FLAT OUT

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 イギリスGPで勝利を飾った後、続く第11戦ヨーロッパ・グランプリでも明人はポディウムの頂点に立った。オランダとドイツの国境近く、アイフェルの山中にあるニュルブルクリンクは、唯一現代でも万人の評価を受けているアウトバーンとともに、かの独裁者の作である。
 北コースは全長20キロを超える世界最難関のサーキットとして有名だが、FAはもっと短い新コースを使った。直線はそれほど長くなく、それよりも空力の必要なコーナーの多いこのコースは、ネルガルに有利だった。
 2位は相変わらず北斗である。不運だったのは、赤月のNF211にブレーキの問題が発生してペースが上げられなかったことだ。明人は再び三連勝を手にしたが、赤月は7位、2ポイントを加算するのが精一杯だった。
 明人はついにドライバーズ・ポイントで北斗を逆転し、ポイント・リーダーに浮上した。


 そしてそのニュルブルクリンクから南東に約250キロ、中世の城と大学の町ハイデルベルクの郊外に佇むのがホッケンハイムリンクである。かつて長大なストレートが主体だったこのサーキットは最近になって改修されて、小さなコーナーを直線でつなぐ近代スタイルになった。ブレーキを踏むのは直線部分で、とくに熟練を必要とするコーナーもない。つまり、ドライバーにとってそれほど刺激的ではないコースである。
 ここで、明人にとって良いことと悪いことが同時に起きた。悪いことは、明人が勝てなかったことだ。三連勝はもう二度もしているのに、もう一勝の壁がなかなかに高いのである。一方の良いことは、ローラン・ミッドランド・レーシングのエースドライバーであり明人の親友でもあるナオが、今季の初優勝を飾ったことだった。





 通常は隔週に開催されるFAのグランプリだが、7月最後の日曜に催されるドイツGPから三週間は、レースも無ければチームのプライベート・テストも禁止されている。開幕からこちら、明人たちよりもさらに厳しい仕事をこなしてきたスタッフ達に、束の間の休暇を与えるためだ。――もっとも、屋内でのシミュレーション・テストが禁止されていないので、実際に休めるのは現場スタッフだけだったが。

 夏休みの前、明人に与えられた最後の仕事は、チームが技術提携をしている会社への親善訪問だった。一年のうちこうした広報活動は数え切れないほどあったし、本音を言うなら明人にとってこれらは興味を引かれるようなイベントではなかった。要するに、企業同士の親睦会に飾られるだけだからだ。
 ただ、今回に限って趣が違ったのは、同じようにその会社――ホシノ・エレクトロンがテクニカル・パートナーを務めるチームがもうひとつ、そこに招かれていたことだ。
「FAの面倒なところだな。表向きファンサービス、裏では金策のダシだ」
 いたって北斗らしい意見に、明人も苦笑いを浮かべた。
 カヴァーリとネルガル、FAの二強とも言われるチームが揃って訪問したものだから、ホシノ・エレクトロンのホールは彼らをひと目見ようと社員でごったがえしている。彼らの家族に限って一般公開もされたため、その後ろの人垣は今にも崩れんばかりだと、エリナから聞いた。
 チーム首脳陣のあとに紹介される明人たちドライバーは、いまは控え室で出番を待っていた。
「仕方がないさ。これも契約のうち」
 明人が心にもないことを言うと、やはり北斗は気付いたらしく、「フン」と鼻を鳴らした。
 もちろんファンは大切である。ファンあっての明人たちFAでもあるのだから、明人はそれらの人々への対応には決して誠意を欠かないよう注意していた。実際に、自分がこうしてFAドライバーでいられるのは彼らのおかげであると、素直に感謝もしていた。
 それはたぶん、北斗も同じだろう。彼女がそういった広報活動を断ったという話は聞いたことがないし、彼女の対応はいつもさっぱりして明瞭だ。相変わらず記者たちにはきついが、明人が見ている限り彼女がわざわざファンを減らすような言動をしたことはなかった。
「来季のサプライヤー契約もそろそろ佳境だろうからね。頼りにしてるってことを示しておきたいんだろう。まぁ、現実に僕たちのエンジンは制御にルリ・システムを使っているから、頼りにはしているんだけど」
 赤月が言うと、ハリがうんうんと頷く。ハリは想い人がここホシノ・エレクトロンの令嬢であるからか、終始ご機嫌だった。
「そのシステムは、ハリの惚れたルリとかいう女がつくったものなのか?」
 まったく遠慮会釈のない北斗の言葉に、ハリが真っ赤になる。
「半分は、そうですよ」
 そこにいた誰でもない声が、言った。
「ル、ルリさんっ」
 いち早く反応したのは、もちろんハリである。いまや彼は耳まで赤くなっていた。

