FLAT OUT

(24)






 テストの最終日、非公式ながらシルバーストンのトップタイムをマークしたのは、北斗の駆るカヴァーリC.7だった。明人のNF211は思ったよりタイムが伸びなかったが、それはタイムアタックを一度もせず新パーツの評価に終始したからだ。それでも二番手タイムである。
 だいたいレーシングドライバーというのは、こと走ることに関して言えば単純である。つまり、速く走れれば上機嫌であるし、遅ければ不機嫌になる。それは明人や北斗でも同じだ。だから、テストとは言え二番手に甘んじた明人が今回に限ってそれほど機嫌が悪そうでもなかったのを、彼のプライベートまではよく知らないチームのスタッフは不思議がった。

「まだ?」
 明人がモーターホームの奥に向かって呼びかけた。そこにはドライバーの個室が用意されていて、そこにはクローゼットまで完備されている。テスト後半に合流し、そこにあるものを物色できるもう一人の男は、身だしなみを整えることに余念がなさそうだった。
「待ってくれよ……。君も男なら、外見に少しは気を配りたまえ」
「そういうものかね」
 赤月は、彼にしては珍しく質素な色合いの、しかも地味なカジュアル・スーツを選んでいた。それでも彼が着ると派手に見えるから不思議だと、明人は横目にそれを見ながら思った。
「今週は彼女、帰郷してていないと思うけど」
「な、なんだって?」
 ぼそりと言った明人に、赤月は過剰に反応した。その拍子に手にしていた整髪量の瓶が落ち、ズボンに少し跳ねたが、彼は気付かないようだった。
「いないのかい?」
「たしか、ね」
 赤月が言うのは、明人の知り合いの女性である。それほど親しい間柄でもなかったが、どうやら半年程前に明人を通して彼女と知り合った赤月は、彼女に一目惚れしてしまったようなのだ。
 遊び人のような風体に反して、何かと口実をつけて健気に彼女のもとへと馳せ参ずる彼を、明人は意外に思ったものである。そしてまた、がっくりと落ち込んでいるいまの姿にも。
「そ、そう………行くの、やめようかな」
「だめだよ、行くって言ってあるんだから。ファンは大切に」
 わざと子供に説教をするような口振りで、明人が言う。赤月は、先ほどまでの乗り気はどこかへ飛ばし、一転して面倒臭そうにスーツを脱ぎ始めた。
「また着替えるの?」
「汚れたら困るんでね」
 さらに出発時間が先延ばしになり、いい加減明人は呆れ果てた。ハンドルに覆いかぶさり、ふうと溜め息を吐く。

 そのときである。明人の視界の端に、見慣れた朱色の髪がなびいた。
「お出かけか?」
「ああ、うん」
 テストを全て終えた今、北斗もレーシングスーツを脱いで私服だった。完全なプライベート以外、ドライバーは常に看板を背負っているから、スポンサーロゴのひとつもない私服でいる姿はドライバー同士であっても新鮮である。明人は、とつぜん現れた北斗の私服姿に一瞬目を奪われた。
「珍しいな、あの男も一緒なのか」
「……あ、ああ……約束したからね。――北斗も来るかい」
 もちろん、冗談のつもりだった。だから目的地も告げなかったのだが、問題は、目の前の女性が冗談の効かない相手だと、明人が忘れていたことである。
「ふむ……では、そうしよう」
「えっ?」
 明人は慌てて聞き返した。
「だから、一緒に行くというんだ。お前がそう言ったろう」
「あ、ああ……いや、でも大丈夫なのかい?」
 明人はカヴァーリのモーターホームを見やった。そこではスタッフが撤収に向けて後片付けをしていたが、よく見れば一人の女性が肩を怒らせてこちらに歩いてくる。明人のよく知っている女性だった。
 明人はその女性の形相と、北斗を見比べた。その視線に気付いたのか、北斗も背後を振り返る。そして少し考えたのち、いつもよりも素早い身のこなしで車に乗り込み、ドアを閉めた。
「あまり大丈夫じゃない。さっさと行け」
「でも流が……」
「このままだと、お前も一緒に舞歌の愚痴に付き合う羽目になるぞ」
 北斗が脅すように言うので、明人はどきりとしながらもう一度舞歌の顔を見る。それは、北斗が逃げ込むように自分の車に乗ったからか、憤怒を通り越して冷たい笑顔になっていた。
 なぜ自分までそれに巻き込まれるのか分らなかったが、あまり考えることなく明人は腹を決めた。
「そ、そうだな。行こう」
 そう言って、慌ててアクセルを踏み込んだのだった。





