FLAT OUT

(37)






――おそらく、三つの疑問が渦巻いておるだろう。一つは、もちろんこれが最大の疑問であろうが、十二年前に何が起きたかということ。もう一つは、なぜ今更それを話すのかということ。或いは、なぜこれまでわしが沈黙を守ってきたか。そしてもう一つは、なぜ今かということだ。
 もっとも、一番大きな疑問は最初の一つであろうがな。わしにとってもそれは同じだ。十二年前のあのことだけが、今さらながらにわしを戸惑わせる。
 全てに答えは用意してある。だが、一言に話せるものでもない。どれか一つだけを話すわけにはいかぬ。話すからにはここで全て話そう。そして、二度とは語らぬ。それでもよいのなら、話す。
 よいか。
 では、話そう。



 まず言わねばならぬのは、わしが天河治己という男を、決して快く思ってはおらなかったということだ。その理由はいくつかある。ひとつは、奴が何につけても動じず冷静であったことだ。
 わしはとかく正論というものが嫌いで、まして他人に言われてこれほど腹の立つものはなかった。そうであろう、分かり切った正論をいちいち確かめるような奴は、こちらの都合も気に留められぬ馬鹿者か、最初からなめ切っておるかだ。
 あの男は、確かに己の正義をひけらかすような真似はせなんだが、自らの正義を貫くことには誰よりも貪欲でな。ようは、頑固者であったということだ。それがまた落ち着き払っておるものだから、余計に苛立たしい。どうにかしてこの男の鼻を明かしてやることはできぬものかと、日々思うておった。

 ふたつめは、奴がいわゆる「優等生」であったことだ。我々の世界で優等生たるに一番の成績は、もちろんレース以外になかろう。
 これは疑う余地もなかった。あの男の残した記録を見れば、一目瞭然だ。そしてそれに付随する成績――まあ内申点のようなものだが、これが普段の顔であった。レースの最中の人格はむろん、記者どもに答えるその発言、言葉遣い、あるいはチーム内での人物評まで、全てが含まれる。
 天河治己は、誰が見てもできた男だったよ。レースに臨めば、これほど礼義に敦い男はいなかった。

 あれはわしと天河治己がデビューした年の、カナダでのことだ。モントリオールの一番奥にあるヘアピンへの進入で、わしが前を走り、すぐ背後に奴がいた。当時のネルガルはコーナーが速く、こまごまとしたインフィールドでは、わしは奴を引き離すことができずにいた。そしてヘアピンへのブレーキ勝負だ。思えば、わしらの尋常とも言うべき勝負の始まりは、あれだったのかも知れん。
 天河がさっとインに振ったのが分かった。昨今も新米どもはミラーが小さくてどこに相手がいるのか分からないなどとぬかすが、どっこい同じ新米であるはずのわしらは、音だけで相手の場所がはっきり分かったものだ。50センチと違わず、その位置を読めた。だからこそ、その程度のこともできずにFAドライバーとは笑わせられるのだが、まぁしかるに言い訳であろう。強引に行ったらぶつかってしまったなどとは、言えぬからな。
 ともかく、天河が斜め後ろに出たのがわしにはわかった。まだ真横ではない。さすがに真横まで来れば、視界の隅に入るから馬鹿でも分かる。だがわしは、差されると思うた。奴の小回りの良さは、それまでのほんの数戦の戦績を分析するだけで明らかであった。
 正直なところわしは、例えやつが真横に来たとて譲る気は毛頭なかった。まあ、この辺があの男とわしの違いだ。誰よりも接触事故の多かったわしと、逆に全くなかった奴の、な。
 たとえインを差されようとも、少しでも相手の方が後ろにいるなら、わしは遠慮なく幅寄せしたよ。もちろん出方を見ながらだが、だから、わしに被せられた者が避けてコースから飛び出ようと、知ったことではない。臆した方の負けだ。わしにはそういう競り合いの才能だけは人一倍あったようでな、負けたことはない。ただ一人、天河治己を除いてだが。
 しかし奴は、そのヘアピンへの勝負で、退いた。わしが切り込む直前に、奴のほうがさっと身を退き、横から後ろへと戻ったのだ。後から思ったことだが、これは奴が自分とわしのブレーキの効き具合をはかる為にしたのだろう。次のストレート・エンドで、奴は驚くほど的確にブレーキを遅らせ、あっさりとわしを抜いてしまったからな。

