FLAT OUT

(1)





 スペインの夏は、暑い。土地柄のせいか、どこか暑さにハレーションさえ起しそうな感のあるカタルニアの大都市は、それでも冬の間ならばそれほど熱気を帯びては見えなかった。地中海性気候の乾いた冷気を含む北風が吹く日以外は、冬の澄んだ青空が暖かい色合いの街並みに映える。
 数年前に一気に開発が進んだバルセロナの港湾区に比べると、郊外は昔ながらの雰囲気を保っていた。深緑の木々がクリーム色の街並にぽつぽつと見え、遠くの丘は埃をかぶったように薄らと茶色味がかっている。ヨーロッパ列強からこの大地を守ってきたピレネーの山並みは、今日も青空に溶け込んでしまいそうなくらいに青く、頂を白い綿に縁取られていた。

 二月半ばといえば、地中海沿いの温暖な観光地といえども朝は0度ほどに気温は下がる。それでも太陽が顔を出せばすぐにぽかぽかと暖かくなり、冬が終わろうとしていることを知らせている。
 ラテンの情熱が短い休息期間を終えようとしているそんな頃、ひと足はやく熱気を運んできたのは見慣れない色鮮やかなコンボイの集団だ。
最初に現れたのは、真っ赤なトレーラーである。それが5台ほど通り過ぎ、すぐにまた別の集団が現れる。こちらは黒だ。
 彼らの放つ異彩とその威容は、夢うつつだったカタルニアの農村に、夏の空気を注ぎ込むのである。

 街から少し外れたなだらかな丘陵地の麓にそびえる大きな建物は、そこを訪れる十万人の観客のために去年の暮れに完成した。いまはまだ観客こそいないが、いずれそこで本番を演じる役者は既に揃っていた。静かな休眠期から目覚めたカタルニア・サーキットでは、すでに朝もはやくから鍛え抜かれたサラブレットたちが嘶いているのである。

 世界のモータースポーツの頂点、FA――フォーミュラ・アーツは、開幕戦を待たずしてその鍔迫り合いを開始していた。








 サーキットには全チームが揃い、開幕前最後のテストを始めようとしていた。パドックには大勢の人々が行きかい、その誰もが各々の役割のために働いている。観光地のゆったりとした空気と打って変わって、そこはさながら戦陣と呼ぶに相応しい緊張が漂っていた。

 そこを慌てて走っている人間が、ひとりいた。ぴんぴんとはねたこげ茶色の癖毛に、どこか子どもっぽさの残る彼は、その名を天河明人という。若干細身で、背丈は周りの人々に比べればさほど高くはない。黒いバッグを抱え、両側を各チームのモーターホームに挟まれた『パドック通り』を、わき目も振らずに真っ直ぐ走っているのである。
「おはよう!」
 水色のメカニックスーツを着た男が明人に声をかけた。その胸には『ローラン』の刺繍がある。明人は走りながらそれに「おはよう!」と答えた。
「おはよう、なにをそんなに急いでいるんだ?」
 今度は白いレーシングスーツを着た年配の男である。彼の胸を飾るのは『シュナイダー』のスポンサーロゴと、その上にある『クロトフ』の文字は彼の所属するチーム名であろう。

 道行く人々が走り続ける明人を見かけ、気さくに挨拶をしてゆく。明人はいちいちそれに笑顔を浮かべて返しながら、足は緩めずに走った。自分を待っている人物がもの凄く時間に厳しいことを、明人は知っているのである。

 しかしふと、明人はとあるチームのトレーラーの横に、見慣れない人影を見つけたのである。
 そこにいる全員を覚えているわけではないが、ただその人物だけが目を引いたのかも知れない。思わず足を止めそうになった。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに明人は視線を前に戻して走り続けた。そして、やっとのことでひとつのモーターホームの裏手へと駆け込もうとしたそのとき、またも呼び止められたのである。
「おはよう、テンカワ・アキト。また遅刻かしら?」
 それは、毒舌で有名なジャーナリストだった。
「やあ、サダさん。おはよう」
「……あんたにファーストネームで呼ばれる筋合いは無いわね」

