廊下の角を曲がったところで、ユカは立ち止まった。アキトに口をきいてもらえなかっ
たのはここ数日いつものことだから慣れていたが、病室を追い出されたのは初めてだった。
それはどこか胸がすうすうして、目の前が暗くなるような感覚だった。
 ユカは俯いて、足元を見た。誰かが落としていったのか、一枚のコインがそこにある。
それをつま先で蹴飛ばしてみると、チリンと音を立ててコインは転がっていってしまった。
しかし彼は、目でそれを追うだけで拾おうとはしない。それを拾って彼に見せる勇気がわ
かなかったのである。
 コインは次第に勢いを失って、ゆるゆると転がってゆく。そして、黒い塊にこつんとぶ
つかって止まった。だがそこは廊下の真ん中で、ものが置いてあるようなところではない。
ユカが不思議に思って視線を上げた先には、暗い色のスーツに身を包んだ男女が一人ずつ、
静かに立っていた。
 そのときユカは、何かを悟ったのだろう。その表情からそれまでの憂いは消え、瞳から
輝きが失せた。男女は申し合わせたようにユカに向かって歩き出すと、彼の両後ろにぴた
りとつく。彼に前へ歩けと促しているのである。ユカはちらりと二人を一瞥して、歩き出
した。
 裏口から直接病棟の庭に入って待っていた車に乗るとき、ふとユカは自分がいま出てき
た病棟を見上げた。日はすでに暮れている。星が見えた。ところどころで灰色にぼんやり
と光っている雲が、真っ暗な病室の窓に映りこんでいた。その中でアキトの病室だけに、
明かりが点いていた。カーテンは閉まっていたが、その隙間から淡い光が漏れているのだ。
 しばらくそれを見つめていたユカは、そのまま視線を上げて頭上を仰いだ。
――空が、高い。
「ほら、乗って」
 女が急かし、ユカは何も言わずに車の後席へと乗り込む。そして車は、静かに裏口を出
たのである。

 どこへ行くのかは分らない。市街へ向かっているようでもあるし、離れているようでも
ある。曲がりくねった山間の道には、既に夕日も差し込んでいなかった。
 車には、運転手が一人と助手席に一人、それにユカを迎えに来た二人の、四人が乗って
いた。そして、後席で男女に挟まれるようにして座っているのがユカである。
 誰も一言も発しない。低く唸る車のエンジン音と、タイヤが落ち葉や小石を踏むかすか
な音だけが、ユカの耳に届いた。
 これからどうするのか、そういうことは考えないようにしていた。いつも仕事は唐突で、
今日のように迎えがやってきて連れ出される。そして行く道すがら目標の写真を渡されて、
必要なものを尋ねられるのだ。今日に限ってそれがまだないのは、おそらく遠い場所での
仕事なのだろう。飛行機の中か、或いは着いてから教えられるのかも知れない。
 今回は、どうしようか。あまり殺すことに趣向を凝らすことはしない。どうやっても、
結局は同じだからだ。ただ、目標と自分との間に距離があるとないとでは、少し違った。
 照準器の向こうで目標の頭が弾け飛ぶのは、まるで実感がわかない。相手はそのままく
ずおれるように倒れてしまい、人形を撃つのと変わらないからだ。だが、至近距離で蜂の
巣にしたり、ナイフで喉笛を掻き切る場合は違う。どんなに深い傷を与えても、相手はす
ぐには死なないからである。
 数分と待たず死にゆく人間が今際の際に見せる、その目。それを目の当たりにすると、
ユカはいつも笑いたくなった。なぜなのか、彼自身にもわからない。ただ笑いがこみ上げ
てきて、止められなくなってしまう。声は出ない。しかし、涙がこぼれるほどに笑った。

 なぜだろう――そんなことを考えていたユカは、ふと顔を上げた。そして窓の外を見る。
雑音ではない何かが、聞こえたような気がしたのである。
「ねえ、窓を開けてくれない。気分が悪くなっちゃった」
 さも具合が悪そうに言ってみた。すると、左に座っていた男は何も言わずに無視してい
たものの、右に座った女は、少し考えてからほんの二センチほど窓を開けてくれた。
 風は入ってこなかったが、それまでなかった音が車内に流れ込んでくる。それは車が風
を切る音であったり、タイヤが転がる音であったり、或いは周りの木々が車の起こした風
にあおられてざわめく音である。少年は、それらの音を注意深く聞いていた。
 そのときである。大人たちの耳に聞こえたかどうか知れないが、少年の耳にはたしかに
届いた。鳥の声である。彼はそれが何という名の鳥の声かわからなかったが、烏とは違う
甲高いその声に、はっと目を丸くした。
 すぐに遠ざかるその声を追って、少年は後ろを振り向いた。そこに一瞬、見えたのだ。
鳥ではない。道の向こう、くぼ地を隔てた丘の裾に小さく小さく、彼がつい先ほどまで散
歩を楽しんでいた病院が、見えた。
「おい」
 急に身じろぎをした少年に、隣に座っていた男が呼びかけた。だが少年は、それでも姿
勢を戻そうとしない。わずかに目を見開いて、遠ざかってゆく風景のある一点だけを見つ
めていた。
「戻れ」、そう言って男が少年の肩に手をかけ、強引に引き戻したときだった。
 少年の手がすっとポケットに入ったかと思うと、次の瞬間には男の喉元にあった。「ゲ
ッ」という男の呻き声に最初に振り返ったのは、横の女である。しかし彼女には何が起き
ているのか把握できなかった。
 少年がかすかに手首を捻って横に払ったとたん、男の首から血が吹き出した。そのとき、
やっと女は少年の手に握られているものに気付いた。それは、男の血にまみれた一本のメ
スだったのである。
 少年はすぐさまそれを逆手に持ち帰ると、運転手の耳の下辺りに突き立てる。今度は一
言も発することはなく、一瞬の痙攣ののち、運転手は絶命してハンドルに突っ伏した。助
手席に座っていた男は既に拳銃を取り出していたが、慌ててハンドルにかじりつく。女も
やっとポケットから小型の拳銃を取り、少年に向けようとした。
 乾いた音が車内に響いた。しかし一発の弾丸に貫かれたのは少年ではなく、助手席から
身を乗り出してハンドルを操作していた男だった。少年が発砲の寸前に女の手を弾いたの
である。勢い余って放たれた弾丸は、男の後頭部に穴を開けた。

