FLAT OUT

(23)






 決勝レースが終わってほんの四時間後のことである。勝利を逃した悔しさは、自分への満足感のおかげもあってそれほどではなかった。もっとも、マシンさえ完璧だったらという思いは捨てきれない。撤収の準備を進めているスタッフにそれぞれ挨拶をして、明人は早々と帰途についた。
 ロシアGPは、少なくとも明人たち一部の人間にとっては、非常に交通の便が良い。何しろターニャが証明してくれたように、そのサーキットは飛行場としても健在だからだ。
 チームの仕事の為に残るエリナに送ってもらって、明人は駐機場にとめてあったビジネスジェットまで辿り着いた。それはネルガルが契約しているチャーター便で、陸路よりも空路の方が速いグランプリでは、毎回のように明人を運んでくれている。その乗務員は、もう馴染みだ。
 副機長がアイスコーヒーを出してくれた。彼は機長よりもずっと若くて、明人よりも二つ三つ年上だ。この機の副機長になったのが、明人のFAデビューと同じ時期だった。
 ありがとう、と明人が返すと、彼はにっこりと笑ってハッチを閉めに行った。ところがすぐに彼は、通路に押し戻されてきたのである。驚いた明人は、彼の視線の先にいた人物に気付いてもっと驚いた。
「ほ、北斗。どうしたんだい?」
 明人が尋ねても、ずかずかと機内に入ってきて荷物の置き場所を探している北斗はそれに答える気はないようである。やっと場所を見つけて自分のバッグとスーツケースを放り込むと、明人の向かいになるシートにどっかと腰を下ろした。そして、にやりと笑って言うのである。
「おまえは今週のシルバーストンでのテスト組だろう。俺もだ」
 つまり、自分を乗せていけ、と。
 この飛行機はタクシーではないんだけど、と言いかけた明人だったが、とくに断る理由もない。もちろんエリナや舞歌は、タブロイド紙に多大な貢献をしそうなそれを望むとは思えなかったが。
「ああ……まあ、構わないけど」
 副機長を見ると、彼も明人とほぼ同意見のようで、少しだけ眉を持ち上げて見せた。
「ミス・アズマは、一緒じゃないのかい」
 明人は少し首を屈めて、小さな窓から機外を見る。しかしその答えは思ったよりも早く返ってきた。明人が探していた駐機場からではなく、キャビンの前方からである。
「舞歌でいいと言わなかったかしら、明人君」
「あ………と、失礼、舞歌さん」
 再び驚いている副機長を押しのけて現れた舞歌は、笑顔を貼り付けてはいるものの目が怒っていた。もっともその矛先は明人ではなさそうである。彼女から見れば、背を向けたシートの上に覗いている赤い髪の持ち主が、それであろう。
 しかし、北斗は振り返る素振りも見せない。それどころか、舞歌が入ってきたことにすら気付いていないのではないか。明人が困って二人を見比べ、やっと北斗に声をかけようとしたときだった。
「私は本来の機で行くわ。キャンセル料だけ取られるのは癪ですから。貴女はどうぞ、明人君とゆっくり愛を語らってらっしゃい」
 珍しく厭味たっぷりの捨て台詞を投げかけて、舞歌は颯爽と降りて行ってしまった。それを呆然と見ていた明人は、はっと我に帰って北斗を見る。彼女は悠然と足を組んだまま、今週の「オートスポーツ」誌を読んでいた。
「喧嘩でもした?」
 明人が尋ねる。
「いや、いつもああだ」
「そうかなあ……」
 もう一度舞歌の後姿を見送ろうとした明人の視線を、音もなく閉まったハッチが遮った。その向こうで舞歌が盛大なくしゃみをして、キッと彼らの機体を睨んだことを、二人は知らない。

