一騎当千

〜第二十三幕〜
























外は夜特有のひんやりとした空気に包まれていた。

空を見上げれば、仄かな光を放つ真円が浮かんでいる。

その周りには、薄暗い雲は欠片もない。ただ、夜の黒が透き通って見える。

あたかも、暗闇の天蓋より差し込む光……




まるで空に小さな穴が穿つように




しかし、それは光を発し、地表をやわらかく照らしている。

そのため、夜目が利かなくとも庭の景色は判断できた。










やや宴の場から離れたその場では、その喧騒がどこか遠くに聞こえた。

それは天へ上り、低音域を響かせながら広がっていく。








そこに、ザッと土を踏みしめる音が生れる。

遠くの喧騒とは違い、はっきりとした音だった。


そして月の光によって生まれた薄い影が、そこに訪れる。


影法師の数は二つ…


一つはもう一方より小さい。



その二つの影は、微妙な間隔を保ちながら揺れ動いている。

その持ち主の関係を示すかのごとく














「……う〜ん、いい気分……」


尚香は腕を一杯に広げ、酒気で火照った体をその大気にさらす。

清涼感が体を包み、強張った筋肉を弛緩させる。

若干、上気した顔であるのは酒のせいであろうか。


「そうだね…」


彼女より大きい影――アキトは、軽く微笑みながら相槌をうつ。

その彼も酒のためかどこか霞がかった感覚を覚えていた。


それは彼女をいつもとは違う姿に見せる。

まるで、彼女自身が光を発しているかのように。

それが彼女自身なのか、彼自身の錯覚なのかはわからない。

ただ、そんな気がしたのだった。








アキトと尚香の二人は、宴の場から離れてこの庭園へと訪れていた。

というより尚香が強引に連れてきたのであるが…


アキト自身は彼女に引っ張られてやってきたのだが、実際、来て良かったと思っている。

思った以上に、自分は酔っていたらしく、この夜風が心地よかったのだ。





不思議なことに、庭園に出てから二人の会話は少なかった。

時折、尚香が話し、アキトが相槌を打つ……そんなことが繰り返されている。

しかし、両者ともにそれに不満はなかった。



この月夜の中は、心地よいものであったし、二人で歩いていて穏やかな気分にも浸れていた。



二人は当てもなく歩いている。

尚香がわずかに前を歩き、アキトはそれを見守るように後ろについていく。



この上なく静かで、そして温かい。




そして、天上の輝きも二人を包むように照らしていた。















庭園を散策していて、数刻………

月を見ながらいつの間にか静謐とした雰囲気が漂う場に訪れていた。

どうやら、かなりの距離を歩いていたらしい。

それも気づかなかったのは酔いの為か、それとも月の美しさのためだったのだろうか…






甘露寺






それがこの場所の名前だった




























「…あっ……」


前を歩いていた尚香が、突然その歩みを止めた。

わずかに天を仰いでいた顔が、地に向いている。

その声はどこか複雑な声音であるようにアキトは感じられた。



気になったアキトは、彼女の背後からその視線の先を覗き込む。



そこには一つの塊があった。





「………岩?」


わずかに空気が抜けるようにアキトが呟く。



そう、岩があった。

岩など庭園では珍しくない。何処にでもあるものだ。







が、それを「ただの岩」として捉えるには異様な存在感を持っていた。








十文字……そう表現すればいいのか

ただ、その形の亀裂が存在していた。

しかも自然に割れたわけでない……時間の経過で所々崩れていたが、明らかに人為的に起こされたもので あった。

たとえるなら「斬った」跡のような…

確信したわけではないが、そう「感じた」のだ。






「尚香ちゃん…これは?」


アキトは怪訝な顔をしながら、尚香に尋ねる。

が、尚香からの返事はない。


彼は彼女の顔を覗き見る。

月光が彼女の横顔を照らしていた。




そこには




わずかに懐かしむ様な、泣いている様な、複雑な顔をした彼女の姿があった。









ドクン









瞬間、アキトはそんな音を聞いたような気がした。

何故か揺さぶられた…


身体の内より滲み出る音






そして、悟る









