが杖を振り下ろした姿勢のまま立っていた。ショウの視線に気づくと胸を張り、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。僅かに笑みと頷きを返し、ショウはヤンたちのほうに向かって走り出した。




ヤンが咄嗟にキュルケを突き飛ばした。
ヤンとキュルケの間にタバサの張った風の壁が立った次の瞬間、ゴーゴンが毒の息を吐き出す。
咄嗟に息を止めるが、それでも毒が皮膚を焼き粘膜を刺激する。幸い石になることは無かったものの、ヤンは苦痛の喘ぎを漏らした。歯を食いしばり、間合いを詰めるべく雄叫びを上げて走り出す。

ゴーゴンは既にキュルケのファイアーボールによって痛撃を受けていた。だが分厚い表皮とキメラより一回り以上大きい頑丈な肉体が、強靭な生命力をこの魔獣に与えている。
キュルケの呪文に耐え切ったゴーゴンはそのまま石化のブレスを吐き、間一髪でタバサは自分と親友を風の壁で守ることに成功したのである。
中レベルとはいえ、戦士であるヤンだから耐えられる猛毒のブレスである。ヤンに突き飛ばされずキュルケがまともに受けていれば一撃で絶命していた可能性も高い。
先ほどの火炎のブレスと水の壁の関係とは異なり、毒ガスのブレスは風の壁さえあればほぼ確実に吹き散らす事が出来る。だが風の壁程度では体重数トンにもなろうかという鋼鉄の牛の突進を止める事は出来ない。
タバサはウィンディ・アイシクルの呪文を唱えながら、自分とキュルケの呪文が完成する前に最低一度は突撃ないしブレスをヤンに耐えてもらわなくてはならないだろうと冷静に判断していた。そして恐らくヤンはそれに耐えられないだろう、とも。
確かに普通ならタバサの見立ては正しかった。ただし、このときに限っては別だったのである。

雄叫びを上げ、剣を肩に担いで突撃しながら、ヤンはこの数日間受けてきた気の扱い方のレクチャーを思い出していた。

「戦士の剣術は気の爆発的放出、と言っても放出するためにはまず手元に溜めねばなりません。侍がやるような座禅や精神統一の訓練は気の細かい制御以外では余り必要ありませんから、溜めと放出を体で覚えましょう」

そう言ってショウは見本を見せてくれた。
地面に立てた人の丈ほどの木材を敵に見立て、木剣を右脇に構える。
ヤンが分かりやすいようにゆっくりと息を吸い、吐く。
長い吸気と連動させて手元の木剣に"気"を集中させ、鋭い呼気とともに素早く横に薙ぐ。
ばんっ、と乾いた音がして木剣を打ち付けた部位が爆発したかのように弾け飛んだ。
思わずヤンの口から感嘆の溜息が漏れる。

「剣に"気"を集め、一気に放出する。見てのとおりの技です。初歩の初歩ですが、高位のロードの剣技も理屈は変わりません。まずはこれを修得して、後は威力と精度を磨いていけば問題ないと思います」

だがそれから一週間、ヤンは未だに木剣に気を集める事さえできないでいた。
体内の"気"を木剣に流し込むまではできるのだが、その"気"を剣にとどめておけず、剣から垂れ流すだけになってしまう。収束したそれをインパクトの瞬間に解放しなくては意味がない。
しかし今は違う。実戦の緊張感のせいか、体に力がみなぎっている上に、体内の"気"の流れが手に取るように分かる。今ならできるかもしれない。
今まさに石化のブレスを吐こうとして大きく息を吸うゴーゴンの目の前に飛び込みながら、不思議とヤンは恐怖を抱いていなかった。
何度経験してもやっぱり死ぬのは怖い。石になるのも怖い。だが、背中に守るべき人がいると思えば、それを乗り越える事ができる。金銭のためでなく、名誉のためでなく、己が生き延びるためですらなく。今、ヤンは生まれて初めて戦うことの意味を真に見出していた。
最後の踏み込み。自然に肺が吸気を行い、振り上げた剣に"気"を収束させる。気を帯び、カシナートの剣が淡く発光し始める。
目の前には限界まで大きく息を吸ったゴーゴン。石化の吐息が解き放たれる寸前、無心のままにヤンはカシナートの剣をその肩口に振り下ろした。
ゴーゴンの装甲にカシナートの刃が触れる。一瞬、剣と装甲の間に僅かな光が瞬いた。
次の瞬間、その鋼鉄の装甲板が紙くずのようにひしゃげ、ヤンが剣を叩き付けた肩口の一点を中心に、ゴーゴンの肉体はざくろを割るような音を立てて引きちぎられ、四散した。
冗談のように無傷だった牛の頭が、胴体を失ってくるくると宙を舞う。
ゴーゴンの体を流れていた血その他のしぶきがヤンの全身をまだらに染めた。

