機動戦艦ナデシコ
ROSE BLOOD

プロローグ

著 火真還



 風が、頬を撫でる。


 その感覚は、久しいものだった。少なくとも、自分にしてみれば。

 心を擽るような新鮮な感覚は、しかし理解にまでは至らない。


 ―――夢、だ。

 そう、思った。

 何もかも無くして、死んだように眠っている自分の見ている、最後の夢。


 風に煽られ、草の奏でるささやき。

 遠く聞こえる喧騒。


 無くしてしまった筈の聴覚に、そんな音が届いて、彼は不思議に思った。

 ―――何故、いまさらこんな夢を見ているんだろう、俺は。

 懐かしい調べだった。

 普段なら、無視してしまうほどの小さな音も、彼には騒がしい狂想曲のように感じられた。


 我慢できなくなって目を開ける。

 光が―――やさしい光が目に飛び込んでくる。夕刻―――日の落ちる一歩手前の赤い光は、衰えている彼の視覚を気遣っているのだろうか。


 ―――空。

 太陽の沈む方角に、目を向ける。日は沈もうとしている。水平線の向こうに、そして、明日を運んでくるために。


 ようやく彼は気づいた。

 自分がバイザーをしていないことを。

 衰えた自分の視覚を補助するバイザーがなければ、自分は光を見ることさえ、かなわないのに。


 ―――夢にしては……大盤振る舞いだな。


 最後のサービスなのだろうか。

 ならば、もっと俗物的な、それこそラーメンを食べている夢でも見ればいいものを……。


 そうして、日が沈むまで、そこにいた。

 他にすることはなかった。

 やらなければならないことはすべてやり終えていたし、もう未練もなかった。


 ―――さて、もういいだろう。地獄にでも連れて行けばいい。俺はそれだけの罪を犯した男だから―――。










 ……グウッ


 夢の終わりを待つにしては長過ぎる沈黙の後、彼は自分の勘違いにようやく気がついた。


「……なんで、腹が鳴るんだ?」




 ***



「あの……こんなところで、何をしてるの?」


 呆然と自分の腹を見つめていた俺に、誰かが声をかけた。弾けるように視線を上げ、相手を確認する。そうしなければならない理由があった。

 その声は、ひどく聴きなれたものだったからだ。


 テンカワアキト―――!?


 あんぐり、と俺は口を開けて相手を確かめる。

 ぼさぼさの髪。なんとなくの愛想笑い。ある意味見慣れた―――数年前の自分が、そこにいた。手に岡持ちを持っているということは……出前の帰りか?


 いやまて、じゃあ俺は誰だ?

 俺がテンカワアキトであることは間違いない。俺が保証する。俺が狂ったのでなければ、俺はテンカワアキトその人である筈だ。

 自分の顔が見えるわけではないが、自分の手に視線を向ける。見慣れた―――格闘訓練の末に厚みを増したはずの掌。料理人の勲章であった切り傷。自分の誇り。そんなものを微塵も感じさせない、女の手のような―――……???


「な……な……」

「……な? ……って、何?」


 律儀に聴き返してくる俺。いや、目の前の俺。

 その声と、自分の声音の明確な違いに、愕然となる。


 いまさら、これが夢だとは思ってない。

 だが、この現実を前に、混乱している脳を働かせるためには、とりあえず情報が必要だった。


「ここは……?」

「横須賀だよ。ココの人じゃないの、君?」

「地球……!?」

「え……う、うん。そうだけど……?」


 そういえば、先ほどの夕焼け、空中に散布されているはずのナノマシンの輝きが見えなかった。


 地球にテンカワアキトが居る時……?


「じゃあ、今年は……」

「2196年だけど」

「にせんひゃくきゅうじゅうろくねん……」

「……ひらがなで言わなくても」


 ―――バカな。時を遡った? ボソンジャンプの影響か?

 それ以外に理由を見つけることが出来ず、俺は大きく息を吐いた。同時に、空腹に耐えかねたのか、俺の腹が鳴った。


「なんてこった……」

「なんか……大変そうだね。あの、俺が厄介になってる店にくる? 雪谷食堂って言う中華料理店なんだけど」

「……金がない」

「ははは……その、奢ってあげるよ。それくらい」


 過去の自分の言葉に、思わず釣られそうになる。


 ―――しかし、俺は頭を振った。

 この時代の『テンカワアキト』に接触してもいいのか、俺は? 俺が接触することで、ナデシコの進む道に影響は出ないのか? もしそうなら、俺は彼の世話になるわけには行かない。

 彼がこの先経験して生きていく世界で、俺が干渉して歴史が変わったらどうする?