これは彼女の「証(しるし)」の一つだと…











わずかに沈黙が訪れる。






「そっか…まだ残っていたんだ……」


彼女の呟く声が静寂に響き渡る。

その声は酷く感慨げな声音だった。

放っておけばそのまま消えてしまいそうな…



「…尚香ちゃん……」

「……あっアキト……」


そんな不安に駆られた彼が声をかけたところで、彼女は我に返った。

細かい瞬きを数度して、横にあるアキトの顔を仰ぎ見る。



その彼の表情を見て、何を尋ねたいのか彼女は理解した。














尚香はアキトから視線を戻し、岩を見つめる。

そのまま数歩進み、その岩の前にかがんで、触れた。


そして、彼女は目を瞑る。


まるでその岩の感触を確かめるかのように…



それをアキトは黙って見つめていた。

その背中は何も語らない…

ただそれは思ったより小さく、そして神聖なものに感じられる。







そして、アキトに背を向けつつ彼女は声を発した。






「これはね……いつかの誓いがこめられた石なの……」








語るはある一つの話…


















過去、この地では戦いが行われた。

百万と大号する曹操軍三十万と、この江東を治める孫権、そして曹操の追撃より逃れた劉備による連合軍、約 十万との戦い。

それは「赤壁の戦い」と呼ばれ、今も人々の記憶には新しい。



天下を手中に収めるべく南征を行った曹操は、この戦いの敗北によって南征を諦めざるを得なかった。

そして、その後、劉備は荊州、巴蜀の地を手に入れ、「蜀」を建国する。




曹操の「魏」、孫権の「呉」、そして劉備の「蜀」の三国鼎立が成った。




その意味で赤壁の戦いとは、「三国鼎立」に至るきっかけとなった戦いといえるのである。








話はその蜀が建国される前のこと

赤壁の戦いの後、勢力を伸ばす劉備と呉の間で行われた一つの出来事










それは





















劉備と孫権の妹である孫尚香との婚約
































「そういえば、あの時もこんな風に宴をしてた……」




ともすれば、かすれて聞こえなくなるほど小さな声。

過去の傷でもあり思い出でもある。

彼女の中で忘れられない日。





思い出される

自分と劉備との祝言











「これはね……劉備様と権兄様によって出来た石なの…」


尚香は唱えるように語る。

何かを思い出すかのように…


アキトはただ、黙って聞いていた。


「その日は、私と劉備様の祝言の日……宴が行われていたわ……」


政略結婚…そういっても差し支えない。

それでも、あの時は呉、蜀が一つになろうとしていた。

自分という呉の象徴と、劉備という象徴とで…


「その宴のおり、劉備様はある誓いをこめて、この岩に剣を振り下ろしたの…

 『我が覇道成らぬなら、この岩は斬れじ、我が生涯の大望成るなら、この岩斬れよ』ってね」


一言一句かみ締めるように言葉を紡ぐ。

そして、ゆっくりとその切り口をなぞる。


それは風雨にさらされて、当時のようにはっきりしていないため、指に引っかかる。

その引っかかりにわずかな痛みを覚えるが、彼女にとって逆に心地よかった。



「そして、それを見ていた権兄様が、同じように誓いと共に斬って出来た岩……

 劉備様と権兄様の誓いが込められた岩だった…」


そこまで言って、彼女は立ち上がった。



そのまま天上の月を見上げる。





「あの時は、今のように呉蜀が一体になろうとしていた。

 互いに天下のために……確かに暗い思惑もあったけれど、協力しようとしてた…」




「尚香ちゃん……」


アキトはただ、彼女の名を呼ぶ。


瞬間




ドクン
流れ込む









「でも、その関係も、互いの利害のために崩れたの、

 私も…この国へ返され、軟禁されて……」








ドクン
想い







そこで、彼女はわずかに体を震わせた。

何かを耐えるように…



「再び劉備様に会ったときは、死の間際――そして、穏やかな死に顔だった……」






ドクン
過去






沈黙が訪れる




















「ねえアキト…何故私が武術に打ち込むかわかる?」


永き静寂の後、尚香が立ち上がり、アキトに振り返る。