 わしには奴が退いたことが解せなかった。天河明人、おぬしもFAのドライバーならわかろう。あの世界に退く者などおらぬ。勝つことしか頭にない馬鹿ばかりだ。むろん、わしもその一人であったのだがな。だから、奴の行動は全くもって不可解であった。
 わしはピットロードで、奴を問い詰めた。
『なぜ退いた』
 不躾だったな。だが、それだけで分かるはずだったからだ。すると奴は、一瞬きょとんとした顔でわしを見おった。苛立って、わしは奴を睨んだと思う。
 あのヘアピンでの一瞬、わしは奴と勝負をしていた。わしは勝負のことは忘れぬ。勝とうが負けようが、ぎりぎりの駆引きでしか見えぬ相手の本性が見えてくるからな。奴と繰り広げた勝負、数え切れぬほどのそれをわしは今でも一つ一つはっきりと思い出せるぞ。
 しかし、だからこそ奴がそれに気付かない素振りを見せたことが腹立たしかったのよ。貴様にとって勝負はその程度のものかと、失望させられたように思えた。
 わしが怒りも露わに睨んでおることに、奴も気付いたようだった。
『あの、ヘアピンでのことかい』
 わしが何も答えぬままでいると、困ったように笑みを浮かべたな。
『あの位置では、僕はまだ君の視界に入ってはいなかったろうからね。君のことだから音で分かっているかも知れないとは思ったけど、もし接触したりしたら、僕も君もそこでおしまいになってしまうから』
 なんとも煮えきらぬ男であった。この世界の人間として見れば、弱腰に違いない。言うことは正しいが、そんな消極さで勝てるほどこの世界は甘くあるまい。だが奴は、それでいて勝った。それに、わしならば分かるかも知れないが、と言ったのだ。それはつまり、奴もそれができたということだ。それだけの腕の持ち主であった。敗れていたならば負け惜しみにすらならぬようなその正論で、奴は勝利をもぎ取ってしもうた。
 そしてこれが、わしに火をつけた。

 トラックの上で、ピットロードで、記者会見で、何度わしはあの男と対峙したか数え切れぬ。もっとも、わしはトラック以外でFAに興味はなかった。わしのレース以外に誰がどうしようが、一向に気に留めはしなかった。
 昔も今も、FAというのは常人がのたくらと歩きまわれるような世界ではない。誰もが狂っておる。わしたち個人がそれぞれで背負うもの、チームが背負うもの、そしてFAそのものが背負うもの。何もかもが大きすぎて、誰も怖くて顧みようとはせぬ。
 だがわしは、怖くて顧みないのではなかった。たんに、興味がなかったのだよ。チームが何を背負おうと、FAがどんな存在でいようと、わしの知ったことではない。わしはトラックを走り、圧倒的な速さを見出し、そして這い上がってくる者を蹴落とす。それ以外に興味はなかったのだ。
 そうであるから、最も激しい対峙は自然とトラックの上であった。自分で言うのもなんだが、わしと天河治己は速かったよ。古参のドライバーも多く居ったが、まあわしも奴も、若さゆえに無茶をした。わしはレース中の接触事故が多かったが、天河のやつは総じて単独事故が多かった。どちらが悪いかなど考えておらん。いつの間にか奴もわしを強く意識するようになり、今日わしが勝てば明日は奴が勝つ、そんな戦いが続いたのだ。