 彼は日本の、明人にとってはいわゆる母国メディアの人間だ。当の明人はあまりそう思っていないのだが、宗丈氏は母国メディアにしては珍しく、明人に対しても毒舌を崩さない人物だった。
「ご存知かしら、今日は彼女がここに来ているわ。わかるでしょう、ユーロ・マスターズを全勝して今年FAにデビューする、期待の新星。貴方の初タイトルも、これでいっそう混迷の中ね」
 それを聞いて明人はなるほどと思った。先ほど見かけた人物はどこかで見たと思っていたが、おそらくその人だ。同時に彼女の鮮やかな朱色の髪も思い出して、確信を強めた。
 もっとも、そんな風に明人が動じないものだから、宗丈は面白くないらしかった。
「ずいぶんと能天気ね。まさか忘れたわけでもないでしょうに」
 いやらしい笑みを浮かべて、彼は言う。明人は、なるべく不機嫌を表に出さないようにして笑いかけた。
「僕だってまだ二年目だからね。去年、僕のことを同じように書いたのは貴方たちだったと思うけど」
 明人がそう言うと、彼は少し驚いたように明人を見つめた。歯痒そうな顔をしてふんと鼻を鳴らす彼に、明人は内心でほくそ笑んだ。だがすぐに憤怒の形相をしているマネージャーの顔を思い出して、急いでトレーラーの脇に突き出している階段を駆け上がる。
 そしてやっと扉を入ろうとした時だ。宗丈が再び階下から怒鳴った。
「いいマシンに乗れば、誰だって速いわよね。そうじゃない、天河明人」
 嘲笑うような目付きで言う彼を、明人は少しだけ睨んだ。
「そうかもね」
 そう言って明人は、今度こそドアに飛び込んだのである。




 モーターホーム・トレーラーの隣にいたまったく同じ柄のトレーラーは、トランスポーターである。各地のサーキットにマシンを運ぶその一方でチームの管制塔でもあり、中には所狭しと機器類が備え付けられ、20人が入れるミーティング・ルームまで備えていた。
 チームスタッフから愛嬌を込めてトランポと呼ばれているそれに、明人は駆け込んだ。とたんに、後ろから声がかけられたのである。
「おはよう、明人君。ぐっすり眠れたかしら?」
 どきりと肩を震わせて明人が恐る恐る振り返ると、そこには彼のマネージャーが腕を組んで立っていた。微笑を張り付かせてはいるが、目が笑っていない。
 明人は、彼女をミス・ウォンと呼ぶべきときと、ファースト・ネームで呼んでもいいときと、その違いがやっと分かりかけてきている。もちろん今は、前者に違いない。
「ああ、いや…………おはよう、ミス・ウォン」
 どうしようもなく挨拶だけを返すと、彼女は苛立ったように彼を睨みつけた。
「エリナでいいわ」
「………ミス・エリナ」
「……………」
 エリナは組んだ腕を指でとんとんと神経質に叩きながら、ちらりと部屋の奥を見やった。明人もつられて目をやるが、そこにはまだ人の気配はしない。
 エリナの小さな溜息に、明人は振り返った。
「本当に、貴方の寝坊癖はどうしようもないわね。明日からは夜もトレーラーに縛り付けておいた方がいいのかしら」
「でもミーティングの一時間も前に呼び出すマネージャーは君だけ――あ、いや、ちゃんと起きるよ。ごめん」
 ふと険がとれて心底困った表情をする彼女に、明人はつい軽口で返してしまった。しかしすぐにキッと睨まれたので、慌てて自分の言葉を訂正する。が、それだけでは彼女の憤懣は解消されなかったらしい。まだ荷物も下ろしていない明人に、彼女はぼんと新たな荷物――着替えのようだ――を押し付けた。
「さっさと着替えて、テスト項目のおさらいでもしておきなさい。……今度遅れたら、私のリベートを30パーセントに値上げするわよ」
「ええっ、それは高すぎ――あ、いや、すぐにやるよ。ウン」
 今度は明人も切実な表情で言い返そうとしたが、やはり睨まれ、すごすごと自分の部屋へと逃げ込んだのだった。



