FLAT OUT

(45)






 土曜の午前中に行われたフリー走行は、明人にとっても最後のセッティングを施すチャンスだった。天気予報を信じれば、日曜の午後は晴れ、気温は二十度ほどになるだろう。すると、十一年前のコース改修とともに舗装も一新されたイモラの黒いアスファルトは熱を溜めやすいから、二十七度くらいに上がる。それなら、タイヤは柔らかめのものを使えそうだった。
 ところが、始まった予選で出走する時になって、明人を軽い不安が襲った。前戦、ベルギーで二位だった明人は、第1予選で二番手の出走である。それに向けてガレージから出ようとしたその時、アクセルを踏み込んだ瞬間にエンジンの反応が僅かに鈍かったのだ。それはほとんど気付かないほど小さなものだったが、明人は気付いた。
「エリナ、気付いた?」
『何が? どうしたの?』
 無線で問いかけても、彼女が気付いた様子はなかった。むしろ突然のそれに、緊張した声である。
「さっきガレージを出るとき、エンジンの反応が少しだけ鈍かった。いや、クラッチかも知れないけど……モニターには出なかった?」
『出てないわ。今はどう? 予選は走れる?』
「今は問題ない。予選は走るけど、万が一も考えたほうがいいかも知れない」
 万が一とは、エンジン交換である。そうなれば、決勝グリッドは10番手降格だ。昔と違って今のイモラ・サーキットは追い抜きが少しだけやり易いが、それでも10番手を挽回するのは至難の業だろう。
『洗い直しておくわ。万が一のためにも、ポールを獲りなさいよ』
「わかってるよ」
 ブレーキは温まってきた。タイヤも、おそらく後半を飛ばせばちょうど良くなるだろう。早くから飛ばしすぎると、新品タイヤのいいところを予選の一発に生かせなくなる。何しろ今回は、第1、第2予選ともに空タンクで走れるのだ。第1予選で100パーセントの走りをするのはもちろん、第2予選では一切のミス無く、101パーセントの走りをしなければならない。矛盾しているが、それが必要とされるのだ。