 こんなこともあった。場所はムジェロ・サーキット。
 これは全くもってわしの不覚であった。ここに直線へと続く高速コーナーがあったのだが、その立ち上がりでわしはとんでもない勘違いをしてしまったのだ。
 それは左、右と続くS字コーナーで、立ち上がると直線が少しあり、そこから再び右コーナーへと続いておった。それならば通常は、S字の立ち上がりからさしてラインを変えることもなく、アウト一杯のまま次の右へと進入するであろう。ところがわしは、直線の先は左コーナーだと思い込んでいたのだ。
 コースを知らなかったわけではない。その時だけ、天河と鍔迫り合いを繰り返していたその瞬間だけ、何故かわしは勘違いを犯してしもうた。
 思えばわしが妻と出逢うたのもこの頃であったが、それは関係なかろう。
 むろん、後にも先にもこれ一度きりだが、まったく、レーサーとしてあり得ぬ大失態だった。
 右コーナーの出口、わしがやつのアウト側で、少し前を走っていた。その先は同じ右コーナーなのだから、アウト一杯に使って加速すれば良い。だがわしは、その先が左コーナーであると勘違いしておったものだから、それに合わせてラインを変えてしまったのだ。
 後輪と前輪が横に並ぶくらいの位置で追従していた奴は、たまったものではなかったろうな。真っ直ぐ加速するはずのわしが、いきなり全く意味のない幅寄せをしてきたのだ。
 わしの後輪と奴の前輪がぶつかった。物凄い衝撃で、わしは一瞬その場に止まったかと思うた。それでも真横を向きそうになるマシンを立て直そうとカウンターを当てたのは、もはや本能だ。だが後からビデオで見ると、被害はわしの方が大きかったようだな。後ろのサスペンションがへし折れ、まったくコントロールできないままコースを飛び出し、タイヤバリアに衝突した。天河は左の前足が壊れたようだが、なんとか自走してガレージまではもどったらしい。むろん、両方ともリタイヤだ。

