FLAT OUT

(18)






 明人のもう一つの母国グランプリ、イギリスGPが開幕した金曜の朝だった。
 フリー走行の前、開いている時間に明人はコースを歩いて見て回ることにした。昨年のグランプリ後に改修されたと言う路面の舗装を、直に見て確かめたかったからだ。
「天河さん、どこへ行くんですか」
 声をかけてきたのはハリだった。
「フリー走行の前にね、フリー『歩行』さ」
「……一緒に行ってもいいですか?」
 フランスGP以来、ハリは妙に明人に懐いている。彼にとってすれば切実だったのだろう、しかし妙な誤解が解けて、明人は彼の恋敵から遥か年上の大先輩に格上げされたようだった。もっとも、年代からすれば級友と言っても疑われないのだろうけれども。
「シルバーストンは走った?」
 明人にとってここシルバーストンは地元である。車で四〇分ほどのコヴェントリからは、英国F3.3時代、テストがある度に自転車でここまで通った。
「一度だけです。カヴァーリのテストは、もっぱらフィオラノかバレンシアでした」
 戦歴の話だと饒舌になるのは、ドライバーならずともそれに誇りを持っている人間ならそうだろう。ハリも目を輝かせながら明人に答えた。
「天河さんはずっとイギリスだったんですか」
「F3.3まではね。ユーロ・マスターズに昇格してヨーロッパを回るようになった。ところがそのデビューイヤーときたら、イギリスは雨、ドイツも雨。フランスは霧だったな。ポール・リカールの霧は怖かったよ。『ミストラル・ストレート』が、本当に「ミストラル」でね」
「あっ、僕も雨が多かったんですよ。F3.3では、ドニントンもザクセンリンクもザントフールトも……ぜーんぶ雨だったんです。晴れたのはイモラくらいで――」
「ひどいな、二人揃って雨男じゃないか」
 わざと嘆くように言えば、ハリも笑う。しかしその時の明人の心中に、ハリが気付いた様子はなかった。
 ドニントンはイギリスのサーキットで、明人もF3.3で走った。ザクセンリンクはドイツ、ザントフールトはオランダである。そして現在もFAが開催されているのは、彼が最後に口にしたその場所だけだった。
 シーズンを戦っていれば否応なく耳に入ってはくる、その名。FAのレースを招致して久しい、伝統のグランプリが開かれる舞台である。そしてまた、明人の父が散ったサーキット。
 だからだろう、こうして回想の折に響くそれは、自分がレースをする場所という意味とは少し違って、明人の心に小さな波紋を浮かび上がらせたのである。

 イタリア北部イモラ市にあるイモラ・サーキットは、今シーズンのFA最終戦が催されるサーキットである。サン・マリノGPと銘打っているものの、サン・マリノ公国内にはサーキットが無いので、一番近いイモラを使う。
 ハンガリー、オンガロリンクに代わってカレンダーに入ったロシア・グランプリの影響で、昨年は開幕戦がサン・マリノだった。明人が鮮烈なデビューを飾った場所である。
 思えばその時も、自分はこうして立ち止まっていたのだろうか。――それなら、いやだ。明人はそう思った。

――変わったのは残った者の心だ。違うか、明人。あの『舞台』すら変わらなかったというのにな――。

 日本グランプリの前夜、北斗が言った言葉を明人は思い出した。
 彼女が「舞台」と称して言ったその場所こそ、イモラ・サーキットのことである。ヨーロッパ・アルプスを遠く望み、豊かな緑に囲まれたそこで、明人の人生は変わった。もしかしたら北斗もそうかも知れない。悲しいことも嬉しいことも、そこを起点として始まったのである。
 イモラ・サーキットそのものに苦い感情は抱いていない。ただそこで起きたことがたくさんありすぎて、頭が追いついていけないだけだ。今はそうでもなくなったけれど、それでも折りにつけその熱狂的なグランプリの情景を思い出すたびに、どうしても明人の心は過去へと飛ばされてしまうのだった。