 離陸して三〇分ほどもすると、北斗はとりあえず雑誌を読み終えたようだった。機外の空はまだ明るいが、それもあと二時間ほどもすれば暗くなってくるだろう。時刻はもう午後七時を回っている。
「それで?」
「……なんだ」
 明人が尋ねると、北斗はその質問の意味が分らない振りをした。少なくとも明人には、そう見えた。
「自分の機があるのに、わざわざこっちに乗った理由だよ」
 それに北斗は「ああ」とだけ答え、腕を組む。何か話したいことがあるのだろうと明人は思い、彼女の言葉を待った。しかし次に彼女の口から紡がれた言葉は、明人の意表をつくのに十分だった。
「赤月は、どうなんだ」
「えっ?」
 北斗の口から他のドライバーの名が出るのは、他のFAドライバーがそれを口にするよりもずっと少ない。唯一の例外は、たぶん明人だろう。
「お前のチームの赤月だよ。チームメイトの名も知らんのか」
「いや――そうじゃないけど」
 睨む北斗に、明人もどもりながらも答える。彼女が話題を逸らしたのがわかった。

 どうも目の前の女性との会話は、緊張する。明人から見て彼女が非常に魅力的な女性であることもその原因のひとつだが、どちらかと言えば、単純に彼女の機嫌を損ねるのはまずいと感じていたのである。とくに、こうして二人でいる時などは。
「最近はプールリーグが騒がしいな。あの男もその筆頭だそうじゃないか」
「へえ、そうなのか」
 シーズンが後半戦に入った頃から、来季のプールリーグ――移籍問題は、白熱していた。下位チームで頭角を現した新人が上位チームへ行くだの、上位チームで目立った成績を残せないドライバーが引退するだのといった話題である。もちろんそういった契約は決まるまで公表されないから、あくまでメディアの憶測だ。赤月は一昨年の世界チャンピオンだったが、はやくもそんな噂の筆頭に挙げられているようである。
「そう言えば、君の契約も今年で一旦切れるんだろう」
「ああ、まあな」
「来季もカヴァーリに?」
「それは舞歌が決める」
 そうなってくれれば嬉しいと、明人は思った。プライベートではまだ分からないが、トラック上で彼女よりも魅力的な人間を、明人は知らない。持てる力の全てを出し切ってなお拮抗している自分と彼女は、好敵手という言葉が最も似合うに違いない。来季もその関係は維持したかった。
「まあ、君だったら引っ張りだこだろうから、シートに困ることはないだろうね」
「俺が欲しいのは、お前と戦えるシートだよ。そんなシートは数えるほどしかない」
 北斗は小さな苦笑いとともに答えた。
 たしかにそうである。エンジンがいいとか、空力がいいとか、突出した性能はたしかに目を引くが、結局のところ勝つのは総合力に勝るマシン、チームだ。
 究極の技術と天文学的な規模の金が結集するFAでの力量差は、数値にすれば微々たるものである。ゆえに、たった一年で勢力図が全く変わってしまうこともよくある。今年調子がいいからといって来年もそうであるとは限らないのがFAだ。
 本音を言うなら、最強のマシンが欲しい。しかしそれが如何に難しいかもよく分っている。だからせめて、タイトル争いに加われるマシンが欲しい。それは、明人たちドライバーにとって天にも祈る思いだった。
「来季も君とタイトル争いができることを、僕も願っているよ」
 明人が言うと、北斗は一瞬彼をじっと見つめたものの、すぐにいつものように「ふん」と鼻であしらうようにしてそっぽを向いてしまった。だがその口元に小さな笑みを見つけて、明人もほっとしたのである。



 二時間ほど、小さなリヤジェットは気流の影響を受けることもなく、静かに飛んでいた。8千メートルの上空ではまだ太陽が水平線の上に顔を出しているが、眼下の海はすでに薄暗く、ところどころに船だろうか、小さな明かりと細く伸びる影が見えるだけである。
 二人はとくに会話をするでもなく、それぞれに暇を潰していた。そしていつ頃からか、機体は目的地に向けてゆっくりと降下を始めたようだった。
「グレートヤーマスが見える。もうそろそろかな」
 窓の外を眺めていた明人が、呟いた。
「どこだって?」
「グレートヤーマス。友達がいるんだよ」
 とくに振り返りもせず言う明人に、北斗も一緒になって窓の下を覗き込む。もっとも、明人にとってもそこはもう陸地と海の見分けがつくかどうかの、暗い世界でしかなかった。
「よく分るな」
「あそこに灯台があるだろう。あの近くで友達がカートコースを経営しているんだ」
 一度だけ灯台も行ったことがある。ところどころ夕陽を映して光る灰色の絨毯の上を、針の先よりも小さな光の筋が、ゆっくりと回っているのが見えた。
「カートコースか。随分と昔の話だ」
「うーん、昔って言うほどでもないけど……僕は十五歳までだった」
 北斗の声色がほんの少しだけ落ちたのに、明人は気付かなかった。
 たいていのFAドライバーは幼い頃からゴーカートに親しんでいるものだが、二人も例外ではない。明人も物心ついた頃にはすでにカートの運転ができた。明人自身は知らないが、ジュニア選手権でデビューと同時に優勝を飾ったのも、二人の共通点といえばそうなのである。