 ちょうど一時間後である。明人がミーティングルームに入ると、既に他のチームスタッフは揃っていた。チームメイトの赤月は、明人を見ておはようとでも言う風に小さく笑った。
「さて」
 口を開いたのは、プロスペクターである。彼は、明人が知る限り非常に有能なチーム代表だった。碧眼にちょび髭、それにきっちりと整えられた髪は、一見するとどこかの企業の会計士のようだ。八年前からこのネルガル・レーシング・チームの代表を務める古株の彼は、その髭先を指で撫でながら、話し始めた。
「それでは今日のテストに入りましょうか。項目に関しては別紙参照のこと――タイヤテストが終了次第、ロングラン・テストに入りましょう。できるだけ、はやく。では皆さん、今日も怪我のないよう、慎重に、てきぱきと働きましょう」
 それだけ言って、プロスペクターは立ち上がった。ミーティングというより挨拶だけの会合は、明人がこのチームに招かれた最初に驚いた出来事だった。

「星矢さん、星矢さん」
 明人は出て行こうとするテクニカル・ディレクターを呼び止めた。瓜畑星矢は眼鏡の奥からぎょろりと明人を見ると、また戻ってきて席についた。
「先々週のテストで出た異音、どうだった?」
「ああ、お前の言った通りだったよ。しかしよくそんな音が聞き分けられたな」
 明人が問いかけると、瓜畑はどこかほろ苦そうな笑みを浮かべて答えた。
「やっぱり回転数は2万ジャストでいくの?」
 それを聞くと、彼の笑みは苦々しいものに変わった。
 エンジンの回転数は即ちパワーである。あと500回転欲しい、と明人が言いたそうにしているのがわかったからだろう。
「そうだ。この前のテクニカル・ミーティングで決まった。何しろ型落ちなんだ、我慢してくれ。5戦目……いや、4戦目の鈴鹿までには、新型を間に合わせる。それまで、すまないが頑張ってくれ」
 エンジンの開発遅れは、去年から取り沙汰されていた。元はと言えばFAの全権を持つ世界自動車連盟が今年のエンジン規則を遅くなってから決めたのが原因だったが、それを差し引いてもネルガルの新型エンジンは他チームに比べて遅れており、開幕戦に間に合わない始末だった。
「なんとか、2万500まで引っ張れないかな……」
「だめだ。それじゃあエンジンがもたない。頼むよ、明人」
 最後に明人の肩を叩いて出て行った瓜畑は、やはり申し訳なさそうだった。




 午前の走行枠が開始されるのは、十時ちょうどだ。明人は他よりも少し早く、ピットレーンに並んで待っている。
『あと20秒ね……水温、油温ともに問題なし。インスタレーションが終わったら、思い切り走っていいわよ』
「了解。まずはスタート・シミュレーションでいいんだよね」
『そうよ。後ろはまだ居ないから、焦らなくていいわ』
「了解しました」
 走っていないとすぐに機嫌を損ねるサラブレットのコクピットに埋もれて、明人はシグナルを見上げた。それがグリーンになれば、束縛は消え去る。制限速度などという野暮なものはなく、信号もない。ただ自分のためだけの道が現れるのだ。

 時速230キロ辺りを越えると、周りの景色が融け始めて現実感が希薄になっていく。300キロになると、今度は自分が両側から押し挟まれて、板のように薄くなっていく錯覚に陥る。そして時速360キロに達すると、景色は全て前方を中心とする放射状の線となって、マシンも服もヘルメットも全て消え、まさしく矢のように空中を疾駆している感覚に陥るのである。
 少しだけ現実に戻るのはカーブで、一瞬の減速から突っ込んでゆくカーブは猛烈な横Gに首が悲鳴をあげるが、同時に自分がハンドルを握っていることに気付く。一瞬でも気を抜けばマシンは破綻し、コースを飛び出してバリアに激突してしまうだろう。それは、恥だ。だから明人は、マシンの動きに全神経を尖らせて、自らの限界に挑む。そして、この上なく神経質なその瞬間が好きだった。