 運転手を失った車は、道路脇の土壁に乗り上げて、止まった。激しく翻弄された車内で
女は頭を窓ガラスにしたたかに打ちつけたが、ともかく一旦その場を離れようと、ひしゃ
げたドアをこじ開ける。少年の生死を確認する余裕などなかった。
 やっとのことで車から数十メートル離れた彼女は、そこにあった木の陰に転がり込むよ
うにして身を隠す。そしてすぐに携帯電話を取り出し、プロスペクターが持っているはず
のナンバー・ワン回線を選んで通話ボタンを押した。
 彼女は、後悔していた。相手が子供だと思って、油断していたのである。通常の「仕事」
を装って連れ出すことができると思っていた。それどころか、最初に写真を見せられたと
きも、ついに自分は子供まで手にかけるのかと憂鬱になったりもしたのである。
 病院で初めて会って、一層その思いは強くなった。だが、彼はやはり暗殺者だったのだ。
彼女の目の前で、ものの数秒とかからず大の男三人を殺してしまったのだから。
 電話の呼び出し音がこれほどもどかしく感じられたことはなかった。しかし一方で訓練
の賜物か、次第に冷静に物事を考えられるようになってくる。だが逆にそれは、彼女に絶
望を与えただけだった。彼女はそのときになってやっと、自分が拳銃をどこかに落として
きてしまったことに気付いたのである。
 慌てて木の陰から顔を出し、ここまで来る途中に落としてはいないかと道路上を探して
みた。しかしそこには、拳銃らしきものは転がっていなかった。
「もしもし」
 その時になって、やっと電話の向こうから声がした。電話が繋がったからと言って状況
が好転するわけでもないが、それでも彼女にとっては天の助けにも等しい声である。彼女
は再び慌てて木の陰に引っ込み、電話を耳に押し当てた。
「すみませんっ、状況が――」
 そこまで言った彼女だったが、次の瞬間、はっと息を呑んで表情を強張らせた。その目
の前には、彼女が探していた拳銃の銃口が突きつけられていたのである。
「どうしました?」
 電話の向こうから、プロスペクターの声が聞こえてきた。ついさっきは彼に抱かれても
いいとさえ思ったその声が、いまは雑音の一つに過ぎなかった。なんとかして目の前の少
年を説得するための言葉を考え出すには、耳元のその声は邪魔なだけである。
 なぜ人を殺すのか、そんなことを問うても無駄だろう。何か物で釣る……その程度で釣
られるなら、少年はいまこの場にいない。どんな交渉も通じない気がした。同時に、自分
がこんなにも死を恐れていたことを知った。
 そう思えると、今度は目の前の少年を暗殺者に仕立て上げた人間が恨めしくなった。ど
この誰が、こんな年端もいかない子供を薄汚れたこの世界に叩き込んだのだろう。
 金色の髪と白い頬を血に濡らし、これも返り血で真っ赤に染まった入院着で、静かに彼
女を見つめている。その青い瞳はかすかな笑みを湛えていた。
(綺麗な瞳)
 場違いにも、そんなことが彼女の頭に浮かんだ。
 いつから彼は、血を恐れなくなったのだろう。いつから彼は、死体を恐れなくなったの
だろう。もしその場に自分がいられたら。身勝手で無責任な言い分だと彼女自身も思った
が、そう思わずにはいられなかった。

 少年が、引き金にかけた指に力を込めるのがわかった。こういうとき、物事がスローモ
ーションに見えるのは本当なんだと、どうでもいい考えが浮かぶ。必死で考えた末に彼女
の口から出た言葉は、ひとつだけだった。
「やめて――」
 それが、彼女の最後の言葉である。





