FLAT OUT

(15)






 カナダGPから始まった北米連戦は、オランの事故という衝撃的な結末で今季の役目を終えた。それが終わってすぐにフランスへ飛び、三日間を友人たちとともに過ごした。その次の週はチームの仕事もあり、グッドウッドへ。北米へと旅立った日から、自宅に戻ったのはほんの四日だけだ。
 そしていま、明人は再び出かけている。

 ゴウゴウいうエンジン音は、明らかにフォーミュラ・アーツのマシンとは違った。一分間に2万回転もするFAのそれはほとんど振動を感じさせないが、明人がいま支配下に置いている巨大なエンジンは、その四分の一もない回転数で心地よい鼓動を伝えていた。
『丸くないハンドルはどんな気分かね?』
 FAマシンと違うのは二人乗れることだが、インターコムを通じないと会話ができないのは同じだ。後ろの席に座っている教官からの声に、明人は手を握りなおした。
「……そんなに違和感はないです。『回らない』っていうのは新鮮だけど」
 そもそもFAマシンのステアリングも、丸くない。手を持ち替えるほど回らないから握る部分も決まっていて、それに準ずる形になっている。だが今明人が握っているのは、それ以上に奇怪な形をしたハンドルだった。――自動車と比べるなら、であるが。
「でもこっちの方が扱い易いかな。それにパワーが……ひっくり返るかと思いました」
『そうだろう。なんと言っても私のマシンだからな。それに乗せてやってるんだから有難く思いたまえよ』
「了解です、ハーテッド教官殿」
 窓の外を流れる空気は、思いのほか乱れていない。聞こえるのは風を切る音よりも、巨大なエンジンの唸り声ばかりだった。

『では最後にもう一回だけ、やってみよう。飲み込みの良いところを見せてくれたまえ』
「はい」
 アリサとサラの祖父。いつの間にか、明人にとっても祖父のような存在になっている。その彼の言葉に、明人もシートに深く座りなおした。両肩と、腰の両側から伸びてへその下で一点に繋がるシートベルトはFAマシンのものに似て、明人の体をがっしりとシートに縛り付けていた。
『では、前方の入道雲を目印に。飛行諸元、確認』
「高度3千フィート、速度170ノット、方位150度」
 真っ白い山のような入道雲に、グッドウッドで決着をつけた幼馴染の顔が一瞬思い出されたが、明人はすぐにそれを振り払った。
『それでは行こう。引起し――いまだ』
 グラシス老人――いまは明人の教官だが――の合図に、明人は左手で握ったスロットル・レバーを前方に押し出した。にわかにエンジンが唸りをあげ、機体がぐぐっと加速する。それに合わせるように明人は、両膝の間から生えている操縦桿を引き付けた。
 二人を乗せた最新型のプロペラ機は、静かに機首を持ち上げて宙返りに入ったのである。



 片田舎の飛行場に伸びる短い滑走路に二人が降り立ったのは、それから十五分ほど経った頃だった。定期便の飛来する空港ではなく、ダイビングやグライダーなどのスカイスポーツを楽しむ人々の集う、小さな飛行場である。
 そこにある小型プロペラ機の中でも最も野太いエンジン音が止むと、再び飛行場は静寂に包まれた。周囲は遠くぽつぽつと民家が数えられる程度の平原で、そう遠くない海からはかすかに潮の匂いもした。
「ふむ、悪くなかった。多くを言うなら、もう少しスムーズにエルロンを使えば、綺麗な宙返りになったろう。ただあの機体はかなり神経質な翼を持っとるからな。気速の落ちるループの頂点で多く使い過ぎると、一気にスピンに入る。だから今はまあ、あのくらいでよい」
「スピンに入ったら、回復操作はやっぱり難しいんですか」
「いや、タイミングさえ間違えなければ、そうでもない。パワーがあるし、操舵翼も大きいからな。次回はそれをやろう」
「楽しみですね」
「背面錐揉みを楽しみだなどと言う生徒は君が初めてだよ、明人」
 話しながら駐機場に戻ると、ちょうどティータイムなのか、幾人かがテーブルを持ち出してのんびりしていた。明人も見知った、フライトクラブの仲間である。ただ、歳だけは離れていたけれども。
「しかし、現役のレーサーさんがこんなところに来るとはねぇ。わたしゃ操縦桿が握れりゃそれで良かったけども、これも役得かね。つぎは孫も連れてこよう」
 まるで大戦中の航空兵のような格好をした初老の男性は、のんびりとした口調で煙草をくゆらせながら言った。飛行後のブリーフィングを終えた明人とグラシスの一服に付き合って、何人かの同じような年頃の男たちが寄り集まっているのである。
「若いもんにゃまだまだ負けんが、お宅さんは別だよ。『Tバード』の操縦輪は握れても、車の運転は娘婿にまかせっきりだ」
 白いあごひげを撫でながら言う老人は、それでも明人より飛行経験のあるベテランだ。
「そういえば私も、車となると運転手に任せておりますな。若い頃は随分無茶なこともしたが……この歳になって心底楽しめるのは、こうして他人様を煩わせることもない、己の趣味だけです」
 こちらは片眼鏡をつけた貴族風の男である。やはり歳は明人の三倍は重ねているようだ。明人がとくに何も言わずに紅茶を啜ると、隣にいたグラシスが「ハッ!」と息を吐いた。
「諸君、そんなに腑抜けたことを言っていてどうするのかね。諸君が乗り込もうとしている大海原は、我々の短い人生の中の更に限りある時間で知ろうとするには、あまりに大きな器ですぞ。それがそんなに逃げ腰では、パイロットが聞いて呆れるというものだ」
 大仰な物言いでグラシスが紡ぐ言葉を、紳士たちは驚いたように目を丸くして聴いていた。
「おっと、これはうっかりと口を滑らせた。将軍が目の前にいるのを忘れていた」
「確かに。いやしくも王室空軍に名を馳せた、ハーテッド将軍閣下ですからな」
 そう言って彼らは、はっはっと笑う。

