FLAT OUT

(30)






 ヘリコプターのエンジン音は、完全に仕切られた客室にはそれほど響かなかった。高級乗用車というわけにはいかないが、グラシスの最新『マシン』ほどではない。
 時刻は、午前四時を過ぎた頃だった。ドレスデンからのチャーター機の中では眠ったが、そこからモンツァ・サーキットに行くのに乗り換えたヘリコプターの中で、明人は目を瞑ることはできなかった。エリナは、明人が起きているときは、彼女も起きていた。
「夜明けだ」
 明人が窓の外を見ながら、呟く。
 空はすでに藍色から水色に変わっていたが、今になって太陽が地上を照らし始めたのだ。まるで極彩色の絨毯を広げたかのように、東から西へ向かって大地が彩りを取り戻してゆく。朝がきたのだ。
「エリナ」
「……な……なに?」
 明人が振り向くと、どうやらぼんやりしていたらしい彼女は、驚いたように目をぱちくりさせて聞き返した。やはり彼女も眠いのだろう、そうとった明人は、苦笑して先を続ける。
「今回は、本当にありがとう。正直なところ、一人だと不安だったんだ」
「………戻って来られるか、って?」
 少し意外そうな顔をして聞き返すエリナに、明人は微笑んだ。
「いや、そうじゃないよ。戻るって言ったから、僕は戻る。でも、君がいなかったらこうも気持ちに整理をつけて戻ることは出来なかったかも知れない」
「そんなに大層なことをしてあげられたかしら」
「一緒に来てくれただろう。こんな時だけど、僕はやっぱり、君を頼っているらしい。君がいてくれたから、他のことを忘れて色々考えることができたよ」
 するとエリナは、一瞬きょとんとした顔をしたものの、すぐに「それはマネージャー冥利に尽きるわ」と悪戯っぽい笑みを浮かべてくれる。
 そんな、少し引いた視点から常に見守ってくれる彼女のおかげだ。苛立ち、焦り、悲しみ、そして怒り、負の感情ばかりが胸を破って出てきそうだった昨日の午後に比べて、明人はいま、驚くほど落ち着いていたのだ。
 エリナは少しだけ目を伏せて、考えているようだった。
「本当に、僕はいつも君に我が侭ばかり言っているな。……ごめん。そしてありがとう、エリナ」
 そう言って、エリナを見たときだった。にわかに彼女の表情が崩れたのだ。
 それが悲しみのせいなのか、確かめる間もなかった。驚く明人の肩に、彼女は額を預けるようにして、顔を隠してしまったのだった。
「……私も謝らないといけないわ」
 そう言うのである。
「事故の報せが届いた時、私はそれを貴方に知らせるべきかどうか、迷ったんだもの。後に知らせれば、貴方が後悔するかも知れないことは分っていたわ。でも、わからなかったのよ。貴方はレースも、そして周りの人も、目に映る全てを愛することのできる人だから」
 泣いているのだろうか。それは、聞き取れるかどうかの、か細い声だった。
「……君は知らせてくれたよ、エリナ」
 明人はそう答えた。
 確かに、後から知れば後悔したろう。自分がレーサーであることを、明人はよく知っている。だから誰にも言わないが、兄弟とも呼べるジロが倒れたところに真っ先に駆けつけられなかったことを、後悔したに違いない。
 だが、知らせてくれなかったエリナを恨んだろうかと自問すれば、答えは否だった。それは、明人が最高のコンディションでレースを走れるようにすることこそ、彼女の仕事だからである。そして明人も、彼女を信頼している。その彼女が判断したことならば、それはどんな結果になろうとも、彼女が自分を慮ってくれた結果なのだ。それを恨むことなど、決してできはしないだろう。
「ありがとう、エリナ」
「…………………」
 エリナはもう、何も言わなかった。
 そのうちに、小さな寝息が聞こえてくる。そういえば彼女が人前で寝るなど初めてのことだと、明人は思った。
 肩を動かさないようにしながら、窓際に頬杖をついた。温かいのは、彼女の体温である。窓の外は、朝焼けに燃えていた。