 アキトの病室の外でプロスペクターは、携帯電話を耳に当てたまま、黙っていた。
 部下の命乞いがかすかに聞こえたあと、何かが破裂するような音がした。それは携帯電
話のマイクが大き過ぎる音を拾えなかっただけで、銃声だとすぐにわかった。そして、お
そらく彼女の手から携帯電話が落ちたのだろう、ゴツンという音。
 おそらく、四人とも殺されたのだろう。そう判断して、プロスペクターは表情を顰めた。
 そのときである。電話の向こうから、声が聞こえたのだ。
「……誰?」
 それは、まぎれもなくユカの声だった。
「……ユカ君、ですか」
「うん、そう。……誰?」
「プロスペクターといいます」
「……知らない」
「アキト君の友だちですよ」
「……………」
 アキトの名を出すと、案の定ユカは黙り込んだ。だがプロスペクターは、それで顔色を
変えたりはしない。いまはまだ、狂犬が野放しになっている状態なのだ。それもおそらく
は、彼が知る中でももっとも牙の鋭い、敏捷な狂犬である。
 まずはどこかへ誘い出すしかあるまい。そこで、自分が相手をしよう。そう思い、プロ
スペクターは口を開こうとした。だがそれよりも先に、ユカの声が小さなスピーカーから
聞こえたのである。
「じゃあ、アキトに伝えて。僕がアキトを楽にしてあげる、って」
 それは、彼が考え得る中でも最悪のケースとして想定していたものだった。
 ユカがアキトを慕っていたのは知っている。これまで少なくとも一年間、そんな感情は
欠片も見せなかった少年である。それが初めてアキトに対して抱いたであろう思いが、万
が一向いてはいけない方向へ捻じ曲がってしまったら。それを、プロスペクターは恐れて
いたのだ。しかしいま、それは現実のものとなってしまっていた。
「楽にする、とはどういうことです?」
「楽にするっていうのは、楽にすることだよ。どうして?」
 プロスペクターが聞き返しても、ユカは微塵の戸惑いすら見せず、言った。その口調か
ら、プロスペクターは思うのである。彼にとって、死ぬことは生命の流れの中で過程のひ
とつに過ぎないのではないか、と。
「貴方は、アキト君が好きなんでしょう? 彼を殺して、貴方はどうするんです」
 無駄なことを尋ねていると、プロスペクターは思った。人を殺さないと生きていられな
いと言った少年が、もはやアキトと共に更生に励むとは思えない。いや、更生という言葉
自体が、彼にはないのだ。なぜなら彼にとっては、それが世界なのだから。
 愛があれば、などと無責任な言葉を吐くつもりはない。愛などと言うものが世界に溢れ
ていたら、そもそも少年は生れてすらこなかったかも知れないのだ。
「うん、僕はアキトが好きだよ。だから、アキトには楽になって欲しいんだ。だっていま
のアキト、すごく苦しそうだもの。―本当はもっとアキトと話したいけど、それよりもア
キトに笑って欲しい。楽になったら、笑えるでしょう?」
 結局どうしようもないのであろうことは、想像に難くなかった。時間稼ぎでしかない。
状況を察知してやって来た部下に、手早くメモ帳を取り出して指示を書く。部下はすぐに
廊下を戻って行った。
 アキトがこれを聞いたら、どう思うだろうか。いや、そんなことは百も承知である。彼
のことだ、余計に苦しむに違いない。彼は、そういう人間なのだ。おそらく生れついての
ものだろう一途で素直な心と、顔も知らぬ誰かを案ずる優しい心が、いつも彼を傷つける。
「聞かせてもらえませんか」
 ほかの何を尋ねる気も失せて、プロスペクターは口を開いた。
「貴方は、どうしてアキト君を好きになったんです?」
 答えはすぐに返ってこなかった。しばらくの沈黙が、二人の間を支配する。
 どちらにしろ、これではっきりするだろう。理由があるのなら、彼はアキトに誰か自分
の欲するものを重ねているだけだ。確かにそういう存在から切り離されていた少年だから、
その気持ちは本物だろう。しかし、アキト自身を見ているわけではない。それならば、ア
キトに知らせる必要は、ない。
 だが、もし理由がないのなら。彼の優しさとか、共感する何かとか、とってつけたよう
な理由が一切ないのなら。それを考えて、プロスペクターはさらに顔を顰めた。何故なら
ユカという少年には、その可能性も十分に残されているのである。
 そしてユカが、口を開いた――。





 夜明けまで三時間ほどあった。空を見上げれば、よく晴れている。ところどころに雲の
切れ端が浮かんではいたが、満天の星空と呼ぶに相応しかった。月は半月から少し満たさ
れて、暗い庭の草原を銀色に照らし出していた。
 アキトは、その銀色の草原を見渡せる、ベンチに腰掛けている。彼は、つい先ほどプロ
スペクターと交わした会話を思い出していた。

「俺を、殺しに来るっていうんですか」
「はい」
「なぜ」
「……………」
 詰め寄りこそしないが冷徹なアキトの口調に、プロスペクターは言葉を選ばざるを得な
かった。彼は、気付いていないかも知れない。そういう部分は、たとえ復讐鬼になったと
しても子供のままなのだろうか。そんな考えも浮かび、プロスペクターは心のうちで苦々
しく思った。
「彼は、貴方を慕っていますよ」
「そのくらいはわかります」
「好きだ、と言いましたよ」
「……………」
 案の定、アキトは言葉を詰まらせた。それでもまだ納得できないようで、プロスペクタ
ーをじろりと睨んだ。無理もない。彼は、まだ知らないのだから。
「馬鹿な。あの子は男でしょう」
「………いえ」
 不審そうな表情で言ったアキトは、しかしプロスペクターの短い否定の言葉に片眉を吊
り上げた。それを確認したプロスペクターは、ずり落ちてもいない眼鏡を人差し指で押し
上げて、彼の目を見た。
「彼……いや、あの子は、少なくとも生物学上の男でも女でもないのです。ですが心は、
男にも女にもなり得る」