『リヴァッツァ』を立ち上がり、明人の感覚はすでに予選へと研ぎ澄まされていた。ホームストレートで速度を稼ぐために、『ヴァリアンテ・バッサ』は極端に立ち上がり重視のラインで抜ける。コントロール・ラインを通過した瞬間、バイザーに映し出されたタイマーが動き始めた。
 タイヤを滑らせないよう、細心の注意を払いながらハンドルを切り込んでゆく。ホイール・ロックなど論外だ。できることなら、本当に予選を走ったのかと疑われるくらい、磨耗の少ない状態で走りたいのだ。
 ピッと小さな音がして、第1区間が終わったことが告げられた。先に走った北斗とのタイム差は、プラス100分の2秒。だが、第2区間はコーナーが多く、ネルガルに有利である。
 シフトアップは2万2300。『トサ』から全開で立ち上がるとき、マシンはもはや跳ねることもなく、ゆるい上り坂を路面に張り付くようにして加速した。『ピラテラ』はクリッピングを手前にとって、外の縁石に半分だけタイヤを乗せて加速する。
 今度は下り坂で、下りきったところに二つの右コーナーがくっついた『アクア・ミネラーリ』がある。一つ目は緩やかで減速の必要はないが、二つ目がきつく、一つ目に飛び込んだ瞬間からブレーキを踏まなければならない。横Gを残したままのブレーキングは、一瞬でも気を抜けばあっという間に飛び出してしまう。
 身体が左前に引っ張られるのに耐え、明人は『アクア・ミネラーリ』の出口だけを見据えていた。低速コーナーとは言え、街中の交差点程度の広さしかないそこでも、FAマシンの速度が時速120キロを切ることはない。視界の隅では内側の縁石が近付いては離れ、完璧なラインを辿っていることがわかる。立ち上がりでまた外側の縁石に乗せたが、それが途切れる前にアスファルトの上に戻った。
 またピッという音がして、バイザーにタイムが映し出された。マイナス0.23秒。やはりインフィールド区間ではネルガルに分がある。いや、瓜畑のエンジンのおかげで、直線での遅れを最小限に止められたのが良かったのかも知れない。このマイナスを第3区間で維持すれば、北斗を抜くことができるだろう。その後にも路面の状態は良くなってくるから、何人かには抜かれるかも知れないが、やはり最大のライバルは彼女だ。
 再び坂を上り、『ヴァリアンテ・アルタ』。ヴァリアンテとは、イタリア語でシケインの意なのだろう。つまり、アルタ・シケインといったところか。それにしては、あまり減速されない。最初の右縁石を思い切り飛び越え、次の左は全開で掠める。
 そしてまた下り坂。油断ならないのは、『リヴァッツァ』へのブレーキ区間が下りだということだ。右の緩いカーブが終わるところでブレーキを蹴飛ばし、重心が前に寄ってリヤが落ち着かなくなる中、左の『リヴァッツァ』へとハンドルを切り込む。さらには、その最中に路面が平坦に戻るのだ。下りのブレーキは思った以上に効かないのだが、平坦になると急にコーナリングが安定するので、もっと突っ込めるのではないかと錯覚してしまうのだった。
(そういえば彼女は、一度もコースアウトしなかったな)
 一瞬そんなことを思った。だが、マシンは既に『リヴァッツァ』の二つ目へと鼻先を向けている。ここから『トラガルド』を全開で駆け抜け、『ヴァリアンテ・バッサ』が最終コーナーだ。
 500メートルほどしかない直線なのに、マシンは時速300キロに達した。最終シケインへは、1周前に通った時とは反対に、完璧なレコード・ラインを辿った。そしてまた、ピッという音がヘルメットの中に響いた。
――マイナス、0.5秒。
『良かったわ、明人君。暫定トップよ。もっとも、まだ18人も残っているけれど』
「悪くなかったよ。あとは皆次第だね」
 しかし明人も、そしてエリナもその時、他のチームのドライバー達が呆れ果てていることを知りはしなかった。後で聞いたところによれば、彼らの中には苦笑いすら浮かべる者もいたそうである。それが示すように、第1予選が終わった時、一番最初に走ったはずの明人と北斗を上回った者は、誰一人としていなかったのだ。

 すぐに第2予選が始まったが、いつも速いとは言えないプライベーターは、慌しかった。第1予選では最後に出走しながら、その順位が例によって振るわないから、第2予選では最初の出走だ。ほとんどセッティングをする間もなく、とんぼ返りにコースへと戻ってゆく。
 そして赤月の番になり、明人はガレージを出て行く彼をコクピットの中から見送った。残すところはネルガルとカヴァーリの2台ずつ。明人は最後の出走である。
 赤月がアタックに入り、ホームストレートを駆け抜けていった。1台ずつの予選は、最初から最後までテレビカメラが中継してくれる。『タンブレロ』を走り抜ける彼は、マシンも決まって、第1予選よりもスピードアップしているように見えた。
 第1、第2区間と、赤月は前走者のタイムを次々と更新してゆく。明人のいるところからホームストレートは見えないが、赤月のマシンが通過していく音だけが聞こえた。同時にイタリア語のアナウンスが叫ぶ。
『1分16秒3、アカツキがトップに立ちました!』
 明人が分かるのは赤月の名だけだ。それでもラップモニターに表示されたタイムを見れば、ほっとした。あとはハリ、北斗、そして自分だけである。