 その後、入賞記者会見ではなく、個別のインタビューでのことだ。ちょうどわしがガレージから出たとき、隣で天河のやつがリポーターにマイクを向けられていた。
『天河さん、「壊し屋」北辰の餌食に今回は貴方がなられてしまったわけですが、彼の行動についてどう思っておられますか』
 壊し屋とは、笑えたものよ。リポーターもわしがすぐ隣にいるとは気付かなかったらしい。わしの姿を認めるや、縮こまって天河への質問に逃げた。
 だがわしは、そんな記者風情などどうでもよかったのだ。わしは、同じようにわしに気付いた天河の表情を見て、にやりと笑った。
 天河のやつは、こう答えたよ。
『べつに、もう何とも思っていないよ。僕も彼も無事だったし、それに彼とも話はした。ちょっと残念な結果になってしまったけど、これもレースだからね。次戦はまたエキサイティングな戦いを見せられると思うよ』
 妙かね。まあそうだろう。やつのファンにしてみれば、なんと寛容な人間に映ったことだろうな。いや、それは正しい。寛容と言えば、あの男のような人物のことだろう。もっとも、こうした発言が奴の優等生評価を助長したのだが。
 しかし、これにはちょっとした秘話があったのだ。
 やつも言ったろう、わしと話をした、と。ところが実際は、そんなに生易しいものではなかった。殴り合いをしたというわけでもないが、ともかくわしが事故現場から歩いてガレージに戻ってきた途端、待っていたかのように天河がこちらのガレージに乗り込んできたのよ。
 チームのスタッフが制止するのも構わず、奴は憤怒の形相で歩いてくると、怒りを御しかねたようにわしの胸をどんと叩いた。
『君はいったい、僕を殺す気か』
 物凄い剣幕だったよ。ついぞ聞かぬやつの怒鳴り声に、わしのチームのスタッフまでもがしんとなって驚きに目を見開くばかりだ。考えてみれば、それまで天河治己が怒るところを誰も見たことがなかったのだ。
 わしも驚いた。正直に言うと、あやつのことだ、何も言わずに睨まれるくらいが関の山だと思っておった。トラック上ではともかく、一度コクピットを降りてしまえば、やはり奴はただのお人好しだったからな。
 もちろん悪かったのはわしだ。コーナーも何もないところで不必要な幅寄せをしたのだからな。後に罰金と、次戦での数グリッドだったか降格の処分も受けた。
 ところがわしは、謝ることができなかった。なぜであろう。そもそもわしは自らの非を素直に認めるような性格でもないのだが、それに加えて、普段大人しいやつがこのときとばかり殻を脱ぎ捨てたかのように突っかかってきたのが癪だったのかも知れん。ともかくわしは何も言わず、ただ尊大に少し背の低い奴を見下ろしていた。これまた何と高慢な男に見えたことだろうな。
 それ以上は、天河も黙っていた。もう少し対峙が続いていたら、わしの方が視線を逸らしていたかも知れぬ。それほどに奴の目は鋭くわしを捉えていた。
 結局のところ、先に踵を返したのは天河だった。怒りが収まったのかどうか知れぬが、困ったようにわしのチームのスタッフを見回すと、「来てくれ」とわしを連れ出した。ピットロードだがな。わしも、奴の剣幕にひるんだと言うわけではないが、黙ってついていったよ。そして奴は、なんと言ったと思う。
『すまなかった。ちょっと……驚いたんだ』
 何を言い出すかと思えば、謝り始める始末だ。悪いのはわしだというのに。その生温さに今度こそ頭にきて、わしは口を開いた。
『なぜ貴様が謝る。悪いのは俺だ。俺が不用意にラインを変えたから、お前と接触した。なのになぜ、ぶつけられたお前が謝る』
 先程の天河のように怒鳴りはしなかったが、わしは声を荒げた。不思議な怒りだったように思う。わしは別段、悪役になりたかったわけではない。むろん悪かったのはわしだが、それも忘れかけていた。こうも簡単に怒りを静めてしまう奴が、我慢ならなかったのだよ。
 天河は驚いたようにわしを見た。そうであろう、傍目にはわしが怒る理由など、どこにもなかった。奴は考えあぐねた挙句、やはり困惑した様子で『あー』とか『いや』とかどもっておった。