 グラシス・ファー・ハーテッドが空軍を退役したのは、明人が父親を喪った翌年のことである。隣人となって間もなかったその頃、大勢が集まっている彼の退役パーティーを、明人は自分の部屋の窓からぼんやりと眺めていた。すると驚いたことに、それに気付いたグラシスが自分を労うそのパーティーから抜け出し、明人を裏庭へと連れ出したのである。
 そこで夜空を眺めながら、十一歳の少年と老人が話したことを、明人ははっきりとは憶えていない。ただ、顔に似合わず優しい人なのだと思ったのだった。
「止してくれ。いまの私はもう、田舎のフライトクラブでヒヨッコたちを教える、ただの年寄りなのでな」
 グラシスが苦笑混じりに返すと、男たちは「その口調こそ将軍に違いない」とさらに笑みを深める。しかし明人は、そんなグラシスがいつもと少し違う表情でいることに、気付いたのだった。
 グラシスは陽気な男たちの笑い声に自分も小さく微笑むと、空を振り仰いだ。
「でも僕は、グラシスさんに教わることができて嬉しいですよ」
 やっとのことで明人が口を挟んだ。
 歳の差がありすぎるのか、とくにこうした世間話に明人から入っていくことは稀だ。それでも明人と皆の関係が常に良好であるのは、彼らがサーキットでの明人さながらに好奇心旺盛であるからだろう。彼らが尋ね、明人がそれに答え、それだけで日々の会話が成立するのだった。

「そうそう、アキトに尋ねたかったんじゃ」
 一人が言い出し、明人も紅茶を口にしながら視線だけ彼に向ける。
「将軍のお孫さんとはもう結婚したのかい?」
 明人は思わず紅茶をカップの中に吹き出した。跳ねた滴がフライトスーツに小さな染みをつくり、それを見たグラシスが少しだけ顔を顰める。
「ふぅむ、確かに絵になりますな。『銀の矢』ことアリサ嬢と君ならば、ね」
 モータースポーツに興味のある人間なら、明人の名を知らない者はいないだろう。またフォーミュラ・アーツに比べれば知名度は下がるが、それでもISPCで好成績を収め、今年のル・マンでは念願の初優勝を果たしたアリサである。たしかにそういうタブロイド紙的な観点で見れば、紙面を飾りそうな話題ではあった。
 しかし、しどろもどろになって言い訳をしようとしている明人に比べれば、グラシス老人は全く動揺の欠片も見せなかった。
「フン、冗談も程々にして欲しいものだ。こんな危なっかしい男に、可愛い孫をやれるものかね」
 それは突き放した態度だったが、周囲の面々も、そして彼にそうして扱下ろされた明人でさえ、その反応に苦笑を浮かべるだけだった。グラシスが明人のごく一部に限ってそんな反応を示すのは、今に始まったことではないからだ。
「しかしその可愛いアリサ嬢も、やってることは天河君とそれほど変わらないと思いますがね」
「そうだよ。そう言うグラシスだって、彼よりもよほど危ないことをしとるじゃないか」
 グラシスよりは幾分か若い二人が笑みを堪えながらそう言うと、当の老パイロットはますます苦虫を噛み潰したような顔になった。たしかに先ほど彼と明人が命を預けた小型のプロペラ機は、最高速度だけで比べるのならFAマシンよりも速いのである。

