FLAT OUT

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 極東遠征を終えたFAサーカスは、一旦ヨーロッパに戻る。第5戦スペインGPはテストでも馴染み深いカタルニア・サーキットだった。噂どおりカヴァーリがスペック2と呼ばれるエンジンを投入し、1100メートルもの長いホームストレートで北斗が唯一時速360キロを叩き出した。
 明人のNF211は、彼女のカヴァーリC.7と比べればやはりコーナー区間を得意とした。コーナーが多いインフィールド・セクションでは明人の方が速かったが、直線では4キロほど彼女には届かなかった。

 決勝レースは、どちらかと言えばコーナーの多いこのサーキットで、やはりマシンのキャラクターが勝負を左右した。
 今期二度目のポールポジションからスタートした明人は、オープニング・ラップから飛ばした。コーナー区間を攻めて北斗を引き離せば、たとえ直線で追いつかれてもすぐにまた引き離せる。
 つかず離れずの攻防がレースのほとんど全周にわたって繰り広げられたが、結局はコースの3分の2を占めるコーナーで速かった明人が、レースを制したのだった。
 明人は連続優勝を手にし、今度は北斗が3秒差で2位に入った。3位は赤月、4位がオランだった。

 明人にとって惜しむらくは、またしてもオーストラリアのような緊迫した交錯が無かったことだ。日本グランプリで開いた差を北斗が縮めてきたのは、ネルガルチームにとっては脅威だろう。しかし明人は内心でわくわくしていた。それを求めることはもちろんリスキーだったが、それでも明人は求めたし、それを制してこそ勝利を手にしたかったのである。


 そういう意味では、第6戦のモナコも似たような内容だったと言えよう。市街地を使ったこのコースは、六〇年来の伝統を守って相変わらず抜き所が皆無に等しかった。
 ふだん街の人々が時速50キロで走らせる道路を、FAマシンは時速300キロで走る。だからと言ってガードレールで仕切られたその『コース』は、とくに安全を考慮して広げられることはない。広げようがないからだ。つまり、恐ろしく狭い。
 そんなコースで前を走るマシンを追越すのは至難の業である。コース幅の一番広いホームストレートでも、3台並べば一杯だ。曲がりくねった狭いコースは、ときにステアリングを一杯に切ってエンスト寸前まで速度を落とさなければならないコーナーまである。あくまでも市街地に設置されたサーキットだった。


 モナコ独特の雰囲気が、明人を包んでいた。時速300キロで走り抜けるホームストレートの脇はグランドスタンドではない。そこは十数階建てのホテルで、この時期だけ恐ろしい値段に跳ね上がるそこを予約することに成功したファンが、テラスから身を乗り出すようにして観戦している。
 第1コーナー『サン・デボート』を抜けると、緩やかな昇りのS字。『ボー・リバージュ』は、明人を少しだけ追憶へと走らせた。左に見える古色蒼然とした建物――ホテル・エルミタージュのテラスから明人は、父親の勇姿を目で追っていたのだ。
 だがいま、それに構っている暇はない。ほとんど直線的に走れるとはいえ、1秒ごとに右、左のガードレールがすれすれに迫る。時速270キロだ。

 中世の劇場のようなカジノを視界の隅に捉えながら『マッセンヌ』コーナーを走りぬけ、今度は下り。その途中に『ロウズ・ヘアピン』がある。FAシーズン中最も低速のコーナーで、決勝レースのオープニングラップでは、この狭いヘアピンコーナーでFAマシンが押し合いへし合いをする。
「少しリヤが跳ねるよ。オーバーステア気味だな」
『さっきと比べて?』
「そう………ちょっと待って、トンネルだ」
 これもシーズン唯一のトンネルに入った途端、明人の耳をつんざくのは自分のエキゾースト・ノートだけだった。明るいところから突然暗いところに飛び込んで、暗順応など間に合わないうちに時速300キロのコーナーが待ち構えている。もちろん真っ暗ではなく、左の壁に規則正しく開いた石の窓からは真っ青な地中海が見えるのだが、ここでも明人がそれを眺めている時間はなかった。