 三十分ほどして、ヘリコプターはモンツァのヘリポートに向かって降下を始めた。エリナはまだ明人の肩に頭を預けたまま、眠っているようだった。
 仕方あるまい、ドライバーはレースで全てを出し切るため十分な睡眠をとることを強要されるが、逆にそれを支えるスタッフ達はマシンを煮詰めるために深夜遅くまで働いている。それでもレースウィークの週末、彼らはその張り詰めた緊張感に寝不足すら忘れて、ドライバーを支えてくれるのである。
 明人は彼女を起こそうかどうしようかと、迷っていた。
「…………そろそろね」
「……起きていたんだ」
 小さな呟きとともにエリナが身を起こし、明人も少しほっとしつつ降りる身支度を始める。するとエリナは、ふと何かを考えるように無言になったあと、明人の方を見向きもせずに告げたのである。
「……化粧直しくらいするわ。向こうを向いててくれる?」
「あ、うん」
 答えて窓の方を向き、明人は着陸が近いことを知った。ヘリコプターはいつの間にか随分高度を下げて、周辺の木々の天辺と同じくらいのところをゆっくりと飛んでいたのだ。その向こうには、モンツァの赤いグランドスタンドが見える。
「……もういいわよ」
「そう? 早かっ――」
 しばらくして彼女の声が聞こえ、明人は振り返った。と同時にヘリコプターが着地したのだろう、ゴトンと揺れる。だが――それがその揺れのせいだったのか、明人には分らなかった。
 早かったね、と口にしようとした明人は、最後まで言えなかった。エリナの唇が、明人のそれを塞いでいたからである。
 その状態に明人が気付くまで、ずいぶんかかった。一秒が一時間にも思える中、目の前にぼんやりと広がる視界が彼女の顔であることに気付き、自分が目を見開きっぱなしであったことにも気付く。とたんに彼女の体温が唇を通して伝わってきた。


 暖かく、柔らかいそれが離れていくまで、明人は固まったまま動けなかった。温もりが去ると同時に、エリナの瞳と、唇が目に入る。つい唇の方に目がいくと、いつも赤い口紅を乗せているそれが、いまは素のピンク色であることがわかった。
「――揺れたわね」
 そんな彼女の唇が動いて紡がれた言葉に明人がはっとすると、エリナはもう片手にラップトップを納めたバッグを持ち、降りる準備を整えていた。
 客室のドアが、外側から副操縦士によって開けられる。とたんに白い陽光が差し込んできた。外は快晴を思わせる良い朝だ。彼女はおもむろにバッグからサングラスを取り出すと、かけた。
 明人が我に帰ってヘリコプターを降りたのは、何も言わずに歩き出したエリナがヘリポートを出て行ってしまってからだった。




 モンツァ・サーキットで二人を待っていてくれたチームスタッフ達は、昨日の午後に比べるとその表情から不安がとれているように見えた。
 プロスペクターは、明人を見つけると小さく笑って迎えてくれた。しかしすぐに明人の様子に気付いて意表をつかれた顔をする。
「どうかしましたか」
「えっ? あ………いえ」
 明人が慌てて取り繕うと、プロスペクターは「ふむ」と唸る。そのまま彼は明人をモーターホームの会議室へと招き入れた。エリナが来るのを待って、経過の説明をするというのだ。
「ミス・ウォンと何かありましたか。彼女もそんな顔をされていましたが」
 明人がいつものようにミネラルウォーターの封を開けて一口飲むと、プロスペクターが尋ねた。詮索するつもりはないのだろう、聞きたいのは「はい」か「いいえ」だけだと、彼の眼差しは言っていた。
「いいえ……彼女が一緒に来てくれて、助かりました」
「それはよかった」
 彼はちらりと明人の目を確かめたようだった。
 そうこうするうちにエリナが入ってきて、明人を見つけ「あら」と声をあげる。
「明人君が私より早いなんて、今日は雨かしら」
 それならウェット・セッティングを施さないと、と彼女は微笑む。明人は彼女の顔を直視することができずにいたが、横に座った彼女を盗み見ると、彼女はいつものように赤い口紅をつけていた。