 明人が初めてルリに会ったのはちょうど一年ほど前だ。その時も同じような表敬訪問だった。一年経っても、彼女の人形のような可愛らしさは抜け切っていない。もっとも明人が彼女のことを人形のようだと思ってしまったのは、その表情の少なさからでもあった。
「お久し振りですね、ハーリー君」
「は、はいっ」
 ハリの方を向いた彼女は、小さな笑みを浮かべて挨拶をする。一方のハリはそれだけでも嬉しいようで、喜色満面だった。
「ハーリー君?」
「ニックネームだって。彼の」
 小声で尋ねる赤月に、明人も小声で返した。そのときになって明人もルリと目が合い、小さく微笑むことで挨拶をした。あまり馴れ馴れしくしてはハリの不評を買うのが目に見えていたので、あくまで他人行儀に、である。だが、今度はそれがルリ本人の不評を買ったようだった。
 彼女は明人の目の前まで来ると、隣の赤月は無視して明人にだけぺこりと頭を下げた。
「明人さんも、お久し振りです」
「あ………あ、はい。お久し振り……です」
 ハリの視線が怖かったので、明人はなるべく彼を見ないようにした。すると目に入ってくるものはルリ本人である。一応は自分のファンであるわけだから、無碍にあしらうこともできまい。
 すると、ルリは少しだけ満足したようだった。赤月をちらりと見て(こちらは小さく会釈をしただけだった)、北斗に向き直った。
「星野ルリです。こんにちは」
「――北斗」
 北斗の答えは、明人が自己紹介したときと全く変わらなかった。少し違ったのは、あの時の明人と違ってルリは手を差し出さなかったことである。
 北斗は、いつもそうだったが、今度もとくにルリに対して興味を引かれた様子ではなかった。挨拶を済ませれば、それでよいと思っているのだろう。だから彼女はすぐにテーブルの上にあったサイン用の『オートスポーツ』誌に目を戻してしまった。