(この看板って、意地悪だよな)
 トンネルを出てすぐさま通り過ぎる「150m」と書かれた看板に、明人は思った。それはその先にあるシケインへのブレーキング目安となる看板だが、トンネルを抜け出て明るさに視界が真っ白になる瞬間、通り過ぎてしまうのである。
そして『ヌーヴィル・シケイン』は、このコースにある数少ないオーバーテイク・ポイントの一つだろう。そもそも速度が出すぎて危険だと思われる場所に、速度を落とさせる目的で設置する小さなコーナーがシケインである。だがそれはたいてい、ドライバー達のブレーキ勝負の場となった。
「ブレーキング時の安定性は悪くない」
『加速は?』
「TC5が一番いいかな。跳ねなければ4でもいい」
『わかったわ。リヤをなんとかしましょう』
「よろしく」
 ヌーヴィル・シケインから次の『プールサイド・シケイン』までは、高速のS字だ。とは言え絶対的な速度は他のサーキットに比べて低い。それでも恐ろしく速く感じるのは、やはりその狭さゆえであろう。

 改修されて攻略が簡単になってしまった『ラスカス』を回れば、最終コーナーは目の前である。ほとんどのコーナーがシケインという特殊なこのコースは、昨年明人がFAでの初優勝を飾ったサーキットだった。


 モナコには「シーズンで唯一」とか、「シーズン中で一番」といった但し書きのつく施設が多い。最も狭いパドックもその一つで、トランスポーター同士の隙間は人が歩けないほどだった。だからというわけではないが、人ごみから逃げるように飛び込んだトランスポーターの中で、明人はエリナの言葉に苦笑いを浮かべていた。
「そう……今年もやっぱりやるんだ」
「そうよ。貴方と赤月君はネルガル代表としてデモ走行」
 はぁ、と溜息をつく明人に、エリナが訝しげな視線を向ける。
「どうしたの? 去年はあんなに嬉しそうに参加したのに。グッドウッド・フェスティバルと言ったら招かれるだけでも栄誉よ」
 そんな彼女の言葉に、明人は困ったように苦笑を浮かべるだけである。

 グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードと言えば、世界中のモータースポーツが一同に会する祭典である。レースではないが、黎明期から現在に至るまでモータースポーツ史において価値のあるマシンが、またそれらの時代のヒーロー達が選ばれ、招待される。そう、招待されなければ参加できないという威厳も兼ね備えた祭典だった。
「嫌じゃないんだけどね。なんというか………それはそれは深い訳が、あるんだよ……」
「あなた、卿とも仲良くしていたでしょう。直々の招待なのよ」
 イギリスはリッチモンド公爵の主催によるその祭典。無類の車好きで有名なその貴族は、私有地に公認サーキットまで作ってしまった。そこを会場にして年一回、開催されるのがそのお祭りというわけである。
「ああ、うん。行くよ、もちろん」
 それでも、まさかあんなことになるとは、と明人が頭を抱えるのを、エリナは怪訝そうに見ている。しかしもはや決定事項なのだし、明人としても雇われた身で契約にそれらが入っているのだからどうしようもない。嬉しくないわけではないが、同じくらいの不安も感じた。
「……レースも含めて連続三週間くらいは潰れちゃうのか。………勘、鈍らないかなあ」
「………なんの話?」
 思い出したように独り言を漏らす明人に、エリナは眉をひそめる。パーソナル・マネージャーの彼女でさえ知らない明人個人のスケジュールは、明人が完全にプライベートで進めている事柄だけだ。
 エリナとしては、明人が最も打ち込んでいるものがFAであることを知っている以上、本心を言えばなるべく知らないことは無いようにしておきたいのかも知れない。怪訝そうな顔だった。しかし明人は、気にしないで、とでも言う風に笑ってみせるだけである。
「いや、うん……こっちの話。わかったよ、イベントが近付いたらまた教えて」
「……そのつもりよ。忘れっぽい誰かさんですものね」
 そう言って彼女は、苦笑いを浮かべる明人を置いて部屋を出て行った。






 決勝レースは、明人にとってまたしても不完全燃焼と言うべき結果だった。日本GPで遅れをとったカヴァーリC.7だが、ラップタイムでは早くも巻き返してきている。だからこのモナコでは、開幕以来のバトルを期待していたのだ。