 グラシスは苛立ったのか眉間に皺を寄せて考え込んでいる。明人はそれを少し複雑な思いとともに見ていた。そして彼が明人に向かって投げかけた言葉は、明人が少なからず予想していたものだったのである。
「わしも解せぬところはある。文句を言うつもりはないがね。地上で最も速いマシンを自分の手足のごとくに操るというのに、一方で空を飛ぶ翼を欲する。贅沢極まりない。次は海かね?」
 咎める口調ではないものの、彼の疑問がはっきりと伝わってきた。とくに彼の言う前者は、なりたいからなれるというものでもないだろう。それも含めて、いったい何を求めているのかと彼は問いたいのだ。
 明人は少し考え、顔を上げた。
「何故でしょうね」
「自分で分かっていないのかね?」
 少しおどけたように返すと、グラシスは一瞬目を細めて言った。

 分かっている。彼の言うとおり、フォーミュラ・アーツは世界一速い自動車だ。もちろん最高速度でそれを上回る車はたくさんあるが、走り、曲がり、止まることを彼ら以上に速く行える車は、この世界には存在しない。それを駆る明人。
 年俸は250万ユーロとまだそれほど高くないが、敏腕マネージャーのエリナのことである。この次の契約には、とんでもない額をつきつけるだろう。それだけのものを得ながら、更に違う世界へと足を伸ばそうとする明人。
 各々の世界の人々にしてみれば、鬱陶しいと思われているのかも知れない。明人だって、もし自分のところに弟子入りしたいという物好きが来たとしても、生半可な気持ちで門を叩くのならやんわり、きっぱりと追い返すだろう。しかし今は、明人がその弟子入り希望者なのである。

「おいおいグラシス、そんなに詰問せんでもいいじゃないか。明人は何も航空兵に志願したわけじゃないんだ」
 いまは師弟の関係を忘れてグラシスの友人に戻った男は、煙草をもみ消しながら笑ってそう言った。しかしグラシスは笑みをちらりとも見せず、どっしりと腕を組む構えだった。
「興味半分に操縦桿を握られては困る。墜落して自分だけ死ぬのは構わんが、堕ちたところが民家だったらどうする。モータースポーツにしてもそうだ。多くのドライバーが命を落とす一方、何の罪もない観客が巻き添えになったことは少なくあるまい」
 彼の言ったことは事実だった。FAでも何年か前、マシンのクラッシュによって吹き飛んだタイヤにあたり、観客一人が死亡する事故があった。二十年も遡れば、それこそマシンが大勢の観客の中に飛び込む事故さえあって、それらの犠牲のうえに現在の安全性は成り立っている。
 明人は視線を落として考え込んだ。例えどこかの誰かが起した事故であっても、ひいてはモータースポーツそのものの危険性がそうさせたことには違いない。それによってモータースポーツが発展を妨げられるのなら、悲しいことだ。

 グラシスは言いすぎたと思ったのか、眉間の皺をとってコーヒーの入った紙コップをとった。
「……明人を責めるつもりはない。私も昔はそうだった。とは言え、君くらいの頃は飛行訓練に明け暮れていたがね。だからこそ、答えも知っている。それが、いずれ思いを遂げる者が必然的に課せられる義務であることもな。まして人々の目を集める仕事ならば、しかたがあるまい」
 そして彼は明人を見ると、口元に皺を浮かべて微笑んだ。
「まあ、明人ならばいずれ分かるだろう。今すべきは、己を知り、世界を知ることだ。多くを知れば、それだけ真理に近づける。そういう意味では、わしは君の弟子入りを歓迎するよ」
 それはどこにあるのだろうかと、明人は頷きながらも思った。レーサーの理とファンの理もまた、違う。真理は、それを繋げられるだろうか。初夏のしっとりとした空気を首筋に感じながら、明人は青空を振り仰ぐだけだった。