 赤ランプの隣に表示されたカウントダウンの数字が、ゆっくりと時間を削ってゆく。

――4秒。

 親指を伸ばして、ハンドル上の小さな黄色いボタンを押した。スタート専用のボタンである。

――3秒。

 アクセルをゆっくりと一番奥まで踏み込む。背後でウーウーと唸っていたエンジンが、俄かに甲高くなって耳をつんざく強烈な雄叫びをあげた。テスト・デーから観に来ている熱心な観客の目も、一斉に明人に集まった。

――2秒。

 静かに目を瞑ってみると、瞼の裏にそれまで見ていたコースが寸分違わず浮かび上がった。そこには更に、自らが辿るべきただ一本のラインが描かれている。

――1秒。

 目を、開いた。


 ライトが赤からグリーンへと変わるのを視界の隅に見ながら、明人の親指はそれまで押し込んでいた黄色いボタンの上から離れていた。
 エキゾーストノートが背後で弾け、背中から蹴飛ばされたかのような強烈な加速が始まった。セミオートマチックのギヤは明人がハンドル裏のパドルを数ミリ引くだけで寸分違わず反応し、一瞬加速が途切れたかと思いきやまた背中を蹴飛ばされる。その度にヘルメットを被った頭がガツン、ガツンと前後に振られたが、明人はもうそれに慣れていた。
 時速300キロに達するころには、第1コーナーである。右、左と切り返して、続くのはアクセル全開の緩い右コーナー。コーナー外側に向かって5Gの遠心力がかかる。

 カタルニア・サーキットは大小様々なコーナーと長い直線があることでFAマシンのテストにうってつけだったが、気が休まる暇のないサーキットでもあった。このサーキットでは、常に前後左右どちらかに強烈なGがかかっているのだ。
 ドライバーがかろうじて休めるのは、長いホームストレートである。第1コーナーに向けてブレーキングを始める前、マシンが最高速度に達して加速が鈍る頃、ほんの数秒だけ考え事をする時間ができるのだ。

(北斗、か)

 明人はそんなことを思った。いまになって鮮明に思い出されてきたパドックでの後姿は、流れるような朱髪を気持ちよさそうになびかせていた。同時にふと、自分を包んでいる狭いコクピットを見やる。


(………あの髪、どうやってコクピットに仕舞うんだろう)

 その答えは出ないまま、明人は時速350キロからの減速に入ったのだった。









to becontinued...





  みなさん、こんにちは。お久し振り(or初めまして)のはっさむです。
なんというか、始めてしまいました……。
しかも明人の一人称が「僕」だったりします。そんな小説です。
レイアウトなど改めて勉強しながらなので、読み難いかも知れません。
あんまり酷かったら順次手直ししていきます〜〜

※レイアウトその他、若干訂正しました(05/12/18)
瓜畑さんの名前って「星矢」という字を使うんですね。知りませんでした……(笑)

 

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代理人の感想

私の場合カタルニアというと浮かぶのはロード・ダンセイニの「魔法使いの弟子」ですねー。

作品の舞台になったのが丁度冒頭で描写されていたようなスペインの田舎(いや勿論数百年前の話ですが)で。

何とはなしに郷愁めいた物を感じてしまいました。

 

まぁそれはさておき。

 

レース関係のお話はサイバーフォーミュラ(それもTV版のみ)しか知らないのですが、十分楽しめました。

いいですねー、この勝負の世界の緊張感とかそれにもかかわらず妙にアットホームな雰囲気とか。

本格的な話の展開はまだこれからですが、期待してます。

 

レイアウトその他に関してですけど、両脇にスペースを入れたいならスタイルシートの方が簡単確実かと。

あと現状ではちょっとスペースが広すぎるような気もしますね。

それと後書きや用語集の方はややフォントサイズが小さすぎるような気もします。

設定にもよりますが、中程度のフォントで見てる人には本文くらいの文字が丁度いいかと。

用語集の方はいちいち参照するのもあれなんで、ブックマークをつけて本文から直リンするなどを考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

たとえば

『あと20秒ね……水温、油温ともに問題なし。インスタレーションが終わったら、思い切り走っていいわよ』

のところ、

 

『あと20秒ね……水温、油温ともに問題なし。インスタレーションが終わったら、思い切り走っていいわよ』

 

こんな感じで。