 初めての表彰台は感激だった。実際には、ともかく必死だったから、何がなんだかよく憶えていない。しかしポディウムの上から見下ろしたとき、笑顔で拍手をしてくれる両親の姿を、明人は忘れることはできなかった。
 それはたぶん、彼女だって同じに違いない。北斗もカート畑の出身だから、彼女の才能を考えれば初優勝はそこでの出来事であろう。そう思って彼女を見た明人は、おやと思った。機内照明の陰になった彼女の表情には、そんな懐かしそうな表情は一切映っていなかったのだ。それよりもむしろ、思いつめた表情に見えた。
「北斗――どうかしたかい」
 明人が声をかければ、彼女は明らかに今、我に帰ったようだった。
 彼女が何かに心奪われているのを明人は初めて見たが、その視線の先にあるものが何であるかは想像もつかない。ただ、それが彼女にとってあまり快いものではないだろうことは、わかった。
「なんでもない」
 そう答えて、北斗は窓枠に頬杖をついて外に視線を戻したのである。




 二人を乗せた小型のプライベート・ジェットは、万年過密気味なヒースローの上空で十五分ほど順番を待ってから、着陸した。午後九時半を回った頃だった。
 ロシア遠征の前、明人はこのままシルバーストンのテストに直行するつもりでいた。だが少し予定を変更して今晩だけ自宅に戻ることにしたのは、とくに何かを意識したからではない。ロシアGPで酷使した身体を、気がねなく寛げる場所でゆっくりと休めたかったからだ。
 さすがの北斗も、これ以上マネージャーを怒らせるつもりはないようだった。あと数分で到着するであろう、彼女が本来搭乗するはずだったジェットを待つことにしたらしく、明人はそこで彼女と別れることになった。
「明人」
 待ち合い室から到着ロビーへと出ようとする明人に、北斗が声をかけた。
「さっきの答えだが――」
「さっき?」
 なぜ自分と同じ機に乗ったのか――その問い掛けに対する答えであると気付くのに、明人は少し時間がかかった。たぶんこの突拍子の無さに、舞歌も手を焼いているに違いない。だがいまの明人は、彼女の答えを待つことに真剣だった。
 しばらく見詰め合っていた二人だったが、先に視線を逸らせたのは北斗だった。あまりに真剣な眼差しの明人が可笑しかったのか、肩を震わせて笑い始めたのである。
「保留にしておこう」
 笑いながら、北斗が言った。
「保留」
「ああ。決着を付けるまでまだいくらかある。スカンジナビアの時とは別に、お前に訊きたいことがあったが……まだ機会はあるだろうからな」
 それだけ言って再び駐機場へと歩き出す彼女の後姿を、明人はぼんやりと見つめていた。彼女の向こうに、舞歌を乗せた機が到着していた。