 ―――人の未来を決定することが出来る。

 意図して変えるなら、それは神か悪魔の所業だ。



「駄目だ。

 今の話は……無しだ。

 お前は俺に会わなかった。俺のことを知ることもない」

「え……」


 身に纏った黒いマントを翻し、彼に背を向ける。彼の世話にだけはなるわけには行かない。そう決意し、足を踏み出す―――とたん、がくんと首が何かに引っかかって、転んだ。


「……え?」

 転んだ拍子にマントの下に隠れていた自分の体が目に入った。


「うを……」

 少しだけボリュームのある胸。細い腰。何より、袖と裾の寸法が、合ってない。


 絶句。

 図らずとも、俺は自分の姿を―――知ってしまった。


「ご、御免。マント踏んでた……。

 あの、大丈夫?」

「く……力が入らん」


 腹が減って―――情けない話だが、本当に動けない。いや、動く気力を根こそぎ奪われてしまった。


 ひょい。


「よっ……と」

「わあっ! は、離せ馬鹿!」


 いきなり抱え上げられて、俺は仰天した。自分に抱かれて喜ぶ酔狂など持ち合わせてない。

 ……なにより、こんなことが自然に出来る『テンカワアキト』に、俺は脅威を感じた。俺って、こんな奴だったのか……?


「とにかく、ここに置いていくわけは行かないよ。

 とりあえずうちでご飯食べて。

 道に迷ったんなら警察に連絡するから」

「……わかった。分かったから降ろせ、とにかく」

「動けないんでしょ?」

「肩を貸してくれるだけでいい」

「それは……ちょっと無理じゃないかな」


 アキトは、俺の身長を確かめて、そう言った。 



 ***



 雪谷食堂。


 アキトの奢りであるラーメンをスープまで飲み干し、ようやく一息ついた。


「あの、俺。

 テンカワアキトって言うんだ。ここで世話になってる。あ、あの人が歳三さん。この店の店主。

 君は?」

「…………」


 アキトと名乗るわけには行かないんだろうな……目の前にコイツがいる限り。


「いや……それが。

 分からないって言うか……その」

「へ……?」


 窓ガラスに自分の姿が映っている。

 始めは驚いたが、なんとなく納得できた。

 十六歳の―――最後に会ったころのルリちゃんの姿と、ほぼ同じなのだ。

 白銀の長髪。金色の瞳。

 それがどういうことなのか、俺にはさっぱり分からないんだが……少なくとも、自分のまったく知らない人の姿であるよりは、まだ理解でき……ないか?


 ともかく、俺自身はそういうように結論付けた。


 しかし……名前までは。


「まさかルリと名乗るわけには行かんし……」

「ルリ?」

「いや、り……リ」


 そういえばフィリス・クロフォードという、03タイプ・マシンチャイルドのオリジナルとなった人物が居た筈だ。

 ラピスを助けるために潜入したクリムゾン施設の中で資料にあった名前……その人は、既に故人だったはず。

 その名前を借りよう。


「フィリス……だ」

「フィリスちゃんかぁ」

「分からないって言ってなかったか……?」


 歳三さんの突っ込みはさりげなく無視して、


うう……ちゃん付けはやめてくれ。

 なんとなくだ」

「えー……でも、フィリスさんとは言えないような……年下でしょ?」

「いや、分からないぞ。

 何しろ記憶喪失だからな」

「へー……、記憶喪失」

「なんというか、都合のいい記憶喪失だな……」


 そこ、うるさい。


 だって、仕方ないだろう? 俺はこの時代に居るはずの誰か、では無いし。


 それに―――たぶん、戸籍も無い。


「とりあえず警察には届けんといかんな。身元不詳じゃあなー……。俺も犯罪者にはなりたくねぇし。

 テンカワ、おめぇひとっ走り行って、交番で事情説明して来い」

「お、俺ッスか?」

「嬢ちゃんを行かせるわけにはいかんだろ……」

「あ、そっか。

 じゃ、行ってきます!」


 ―――言うなり、アキトは外に飛び出していった。


「…………」

「……って、ちょっと。

 歳三さん。俺、ひょっとして……」

「事情はよくわからねぇが、一晩でも二晩でも泊まっていきゃいい。金もなにも持ってないんだろ?