 それなのに、スタートの直後、明人は信じられないと思った。バックミラーの中で、二番手につけていた北斗がスタートに失敗したのが見えたのだ。後から聞くところによれば、彼女のマシンに搭載されたラウンチ・コントロールがうまく作動しなかったという。マシン側の不備で、彼女は7番手にまで後退してしまったのだ。
 いったいチームは何をしているんだと、お門違いにも関わらず明人はカヴァーリ・チームに毒づいた。それを公の場で口にすることは決してないが、本心としては彼女と真っ向から勝負したいという思いが、日本GP以降強くなっていた。

 もっとも、北斗も黙って7番手に甘んじていたわけではない。ともかく抜きどころがないと言われるこのコースで、しかし彼女は瞬く間に一台目を射程に入れていた。
 3周目の「ヌーヴィル・シケイン」、北斗のタイヤからわずかに白煙があがる。前を走るドライバーが見せた一瞬の隙を見逃さず、彼女はその横腹に槍を突き刺すかのようにマシンの鼻先をねじ込んだ。あまりの狭さに行き場を失ったそのドライバーは、彼女の後ろに下がってそこを抜けるしかなかった。
 それから猛烈な追い上げを見せた北斗は、最後のピットインが終わったときついに3位にまで浮上していた。ピットインのタイミングをずらすなどの戦略で抜いた場面もあったが、彼女はこの狭いモナコのコース上で3人のトップドライバーに真っ向から勝負を挑み、いずれも圧倒して見せたのだ。

 明人は心躍る思いを感じずにはいられなかった。今日の北斗は、マシンも含めて絶好調だ。それだけにスタートで躓いたのが悔やまれる。それさえなければ今、彼女と百分の一秒を削りあっているのは自分だったかも知れないのだ。明人は、明人と赤月を勝たせんが為に尽力しているチームスタッフに対して不謹慎だと知りつつも、これからそれを繰り広げようとしている赤月を羨ましく思った。
『あと15周よ、明人君。北斗は赤月君に任せて、貴方は勝ちなさい。ここはモナコよ、皆がそれを望んでいるわ』
 心を見透かされたのだろうかと、明人は苦笑した。
 モータースポーツの聖地とも言われるモナコ、コート・ダ・ジュールでの勝利は、何物にも代えがたい。走ることの緊張感だけで言うなら世界一であろうここでの勝利は、ドライバーに賭け値なしの評価が下される。そこで明人は去年、FAでの初勝利を飾ったのだ。
「もちろん、勝つさ」
 短く答え、明人はブレーキを蹴飛ばした。
 7速から一気に2速までシフトダウンするのは、さすがにオートマチックのギヤボックスでも辛いのかも知れない。時々、排気管から吐き出された排ガスに火がつく音がパシッと明人の耳に届いた。
 時速85キロまで減速したと思ったら、6秒後には再び時速250キロを超えている。マシンは明人の指先のように一分のラグもなく動いた。縁石のすぐ脇にあるガードレールまで、3センチ。そこまで近づいても、明人は恐怖を微塵も感じることはなかった。


 木陰になったピットウォールから、たくさんのスタッフが身を乗り出して待っているのが見える。幸か不幸か、最後のラップまで明人のバックミラーに求めていた赤いマシンが映ることはなかった。それでも明人は、一抹の寂しさを心の奥底に秘めつつ、片腕を突き上げる。明人のモナコ連覇、今季の三連勝が決まった瞬間だった。













 世界三大レースの一つに数えられる伝統のモナコ・グランプリが閉幕して、明人はいったんイギリスの自宅に戻ることにしていた。一週間後には再び大洋を渡り、北米遠征である。そしてその後はフランスへ飛び、ジロが参戦するル・マンへ。それからすぐにイギリスへ舞い戻ってグッドウッド・フェスティバルに参加する。
「結構忙しいな……」
 明人は呟いた。しかし、憂鬱な忙しさではない。
 すでにシーズンの三分の一が終わっていたが、それを実感する暇はなかった。ル・マンとグッドウッドへは昨年も行ったのだが、デビューイヤーであった昨年に比べて、チームはもちろんスポンサーの広報活動も一気に増えている。
 エリナから受け取ったこの先二ヶ月のスケジュール表は、A4版に20枚もあった。