 朝早くからライバルチームのドライバー二人が談笑しながらコースを歩いてくるのを、マーシャルたちが不思議そうな顔で見ていた。中には駆け寄ってきてサインを頼む者もいたが、大半は明人たちと同じように、コースの最終整備に余念がないようだった。
「ああ、ここからだ」
 そう言って明人が指差した先から、コースのアスファルトの色が変わっていた。よく見れば、固まってくっついている石の大きさも違う。
「カタルニアに似てますね」
「カタルニアは走ったのかい」
「一度だけ」
「一度走っただけで憶えているなんてすごいな。――うん、グリップはするけどタイヤにきつそうだ。水捌けは良いだろうね」
 マシンをセッティングするには、鋭敏な感覚とともに記憶力がものを言う。少なくともハリは優秀な開発テストドライバーになる素質はあるらしいと、明人は見積もった。もちろん、それはまだ直接レースの速さに繋がる素質ではないのだが。
 明人は空を見上げた。シルバーストンの上空は、まだ青空に覆われている。
「これが、雨になるんですか?」
 ハリが同じように天を仰ぎながら、信じられなさそうに尋ねた。
「雨になるんだよ、これが」
 明人は苦笑しながら答えた。







 決勝のグリッドを決める予選は、土曜の午後二時からである。その予選の出走順を決める第一予選は、午後一時からだ。その第一予選で、奇妙な事態が起きた。
 明人はいつもどおり、完璧な予選アタックをして見せた。7速、時速330キロから飛び込む『マゴッツ』と『ベケッツ』の両コーナーを、見ている誰もそれ以上のものを想像できないほどの完璧なラインで制すると、『ハンガー・ストレート』では時速349.7キロの最高速度を叩き出した。
 タイムは文句なしの一番時計である。しかしそれは、もしかしたら周りのチームに起きた奇妙な現象のせいもあったのかも知れない。

 タイムアタックを終えてピットに戻ってきた明人は、アナウンサーの「ああっ」という悲鳴にも似た声に、驚いてモニターを見た。
『ホクトがスピン! カヴァーリのエースが第一予選を台無しにしてしまいました』
 まさか、と明人は思った。雨が降っているわけでもないのに、あの北斗がスピンをするなど考えられないことだ。練習走行を見ていても、北斗がスピンしてしまうほどC.7がナーバスな様子はなかった。
 しかし明人は、続いてモニターに飛び込んできたシーンに何か違和感を覚えたのである。モニターは、ナオが『アビー』コーナーでブレーキングを誤り、コースアウトするシーンを映し出していた。

 その後も奇妙な現象は続いた。ある者はスピンしかけ、ある者はギヤが上手く作動しなかったのか加速できなかった。そして昨日明人と連れ立ってコースを1周したハリも、『クラブ』コーナーでミスをしてコース脇の草地を走ってしまった。
 明人と赤月、それにいつもは最後尾のプライベート・チームだけがまともに1周を走り終え、他のトップ・チームや中堅集団はことごとく後方に沈んでいる。しかしそれを見て、明人は彼らの意図に気付いたのである。