その声音はどこか明るい…が、同時に無理をしているようにも感じた。


尋ねられた方はその問いに対して沈黙で応える。

それは彼女が語るべきことと悟っていたためであった。


「私は大好きな父と兄を失った…戦乱で…」


その言葉に、アキトは胸に痛みを感じる。

それは彼自身の過去……両親の死を思い出したのだった。


彼女は尚も言葉を続ける。

それは、彼に自分を知ってもらいたかったのかもしれない。

自分という存在を……


「…戦乱という世である以上、命を落とすことは予想できたし、覚悟もしてた…」


そこで言葉を切り、彼女は俯く。


「でも、耐えられなかった……私はそれを聞くことしか出来なかったから……」

「尚香ちゃ…ん……」


低く小さいがはっきりと聞こえるその声。

そこに浮かぶは悔恨。


「戦いは男性の世界……その中で女性は護られている。…そして―――」





そして、顔を上げ、天上の月を凝視する。

悲しみを湛えた目で…





「―――真実を知るのは、すべてが終わったとき……」







彼女は、自分の部屋――小さな世界で聞いた…






父の死を






兄の死を





ただ、泣くことしか出来なかった……

そして誓ったのだ。





「私は立ちたかった…護るために同じ立場に…」




それが彼女の理由

「力」への渇望の理由




「だから戦う……そしてこの手を染める…

 詩や胡弓で人の心は癒せても、大切な人を護ることは出来ないから……」




その言葉と共にアキトを見つめる目は、確かな意志の光が見えていた。







ピンと張り詰めたような静寂と緊張感がその場に張り詰めている。


それは、彼女の意志がこの空間を満たしているためであった。






「……強いな……尚香ちゃんは」



アキトは呟く。

それは、自然に出た言葉だった。

純粋に感じたこと…




アキトは自身を思い返す。


彼はすべてを失い、復讐に走った。

大切な人を救出し、取り戻すために……

だがそれは、理不尽に対しての八つ当たりでもあった。



何故自分が……という



そして、その復讐を終えた虚無から文字通り「逃げた」。

「護りたかった大切な人」からも…



現在の自分は「大切な人を護りたい」という気持ちを持ち続けている。



しかし、それは「やり直し」を経たからこそ、再び持てた感情。

それが与えられなければ…





だから、彼は尚香を強いと思った。

喪失の炎に心を焦がされ、そして力を求めつつも、己を見失わなかった彼女が……















「違うわアキト、私は強くない」


しかし、尚香は横に首を振る。

そこにはどこか悲しさが含まれていた。

それは誰かに似た自嘲



「私は劉備様を……」






――― 護ることも出来ず、また失った





声にならない言葉


政略結婚ながら、自分を大切にしてくれた劉備。

年齢が離れていたこともあったため、夫婦というよりは親子のようでもあった。

彼の中に「父」を感じ、護れなかった父の代わりに彼を護りたかった。

しかし、それは果たされなかった。





「本当だったら…もう私は生きることに絶望していたかもしれない……」






それは「起こらなかった事実」


誰も知らない、知ることもない「事実」


劉備の死の報告を受け、失意のうちに長江に身を投げたという「事実」


本来起こるべきだった一つの可能性……






だが、それは起こらなかった。



「でも、私は……アキト…貴方と出会った」



彼女を支えた、たった一つの出会い。



「兄に似て、全く似ていない貴方にね…」



そこで尚香は薄く笑う…透き通るような笑みを浮かべて。



「私は貴方に兄を重ねているのかもしれない…

 でも、貴方を支えたい、そして隣に立ちたい…それは本当の気持ち…」


それが彼女を生かす……その「想い」が。

そして、かすかに流れる淡い想いが…








アキトはその想いに触れた。

彼自身、彼女の「兄」、すなわち孫策がどんな人物か「識って」いるわけではない。

ただ、どんな人物であるかだけは「知って」いる。


彼女が自分と彼を重ねることを良いとも悪いとも思わないし、不快でもなかった。

なぜなら、そこにある想いが本当であることが理解できたからだった。


それだけでも嬉しかった。






だが、その裏にあるかすかな想いに応えることが出来なかったのも事実である。