 言葉少なに語った彼の説明を聞いたあと、アキトは思わずプロスペクターを殴り倒して
いた。彼の眼鏡が落ちて、ヒビが入ったのを憶えている。だが、どうしてそうしたのかは
憶えていなかった。近くにいた彼の部下が慌てて止めなければ、もう二、三発は殴ってい
ただろう。
 彼を殴っても意味がないのはわかっている。彼が殴られる謂れがないのも、わかってい
るつもりだ。だが、身体を止められなかった。
 アキト自身、ユカが病室を訪れて話をするたびに、怒りを感じていた。その怒りはもち
ろんユカに向けられたものではなく、彼を暗殺者に仕立て上げてしまった大人達にである。
それが誰なのかは知らない。ユカに同情するつもりはなかったが、許すことはできなかっ
た。
 なぜ、自分が。火星の後継者を名乗る連中に身体中を弄られているときに思ったそれが、
再燃する気がした。
 なぜ、ユカが。
 アキトは、ユカがアキトに対して抱いているだろう感情を、ユカには抱いていない。彼
の心を占めて止まないのは、あくまでユリカであったのだ。だが、ルリに対して抱いてい
た感情に似たそれは、自分の中に感じ始めていた。年の離れた妹。プロスペクターの話が
本当なら、それも通じてしまう。
 だからアキトは、よけいに怒りを収められなかったのである。

――これ、庭で見つけたんだ。
――アキト、これなに? 廊下に落ちてたんだけど。
――ほら、見てよ。これ、僕に似てると思わない?
 楽しそうに話しているユカは、それでも年相応の子供とは思えなかった。同じ年頃の子
供たちが知っていることを、彼は何も知らなかったのである。テニスボールを見つけても
テニスが分らず、絵本を見つけてもそこに書いてある字が読めなかった。代わりに彼が知
っているのは、人の血の色と、悲鳴の声色である。
――あの悲鳴を聞いているとね、泣きたくなるんだ。
――でもそれが止まると、ほっとする。
――今度は笑いが止まらなくなっちゃうんだよ。
 たしかに彼は望まぬまま殺し屋に仕立てられた、犠牲者である。しかし彼は大人たちの
思惑を乗り越えて、さらなる存在へと自ら変わってしまった。大人たちが彼を制御できな
くなったことに気付いたときには、すでに遅すぎたのである。
 ユカは、もう暗殺者でも殺し屋でもなかった。どこかの誰かが捻じ曲げた道を必死で這
いずり、自らの生を見出せる場所にたどり着いたとき、彼は殺人鬼になっていたのである。

「プロスさん」
「はい」
 久し振りに自分の名を呼んだアキトに、プロスペクターは驚きながらも答えた。だが彼
の驚きは、それだけに留まらなかったのである。
 プロスペクターの目を正面から見つめて、アキトは言った。
「俺に、やらせてくれませんか」
 しかしその口調は、拒否を許そうとしていないことは明白であった。プロスペクターは
何かを言いかけて口を開いたが、すぐにそれを飲み込む。
 彼だって、わかっている。そもそもユカをつくり上げたのは、ネルガル自身だ。それが
トカゲの尻尾を切るのと同じように、今その存在をこの世から消してしまおうとしている。
ユカのためではない。ネルガルの損益のためである。
 その資格があるのかと問われれば、否と答えよう。あるはずがないのだ。だが、その最
後の役目に手を汚すのは、己に課せられた役割なのだと、プロスペクターは考えることに
していた。蛇が蛇の道を行くのは当然のことである。最後の尻拭いだけを他人に任せるわ
けにはいかないのだ、と。
 しかし、同時にアキトの気持ちもわかってしまったのである。彼はなにもプロスペクタ
ーやましてネルガルのために言い出したのではない。彼は、ユカのために自分がその手を
汚そうと言うのである。
 闇の手によって生まれ、闇の手によって覆われ消えてゆくユカ。そんなのはあんまりじ
ゃないか。アキトはそう言っているのだ。だからせめて、最期のときくらいはまだ闇に染
まっていない自分の手で。それが本来あるべき世界なのだ、お前が生れてくるはずの世界
だったのだと、ユカに伝えてやりたかったに違いない。
 それがわかったプロスペクターには、もはや何も言うことはできなかった。
「撃てますか」
 彼は一丁の拳銃をアキトに渡し、尋ねる。冷たく重いそれを受け取って、アキトは黙っ
てしばらく考えたのち、言った。
「感覚補助装置の感度を、限界まで上げて下さい」
 それが一瞬の攻防のためだろうと思ったプロスペクターは、苦い表情を見せる。
「……歩くだけでも苦痛ですよ」
「構いません」
 そう言ったのち、アキトは服を着替え始めた。エリナの気遣いだったのだろうか、彼が
入院してから病室の棚にあり、一度も袖を通されなかったトレーナーと、デニムのパンツ
である。それは、彼がユリカやルリと暮らしていた頃に好んでしていた服装だった。
 そしてプロスペクターは、ぽつりと言ったアキトの言葉を聞き逃さなかった。
「……テンカワ・アキトの最期に、お似合いですよ」
 そう呟いて、アキトは口を閉じたのである。