 すぐにハリのアタックが始まった。さすがにカヴァーリは直線の伸びが良く、第1区間は速い。赤月を100分の8秒凌ぎ、ポイント通過速度はさらに3キロ上回った。だが、そこからである。第2区間はどうやってもネルガルに分があるようで、フリー走行でも結局カヴァーリは第2区間だけネルガルに勝てないままだった。
 ヘリコプターからの中継画像が、『トサ』から加速してゆく赤いマシンを捉えていた。コーナーでの低速から、瞬く間に周囲の木々が見えなくなるほどに加速してしまう。600キロに満たない車体を1200馬力のエンジンで動かしているのだから、それも当然だった。その桁外れの性能が、FAなのだ。
 そして、それは『リヴァッツァ』で起きた。ハリは元々ユーロF3.3に参戦していたという。そこにはもしかすると、イモラは含まれていなかったのかも知れない。彼は罠にはまってしまったのだ。
 路面が平坦になる部分で姿勢を乱してしまった彼は、なんとか体勢を立て直そうとカウンターをあてていたが、間に合わなかった。スピンこそしなかったものの、コースアウトして大幅にタイムをプラスしてしまった。
『ハリがコースアウト、予選を棒に振ってしまいました!』
 アナウンスの声がいやに大きく響く。予選の、ここ一番での大ミスだ。ハリは後半に入ってかなり評価を上げていたが、これはどうだろうか。来季に彼を獲得したいチームもそうだし、現時点で希望が失望に変わったカヴァーリからも、この世界でそういったミスはシビアに採点されてしまうものだ。
 ハリはコントロール・ラインを通らず、そのままピットロードに入った。これで予選はノータイム、決勝は最後尾グリッドからのスタートになる。ただし、予選を終えられなかったマシンは予選から決勝までの間に整備が認められている。どうせ後方スタートならば、コースアウトでのダメージを完璧に修復した上でグリッドに並ぼうという、チームの判断だろう。

 ハリが戻って来るのを見ていると、エリナから無線が入った。
『明人君、そろそろ北斗がストレートに来るわ。準備はいいわね』
「いいよ。大丈夫」
『アウトラップは第3区間からアタックに入っていいわ』
「了解」
 そのとき、ピットウォールの向こうでエキゾースト・ノートが弾けるのが聞こえた。あっという間にシフトアップして駆け抜けてゆくそれは、北斗のものに違いない。
『いいわよ、明人君。頑張って』
「ありがとう」
 先の第1予選で感じたエンジンの不調も、今はなかった。アクセルを踏めば踏んだだけ、最終型エンジンは声高に咆える。ピットレーンを出て、リミッターを解除した瞬間、明人も別世界に向かって加速した。

 たった一周のアウトラップで、全てを確認しなければならない。タイヤとブレーキは適温か、ハンドリングに異常はないか、トラクション・コントロールは正常か――それらを全て確認し終えると、もう第3区間に来ていた。ハンドルについているダイヤルを操作して、RPM1に切り替える。
『北斗が走り終えたわ。1分15秒9。トップよ』
 エリナが伝えてきた。相変わらず北斗は、驚異的なタイムを刻んできたようである。それまでトップだった赤月を、0.4秒も上回ったのだ。
 しかし明人は、もう答えなかった。
 燃料タンクは、予選の3周を走る分のガソリンしか積んでいない。そして今、アウトラップの分を使った。これまでは決勝レースの第1スティント分も積んでいたのだから、それに比べれば60キロほども軽い計算になる。オイルまで積まないわけにはいかないから、これがこのマシン――ネルガルNF211の最も速いセッティングのはずである。『リヴァッツァ』からの立上がり、軽いマシン独特の加速感に、明人は背筋がぞくぞくしてくるのを感じた。
 そしてコントロール・ラインを全開で駆け抜け、タイマーが回り始めた。