「さて、それでは経過をお知らせするとしましょうか」
 そう言ってプロスペクターは、一枚の通達を二人の前に出した。発信は、世界自動車連盟とあった。
「『世界自動車連盟は、本イタリアGPにエントリーした全てのチームに対して、双方のタイヤメーカーが供給する新たなタイヤの中から、決勝レースに使用する一種類のタイヤを選択する権利を認めるものとする。これは木曜日における車両検査で登録されたタイヤである必要はなく――』」
「通ったんだ……」
 エリナが読み終わるのを待たず、明人が小さく呟く。プロスペクターは無言で頷き、エリナに次を促した。
「『かかるタイヤの選択については、日曜日の午前10時から45分間を臨時のフリー走行時間とし、この間に決定したものを正午までに再度登録しなおすこととする。但し燃料に関しては、フリー走行前に車両重量を測定した上で、レース前に再度測定することによって双方に差異が無いことを確認し、本来の燃料補給規定を遵守することとする』」
 読み終わるのと同時に、エリナも明人も、どっとソファに背を預けた。それがほとんど同じ仕草であったために、思わず二人で顔を見合わせる。エリナは、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
 べつに、諸手をあげて喜ぶような決定ではない。これでネルガルら4チームの優位はなくなり、全チームが同じスタートラインに並んだだけである。まして明人には、その程度で覆すことのできない悲劇がこの週末に既に起きていたのだ。
 だが、明人もほっとひとつ息を吐いた。今回、自分はその場に居られずに何も手助けができなかったが、ともかくもFAは一丸となって本来あるべき道に戻ったのである。それが少しだけ明人の肩を軽くさせた。
「実は、ネルガルをはじめメーカーチームにとっては賭けだったんですがね」
 そう言うプロスペクターの顔も、いつもよりは柔らかい。
「タイヤの再選択が認められなければ、全チームがGP決勝への出走を断念すると連盟に伝えたのですよ。彼ら6チームだけでなく、我々4チームも、全てです」
 そういう意味では説得より脅迫に近かったでしょうか、と彼は苦笑する。
「連盟独裁のFAに革命が起きただけよ。それにしても、プライベーターがよく賛成したわね」
 エリナはあっさりと言いきって、明人もその通りだと思った。
 ただ、タイヤの問題が比較的深刻ではなかった4チーム側は、出走できるのに拒否したとして罰金が課される可能性すらあったはずだ。ネルガル、カヴァーリ、クロトフのメーカー系チームはともかくとして、プライベーターのチーム・クラウザーにとってそれは大打撃だろう。
 エリナもそれは意外であったらしく、肩を竦めてプロスペクターを見やった。
「ですから、賭けだったんです。もしそれでも連盟が強硬姿勢を崩さなければ――つまりレースがボイコットされることになれば、その時はメーカーチームがプライベーターが科される罰金の半分を補償することにしたのです。彼らも今回の問題……とは言えそれは残念ながら実際のタイヤ問題ではなく、FAの内面、チームと連盟の関係ですが……それが由々しき事態であるとは気付いていましたから。渋々、というチームもありましたが、承知してくれました」
 明人はほうと息を吐いた。完全な利益社会であるFA内で、そんな協定が結ばれたということが意外でもある。あるチームが、他チームの罰金を肩代わりするなどと。
 人はとかく肩書きがつくと急によそよそしくなるものだが、FAもそうなのだと明人はわかっていた。いや、むしろFAはその最右翼であろう。切磋琢磨などと言う言葉はFAにはない。あったとしても、それは結果論だ。如何に敵を出し抜くか、如何に勝つかだけが全ての世界。それが世界最高峰たるフォーミュラ・アーツなのだ、と。
 だが今回、それは裏切られた。勝算のある賭けで、しかも罰金の補償問題といった金の話が結局の説得材料になったとはいえ、チームの名を借りた冷徹なメーカーが、自分以外の為に動いたのである。明人にはそれが、遠い昔から待望していた希望の光であるように思えた。
「最初のきっかけは、明人君、貴方の言葉かも知れませんよ」
「えっ?」
 明人がぼんやりとしながらも聞き返すと、プロスペクターは棚から一束の書類を取り出して、そのうちの何ページ目かを開けて見せた。
「貴方たちが離れてからの議事録です。最後の方ですが」

――23:55 E.クラウザー(クラウザー)

 我々も、レースをしたいのは山々だ。

――23:57 E.クラウザー(クラウザー)

 この世界には、ひとつの方法でしか通い得ない義というものがある。義とは、互いに抱き合うものだ。決して一方通行ではないと私は思っている。観客がFAを愛することが彼らの我々への義ならば、我々がそれに応える方法はひとつしかない。レースを見せることだ。



「わかってるじゃないの」
「チーム代表などというものをやってますとね、いったい何枚マスクをつけて話せばいいのか、私も時々わからなくなりますよ」
「なるもんじゃないわ」
「誰かがやることですから」



――00:01 E.クラウザー(クラウザー)

 だが、それだけで今日のFAは語りきれないではないか。
 メーカーチームはいい。潤沢な財源と揺ぎ無い情熱の源が同じだからな。しかし我々プライベーターは違う。私たちがどんなにレースを愛していても、スポンサーにとっては広告契約なのだ。まして今のFAで、我々のように下位を走らざるを得ないチームはテレビ映りも悪い。金がなくては、速く走れない時代になってしまったからだ。
 そういうFAにしてしまったのは、決して誰か一人、或いは一チームではあるまい。

――00:04 F.バール(クロトフ)

 FA全体の問題だよ、それは。いずれ解決しなければならないだろう。



 他にも多くの関係者が、クラウザー氏ほどに切実ではないけれども、FAの抱える問題を憂う内容の発言をしていた。それは明人を少しだけほっとさせたが、同時に出口のない迷路に迷い込んでいるような気がして、息が詰まりそうだった。
 決して彼が悪いわけではないのに、責められているかのようなクラウザー氏を、明人は少し可哀相に思った。



――00:45 C.プロスペクター(ネルガル)