 二日後、そこにいる人々の表情が優れないのは、いつでも気まぐれなブリティッシュ・ウェザーのせいに違いなかった。イングランド内地の伝統あるサーキットは、そこで世界最初のグランプリが開催されてから半世紀と少しが過ぎたこの日も、生憎の雨模様だった。――昨晩の予報が晴天とあったにもかかわらず、である。
 その雨が上がり、アスファルトが乾いてきた頃には、もう陽は傾きかけていた。走行時間は残り一時間を切っていたが、しかし彼らにとってはそれがあるだけでも願っても無いことである。雨が弱くなり始めた頃から雨用タイヤを履いて走行を始めていたネルガル、カヴァーリに加わって、いまでは参加した全てのチームがこぞってマシンをテストしている。
 NF211がピットレーンを走ってチームのパドックに戻ってきたのは、通常テストで一般的な5周を周回したあとである。コース上を流れる雨水の川が見えなくなった頃から走りこんでいた明人は、もう四回ほどそうしたテスト・スティントを重ねていた。
「高速コーナーは安定してるな。ただ、低速で少し反応が鈍い。フロントのPダンパーを、あと1ティック柔らかくしてみてよ。このままだと、とくにシケインみたいなところでアンダーステアが強くて、どうしてもゲイン(減速)が大きくなるんだ。これが無くなれば、ほぼ完璧だから」
 いったんマシンから降りた明人は、ドリンクを飲みながらエリナに言った。二人はガレージの奥に設営されたエンジニアリング・ルームで、大勢のスタッフとともにラップモニターを見ている。
「『ほぼ』?」
 エリナが苦笑気味に聞き返した。
「まあ、ね。完全無欠、とは言わないよ」
「貴方の『完璧』はそうとう高いところにあるわね」
「そりゃあね。クルージングのついでにカヴァーリに勝てるんなら、完璧だけど」
 明人が笑って返すと、エリナはお手上げとでも言うように肩を竦めた。
「今のポイント、いくつだっけ」
「うちが170、カヴァーリが159。ドライバーズポイントは貴方が102で彼女が100よ。大接戦ね」
 残すところ5戦である。13戦を終えて2ポイントしか差がないなんて、これまで明人が駆け上がってきたどのカテゴリーでもあり得なかった。だが、今ならその理由がわかる。明人が戦ってきたそれらのシリーズには、北斗がいなかったからだ。

 なんだか、あっという間だ。明人はそう思った。一月の新車発表会からもう既に八ヶ月も経ってしまっている。シーズンは三分の二を終え、季節は初秋、終盤戦に突入しようとしているのだ。
 365日は長いが、一年は短い。因縁も深い彼女との再会が運命的なものであろうとなかろうと、こうしていま明人は北斗と激戦を繰り広げている。思い起こせばそれは、明人が何度も繰り返し見たそれぞれの父親たちの対決に酷似していた。
 いつか、彼らと同じ運命が自分たちをも待ち受けているのかも知れない。そう思ったこともあった。FAマシンのスピードは当時よりも遥かに上がっている。そうならないという保証はどこにもない。だが明人がそれをとくに気に留めずに済んだのは、不思議なことに、彼女が相手なら仕方ないと心のどこかで納得している自分に気づくからだった。
 それはべつに彼女を特別視しているとかそういった感情からくるものではなくて、ここシルバーストンの天気が朝は晴天だったものが午後には雨になってしまったように、ただどうしようもない事実として、明人には感じられたのである。
 北斗もまた、そんな宿命のようなものを感じているだろうか――明人はひとり、そう思った。

 エリナは明人をじっと見て、一言一言を噛むように言った。
「正念場よ、明人君。2ポイント差なんて無いも同然だわ。もし彼女が1回優勝して、貴方が2位に甘んじれば、それだけで追いつかれてしまう。やるべきことはわかるでしょう?」
「……勝つことさ」
 答えると、エリナは頷いてじっと明人を見つめた。その黒い瞳は美しく、明人も思わず見入る。北斗のような禍々しい闘志を放つそれではなく、あるべきところを見据えた凛とした輝きだ。
 その瞳に、明人は何度も助けられた。
 ユーロF3.3で初めて会った頃は、とてもじゃないが一緒にやっていけそうにないと思ったほど上昇志向の強かったエリナである。当時の彼女にとって、明人はマシンの部品の一つだった。徹底的な管理によってコントロールするものであって、決して振り回されるようなものではなかった。
 それが今に至るまでに変遷していったのは、もちろん明人の頑固な寝坊癖のためではなかろう。明人との出会いが幾年かを経ていかに衝撃的なものだったか分ったと言ったのは、他ならぬ彼女自身だった。
 柔和で、誰の意見にも快く耳を傾けそれを受け入れる包容力を持っているくせに、ある所に達すると巨大な岩盤にぶち当たったかのように絶対に譲らない、矛盾した男。それが彼女にとっての明人だったという。
 根負けしたのはエリナだ。彼女は変わり、明人は変わらなかった。今年で明人とエリナのつき合いも五年になる。英国F3.3、ユーロ・マスターズ、そしてフォーミュラ・アーツ。
「決着を………つけるのでしょう?」
 分かっていると言わんばかりの顔で、エリナは笑う。だがその笑みが寂しそうに見えたのは、明人の気のせいであったのであろうか。
「決着、か」
 明人もまた、苦笑いを浮かべる。
「そうなのかも知れないな」
 明人が言うと、エリナはふっと視線を逸らして、微笑んだのだった。