 ルリが再び自分を振り返っただけで、明人はどきりとした。彼女の目付きがどこか冷ややかであるように思えたのである。そのルリは、もう一度北斗を見る。
 その視線に気付いた北斗は、少し機嫌悪そうに眉根を寄せてルリを見返した。
「なにか用か」
「いえ」
 そのやり取りを見ていた明人は、背筋を冷たいものが伝い落ちていくのを感じた。
――ルリは自分のファンだから、そのライバルである北斗に複雑な感情を抱いているのだろう。それが咄嗟に明人が思いついたこの膠着の理由である。
 だがそれはともかくとして、ああいう表情をしている時の北斗は怖いということを、明人は知っていた。たぶんルリとは違う意味で表情豊かでない北斗は、その内にある感情を顔よりも行動に出すことがある。何しろ目の前でハリがその餌食になったこともあるから、まさか女性に手は出すまいと思っても、明人は気がきではなかった。
「あー……そろそろ時間かな。お嬢さんも戻られた方が――」
「まだ30分ほどありますよ」
 赤月が事態の打開をはかるが、ルリは取り合わない。
「北斗さん」
「…………」
 やっとルリは声をかけたが、北斗が苛立ちを募らせるには十分な時間がたっていた。彼女は無言でルリを睨むばかりである。
「北斗さんは、明人さんの最大のライバルと言われているそうですね」
 ルリの最初の質問は、明人にしてみれば無難な言葉だった。北斗はつまらなそうに椅子に背を預けて足を組みなおした。
「お前がそう思うのなら、そうだろうな」
「違うのですか?」
 ルリが再び尋ねると、北斗は少しだけ険を緩めて彼女を見る。そしてにやりと笑ったのだ。その表情を見て、明人はほっとした。北斗がそんな顔をするのは、だいたい一つの事柄についてのみである。少なくとも明人は、他の事柄で彼女がそんな表情をするのを見たことがない。
「おおむね正しいな。だが奴らは、最も重要な部分を見落としている。いや――永遠に見つけられないだろうが」
「……なんですか?」
 ルリがさらに聞き返したので、北斗は一層笑みを深めた。自信に満ちた、明人の好きな笑みだ。
「たしかに俺と明人は最高のライバルだろう。周囲がそう思うのは当然のことだ。強者というのは、いずれ引き合い対峙するものだからな。だが、奴らが何を知っている。このFAに於ける真のライバルがどういうものか、奴らが知っていると思うか」
 奴らというのは、記者達のことに違いない。彼女が常日頃から彼らを鬱陶しく思っているその理由は、つまり一つにはそれだということだろう。
「………………」
 ルリが黙っていると、北斗は馬鹿にしたように「フン」と鼻で笑う。
「それはあるまい。俺も明人も、言うべきこととそうでないことの区別はつけているからな」
 そう言って北斗はちらりと明人をうかがい、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「俺にとって明人は、俺がここにいる理由だ。明人にとっての俺がそうであるように」
 明人はどきりとした。北斗の言葉に他意がないであろうことは彼女の性格からも想像がつくが、それでも頬が火照った気がして、慌てて明人は彼女から視線を外した。
 一方、ルリはそれを聞いて顔を顰めた。注意深く見ていないと分らないほどのものだったが、北斗から視線を移した明人にはそれが見て取れたのである。
「明人さんに尋ねられたんですか」
「尋ねはしない。だがわかる。それがライバルというものだ」
 ルリが縋るような顔をして明人を見たが、明人はそれに答える術を持たなかった。北斗の言ったことは、まさしく明人の胸中に等しかったからである。実際にそれがどんなものなのか、語ればきりがない。それを知らない者には決して分らない、絆であった。
 明人は、ルリの視線に答えることもできないまま、北斗を見つめていたのだった。





 舞台はトークショーのような段取りで進められた。司会者が真ん中に座り、左にカヴァーリの二人、右に明人らネルガルチームのドライバーである。
 こういったイベントで尋ねられる内容はいつも決まっている。今のモチベーションはどうとか、タイトルへ向けての心情とか、同じ質問ばかりである。とくに日本とイギリスという二つの母国を持つ明人は、この半年でもう三十ほども雑誌やテレビのインタビューに答えていた。

 いくらファンを大事にしていても、こう同じ質問ばかりではさすがに飽きる。かと言って、一週間やそこいらで答えが変わるはずもない。
 だから、このトークショーの司会者が有能であることを知って、明人はほっとした。彼はファンが抱くような素朴な疑問を少しずつ織り交ぜながら質問をしてくれたからだ。
「あなた方は時速300キロを超える速度でトラックを走りますね。はっきり言って、速度に対する感覚は麻痺しませんか」
 不躾な質問に、明人は苦笑を浮かべた。だが、無礼だとは思わなかった。答えたのは赤月である。
「僕たちにしてみれば、そんなことはないよ。時速300キロを超えた途端にタイヤが四角くなってしまうというのなら話は別だけどね。でも実際には車を運転するためにすることは同じなんだ。アクセルを踏めば加速するし、ブレーキを踏めば減速する。まぁでも、一般の人たちから見たらそう思われても仕方がないかも知れないな。実際に通常では考えられない速度で走っているわけだし」
「一般道を走っていてつい速度を上げたくなることは、ない?」
「ははっ……いや、正直に言えば、あるね。でも一般道はサーキットじゃないから。一人だけすっ飛ばしていたら、周りのドライバーが怖がるだろう? あー……もちろん、皆でやれば怖くないって意味じゃないけど」
 赤月が茶化したので、彼らを観に集まっていたホシノ・エレクトロン職員たちの間からも笑みがこぼれた。