 ユカが裏口の門に姿を現したのは、それからどのくらい経った頃だったろうか。炯々と
明るい月だけが、静けさに包まれた世界を銀色に照らし出している。その光の届かない木
々の間から、小さな白い影は現れた。
 アキトはベンチに座って、俯いている。その手には、鉄色に光る拳銃があった。小さな
ユカの身体を支えて埋もれる草の音が、さくさくとひと際大きくアキトの耳にも届いた。
「ただいま、アキト」
 ユカはアキトから六、七メートルおいて立ち止まると、にっこりと微笑んで言った。そ
の声に、やっとアキトは顔を上げる。しかしユカはそれを見ると、悲しそうに表情から笑
みを消した。
 ユカは、右手にシークレットサービスから奪った拳銃を持っていた。しかしそれをアキ
トに向けようとはせず、一歩を踏み出して彼に近寄ろうとする。
「動くな」
 アキトが言った。ユカは驚いたようにぴたりとその動きを止め、アキトの膝の上を見た。
彼はそこで、初めてアキトが銃を手にしていることに気付いたのである。そのときのユカ
の表情の変化を見て取れたのは、おそらくアキトだけだったに違いない。病棟内で固唾を
呑んでそれを見守っているプロスペクターたちは、小さなそれを認めるには遠すぎた。
「アキト」
「お前は」
 ユカが何か言いかけたのを遮って、アキトが口を開いた。
「お前は、殺し過ぎた」
 苦しそうなその声は、しかし静寂に満ちた銀色の世界に凛と響いた。ユカは戸惑うよう
に視線を彷徨わせていたが、すぐにアキトの目を見る。道に迷った少年のような目で、彼
はアキトをじっと見つめていた。
 しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのはユカである。
「どうしたの、アキト。変だよ」
 彼は、怯えているようにも見えた。アキトがふとベンチから立ち上がると、びくりと震
えたのである。
「変なのは俺ではない。お前だよ。今までに何人殺した」
 ユカはアキトの豹変に戸惑いを隠せぬ様子で、強められた語気に再びその小さな肩を震
わせる。しかし彼は少し俯いて考えたあと、おそるおそる顔を上げた。
「そんなこと、ないよ」
 そう言って彼は、銃を持っていない手を自分の胸に当て、言った。
「そんなこと、ない。野原を走り過ぎた犬はいないし、空を飛び過ぎた鳥はいないもの」
「奴らがそうしないのは、そうすると死んでしまうのを知っているからだ」
 病棟の中で二人の話を聞いていたプロスペクターは、感じた。ユカは、初めて迷ってい
るのだ。アキトの言った言葉だから、彼は無視することも否定することもできず、自分の
心で必死に考えている。
 だが、それから想像できる結末は、素人でも難しくない。ここでユカが劇的に改心する
ことは、有り得ないからだ。
 子供が地獄で生き延びるには、考えるよりも逃げる方が得策だった。そうしてユカは生
きてこられたのだから。だがそれ故に、彼はいま突然の否定に戸惑っている。自分が生き
るためにしたことを否定されたのは、ユカにとっては自分を否定されるに等しいからだ。
「そんなの」
 悲しそうな顔で言うユカは、それっきり黙ってしまった。
 アキトに拒絶されたユカがとる行動と言えば、易く想像できた。もともと生命の存在価
値を拒絶して生きてきたのである。アキトと自分の間に感じていた絆が断ち切れたと感じ
れば、それは即座にアキトを特別視していた彼の心の終焉を意味した。
 それでもユカは、懇願するかのようにもう一度アキトの顔を見た。
「ちがうよ」
 今にも泣き出しそうな表情で、彼は言う。それを見て、プロスペクターは確信した。
 ああ、この子は本当にアキトが好きだったのだ。理由は分らない。ユカだって、アキト
にいなくなられるのは身を切られるより辛いに違いない。それでもアキトが苦しまずにす
むことを願って、必死に彼の元へと戻ってきたのだ。なんという優しい子ではないか。
 だが、すべては遅すぎた。ユカには、もはや生きる道が残されていないのだ。プロスペ
クターは、眩しいくらいに輝くユカの瞳に、目を逸らせることしかできなかった。
 誰かが。自分でなくてもいい、誰かが、気付いてやっていたら。ユカはここにいなかっ
た。どこかの町で、幸せでないにしてもふつうに暮らしていたに違いない。同じ年頃の子
供たちと一緒に町を駆け回り、笑ったり、泣いたり、怒ったりしていたに違いない。
 これがあの子の運命だったのだろうか。生れたときから決まっていた、宿命だったのだ
ろうか。それは、プロスペクターには到底答えを出し得ない命題であった。
「お前は、殺し過ぎたんだよ」
 アキトの重い声が、静かに響いた。いや、重い中にも一抹の優しさを含めたその声は、
しかし世界でただ一人、ユカにのみ向けられていたのだろう。

 ひとつの銃声が、白み始めていた夜空に染み渡るようにして広がっていった。
 はっとなって顔を上げたプロスペクターの目には、二人がほんの一メートルほどの距離
をおいて向かい合って立っているのが見えた。アキトの手に持たれた拳銃の銃口から、鈍
色の煙が仄かにあがっていた。
 どさりと言う音がして、ユカの手から銃が落ちた。ユカは、ほんの数日前アキトに初め
て出会ったときのようなきょとんとした表情で、ただじっとアキトの顔を見上げて立って
いる。アキトは微動だにせず、それを見つめ返しているようだった。
 ふとユカの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちるようにして倒れた。アキトはそれを
支えようとはしなかったが、ユカに近づくと、そこに跪く。銃を草の上に捨てた。
 するとユカの身体がぴくりと動き、鈍い動きで這うようにしてアキトの服を掴む。それ
を見ていたプロスペクターは、まさかまだアキトを諦めていないのかと思い、隣の狙撃手
にいつでも撃てるように目配せをした。彼は、最初からそうしてユカを照準器の中心に捉
えていたのである。
 しかしそれは、思いすごしであった。ユカはアキトの膝から大腿を這い登るようにして、
彼の胸にその顔を埋もれさせたのである。