 昼下がりの風が、飛行場の芝を波立たせた。グラシスと明人は、フライトスーツから着替えて車に向かっている。二人の背後では、軽快なエンジン音とともにクラブ所属のカブが離陸していった。
「母上の具合はどうかね」
 助手席に乗り込みながら、グラシスが尋ねた。
「元気ですよ。ここのところ涼しい日が続いていますし」
 愛車にと貰ったネルガルのクロスカントリーを発進させながら、明人が答える。目的地は、明人の母――天河雪枝が療養する施設だ。
「君とこうして彼女の見舞いに行くのは久し振りだな。もう少し頻繁にと思ってはいるのだが」
「いえ、会って頂けるだけでも母にとってはいいことですから。人と話をしていた方が、気も紛れるでしょうし………ありがとうございます」
 雪枝は、老人養護施設に入るほどの年齢ではない。そしてまた、十二年前の悲劇に気を病んでしまうような女性でもなかった。事故直後はむしろ誰よりも強く、とつぜん父親を失った明人を支えたのも、他ならぬ彼女だった。
 だから明人が呪うのは、そんな母を襲った病魔である。もともと病弱な身体に自ら鞭を打っていたのだ。明人のひとり立ちを見届けたすぐ後、彼女は倒れた。
「その……どうなのかね。リハビリは、上手く?」
 いつも毅然とした態度を崩さないグラシスも、こればかりは伺いを立てるかのような口調で明人に尋ねる。
「ゆっくりとですが、順調に進んでいますよ。最近はリハビリがいい運動になっていると、自分でも言ってました。物もしっかり握れますし。脚は、まだ動かせませんけど」
 僕より腕の力が強くてまいっちゃいます、と明人は笑って答えた。するとグラシスもほっとしたように、「そうか」と緊張した表情を解くのだ。
 彼女がバーミンガムの大学病院からノーウィッチ郊外の療養施設に移ったのは、二年前のことである。コヴェントリの自宅からは遠くなってしまい、明人は反対したのだが、彼女が聞かなかった。
 幼くして亡くした父親への思いもあって、明人がひたすらに自分の道を進もうとしていたことに、彼女は気付いていたのだろう。自分が思った道を進むことこそが両親の最大の願いなのだと、当時の明人は既に知っていた。
 そして、母が遠くへ移ってまで歩かせようとした、明人自身の道。
 それを思うと、どうしても明人は沈黙せざるを得なかった。


 ところで、そんな時である。同じようにしばらく黙っていたグラシスが、不意に口を開いたのだ。
「明人、済まないが、寄って欲しいところがある。構わないかね」
 彼は明人の飛行教官だ。軍で教鞭をとっていた頃もあるから、教え方は上手い。そのぶん、しごき方もたぶん一般の飛行クラブよりは厳しいのかも知れないが、だから明人にとって彼は、畏怖を排することのできない人物でもあった。
 その彼が、沈痛な面持ちで言う。それに、明人は黙って頷くしかないのである。

 五分程で二人が辿り着いたのは、街の外れにある小さな墓地だった。
 グラシスが途中で買った花束は、二つ。そのうちの一つを持って、彼は墓地の中でも隅の方にある墓石へと、歩いていった。
「今日が命日でな」
 グラシスは立ち止まると、呟くようにして言った。
「……軍関係の……?」
「ああ。教え子だった」
 そういう彼の顔がどこか恨みがましく、墓石を見下ろしていたのはなぜだろうか。
 誰か先に来たのか、花束が置かれている。それが墓地によくある花束と少し違うのは、どこで手に入れたのか、或いはどこから飛んできたのか、白い、柔らかそうな鳥の羽根が一枚、乗っていることだった。

 独りにしてあげた方が良いだろう。そう思って明人が先に車で待っていると声をかけようとした、そのときである。グラシスが振り向きもしないまま、口を開いた。
「明人、君はこうはなってはならぬぞ」
 その視線の先にあるのは、白い墓石のみである。
 死ぬな、ということだろうか。もちろんそんなつもりはなかったが、答える言葉も見つからず、明人は黙って彼の背を見つめるばかりだった。
 墓石に記されている年を見れば、グラシスとは随分歳が離れている。ちょうど息子くらいの年齢だったのだろう。若くして命を落としたということだ。
「事故……ですか」
「……そうだ」
 項垂れた肩の向こうから聞こえる声は、悔恨に包まれているように、明人には聞こえた。





 母の施設は、飛行場から車で二〇分ほどの場所にある。明人はフライトクラブを訪れるたびに施設にも立ち寄り、母との時間をつくっていた。本業が世界中を転戦するレーサーであるから、時には月に一度も来られないことがある。そんなに無理をして顔を出さなくていいという母を説得するのに、フライトクラブが近いのは良い口実でもあった。
 墓地を出てから、グラシスはあまり喋らなかったが、雰囲気はいつもの堅物な老兵に戻っていた。