 司会者はハリに向き直り、そこにいるドライバーの中でも一番若い彼に次の質問をぶつける。
「ハリ、貴方はここにいる中でも一番デビューからの日が浅いけれど、いざFAを走っていて怖いと思ったことはありましたか」
「あ、はい。えーと…………人ではなくて?」
 ハリの受け答えに観客はどっと笑った。明人も思わず吹き出した。彼が怖がるような人がいるとしたら、それはまず隣にいるチームメイトかも知れないと思ったからだ。当のハリは、自分がそんなに人を笑わせることを言ったろうかと、きょとんとした表情だった。
「どちらでも。――もしかして、時速350キロで走るよりも怖い人が、FAにはたくさんいるんですか」
 司会者も笑いをかみ殺しながらの質問だったが、ハリは驚いたように首を横に振った。しかし明人は、「いいえ」と小さな声で言う彼の表情に、気付いていた。

 モータースポーツの最高峰、フォーミュラ・アーツは、渦巻く利権の規模とそれを争う政治色の強さも他カテゴリーの比ではないと言われる。結局それは、あまりに高額なFAのコスト問題に行き着くのだが、だから人々の間にはどす黒い緊張があり、気を許せるのはほんの僅かな親友だけなのである。――もし居るならば、の話だが。
 昨日足元をすくわれたら、今夜には寝首をかかれるかも知れない。ただそこにいるだけで重圧に押し潰されそうになる。それなら、時速350キロで走っていたほうがずっと楽だ。何しろ自分たちは、部屋の中よりもトラックの上で争いたい人種なのだから。
 明人は黙って、ハリの答えを待っていた。
「いいえ、そんな……。皆、いい人です。その……走っていて怖いと思ったことはないですけど、走り終わってから『恐ろしいことをしていたんだ』と思うことはあります」
 ハリは少し儚げに微笑んで、無難な答えをした。FAのジャーナリストではない司会者は、それには気付かなかった。
「というと?」
「走っている最中は、わくわくしているんです。このあいだ、雨のイギリスGPもそうだったんですが。危ないところは、なんというか、走っている時は分からないんです。ここはこの速度で行けるな、とか、タイムを出すことを前提に走っていますから。でも終わってみると、よくあそこでアクセルを踏んでいけたなとか、そう思うことはあります」
 真面目な彼の答えに、今度は観客たちも聞き入っているようである。
 司会者は「ふむ」と唸った。

「なるほど――ホクトさん、同じようなことはありますか」
 話を振られた北斗は、トークショーが始まってからほとんど微動だにしていなかった。腕を組み、足も組んでじっと話を聞いていた。
 彼女は司会者の質問に一瞬だけ目を瞑って考えると、そこにいる観客の一人一人を見定めるかのように視線を移しながら話し始めた。
「恐怖にも色々あるが、それを全く感じないドライバーはいないだろう。我々の世界において生死の境を見極めるのは恐怖心だからな。そういう意味では、私も常に恐怖を頭のどこかに置いて走っている」
「克服することはできない恐怖心があると?」
「克服する、しないの問題ではない。あって然るべき危険信号ということだ。ハリの言ったように、走っている最中にそれを感じることはないがね。自分の技量とマシンの性能を見極め導き出されるはずのそれがないドライバーは、いつか死ぬ。言わば生存本能だ」
「ふむ……」
 司会者が唸ると、会場を見渡し終えた北斗はそれでも笑みを欠片も浮かべず、締めくくるように付け加えた。
「死を恐れるつもりはない。自分にできる全てをやり遂げてなお免れぬ死は、運命だからな。死命を制するものは結局のところ偶然であり必然だ。――死にたいとは思っていないが」
 北斗の答えに明人もなるほどと思った。それはハリと同じように直感的に感じているものではあったが、言葉にするとしたら正しく彼女の言うとおりだった。