『タンブレロ』でも、もはや父親のことを思い出すことはなかった。第1予選よりもさらにブレーキを我慢し、リヤが滑り出す寸前でハンドルを切り込む。タイヤは内側の縁石を乗り越えんばかりで、続く右コーナーも同じように突っ込んだ。再び縁石を飛び越えた瞬間にマシンがほんの少し振られたが、明人はハンドルを僅かに早く戻しただけで、アクセルは一番奥まで踏み込んだままだった。
『ビルヌーブ』コーナーはタンブレロに似たS字だ。しかしその後の直線がそれほど長くないので、レコードラインは単純に最も直線的なラインを辿る。明人はコーナーというコーナーで全ての縁石を使い、ここではさらにタイヤの半分がダートに落ちそうにすらなった。後輪から、ぱっと砂煙が舞い上がったのだ。それでも明人は、まるで獲物を追い詰める猛獣になったかのような気分で、自分のラインだけを睨み付けていた。

 ピッという音。『トサ』にフルブレーキングで飛び込みながら、視界の隅で見たタイムに明人は一瞬顔を顰めた。プラス100分の1秒である。どうしても第1区間ではカヴァーリの方が速いのだ。
 第2区間、明人はますます勢いを増してコーナーを攻めた。十二年前、北辰のチームメイトがコースアウトしたという『ピラテラ』の縁石でも、明人は半ば無謀に突進した。それはまるで、日本GPで感じたのと同じような高揚である。決して焦りではなく、身体中の毛細血管を駆け巡るアドレナリンが、明人にアクセルを踏ませた。
『アクア・ミネラーリ』も、普段は使わない外側の縁石まで一杯に使い、とにかく高速を維持することだけに躍起になった。そして第2区間が終わる。

――プラス1000分の3秒。サーキットがどっと沸いたように思えた。
 北斗は第2区間でも速かった。彼女はついに、赤月の区間タイムを破ったのだ。それでも第1区間でついた差を縮めたのは明人だから、明人には敵わなかったことになる。だが、まだ差はプラス。第3区間で明人は彼女のタイムを更新しなければ、ポール・ポジションは獲得できない。同じ空タンクでの、究極のスピードにおいて、彼女に勝つことができないのだ。
 残りは少なかった。『ヴァリアンテ・アルタ』は明人が得意とするシケインで、何故か明人のラインはその後の直線で速度を稼ぎやすいらしい。去年のレースではそのおかげで、何台かを抜いた。
 今までやってきた、それが一番速いのだ。明人はそれを疑わず、同じようにそこに飛び込んだ。強力な減速Gと横G、それに縁石に乗り上げる衝撃も加わって、脳みそにまで直に響く。それでも、明人の目は自分の辿るべきラインだけを見据えていた。
 ハリの飛び出した『リヴァッツァ』である。ブレーキを踏むとき、タブーはいくつかあるが、縁石に乗ってはいけないというのもその一つだ。ブレーキを踏みながら縁石に乗ると、アスファルトと比べてタイヤの食い付きが違う縁石は、乗った側だけがいとも簡単に滑ってしまう。こればかりは明人でも対処のしようがないので、縁石の脇、3センチにタイヤを寄せるだけのブレーキである。
 ハンドルを切り込みながら、路面が平坦に変わっていくのが分かった。アクセルを開けるのが早すぎると、まだ下りの慣性が残っているから、リヤがすっ飛ぶ。しかし明人は、ハンドルを戻しながら遠慮なくアクセルを踏み込んだ。
 予想通り、リヤが滑った。しかしそれは、明人のカウンターに相殺されて、致命的なスライドにならなかった。トラクション・コントロールは通常の加速と同じように作動し、明人のマシンは続く二つ目のコーナーを向いたまま、斜めに走ってレコードラインを完璧に辿ったのだ。
 一瞬アクセルを戻し、二つ目のコーナーはハンドルだけで曲がる。ここでも早めにアクセルを踏み、ほんの少しだけ滑るリヤを、他人が見ても分からないほど僅かなカウンターでねじ伏せ、最後のシケインに向かった。
 第3区間で北斗に対してタイムを稼げたのか、コントロール・ラインを通り過ぎるまではわからない。ただ、リズムに乗って走ることはできた。最後の『ヴァリアンテ・バッサ』も、左、右、と繰り返す直角コーナーに、それ以上の操作は必要なかった。ブレーキで左を曲がり、アクセルで右を曲がる。
 そして、コントロール・ライン。