 ピットロードに出て空を見上げると、先ほどまでは快晴だったそこに雲がかかり始めていた。観客もこの奇妙な予選アタックに戸惑っているようで、いつもの割れるような歓声がなかった。
「ひどい予選ね」
 隣にいたエリナが言った。
「予想していたのかい?」
「もちろん。でも私たちの予報では午後3時10分頃まで雨は降らないわ。だから黙っていたの」
 決勝グリッドを決める第二予選の出走順は、この第一予選の順位の逆になる。つまり第一予選で好タイムを出すと、そのぶん第二予選の出走が遅くなる。晴れていればそれはコースについたタイヤゴムの影響で更にタイムを伸ばせる機会に繋がるが、今回のように第二予選後半に雨が予想されるとなれば話は別だ。
 他のチームは、雨が降ってきそうな第二予選をなるべく早いうちに出走できるよう、わざとタイムを遅らせたのである。しかも他のチームにそれと悟られないよう、ミスをしたように見せかけて。
「みんな策略家だねぇ」
「のん気なこと言ってないで。これじゃあ第一予選をやる意味がないわ。お客さんだって何が起きてるのか分ってないじゃない」
 エリナの説明を聞いて、明人はなるほどそうかと考え直した。たしかにFAは客がいないと話にならない業界である。彼らは「速い」フォーミュラ・アーツが見たいのであって、「遅さを競っている」レースなど観たいはずがない。
 規則によって出走順が決まっているのだから、チームはそれを見越した作戦を立てる。天候は不可抗力であるけれども、負ける訳にはいかない。だから一概にそうしたチームばかりが悪いとも言えないが、たしかに今回それは起きたのだ。
「僕は手を抜かないよ」
「そうでしょうとも。ファン思いの天河明人君」
 オーストラリアの予選では少しだけタイムを「調節」したけれど――しかし明人は、それを忘れることにした。それに気付いていたのはたぶん、赤い髪の女性ただ一人であったろうからだ。エリナも満足そうに頷いて、他のチームのパドックを睨みつけた。
 その視線を追ってカヴァーリのピットに目をやった明人は、やはり北斗が不機嫌そうな顔でいるのを見つけた。チームの作戦にドライバーは従わなければならないが、二位以下に甘んじるのは全てのドライバーにとって屈辱だ。オーストラリアで自分が感じたそれをいま彼らが感じているのだと思うと、どうにも心苦しい思いだった。


 そして第二予選の結果は、エリナの勝ち誇った顔を見れば、誰でもわかったろう。じわじわと空を覆いつくしてゆく黒雲はあれども、そこから雨粒は落ちてこなかったのだ。しかし決勝レースの予報は雨である。ほとんどのチームがタイヤこそまだドライ用だったが、セッティングはウェット・コンディション用にしていた。

 インディアナポリスで起きたパンクほどではないが、ウェット・タイヤのぐにゃぐにゃした感触が明人はあまり好きではない。滑りやすい床の上を、ぶかぶかの靴下を履いて歩いている感覚だ。だが明人は、ここで勝たなければならなかった。
「アキト、今日は地元人としての読みが当たりましたか。雨は降りませんでしたね」
 予選上位者の記者会見でそう問われ、明人はちょっと考えてから照れ笑いを浮かべた。
「僕の読みというより、チームの読みかな。僕は気象レーダーじゃないからね、分単位の天気予報なんかできやしないよ」
 外はもう、雨が降り始めている。アスファルトは黒々と光り、観客席にもぽつぽつと赤や黄色の花が咲き始めていた。
 隣にいる北斗は、予選2位を獲得したものの、機嫌は悪いままだった。わざとスピンをしたことがよほど屈辱だったのだろう。だいたい策略そのものを嫌いそうな性格の彼女である。明人にしても母国グランプリが雨中のレースでは、さすがに晴れ晴れとした気分で迎えられそうにはなかった。

 しかしこういうときに限って記者の質問というのは、明人があまり答えたくないことばかり狙ったように突いてくるのである。
「アキト、貴方は日本人ですがイギリス国籍も持ち、生まれ育ったのはイギリスだと聞きました。日本グランプリとはまた違った感慨がありますか」
 またか、と明人はげんなりした。なんでそんなことを聞くのだろうと、記者の質問に考える振りをしながら心の中で顔を顰める。
 見慣れないその記者は、イギリス人だろう。訛りからするとウェールズかイングランド西南部だ。彼の求めている答えが、明人にははっきりと分った。
 日本も好きだけれど、やっぱり僕が育ったのはここイギリスだよ――彼はそういう答えを期待しているに違いない。そう答えれば、天河明人という異国のドライバーが愛したその国こそ我らがイギリスだと、派手に書きたてられるからだ。
 もしかしたらそんな下心はないかも知れない。だが、いまそのイギリス人記者がしているような目で、日本GPのときの日本人記者も明人を見ていたのである。明人が曖昧にして答えたら、案の定海の向こうのサムライがどうたらこうたらと、明人自身にもよく分らない日本の文化すら絡めて、書かれたのだった。
「そうだな――その質問には、こう答えるよ。イギリスは僕を育ててくれた土地で、日本は僕を育てた父が生まれ育った土地だ。これでいいかい」
「は…………あ、はい。まぁ………はい」
 こういう質問は、答えにくい。他のドライバーはどうか知らないが、自分はとくにそういった国籍意識が薄いと、明人はわかっていた。
 たしかに母国グランプリで、いつもよりも自分を応援している観客が多いように感じられるのは事実である。最近はドライバーの特集なども増えて一概に言えなくなったが、それでもFAにそれほど詳しくない人たちは、まず同郷人を応援するものだ。
 もちろん、それが悪いと言うのではない。舞台を観るならまず学べと、それを役者が言うのはいささか高慢であろう。しかし彼らの中には、壮絶なクラッシュシーンにすら歓喜の声を上げる者もいる。少なくとも明人は、それらの人々のために走っているのではなかった。
 残念ながらそれもまたモータースポーツの持つスリルの一部であると、わかってはいる。だから否定はしないけれども、明人にとってはそれ以上に自分の走っている姿を見せてやりたい人々がいたのである。そしてその目的の為には、自分の国籍がどこであろうと関係なかった。だから、いわゆる母国グランプリでとくに多くなるそういった質問に、明人はあまり答えたくなかったのだ。