 ガレージで明人を待っていたのは、プロスペクターである。
 明人は彼が嫌いではないが、苦手であった。それは彼がふつうなら怒りそうな場面で笑っていたり、大笑いするところで口の端を持ち上げるだけだったりと、どうにも何を考えているのかよく分らないからだ。
「調子はどうですか」
 今日のプロスペクターは、格段不機嫌そうな雰囲気ではなかった。明人をピットロードに連れ出しながら、いつもの微妙な笑みとともに問いかけてきたのである。
「いまのところは、いい感触ですよ」
「エンジンの具合はどうです」
「色以外はいいですね」
 ブロック20と呼ばれる新エンジンは、相変わらず頭のカバーを黒く塗られている。マシンの色と同じだ。それが明人には、つまらなかった。同じことをエリナに言ったら、「馬鹿なこと言ってないで」と呆れられた。
 その話を持ち出すと、プロスペクターもこれには面食らったような顔をした。だが、それはすぐに苦笑いに変わる。
「黒の塗料がいちばん軽かったんですよ。重いより軽いほうがいいでしょう」
 今度は明人が驚いて目を丸くした。
「本当ですか」
「いいえ、嘘です」
 よく考えてみれば、軽くしたいなら塗らなければ良いのだ。それをわざわざ黒く塗っているのは、それが現在のネルガルのイメージカラーだからだろうか。しかしそれよりも、珍しいプロスペクターのお喋りに、明人は一拍を置いて吹き出した。

 そのとき、ピットレーンを走ってゆく一台のマシンが、明人の目に留まった。全身を真っ赤に染め上げられたそのマシンは、現在のFA界で最も長い歴史を歩んできたチームである。
 プロスペクターが一瞥するだけで視線を戻したのに対し、明人は少しの間それを見送った。北斗のカヴァーリC.7はピートレーン出口の白線を跨いだとたん、エキゾーストを一気に弾けさせ、何回かのシフトアップの音とともに消えて行った。
「観客の目にはどう映るのでしょうね。赤いマシンがチャンピオンになるのと、黒いマシンがチャンピオンになるのと」
 不意にプロスペクターが言った。
「明人君、私たちがなぜ黒をイメージカラーにしているか、分りますか」
「…………いえ」
 FAマシンのパーツ交換は早い。いざとなれば四〇分でエンジンを交換してしまう、優秀なメカニックたちによって、常に完璧な状態を維持されているのである。ヘルメットを持ってきてくれたスタッフに「ありがとう」と言って、明人はじっと黙っているプロスペクターに視線を戻した。
「参戦当初、ネルガルのカラーは、白地を基調として赤のラインを施したものでした。貴方のお父上のマシンが、それです」
「知っています」
「それが一新されたのが、今から十一年前のシーズン。ちょうどメインスポンサーがミスマル・グループからアスカ・インダストリーに変わった年です。だから公には、もちろんメインスポンサーのイメージカラーに変更したということになっているわけです。FAにはよくあることですからね。少なくとも多くの一般的なファンは、そう思っている」
 十一年前は、明人の父、天河治己が事故死した翌年だ。以来アスカ・インダストリーは、現在でもネルガルのメインスポンサーを務めている。
「アスカのイメージカラーって、黒だったんですか」
「いいえ」
 明人が聞き返すと、プロスペクターは嘲笑めいたものを浮かべて首を横に振った。
「お分かりでしょう、明人君」
 プロスペクターの言わんとすることが、明人にははっきりと分った。分ったが、頷くことはできなかった。
 彼は、十二年前に起こったことを蒸し返そうとしているのではない。彼の思考を読み取ることは難しいが、その人柄を明人は知っていた。彼の言うことが本当なら、少なくとも彼は明人に近い考え方をしているに違いない。明人に対して件の事故を過去のこととして話す彼は、トラウマとも言うべきそれを既に克服したのだ。
 だが同時に、そうでない人間も多くいるのだろう。治己の死についてネルガルが責を問われることは結局なかったが、それでもまだそうして引きずっているのだ。十二年間、そのカラーリングは変わらなかったのだから。
 プロスペクターは明人を一瞥すると、いつもの瓢然とした態度でNF211を見やった。
「あの黒は、喪色ですよ。ネルガルはまだ、あの事故を乗り越えていないのです」
 その言葉を、明人は聞きたくなかったのだ。