 一瞬でも怖いと思ったら、レースはできない。明人自身、もしレース中に怖いと感じることがあったなら、マシンを降りようと心に決めていた。しかしだからといって、恐怖心がないというわけではないのである。
 それは、勘なのだ。山勘ではない。マシンと自分の限界を知り尽くした上で弾き出される、恐ろしく正確な勘である。その勘がこれ以上は危険だと告げれば、どうやっても明人の身体はそれ以上のことはしない。最も根源的な死の恐怖は、頭でもなければ心でもない、身体が知っているのだ。だから、その上に頭と心が恐怖を感じたのなら、それはもうレーサーとして生きていけないということなのである。
 北斗は、そこまで全て理解しているに違いない。そうでなければ、生存本能などという言葉は出てこないだろう。
 そもそも直情的に見えがちな北斗であるが、その実は案外思慮深い性格であるらしいと、明人は最近気付き始めている。明人も口に出す前に考える方ではあったが、加えて北斗はどこか孤高の雰囲気がある。だから、こうした機会でもなければ彼女はずっと誤解されたままではないだろうかと、ふと明人は思ったのだった。

「アキト?」
「えっ? あ…と、はい」
 とつぜん呼ばれ、明人ははっとして司会者を見た。彼は明人が一瞬の黙考に意識を奪われていたとは気付かなかったようで、笑顔のまま質問を続けた。
「偶然にもいまここに、今シーズン最強のライバルと言われるお二人が同席していますね。もちろんアキトにとって他のドライバーたちも強力なライバルだと思いますが、貴方にとってこのFAでのライバルとはどんな存在ですか」
 彼の言うとおり、それは偶然だった。先ほど北斗がルリに答えて言った内容を、今度は明人がファンを前に言う番になったのである。
 明人は少し考え込んだ。
「そうだね――お互いに信じあい、尊敬しあって闘う……そんな存在だよ。もちろん馴れ合いとは違う。僕はいまFAにいる全てのドライバーがトラック上でそれぞれどんな人なのか、知っているつもりだ。同時に皆も、僕がどんな人間か知っていると思う」
 ここで言うそれは、言葉にもしたようにあくまでトラック上でのことだ。いくら明人が社交的だったとしてもFAに参戦する全てのドライバーと親友になる時間はないし、明人は自分がそれほど外向的な人間ではないとも思っていた。――時間があるなら、もっと話をしたいとは思ったが。
「ふむ、まずはよく知るということですか」
「そう。レース中にゆっくり考える暇はない。とくにそういう信頼関係が発揮されるような場面ではね。よく知っていて、信頼しているからこそ、どこまでなら行っていいのか、或いは逆にどこまで来られたらもうダメか、直感として感じられる。それが意思の疎通になっているんだ」
「――譲り合う?」
 司会者の怪訝そうな一言に、明人は苦笑いを漏らした。
「いや、それはあり得ない。僕たちFAドライバーにとって、少なくともトラック上で譲るなんてことは絶対にないよ。青旗を振られたら仕方がないけどね。そうではなくて、そういった信頼関係しか頼れるものがない場面があるということ。とくにオーバーテイクの時なんかはね。同じ危険に身を晒しながら同一の目標に向かって競い合う、僕たちだけの絆のようなもの……かな」
 それでも、接触などのアクシデントは起こるのだけど――明人はそう心の中で付け加えた。
 結局のところそれは複合的な要素が多くて、どんなに洞察力があったとしても完璧に予測することは不可能である。ただ、そうした不確定要素がどれほどかを見極め、その分のマージンを加えて競い合うという作業を、暗黙のうちに全てのドライバーがしている。
「全てのドライバーがそれを理解している?」
「たぶんね。経験の差や、考え方の違いはあると思うけど。でなければレースは皆が思うよりずっと危険なものになっていただろうから」
 それは明人がレースをしてきて見つけた答えのようなものだった。おそらく、自分だけが感じていることではない。全てのドライバーが気付いているはずだ。些細な価値観の差異などは、根幹さえ揺ぎ無いものであれば無視できる。自分たちがいま何をしているのか、それを理解していればいいのだ。