 二人を乗せた車は、ロンドンの方向にA23を少し走ったあと、そこから外れて東に向かっていた。
 舞歌から逃げるために明人の申し出を受けたらしい北斗は、しかしどこか目的地を告げることもなく、当初の予定通り明人の目的地につき合うという。そんな気まぐれな彼女を、明人は少し羨ましく思った。
 道は綺麗で、落ちかけた陽の光が周りの田園風景をオレンジ色に燃え上がらせている。その上に黒い影を長く伸ばしながらネルガル製クロスカントリーは、時速60キロほどを保って走っていた。
「なんだか最近、よくこうして行動を共にしてるよね」
 明人が運転しながら言うと、北斗がちらりと自分を見たのがわかった。
「お前は舞歌のように口煩くないからな。楽だ」
 北斗の答えもおそらく本心なのだろう、とくに機嫌悪そうでもなく、リラックスしているようだった。
 北斗とそのマネージャーを務める舞歌の仲は、一見すれば姉妹のようだと、多くの人は言う。たしかに舞歌は、仕事を超えて実の姉のように北斗を気遣っていたし、それゆえに先ほどのように怒っている姿も珍しくなかった。そして北斗もまた、舞歌を信頼して仕事を任せているようであった。
「何をしでかしたんだい。舞歌さん、怒ってたみたいだけど」
「べつに、たいしたことではない。俺はふだん自分で車を運転することはほとんどないからな、ギヤを入れ間違えてしまっただけだ」
 問い掛けが気に入らないだけで一気に機嫌を損ねてしまう彼女は、しかし、すましたままでさらりと答えた。
「ふぅん……」
 彼女がその気まぐれから、自分の足で(たぶん、カヴァーリが用意した車で)帰ることにでもしたのだろう。どういう経緯か知らないが、いくらなんでもそのくらいで舞歌は怒らないはずだ。そう思っているのが口調に出たのか、北斗はちらりと明人を見た。
「それが、まぁ運悪く、近くにあったリフトにぶつかり、乗っていたものを落としてしまっただけだ。高くはなかったし、大丈夫だろう」
 そう言う彼女の横顔は、舞歌もなぜそれくらいで怒るのかと言わんばかりである。自身と周囲に厳しい北斗でもそんなことがあるのだなと、明人は少し楽しくなった。
「ふぅん。じゃあたぶん、何か精密機械でも乗っていたんだろう」
「……まぁ、精密と言えば精密かも知らんな」
「で、何を落としたんだい」
 さらに問いかけると、彼女は、明人がからかい半分であることに気付いたのだろう。少し不貞腐れたように窓の外へと視線を向けて、ぶっきら棒に告げたのである。
「たとえば、舞歌だ」
 今度は明人の笑顔が引きつった。



 車は二時間ほど走って、目的地に着いた。そろそろ夕食時である。
「それで」
 北斗が口を開いた。辺りには、潮の匂いが漂っている。
「どこだ、ここは」
 そう言えば目的地を告げぬまま来てしまったと、明人は苦笑する。何も聞かぬままついて来てしまう彼女も心配だが、とりあえず信用はされているのだろうと、少し嬉しくもあった。
「飛行機の中で話した、グレートヤーマスだよ」
「……話したか?」
 が、北斗は自分の話をすっかり忘れていたようで、明人は少しがっかりした。
「先輩がここでカートコースを経営しているんだよ。時間があるときは来るんだ」
 そう言って明人は、一軒の家の前に車を停める。イングランドというよりオランダのそれに似た様式のその家は、ちょうど四、五人の家族に、客を幾人か招くことができるほどの大きさだった。
 車から荷物を降ろした明人は、しかし「あっ」と呟いて一瞬その家と北斗を見比べた。北斗が怪訝そうな顔をする。
「ええと、気を悪くしないで欲しい。その、白鳥さん――ここの家の人なんだけど、ちょっと、君のお父さんのことを良く思っていないらしいんだ。だから少しきついかも知れないけど……いい人だから」
 奥さんは大丈夫だと思う、と明人は付け加えた。だが当の北斗は、そんなことかとばかりにふんと鼻を鳴らしただけだった。
「ごめん、言い忘れていた」
「お前が謝ることではないだろう」
 謝る明人を置いて、北斗はさっさと玄関の階段を登っていく。明人は少し拍子抜けしたが、彼女はそもそもそういう性格だったということを思い出して、慌てて彼女を追いかけた。