 食堂を手伝ってくれりゃ、バイト代くらいは出してやる」


 ―――ああ。歳三さんはこういう人だったなと。

 俺は改めて感謝を込めて、頭を下げた。




 ***




 俺が雪谷食堂で働き始めて、はや一週間が過ぎた。


「フィリスちゃん、ご飯おかわり」

「……三杯目だろう、少しは加減しろ」


「フィリスちゃーん、ビール注いでよ!」

「昼間から何杯飲んでるんだ、お前ら……」


「相変わらず綺麗だね、その髪」

「……そりゃどうも」


 客が多い。前に俺が雇われていたときより、格段に。

 確かに雪谷食堂は飯はうまいし、値段も据え置きだ。

 それにしたって、とてもじゃないが俺一人でウェイター、キャッシャーをこなすのは……ちょっと酷ではないだろうか。


「おぅ、フィリス。テンカワがダメになった。代わってやってくれ」

「……了解」


 はぁ、と溜息を吐いて厨房に入る。

 袖を捲くり、手を洗って、震えているアキトの持つオタマと中華鍋を奪い取る。


「あ……」


 ―――外で、戦闘が起きているのだ。

 『テンカワアキト』は、その喧騒を聞くと恐怖におびえ、まったくの木偶の坊になる。

 それは過去、戦闘に巻き込まれた結果の代償だったが―――。



 鍋の中を踊る食材を華麗に操りながら、視線を見えもしない空に馳せる。


 木星蜥蜴。と呼ばれる無人兵器と戦闘状態に陥って数ヶ月。

 地球は、あっという間に制空権の半分を失っていた。



 火星に生まれたテンカワアキトは、8歳のときに両親をテロで失った。

 孤児院で生活し、コックになるという夢を実現させる為に高校を中退。

 下働きの毎日。それでも、夢は手の届く場所にあった。

 しかし、夢は潰える。

 17歳になったとき、火星に木星蜥蜴が侵攻。

 シェルターに避難した彼は、その内部にまで襲い掛かってきた木星蜥蜴―――バッタという名の無人兵器に襲われ。

 気が付くと、地球の―――この場所に居たのである。

 だが―――命が救われた代償だったのか、彼は以来、戦闘による爆発、ミサイル発射音、銃声といった破壊の音に怯えるようになった。


 気持ちはわかる。

 ―――かつて自分がそうだったのだから。


 気が付くと、戦闘は終わっていた。


「ごめん……ありがとう。

 はは、ダメだな、俺。あの音を聞くと……体が竦んじまって」

「気にするな。お前は怯えすぎだが、他のやつらもおかしいのさ。

 空では軍人が必死に戦っている。木星蜥蜴を殲滅する為に。

 そんな状況下で、何も感じないほうが……どうかしている」


 窓の外に目をやる。軍人の苦労を知らない若い青年達が言いたいことを言っている。



「あーあ、また負けたよ。

 性能差がありすぎるんじゃねぇの?」

「こりゃ時間の問題かもね……」



 ***



「へい、らっしゃい」


 三時を過ぎ、昼のピークを終えると食堂はとたんに客が居なくなった。

 この時間に客が来ることは稀、だったのだが。


「ここは私のオススメですよゴートさん」

「むう……」


 その声に、俺は耳を疑った。

 彼らは―――。



「はいよ、ラーメンセット二つ! テンカワ!

 フィリス、お絞りと冷を二つだ!」

「へい!」

「了解……」


 ラーメンを解しにかかるアキトを横目に、少し緊張の面持ちで―――二人に近づく。

 髪を真中から分け、伊達めがねにちょび髭の男と、がっしりした体格の巨体に、鋭い眼光をもつ軍人のような男―――プロスペクターと、ゴート。

 未来で、ナデシコで共に戦った仲間達。


「おや……」

「むう」


 二人が驚くのは無理なかった。


「……失礼ですが、貴方は?」

「……フィリス・クロフォード。

 それが何か?」

「いえ、その―――珍しいですな、

 銀髪に金の瞳……あ、カラーコンタクトですかね。

 髪は染めてらっしゃる?」

「そうかもな」


 ―――それは、好奇心だった。

 俺がソレであることを示唆すると、彼らは驚くだろう。

 そうすることで事態がどう動くかを予測するのは簡単だったはずなのに、俺はつい口走ってしまった。

 IFS―――ルリちゃんと同じ、手の甲に浮かぶコンピュータとのインターフェイスの紋様を見せ付けながら。


「……マシンチャイルドの可能性も、否定は出来んがな」

「な、なぜその……!」

「む!」


 ―――おー、驚いてる。


「フィリスさん。

 貴方は―――」

「へい、お待ち!