「………うっ……く………」
 小さな小さな声が、ユカの口から漏れた。アキトがユカの背に手を乗せると、その声は
少しだけ大きくなった。
「……うっく……うええっ………うっ、うえっ、えっ……」
 それがユカの嗚咽であることがわかったのは、アキトだけだったのかも知れない。プロ
スペクターたちには、ユカがアキトにしがみついている姿しか見えなかった。
 大きな青い瞳から大粒の涙をぽろぽろとこぼし、ユカは泣いていた。ときおり血の混じ
った咳をしたが、それでもアキトの服を掴んで離そうとせず、ひっくひっくとしゃくり上
げた。
「…うっ、えっ……ア…キト………うっく……アキト……」
「寂しがるな。………いずれ、会える」
 アキトがそう言うと、ユカは彼の胸に鼻をこすりつけるようにして、かぶりを振った。
それがアキトとの別れを悲しんでのものか、それとも別のものなのか、ユカ以外の人間に
確信を得る方法はない。
 ユカの嗚咽は止まらなかった。腹を撃たれたというのに、その小さな身体にどれほどの
思いを堪えていたのか、ユカは泣き続けた。アキトの服を涙と血で濡らし、堅く握った手
でしわくちゃにして、ユカは泣いていた。
「泣くな」
 アキトが言った。そして彼は、ユカの頭を抱いて自分の胸に包み込む。
「泣くな、ユカ」
 それはしかし、誰に向かって言った言葉だったのだろうか。もしもユカならば、そうす
ることですこしでも不安を取り除いてやろうとしたのかも知れない。アキトはユカの頭を
抱いたまま、動かなかった。
 そのときである。突然あたりが光につつまれたのだ。大地が色彩を取り戻し、ユカの髪
が金色に輝き始める。閉じられた青い瞳は見えなかったが、頬を伝う涙の筋がきらきらと
日の光を反射した。夜明けだった。

 どのくらい経ったのだろう。朝の透明ながらも暖かい日差しに包まれて、次第にユカの
嗚咽は小さくなっていった。同時に浅く上下を繰り返していた彼の細い背中も、その動き
をさらに緩慢に、そして小さくしてゆく。
「ユカ」
 アキトの声が、澄んだ朝の空気の中に弱々しく響いた。だがそれに応える声は、もうな
い。いつの間にかユカの小さな身体は、アキトの腕の中で動かなくなっていた。
「ユカ」
 もう一度その名を呼び、顔をのぞき込む。そこには、泣き疲れて眠ってしまった、小さ
な子供がいた。
「ユカ……」
 眠っている子を起こさぬよう、アキトは小さな小さな声でその名を呼んだ。できるだけ
優しく、しかし不安がらぬようしっかりと、その身体を抱きかかえて。
 草の葉についた水滴が朝陽を反射して白く光る草原の真ん中に、彼らの影はどこまでも
長く伸びていた。














 私たちは、家に帰ってくる途中、ずっと一言も喋らなかった。
 ルリもユリカも、プロスペクターさんやアカツキさん、それにエリナを責めようとは、
しなかった。でも言葉を発することはできず、一足先に帰るアカツキさんとプロスペクタ
ーさん、それにハーリー君を見送った。私とエリナは、彼女たちの家に泊まることになっ
ている。
 家に帰り着いて、久し振りにユリカのつくったラーメンを食べた。ルリのつくったそれ
に比べると相変わらず塩味が強いけど、今日はそれでもいいと思った。塩味噌風テンカワ
ラーメンだと思えば。
 食べ終わっても、みんなテーブルを囲んだまま、ぼんやりとしていた。
「ユカ君……ちゃん、かな?」
 最初に言葉を発したのは、意外にもユリカだった。彼女は話を聞いている途中からぼろ
ぼろと涙を流していたのに、いまはもういつもの笑顔に戻りつつある。たぶん、この四人
の中で一番強い女性だろう。
「いいなあ。いま、アキトの隣にいるんだよ」
 悔しそうに、彼女は笑う。
「……そうですね」
「……そうねえ」
 ルリとエリナも、笑いはしなかったけど、頷いた。
 また沈黙が続いた。でも今度のそれは長く続かず、元気よく背筋を伸ばしたユリカに、
あっさりと破られる。
「決めた! 私も死んだらアキトと一緒に埋葬してもらおう! ね、エリナさん、よろし
くね!」
「よろしくね、ってユリカさん。貴女はアキト君の奥さんなんだから、当たり前でしょう。
ミスマル家が反対するってんなら話は別だけど。それに、貴女のその図太さなら私の方が
先だわ」
「あっ、そうか」
 相変わらずの少しずれた決意に、思わず私たち三人は吹き出した。エリナも、「少しは
否定しなさいよ」って笑ってる。アキトもたぶん、笑っているだろう。
 それを境に、やっと私たちに笑顔が戻ってきたような気がする。女三人寄れば、ってエ
リナは言ってたけど、本人がそれに加わっているんだから世話はない。
 いつもの笑顔とはちょっと違う。でもそれも、日を追うごとに元に戻っていくに違いな
い。ユリカもルリも、エリナも私も、時間とともに今に至るのだから。

