FLAT OUT

(6)






 その日の夜のことである。ジロはホテルが遠いからと、夕食を共にしたあと一旦サーキットを離れた。彼が二週間後にここ鈴鹿で行われるISPCのレースに参戦することを明人が知ったのは、別れる間際だ。ジロは、明人に会うため少し前倒しで来日したらしかった。
 これは、勝つところを見せなければなるまい。そう思うと、明人の胸はさらにわくわくと高鳴るのだった。


 四月の日本はまだ涼しかったが、久し振りに兄弟とも呼べるジロと会えて気分の良かった明人は、もう一つここ日本でやりたかったことを行動に移した。それは、サーキット一帯に植えられた桜だ。
 子どもの頃、一度だけ両親に連れられて日本GPを観に来たことがある。父方の祖父母に会うためでもあった。ところがどういうわけか、明人は優しい祖父母のことを憶えておらず、サーキットで目にした桜ばかりをはっきりと憶えていたのである。

 桜色の指すその名の通り、淡色の小山は夜桜になっても変わることはない。二位の北斗に0.8秒の大差をつけて奪ったポールポジションの興奮も、夜空に白く浮かび上がるそれを見るだけで冷めてしまうから不思議だ。
「しかし、案外気付かれないもんだね」
「たしかに、こんなに上手くいくとは思わなかった」
 隣を歩いていた赤月が言うので、明人は目深に被ったカヴァーリの応援キャップを直しながらそれに答えた。赤月は、どこで仕入れたのかクロトフのキャップだ。二人ともネルガルの黒いレーシングスーツを脱ぎ、周囲でテントを張っている観客たちと同じような格好で、ホテルを少し離れたサーキット内の歩道を歩いていた。

 二人が完璧に日本人の観客を装っているせいか、テントの前で夕食の準備をしている人々は彼らに気づかないようである。思い立ったのは明人だったが、当の本人でさえこうも上手くいくとは思っていなかった。
「変装してまで桜を見たいのかい」
 他のチームのキャップを被るのはネルガル・チームとの契約違反だろうとか、ぶつぶつ言っていた赤月が、呆れたように辺りを見回す。独りじゃつまらないという理由だけで明人に引っ張り出された彼としては、チームメイトの気まぐれな散歩の目的が夜桜見物ということに、少なからず意表をつかれたようだった。
「コヴェントリの自宅に一本植わっているんだけどね。イギリスはまだ寒くてさ、このあいだシルバーストンでのテストの後に帰ったけど、咲いてなかった。でもまあ、咲いたとしてもどこかひ弱なんだよ。寒さのせいかな。日本のほうがずっと綺麗だよ」
 感慨深そうに話す明人に、赤月は「ふぅん」と横目で彼を見ながら相槌をうった。

 ヘアピン・カーブを見下ろす丘の上まで辿り着くと、コースと反対側の斜面には絶世の桜がその神秘的な姿を夜空に浮かび上がらせていた。樹々の下では、今だけは花見客となったグランプリの観戦客が、わいわいと騒いでいる。それに明人は、どこか懐かしさを覚えた。
 そのときである。気付かれていないと思っていた明人の肩に、ぽんと手を置いた人間がいたのだ。明人は驚いて飛び上がり、赤月も振り返った。
「なんて格好をしているのよ、あんたたち」
「サ、サダさん」
「あんたに名前で呼ばれる筋合いはないって……言っても無駄みたいね」
 宗丈は呆れた風に息を吐くと、一緒になって歩き始めた。
「今は職務遂行中かな?」
「いいえ、プライベートよ」
 赤月はその答えにほっとしたようで、クロトフのキャップを被りなおす。記者が言うプライベートと仕事の区別は、それが記事になるか噂になるかの違いだ。たぶん来月号の雑誌には日本GPの裏話として二人の夜桜見物が載るのだろうけれども、明人はとりあえず文句を言わずにいた。
「ネルガルが日本の記者を招いてパーティーをしていたよね。行かなかったの?」
 明人が尋ねると、宗丈はどうでもいいとばかりに鼻で笑った。
「そう言うあんたたちだって、そこから逃げ出してきたんでしょう。あたしだって、あんなキャンキャンうるさい連中と一緒くたにされるのはごめんだわ」
「べつに僕たちは、そういう意味で逃げ出してきたわけじゃないけど」
 口の悪さはともかくとして、切れ者の彼が幾分疲れた表情をしていることに、明人は気付いた。そしてそれを言うと、宗丈は驚いたように目を丸くするのである。
「あんたみたいな若造に見破られるなんて、あたしも年貢の納め時かしらね」
 暗い歩道を歩きながら、宗丈は自嘲気味に笑った。その表情がいつもの意地悪で人を見下した彼からは想像できなくて、明人はますます不思議に思う。
「サダさんらしくないね」
 すると宗丈はちらりと明人の顔を見てから、遠くに目をやった。その穏やかな眼差しに、明人は赤月と顔を見合わせるばかりである。
 冷たい夜風が三人の間を流れていった。