 どのくらいそのままでいたか、憶えておらぬ。わしは奴が口を開くのを待っていた。思わずいつもの勢いで罵ってしまったにせよ、奴より先にわしがそこを離れるわけにはいかなかったからな。
『いったい、どうしたんだい。いくら君でもあんな強引な幅寄せはしなかったろう』
 しばらくして、訊き難そうに奴が問うた。
『いくら俺でも、とはどういう意味だ』
『これは失礼』
 言うべきか、迷うたよ。コースを間違えたなど、恥以外のなにものでもない。だがちらりと奴を盗み見ると、どうにも黙ったままで居るわけにはいかなくなってしもうた。奴はあの優しげな瞳で、じっとわしを見据えて言葉を待っていたのよ。
『自分でもわからん。あの一瞬、次のコーナーが左であると勘違いしていたのだ。だからラインを整えようと、お前の方に振ってしまった』
 さすがのあの男も、唖然としておったな。ぽかんと口を開けて、固まったようにただ突っ立っていた。
『勘違い?』
『そうだ』
 確かめるように言う奴に、わしは苛立ちながらも答えた。リタイヤさせてしまった本人の手前とはいえ、わしとてあのような恥を何度も思い返したくはなかったのでな。
 すると天河は、何を思ったか突然吹き出したのだ。より憤慨するか、或いは呆れるかだろうと思っておったわしには意外だった。同時に怒りがぶり返したよ。このわしが恥を忍んで弁明しておるというのに、笑うとは何事か、と。
 わしが睨みつけると、天河は必死に笑いをこらえようとした。何がそんなに可笑しいのか、全くわからぬ。そう思っていたら、やっとのことで奴が言葉を話した。
『いや、失礼。そうか、君でもそんなことがあるんだなぁ』
『……………………』
 何を言えというのだ。相変わらずわしが睨みつけたままでいると、奴はそれを歯牙にもかけぬ様子で――いや、もはや先ほどの一件はすっかり忘れてしまったかのように、悪戯っぽい笑みを浮かべ、声を潜めた。
『実は僕も昔、ユーロ・マスターズで同じことをやってね。ニュルブルクリンクのS字さ。あそこは高速で飛び込むやつと、中速で入るやつと、二つあるだろう。その高速の方を中速のそれと勘違いして強めにブレーキをかけたら、そうとは思わなかった後続車に追突されたよ。もちろん二人ともリタイヤ。物凄い剣幕で怒られたな』
 今度はわしが驚いた。さっきの奴の言葉、そっくりそのまま返してやろうと思うたよ。この男でもそんなことがあるのかと思ったら、怒りは萎えた。同時になぜ天河が突然笑い出したのかも、納得がいった。
『……なぜ勘違いしたのだ』
 わしがそう問うと、奴は一転して照れくさそうに笑いながら、こう言いおった。
『いやぁ……、実はその前日に、恋人――今は奥さんだけど――、彼女と喧嘩しちゃってねぇ。それをレースに持ち込んだつもりはなかったんだけど、それでもレース中にコースを間違えるくらい意識を奪われてたことといったら、そのくらいしか思い付かなかったんだよなァ』
 馬鹿だ、とわしは思うたよ。もっとも、わしとて同じ勘違いを仕出かしたことに変わりはないのだから、人の事は言えぬがな。
 しかし、話はそれだけではない。あろうことか奴は、その原因を相手に教えなかったと言うのだ。むろん言えたはずもないが、勘違いしたことさえも黙っていたと言う。たしかにユーロ・マスターズのマシンならば両方ともブレーキが必要なコーナーで、それの強弱など誰にも分かりはしない。走っている者以外にはな。だから奴は、「リヤが不安定でブレーキを強くしただけだ」と押し通してしまったと言うのだ。
『馬鹿か、貴様は』
『だって恥ずかしいじゃないか』
『俺は話したぞ』
『……そう言えばそうだ。君は正直者だね』
 話しているうちに馬鹿らしくなって、わしも笑った。だが、今思い出してみればわしも、話したのは相手が奴だったからかも知れぬ。あるいは、奴が最初に乗り込んできた剣幕のままであったなら、何も言わずに終わらせてしまったからかも知れぬ。あの男には、妙な包容力があったな。

 思えばわしを正直者だなどと称した人間は、あやつ一人であった。その時は正真正銘の大馬鹿者かとも思ったが、よくよく考えてみれば、案外あの男は洞察力に長けていたのかも知れんな。
 あの頃のわしは、たしかに正直者ではあったろうよ。正直と言っても、悪い意味での正直だが。FAで勝つことは即ち、世界の頂点に立つということ。そしてあの頃のFAはわしや天河をはじめ、猛者が揃っておった。そこで勝つために、わしは貪欲だった。
 今更嘘は言わぬ。わしは故意にぶつけようとしてぶつけたことは、断じて、一度たりとも、ない。わしは勝つためにそこにいたのだ。
 退けば負ける。ぶつかった奴らは、わしに負けたのだ。相手の進路を妨害したことも、ない。ただ、寄せる幅が他の奴らよりも厳しかったのは事実だ。天河は相手に10センチの余裕を与えて戦った。むろん奴なら、それ以上に攻め立てることもできたろう。一方わしは、3センチしか与えなかった。負けた奴らは、その余裕を生かせなかっただけだ。むしろそんな未熟者どもにぶつけられた、わしこそが被害者であったろうよ。
 だからわしは、常に己の無実を知っておった。信じていたのではない。それが事実だったのだ。天河は、それをわかっておった。