 棄権は可能でしょう。もちろん罰金も課されないはずです。なぜかというと、ここイタリアの法律が、危険だと判断されるレースには出場しなくても良いと言っているからです。我々の切り札としては、十分に機能してくれるでしょう。ですが私は、ぜひとも皆さんと一緒にレースをしたい。同時に、皆さんと手を取り合ってFAを本来あるべき姿に戻したいと思っています。


――00:48 J.トレド(カヴァーリ)

 全ての人々が望むことだ。レースは我々の存在意義に他ならない。思い出そう、我々がいま、ここで何をしているのかを。私は……いや、我々カヴァーリは、プロスペクター君の提案に賛成する。


――00:49 E.オリヴェイラ(ローラン)
        J.シュニッツァー(クロトフ)
        A.フォイド(AR)

 賛同。

 そこに記されている時刻を見れば、明人がまさしくドレスデンのビアガーデンにいた間にも、彼らは議論を続けていたのである。
 そしてプロスペクターが提案した「勝算のある賭け」に、プライベーターはメーカー系チームが賛成することを条件に賛同し、当のメーカーチームも内輪の緊急会議を開くことを約束して、一旦閉幕。事態が解決を見たのは、実に決勝当日の朝、明人とエリナがヘリコプターでモンツァに戻る、ほんの一時間前だったというのだ。

 北斗の発言は、どこを探してもなかった。ハリもそうだ。結局明人も4チーム側のドライバーに話を持ちかけることはなかったが、ナオたち12人のドライバーがタイヤ変更無しなら棄権すると宣言したことで、たぶん彼らも覚悟はついていただろう。例え八人だけで走ったとしても、すぐに忘れたいレースになったろうことは、明白だった。

「……よかった。よかったよ」
 明人は両手で顔を拭うようにして、呻いた。この一両日に滲んだ疲れが、それで幾分か洗い流されたように思えた。
 プロスペクターが、そんな明人を見ながら微笑む。
「明人君、あなたは『僕たちはいったい、何をしているんだ』と仰いましたね。まあ、私も含めFAという政治劇に生きる古狸というのは、たとえその言葉に目を覚まさせられたとしても、顔には出さないものですが……貴方の言葉に、助けられましたよ」
 相変わらずの落ち着いた口振りで話しながら微笑む彼に、明人は苦笑した。
 あれは、たしかにそういういやみを込めて言ってしまったのだけど、後から思えば随分と生意気な発言だったと反省していたのだ。
 そんな明人の笑みに気付いたのだろうか。エリナは横で、どちらに同意するともとれない笑みを明人に見せ、小さく頷いた。
「そういえば、矢神君……いや、アウフレヒト君が、ピアノを披露してくれましたよ。会義の合間の休憩時間にね。意外でしたが、それでまた落ち着きを取り戻すことができました。なかなか、様になっていましたよ」
「ナ、ナオが………ピアノ?」
 これには明人も呆ける以外になかった。一瞬ではあったが、ジロのことも忘れかけたほどだ。名家というのは教養高いという噂は本当だったのだろうか。つまりはそのピアノも、花嫁ならぬ花婿修行の一環だったということか。
「……彼も、大変なのね……」
「そう………なのかなぁ…?」
 今度こそ明人とエリナは顔を見合わせ、呟きあう。苦笑いするナオの顔が思い浮かんだ。




 臨時のフリー走行は目的どおりに進み、午後である。予選の結果は有効だったので明人のポールポジションは変わらなかったが、今度は全てのチームが万全の体勢でレース開始を待っていた。
『いい、明人君』
 フォーメーションラップの開始まで、あと十分である。コクピットに納まった明人のレーシングスーツの左腕には、黒い喪章が縫い付けられていた。
『残りは3戦。今現在、北斗が2ポイントのリードよ。正直に言って、貴方の敵は彼女だけだわ。彼女にとってもまた、敵は貴方だけよ。貴方が優勝すれば、彼女は2位に入る。貴方が2位に甘んじれば、彼女は必ず優勝するでしょう』
 つまり明人にはもはや、優勝するしかチャンピオンへの道は残されていない。彼女が言うのは、そういうことである。
 目の前にいるのにインターコムを使うのは、奇妙な感覚だ。だが、彼女の息遣いまで聞こえるそれは、明人を安心させた。
 ふとエリナが、レース直前の緊張した場では決して見せないような、優しい顔をした。
『プロスペクターの言ったとおりよ、明人君』
「えっ?」
 普段の彼女なら、こんな時に明人の心を惑わすようなことは決して言わない。しかしいま目の前にいる彼女は、明人がいつもコクピットの中から確かめる彼女ではなかった。
 彼女は無線のマイクを手で覆い隠すと、その口を明人のヘルメットの横に近づけた。
「貴方の一言が、皆をほんの少しだけ動かしたの。それだけでこのレースは、全てのファンに誇れるレースになるのよ」
「………そんな大層なことは言ってないよ」
 もちろん明人は、本心からそう思っていた。自分の一言が、遥かに経験豊富なチーム代表たちを動かすなどと。
 だがエリナは、微笑んで「いいえ」と首を振る。
「貴方の言葉が、あそこにいた皆の本心だったのよ。利益や権力、名声に惑わされなかった貴方の言葉だけが、分っていながら立場がそれを許さない彼らの心を揺さぶったの。助けられたのは、FAそのものよ。ありがとう、明人君」
 観客の声や時折のアナウンスでざわめいているグリッド上なのに、明人には彼女の言葉が妙にはっきりと聞こえた。彼女も大声で叫んでいたわけではないのに、それは明人の耳を潤すかのように優しく、聞き取れたのである。
「………皆がそう思っていたのなら、やっぱり僕は何もしていないよ」
 言うと、エリナは苦笑した。