 翌日、私とユリカ、それにエリナは、城下の商店街を歩いていた。ルリは朝方迎えに来
たハーリー君とともに宇宙軍へと戻った。
 商店街は相変わらずの賑わいで、ところどころには露店も出ている。人を漕ぐというほ
どに混み合ってはいないけれど、二時間ほども歩きどおしだった私はへとへとに疲れてしまっ
た。でもユリカとエリナはウィンドウショッピングとやらに忙しいらしい。仕方がないか
ら私は、商店街の裏、王城を取り囲む湖のほとりにある公園へと避難することにしたので
ある。
 公園はそれほど人も多くなくて、商店街とは打って変わって静かだった。それでも私は
なんとなく独りになりたくて、人のいない方へと歩き続けた。そしてやって来たのは、公
園のはじっこ。大きな一本の木が小さな広場をすっぽり覆ってしまう、湖に飛び出た芝地
だった。具合のいいことに、そこからはアキトの眠る山も見えた。

 アキトはたぶん特別な人だったんだろうって、私は最近思っている。でもそれは、昨日
の話を聞いていっそう確信を強めた。
 良い人じゃなかったのかも知れない。数え切れないくらいの人を殺した。でも、悪い人
でもなかった。だってこんなにたくさんの人が、アキトを慕っている。ここにいる四人は
もちろん、アカツキさんもプロスペクターさんも、ハーリー君もアオイさんもユキナさん
も、それに元統合軍の人も宇宙軍の人も。私が知ってる人たちは、みんなアキトが好きだ
った。
 もうこの世にはいない。いつか皆が忘れてしまうだろうけど、いまはまだ、たくさんの
人がアキトを知っている。それだけで、アキトは喜ぶと思う。だってアキトは、ふつうの
人だから。泣いて、怒って、笑って生きた、ふつうの人だったのだから。でもそれが、み
んなを惹き付けたんだと思う。その点は、特別だった。
 そう。特別なふつうの人。それがアキト。
 ユカも、たぶん私と同じようにアキトに惹かれたに違いない。どんなに上手く隠そうと
しても、彼は隠すのが下手だった。それはかえって中心の輝きを際立たせてしまって、心を
閉ざしてしまった私やユカを惹きつけたのだ。
 ユカは、想像しただろうか。アキトと共に暮らす、その時間を――。

「こんなところにいたの」
 突然後ろから声がして、私は振り向いた。そこにはエリナが立っていた。両手にたくさ
んの荷物を持って。
「そろそろ戻る?」
 私を心配したのだろう、彼女はそう言って、立ち上がった私に帽子を被せた。
 歩き出した私たちは、とくに何を言うでもなく、湖のほとりを歩いていた。でも、昨日
のことを引き摺っているわけじゃない。夏の終わりの、乾いた土の匂いを乗せた風が、心
地よかった。
 とそのとき、突然私たちの目の前に白いものが飛び出してきた。視界の中に現れたと思
ったら、ほとんど体当たりでもするかのような勢いで、私に飛びついてきたのである。私
は何もできず、立ち止まってしまった。
「……まあ、大きな犬ね」
 呑気な感想を述べたのは、もちろんエリナである。
「こらっ、ベル、だめだよっ」
 少し高めの男の人の声がした。飼い主だろう。その声を聞くと、ベルと呼ばれた大きな
白い犬はさっと身を翻して、声の元へと舞い戻る。
「ごめんなさい」
 そう言って謝ってきたのは、私よりずいぶん年下の少年だった。十歳を少し過ぎたくら
いだろうか。少し長めのなで付けたような金髪と、空色の瞳を持ったその少年は、ぺこり
と頭を下げた。その素直な仕草が、どことなくルリやユリカから聞いた昔のアキトに重な
る。私の知らない、アキトに。
「大丈夫よ。ね、ラピス………ラピス?」
「えっ……あ、うん」
 思わずぼんやりと彼を見つめていた私は、慌ててエリナに答える。少年はもう一度ぺこ
りとお辞儀をして、犬と一緒に去って行った。
「ちょっとラピス、いくら二十一にもなって彼氏の一人もできないからって、あの子、十
歳くらいよ」
 いくらなんでも、などと見当違いなことを私に忠告しているエリナ。でも私は、その言
葉も半分くらいしか耳に入っていなかった。そういう感情ではないのだ。違和感というに
も少し違う。
「そうじゃないわ。あの子、アキトに似ていた」
「アキト君に?」
 ますます訳がわからないといった風に、エリナは肩を竦めた。

