機動戦艦ナデシコ

The prince of darkness episode AKITO












「おかえりなさい」



手元の作業に手が離せないのか、デスクの椅子に座ったままアキトにそう言うイネス。

「どうだったの?ちょっとした小旅行は」

「いちおうミッションだったんですけどね」

"息抜きさせたのはこの人の差し金だったんだな"と気付き苦笑するアキト。

「けどまあ・・・・・・悪くはなかったですよ」

「そう。それは良かったわ」

イネスは微笑む。

「イネスさんこそ少しは休んでいるんですか?あまり顔色が良くないですよ」

他人を気遣えるのは余裕ができている証拠だとイネスは分析する。

「私は大丈夫よ」

「何の研究しているんです?」

アキトはイネスの肩に手を置き、後ろからデスクの資料を覗き込む。
いきなり息遣いを感じられるほど接近したアキトに驚き、頬を染めるイネス。


(そっ、そういえば研究ばかりやっててお風呂に入ってなかったわ)

イネスはアキトに気付かれないように自分のにおいを嗅ぐ。

少しは汗臭くなっているかもしれないが、これぐらい関係ないはずだ。
なにしろアキトの嗅覚では感じることができないのだ。
しかし・・・・・・



(気になるわ)



ソワソワし始めるイネス。
どうしても気になってしまうのはイネスの女性らしさの現われかもしれない。


「どうかしたんですか?」

ちらちらと自分を見てくるイネスの挙動を不思議に感じるアキト。

「ちょ、ちょっとシャワーを浴びてくるわね」

急に立ち上がりそう言うイネス。

「え?あ?イネスさん?」

驚くアキトを尻目に物凄いスピードで隣室へと消える。


(どうしたんだ?)


首をかしげて考えてみるが、アキトには答えを出すことはできなかった。










アキトは主人の居なくなったデスクを見る。

そこにある膨大な資料の中にアキトの注意を惹くものが在った。



《感覚機能の回復について》



専門的な用語が所狭しと並んでいて、内容の詳細などは理解できようハズはなかったが・・・・・・。


壊すのは簡単だが、直すのは難しい。


そういうものだとは理解している。

現在的には味覚の回復は不可能なのだろう。
もし可能であるのならとっくにイネスが治してくれているはずだとアキトは思う。



(だけどこれから先は?)



イネスが自分に何も言わないのは、治せるようになる可能性が低いからなのだろうか?
それとも治せる技術が確定してから言うつもりなのだろうか?



イネスに問えばどうなのか知ることができるだろう。




だがもし


”未来永劫、治ることはない”


そういう答えが返ってくれば・・・・・・。





不吉でありながらも可能性の高そうな想像が頭をよぎり、背筋に冷たいものが流れる。















浴室に滑り込むと、すぐさまシャワーから水を出すイネス。

ペチペチと熱くなった両頬を叩く。


「はあ・・・・・・」


ため息を吐き視線を上げると、目の前に大きめの鏡があった。


頬は元より耳から首筋にかけてまで、その白い肌が赤く染まっている。



「まるで少女ね・・・・・・」



イネスは鏡に映る自分に、嘲笑とシャワーの水を浴びせた。








シャワーから落ちてくる水を両手で溜めると、顔に叩きつけるようにかける。
冷たい水は熱を帯びていた肌に気持ちよかった。



火照りが冷めてくると同時に、沸騰しかけていた頭も冷静になってくる。



アキトは自分の態度をどう思ったのだろうか?
そんなことを考える。


(お兄ちゃん・・・・・・)


アキトの息遣いや肩に置かれた手の大きさとあたたかさ。
それらを思い出すと、再び火照りが襲ってくる。

「もう!」

イネスは首を振ると、再び水を顔にかける。










――イネスフレサンジュ


天才と呼ばれいくつも飛び級もしていた彼女は、青春時代と言われる年齢を研究室の中ですごしていていた。
"探し物"があった彼女は、他人というものにまったく興味を抱くことがなく、研究室という特異な環境も相まって人との触れ合いを排除する傾向があった。
そしてそれはイネスに他人に対してさらに冷淡になっていかせる結果となっていた。


興味を持てるのは"探し物"と研究、そして説明だけであった。


だから知識は豊富なれど、経験は意外なほど少なかった。
男性経験はおろか、ファーストキスすらいまだ経験していないのが実情だ。

研究室という特異な空間で生きてきたイネスは世間一般で言う社会というものに触れることも少なく、いまだ少女のような感性を持ち合わせているのだ。
年齢に似合わない少女趣味のパジャマと、抱いて寝ているクマのぬいぐるみは彼女の精神的な年齢を表しているのかもしれない。

それが顕著に現れているのが"お兄ちゃん"への一途な想いと希薄なモラルであったりする。



だから仕方ないといえば仕方ないのであろうが・・・・・・。


(みっともない・・・・・・)


普段、超然とした態度でいられる自分が、まるで少女のように顔を赤らめ取り乱す。

そんな自分を格好悪いと思うイネスがいた。




















「〜♪〜〜〜♪」


(ん・・・・・・?)