『テンカワ! テンカワがポールを奪い返した! 差は僅か1000分の2秒!』
 アナウンスの大声とともに、明人のヘルメットの中にもエリナの声が届いた。明人は再び、RPMダイヤルを「10」まで戻したところだった。
『ピー・ワン! 明人君、ポール・ポジションよ! やったわ!』
 決勝レースに勝ったわけではないのに、その喜び様は凄い。しかしそれは、このポール・ポジションの意味するところがこれまでのものとは違うからだろう。何しろ、全てのマシンが同条件で走っているのだ。そうして弾き出されたタイムは即座にドライバーの、そしてマシンの速さである。その中で、明人は頂点に立ったのだ。
 グランドスタンドのどよめきは、熾烈なポール争いの決着にか、それとも主役たるカヴァーリがポールを獲れなかったことへの落胆だろうか。
「ありがとう。いいラップだった」
 明人はそう答えるだけで、無線を切った。やっと、父と同じスタートラインに立ったような気がした。心臓がゆっくりと鼓動を落とし、心地よい疲れが身体の中に広がり始めていた。






 予選記者会見の場で明人は、隣に座る北斗を意識しないよう気をつけていた。サーキットに着いてからはあまり話す暇もなかったが、ともかく一方的に想いを告げてしまったその相手である。加えて返事はまだだとすれば、とても正面から向かい合うことなどできなかった。その一方で反対の隣にいる赤月に対しても、これが彼の最後の予選となることをまだ公表していないので、変に感慨深くなるわけにもいかないのである。明人にとって、まずは予選会見の中央席に座ったというのに、どうも肩身の狭い思いだった。
「アキト、第3区間での大逆転は見事でした。上手くいきましたか」
「……うん、上手くいったよ。第2セクターが終わったときにプラスだということは分かっていたから、第3区間は本当に攻めた。これまでの方式とは違う予選で、負けたくはなかったからね」
「軽いタンクでのアタックは、やはりこれまでと大きく違いますか」
「そうだね。マシンがすごく軽くて、走っていて気持ちがいい。変な話だけど、ガソリンをたくさん積んだレース本番よりも、スピードの限界に挑戦しているという実感はあるかも知れないね。もちろん、レースが物足りないっていう意味ではないけど」
 明人は答えながら、ちらりと北斗を見た。
 記者会見場に入る前から、北斗は心なしか不機嫌に見えた。だが、それもそうだろう。彼女がどんな予選アタックをしたのか、明人はアウトラップの最中だったので知らないが、どのみち彼女は負けたのだ。もし立場が逆なら、明人だって今の彼女のように、多少はむすっとした表情でいたに違いない。
 案の定、北斗の記者に対する返答はいつものようにつっけんどんで、無愛想だった。だがそれもまたFAドライバーの姿として肯定されてもいいと、明人は思う。スターとしてファンに尽くすことはもちろんであるけれども、そうして自嘲的な意味を排した孤高の存在であるのもまた、フォーミュラ・アーツであるからだ。
 現役時代の北辰も、たぶん、そんな目で見てくれる人はいたろう。頂点に立つということはつまり、強者としての寛容さと厳格さを持ち合わせていなければいけないということだ。それなら案外、北斗の方がそれに近いかも知れない。明人はそう思った。

