FLAT OUT

(35)






 触媒を通さない直の排気の臭いが漂っていた。FAマシンに限るなら、それはエンジンを始動した直後の臭いである。燃焼室内で燃え切らなかったガスが、そのまま排気管から出て来るのだ。しかし少しも経てば、それもおさまった。極限のパワーを求めたエンジンは、一度目覚めれば貪欲に餌を求め、それを食い尽くしてしまうのだった。
 ピットロードの上には、夏の残り火のように淡い陽炎が立っている。白い陽光を反射して、きらきらと世界を照らし出していた。それは同時に、そこを歩く人々の情熱でもあるのだろう。
 ここを訪れるのは何度目だろうかと、明人は思った。最初は、もう憶えていない。しかしそれから数回と経ず、明人はそこから遠ざかった。あまりに痛々しい思い出が出来てしまったからだ。
 そして再びこの地を踏んだのは、四年前のこと。去年はFAのデビュー戦で、カレンダーの都合から初春のことだったが、他はいつも同じ季節だった。
 春に芽吹き、初夏には眩しい新緑、夏には涼しい木陰と爽やかな木漏れ日を提供し、そして秋には役目を終え散ってゆく。そのサイクルの最後の段階に近付きつつあるのだろう。はらはらと枯れ葉を落とす木々が、コースの上に覆いかぶさっていた。
 ああ、秋なのだ、と明人は思った。

 秋口のイモラ・サーキットは、空気は涼しいのだけれども、その週末に限っては周囲を行く人々の真剣な眼差しに熱気さえ感じる。しかし明人は、まるで熱帯のジャングルにいるかのようなそれに、違和感を覚えていた。
 ピットロードを歩く人々の顔がにじんで、分からない。FAも二年目となると、ドライバーはもちろん各チームの主だったスタッフとも顔馴染みくらいにはなる。だがそこには、見知った顔が一人もいないような気がした。
『どうした、明人』
 明人は驚いて振り返った。その声は、いまどんなに聞きたいと思っても、決して聞くことのできない声だったからだ。
 振り向いた先でいつもの優しい笑顔を浮かべていたのは、十二年前にこの世を去った父――天河治己だった。
『どうした、明人。元気がないなぁ』
 そう言って治己は、明人の頭に手を乗せた。
 明人は、言葉が出てこなかった。父が目の前にいるのである。今思えば、彼が生きていた頃、明人が十歳になるまでは、明人は幸せに包まれて生活していた。そして彼がこの世を去った後、いくらジロのおかげで持ち直したとは言っても、父親のいる友人たちを羨まないことはなかったのだ。
『どうもしないよ。お父さんこそ、元気ないよ』
 明人は再び驚いた。自分の口が勝手に喋ったのだ。
『父さんか。父さんも大丈夫さ。今日は勝たないとなぁ』
『でもここでは、ホクシンさんが強いんでしょ?』
『そうさ。彼のホームコースだからね』
 自分を無視するかのように、会話は弾む。明人の気持ちなどまるで関係なく、口はひとりでに言葉を紡いだ。いや、もはや喋っている感覚もなかった。
 治己もまた、目の前の明人の中にいる、もう一人の明人に気付いていなかった。彼が話しているのは、二十二年の記憶を持った明人ではなくて、十年しか生きていない幼い明人なのだ。
 明人は、これが昔よく見た夢であることに気付いた。
『でも、やってみなきゃあ分からないさ。白鳥のおじさんも護ってくれるだろう』
『……白鳥のおじさん』
 おぼろげながらに憶えている、FA全体での黙祷。しかし明人は、その二日前に急去した白鳥元治の顔を、鮮明に思い出せないのだ。何度も顔を合わせているというのに。九十九の父親だというのに。
 フォーメーション・ラップが開始される直前、明人は最初の数周だけという約束で、チーム指揮所横のピットウォールからレースを見ることを許してもらった。ちょうど目の前が父のグリッド――ポール・ポジションである――で、高いウォールの上に顔だけを出して観る明人に、治己はコクピットの中から手を振ってくれた。

――いやだ。

 そんな思いがとつぜん胸の底から溢れ、息ができなくなった。しかし明人は動けずに、ピットウォールに張り付いて父親の姿を見ている。それが父の最後の笑顔だということを、知っていながら。