 束の間の息抜きに明人がコヴェントリの自宅へと戻ってきた頃には、さすがのイギリス桜も散っていた。父がイギリスでも枯れないかどうか入念に調べてから輸入し、植えたというその樹は、いまは明るい緑の葉が大きくなり始めているところで、こげ茶色の木肌にそれはよく映えた。
 子どもの頃から明人は、それが蕾を膨らませ、弱々しいながら立派に咲き、そしてまた風に乗って散っていくのを見てきた。雪の多い冬には、枝を軽く揺すって雪を落としてやったこともある。
 明人は荷物を家に入れるよりも先に、その桜の樹に近寄った。

 一番下の枝は明人の胸くらいの高さである。しかしその低い枝に、幼い頃の明人は地を蹴っても届かなかった。父親がやるように自分も雪の塊を降らせてみたいのだが、それができなくて地団駄を踏んだ記憶がある。たいていはそれに気付いた父親が笑いながらやって来て、明人が振り落とそうと思っていた雪玉を落としてしまうのだった。
 黒々とした桜の木肌を見つめると、明人はいつも昔のことを思い出した。もっとも、それはとくに幸せだったことばかりに偏ったものではない。過去を幸せだったと感じるほど、明人はいまを辛く感じてはいなかったからだ。その記憶そのものよりも、変わらない桜と景色がそこにあることを、明人は嬉しく思うのである。

 イギリスの冬は長い。日が昇るのは午前八時を過ぎてからで、夕方は午後四時にもなれば真っ暗である。そしてイギリスの冬は、いつもどんよりと曇っていた。
 しかし、冬はまだ先だ。桜の樹はこれから淡い黄緑色の葉を大きくし、夏場にはそれも濃い緑になって鬱蒼と頭の上を覆うだろう。きらきらとたくさんの星のような木漏れ日の記憶も、明人ははっきりと思い出すことができた。

「今年はあまり降らないといいけどね」
 誰にともなく呟き、明人は樹下を出たのだった。




 玄関の鍵を開けようとして、明人はどきりとした。いつも必ず締めて出かけるその鍵が、開いているのだ。しかしそれがすぐに空巣に繋がるわけではない。隣に住んでいるハーテッド夫妻には鍵を渡してあって、留守中に何かあったら使ってもらうように言ってあるのだ。
 部屋の中は、もちろん真っ暗だ。息を殺して中の気配をうかがってみても、物音ひとつしない。辺りがすでに暗くなっているのもあって、窓ガラスには街灯が煌々と映っているだけだった。

――そう、ハーテッド氏が締め忘れただけだよ。たぶん。そう自分に言い聞かせて、明人はそっと玄関の扉を開けた。新しい建物ではないが、建てつけが悪くて軋むほどに古くもない。それなのに、ひんやりとした屋内には扉の蝶番が鳴る音が妙に大きく響いた。
 そして明人は、中からにゅっと伸びてきた黒い腕に捕まったのだ。
「う……わっ……!」
 凄い力で首を締め上げようとするその腕に、声にならない声を上げて明人はもがいた。何が何だか分らない。やっぱり警察を呼べば良かったと、いまになって思っても遅いのだろう。自分がそれなりに有名人になってしまったからこんなことが起きたのだろうかとまで思った。
 しかし、なんとかして上半身の自由を取り戻すため、首に巻きついた腕に噛み付こうとしたそのときである。突然その腕がほどけ、同時に部屋の明かりが点いたのだ。
「ハッハッハッハッ! よう、明人。驚いたか?」
 目の前に立っていた人物が誰だかわかって、明人はほっとするとともにどっと緊張が解け、その場に尻餅をついた。
「ナ、ナオ……」
「なんだ、FAドライバーともあろう者が、情けない。このくらいで腰を抜かしてどうするんだ」
 ナオは明人を力任せに起き上がらせると、荷物をひったくってさっさとリビングへと運んでゆく。そのときになって明人は、その後姿を見送るもう一人に気付いた。
「ふつうはこれが正常な反応だわ。悪戯にしたって悪質よね、天河さん?」
 明人にとって先輩であり親友でもあるナオと結婚して、少なからずその影響を受けているらしい大層な家柄の新妻は、済まなそうに明人に笑いかけた。
「ミ、ミリアさんまで」
 明人自身は、ミリアとはあまり面識がなかった。ナオの恋人だった頃に何度か会ったことがあったが、その頃はもう少し物静かな女性に見えた。結婚して彼女が劇的に改心したのかどうか知らないが、せめてこんな寿命の縮まる「悪質な」悪戯を思いついた夫を止めるくらいはして欲しかったと、明人は思うのだった。