 要旨をぼかした明人の答えに、若い記者は戸惑い顔で席についた。それを見て、明人もにっこりと笑う。隣では北斗が呆れたように横目で明人を見ていた。
 そのときだ。同じような顔をした記者たちの中から、声で彼はそうでないと分る質問が飛び出した。
「どちらかを選ぶつもりはないと、そういうことかしら」
 宗丈である。彼は立ち上がりもせず、足を組んで椅子に座ったまま、尋ねた。その態度が気に食わなかったわけではないが、彼の言ったことに、明人はかちんときた。そんなこと当たり前じゃないか、なんでわざわざ尋ねるのかと、最初からくすぶっていた苛立ちに火をつけられた気分になった。
 しかし同時に、彼がそういう人間でないことも、日本GPの時に知っているのである。彼がお世辞を言う人間ではないことも。だからだろうか、訝しんだせいで、少しだけ心の棘は消えた。
「世の中にはとかく優劣をつけたがる人がいるけどね。あいにく僕は、僕を応援してくれるファンの皆に優劣をつける気はないよ」
「口上はそれで構わないけれど――現実に貴方は日本人でありながらイギリス国籍でFAに参戦しているわ。はっきりさせるのも、ファンへの礼儀というものじゃないかしら?」
 明人は心のうちで溜息をついた。たしかにそれは痛いところでもあり、自分のスター性を考えればうやむやにしておきたいところなのである。だが、あくまで明人にとってそれは、うやむやというより、当然認められるべきことではないかと思うのだ。実際に明人は、イギリスに生まれ育った日本人なのだから。
 それに彼――宗丈は、件の日本グランプリでそういった質問ばかりする記者を、蔑んでいたではないか。なぜいまそれを蒸し返すのだろうと、不思議な気持ちも半分あった。
 わざと大きく溜息をついて見せ、明人は宗丈を睨んだ。
「僕は、自分を育ててくれたこのイギリスという土地に感謝している。同時に、父からは日本人の生き方というのも多く学んだよ。そういう意味では、僕は幸福だろう。少なくとも二つの価値観を見比べながら育つことができたのだから。ただね、僕の記憶が正しければ――僕は自分のファンを増やすために、イギリスで生まれたというわけではないと思っていたんだけど」
 僕の勘違いだったかな、と。
 周囲から笑いが漏れた。
「……下位カテゴリーには、あんたを目指してるイギリス人も、それに日本人もいるわ。向上を目指す同胞を手助けする必要はない、と?」
「助けるさ。僕にできることならね。学ぼうとすることは素晴らしいことだ。でもそれは優劣じゃないし、まして国籍などでもない。正しいか、間違っているかだ」
 自ら正しいと信じた道を辿ってきたから、今の自分がある。決して独走してきた訳ではないが、自分が違うと思う道を明人は選ばなかった。自らの選択が人を決めるのであり、最も肝心なその判断こそ、明人が後輩を手助けしてやりたいと思う部分であった。
「それを判断するのは自分だと、僕は思ってる。判断できないのなら、また学び直せばいいんだから」
 明らかに怒気の含まれた明人の語調は、しかし、宗丈の表情を変えさせるには至らなかった。それどころか彼は、「そう」と素っ気無い返事をしただけで、質問を終えてしまったのである。
 そのときになってやっと、明人は彼の意図を察した。もしや彼は、明人にそれを言わせるためにわざと意地の悪い質問を投げかけたのではないか、と。