――父さんは知らないんだ。これから大事故が起きることを。そして父さんは……。

 声を出したかった。なんとかして止めたかったのだ。
 もう二度と会えないことは、とっくに分っている。だが目の前にそうして立たれれば、激情は止まるところを知らなかった。何よりも自分のFAでの初優勝を、その頃になれば引退していたであろう、彼に見せてあげたかった。
 しかし、依然として明人の口は開かなかった。開くことができなかったのだ。そして治己のマシンは、タイヤから白い煙をまき散らすようにして、フォーメーション・ラップに出て行ったのである。

 視界が一転した。十歳の明人が、ガレージにいる母親を振り返ったのだ。十二歳若い雪枝が、しっかりと自分の足で立って、にっこりと笑いながら手を振っていた。
 それから、辺りを見回したのだろうか。記憶に残ってはいないが、そのように視界が動いているのだから、そうなのかも知れない。だが、それならばもしやと明人は思った。そして、予感は的中したのだった。

 十二年前のことである。彼女は九歳だったそうだ。今よりも大きく見えるとび色の瞳が、一瞬、明人を捉えた。
 知っていることの、なんと辛いことだろうか。明人はこの世界でただ一人、これから何が起こるか知っている。そして目の前にいる人々は皆、知らないのだ。十歳の明人と、九歳の北斗を襲うであろう恐怖。雪枝の目に飛び込んでくるであろう悲劇。もしかしたら、その瞬間ほんとうにグランドスタンドはしんと静まり返ったのかも知れない。だが明人は、それを教えてやることもできないのだった。
 レースがスタートしたのは、午後二時三分頃だったろうか。木漏れ日の落ちるイモラのストレートを、第1コーナー『タンブレロ』に向かって全車が加速してゆく。マシンの腹が路面に擦られ、あちこちで大きな火花が舞い上がった。
 明人は何もできず、ただ彼らがオープニング・ラップを走って帰ってくるのを待つことしかできない。帰ってきて欲しくないという思いと、自分の元へこそ帰ってきて欲しいという思い。しかしそれは両方とも、叶わぬ願いなのだ。
 そして二台がホームストレートに戻ってきた。そう、早くも彼らは3番手以降を引き離し始めていたのである。明人の目の前で、北辰の真っ赤なマシンが治己の横に出た。二台の後尾から立て続けに火花が散る。恐ろしい速度で彼らは、『タンブレロ』に飛び込んでゆく。
 その瞬間、明人の視界は突如として速度を失い、スローモーションのようになった。コース上に覆いかぶさる木々のせいで暗いはずなのに、白い光に包まれるようにして二台の後姿が遠のいてゆく。最後のメッセージを残すかのように、再び火花がぱっと散った。そして明人の視野は真っ白になり、消えたのだ。



 ゴウゴウいう唸るような音に、明人は目を覚ました。だが、本当にそれが夢でなくなったのかどうか、定かでない。相変わらず視界は色がにじんで、物事の輪郭ははっきりしているのだが、ぼやけてもいるのである。
 明人は眼前に広がる空間をじっと見つめていた。青白い水平線。それが時おり黒っぽい影に遮られるように、暗くなる。その影とは、プロペラだった。
 明人の目が、高度計を見た。千フィートである。次いで方位計を見た。真西を向いている。速度計。120ノット。
 これは、初めてのソロだろうか。異様な胸の高まりは、それくらいしか思い当たらない。それにしても、やはり夢の中であるのだと、明人はぼんやり考えていた。むしろ、これまで父がコースの向こうへと消えて行くところで終わっていた、この夢にこんな続きがあったことに、驚いていた。
 操縦輪を握る手は、じっとりと汗ばんでいる。たしかこの時点での飛行時間は、40時間ほどだった。もう少し落ち着いていたと自分では思っていたが、腕は妙に強張っているし、ラダー・ペダルを踏む足もぎこちない動きだ。
 しかし、心は歓喜に震えている。隣の席に、教官はいない。左下を見下ろすと、たった今飛び立ってきた滑走路が平行してのびていた。それにこぢんまりとくっついている駐機場に、グラシスもいるはずだ。よく目を凝らすと、案の定、何人かの野次馬の真ん中で彼が仁王立ちしているのが見えた。
 最初の単独飛行に出た時の感動は、今でも忘れることはない。同じ飛行クラブの友人は、歓喜のあまり叫んだと言っていた。明人も叫びたい衝動はあったが、喉がひっくり返って声が出なかったのを憶えている。