「まったく、僕が警察を呼んでたらどうするつもりだったんだよ」
 ナオは今、チームの本拠地との兼ね合いでイギリスに住んでいる。こうして夫婦で押しかけて来るのも、月の恒例行事になりつつあった。
「犯人が俺だって分れば、お前が助けてくれたろう?」
「それで新聞に載るわけ? 『FAドライバー、悪戯のために友人宅に忍び込んだところを逮捕』って。………鍵はどうしたのさ」
「ああ、有名人をやってると、顔が身分証明になるから楽だな。お前の友達だって言ったら、すぐに貸してくれたぞ」
 許可もしていないのにテレビを点けてコーヒーを待っている図々しい親友を、明人はじろりと睨んだ。もっとも、そんな視線に気付きもしないのがナオという男である。

 彼のコーヒーについ塩を入れようとする自分の手をなんとか押し止めて、明人が人数分のカップを用意しているときだった。ナオがテレビ画面を指差しながら明人を振り返った。
「おい、おまえの特集、やってるぜ」
「ああ……そう言えばひと月くらい前にそんな仕事があったな。僕だけじゃないよ、他にも何人かインタビューするって言ってた」
 ぼんやりと返せば、ナオときたら「なんで俺には来ないんだ」などとぶつくさ言っている。彼だってモナコGPが終わって帰ってきたばかりのはずなのに、なんとも元気だ。
 疲れて帰ってきたのに、ドアを開けて最初の仕事が飛び入り客のコーヒーの準備だろうか。明人は心のうちで溜息をついた。ミリアはもちろん、それ以上明人を働かせるなら自分がやろうと思っているようである。済まなそうな表情でカップを取った。

 明人がやっとのことで椅子に座ると、ちょうどテレビ画面には自分の顔が映っていた。しかし次の瞬間、明人は喉の奥が締め付けられるのを感じたのだ。
『彼の父親もまた、レーサーでした。五度の世界チャンピオン、最多ポール・ポジションとファステスト・ラップ。まさに天才的なドライバーでした。しかし彼は、十二年前にレース中の事故で還らぬ人となってしまいます。ですが、その血は……故天河治己さんの血は、その忘れ形見となってしまった息子の明人さんに受け継がれたのです――』
 ナレーターが言っていた。画面の中、明人の顔写真の背景に、モノクロで父――治己の顔が浮かび上がっている。レース中のものだろう、鋭い目付きで、何かをじっと見つめていた。
「よく似ていらっしゃるわ」
 ミリアの声も、明人はどこか上の空で聞いていた。

 父の後を追ってこの世界に足を踏み入れたのでは、断じてない。純粋に、それが面白かったからだ。男の子はとかくそういったものに憧れるらしいが、明人の場合はとくにそれが身近にあったからだろう、気が付いたらのめり込んでいた。
「親父さんも喜んでるんじゃないか。史上最年少の世界チャンピオンに手が届きそうなおまえさんを見て……」
「いや………うん、どうかな」
 ナオの言葉に、明人はぼんやりと答えた。
「歯切れが悪いな」
「――父さんは、この世界がどんなに危険かよく知ってた。だから、僕にはあまりやらせたくなかったんだ。何も言わなかったけれどね」
 たぶん、ナオもミリアとの間に子供ができたら父と同じことを思うのではないだろうか。明人はそう思ったが、口に出しては言わなかった。皮肉になってしまうような気がしたのだ。
 案の定、ナオも口を噤んでしまった。彼も、一昨年のシーズン中に大事故に見舞われたことがある。今目の前にいるのだから死にはしなかったが、半年もの間欠場を余儀なくされた事故の恐怖は、自分よりも彼の方が良く知っているはずだ。
「それはまぁ……仕方がないよな」
「うん、仕方がないよ、これは」
 ミリアがカップを皿に戻した音が、思ったよりも大きく部屋に響いた。