 彼女はいつものレース・マネージャーに戻ってマイクから手を離すと、今度は無線を使ってはっきりと告げた。
『明人君、貴方は強い人だわ。このレース、どんな結果になっても、だれも何も言わないでしょう。でも、これだけは言わせて。――私は、いつでも貴方を信じているわ』
「……エリナ」
 明人は狭いコクピットの中から手を出し、掲げる。エリナはそれを抱き締めようとするかのように、しっかりと握り返してくれた。明人はそのとき、彼女の本質にほんの少しだけジロの面影を見たのである。
『良いレースを、明人君』
「ありがとう、エリナ」
 鹿皮のグローブを通して感じる彼女の手は、温かかった。


 フロント・ローは明人と北斗。セカンド・ローは赤月、そしてハリ。トップ4をネルガルとカヴァーリが埋めたのは、今シーズン何度目だろうか。
 しかしここモンツァでは、13万の観客のほとんどは――いや、もはや全員が、カヴァーリを応援していた。グランドスタンドはカヴァーリのマシンと同じ、真っ赤に染まっている。こんなところにネルガルのファンが一人でも混じっていたら、袋叩きにされてしまうかも知れない。
 レッドシグナルが5個、点灯した。そこからブラック・アウトまで1秒から2秒。グリッド上が全てのマシンのエキゾーストに覆われ、熱い排気の陽炎が吹き上がった。その瞬間に、身体中を駆け巡るアドレナリンが一気に脳内を満たす。
 シグナルが消え、10チーム20台、全てのマシンが一斉に飛び出した。

 第1コーナーはシケインである。ほとんど折り返すような急コーナーに、明人はいの一番に飛び込んだ。
 ハンドルを切り返しながら、一瞬ミラーを見た。そこには2台の赤いマシンが、襲いかからんばかりに接近して追撃してくるのが見える。赤月はスタートでかわされたのか。
『明人君、ポジション・ワン、トップよ。2位は北斗。以下ハリ、赤月君の順』
 明人の駆るネルガルNF211はすぐさま時速300キロを超え、減速の必要がない高速右コーナーに入った。再びミラーで見ると、北斗のマシンは0.5秒ほど後方にいる。驚いたのは、ハリが北斗から全く離されていないことだ。
 二つ目のシケインを抜け、連続の右コーナーから再び直線である。長い直線に出る度にNF211は最高速度を叩き出し、このトラックが長らく世界最速サーキットに君臨してきたことを実感させた。
 三つ目のシケインを抜けるとまた直線があって、最終コーナー『パラボリカ』だ。90キロもの踏力を必要とするブレーキを文字通り蹴飛ばして、明人はそこに飛び込んだ。

 モンツァでは、カヴァーリが強い。それはどのシーズンでも言われ、確かに彼らはそんなジンクスを定着させてしまうほど、そこで勝ち続けた。しかし不思議なことに、明人は今、後ろにいる赤い2台のマシンに抜かれるという不安を、抱かなかった。
 レースはあっという間に三分の二が過ぎ、最後のピットインを終えても、明人は二番手の北斗に4秒の差をつけて走っていた。その差は、縮まらなかったのである。

 明人は、無心に走り続けた。ともかくファステスト・ラップを更新しようとした、かつての日本GPでの心境に近い。ほかの事は何も考えず、アタックすることだけに全霊を傾けたのである。
 後ろのマシンとの間隔をミラーで測りはしたが、それはいつもに比べてひどく事務的で、北斗との差が少し変わっても、大きな感情の変化が起きなかった。それはたぶん、今回に限ってレースを欲している自分そのものが、いつもと違ったからだろう。
 時速360キロを超えたときの世界も、まるでモーターのようなエンジンの音も、そしてアクセルやブレーキを踏み、或いはハンドルを切った時に圧し掛かる強烈なGも。それはいつものFAと全く変わらなかった。
 そして、変わらぬ世界にいる自分が、明人は不思議だった。ジロはもう、いないのに。