 そのときだった。突然エンジンの音が消えた。
 おかしい、こんなことがあったろうか――明人は思った。
 エンジン停止は、飛行中に起きるトラブルとしては最悪に近い。空軍で長らくパイロットをしていたグラシスに言わせればそんなものは序の口なのかも知れないが、いまやっと飛行時間が300時間を越えようとしている明人にとっては、まして単独飛行のときの40時間ほどしか飛行していない明人にとっては、一大事である。
 慌てて飛行諸元を確認し、事前に打ち合わせていた不時着場を探す。エンジンの再始動も試みなければならないが、もしかからなかったら滑空での不時着しかない。高度は千フィート。その場に停止して冷静になる時間があればいいのに、自動車と違って飛行機は、停まったら落っこちてしまうのだ。
 しかし明人は、ふと妙なことに気付いた。妙と言えば、夢の中はいつも妙である。そしてそれは、このときも同じだった。
 エンジンの音はしない、機体が風を切る音だけがヒュウヒュウと聞こえるのだが、計器を見ればエンジンはしっかりと回っているのだ。回転計も、油圧計も、排気温度計も。FAにはない計器ばかりだが、丸いガラスの中の黒い板に書かれた文字を、白い針は正常に差しているのである。

 明人は、モンツァの白昼夢を思い出した。レース中に夢を見るなど、常識的に考えて在り得ない事だった。その間、いったい誰がマシンを運転していたのだろう。だが、明人はそれを体験した。
 再び陥った不思議な世界に、明人が考えていた時である。突如として声がした。
(いい眺めだ)
 優しい声だ。だがそれは明人の頭の中にぼんやりと聞こえただけで、実際に耳がそれを捉えたのかどうか定かではない。それでも明人は、その声が聞こえた方――右側の席を、振り返った。
(父さん!)
 それもちゃんと言葉になったのだろうか。口は動いたが、それが声となって自分の耳に届いたようには感じなかった。
(ふむ、あれは北海かな。明人、あの町はどこだい)
(あれは……ノーウィッチの町だよ。あっちがグレートヤーマス)
 あまりにも自然と、父がそこにいるものだから、明人まで拍子抜けしてしまった。昔、父親と一緒に暮らしていた頃の自分が、今の自分に乗り移ったかのような不思議な感情だった。
(グレートヤーマス。そうだ、九十九君は元気かね)
(元気だよ。ミナトさんと結婚したんだ)
 明人が答えると、それまでシートから身を乗り出すようにして窓の外を眺めていた治己は、やっと明人を振り向いた。その変わりばえのしない優しげな表情に、明人は思わず涙がこみ上げてきたのである。
(ふむ? 誰だね)
(僕のカート時代の先輩だよ)
(カート? ジュニア・カートか)
(いや、違うよ。………父さんがいなくなってから――十四歳の時、またカートを始めたんだ。その時に会ったんだよ)
 視線を逸らせずにそれを告げることは、明人にはできなかった。言葉だけとは言え、父の死を何度も口に上げたくなかったし、また父が明人の将来を心配していたことも知っていたからだ。
(そうか、明人はFAに乗っているんだな)
(………うん、そうだよ)
 再び視線を戻すと、治己はとくに悲しげな表情を見せるでもなく、シートに座って前を見つめていた。
 時間の概念が無くなってしまったかのような感覚である。頭上の雲が地上から見上げるよりも近く、手が届きそうだ。だが今は、明人自身がその雲の一部になってしまったかのようだった。
(スパは走ったかい)
 治己が明人を見て言った。口元には、いつもの優しい笑みがある。
(スパって、スパ・フランコルシャン?)
(ああ、そうだ。『オー・ルージュ』のあるスパだよ)
(もちろん、走ったよ。去年の第17戦で――)
 明人がスパ・フランコルシャン・サーキットを走ったのは、FAでのそれが最初だ。いきなり世界最高のマシンで走ったものだから、その印象は鮮烈だった。
(それで、どうだったね)
 治己は興味深げに明人の顔を覗き込み、尋ねてくる。
(……楽しいサーキットだよ。レースが終わっても、まだ走り足りないくらいだった)
 奇妙な童心が、感情に反して明人に笑みをつくらせた。心のどこかで、父とまたこうしてレースの話をしたかったのかも知れない。すると治己もまた一層笑みを深めて、シートに引っ込む。「そうか」と呟きながら、少しだけ寂しげに笑うのである。
(昔ね、先輩にこう言われた。『息子がレースをやりたがっているのなら、スパに連れて行きなさい。そうすれば、彼は諦めるだろう』と)
 スパは難しいサーキットだ。レーシングカーでなくとも、サーキットという特殊な場所をきっちりと限界まで攻めて走ったことのある者なら、見ただけでそれが難易度の高いコースであることを悟るだろう。
 だが、明人は――。
(明人、私はお前をスパに連れて行けなかったね)
 再び悲しみがこみあげてきて、明人は俯いた。そこが乗りなれたセスナの操縦席であることは、もう忘れていたのである。
 父の言うとおり、明人が彼とともにベルギーを訪れる機会は、結局なかった。
 十一年が経ち、明人は、もちろんネルガルのセカンド・ドライバーとしてそこを走らなければならないという義務感もあったのだけど、自ら走りたいという思いのままに、走った。そして、勝ったのである。
(父さんは、僕がレーサーになったことを悲しむ?)
 明人の口から、墓碑の前でいつも心のうちに尋ねていた言葉が出た。
(いや)
(本当に?)
 今度は明人が父の顔を窺うように、身を乗り出した。すると治己は、かつて十歳の明人にそうしたように、ぽんとその頭に手を置いたのである。父の手は、いつまで経っても大きいままだった。
(本当さ。息子が自分の生きる道を見つけたというのに、それを悲しむ父親がどこにいる。たしかに心配はしているよ。レーサーというのは、危険な仕事だ。一瞬の判断ミスが死を招く。私のように)