イネスがいなくなったので、診療台で眠っていたアキト。
ゆっくりと覚醒していく。

頭の下に枕とは違う柔らかい感触を感じる。
それはイネスの太ももだった。


「〜♪〜〜〜〜♪」

(これは・・・・・・?)

「〜〜〜♪〜〜♪」


優しいメロディに乗って響いてくる女性の声。
声の持ち主はイネスだ。
そしてそのメロディはアキトもよく知っているものだった。


(この唄・・・・・・よく覚えている。確か、赤いゆりかご・・・・・・だったかな)


その唄は火星特有の子守唄であった。
当然アキトも幼き頃、母が歌うこの唄を聴いていた。

赤いゆりかご。
今でこそテラフォーミングの影響で赤くなくなったが、入植第一陣あたりの人間にとっては火星はやはり赤いものという印象があった。
それは火星で作られたこの子守唄にも色濃く現れている。




「「〜〜♪、〜〜〜♪」」


知らず知らずのうちに歌詞が口からこぼれ、イネスの声に重なる。

「あら?」

アキトを覗き込んでくるイネス。
アキトが起きたことに気が付いたようだ。

「知ってるの、この唄?」

「俺だって、火星で生まれた人間だから・・・・・・」

「そうね・・・・・・地球人には唄えないわね、この唄だけは」

イネスは微笑むと、いとおしそうにアキトの髪を撫でる。


"地球人"には唄えない。

イネスはとっくに地球人をやめているのだろう。


「ママから受け継いだ火星人の誇り。私はそう思ってるわ」

"勝手な解釈だけどね"そう付け加えるが彼女にとっては紛れもない真実なのだろう。

(俺は?)

イネスに強いシンパシーを感じる自分に気付くアキト。

同じ故郷を持つもの同士。
既に血縁を持たないもの同士。




(だからだろうか?彼女の傍がこんなに落ち着けるのは・・・・・・)




















しばらくしたある日、アカツキから呼び出しを受けるアキト。


会長室に入ったアキトはすぐ、重要な話があるのだと推測できた。

会長室にはアカツキ、イネス、エリナ、プロス、ゴート、月臣、そしてウリバタケと、関係者勢揃いしていたのだ。



「草壁の引越し先が見つかったんですよ」

話の口火を切ったのはプロス。
"苦労したんですよ"とハンカチで顔を拭く仕草をする。

苦労したのと今汗を掻くのは別だろうと思いながらも"ホントに苦労したんだなぁ"という印象を与えるプロスの演技に感心するアキト。
"そういやナデシコでやった葬式でも、一人号泣してたっけなぁ"と、その大げさな演技には年季が入っていることを考えるウリバタケ。

「で、どこなんだ?」

アキトはアカツキに問う。

「月・・・・・・だよ」

「月?」

判明した拠点の場所を意外に思うアキト。
以前、火星付近に潜んでいたことからも、地球からでは手の届きにくい遠くに潜伏しているのだという印象を持っていたからだ。
"火星の後継者"という組織の名前も、そういう影響を与える一因になっていたのかもしれない。

「そう。クリムゾンが戦後から建設していた月の造船工場にいるということらしい。
軍備を増強しながら潜伏していられることからも、これ以上ないほどうってつけの隠れ家なのかもしれないね」

「しかし、まさか草壁の本隊が地球近辺にいるとは思わなかったな・・・・・・」

「僕だってそう思ってたよ。灯台下暗しってことなんだろうね。
実際、こちらは裏をかかれていた。
そのせいで判明までに時間がかかってしまったんだけど・・・・・・」

「だが一度ライトが照らされれば、近い分手を出しやすい・・・・・・だろ?」

アキトがアカツキの言葉を継ぐ。

「そういうこと」

アカツキは不敵な笑みを浮かべる。





「今回の作戦、ネルガルシークレットサービスの総力を挙げて行う。
内部に侵入して遺跡の奪還、草壁の暗殺、ミスマル・ユリカ君及び火星の人間の救出。
それらが目標となる」