 それでも記者会見が終わるまで、明人に笑顔は戻らなかった。母国グランプリでこんなに後味の悪い予選記者会見は、おそらくFA史上初めてに違いない。しかしそれは、宗丈のせいではなかった。多くの記者は、会見が終われば互いに明人を盗み見て何やら囁きあう。それを視界に入れたくなくて、明人は赤月とともにさっさと会見場を後にした。
「いやぁ、言ってやったねぇ。こっちもすっきりしたよ」
 赤月が機嫌も良さそうに肩を叩いてくれたが、明人にとっては微妙な思いだった。日本GPでの一件はあったが、赤月はまだ宗丈を信用している様子ではない。それに加えて今回の口論じみた記者会見で、それはどん底まで落ちたのだろう。いや、どん底に戻ったと言うべきか。
「だいたい記者なんてのは驕りたかぶった連中ばかりさ。この情報社会で自分たちこそ一番の情報通だって顔してね。いやいや、いい気分だよ」
 赤月は声を上げて笑い出す始末だった。あまりに楽しそうなその笑い声に、明人も愛想笑いを浮かべるしかない。それが分かったのか、赤月は声を引っ込めた。
「……そうでない人も、ちゃんといると思うよ」
 たとえ宗丈でなくとも、明人はそう言っていたろう。それは、半分癖になりつつある。チーム内でも彼とよく話す人間しか知らない、明人の一面だ。どんなに自分が敵対している相手でも、周りの人間が明人の味方をすると、思わずそれまで敵対していた相手を弁護してしまう。
 それは単純に、明人が求めるものが対立ではなく、一対一の対話であるからだ。相手が何人かいたら明人も負けん気を出して口論になったかも知れないが、そうでなければ、明人は自分の味方を増やそうとは思わなかった。
「相変わらずお人好しだよ、君は」
 赤月がしばし笑うのをやめて、それでも口元に軽い苦笑いを浮かべながら言った。明人は「そうかな」と答え、ありがとうと小さく笑い返した。