 テレビではまだ明人の特集番組が続いている。それは、今シーズンのクローズアップにさしかかっていた。
『現在、最大のライバルと目されているのが彼女です。同じくレーサーの父親を持ち、昨年のユーロ・マスターズを全勝で制してフォーミュラ・アーツにデビューした――』
 彼女の顔が画面に現れたとき、ナオは微動だにしなかったが、ミリアは気遣うように明人を見た。
『彼女の父親と故天河治己さんもまた、史上まれに見る強力なライバル同士でした。彼らが一時代を築いたと言っても過言ではないでしょう。同時期に舞台に上がった彼らの勝負は、今でもまだ決着はついていないと言う人もいます。その決着をつけるためにいまこの二人が……明人さんと北斗さんが相見えることになったのだとすれば、なんという運命の巡り合わせでしょうか――』
 明人は、やはり静かにそれを聞いていた。

 ユーロ・マスターズにいた頃から、何かと彼女とのことは騒がれてきた。それはいまもナレーターが言ったように、両親もまたライバル同士だったからである。そんな例はモータースポーツ史上に無いわけではないが、少ないことには変わりない。メディアには恰好の材料となるのだろう。
 さすがに大手テレビ局の番組だからだろうか。タブロイド紙のように勝手な憶測をさも事実のように報道したりはしないし、誘導尋問のような構成でもなかった。ただ、苦言を挙げるとすれば少しばかりドラマチックに仕立てすぎだった。
「ああ、めんどくせえなぁ」
 ナオはそう言って、チャンネルを変えてしまった。彼はそういう面倒なしがらみが嫌いな人間だ。テレビは、どこかの公園でペットを自慢する番組になった。
「まったく、十二年も前の事件を引っ張り出してきやがって……」
「事件じゃなくて、事故だよ」
 ナオの苛立った口調に明人がつい言葉を挟んでしまうと、彼は驚いたようにして明人を見た。
「あのなあ、お前がそんなだから………いや、まぁ……だから――ああもぅ、めんどくせえなぁ」
 ナオの言うとおり、それはたしかに明人の問題に違いなかった。十二年前に起きた事故の当事者の一人は、明人の父親だからだ。だというのに、ナオはそれをまるで自分のことのように考え、悶々としてくれている。それが明人には嬉しく、また小さな胸のしこりの元でもあった。

 明人は知っている。ナオが自分の父親――治己に憧れて、この世界に入ったのだということを。だから彼は、十二年前に治己が死んだ事故を『事件』という。治己は事故で死んだのでなく、一人の男に殺されたのだ、と。面倒なしがらみは嫌いなくせに、それだけはまるで自分に言い聞かせるようにして、譲らなかった。
「いいか、俺は死んだってあいつにゃ道を譲らねえぞ。北斗って女だ――正しいことじゃないかも知れんが、俺の意地だ。そうでなきゃ……明人、お前の親父さんに俺は顔向けもできないよ」
「ん………」
 できれば、そんなことはして欲しくなかった。それが父を思ってくれてのことならば、なお更だ。しかしそれは彼の治己への気持ちであり、明人には口を挟むことができなかった。自分のいま一番大きな望みがその仇の娘と存分に闘うことだなどとは、到底言えないのである。
「べつに、あの事故だって故意だったってわけじゃないんだ……」
「そう思うか?」
 明人は呟く程度に言ったが、ナオはしっかり耳にしていたらしく、真剣な表情で尋ねてくる。サングラスをとって、明人を見据えて言うのである。
「俺にはそうは思えねぇな。明人、お前も知らないわけじゃないだろう。奴がまだ現役だったころ、ムジェロでのこと」
 明人は顔を顰めた。
「ムジェロ?」
 ミリアが尋ねるも、ナオは自分で口にしたことで怒りが蘇ったらしく、不機嫌そうに腕を組む。そんな彼を伏し目がちに窺いながら、明人はミリアを見た。
「イタリアのサーキットなんですけどね。昔、父さんたちが現役だった頃は、そこでもFAのレースをしていたんです。それで……そこで、彼と父が接触事故を起こして――」
「接触事故なもんか。誰がどう見たって、野郎が故意にぶつけたんじゃないか。直線であれだけ幅寄せするなんて、正気の沙汰じゃないぜ」
 明人の言葉を遮って、ナオが吐き捨てた。