 それからというもの、わしと天河の鍔迫り合いはさらに白熱した。接触したことも、一度や二度ではない。それでもどちらかがリタイヤに発展するような接触は、なかった。
 わしらは、互いを信じ切っていたから、それができた。わしは天河がどこまで攻め、どこで退くか知っていた。あくまでわしとの攻防の中での話だが。そして天河も、わしの性格を知り抜いておった。レースが終わってマシンの横腹にタイヤの跡がついていても、わしらはそれが誰のものかすぐに分かったし、分かるから笑って済ませた。
 ドライバーに全盛期というものがあるのなら、正しくあの頃のわしらはそうだったろう。怖いもの知らずと言うてもよい。生憎わしらは互いにライバルチームのエースを任されておったが、もしわしら二人が徒党を組んで同じチームにおったら、シーズン半ばにはもうチームタイトルは決まっていたに違いない。もっとも、互いに譲らず全てリタイヤしたかも知らんがな。


 さて――天河に子どもができたのは、何年目のことであったか。あの時のはしゃぎ様は、まるで己が子どものようであった。サーキットでも始終にやけっ放しで、見ているこっちの気分が悪くなってくるほどだ。だがもちろんコクピットに納まれば、そこには二度の王者に輝いた歴戦のつわものがおった。
 奴はレースの前、わしのところへ来て言った。
『なぁ、今日は僕が勝つよ』
 浮かれた気分のままの言葉なら、わしは無視しておったろう。だがそうではなかった。奴の目は真剣だったよ。
『やれるものならやってみろ』
『勝つさ。君、僕はこれから引退するまでのレース、全てを明人と雪枝のために捧げる。もちろんトロフィーもね。今日はその最初だよ』
 あの時、天河はたしか二十七だった。子供ができるとドライバーは一秒遅くなると言った男がいたが、奴にそれは通じぬだろう。天河はレースと同じように、いや、レースなどよりも遥かに、妻子を愛しておった。その妻子の為に、と言うのだ。遅くなるはずがあるものか。
 結局やつは、言葉どおりに優勝トロフィーを手にした。わしは二位だったが、表彰台の頂点に立ってトロフィーに口付ける奴が、眩しく見えたものよ。