 最後の質問に手をあげたのは、宗丈だった。彼はいつも、こういった記者会見では自ら質問をしない。会見場の後ろのほうで、黙って見ているだけである。彼もまた、天河治己と北辰の時代を知っている記者として、FAでは古参の一人であった。
「二人にとってこれは因縁も深い対決になるでしょうけど、見たところそれほどプレッシャーを感じているようではないわね。それは貴方たちがお互いの過去について既に決着をつけたと考えていいのかしら」
 それはどういう意図をもっての質問だったのだろうか。宗丈本人はともかく、会見場に集まっている記者たちの多くは、天河治己と北辰の関係を――いや、北辰という男のことを、知らない。それは、両方の意味を持った質問だった。
 明人は北斗を振り返った。しかし彼女はさして考え込むでもなく、椅子に背を預けて腕を組んだままである。そして明人をちらりと見ると、答えてやれとでも言わんばかりに顎をしゃくるのだ。
「……貴方の言う過去というものが何を指しているのか、僕には分からないけど、少なくとも僕と彼女の間にそんなに深い因縁はないと思うよ。たぶん今の質問で、多くの人は十二年前の事故を思い浮かべたのだろうけれど、あれは何も僕と彼女がぶつかったわけではないからね」
 まずは、そう答えた。何も知らない記者への答えである。それが分かったのだろう、宗丈は何も言わず、次の言葉を待っている。その眼差しに、明人はふいに何か大きな感情が胸を埋めていくのを感じた。それは息苦しいものではなくて、心地よい、暖かなものであった。いつも意地悪く隙を窺っている宗丈の目ですら、今は優しげに見えたのである。

 言いたいことは山ほどある。多くの人が抱き続けている誤解を、少しでも解きたかった。だが、それをしていいのかどうか、明人はまだ分からない。今はまだ、真実を告白してくれた男の言葉を貫きたいのだ。彼が二度と話さぬと言うのなら、明人も話すつもりはなかった。
 ならば、何を言えば皆は納得してくれるのだろう。半世紀以上に渡るフォーミュラ・アーツの歴史の中で、命を落としたドライバーは数知れない。そしてそれに倍する多くの人々が、悲嘆に暮れた。その中で天河治己とその息子である明人が例外であったとは、口が裂けても言えはしまい。
 むしろその悲しみを乗り越えて今のFAがあるのだとすれば、ここにいる全ての人々は同志ではないか。極限へ挑戦するドライバーとエンジニア、それを支えるチーム、内外に伝えようとするメディア。中には悪意が混ざることもあるが、その全てもフォーミュラ・アーツというこの世界だ。そこには理想ではなく、現実としての究極の姿がある。