 明人も、その事故については知っている。とはいえ父から直接聞いたことはないので、当時のことを知る人や、或いは雑誌からの知識である。
 たしかにあの事故は、故意にしか見えなかった。コーナーから直線への立ち上がりで無用な幅寄せをしてきた相手に、父もまさかそこまでしてくるとは思わなかったのだろう、避ける間もなかった。なんとかガレージまでは戻れたが、リタイヤしたのだ。
 そんな通りであるから、明人もナオに言い返すことができないのだった。
「……だからと言って、彼の起こした事故の全てがそうだったというわけではないよ」
 明人が胸をかきむしりたくなるほどの悲しみに襲われるのは、十二年を経てなお悔恨が消えず、ましてそれが当事者でない人々にまで伝染してしまっていることだった。それはいっそ、罪悪感にすらなったのである。

 そんな明人に気付いたのだろう。ミリアが目配せをすると、ナオもはっと我に帰ったように表情を変えると、すまなそうに肩を竦めた。
「いや……すまん。なにも過去を蒸し返したいわけじゃないんだ。明人、お前のほうが正しいよ。俺の方がガキさ。引きずっちまってるよな」
 そう言って彼は、コーヒーを啜った。サングラスをとると余計に強面に見える彼の、そんなしおらしい態度に、明人は苦笑いを浮かべる。
「べつに、僕が正しいつもりはないんだ。ただ、僕はそう願う、ということだよ。たくさんの人が彼を悪く言うけどね。それも、父さんを思っていてくれたからこそだろう」
 だから、明人から彼らに向かって、それは間違いなのだ、と言うことができないのである。それが、明人がここ数年苦悩し続けている問題でもあった。

 かの男を、庇おうというのではない。ただ、北斗に関してはどうか。たしかに彼女はその男の娘だけれども、彼女は彼女だ。それなら明人が彼女を庇おうとする分には、ファンに対しても不義とは言えまい。
 内から生まれた闇が知らないうちに周囲にまで広がって、やっと乗り越えたと思っていたのに今度は外から明人を蝕もうとする。そして、自分だけならまだしも、それは再び明人の友人たちをも巻き込もうとしているのだ。
 事が人間の感情に近くなればなるほど、繰り返す歴史の周期は短くなるということだろうか。それほどまでに、人の心は弱いものだろうか。

「じゃあ私は、そういう人がいたら誤解を解けるよう話してみるわ」
 ミリアの朗らかな声に、明人も、そしてナオも驚いて顔を上げた。
「明人さんの話を聞いていたら、そうするのが私たちにできるお手伝いだと思うもの。明人さんからは言えないことなら、私たちが言うわ。明人さんは、最後の最後に彼らを納得させてあげることができればいいのよ」
 彼女の言葉に唖然としているのは男二人、同じだったが、少なくとも明人の驚きはナオのそれとは違った。まるで当然のことのように告げられた彼女の言葉は、明人が誰かに頼みたくて、それでも決して口に出しては言えないことだったからだ。

 ナオはぽかんとして自分の妻と明人とを見比べていたが、やがて困ったように腕を組みなおすと、「うーん」と唸る。
「そうだよな…。一番大事にされなきゃいけねぇのは、本人の気持ちだもんなぁ……」
 葛藤は残るのだろう。ナオにとってかの男は、天河治己の仇に違いないないのである。それを簡単に覆せるものでもあるまい。
 しかしナオは、ちゃんと明人を明人として見てくれている。「天河治己の息子」ではなくて、一人のレーサーとしての「天河明人」を見ることのできる人間だ。だからこそ、治己への忠義にも似た思いと、親友でもある明人の願いとに挟まれて困っているのだ。