 ラーメンセット二丁!」


 状況を理解できてないのか、アキトが出来上がった料理を持ってくる。


「アキト。

 胡椒がもう無い」


 俺の指摘に、あっと声を上げて、取りに行く。


「テンカワ……アキトさん、と仰る?」

「はあ、そうですけど」


 戻ってきたアキトから胡椒を受け取りながら、プロスは会話を続けた。


「貴方は―――パイロット……ですか?」

「へ? いや、あの」


 手の甲を隠すように。


「俺、コックで―――火星出身だから、その」


 ……傍目で見るのも滑稽なほど、アキトは狼狽していた。


「火星出身ですか、なるほど。

 そうなると、やはり火星が恋しい?」

「そりゃ……そうですけど。

 でも、今は火星行きの船なんかないし、それに―――そんな金も無いんで」

「実はですね、私ども腕の立つコックを探しておりまして―――」

「ミスター、いいのか?」

「これも何かの縁でしょう。

 火星に詳しい人も探していたんですよ。どうです? 我が社に就職してみませんか?

 お給料のほうも、これこのように」


 どこから取り出したのか、使い込んだ電卓をポンポンポン。


「え、その、急に言われても……俺」


 困ったように、歳三さんと俺に視線を向ける。


「テンカワの腕は俺が保証してやる。

 こいつは並みのコックだが、それでもそこらの料理店の飯よりは、マシなもんを作るぜ」

「歳三さん……」

「フィリスさん、実は貴方にも是非来て頂きたいのですよ。

 近々我が社の一大プロジェクトがありまして、そのオペレーターとして貴方に腕を貸して頂けたらと」

「え……オペレーター? フィリスさんが?」

「…………」


 ―――正直、興味はあった。

 おそらく再びナデシコに乗るチャンスなのだ、コレは。

 しかし、歴史の変革―――未来を変えることに、まだ強い抵抗もあった。

 自分としては―――そう、ナデシコが和平をなし、アキトとユリカとの新婚旅行さえなんとか出来れば―――?


 ……違う。

 違う、違う。


 死ぬと判っている人を、俺は見捨てることが出来るのか?

 あの歴史に、IFを作ることが出来るのか?

 判らない。


 しかし―――。


「オペレーターは無理だな。

 俺はその手の訓練を受けたわけじゃないから……。

 コックとしてなら、行ってもいい」

「そうですか。ならば、それでお願いします。

 ああ、申し遅れまして、私。

 ネルガルのプロスペクターと申します。こちらが、同僚のゴート」

「プロスペクターさん? ……本名ですか?」

「いえ、ペンネームみたいなものでして、プロスとお呼び下さい」


 アキトとプロスのやり取りを聞きながら、

 ―――結局。ナデシコに乗れるという誘惑を、俺は振り払うことが出来ないらしい。

 ということに、満更でもない気分になり、俺は苦笑した。



初めまして。

投稿は初めてになります。火真還(ひまわ)です。

Actionは“時の流れに”第一部のころから覗いていましたが、ちと思うところがあって投稿させて頂きました。

ナデシコは、自分がハマったアニメの一つです。

その頃は、SSを書きたいなどとは思わなかったんですが、投稿されたSSを拝見するに到って、色々と妄想が涌き捲くった次第です。

オリジナルキャラは出ません。

ストーリーもありきたりかもしれません(TVに準拠します、できるだけ)。

なるべく忠実なナデシコワールドの、ちょっとした変化というか、それでも変わらない人間ドラマ? を書くのが目的です。

資料も集め(て)ました。

メカなどの単語も、なるべく違和感ないように……しているつもりです。

あ、あと一つ。

フィリス・クロフォードという、名前を拝借させていただきました。

“人物”としては劇中で語られているように、オリキャラそのものではありませんが。

逆行アキトがクリムゾンがどーとか言ってますが、突っ込まないでやってください。作者はそこまで考えてません。

 

 

 

代理人の感想

・・・・・・・・・・・・・・ほほー。

まずはそこそこのスタートですね。

サイゾウさんも微妙に昔とは態度が違うし、アキトは身体女なのに性格も言葉遣いも変わらないし。

こうした小さな積み重ねが大きな違いを呼ぶかも。

(「バタフライ効果」って奴ですね)