「あの桜の木かしら?」
 唐突に問われたそれに、今度は明人が驚いた。
「……どうしてそれを?」
 問い返しても、宗丈は遠くに目を向けたままである。赤月は黙って二人を見比べていた。
「知っているわよ。あたしがまだ駆け出しだった頃だけど、天河治己……あんたのお父上も、日本GPの時は必ずあそこに行ったわ。一番静かな場所なんですってね」
 彼もまた父の時代を知っている人間なのだと、明人は思い出した。年齢も、父が生きていればたぶんそれほど変わらなかったろう。メディアの内部事情まで知っているわけではないが、そこまで長くFAと携わっているジャーナリストは、それほど多くない。
「貴方はどうするのかと思っていたのだけどね。でもその様子だと、やっぱり忘れることはできないんでしょう?」
「……べつに、忘れる必要はないから」
 明人が返すと、宗丈はしばらく考えてから「そうね」と小さく付け加えた。
「いつまで続けられるかしら」
「どういう意味です」
 むっとした明人の声が低くなった。しかし宗丈はそんな明人を振り返って、苦笑いを浮かべるのである。
「そんな怖い顔をしないでちょうだい。何もあんたの意志を試そうってわけじゃないわ。ただ、桜にだって寿命があるってことよ」
 その静かな口調に、明人の胸騒ぎはすぐに収まった。

 桜が日本の代表的な樹木であることは、明人も知っている。何より両親が好きだったし、父に至っては日本から取り寄せてまで自宅に植えたのだ。その木は明人にとってもなくてはならないものだったし、その事実を知って以来、それは形見でもあった。
 桜の木だって命があるのだから、いつか枯れるのだろう。でも明人はそれをあまり考えたことはなかった。鈴鹿の桜も、同じである。
「ここの桜、寿命が近いんですか」
「そう、天河治己が愛した、その桜はね。桜の寿命は、だいたい長くて百年くらい。あの木はもう九十年を越しているそうよ。それに桜は種から育つことのできない木でね、接ぎ木をしないと木として大きくはならないの。まあそれもある意味、日本的なのでしょうけど」
 そこまで言うと、宗丈は一呼吸おいた。そこまで日本に詳しくない明人には、彼の言っていることはよく分からない。ただ、やり切れなさを受け入れようとするその儚い笑みだけに、共感を覚えた。
「あたしだってね、彼の愛したあの木はなくなって欲しくないわよ。でも、歳には勝てないでしょ。私たちもそう。時代には勝てないわ」
 明人は記者会見の場で機嫌悪そうだった彼を思い出した。

 だいたいどこの国の記者も、自国出身のドライバーを一番派手に書き立てるものである。もちろんFAを専門にしているジャーナリストの中には、そうでない者もいるだろう。しかし、たとえば日本GPなら、ここでだけ取材にくる日本の記者たちにとって、明人は「天河明人」ではなく、「世界を舞台に戦う日本人」なのだ。
 日本での良いところは、それがまだファンにまで波及していないところだろう。日本のファンはFAドライバーならば誰でも、惜しみない声援を送ってくれる。それは彼らがドライバーと同じくらいFAを愛してくれている証拠で、そんな日本GPは、鈴鹿というサーキットを差し引いても、ドライバー達から好かれていた。
 だが、それも時間の問題なのかも知れない。日本はいま、欧米諸国に習うかのように愛国気運が高まっていると聞く。それはまだ悪い意味にまで発展してはいないが、メディアはこぞって世界の中の日本人発掘に精を出しているのだそうだ。

「悪いって言うんじゃないわよ。誇りってのは大事だから。でもねぇ、あいつらの言う祖国だの民族だのって、あんまり胡散臭いじゃない」
 珍しい宗丈のくだけた口調に、明人もつられて苦笑いを浮かべた。
 明人もまた、それを身に染みて知っている。国境が地続きであるせいかそういう意識はヨーロッパの方が強く、イギリスでも幾度となくそんなインタビューに答えてきた。しかし昨年FAにデビューしてからは、日本の特集番組への出演要請も、急激に増えてきているのである。あまりにあからさまなそれに、明人は今年からそういった「匂い」のする番組への出演を止めた。