 立ち止まろうというのではないのだ。父の死を克服したのと同じように、明人は今度も克服できるだろうと思っていた。何故ならそれが、父もジロも含めて、自分を生かしてくれた人々の望みだからだ。それらの人々のために、明人はいま、ただひたすらに走り続けた。
(見てるかい、ジロ)
 心の中でそう思ったが、それは同時に父に話しかけているようでもあった。
 だが明人が驚いたのは、そんな問いかけに返ってきたのが不意なイメージであったからだ。結局は自問なのだから自分の頭のどこかから返ってくるのだろうが、それがどこなのか分らない。
 まずは雪枝の姿が現れた。倒れる前の、元気な姿の母である。
 次にユリカが、そしてサラにアリサ、グラシスのハーテッド一家が現れる。意外なことに、その次はミナトだった。エリナとプロスペクターはほとんど同時。続いて瓜畑、九十九、オラン――。
 やっと明人は気付いた。それらの人々は、自分がこれまでの人生で出会った順に登場しているのである。
 まるで白昼夢――走馬灯だ。しかもレース中に、いったい自分は何を考えているのだろうかと明人は呆れたくなった。このレースは、ジロの弔い合戦なのに。
 だが明人は、もうひとつ違うことにも気付いたのである。縁起でもないそのテロップには、今現在生きている人間しかいない。父やジロは、いないのである。
(でも………)
 それなら、彼女はどこに?
 急に明人は恐ろしくなって、思い出そうとした。どうせそれらのイメージの出所は自分の頭の中なのだ。彼女とは実際に何度も顔をつき合わせて話をしているのだし、思い出せないはずがない。
 だというのに、彼女は出てこないのである。
(なぜ?)
 そう口にしようとしたが、声にならなかった。次第にそれまではっきりとしていた人達の輪郭もぼやけ、霧散してゆく。
 ちりぢりになってそれが消えてしまうと、明人の視界はいつもどおり、サーキットのそれに戻った。だが、音がない。そして、いつもとは少し違うことにその視界は、モンツァ・サーキットを走る明人を、その少し後ろから見下ろしていたのである。

 FAマシンのコクピットに納まってハンドルを回しているドライバーが自分だということは、すぐに分った。走っているのがモンツァ・サーキットであることも、まるで生まれる前から知っていたかのようにして分かる。
 ここでハンドルを切り込むのだ、と心で思うと、目の前にいる明人はその通りにハンドルを切った。アクセルやブレーキを踏むときも、同じだった。
 分からない、と直感した。これは理解できないことなのだ、と。
 このままではいけないという思いが急激に強くなる。だが、どうすればいいのかが分からなかった。夢が覚めるのと同じように突然元に戻るのかも知れないし、或いは元に戻らないのかも知れない。だが、それよりも何かのはずみで、自分と目の前の明人との繋がりが切れてしまったら?
 答えは簡単だ。時速400キロ近い速度で走っている最中に自分が自分をコントロールできなくなったら、死ぬ――。

 不安が恐怖になりかけたときだった。
 再び目の前に、人影が現れたのである。それは、父だった。
 久し振りに見る父の顔に、明人は懐かしさがこみ上げてきた。もちろん生身の彼を見たのは十二年前が最後で、あとは家に飾られている写真だけだ。目の前にいる父は、最後の日のように、明人に笑いかけていた。
 父の口が動いたような気がした。
 なんと言ったの、と聞き返そうとしたとたん、彼の隣にまた人が現れる。
 それが誰か、明人には一瞬わからなかった。レーシングスーツは、カヴァーリのそれである。腹に大きくあつらえたクリムゾンのスポンサーロゴも、今と変わっていない。
 父よりも少し背の高い彼は顎が細く、切れ長の鋭い眼差しで、不敵に笑っていた。その表情に、明人ははっとなった。
(……北辰……?)
 それは、レーサーとしての北辰の姿だった。
 なぜ、ほとんど顔も知らない北辰がこうもはっきりと夢に出てくるのか。不思議に思いながらも、明人は二人を見つめていた。

 父が、北辰に向かって何事か話しかける。その表情は楽しそうで、生前も彼はそんな風にしてライバルに向かい合っていたのかと、明人は妙に嬉しく思った。そして笑う時、必ず少しだけ首を傾げる、その仕草。それは、明人が親しい人みんなに言われた自分の癖でもあったのだ。
 一方の北辰はとくに相槌もせず、面倒くさそうな眼差しを父に向けただけだった。腕を組んで視線を変えず、ただ周りの喧騒は別世界であるかのように、高慢なほど悠然としてそこに立っている。そしてその佇まいが、明人のよく知る彼女にそっくりなのである。
 それを思ったとたん、明人は慌てて辺りを見回した。今なら見つけられるかも知れないと思ったのだった。