 呼び鈴を押してすぐに玄関を開けてくれたのは、妙齢の女性だった。
「まあ、まあ、いらっしゃい、明人君」
「こんばんは、ミナトさん」
 ミナトと呼ばれた女性は、明人の姿を見るなり喜ぶというよりもはしゃぎ出して、ドアを大きく開いてくれた。だが彼女には、明人の影になっていた北斗が見えなかったらしい。赤月君は、と尋ねる。
「それが、ちょっと予定が変わって」
 そう言って明人は、一歩横にずれた。
 ミナトは一瞬目を丸くしたが、すぐにその表情は先ほどよりも嬉しそうに綻んだ。
「もしかして、北斗さん?」
「もしかしなくてもその通りだ」
 初対面だろうとつっけんどんな北斗の対応にも顔色を崩さず、ミナトはますます嬉しそうに彼女の手をとった。
「嬉しいわ、一度あなたにもお会いしてみたかったのよ」
 北斗は握手に応じながら、訝しげな顔を明人に向ける。なぜ明人の友人がこんなに自分に会いたがってるのか、不思議だったのだろう。まして彼女の夫は自分の父を快く思っていないというのだから、なおさらである。
 北斗の視線に気付いた明人は、なんとも言えぬ笑みを浮かべただけだった。
 そのときである。奥から足音がして、浅黒い肌の東洋風の顔立ちをした男性が姿を現した。
「おう、明人君、久しぶりだなあ」
「ご無沙汰してます、九十九さん」
 今度は、すぐに北斗に気付いた。九十九もミナトのように目を見開いたが、次いで険しい顔つきになったのが違った。その視線に、北斗も少し顔をしかめた。
「君は、北斗君かね」
「そうだ」
 九十九は怒っているわけではなさそうだったが、厳しい眼差しで北斗を見つめた。北斗もまた、威嚇するようなそれに臆するはずもない。明人は、予想はしていたもののまさかこうも直ぐにこのような対峙になるとは思わず、おろおろして二人を見比べていた。
 結局、残ったのはミナトだけである。彼女は「ふぅ」とわざとらしく大きな息をついて、二人の間に割って入った。
「ほら、いつまでも睨み合ってたらディナーが冷めちゃうわよ。九十九さん、私の愛がコンソメスープと一緒に冷めても構わないっておっしゃるのなら、どうぞゆっくりしていらして」
 そう言って彼女は北斗の手をとり、明人の背中を押し、さっさと居間に入ってしまったのである。置いてきぼりにされた九十九が慌てて追いかけてくるのを背に感じながら、明人は笑いを堪えていた。


 白鳥九十九は、だいたいにおいて裏表のはっきりした男である。もちろん、無鉄砲に白黒をつけようとする輩とは違って、物事を筋道に沿って考えることができた。その彼がつい感情的になったというのだから、北斗の父親――北辰に対する彼の嫌悪というのも、ただ事ではないのだろう。
 だが彼には、その点について見解を違える妻がいる。さらに明人らにとって幸いなことには、彼は家庭において必ずしも絶対的権力者ではなかった。むしろ、逆である。
「まあ、その、なんだ。家族は他人の始まりと言うし――」
 とたんにテーブルの下で大きな音がして、九十九の顔が青ざめた。彼としては、北斗はあくまで北斗だからと先ほどの自分の態度を謝罪しようとしたのだろう。しかしミナトにとっては、彼の言葉はどうにも表現がまずかったようである。
「す、すまなかった。北斗君、君の気持ちも考えずに」
「気にするな、いつものことだ」
 九十九が今度は言葉を選びながら詫びると、北斗は相変わらず他人事のように返す。明人は思わず口を開きそうになったが、結局なにも言わなかった。