「妙な話だね。結局のところ世論をつくるのは、君たちメディアだろう」
 赤月が揶揄するように言うと、宗丈はちらと彼を見て、苦笑いを浮かべた。
「その通りよ。でもね、批判しないメディアほど役に立たないものはないわ」
 彼は立ち止まり、全てを吐き出したかのようにほっと息を吐いた。
「あたしはこの辺で失礼するわ。馴染みに会うのでね。安心しなさいな、あたしは今晩、あんた達には会わなかったことにしといたげるわ」
 そして明人を振り返り、いつもの意地悪い笑みを浮かべる。
「あんたもイギリス生まれの日本人だったわね。あんたを取り巻く環境は察するけど、同情はしないわよ」
 それを聞いて、明人も苦笑を浮かべた。





 宗丈と別れてやって来たのは、サーキットをほとんど横断してしまった西の端、『スプーン・カーブ』の脇である。そこには桜は一本しかなくて、花見客もいない。照明も歩道を照らすそれがひとつあるだけで、夜桜は星空を背景にぼんやりと浮かんでいるだけだった。
 しかしそこに見つけた人影に、思わず明人は声をあげそうになった。赤月はそれほどではなかったが、それでも驚いたようだった。花見だとか風情だとか、そういったものにとんと興味のなさそうな女性が、そこに先客としていたのである。
「ほ、北斗……舞歌さん」
「あら、こんばんは、明人君」
 明人がなんとか声を絞り出して言うと、背を向けていた北斗はちらりと振り返り、舞歌は楽しそうに手を振って答えた。見れば、北斗の手元には日本酒らしい小さな瓶も置かれている。二人とも、ファンに見つかったらどうなるかということはあまり考えていないようだ。
「ここにも桜があること、知ってたんですか」
「北斗がね」
 明人が尋ねると、舞歌はちらりと北斗を見てから言った。彼女にとっても、北斗がこんなぽつんと立っている桜を知っていることが意外だったのだろう。話によれば、明人と同じようにヨーロッパで生まれ育った舞歌が日本の桜を見たいと思っていたところ、北斗がそれを言い出したらしい。

「思い出したぞ」
 明人と舞歌の会話を無視するようにして、北斗が言った。
「俺もなぜ自分がこんなところを知っているのか不思議だった。だがいま思い出した。俺はここに来たことがあるらしい。物心つく前だからよく覚えていないが……たしかに来た。あのときもコースを歩いてきたんだ」
「コース上を歩いてきたのかい」
 赤月が驚いたように聞き返したが、すぐに口を噤んだ。北斗が機嫌悪そうに顔を顰めたからだ。だが明人は、赤月とは違った驚きに北斗を見つめていた。
「僕も……九歳のときだ。両親に連れられてここに来た。あー……ちゃんと歩道を通ったと思うけどね」

 明人はそのときのことをよく憶えていた。どういう経緯でそこを訪れることになったのかは子供だけに分らなかったが、父と母と三人で訪れたことだけは鮮明に頭の中に残っていたのだ。
 しかしそれを言った明人が北斗を見ても、彼女は関心が無さそうに酒を注いだだけである。明人は両親のことを口に出したとき少しばかり緊張していたのだが、彼女のそんな反応をみてそれも拍子抜けに終わった。

 両親の話をするとき、明人と北斗は他人ではなかった。いや、それは明人の思い込みであるのかも知れない。それでも明人は「自分こそが被害者なのだ」とは思わないようにしていたし、まして誰かを責めようとか恨もうとか思ったこともない。自分から父を奪った男のことも、明人は努めて気にしないようにしていた。その理由はもちろん一つではないが、少なくともいま自分が生きているこの生活に、その悔恨を蔓延らせたくなかったというのが大きい。
 そのときになって、やっと北斗が口を開いた。
「このトラックは変わっていない。この桜も。変わったのは残った者の心だ。違うか、明人。あの『舞台』すら変わらなかったというのにな」
 彼女の言ったことに、明人は共感を覚えた。彼女が『舞台』と言い換えた理由も、なんとなく想像できた。全てが起きたかの地のことを、自分も表すとしたらそんな風に濁すだろうと思ったからだ。とくにそれらを思い出して考えるとき、明人はその名を口に出すのは気が引けた。
――あまりに多くのことが、そこでありすぎたからだ。