基本的な方針を示すアカツキ。
アキトは表情を厳しくする。
成功すれば、すべてに決着を付けられる作戦なのだ。


「今回の作戦は私が直接指揮を執ります」

メガネを直す仕草をしながら一歩前にでるプロス。

「テンカワさんには私の部隊に入っていただきますね」

「俺は部隊行動などできないが?」

「それで結構です。フォローは私がしますから」



プロスによって部隊編成など大まかな概要が示されていくが、そこにはある男の名前はない。

「お前は・・・・・・また居残り組か?」

アキトが言葉をかけた先にいるのは白い学ランを着た男。

「俺は・・・・・・」

視線を逸らす月臣。

「別にいいじゃない。わざわざ不安要素を連れて行くことはないわ」

そう言ったのはイネス。

「イネスさん・・・・・・?」

アキトが怪訝な表情でイネスを見やる。

「いつ裏切るかわからない人間を重要な作戦に帯同させるのには反対ってことよ」

イネスの切れ長の目は鋭く月臣を突き刺す。

「俺が裏切ると・・・・・・?」

月臣は殺気を込めた目で睨み返すが、イネスは凍えるような冷たい瞳でそれを受け止める。

「あら?アナタは裏切りなんてしない清廉潔白な木連軍人だったかしら?」

「くっ・・・・・・」

イネスの痛烈な皮肉に鼻白む月臣。
思わず視線を逸らしてしまう。

月臣は初めに友である白鳥九十九を裏切り、そしてその後上官である草壁を裏切っている。
謂わば二重の裏切りをしていることになるのだ。


「アナタには覚悟があるの?
木星人、つまり同胞を殺す・・・・・・あるいはアキト君やネルガルシークレットサービスが木星人を殺すのを黙って見ていられる覚悟が?
そこに明確な答えを出せない人間に"私たちの戦い"に踏み込んで欲しくないわ」

月臣の心境など意に介さず、更なる言葉をかぶせるイネス。

「ちょっとイネス?」

あまりにも好戦的なイネスの口調に驚き、制止しようと割ってはいるエリナ。

「どうしたのよイネス?なんでそんなに月臣君に突っかかる訳?」

「私はね、木星人なんて信用してないの。
嫌いなのよね・・・・・・木星人が」

「なんでよ?」

「なんでですって?そんなの決まってるわ・・・・・・」

言葉を切ると、再び凍れる刃を宿した瞳を月臣に向ける。




「仇だからよ」




イネスの発した言葉に周囲は緊張する。

「私のママを殺したのよ、木星人は。何百万もの火星の住人と共にね」

それは紛れもない事実。
イネスは目の前で木星蜥蜴に母親を殺されている。
イネスには木星人を憎むだけの十分すぎる理由があるのだ。

「記憶が戻った時、木星に対する憎しみも芽生えた・・・・・・。
けどそれは胸の奥にしまったままにしておいたわ。
お兄ちゃんが木星人を憎まないなら、お兄ちゃんが平和を望むなら・・・・・・それでいいと。

けど、戦争が終わってみて何か変わった?
地球も木星も互いの非を声高に言って回るだけで、自分たちの非を認めようともしない。
罪の意識も持っていない。
自分たちが殺した者への謝罪の気持ちなんて欠片もないわ。
木連の軍人ものうのうと統合軍へ再就職よ・・・・・・。
あれだけ殺しておいて・・・・・・あれだけのことをやっておいて!

そして今度はお兄ちゃんの幸せを奪ったわ。
僅かに残された火星の住人の生命と共にね」

「火星の後継者が木星人のすべてじゃないでしょう?」

「そうかしら?
木星人なんて状況が許せば火星の後継者たちと共に火星の住人を殺していたハズよ。
そして草壁が現れて理想を語ればきっとまた何億人も殺し始めるような連中よ」

そう言うイネスの視線には怒り、侮蔑、嘲笑・・・・・・そういった感情が込められていた。










"違う!"





月臣は大声でそう否定したかった。
しかし一方では理性がイネスの言葉を肯定していた。

草壁が決起すれば、多くの木星人が彼の元に集い、再び戦争を始めるだろう。
そうなるだけの理由があることを月臣は知っているのだ。




理由は蜥蜴戦争の在り方に原因の一つがある。
蜥蜴戦争は簡単に言えば木星が攻める側で地球は攻められる側だった。

地球側は火星で、月で、地球で攻撃を受け、大多数の"民間人"が殺されている。
翻って木星側は攻め込む側であったため軍人にしか犠牲は出ていない。
基本的に民間人に犠牲を出していない木星側は、この戦争の悲惨さというものの認識は地球側に比べると圧倒的に希薄であったのだ。


だから木星人は戦争という行為を否定する、あるいは嫌悪するだけの理由を持っていない。

これがまず一点。


木連では"地球人は極悪非道であり、木連は絶対の正義である"という教育を受けてきた。
"正義は一つだ"
かつて草壁が白鳥九十九の葬儀で言った言葉。
木連の正義こそが唯一無二である。
それを信じていたからこそ挙国一致での戦争を行えていた。