 日本人だがイギリスで生まれ育った明人にとって、純粋な意味でのホーム・グランプリはここシルバーストンだろう。実際に明人がレーサーとして育ったのは、この伝統も長い中部イングランドのサ−キットなのだ。
 それを知っているファンもたくさんいるし、何しろ明人がこれまでに所属してきたチームは全て、このシルバーストンを拠点としていた。叩き上げ時代の明人を知っている彼らは、横断幕を持ってかけつけてくれているのである。それらの人々に、明人は応えたいと思っていた。
 しかし、それだけが向上心の源ではない。それ以上に明人が、自分のためにスピードを追求していて思うのは、それが自分にとってのみならず、人々の夢であってほしいという願いだった。
「みんなの夢、かい」
 赤月が言った。
「そうあって欲しいと願うだけだよ。僕が走っているのを見て、誰か一人でも同じようにレーサーを目指したいと思う人がいたら、僕は嬉しい。――いや、レーサーでなくてもいいんだ。誰かが自分の夢に向かって立ち上がる励みになるのなら、僕はいくらでも走れるよ」
「役に立てて嬉しい、と?」
「いや――それも違う。僕は結局、自分のためにレースをしているわけだから。誰かの為にやってるのではないからね。だからそのうえ自分が役に立って嬉しいなんて、そんな図々しいことは言えないよ」
 赤月がまた小さな苦笑いを浮かべた。しかしその表情は、明人の告白を嘲っているようでは決してない。いつの間にか、その眼差しは真剣なものになっていた。
「僕は僕の夢を追いかける。究極のスピードを求めて。何も先駆者になりたいって言うわけじゃないんだ。レースはずっと昔から世界中で行われているんだから。でもそんな昔の人たちの思いが年月を経ることで変わってしまったとも思っていない。それが目的であれ手段であれ、人間がスピードを求めてきたのは事実なんだ。その中で少しだけ欲深かったのが僕達だってだけさ。だから、誰しも同じ。一人一人が夢を見て、それが皆に励まされて、いつしか人々の夢になった。それが僕たちフォーミュラ・アーツじゃないかなって、そう思いたいんだ」
 自分で言いながら恥ずかしくなって、明人は茶化すようにして言った。だが、当の赤月はもう笑っていない。それにやっと気付いた明人は、そんなに変なことを言ってしまったろうかと、おっかなびっくり彼の横顔を盗み見た。赤月は、「ふむ」と唸って明人を振り向き、笑った。
「いや、たいしたものだよ。君ももう大人だねぇ」
 そう言って彼は、しきりに頷くのである。明人は半分照れながら、もう半分でむすりと口をへの字に曲げた。
「なんだよ、それ。歳だって君とほとんど変わらないじゃないか」
 すると赤月はにやりと笑って、腰に手をやった。
「いや失敬、年齢を引き合いに出すところはまだ子どもだね」
「なっ……」
 内燃機関が発明されてから、移動速度の発達は人々に夢を与えたはずである。その夢はいつしかスポーツと融合して、スピードの限界に挑戦し始める者達が現れた。それはいつの時代においても未知の世界への挑戦であり、未だ見知らぬ世界に抱く人々の希望であった。それを今の時代で追求するのが自分たちである。それが明人の考えだった。
 だから、国籍はいらない。自分の方が優れていると思いたい人間だけが、心の中に国境をつくる。求めるものは皆同じはずなのに、どうしても優劣をつけたいのだ。それが嫌だから、明人は絶対に他人を否定しなかった。他人を否定し、自分はそうでないと区別することが、そもそもの始まりだと思ったからだった。
「君、フォーミュラ・アーツを引退したら牧師になってもやっていけるんじゃないかい」
 赤月の笑えない冗談に、明人はぶすっと頬をふくらませた。だが今は、記者会見直後のもやもやした胸の黒ずみは無かった。





 赤月の冗談はともかくとして、天は明人に味方したと言えるだろうか。決勝レースが始まる30分前になっても、しとしとと降る小雨は止まなかった。コース上に川ができるほどではないにしても、主催者からはエクストリーム・ウェザーが宣言され、各チームがウェット・タイヤに変更してグリッドに並んでいる。
 雨のレースは、昔から波乱が起こりやすい。どんなに技術の進歩した現在でも、濡れたアスファルトの上を時速300キロで走るのは、氷の上を走っているようなものだからだ。もちろんドライバーにはさらなる操作の正確さや慎重さが求められるのである。
 スタートはカギになるだろう。ほとんど空力だけで走っている現在のFAマシンは、普通に走るだけでも猛烈な水煙を巻き上げる。タイヤが飛び散らせる水飛沫のみならず、タイヤに踏まれない地面を濡らしている水さえも吸い上げてそれに加えてしまうから、後方を走るマシンの視界は皆無だ。だから、先頭に立った者が最も有利となる。

 レッド・シグナルが消え、乾いた日に比べれば遥かに静かなスタートが切られた。それでもコース上は瞬く間に水煙に覆われ、巨大な白い柱が何本も倒れているかのようである。観客は傘をさしたり合羽を被りながら、白い霧の向こうから聞こえるエキゾースト・ノートだけを頼りにレースがどうなっているのかを知ろうとした。
 二分ほどしてオープニングラップの最終コーナーを立ち上がってきたマシンを、観客は凝視した。そしてそれが眩いばかりの漆黒に包まれたマシンであることを認めて、彼らは安堵の息を吐いたり、それ見ろとばかりに歓声をあげたりしたのである。