 白鳥ミナトと明人の関係は、それほどに複雑ではない。随分と昔、明人がジロと一緒にカートコースに通っていた頃、ミナトは先輩だったのだ。もっとも彼女の方がすぐにカテゴリーを変えてツーリングカーに移ってしまったから、実質的に二人が同じ学び舎にいたのは一年足らずである。
 しかし、彼女の夫は違った。
「なるほど、父親は白鳥元治か。明人がスカンジナビアで話していた男だな」
 北斗はそんなことを言いながら、サラダをとる。意外なことに彼女は、肉類にあまり手をつけていなかった。それを口にしたら睨まれそうなので、明人は黙っていたが。
「TWG――技術統括部門のディレクターだった。僕も明人君と会っているらしいのだけど、いかんせん、子どもの頃だったからなぁ。治己さんは良く覚えているんだが」
 酒が入り始めると、九十九の雰囲気も幾分か和らいだようだった。明人は、例によって極端に酒に弱い体質のせいで、ソーダを口にするだけである。
「有名人だったの?」
 尋ねたのはミナトである。
「極端な安全論者としてね」
 九十九が苦笑いをして言った。

 TWGは、マシンの技術的な面を審議し、レースの安全とチーム間の公平を図る部署である。その中にあって白鳥元治は、とくに安全面を重視し、速くなりすぎたと言われたFAのスピードをどう抑えるかに腐心していた。毎シーズンのように名ドライバーが命を落とす時代は終わったのだと、彼は唱え続けたのだ。
 だがそれに異論を投じたのは、意外にもドライバーたちだったのである。
 それは明人の父、治己もまだ生きていた頃の話だ。4倍もの強力なGに耐えながら時速200キロを超える速度でコーナリングを繰り返す彼らは、観客の目には見えない一瞬の判断ミスが、即座に大クラッシュにつながった。如何にマシンの安全性を増しても、それだけの速度でコンクリート壁に叩きつけられれば、無傷でいるのは不可能である。それでも多くのドライバーは、その速度を削ることを感情的とも言えるほどに嫌がった。
 だとすれば元治は、世界自動車連盟の体面を保つためにそれを提案していたのか。少なくとも最大限の安全対策は講じていると周囲に示すために、レースの主役たるドライバー達の声を無視していたのか。
 それは違うと、明人は思っている。記事と、当時を知る数少ない知人の言葉くらいにしか明人は彼を知らないが、元治は本当にドライバーたちと、そして観客の安全を願っていたし、そのためにできることを全てやろうとしていた。
 彼は安全基準を満たさないサーキットとのレース開催契約を見直し、マシンに求められる耐クラッシュ性能基準を大幅に引き上げた。それは必ずしもチームやメディア、ときにはファンの好評を得る結果にはならなかったが、彼はそれを強行したのである。

『今、FAの進化に必要なのはスピードではなく、それに必要な安全性である』

 彼の口癖であった。極端な安全論者で、ときには「彼はFAを一般車よりも遅く走らせる気だ」と揶揄もされた。それでも彼は、度を超えた安全策を常に提案し続けた。
 親友でもあったFAドライバーがこの世を去る少し前、到底実現不可能な案をメディアに指摘されたとき、彼は至って真面目な顔で言った。
『天秤ばかりを思い浮かべてみるといい。たとえ同じ重さの錘が両方の皿に乗っていたとしても、片方の皿だけが真ん中に近くては、釣り合わないだろう。それと同じだ。彼らがスピードを追い求める人種であることを私はわかっているし、私だってその一員であることを誇りに思っている。ただその過程において、彼らの主張は私のそれと全く正反対になることが多い。だからこそ、私のような人間が必要なのだよ』
 周囲の人間たちが、とくにチーム関係者たちが彼の言葉に包まれた思いに気付いたのは、彼が現場から姿を消したあとだった。彼が若くして心臓発作に見舞われたのは、その晩のこと――運命の事故が起こる、たった二日前だったのである。