月臣のように、木連の正義の無謬性を信じられないようになる出来事を経験した後に地球側に触れた人間はともかく、大多数の木星人は木連の正義を信じたまま戦争を終えているのだ。
"木連は正義である"
そこを出発点にして地球との交流が始まっているから、そう簡単には価値観が変わったりはしない。
"あの戦争は木連が悪かった"などという極端な変節はもとより、"責任は木連、地球の双方が等分に負うべきだ"という考えにたどり着くことすら容易なものではない。
地球のほうが悪かったという気持ちは、程度の差はあれ誰もが持っている。

だから大半の木星人は地球人に対して不満を抱えたまま生きているのだ。



これらの点から、統合軍の3割を占めるに至っている木連出身の兵士の悉くが草壁に賛同してもなんら不思議ではない。
いや、それどころか木星全体が再び地球側との戦争に踏み切る契機となる可能性すらある。




それらを洞察できている月臣はイネスの言葉を否定できなかった。





















月臣は自室に戻るとベッドにその身を投げ出す。


「くそ・・・・・・」


目を瞑ったまま枕元にあるボックスの引き出しを開く。
その動作は目で確認しなくても行えるほど習慣となっているのだ。

ボックスから取り出したのは一丁の拳銃。
それはかつて親友である白鳥九十九の命を奪った拳銃であった。


自らの罪の象徴であるそれを見つめながら、思考の海に身を沈めていく。















俺は誰よりもまっすぐ正義に生きることを己に課していた。

正しい力・・・・・・そう、ゲキガンガーのような正義の力を身に付けるため誰よりも厳しく生きていた。

正義を説き、正義のために力を奮う。
そのために並みの木連男児では怯むほどの過酷な修練を積んできた。





伊達に優人部隊にいたわけじゃない。
けっして楽な人生を送ってきたわけじゃないんだ。











だが今、彼らにかけるべき言葉が見つからない。








五感と共に未来と幸せを奪われたテンカワに。
母親を殺された博士に。








彼らの心に届かせることができるだけのものが、俺の中に・・・・・・ない。






正義や熱血といった言葉はいくらでも思いつくのに・・・・・・。










それも当然なのかもしれない。






まっすぐ正義に生きたといえば聞こえはいいが、木連という閉鎖された狭い社会の中で与えられた価値観のみを信じて生きていただけに過ぎないのだから。
他人よりも厳しくそう生きたというのは、より狂信者への道を突き進んでいただけなのかもしれない。




時代が移ろい、地球との共存が始まり、新たな価値観に触れて初めてそのことに気付かされた。










自分の見えるもの、信じるものが世界のすべてじゃない・・・・・・と。










今、テンカワや博士・・・・・・火星の人間を前にして申し訳なさと恥ずかしさを感じる自分がいる。

あの戦争で正義の名の下に罪のない多くの多くの火星の住人を殺してしまったことに。
そして今また、草壁閣下と過去から教訓を得ることのできなかった俺の同胞たちが僅かに残された火星の住人に行っている行為に。









こういうのを罪悪感というのだろうか?









"我らの火星"に寄生していた悪の地球人など死んで当然だと思っていた。
火星の住人を殺したことは俺たちにとって誇るべきことであった。
地球から火星を取り戻し悪の側の人間を退治したと、誇りと明るい希望を与えてくれていた。









けれど今。
新しい価値観に触れた今。
その過去は俺の心に正反対のものしか与えてくれない。








過去の事実は変わらない。
変わったのは俺のほうなのだろう。








俺は間違っていた。
間違っていたのだと・・・・・・思う。






だが今までのすべてが間違いだったとは思わない。




九十九や源八郎と共に修行した時間。
共にゲキガンガーを語り合った時間。
共に笑いあった時間。




それはそれで俺にとっては掛け替えのないものだ。






だからどこまでが間違いだったのかと聞かれれば答えに窮してしまうだろう。










詰まるところ、今の俺にはまだ何も答えを出せていないということだ。













そう、答えが出ない。













もしお前が生きていれば、彼らにどんな言葉をかけるんだ?








そして俺はこれから何を求めていけばいいと言ってくれるんだ?








もしお前がいれば・・・・・・






























「九十九・・・・・・」






次はネルガルの大攻勢ということになります。
アキトが活躍しますので、期待してください。

 

 

 

代理人の感想

今回は一寸短かったですね。

しかし、短いながらもその中できちんと起承転結がついてるのは見習いたいところ。

長編の一部とは言え、一話という区切りというのは本来そうあるべきでしょうから。