 明人は早くも独走態勢を築き始めようとしていた。後続のマシンは随分離れ、彼のスリップストリームにも入れない。
 しかし次の瞬間にぎょっとして立ち上がったのは、他ならぬ明人のファンたちだった。マシンの何倍にも膨れ上がった水煙を突き破って、突然真っ赤なマシンがその姿を現したのだ。 
「ホクトだ!」
 誰かが叫んだ。
 北斗が明人のテール・ランプだけを頼りにぎりぎりまで彼の後ろを走っていたのだと気付くまで、観客たちは少し時間がかかった。真っ白い霧の中でほんの10センチ四方ほどのそれだけを追って時速300キロで走るなど、誰も考え付かなかったに違いない。
 その間にも真っ赤なカヴァーリC.7は明人の横にまでその鼻を伸ばし、二台はまっしぐらに『コプス』第1コーナーを目指す。観客が呆気にとられてそれを見送り、2台がその向こうに消えて行こうとする頃になって、やっと後続の集団が彼らの前を走り過ぎて行った。

 真に速いドライバーは、どんな条件で走っても速い。晴れていようと雨が降っていようと、或いはマシンの性能が低くたって、自らの技術だけででそうでないドライバーよりも速く走って見せてしまうものだ。
 このレースを観に来た観客のどれほどが思い出したろうか。いまレースをリードして走る明人と北斗の二人のように、かつてどんなときでも牙を剥いて鎬を削った二人のドライバーが、また同じようにどんなときでも速いドライバーであったことを。
 しかし当時を知っている者のほとんどは、明人だけを応援したに違いない。たった十二年という短い時間と、関係者の間でだけ一方的につけられてしまった決着によって、多くの人々が真実を知る機会を失ったまま、今このレースに見惚れていた。


 雨はレースが始まってから徐々に弱くなってきていた。水煙はだんだん薄くなり、とくに舗装が新しくなった『ハンガー・ストレート』から『ブリッジ』までは、バックミラーの中に北斗のC.7が見えるようになった。
「エリナ、水飛沫が小さくなってきた。雨は止むの?」
『早ければあと8分くらいで止むと思うわ。第2スティントはソフトウェット・タイヤでいくわよ』
 ハンドルの手ごたえからも、路面を覆っている水の膜が薄くなってきているのがわかる。『ルリ・システム』が制御するエンジンも、グリップが良くなってきたことを正確に感じ取っているらしい。トラクション・コントロールの介入が次第に弱くなって、加速が良くなってきた。
 第1スティントが終わる頃には、雨はあがっていた。空はまだ雲に覆われているが、ところどこには晴れ間も見え、明るくなっている。北斗は明人がピットインする2周前に入り、こちらもソフト・ウェットに換えたようだ。

 これならまだ有利を維持できると明人は思った。雨が上がって路面が乾いてくるのは、まずは全てのマシンが辿るレコード・ラインからだ。それに合わせてのタイヤ変更は、同時に追い越しを極端に難しくする。追い越そうとしてラインを変えると、まだ乾いていない路面を走ることになってたちまちグリップを失ってしまうからだ。
 この読みは当たった。1回目の給油とタイヤ交換を終えた明人は北斗の前でコースに戻ることができたが、さすがの北斗も無理に明人に並びかけることはできなかったのである。
 一方、後方集団でも路面が乾き始めた頃から差がつき始めていた。赤月は2位の北斗に差をつけられてはいたが、それでも3位を守っている。それに襲いかかっているのがハリだった。雨のレースが多かったという彼は、ともすれば現役FAドライバーよりもウェット・レースに慣れていたのかも知れない。これから路面が乾いてきて、赤月のペースも上がる。それに彼が追いつけるか、突如レギュラーに昇格され来季のシートを懸けて走る、彼の評価の分かれ目になるだろう。