 ネルガルに雇われることになったとき、全く考えなかったわけではない。その黒にそんな意味があるとまでは思い至らなかったが、かつて彼らのチームで事故死したドライバーの息子がどのように迎えられるのか、不安が無かったわけではなかったのだ。
 エリナは、本人が思い出して苦笑するほど、そんなことはおくびにも出さなかった。当時の彼女にとっては、明人は金の生る木で、ネルガルはそれを育てる土壌だったからだ。それに彼女自身、事故当時はまだ明人とそう変わらない子供だったはずだ。
 チーム代表のプロスペクターも、これと言って明人を特別視しているようではなかった。少し話をして明人が深い因縁を感じているようではないと悟ると、それを後押ししてくれたのだ。
 だが、瓜畑はどうだろう。或いは他のスタッフたちは――?
 明人もそこまで踏み入って話し合ったことはなかった。それは議論として提案するような話題では決してなかったし、話し合ったところでどうなるものでもない。誰も何も言わないのだから、それでいいのだろうと思っていた。
「ネルガルともあろう大企業が、一人のドライバーの為に十二年も?」
 堪らず明人が問いただすと、プロスペクターは辛そうに笑みを浮かべた。明人は、そんな彼の表情を見るのは初めてだった。
「それだけ彼が偉大な人物だったということですよ。私も当時、開発部門にいましたが、あの事故の後、チームの士気がどん底まで落ちたのは事実です。いや、FA全体の雰囲気が、たしかに落ち込んでいました。それ以降のグランプリの観客が二割も減ったのは、彼らのバトルが見られなくなったことだけが原因ではなかったでしょう」
 どうして父はそんなに人を惹きつけたのだろうと、明人の脳裏に新たな疑問がわいた。
 たしかに父は、悲劇の天才ドライバーとして多くのファンの記憶に残っている。だがそれは「悲劇の」という部分が多分に人々の同情を集めた結果で、人間としてはふつうの人間ではなかったかと、明人は思っていた。
 明人をよく知る人は皆、口をそろえて明人が父親に似ていると言う。それは容貌ではなくて、考え方やその佇まいなのだそうだ。だが明人は、なんの変哲もないただのドライバーである。少なくとも明人自身は、そう信じて疑わなかった。
 それを言うと、プロスペクターは優しげな苦笑いを浮かべたのである。
「たしかに………ふつうかも知れませんな。ですが貴方のそういうところところが人を惹きつけていると、私は思いますよ。赤月君もミス・ウォンも瓜畑君も――それにオラン君、ハリ君、矢神君……いや、アウフレヒト君でしたか。それに……北斗さんも、でしょうか」
「えっ?」
「いや、お気にはなさらないで下さい。むしろ、気にしないほうが良い。人が人を惹きつけるのは、何一つ飾らない本当の心だけですからな。現在のFAにあって、それを貫ける方はそう多くない」
 彼の漏らした一言が明人は気になったが、聞き直すこともできまい。ガレージからエリナが声をかけてきたからだ。
 マシンの準備が整ったようである。四輪にタイヤ・ウォーマーが被せられ、あとはドライバーを待つだけなのだろう。