 再びその少年と会ったのは、その日の夕方のことだった。べつにもう一度会いたいと思
ったわけではない。何となく気になって同じ公園に来てみると、少年は昼間私が座ってい
た場所に、同じように座って湖を眺めていたのである。
「あっ、昼間の……」
 私に気付いた少年は、すぐにまた謝ろうとした。が、私がそれを制してしまったので、
彼は少し戸惑いながら再び湖に視線を戻した。
「何を見ているの?」
 そう尋ねると、彼は私と湖とを見比べてから、「うーん」と唸る。難しい顔をして真剣
に悩んでいるその姿は、どこか可愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。
「ええと、とくに何かを見てるわけじゃ……」
 そう言って彼は、照れくさそうに笑った。それを見て、私は確信を持ったのだ。その仕
草は、やはりアキトにそっくりだった。容姿や風貌は違うけれど、持っている雰囲気がア
キトに似ている。それでも惹かれるというほどではないけれど。
「ここは、君の特等席だったのかしら」
 その質問に、少年はしばらく考えてから、「うん」と頷いた。そしてまたにっこりと微
笑んで、「大好きなんだ」と答えた。
 不思議なことに、私にはそれが、何となく嬉しく感じたのである。そう言ったときの彼
の表情は、とても幸せそうだった。どこの誰かも知らない男の子だけれど、たぶんたくさ
んの愛に囲まれて幸せな生活を送っているのだ。
「じゃあ、昼間は悪いことをしたわ。私が独り占めしてしまっていたから」
「そんなことないよ。僕の好きな場所をほかの人も好きになってくれたら、嬉しい」
 そして、とても優しい子だ。彼は、幸せというものを知っているに違いない。もちろん
説明することはできないだろうけど、心がそれを感じているはず。
 そう考えて私は、ふと思い出した。
 プロスペクターさんの話をそのままに再現するなら、目の前の男の子のような容姿であ
ったのかも知れない。ユカという名の一人の子供。

――教えて、ユカ。貴方は、アキトと話すことができて幸せだったのかしら。アキトの腕
に包まれて、幸せだったのかしら。暗殺者とか殺人鬼とかではない、一人の子供に戻った
貴方は、幸せだったのかしら。
 貴方がこの世にいた僅かな時間の中で、犯した罪は数限りないかも知れない。でも最期
に貴方が本当の幸せを感じることができたのなら、私は貴方の罪を忘れることにする。
 もしかしたら、アキトを復讐に導いたのは貴方だったのかも知れない。アキトは優しか
ったから。でもその優しさを繋ぎ止めた貴方を恨むことは、私にはできそうにない。
 許してくれない人もいるかも知れないけれど、私は忘れる。貴方は、ほんの短い間だっ
たかも知れないけれど、アキトの家族だったのだから。だから、安心してゆっくり眠って。
アキトと一緒に、静かに眠って。いつかまた目の覚める、その日まで――。

「そうだ、宿題をしなくちゃ……」
 少年がそう言って立ち上がったのは、私が二人に送る言葉を心の中で唱え終えた頃だっ
た。夕日が山の向こうに隠れようとしていた。反対側の空には、一番星も輝いていたかも
知れない。でもそれは、彼を振り返った私の視界の中には映らなかった。
 もしかすると居心地が悪かったのかも知れない。それはまた悪いことをしてしまったと、
謝ろうとした。
「お姉さんは、いい人だね」
 突然、彼が言った。その言葉の意味がわからず、私は彼に首をかしげて返す。すると彼
も自分の言った言葉を理解していないのか、照れ笑いを浮かべた。
「僕は帰るけど、ひとつ思い出したんだ」
 そう言って彼は、大きな木の傘の下から出て、空を振り仰いだ。
「ここ、すごく星が綺麗なんだよ。大きな星から小さな星まで、たくさんたくさん見える
んだ。だから僕は、ここが好きなのかも知れない」
 風が梢を揺らし、葉がさらさらと哀歌を奏でた。どこかで聞いたことのあるその言葉を、
私は咄嗟に誰のものか思い出すことができない。嬉しそうに話す少年が、誰かの顔と重な
ったような気がした。
 じゃあ、と言って、少年は家のあるのだろうその方向に向かって駆け出す。
「待って」
 私は慌てて彼を呼び止めた。少年は立ち止まり、きょとんとした表情で私を見る。
「私は、ラピス。ラピス・ラズリ。貴方は?」
「僕?」
 見知らぬ人物に名前を聞かれるのは初めてなのか、少年は驚いたように私を見つめた。
でもすぐに照れくさそうに笑う。私たち二人の間を、秋の木の葉を乗せた風がさっと通り
過ぎた。少年の金色の髪がふわりと浮かび上がり、美しさを増す。
 そして少年は、青い瞳を細めて、にっこりと微笑んだ。
「僕は――」




――僕は、ユカ。












                 < 終り >




あとがき

 まずはこれを読んでくれた皆様、ありがとうございました。
 SSを投稿するのはこれが初めてになります、はっさむです。

 見てお分かりの通り、アキト君が救出されてから復讐に至る間のほんの少しの時間を描
いた、劇場版IF(?)なSSです。
 読んでいて気付いた方もおられるかも知れませんが、とあるコミックにかなり影響を受
けています。最近新刊が発売されたのですが、それを読んで一気に書き上げたと言っても
過言ではありません。
 そのせいか一見してハッピーエンドとは言い辛いかも知れませんが、私なりに色々なも
のを込めたつもりです。あつかましい話ではありますが、読んで頂いた皆さんがどこかで
それに気付き、疑問に思って頂けたのでしたら、幸いです。

 短編と言うには少し長くなりすぎたかとも思いますが、最後まで読んで下さった皆様、
重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

代理人の感想

判っていてもいい話だったと思います。

救いになっているかどうかは判りませんが、せめて救われたと信じたい、そんな気持ちかと。

 

 

でも、やっぱり知ってる人は一発でしょうねぇ、これ(苦笑)。

前半の真中あたりで既にバレバレですし。

後、さすがに読みにくいですね。

字が小さいのももちろんですが、もうちょっと行間を空ける必要もあるかと。