「凄いわダーリン! あなたって……本当に……最高!」

一瞬、放心していたらしい。振り向けば、両手を組んだキュルケがぴょんぴょんと飛び跳ね、一方タバサはこの娘にしては珍しく、呆けたような顔をしていた。
その後ろでは駆けつけて来ていたショウが、年齢に似合わぬ男臭い笑みを浮かべている。
ヤンは晴れやかな笑顔と、誇らしげに立てた親指でその笑顔に応えた。

さて、ここで思い出していただきたいのは先ほど血とともにヤンに降りかかった液体である。いくら魔獣とはいえ、一応生物には違いない。その体を斬って吹きだす、血以外の液体とは何か? 
そう、それはヤンが技を成功させなければ直後に吐いていたであろう石化のブレスの原液だった。肺から吸い込むのではなく、皮膚へ付着したために即座に石にはならなかったが、原液をたっぷりと浴びたのである。マスタークラスでもこれに耐えるのは難しかったろう。
くるくると宙を回転していたゴーゴンの首がどさりと地面に墜ちて二、三回転がって止まる。
その時既に、親指を立てた、実に晴れやかないい笑顔のまま、ヤンは石になっていた。





「ちょっと治療するのが勿体無いくらい良い顔で石になってるわねー。型を取って石膏像か何かに残せないかしら?」
「ヤンさんらしいといえばらしいけど。でも本当にいい顔してるなぁ」
「ルイズ? ショウ? 私今あまり冗談を聞きたい気分じゃないんだけど?」
「「スイマセンデシタ」」

二人が揃って殆ど条件反射のように平身低頭する。それくらい今のキュルケは怖かった。

「大丈夫。石化なら確実に快癒(マディ)で治療できる」
「モンモンとタバサの治療が終わったらヤンにかけてあげるから、ちょっと待っててね、キュルケ」
「だから、誰がモンモンよ!」
「そう」

モンモランシーの抗議を思い切りスルー。安堵の溜息をつき、キュルケがヤンの石像に向き直った。
冷たい石になってしまった頬を指でなぞる。自分のためにゴーゴンに挑んでくれたのは嬉しい。だがその結果がこれでは、嬉しさも中くらいと言ったところである。
そんなキュルケの複雑な気持ちも知らず、石になったヤンは(当たり前だが)相変らず晴れやかな笑みを浮かべていた。

「まったくもう、いつも心配掛けてくれるんだから、この使い魔は……でも、今回はお礼を言わないといけないかしらね」

つん、と石になってしまったヤンの頬をつつく。
そしてタバサたちの治療を急かそうと身を翻したところで、ルイズが慌てたようにその背中を指差した。

「ちょ、ちょっとキュルケ後ろ!?」
「え?」

振り向いたキュルケが見たのは、ヤンの石像が実にいい顔をしたままゆっくりと傾いていく所であった。
つついた指が絶妙のバランスを崩したのかはわからないが、ともかくヤンの石化した肉体は重々しい音を立てて地面に倒れこみ、運悪く下にあった尖った石とぶつかって首がもげた。
満面の笑みを浮かべたままの頭部が坂をころころと転がり落ち、ぼちゃん、と湖に落ちる。
普通は石化したとは言えそうそう壊れる事はないのだが、運が悪かったとしか言いようがない。

「きゃーっ! ヤンーっ!」
「あーあ、これで還魂(カドルト)が必要になったわね」
「どうせ甦るんだからどっちでも同じ」
「うーん、確率的にはそうじゃないはずなんだけど」
「ヤンだからねぇ」
「ヤンさんですからねぇ」

キュルケとモンモランシーを除く四人が揃って溜息をついた。

「とりあえず頭を拾ってきましょうよ」
「モンモン行って来て。濡れるから」
「私だって濡れるのは嫌よ! それとモンモンって言わないで!」

ややあってラグドリアンの岸辺に還魂の詠唱が響いた。もちろん、ヤンがまたしても蘇生したのは言うまでも無い。
"アンデッド"の二つ名がハルケギニアに鳴り響くのもそう遠い未来の話ではないだろう。





「止めないでくれモンモランシー! ぼかぁ、ぼかぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「お願いよギーシュ! 思いとどまって! 死んでは駄目ぇ!」