 車を駐車場に停めて、二人が施設の玄関に向かって歩き始めたときである。
「やあ明人君、雪枝さんは木の下にいるよ」
 高いところから掛けられた声に明人は振り向き、思わず飛び退った。目の前に巨大な馬の顔があったからだ。
 まさか馬が人語を喋るはずがない。明人が視線を上げると、やはりそこには、今となっては馴染みの所長が誇らしげに笑っていた。
「こ、こんにちは、所長さん。今日は乗馬日和?」
「ああ、いい天気だねぇ。ほれ、セオドール号も喜んでいるだろう」
 明人はまじまじとその馬を見るが、ブヒヒンといなされ、やはり飛び退った。
(どのへんが喜んでいるんだろう)
 知りたいような、知りたくないような、そんな気持ちで明人はもう一度所長を見やる。
「平穏ですね」
「うむ、何事もないよ。何かあったら、この私が愛馬とともに駆けつけよう」
 彼の責任感の強さは、明人も知っている。だからこんな突拍子もない出迎え方をされても、訝しむことなく母をお願いできるのだ。スケジュール通りの療養よりも、こうして自然に包まれていた方が病気は根本から治るというのが、彼の持論だ。

 陽気な所長と別れて、明人とグラシスは庭へと向かった。
 草原の真ん中に立つネムの木は、明るい緑の葉をたくわえて涼しそうな木陰をつくっている。そこに、明人の母はいた。
「母さん、来たよ。具合どう?」
 明人がわざと後ろから声をかけると、車椅子の上で本を読んでいたらしい彼女は驚いて振り返った。そして明人とその隣に立っている老紳士を見つけ、ほっと微笑む。
「明人ったら、驚かさないでちょうだい。グラシスさん、わざわざこんな遠いところまで――」
「飛行機乗りにとって遠いのは宇宙と海の底だけですよ、マダム」
 来る途中で買った花束を渡しながら、グラシスはそっと彼女の手をとり、その甲に口付ける仕草だけをした。実際に口付けないのは、彼の厳格な軍人気質のせいだろう。しかし自分の娘ほどの女性をわざわざ「マダム」と呼ぶくらいには、紳士であり茶目っ気のある老人である。
「今日は気流が安定していて飛びやすかったよ。空の上から、何度もここを見た」
 明人が車椅子の隣に腰を下ろしながら言うと、雪枝はくすりと笑みを漏らした。
「最近は、明人が本当にレーサーなのか信じられないわ。貴方ったら、開口一番に空の話をするのだものね」
 彼女はそう言って、読んでいた雑誌を明人に見せた。それはどこにでも売っている女性誌で、表紙には新聞の案内面のように各記事が羅列されている。その中に黄色で綴られた文字を見て、明人は苦笑した。
『最年少の『スピード・スター』へ……天河明人の素顔』
 ページをめくれば、なんと十数ページにも及ぶ特集である。
「素顔ね………これが素顔なんだけど」
 そう言って明人が二人に目配せをすると、二人とも笑った。
「『スピード・スター』というのは、何かの賞かね」
 グラシスが尋ねる。明人は「ええ」と答え、少し考えたのち、続けた。
「レースに全てを捧げるドライバーにとって、最も栄誉ある賞だと言われています。実力や人格はもちろんですが、一番大きな判断基準は、レースというものを超え、人類を代表してスピードそのものを求めようとするその姿勢である、と。審査委員もフォーミュラ・アーツ関係者に限らず、各界の有識者を集めて毎年候補者を選ぶらしいですが………候補者が見つからないことも珍しくはない、とても厳格な賞でもあるんですよ」
 少しばかり感慨が混じっていることに気付いたのか、グラシスは「ほう」と眉を上げた。雪枝はなにを言うでもなく、雑誌に目を落としている。どちらかというと明人は、そんな母親の横顔を注意深く見ていた。
「最近は誰かその賞をとったのかね?」
 グラシスの問い掛けに雪枝の瞳が少しだけ揺らめいたのを、明人は見逃さなかった。決して震えてはいなかったが、雑誌の上に置かれたまま動かない母の手に、そっと自分の手を重ねる。
「最近と言っても、もう十二年も前になりますけど」
 そう言って明人は、グラシスを仰ぎ見た。
「天河治己………僕の父が、最後の受賞者です」
 だからメディアも騒ぎ立てるのでしょう、と明人は苦笑した。










to be continued...



なんだかちょっと毛色の違うお話?
頑固爺の登場です。

ちなみに、療養施設の名前は『日々平穏』でもなければ、所長もホウメイさんではありません。
あ、でも看護士さんはあの人が……名前だけ、そのうち(笑)

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

なんかおちゃめじいさんにクラスチェンジしてるなぁ(笑)。

それにしても、冗談とは言えサラの名前が全く出ないのは、やはり彼女の恋人が消火器だからなのだろうか(違)。