「……ネルガルのイメージ・カラーはあるんですか」
 本来の、イメージ・カラーは。慌ててフェイスマスクを着けながら、明人が問う。プロスペクターは少し寂しそうにガレージの外を見た。
「もちろん、ありましたよ。お父上のマシンがそれです」
 白地に、赤のストライプ。いまのネルガルはその白い部分が全て黒になっている。当時カラーリングが変わったときに、わかる人間にはその意味もわかったろう。十二年が経って、その確信は薄れたのかも知れないけれども。
 明人は、グッドウッドで見たそのマシンを思い出した。
「……その方が、いいんじゃないですか」
「何がです?」
「カラーリング。昔の方が」
 明人にとってみれば、あまり口出ししたいことではない。いかに自分が踏ん切りをつけようとも、そうでない人にとってその色は、精一杯の思いであるからだ。だが同時に、それが喪色であると知ったのなら、もうそれは明けてもよい頃ではないか、そう思うのである。
 プロスペクターは、柔らかに微笑んだ。
「貴方がそう言うのなら、変るかもしれませんよ」
「……まさか、そんな簡単に?」
 驚いて明人が振り向くと、彼はさらに笑みを深めた。
「貴方のファンはネルガル内にも多いですから」
「ちょ、ちょっと待って。もう少し考えてくださいよ。カラーリングなんて、そんな大事なものを僕の一言でなんて――」
「おや、不満でしたか」
「不満とかではなくて………今のだって、ちゃんとデザイナーが考えたものなんでしょう。それを勝手に変えたら、僕がその人の仕事を奪ったことになっちゃうじゃないですか」
 そんなことは申し訳なくて出来ない、そう言うと、プロスペクターは驚いたように明人を見た。そして、珍しいことに彼は、声をあげて笑ったのである。
 再び、エリナが呼んだ。明人はすぐに行くからと一声だけ答え、プロスペクターを見る。
「私はね、明人君。ときどき貴方が本当にFAドライバーなのかと、疑問に思うことがありますよ」
 明人はどきりとした。チーム代表の口からそんな言葉を吐かれるドライバーというのは、だいたいその年でチームを追い出されるものだ。しかしプロスペクターはそんな明人の顔色の変化も見抜いたようで、さらに笑みを深めた。
「いや、いや。そういう意味ではありません。嬉しい驚きだと、そういうことですから」
「そう……ですか」
 ほっと息を吐く明人の隣で、プロスペクターは笑みを収めると、また遠くを見やった。
「これはチーム代表としての意見ですが――やはり皆、どうしても貴方を気遣っている部分がありますからね。とくに古参の者たちは……。明人君、貴方だから言いますが、こういうのは、チームとしてはあまり宜しいものではないでしょう」
「もちろんです」
 明人は即座に答えた。懺悔でもするかのような目にうんざりしたというわけではないけれども、ネルガルチームが頂点を極めることとそれは、また別の話ではないか。頂点に立つのに、誰かを窺う余裕などないはずだ。常に上を目指さなければならないのに。
「ですから、いい機会だとも思うのです。今季中になるか、それとも来季になるか……正直なところ、本社はすぐにでもかつてのカラーに戻したいと思っているのですよ。それを現場サイドが無言で反対しているという状態でして」
「……はやく戻るといいですね」
「貴方にそう言って貰えれば心強いですな。さあ、この話はここまでにしておきましょう。ミス・ウォンを怒らせるのは、私としても避けたいところですから」
 プロスペクターは学校の先生のように、明人の肩を優しく叩いた。明人がエリナを見ると、彼女は早くも苛立たしげに腕組みをしている。思わずぷっと吹き出しながらも、明人はプロスペクターに小さく頷いて、ヘルメットを被った。
 明人がマシンに乗るとき、ちらりとプロスペクターを振り返っても、彼はまだ笑みを失ってはいなかった。










to be continued...


よく考えると、妙です。
たぶんここのネルガルは、アスカとは違う分野での工業系企業(?)なんでしょう。
そうでないと「アスカがネルガルチームのメインスポンサーになる」のは、
「ニッ○ンがホ○ダF1チームのメインスポンサーになる」のと同じ事です。
あり得ません。(笑)

そういえばこのお話、アスカのアの字は出て来るけど、カグヤさんのカの字は出てこないんですね〜〜(爆)

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

ふむう。やっぱり北斗が求めてるのは(現状では)まず「対等の存在」なわけですね。

で、その先どうなるかはお楽しみと。

 

カラーリングの話は、なんだかちょっと良かったですね。