 果たしてそこには、明人の求めていた彼女の姿があった。いつもするように腕を組んで、涼しげなその横顔を認めたとたん、明人は言いようのない安堵感に包まれたのである。
(北斗)
 今度こそ声を出したと思ったが、やはり自分の口はその言葉どおりに動くだけで声は発さなかった。だが、それでも良かった。彼女が振り向いたからだ。
 北斗はにやりと強気な笑みを浮かべた。もう見慣れている、明人の大好きな彼女の表情である。彼女は父親を嫌いだと言ったが、その表情の作り方はいま明人の見た北辰にそっくりだった。そして今やそれこそが彼女で、そんな彼女を、明人は好きになっていたのである。
『天河明人、お前は史上最年少のワールド・チャンピオンになるのだろう?』
 いつ聞いた言葉だったろうか。その自信に満ち溢れた声を耳にしたときから、もしかすると明人は、彼女に惹かれていたのかもしれない。
 そして自分は、なんと答えた?
(………ああ、もちろん)
『では俺はお前よりも先に、お前が二度と塗り替えられない記録をつくるとしよう』
 そう言ったきり、父と北辰、それに北斗の姿はかき消えた。
 だが、明人はまだふわふわとした空間を抜けることができず、モンツァ・サーキットを走る明人の後ろに、浮かんでいるのである。

 いったいどうしたらいいと言うのだ。自分は、彼女を追いかけたいのに。いや、彼女とともに走りたいのに。これが夢ならさっさと覚めて欲しいとすら思った。
 そんな時である。すぐ横から、よく知った声が聞こえた。
「へぇ、あいつが北斗か。そういえば間近で見るのは初めてだったな」
「ジロ!」
 いつの間にか横に立っていたのは、ジロである。見覚えのあるレーシングスーツは、彼がエースドライバーとして最期まで走り続けたチームのものだ。
 明人はやっとのことでジロを見つけたが、しかし言葉が出てこなかった。それを見透かしたかのように、ジロはふふんと笑う。
「明人、おまえは、死んだやつに構ってる暇なんかねえだろ。俺のことは、さっさと忘れろ」
「そんなこと、できるもんか!」
 明人がとっさに言い返すと、ジロの笑みは苦笑いに変わった。
「じゃあ聞くぜ。おまえはさっき、何を見たんだ?」
「それは………みんなを」
「それで、探していたのは誰だ?」
「……………………」
 君を、と言いかけて明人は口を噤んだ。最初はたしかに彼を探していたが、最後は違った。明人が探していたのは、遥かずっと先を見据える鷹のように鋭いとび色の瞳と、その闘志を秘めて輝く鮮やかな朱色の髪だったのだ。
「だろ?」
 ジロはそう言って明人の肩に手を置く。
 分かってはいるのである。レーサーとはそういう稼業なのだ、と。
 どんなに安全技術が進歩しても、自ら進んで危険な行為を繰り返している。死ぬ危険がないくらい安全に走って一番速いのなら話は簡単だが、残念ながらレーシングカーは、コントロール不能になる寸前の際どいところで最も速い。
 モータースポーツは、スピードを競っている。そしてスピードというものは、上に行けば行くほど更なる代償を要求する。それは、惨たらしい死と隣り合わせの、破滅の美学なのだ。
(でもそれなら、それが自分の見定めた己の道なら、それに生きるしかないじゃないか)
 日がな一日、オフィスのモニターと睨めっこするよりは少しばかり命の危険を伴うけれど、それも自分が選んだ仕事だ。町で仕事をしている人たちと、何一つ変わらない。自分たちもまた、自分たちの仕事をしているだけなのだ。
 ただ、仕事と言い切るにはあまりにエゴが強いけれども――。
「気にすんな。お前はしっかり前を見てるさ。俺はちょっとばかりミスしておじゃんになっちまったが、お前はちゃんとやれよ。天辺に立て」
「………わかったよ」
 明人が答えると、ジロはまた苦笑する。明人には、その笑みの意味するところがわかった。
 彼はいつもそうだ。自分のことに関しては猪突猛進なくせに、他人についてはどこまでも思慮深い。決して答えを教えはせず、明人が自分で気付くのを見守っていてくれた。
 彼は今また、これからもそうやって見守っていてやると言っているのである。
「……ありがとう、ジロ」
「馬鹿、礼を言うのはまだ早いぜ。まずはここで勝て。勝って、もはや親友の死すらもお前を止められないってことを、周りに見せ付けてやれ」
 北斗とは違う強さが、彼のそれだ。勝てと言うが、彼のそれはレースに勝つということではなくて、己に勝てと言っているのである。
 北斗が同じことを言ったら、それはレースも含めて全てに勝てということになるだろう。そういう意味では、彼女は正に鋼のような精神の持ち主である。だが、それだけに全てが支えられるわけではないのも人間なのだ。
「………死んだ本人が言うなよ……」
 呆れてぼやく明人の背を、ジロはいつものようにがっはっはと笑ってバンバン叩く。
 そんな彼に、明人は支えられてきた。北斗やエリナ、そして母にも。それなら、その分を自分も彼らに返さねばなるまい。自分にもこうして面と向かって出せない辛さがあるように、彼らにもそれが無いはずはない。それを支えてやらねばならない。それにはまず、自分が他人を支えられるだけの人間であることを、他人にも、自分にも証明しなければならないと、明人は思った。
「ありがとう、ジロ」
 もう一度、明人は言った。
 悲しみが拭われたわけではないのだ。今は夢の中でこうして笑えても、現実に戻って彼がもう二度とそうして笑い合うことのできない存在だと思い出せば、また悲しむだろう。
 でも、ジロはそれを望まない。明人だって、自分にはそうして思い悩む時間などないことを、知っている。
 まだ、決着はついていないのだ。