 明人は思わず口を開きそうになったが、治己がそれを制した。
(先輩はこうも言った。『スパを見て、それでも諦めないのなら、或いは走りたいと言い出す始末なら、やりたいようにやらせてみなさい。そうすればその子は、偉大なレーサーになれるだろうから』――。明人、お前は偉大なレーサーになりたいかい)
(…………………)
 明人は無言で首を振った。それを確かめると、父は優しく微笑んで言うのである。
(私が思うに、偉大なレーサーというのは、とくに速いドライバーのことではない。幾多の記録を成し遂げた者でもない。わかるかい、明人。偉大なレーサーというのは、レーサーでありながらレーサーでない目を持った人間のことだ。レーサーとしてレースをし、レースをして生きながら、観客として、チーム代表として、時にはモータースポーツそのものに反対する人々の目でもって、人類におけるこのフォーミュラ・アーツを見ることのできる人間だ。そしてまた、そこにある全ての正否を見極められる人間のことだよ)
 それを話す父親がまるで別人のようだと、明人は思った。
(全ての正否を見極める……)
(難しいことだ。何をもって正否とするのか、それはとても難しい。FAなどという小さな器ではない。人という種として、この世界における我々の正否を見極めなければならない)
 その意味するところを、明人はすぐに悟った。
 FAとは、そもそもが人の情熱の化身である。それにビジネスが割り込んで、現在では不安定な存在になりつつあるが、現場で闘っている人間達の本心は誰しも同じだ。しかしそれは、人類の文明にどれほど必要とされる存在なのか。あるいは地球上に生きとし生きる種の者として、己の欲望だけを頼りに生きる自分達は、どれほど必要とされているというのか。
 それは、とても答えの出せるような命題ではなかった。それどころか、もしそれに答えを出せる存在があるのなら、それは人間ではないだろう。明人はそうも思ったのである。
(……もしそんな目を持った人がいるなら、その人は孤独だよ)
 明人が答えると、治己は満足そうに微笑んだ。
(その通りだ。曇りのない全き自我というのは、本来孤独なものだよ。そして孤独というのは、人が生きる上で決して幸せなことではない。寂しいだろう? 人は感情の生き物だ。そして、それで良い。どうもFAには、理屈で感情を煽ることが理性だと考えている人間が多いけどもね。明人、人は人に愛されて生きるべきであって、そうしたら今度は自分が受けたそれを次の人に受け渡していかなくてはならない。それには、孤独であってはならないんだ)
 だから、偉大な人間になる必要なんかない。それは父が明人に教えたいのではなく、むしろ願っていることのようだった。その顔は、遥か昔いつも見たように優しく、じっと明人の目を見つめていた。
 しかしそれならば明人は、頷いて返すことができる。エリナや赤月、プロスペクター……そんなたくさんの人々に囲まれて、明人は幸せな人生を送っているのだから。
(明人、明人は自分の信じる道を進みなさい。明人なら、正しい道がしっかりと見えているはずだ。あの事故の真相も大事だけど、今の明人にはもっと大事なものがあるだろう。本当に大切にしたいのなら、包み込むだけではだめだ。彼女を信じなさい。少しくらい手を引っ張ったって、彼女は壊れはしない。彼女と一緒に、自分達の世界を護りなさい)
 明人は驚いて父親を見た。すると彼は、悪戯っぽく微笑んで「父さんは何でもお見通しさ」とおどけるのである。
 とたんにまた涙が溢れてきそうになって、明人はなんとかそれを笑みでごまかした。
(でも僕は、あの時なにがあったのか、知りたいよ)
 それはただ、僅か十年しか一緒に暮らすことのできなかった父親を、もっとよく知りたいという思いだった。父さんはどんな人だったかと聞かれて、ちゃんと答えられない自分が情けなくて仕方がなかったのだ。
 治己は笑って、また明人の頭をぽんぽんと叩いた。
(それは彼が話してくれるだろう。死んだ人間よりも、生きている人間に聞く方がいい。彼は、誰よりも私をわかっていた)
(北辰さんが?)
(そうだ。一人のレーサーのことを最もよく知っているのは、最も激しくぶつかりあったライバルだけだ。もし自分にとってそんなライバルが誰かと訊かれたら、私は迷わず彼と答えただろう)
 それを聞き、明人は自分がほっとしているのがわかった。
 もしそうではなくて、北辰と治己がプライベートでも対立していたとしたら、どうなっていただろう。そうしたらたぶん、明人は今でも北辰を許していなかったろうし、北斗に対しても似たような感情を抱いていたに違いない。そんなことは、もはや考えたくもなかった。
 明人が思っていた通り、いや、今となっては願っていた通りに、父は北辰を恨んでなどいなかった。それだけで明人は、胸のつっかえがとれたように思えたのだった。
(なんだい、明人。そんなに意外だったかね)
(いや、そうじゃないけど………。なんだか、ほっとしたよ)
(ふむ、そうかい)
 ほんの少しでも明人の表情が変わったことに、さすが父親は気付いたようだった。彼はじっと明人を見つめ、目を細めて微笑んだ。
(明人、お前は優しい)
 なんのことだろうと明人は思ったが、思い至ることはできなかった。なんだか急に眠気が襲ってきて、それと戦っていたからである。
(その優しさが、明人を速くするだろう。私たちの戦いに必要なのは敬意だよ。敵意ではない。私たちは、殺し合いをしているのではないのだからね)
 殺し合いなんて、そんな物騒な言葉を父の口から聞くとは思わなかった。明人の知っている父親は、いつになっても優しげで、穏やかな笑顔を浮かべていたからだ。