そう、今は……






だから、彼は










「ありがとう」












そう彼女に返すのだった。





































「あっ…話がずれていたわね……」


アキトの言葉に穏やかな沈黙が流れていたが、それを破ったのは尚香だった。

わずかに動揺したように声を上げる。

月明かりでその顔色はわからないが、おそらく照れているのだろう。

それを隠すように、彼女は再び岩を見る。


「…この十字紋石は、そんな天下を夢見た二人の誓いが込められた岩

 結局、劉備様はその大望を果たせぬまま、この世を去ってしまったわ」







そこで、彼女はアキトを振り返る。





「―――でも、アキトが現れた……」




その顔は「優しい」笑みだった。



すべてを包み込む慈愛のような……







「ねえ……、人は生きるのにも限りがある。

 でも、理想の世界を夢見て、目指そうとする……何故だと思う?」


少し上体を下げ、アキトの顔を見上げつつ尋ねる。


「……さあ、考えたこともなかったな……」


対してアキトはやや考えてから、返答をする。

彼女は、そう?と軽く笑う。


「それはね……それが皆のためであり、自分のためだから

 そして、その自分の思い――志を継いでくれる人がいると信じているから…」


唱えるように、かみ締めるように彼女は語った。




士は士を知る者のために死す




そして




士は志を知る者のために死す





その積み重ねが歴史となる。






「人はね…自分のために命を捧げることは出来ないけど、他人のためになら命を捧げることが出来る。


 だから、人は他人のために強くなれるの……


 アキト…貴方は劉備様の志を継いでいるわ…それを自覚していなくても私達にはわかる」





「俺はただ大切な人を護りたいだけだよ…」

「そうね、だからアキトは『理由ある強さ』を持っている」


その目に映るのは理解、そして羨望、憧れ…

アキト自身、もとよりの自嘲癖もありそれを自覚はしていない。

しかし、彼女は理解している。



そして、彼女は何故羨望し、憧れを持つのか……

それは次の言葉に込められる。


「私は欲張りな人間……少しでも多くの人を護りたいと思うの、

 まあ、呉の姫としての教育に漬かってしまったからかもしれないけど…『民を安んじる』ってことをね…」


彼女は上に立つものとして、これまで暮らしてきた。

それは考え方であり、立ち振る舞いでもある。

上に立つ者は、民より色々な権利を与えられている…だから、民を護る義務があるのだと…

儒教的考えといえるのだろう。


しかし、彼女の想いはそれだけではない。

彼女もまたアキトと同じく『理由ある強さ』を持っている自覚がなかった。


そう考えると、二人はよく似ているのかもしれない。


だから、アキトもまた彼女のそれを理解し、憧れる。

そして声を発す。


「いや…ただ尚香ちゃんが優しいだけだよ」


そう、彼が感じたこと…






彼女はその言葉に含まれる彼の優しさに触れた。

だから、先ほど贈られた言葉を贈り返した。








「ありがと…アキト」









本当によく似た二人だった。

























「……俺は正直、『主として』適した行動をしてきたわけじゃない…」


次に訪れた沈黙を破ったのは、今度はアキトの方であった。

尚香が彼を向くと、そこには天上を見上げる彼の横顔が見える。

その端正な横顔は、かすかに月明かりによって蒼白く見えた。


「実際、陸遜さんや趙雲さんには何度も怒られているし」


彼はわずかに肩をすくめて苦笑する。

その様子に彼女も軽く笑った。


「いいのよ……、伯言や子龍だってアキト自身を抑えてしまうようなことは望んではいないわよ」

「そうかな?」

「そうなの!」


アキトの問いかけに、わずかに語気を強めて返す彼女。

数歩近づいて、彼の右手を両の掌で包む。


アキトはふわりとやわらかい匂いを感じた。


「アキトは今まで通り、自分が思うように行動すればいいから……」


小さく囁くように尚香は発した。





(……『自分らしく』…か…)





アキトの脳裏に浮ぶは、彼の大切な人の姿。

そして彼女の持つ光…





(そうだよな、―――。お前はいつもそうだったよな……)