 明人が知る限り、九十九は父の後を継ぐ意思はないようだった。もっとも、交通警察官と言えば役職は似ていないこともない。彼自身も、「取り締まる車のスピードがほんの300キロほど違うだけだよ」と笑っていた。
「そういえば父は、なぜその仕事をしようと思ったのか、その理由は話してはくれなかったな。いつか話してはくれそうだったが、結局はその前に逝ってしまったからね。だが、今はなんとなくわかるよ。僕も今となっては取り締る側だし、ここら辺の連中は、田舎だから、やたらと飛ばすからね」
 同じドライバーを護るために、必要なこと。違反があれば制裁を科すが、できることならそれはしたくないに違いない。無謀な輩もいるが、そんな彼らをも愛してこその職業だと、九十九の口調は言っていた。
「まぁ……何しろミナトさんだって、元チャンピオンレーサーですし」
「まさか三年で辞めちゃうとは思ってなかったけどねぇ」
 明人がおどけて付け加えると、ミナトもそれに乗って九十九のわき腹を小突く。彼女の引退は、九十九との結婚と同時だった。
「レーサーだったのか?」
 北斗が口を開いた。
「そうよ。DSTW、ドイツ・スーパーツーリングカー選手権。それなりに勝ったのよ」
「でもあれは、車が良ければもっと勝てましたよね」
「そう。二年目にいたチームなんか、女は飾りで走らせてるだけだって言いやがったのよ。あのハゲオヤジったら」
 明人は笑った。封建風潮の強く残る欧州にあって未だそんな男は多いが、その怒りに任せて優勝をもぎ取ってしまい、トロフィーと辞表を叩き付けた彼女はさすがだ。
「北斗さんのところは、そんな奴はいない?」
「さあ、知らんな。どのみち、実力があれば済む話だ」
 北斗のあっさりとした受け答えに、ミナトは一瞬ぽかんと彼女を見つめたのち、吹き出した。明人はもう慣れてしまっていたが、北斗は同じ女性でもそういう性格の持ち主なのだった。

「白鳥……元治だったか。どんな男だったんだ?」
 北斗はグラスにあったワインを一口啜って、テーブルに戻す。食べたりないのか、目はそこに並ぶ皿を物色しているようだった。九十九は、自分の口から言うのも、と思っているのか、明人を見る。
「母さんからの又聞きなんだけど……僕の父さんは、『彼がFAを救ってくれるだろう』って言っていたらしいよ」
 これは九十九たちにも話したことがなかった。だからか、或いは話がまた明人の父親の話になってしまったからか、ミナトは無言で視線を落としている。しかし、次に口を開いたのは九十九である。
「それは奇遇だ。父も、『天河治己こそFAを担う男だ』と誇らしげに言っていたよ」
 酒が進んでいるからだろう、別段北斗に投げかけるでもなく、九十九は懐かしそうにそう言う。だが、北斗は違った。彼女は明人の父親の名を聞くと、ほんの少しだけ、顔を顰めたのだ。
「もっとも、父は公には決してそんな態度をとらなかったけどね。まぁ仕事人間だったから、TWGディレクターの名札を下げた途端、父にとってドライバーはみな息子のようなものだったんだろう」
 九十九は言って、笑った。

 顔も知らないドライバーたちを不慮の事故から護ろうと、元治はFAのみならず世界中の自動車産業界に出向いては持ち前の安全策を披露して回ったそうである。そのときの彼は、持論をぶちまけることに愉悦を感じる評論家然としたものではなく、ドライバーたちを息子のように考えている「父親」の顔をしていたと、彼をよく知る人たちは言った。
 その元治が、見境無く愛したドライバーたちの中でただ一人、感情的だった人間。それが明人の父親、天河治己であったという。元治は彼について語るとき、まるで神について語るような顔で天井を見上げながら、言ったのだ。