 そういえば、居眠り運転は故意犯に当たるらしい――ぼんやりとしてきた視界の中、明人は奇妙にもそんなことを思う余裕があった。たしかに、眠いのを承知でハンドルを握るのだから、それも当然である。それが飛行機ともなれば、万が一市街地にでも墜落したら自分だけの大事ではなくなってしまう。
 慌てて明人は目をしばたいたが、次の瞬間にはまたほっとしていた。そこはもう、見慣れたセスナ172の操縦席ではなかったからだ。気付くと、隣に父親の姿もない。ぼんやりと白い空間であった。
(そういえば、九十九君は今、なにを……?)
 頭の中に響く父の声が、まるで水に潜ったかのようにぼやぼやとしていた。
(彼は………交通警察官………)
 寝ぼけた声で、明人も答える。すると、父が笑った。
(それはいい。彼は昔から、レーシングカーよりもパトロールカーの方が好きだった――)
 懐かしい、優しい声が、遠のいてゆく。しかし明人は不安を感じたりはしなかった。ゆったりと目を閉じながら、父の笑い声に答えるように自分も笑みを浮かべたのだった。










to be continued...


 

 

 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

ああ、そんな落ちか、とくすっと笑いが洩れるような一話でした。

そうか、そう言う理由だったんだなぁ(笑)。