アキトは軽く微笑んだ。

それはこれまでにないどこかはっきりとした笑み。

月の光のせいかもしれないが、それは幻想的に見えた。

そして、尚香はその顔を見て、わずかに顔を紅潮させる。



「…尚香ちゃん」



アキトは右手を包んでいる彼女の両手の上に、左手を添えた。

瞬間、彼女はぴくっと身体を少し振るわせる。

わずかに冷たい彼女の手の温度を感じた。



「俺は、大切な人を護りたい…それは俺を動かす想いだ…」




そして、彼は思い返す。








――― アキト様は立ち止まらないでください



深き悲しみを知り、自らの過ちを知る、優しき女性








――― 済んだことを悔やんでいるより、今アキトが出来ることを考えなさい



悲しみを乗り越え、自分以上に「護る」ことを知っている女性







――― 私は欲張りな人間……少しでも多くの人を護りたい



何度もその心を傷つけながらも、その想いを見失わなかった女性










それが、アキトに道を示す。

















アキトは彼女の手から離れて、十字紋石に近づく。

そこで彼は天を見上げた。

背後から見る尚香には、それがまるで儀式のように感じられた。





そして、アキトは言った。










「……俺は……戦う…」









小さな声だったが、はっきりと決意を込めて。







リィーーーン






どこか遠くで鈴の音が聞こえたような気がした。

















天には蒼い月が浮ぶ…



アキトはそれを見つめている。いつかの世界でのように



(この世界でも…月の美しさは変わらない…………か…)



彼は心の中でどこか安心したように思う。

異世界に跳び、感じられた「変わらない」存在。

どこか懐かしく思うのだった。




(そう……『変わらない』……!!)




瞬間、急速に彼は何かを理解する。

わずかに目を見開く。

が、すぐにそれも元に戻った。



(…そうか……この世界は……)