 第2スティントも終りになるとコースはほとんどの部分が乾いてきて、残る最終スティントは全てのマシンがドライ・タイヤを選択するだろうと思われた。まだところどころに水溜りが残ってはいるが、レコード・ラインは完全に乾いてグレーのアスファルトが光っているのである。
 今度は明人が北斗よりも1周早くピットインした。いくら燃料が軽くても、乾いた路面ではウェット・タイヤがドライ・タイヤよりも速く走れることはない。戦略で北斗に出し抜かれる心配はなかった。
 再びつかず離れずの心理戦が始まった。すぐに追いつかれる距離ではないが、バックミラーには常に北斗の赤いC.7が映っている。
 ネルガルのチームスタッフは最初の頃、明人の押しの弱さからこうした心理戦を最も心配した。後ろから追い立てられて、焦ってミスをしないかというのである。しかしそれはすぐに杞憂に終わった。明人はそんなシーンでこそ強さを発揮したからである。
 わずか1.8秒の差は、最終ラップでの大逆転劇となったインディアナポリスと同じだ。今回も明人と北斗の差は一向に縮まらなかった。エリナをはじめネルガルのスタッフたちは皆、インディアナポリスの悪夢が再来しないことを祈ってレースを見守っている。最後の1周を終えて彼がチェッカー・フラッグをくぐらない限り、安心はできなかった。

 しかしこのグランプリで悪夢に見舞われたのは、ネルガルではなかった。カヴァーリである。
 ハリはまだ荒削りながらも果敢なアタックを幾度となく仕掛け、ついに赤月を抜き去っていたのだ。そのまま走りきれば3位、表彰台に上る。彼もそれを夢見て、それに励まされて走っていたに違いない。赤月を抜いて彼を引き離しにかかる頃から、ハリの走りには自信すら見て取れるようになった。
 カヴァーリにとっては、優勝こそ難しくても2位と3位を獲得できれば得られるポイントは大きい。ただでさえネルガルに逆転されたコンストラクターズ・ポイントである。これ以上差を広げられるのは何としても避けたいところだったろう。
 だが、少なくとも彼らにとって運命は無慈悲だった。チェッカー・フラッグまで残すところ4周という頃になって、突然ハリのマシンが不調を訴えだしたのだ。エンジンは問題ではなく、トランスミッションだった。どこかの歯車が欠けたに違いない、彼のマシンは4速以下のギヤを失ってしまった。
 現在のFAはヘアピンのようなきついコーナーでもかなりの速度で走る。だからそのままリタイヤすることはなかったが、低速からの爆発的な加速を生み出す4速以下のギヤを失ったのは致命的だった。とたんにハリのラップタイムは5秒も落ち、その周の最終コーナーで、あっさりと赤月に抜き返されてしまった。
 もし明人がそれを知っていたら、その時のハリの絶望を誰よりもはっきりと想像することができたろう。ネルガル・チームにとってはライバルの一人がいなくなってリードを広げられる好機だったが、ともにスピードに挑むものとしての絆は、それによって明人を喜ばせるはずがなかった。

 明人がすべてを知ったのは、チェッカー・フラッグをくぐって随分してからである。表彰台の前にクルマを置き――もちろん周りは優勝を祝うスタッフや記者の山だ――、割れんばかりの歓声に見送られながら一旦車検場に入ろうとしたそのとき、明人はハリを見つけた。彼は悔し涙を必死に堪えながら、カヴァーリのスタッフに慰められていた。何事かと思った明人に、エリナが事情を説明してくれたのだった。
 しかし明人が驚いたのは、それからである。2位に入賞した北斗は、明人と同じように表彰台の前にマシンを止めていた。その彼女は、ライバルチームであるだけにその場で声を掛けられずにいる明人の横を通り抜けると、つかつかとハリのところへ歩いていった。
 彼女はハリに何事か言ったのだろう。相変わらず表情一つ変えないものだから、何を言ったのか明人には分らなかった。ハリも彼女の言葉を聞いて笑ったりした風には見えなかった。頬を真っ赤にして、しきりに涙を拭っているようである。しかし彼は、北斗に向かって小さく頷いた。それを見ただけで、明人は自分が彼を慰める必要はもうないだろうと悟ったのだった。










to be continued...


 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

なんか微笑ましいなぁ。

北斗がなんていったのか、中々想像を逞しくしてしまいますね。