 なぜスピードに命を懸けるのか、いったいそれはどういうことなのか、或いはそれによって何を得るのか――。そうした疑問に対するドライバーの答えはまちまちだ。しかし、必ず共通点がある。それが自分にしかできないと信じているから、眼前に迫る死の淵すらも視界には映さず、ただひとつの栄光の為に走る。栄光は名声ではない。スピードという分野で人の可能性を追求し続け、己の身一つでそれを証明したいのだ。
 それは未踏の地への挑戦という意味でひとつの究極の形であると明人は思った。ドライバーにとってスピードの追求は自分自身の探求であり、自身そのものである。それを否定することは人間性を否定することであり、そうする権利は誰にもない。
 だからドライバーたちは、互いをこの上なく尊敬しあうのである。極めて閉塞的な社会であるがゆえに、各々の理解は常人の範疇を超えていた。言葉にし得ない魂のために、それぞれの態度は違えども、心はひとつだった。

(そう――そのおかげで、僕はこの世界で生きていられるんだから)

 それに気付いた時が、明人にとって新しい人生の始まりだったのかも知れない。きっかけがあったわけではないが、時間をかけてそれは確信に変わった。
 そこにあるのはあくまで原始的な感情だけで、打算はない。

――彼らだって、そうだったに違いないのだ。何故なら彼らは、例えようもなく『速かった』のだから。



 明人はちらりと北斗を見た。彼女は先ほどまでと変わらず、腕を組んでとくにどこを見るでもなく前を向いている。
 彼女だって、その絆は変わらない。いや、むしろ彼女こそそれをとくに尊重しているドライバーだと明人は思った。
 北斗は、明人にとって最も戦い易い相手だ。それはもちろん、抜くのが簡単だという意味ではない。逆に一度先行されたら今のFAで最も抜き難い相手である。だが、真剣をつき合わせて鎬を削るに当たって、彼女ほど清々しい緊張を感ずる相手はいない。

 北斗のドライビング・スタイルは終始一貫して明快だった。正しく全力の闘いを常に要求し、相手がそれに満たなければ目もくれずに抜き去ってゆく。逆に相手にとって不足はないととれば、彼女は徹底的にフェアな闘いを望んだ。
 だからだろう、彼女が接触事故を起こしたという話は、少なくともデビューからこれまでの12戦で一度も聞いたことがない。何しろミスらしいミスをしないドライバーだ。オーストラリアやアメリカ、イギリスの緊迫した接戦の中でも、彼女は決して明人のラインを妨害したり無理な幅寄せをしたりしなかった。
 それでも彼女は戦いを制して勝つことができる。それだけの力を持つ稀有なドライバーだ。そしていま、彼女がそれだけのバトルを繰り広げる相手として認めているのが自分だという自負も、明人にはあった。それなのに何故か最近は、心のうちに奇妙な焦りを感じるのである。

 ドライバーにとって理想は、全戦全勝での世界チャンピオンである。現実的にそれが成される可能性は限りなく低いが、理想を言うならばそれ以外にはないだろう。明人にとってもそれは同じだったが、一方でそうなってしまったらつまらないだろうとも思った。競い合ってこそのチャンピオンシップである。負けのないレースで勝っても、嬉しくはない。
 だからだろうか、明人はたしかに勝利を欲したけれども、同じくらいに自分が楽しいと思えるレースをしたいと常に願っていた。そしてそれは、北斗のような類まれなる強者との真っ向勝負だったのである。

 日本グランプリで圧倒的な勝利を収めたとき、明人は物足りないと思った。それはあまりに明人のマシンが完璧であったために、北斗でさえも追従できなかったからである。
 カヴァーリがエンジンをバージョン・アップして、それは解消された。しかしいままた、日本GP後に感じた何か足りない感覚を、明人は胸の奥に覚え始めていたのである。










to be continued...


……自分で書いておいてなんですが、いろんな意味でどこに突っ込んだらいいのか分かりません(爆)


 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

「戦う理由の再確認」な回ですね。

こういうエピソードを独白でやらせたりすると最低の謗りを受けることが多々ありますが、

レースものだからインタビューって手がありましたなぁ(笑)。

 

後、ルリがアキトに構ってる間ハーリーがどんな顔してたのかちょっと気になる(爆)。