 しばらく黙り込んでいたナオは、そのうちに諦めたのか、ふぅと息を吐いた。そして頭をぼりぼり掻いて、ちらりと明人を窺うのである。
「まぁ……俺も、努力するけどさ」
 そう言って彼は、ぎこちない笑みを浮かべた。
「でも、ミリアが言ってくれなかったら、気付かなかったぜ。今更だけどさ、明人、お前もう少し自分の意見を言った方がいいんじゃないのか」 
 そうしたらファンも分かってくれるだろうと、照れ隠しなのか、茶菓子を口に放り込みながらナオは言う。明人は苦笑いを浮かべ、ミリアは呆れたように目を丸くした。
「ナオさん、仮にも親友なら、そのくらい察せなくてはいけないと思いますけど」
「ぐっ……」
 ミリアの痛烈な言葉にナオがお菓子を喉に詰まらせた。
 それを見てやっと笑みとともに息を吐いた明人は、やはり彼らと友達でよかったと思った。ナオは直情型だけれども根は優しいし、ミリアはとくに大局を見ることのできる、強い女性である。

 疲れて帰ってきて最初にしたのが飛び入り客のコーヒーを入れたこと。しかし、暗闇から現れた不法侵入者が彼らだと気付いて、ほっとするとともにどこか嬉しかったのも事実だ。それは、明人が仕方ないと諦めつつも、やはり忘れられない温もりなのだった。


 ナオがコーヒーを水代わりに流し込むのを助けもせず見ていたミリアは、何かを思い出したように、少しだけ怪訝そうな顔を明人に向けた。
「それとも」
 話がまだ終わっていなかったことに、明人は笑顔のままミリアを振り返る。すると、実は夫よりも行動的で言うべきことをはっきりと言う彼女は、明人が予想もしていなかったことを口にしたのである。
「明人さんは、北斗さんを意識してらっしゃるのかしら」
 今度は明人が、生温くなったコーヒーをカップの中に吹き出しそうになった。
「い、意識してる、と言うと……?」
「あら、ごめんなさい。とくに深い意味ではないのだけど……その、今のレースを戦う時に、そこにいる彼女だけでなく、そういった過去のしがらみまでを意識して走っているの?」
「おいミリア、そんな言い方……」
 辛辣な口調のミリアにナオが少しばかり驚いた顔を見せたが、ミリアは取り合わなかった。しかし明人も、逆に彼女がその質問をしてくれて助かったと思ったのである。
「いいえ。僕はいま、目の前にいる彼女とレースをしてるんです」
 すると彼女は、よかった、と笑みを見せた。
「じゃあ何も問題はないと、私は思うのだけど。明人さんと北斗さんは、あくまで明人さんと北斗さんだもの。明人さんは……その、北辰さんと闘っているわけではないし、北斗さんだって、北辰さんの分も貴方と闘っているというわけではないでしょう?」
 ミリアの口からその名が発せられ、再びナオの表情が強張ったのが明人にはわかった。
 だいたい当時のことを知っている人は――天河治己のファンだった者はなおさらだ――、その名を口にすることさえ嫌がる。この世で最も下劣な言葉だと思っているかのようだった。なぜなら彼らは、北斗の父親にしてその男――北辰こそが、天河治己を殺した犯人だと考えているからである。明人には、それが一番心苦しかった。
「……だといいんですが」
 それだけを、明人は呟いた。
 脳裏に、とび色の瞳でじっと自分を睨みつけ不敵に笑う北斗が浮かんだ。










to be continued...


今年最後となります投稿は、合併号でお届け致しました(笑)
次回及び次々回の更新日は正月三箇日になりますので、私の投稿はお休み致します。
明けて2006年最初の投稿は、1月5日(木)を予定しております。

それでは皆様、良いお年をお迎えになることを祈っております。

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

うむむう、なんか肩透かしを食らった気分だなぁ(笑)。

ニューマシン登場と来たらそれを駆って大活躍、というのが世の常人の道なのに(違)。

アキトが言うところの「緊迫した交錯」がないと、勝利に今ひとつ爽快感がないんですよねぇ。

・・・まさかこのまま最後まで引いたりはしませんよね?(爆)