――彼は、FAに必要な存在だ。すべてを理解しているのは、彼だけだ。彼を死なせてはならん――。

 それを聞いた時、明人はまったく見当がつかなかった。いつも優しく微笑んでくれる父だったが、その彼がFAという世界でどれほどの存在であったのか。

 そして運命のサン・マリノGP。開幕の朝、ホテルの一室で元治は倒れたのである。そしてまるでそれを追うようにして、天河治己が事故死した。



 明人と九十九が出会ったのは、それから遥か十年後のことである。九十九にとって見ると、スピード違反で捕まえた女性ドライバーに惚れてみればその友人が世界の頂点に立たんとするレーサーであり、かの天河治己の息子だったということらしい。
 父が急死してからほとんど注意を傾けなかったFA界は、いつの間にか世代が変わっていたのだと、感慨を覚えたのだという。
 そして目に入った、赤毛の女性。父が死なせてはならぬと再三口にした天河治己を殺した張本人、北辰。その娘の北斗である。ここまでが世代交代なのかと、世の皮肉を儚んだのだ、と。
「――僕には、レース中の事故というものの特殊性が、よくわからない。だが、君たちのしようとしていることは、少しは理解しているつもりだ。それが幾年月を経ても決して変わらないものであるなら、治己さんの身に起こったこともおそらく仕方のないことだったのだろう。個人的には、彼に生きていて欲しかったけど」
 九十九はそう言い、明人に向かって微笑んだ。
 生きていて欲しかったのは、誰も同じだ。まさか死んで欲しかったなどとは、北辰でさえも思わなかったろう。あれは、レースというものの持つ危険性が形となった事故であったのだから。
 しかし、口を開いたのは思いも寄らぬ人物だった。いや、どちらかといえば彼女の口から出た言葉が、思いも寄らなかったのだ。
「だが、少なくとも罪は認めるべきだろう。レース中であろうがなかろうが、人が死んだのだからな」
 北斗を除く三人が三様に、彼女を見つめた。再びワインを口にしていた彼女は、その視線に気付くとグラスを戻した。
「まあ、全ての事故でそうだと言うわけではないがな。少なくともあれについては、北辰が天河治己を死なせた。それが事実だ」
 北斗はそれを誰に聞かせたかったのだろうか。とび色の瞳はいささか冷めた目で九十九を見ていたが、その言葉の矛先が彼なのかどうかは、明人には分からなかった。
 九十九が北辰を恨んでいることは北斗も分かっていたろうが、彼女がそれをはっきりと言ったのは、明人にとっても初めてだったからだ。
「それが、事実なのかね」
 九十九が問い返した。
「そうだ。もっとも、真実とは違うかも知れんがね」
「では真実は? 君は知っているのか」
「知らんな」
 我関せずといった北斗の態度に、九十九が顔を顰めた。ミナトは困ったように二人を見比べている。明人はただ黙ったままである。
「彼は、君の父親なのだろう」
 実の娘であるところの君でも知らないのかと、九十九が言外に尋ねていた。北斗はしばらく黙っていたが、やがて椅子に背を預け、腕を組んだ。
「北辰は北辰、俺は俺、だ。世の中には色々なスタイルの親子があるということだよ。中には絶対の信頼関係で結ばれているところもあるようだが、生憎と我が家はそうではないのでな」
 明人は胸が痛み、それが顔にも出たのだろう。左右の二人に振られていたミナトの視線が自分に注がれたのを、明人はかろうじて視界の隅に捕らえていた。九十九は「ふむ」と唸った。
「でも北斗さん、家族というのはこの世で最も近しい存在でしょう。それを信頼できないの?」
 ミナトの言葉は、わずかに北斗の本心を突いたのかも知れない。彼女はすっと目を細め、テーブルの上のワイングラスを見つめた。
「それが理想だという奴もいるな。だが、人の心は移り変わる。それもまた、よくあることではないか?」
 そう答える北斗の声色がそれまでよりも弱々しく聞こえたのは、明人の気のせいだったろうか。ミナトは優しく微笑む。
「知らないことを一括りに言い切るものではないわ。人が道を誤るのは、必ず理由があるものよ」
 それはまだ、北辰がそうであったと言うわけではないのだろう。ミナトは、家族が互いに信頼できないことが、本来あるべき姿ではないということを言いたいのだ。そしてそれは、明人も同じだった。
 明人は母を信頼しているし、雪枝も自分を信頼してくれているはずだ。そこにある絆は決して要件があるような代物ではなく、心と心で感じあうものである。だが逆に、それに満たされているが故に、そうでない心のことが理解できないとも言えるだろう。今の明人が、北斗の言葉を理解できないように。
「………そうだな」
 北斗がふっと笑ってそう呟くのを、明人は案ずるように見つめていた。










to be continued...


ムム。どうやらここの北斗は、草食だったようです(爆)

そしてここにも、名前すら出してもらえない哀れな原作(時ナデ)キャラが!
……裏設定としては、彼女はミナトさんが経営するカートコースの事務員とかだったりするんですけどね。

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

まぁ名前を出してもらえない人に付いてはこっちに置いといて。

今回もまた下積み回ですね。

・・・しかし、九十九も尻に敷かれてるなぁ。下手したら嫁さんのほうが収入多そうだし(笑)。