 憶えておるかどうか知らんが、おぬしら二人も会っておるぞ。――天河が息子に最初のトロフィーを持ち帰ってから、四年ほど経った頃だ。
 最初に天河が息子を連れてきた。父親には似ておらんなと、わしが正直に言うと、やつは苦笑いを浮かべながらも少々悲しげであったな。だが今見れば、おぬしのその目は父親にそっくりだ。顔は母親に似たようだが。
 当時のわしは、どうにも子ども嫌いであった。今でも好きにはなれぬが、その理由は聞くな。もっとも、己の血の通った者までも嫌うほどの理由ではないがな。
 わしが初めてレースに我が子――北斗を連れて行ったのが、その翌年のことだった。その年の最終戦は、モンツァ。レースの二週間ほど前に天河から電話があって、子供たちも会わせてやろうと言う。正直なところわしは、どうでもよかった。北斗の養育は妻に任せっきりであったし、だからこそ横槍を入れるわけにもいくまい。それよりもわしにとっては、そのレースで決まるタイトルの行方のほうが大事であったのよ。
 それまで天河は、三回のタイトルを獲っていた。対するわしは、一回。タイトルを獲ること自体はどうでも良い。ただわしは、天河に負けておるわけにはいかなかったのだ。
 わしはポール・ポジションを奪った。フロント・ローを分け合ったのは、もちろん天河。
 予選記者会見が終わって、わしと奴が連れ立ってガレージに戻ってきたときだ。待っていたのはさな子と北斗、お前だ。あの頃のお前は、今と違って一回りも二回りも可愛らしかったと思うのは、父親の贔屓目かも知らんな。まあよい。ともかく戻ってきたわしに、お前は手を差し出した。
 憶えておらぬか。それはそうだ。あの時のお前は、まだ四歳だった。
 小さな手に握られていたのは、手作りのメダルのような物だった。黄色と黄緑の、布で出来ていたが。星のような形で、真ん中に大きく『1』と描かれていた。わしは父親だというのに、まるで見知らぬ大人に渡すかのようにおずおずと差し出すお前を後押ししながら、さな子が言うのだよ。
『ほら、北斗がつくったのよ。お父さん、頑張って1番になって、って』
 横で天河も見ていた。天河明人、おぬしもいたぞ。だがおぬしらがどうしていたか、わしは知らぬ。自分の手の中にある小さなそのメダルに、目を奪われていたからな。そしてわしが北斗に目を戻した時、我が娘は出来損ないの父親に向かって、可愛らしく微笑んで見せおった。
『頑張って、お父さん』
 その一瞬、わしは天河のことさえもすっかり忘れた。だが、二度目のタイトルへの思いは消えなかった。むしろ余計に欲した。
『困ったね、明人』
 隣から声がしたよ。天河の声だ。見ればやつは、笑いながら息子と話をしていた。
『どうやら私は、悪者みたいだ』
『悪者?』
『うむ。北斗ちゃんのパパをやっつけようとする、悪いやつになるらしい』
 そう言って奴は、わしを見ながらにやにやと笑う。言い返そうとしてわしは、はたと気付いた。北斗がわしのズボンを掴んで、じっと天河のやつを見つめていた。これが悪者なのかとでも言わんばかりの顔であったな。それを見てわしは、答えを変えた。
『そうだな。悪者は悪者らしく、あっさり倒されるがいい』
『それは下っ端の話だろう。僕は親玉だからね』
 すると、次に行動に出たのは親どもではなかった。天河明人、おぬしはぱっとわしらの間に躍り出ると、わしの後ろに隠れるようにして成り行きを見守っていた北斗の手を取ったのだ。さすがにわしたちも驚いて、五歳の少年のすることを見守っていたよ。
『お父さんたち、喧嘩したらだめだよ。ほら、僕たちもしないから』
 思わずわしは笑った。声をあげて笑ったのは久し振りだった。つられるように天河が笑い、周囲の連中が何事かとわしらを見ていた。言った当人であるおぬしは、きょとんとしてわしらを見上げていたな。北斗は、呆けたようにおぬしを見つめていた。小さな手は、しっかりと繋がれたままだった。


 天河治己は、子煩悩な男だったよ。サーキットでもよく、ファンの子をおぶったり肩車をしたりして、とくに子どもらの前ではいつも笑っていた。
 どうしてそうなのか、それを考えたことはない。人に言わせれば、奴自身が子どもの頃にそれを得られなかったのかも知れぬだとか、或いはその達観した思考の末であるとか、好き勝手なことを言われもしたろう。
 わしにそれを推察することはできぬ。子どもを可愛がるという点についてまず、わしとあの男は考え方が違った。確かに、親にとって子は可愛いものだ。己の血の証だからな。もっとも、そんな理由がわしに天河のような子煩悩さを持たせなかったのかも知れぬ。そもそもわしも女手一つで育て上げられたから、男親のあり方などよくわからぬ。
 天河の身の上話は、ほとんどなかった。あったとしてもわしは気にかけなかった。あの男が日本生まれの日本育ちであることは知っておる。渡欧したのはユーロF3.3に参戦したその年だと言っておったからな。
 だが、奴自身はどんな思いで故郷を発ってきたのであろう。