(なんだ、やっぱりそうじゃないか)
 明人は思い、急に肩の力が抜けたような気がした。そして、そこにいる全ての記者たちを見渡して、今一度口を開いたのである。
「僕は、このフォーミュラ・アーツを愛しているよ」
 突然何を言い出すのかと、全ての記者がメモを取る手も止めて、明人を見た。明人はその中の、最前列に座っていた同い年くらいのジャーナリストに尋ねる。
「僕たちのカテゴリー、『フォーミュラ』の意味を教えてもらえますか」
「――公式規格という意味だと。全てにおいて規格の定められたマシンで、平等に競い合うという意味でしょう?」
 すぐに答えが返ってくる。明人は「ありがとう」と言ってまた室内を見回した。
「でも僕は、もう一つの意味も知っている」
 記者たちは顔を見合わせる。両隣に座っているドライバー二人ですらそうだ。明人は自分の気持ちを反芻するようにして、それを口にした。
「僕たちFAが究極のスピードを求める存在であることは、周知の通りだと思う。最先端の技術があれば、最上級のテクニックがある。それぞれの主義主張、信念と情熱――それに国籍も。それらの善意も悪意も、全てがここにはある。けれど、それも要素にしか過ぎないんだ。たしかに僕たちは、スピードを志す人達が集うその頂点のカテゴリーにいるよ。でも、だからと言ってここに居ない人たち、あるいは今ここを目指している人たちと違うゴールを目指しているわけじゃない。皆同じなんだ」
 皆が固唾を呑んで明人の言葉を聞いていた。その表情は、かつてグラシスとともに明人の自由論を聞いていた、雪枝のそれにも似ている。その時は、彼女の頭の中には父の――彼女にとっては夫の姿があった。そして今、記者たちの頭にも同じように天河治己の姿があるのだろうか。スピードを追い求める人々を名実ともに導いた、その男の姿が。
 だが明人は、父のようになりたいとは思わなかった。誰もが――北辰さえもが、その愛娘に天河治己のようになって欲しいと願ったというのに。
「僕はタイトルを獲りたい。でも、それはあくまで一時的なものだ。僕たちレーサーは誰もが頂点を目指すけど、現実にその時は永遠に来ないだろう。誰かが頂点を極めれば、即座に他の誰かが次の頂点を目指すからね。でも、それでも僕たちは、解になりたいんだ」
 父が偉大であったことは、事実であろう。でも、夢の中で会った父がそう言ったように、明人は偉大になどなりたくなかった。
 自分の世界を愛する、それはその世界に生きる人々を愛するということである。それは決して偉大なことではない。人として生きる限り、当然のことであるに違いない。しかし、明人がただ一つ求める人の心の本質こそ、それなのだ。
「フォーミュラ――これは、スピードの方程式だ。一つの解が求められれば、次の瞬間にはそれすらも新しい項となる。それはこの世界が生まれた時から変わらない」
 言って、明人は記者達を見渡した。老若男女、そして国籍も、世界のたくさんの場所からやってきた人々が、そこにいる。そんな彼らの視線を一身に受けている自分が、明人には不思議だった。この期に及んでも、明人はそれが自分の役目だとは思っていなかったからだ。他に誰かが言うのを待っていたわけではないが、ちょうど聞かれたので、答えた。それだけであったのだ。
 明人は一瞬目を瞑り、また開いた。
「レースは僕の血だ。だからこそ僕はみんなと一緒に、この方程式の解となり、次なる項となりたい。僕たちフォーミュラ・アーツの、この世におけるその意義に」
 室内は、しんとしていた。
――それが今まで天河治己の息子として生き、天河明人というレーサーとして生きてきた自分の、現在における答えなのだと。明人が付け加えても、記者たちは黙ったままじっと明人を見つめているのだった。
 明人は隣の赤月を見た。彼は口元に笑みを浮かべて、じっと目を瞑っている。北斗も見た。彼女は、こうした公の場ではあまり見せないその素顔のまま、明人を見ていた。しかしやがて彼女も、ふっと笑って視線を前に戻した。
「ありがとう、天河明人」
 宗丈の声が、やっとのことで記者たちを溶かした。
「貴方の答え、しかと受け止めさせてもらったわ」
 そう言って彼は席を立つと、一足先に記者会見場を出て行ったのだった。










to be continued...


※厳密には、方程式は「the equation」です。


先日、アメリカのインディカー開幕戦において、ドライバーが死亡する事故がありました。今回、折しも明人にこの世界を統括してもらう、その矢先でした。謹んでご冥福をお祈り致します。

 

 

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代理人の感想

合掌。

くしくも、というか何ともいえないタイミングでしたねぇ。

レースが輝くのは、こういう生死の狭間、ギリギリのところで戦っている姿あってのことなのかもしれません。

そう考えるとアキトの言葉にもまた別の感慨のような物が沸いてくる気がします。

 

 

 

ところでこれは完全に余談ですが、予選のあたりを読んでいたとき、

不意に頭の中で(よりによって)「走れマキバオー」の演奏が始まりまして。

 

♪スタートダッシュで出遅れる どこまでいっても離される ここでお前が負けたなら おいらの生活ままならぬ

♪ところが奇跡か神懸り 居並ぶ名馬をゴボウ抜き いつしかトップに躍り出て ついでに騎手まで振り落とす

♪走れ走れマキバオー 本命穴馬掻き分けて 走れ走れマキバオー 追いつけ追い越せ引っこ抜け

 

笑ってまともに読んでいられませんでしたので、しばらく更新作業が中断しました(爆)。

とりあえず後で読み返すまでかなりの冷却時間を要したことは申し上げておきます。

ああ、なんかいろいろと台無しだ(爆死)。