 冬の名残だろうか、ひんやりとした夜風が四人の間を通り抜けていった。それに乗せられた白い桜の花びらが、くるくると舞いながら夜闇の中に消えてゆく。赤月だけがふっとそれを見上げ、おもむろに手をかざした。ハンドルとペンしか握ったことのなさそうな色つやのいい手のひらに張り付いた桜の花びらは、また風に吹かれて飛んでいった。
「もう、桜の季節も終りだねえ」
 赤月が言って、明人と舞歌は我に帰ったように彼を見る。北斗はコップに注いであった酒を少しだけ口に運んだ。
「ミス・アズマ、僕にも一杯頂けますか」
「えっ? あ、ええ、どうぞ。ワインしかないけれど」
 舞歌が差し出したハーフサイズのそれを受け取ると、赤月はさも「通」のような仕草でラベルを一瞥して見せた。しかしそこに書いてあるほとんどの内容は理解できていないと、明人は知っている。赤月は日本酒党のはずだ。
「いいワインだ。でも残念、日本の桜には日本の酒が一番合いますよ。次はビールかな」
「日本酒は苦手なのよ。ビールはどこかのチームのディレクターさんが買占めちゃったわ」
 明人は、自分と同じチームにいる眼鏡のテクニカルディレクターを思い出した。
 明人のポール・ポジションを誰よりも喜んでいたのは彼である。表には出さなかったが、自分のせいで明人が序盤三戦で辛い思いをしたと感じていたのだろう。だからと言って、もう明日の決勝レースの前祝をするというのも気が早いけれど。
「少しならあるよ」
 明人は言って、たすきがけに背負っていた小さなバッグから缶ビールを数本取り出した。
「へぇ、随分用意がいいね」
「夜桜を見ながらビールを飲むのはどんな気分かな、ってね。飲むんだろ?」
 ビールは買ったときほど冷えてはいなかったが、赤月の及第点ではあったのだろう。彼はにやっと笑ってそれを明人から受け取った。
「いただくよ。コップ三杯でひっくり返っちゃう誰かさんには、そんなにたくさんは飲ませられないからね」
「べつに無理しなくていいよ。舞歌さんにもあげるから」
 明人が取り返そうとしたので、赤月は慌ててそれを頭上に上げる。彼よりも拳一つ分ほども背の低い明人は、そうされると手が届かない。赤月をひと睨みしただけで、追おうとはしなかった。舞歌も二人のやり取りに笑みをこぼしていた。



 二日酔いでレースをするわけにはいかない。ともかく少量でも酔ってしまう明人を、赤月は気にかけない振りをしながらも心配しているようだった。その甲斐あって、ホテルに戻るために立ち上がったとき、足元がふら付いている者はいなかった。
 明人と赤月は来た道を戻ろうとしたが、それを強引に引っ張ってコースを歩かせたのは舞歌である。実は少し酔っていたのかも知れない。
「ふぅむ、照明が全て落ちて真っ暗なトラックというのも、また新鮮だね」
「月ってけっこう明るいんだなぁ」
「あら北斗、飲みすぎじゃない? そんなに赤くなっちゃって……」
「………舞歌、それは俺の髪だ」
 話はまったくかみ合っていなかった。どこか甲高い舞歌の声だけがバックストレッチの谷間に響き、ここがついさっきまで熱狂的な声援に包まれていたとは思えなかった。
『130R』を過ぎて歩いていくと、サーキットに隣接する遊園地はまだ照明がついていて、明るく夜空に浮かび上がっているのが見えた。暗闇から出てきた明人には、それがことさら眩しく見える。ふと振り返ると、サーキットの黒いアスファルトの上に4人分の長い影が伸びていた。










to be continued...



すみません。鈴鹿に桜の木があったかどうかは、憶えておりません。
……というか無かったような気がします。あわわ。

 

 

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代理人の感想

あたしゃソメイヨシノより山桜ですなぁ。

人工的に作られた花満開の桜よりも、若葉の緑と花の薄紅色を同時に咲かせる、野趣を残したままの桜のほうが好きですね。

ちなみに種で増えないのも寿命が100年程度(60年説もありますが、樹齢100年を超えるソメイヨシノも実在します)なのも人工種たるソメイヨシノだけで、ヤマザクラを初めとするその他の桜はちゃんと種で増えますし、中には千年以上を生きる種もざらにあります。

 

それはともかく、今回は中々風情のあるお話でした。

なんか非常に重要な伏線が撒いてあったような気もしますけど、そっちはスルーの方向で(ぉ