 ふいにジロが、明人の肩に腕を回した。また何か冗談を言うのかと思っていたら、聞こえてきたのは真面目な声である。
「あいつを大切にしろよ、明人」
「……誰?」
「あの女さ。そうだろ、俺が死んで悲しんでたお前が、考えた末に求めたのはあいつだ。北斗ってお前のライバルが、レーサーの天河明人を生かした。いくらレースをしてたって、そんなやつぁ、そうそう現れないぜ」
 その通りだった。それを明人は分かっていたが、自分ではない他の人間の言葉で――例えそれが自分の夢の中であっても――確かめられたことが、嬉しかった。
 今、明人の中で彼女ほどに大きな存在は、もはやなかった。
「どうせなら明人の花婿姿も見てみたかったけどな。花嫁は、やっぱりあいつか?」
「な、何言ってんだよ!」
 にやにやしながら腕に力を入れて羽交い絞めにするジロを、明人はびっくりして引き剥がす。するとジロはまたハハハッと笑って、まるで煙に巻かれるようにすうっと消えていったのである。
「ジロ………」

 そう呟いた瞬間、明人はコクピットの中にいた。風を切る音がどうどうとヘルメットの中にこだまし、エンジンが猛烈な勢いで回転する音が背後から聞こえる。
 夢が、現実に戻ろうとしていた。
『パラボリカ』を立ち上がり、ホームストレート。真っ赤に燃えるグランドスタンドが見える。もしやその中にジロの姿もあるのではないかと、明人は思った。
 もちろんあるはずがない。彼はもう、この世にはいないのだ。しかし今、明人は彼と話した。彼はいつもと変わらず、「勝て」と言ったのである。
 ふとコントロールタワーの脇を見ると、白と黒のチェッカーフラッグが競技長の手で大きく掲げられているのが見えた。それが一体誰に振られるものなのか、明人には一瞬分らなかったのである。それは、自分が今までどうやってここまで走ってきたのか分らないのと、一緒だった。
 明人がコントロールラインを通り過ぎようとした正にその時、チェッカーフラッグが翻った。それは紛れもなく、明人に向かって振られていたのだ。
 とたんに大歓声が明人の耳に戻ってきた。
『おめでとう、明人君! ピー・ワン、ポジション・ワン。優勝よ。おめでとう』
 耳元で、エリナの声がする。どこか涙が混じっているように聞こえるのは、気のせいだろうか。
 その声に、明人は小さな何かが吹っ切れたのを感じた。
「……ありがとう、エリナ」
 不思議な感覚だった。自分の声が、まるでエコーのようにどこか遠くから聞こえたような気がしたのである。しかし明人は、それが勝者の雄叫びを観客に届けようとした場内アナウンスの仕業とは、気付かなかった。
 そして観客達も、或いはライバルチームのスタッフ達も、聞こえてきたそれが歓喜の声でないことに驚いたかも知れない。
 明人の声は、熱狂するスタンドとは裏腹に、涙声になっていた。
「ありがとう、みんな」
 そのとき、明人の言葉は、モンツァ・サーキットを訪れた全ての人々の耳に届いていたのだ。










to be continued...


長っ。

それにしても、明人はやっぱり明人でした。(笑)

 

 

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代理人の感想

エリナ、報われません。(爆)

結局イベントは一過性で最後には完全スルーされてるっていうかガイと北斗に完全に食われてるし・・・・

そう言う星の元に生まれちゃったのかなぁ。(苦笑)