 キャラミでの週末のことだった。南アフリカの大地というのは思ったよりも暑くなく、なかなか風光明媚な土地であったよ。それにいつもいの一番に目を輝かせる男がいた。天河だ。
 あの男はいったい、己がレーサーであるという自覚があるのか、新しい土地へ赴くとすぐに街に出て行ってしまう。もちろんサーキットで仕事があるうちはそこにおるのだが、その落ち着きのなさはまるで観光客であった。
 しかしその時、天河はいつもと違っていた。何かを憂い、元気がなかった。
 その理由が分かったのは、予選も終わった後だ。夕闇の迫る刻頃、暗がりのコース上にわしは奴の影を見つけた。観客はおよそ今晩の宿へと向かい、スタンドには人もまばらだった。スタッフはまだ大勢残っていたが、パドックの灯りもコースまでは届かなかった。
 何故近付いたのか、わしも覚えておらぬ。声をかけようとも思ってはおらなかった。ただ足が向き、天河の横に立ったとき、わしは寒気を感じたよ。
 天河は、見たこともない顔をしておった。見た目はいつもの穏やかな表情に変わりない。だが、その目に宿る光が違った。そこにあったのは、子煩悩で朗らかなあやつに最も似つかわしくない、狂気であった。
『……何をそんなに睨みつけている』
 わしは尋ねた。いつものわしなら嫌味の一つも加えたろうが、この時ばかりはそうもいかなかった。
 その一言に、暴風のような天河の雰囲気はすっと納まった。わしが近付いたことさえ気付かなかったのであろうな。驚いた顔をしていた奴は、そのうちにまた視線を暗闇へと戻した。
『父が死んだんだ』
 ぽつりと、奴は言った。
 それでわしは合点がいった。少し前、ネルガルのガレージに妙な緊張が走っていたこと。スタッフの誰もが、レースとは違う不安に苛まれるような顔をしておったこと。
 すぐに悟ったよ。そこは南アフリカだった。アフリカ大陸の最南端。日本に戻るにはどう急いでも一日はかかる。往復ならば二日か、それ以上だろう。だが、レースは明日の午後。
 天河はレースをとった。むろん契約はあったかも知れぬが、そんな紙切れで人の心を縛れるはずがなかろう。あの時の天河は、己の役割というものをいやというほど自覚しておった。そのために、父を捨ててもレースをとった。
『……急だったのか』
『いや……随分前から入院していた。二ヶ月前に見舞った時に、医者からも聞かされていたんだ』
 ならば、覚悟もしておったのだろう。それでも親の死に目に会えぬとは、親より先に死ぬよりはましだが、奴の中では大変な不孝であったのだろうな。

 レースで、奴は速かった。それまでの正確無比な速さは、いついかなる時でも変わらなかった。だが、咽び泣くエキゾースト・ノートが奴の悲しみの声に聞こえたのは、わしだけであったのだろうか。
 天河は、決して涙を流しはしなかった。己の選んだ道を信ずることだけが、それを堪えさせたのだろうよ。
 表彰台の中央に立った奴は、喪章をつけた左腕でトロフィーを半分だけ掲げた。妻子に捧げると言ったそれも、このときばかりは奴の笑顔を映しはしなかった。
 記者会見を欠席した天河は、サーキットを出る時、堪えていた涙を一粒だけ流したという。わしはその時まだ記者会見場におったから、これは又聞きだが、奴はサインを貰いにきた子どもをまるで我が子にするように抱き締め、一筋だけ涙を流したそうだ。
 わしはそのときの奴の気持ちが理解できぬでもない。結局のところFAとは愛憎だ。愛する者のために生きられないFAを憎み、またFAを愛するが故に憎めぬ。天河はFAを愛すると、そのとき決めたのだろうよ。 










to be continued...


北辰パート、その1です。

とある小説に影響受けまくりのパートな為、コメントできません……。ムムゥ。
ちなみにその小説とは、浅田次郎先生の『壬生義士伝』(文春文庫・刊)です。
投稿CGでも扱いましたが、色々と大きな存在なんですよ〜(苦笑)。

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

んー、まぁ、ノーコメントってことで(苦笑)。