学院に戻り、解毒剤を調合してギーシュに飲ませた日の夜。塔の屋上から身を投げようとするギーシュと、それを止めようとするモンモランシーが必死にもみ合っていた。
まぁ、死にたくなる気持ちもわからないではない。
そしてショウたちは、呆れたり冷やかな眼差しを投げたり無関心だったり面白がったりしていた。

「おい、止めなくていいのか」
「どうしようかしらねー。さすがに死なれたら寝覚め悪いけど、でもギーシュだし」
「死ぬ死ぬと言って死んだ奴はいない。こうして見ているだけ時間の無駄」

そう言って、タバサはリリスを連れて本当に帰ってしまった。それを横目に見つつ、ルイズも帰るべきかどうか悩み始める。一方、キュルケは結構楽しそうであった。本質的にトラブルが好きなのである。

「まぁ、気持ちはわからないでもないけど、恋に破れたくらいで死んでたら命がいくつあっても足りないわよ、ギーシュ?」
「そういう話じゃないと思いますけどねぇ……」
「呑気に話をしてないで助けなさいよぉぉぉぉぉぉぉっ!」

モンモランシーの、ゴーゴン並みの怒りの咆哮が夜の学院に空しくこだまして消えた。





さあう"ぁんといろいろ 第三話『石化』 了




やっチッたァァァァ――――――!

いや、惚れ薬が同性間で効かないとは一言も言ってませんよね? 実際12巻では女同士で効いてた訳ですし。
だから、原作でちょっとタイミングがずれていたら、飛び込んできたサイトにギーシュが惚れる展開だってありえたはずです(ぉ
ちょっと不思議なのは、モンモンは元々ギーシュに飲ませる予定だったにもかかわらず、ギーシュが惚れ薬を飲んでしまう展開が余り無いこと。
と、言う訳でかどうか分かりませんが、最初の予定ではギーシュがモンモランシーと間違えてショウに愛の告白をするだけだったはずがこんなんになってしまいました。こーゆーのが嫌いな人はごめんなさい。

刀と気の話はちょっとベニー松山版が入ってますね。とは言え、よく考えてみたら無印では「協力」にベニ松の名前があるので入れても余り問題ないか?
ショウの剣が井上真改なのは深い意味があるわけではなく、単に鬼平犯科帳が好きだからです(『粟田口国綱』も鬼平から)。
原作では最初一文字(いわゆる菊一文字)を使っていて、その後第二部で兼光(備前長船兼光)、第三部で
兼光(核撃斬で消失)
→景光(備前長船景光、虚空斬を撃った後ケイヒとの戦いで折れる)
→村正
とまるで出世魚の如く折っては取り替えていたわけですが、この話のショウは13歳時点での召喚であり、家督相続も決定してません。なのでそこまでいい刀を持ってたら変だろうな、ということで古刀ではなく新刀から選んで装備させました。

トレボーがリルガミンの血筋と言うのはまるっきり独自解釈です。
しかし外伝終了後ショウとルーシディティの血筋に伝わるはずの"魔除け"は正伝開始時で西方の諸侯である彼の先祖伝来の持ち物でした。
だとすれば石垣世界ではショウの子孫=世界を統一したリルガミン王家であり、トレボーこそがリルガミンの正統な血筋であるか、少なくともその傍流である可能性が高いと思われるのでこうしました。

貨幣経済の話は適当ですが、1000年前といえば日本では平安時代。そういう事があってもおかしくはないでしょう。

ゴーゴンのブレスについて。ファミコン版では何故か再現されてないのですが、奴のブレスには石化の効果があります。
単体で現れることもありファミコン版だとブレスを吐くだけの雑魚だったのですが、テーブルトークメイニヤでもある私としてはそれでは寂しいのでこうなりました。
なお、ゴーゴンの後ろにキメラが出てくるのは本家狂王の試練場を踏襲しております。

ついでに細かい事ではありますが、現代日本では例え人をワインの瓶で殴り倒しても裁判で有罪が確定しない限り前科はつきません。>モンモランシー
ハルケギニアではどうだか知りませんが。後、よい子は真似はしないように。

それでは支援と代理に感謝しつつ、また忘れた頃に。

 

ウィザードリィを知らない人向けキャラクター解説と用語説明

村正

いわゆる妖刀村正。WIZ世界では侍のみが扱える最強無敵の武器。

 

古き者

石垣世界において、迷宮に出現する怪物達の事を指す。かつて『魔除け』(ワードナの魔除け)を手にした勇者に封印されたが、ワードナによってこの世に甦った。

 



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