アキトに浮んだある事実。

何の根拠も無い単なる直感であったが、それが真実であると感じた。













夜風がゆるりと彼の頬を撫で、木々の葉を揺らしていた。














































その日は、この上もなく晴天であった。

人々はいつものように、その日の業を成している。




そしてその国の主もまた、いつものように宮殿を抜け出していた。






抜け出す理由は様々あるが、その多くが個人的な理由というのも問題があるだろう。

いつも彼の護衛役達は苦労することになる。





その主――アキトが抜け出した先は、大抵決まっていた。

その場所に行けば、彼が釣りをしている姿を見ることが出来るだろう。

稀代の軍略家・太公望もかくや…というわけではないが……












アキトの決意から、この国は急速に忙しくなった。

明らかに軍事的な準備が進んできたのである。

訓練から、情報収集、はたまた国内への兵募集の発布など。



見る限り、人々の意識は高い。

しかし、言い換えればそれだけ死地に彼らを誘うということも意味しているのだ。



だが、アキト自身それは決意したことでもある。

そして、これはこの国の戦いであるのだ。


だから、迷いはなかった。









そんな状況のため、準備が整うまでアキトは暇であった。

もちろん、今まで忙しかったわけではなく、やっていることはいつもと変わらない。

ただ、周りが動いている状況でその場で何もせずにいるのが、嫌だったのだ。


そのため、ここ数日はこの長江沿いで釣りをしているのだ。




彼の周りには、同じように釣りをする者、遊んでいる者、景色を描いている者様々だった。

いつの間にか顔見知りもでき、その釣りの不味さを笑われたこともあった。


彼らはアキトの正体を知らない。

陸遜、趙雲の迎えなどを見ていて、「どこかの金持ちの坊や」といった認識であった。

まさか、その国の主が隣で釣りをしているとは思うまい。

人間、大きなものが身近になるほど鈍くなるものである。







『行く川の流れは絶えずして…』

『…あれ?ディア…それ覚えたの?』

『いつもアキト兄が呟いてもいれば覚えるわよ』

『確かにね…』


そんな会話がアキトの中で行われている現在。

その日もアキトは川面に糸を生やしていた。


「うーん、今日もいい天気だ…」

『…ここ数日は、晴天ばかりだよ…』


アキトの言葉にディアが答える。

彼らの言うように今日は天候が良いが、わずかに風が吹いている。

だが気にするほどのものではない。

むしろ、どこか心地よくも感じる。



周りを見れば、いつも見られる釣り人や、画家らしき者が見える。

若干、釣り人が少ないが、そんな日もあるだろうとアキトは思った。




「しかし…いつもながら釣れないな」

『才能ないんだよきっと』

「はっきり言ってくれるな」

『でも事実だもん』


二人にやり込められて、アキトはわずかに苦笑する。

ただ、独り言を呟いただけなのに、それに突っ込まれる事実というものそれはそれで悲しかった。


この二人もアキトを介していろいろな物に触れてきた。

元々俗っぽい性格であったが、最近はむしろすれてきたように感じられる。

まあ悪くないことだろうとアキトは思っているが。





しばらく、穏やかな間が訪れる。

彼の耳には河の流れの音が聞こえていた。

相も変わらず、糸は引きを表すことはないが……




『ねえ、アキト兄?』

『どうした、ブロス?』


その間を遮って、彼の内より声が響く。アキトはそれを聞き返す。


心を共有しているため、その声はどこか真剣な雰囲気が感じられた。



そして、ブロスからその言葉が発せられた。






『僕たち…帰れるのかな…』






それは不安だった。


『…ブロス』


その不安げな想いに、ディアの気遣う想いが重なる。


『…不安か?』


アキトが静かに問いかける。


『よくわからない……ただ、僕たちは何も帰る手がかりも見つけていない…』

『………』

『それは私も思うわ……、でも何よりこう思わせるのは、私達の今の状態のせい…』


間違いないく不安であるその言葉にディアも同意をし、それに言葉を付け足す。


『こうして俺に共生していることか…』

『違うよ…』


アキトの問いをブロスは否定する。






『…それは僕たちの存在意義……』






そこで彼は言葉を低くする。










『私達はブローディアがなければ何も出来ない』

『そして、僕たちはアキト兄の何の役にも立っていないから…』









二人はその苦悩を吐露する。


AIであるが故に、マスターの役に立つことが求められる。

たとえ、相手がそれを望んでいなくとも…

実体のない存在のため、役割という「意義」がない今の状態は不安定であると彼らは感じているのだ。


しかし、彼の主人に当たる人物はそうは思っていない。

彼は彼らを大切な存在として見ているのだ。

そして、それは充分に彼らの「存在意義」であること…


『役に立っているさ……』


アキトは柔らかな想いを込めてそれを伝える。


『二人は俺の家族なんだから……

 二人がいるだけで、俺は救われているさ』



そう、アキトは一人の辛さを知っている。

そして一人の限界も…





もし、この世界にアキト一人だけで飛ばされたなら、今ほど心に余裕が持てなかっただろう。

自分を理解し、相談できる相手がいる。

それだけでも救われるのだ。





アキトにとって二人は正にそれだった。







『俺は二人にAIとしての役割を求めているんじゃない…家族としていてくれることを望むんだ』





そう言葉に出ない想いを伝える。

そして温かなそれは彼らに触れる。






それに二人は返す。








『ありがとう』…と…









二人の重なった言葉が伝わってくる。

アキトの内より歓喜の想いがこみ上げてきた。

共有しているからこそストレートに伝わるそれは、アキトにも影響を与える。








ポタッ








河の音を遮り、小さな音が起こる。

それはわずかな量であり、熱をもつ滴り。




アキトは知らず知らずに涙を流していたのだった。

共有している故に、二人の感情がアキトの感覚を突き動かしたのだろう。













その滴りはしばらく止まることはなかった。




































「アキト様…こちらでしたか…」



数刻後、釣りを続けていたアキトの背後より声が掛けられた。

振り向くと、そこには予想通りの人物が立っていた。


陸伯言と趙子龍


アキトの護衛たる二人だった。


いつものようにアキトが抜け出し、いつものように釣りをし、いつものように二人が迎えに来る。

一体アキトは何をしているのだろうか。

二人の気苦労は絶えない。



「やあ……今日も駄目だった…」

「何を言っているんですか…全く」

「そうです…今は大事な時期なんですから…」


ごまかすように声を返すアキトに、二人は容赦なく口撃を加える。

その言葉にアキトは苦笑を浮かべるしかない。



確かに情勢的にアキトが単独で行動するのは好ましくないのである。

尤もアキト自身が不覚を取ること自体まずないのであるが…



そのため、どこかに油断があったのかもしれない。



もしアキトを狙うとしたら、その周りのものを狙い、接触すると……













「さて、なら戻ろうか……多分、帰ったら一勝負まっていそうだし…」


アキトはそう言って、釣竿を収めて立ち上がる。

そして、服に付いた土を払った。


「…ご明察です」

「いつものように待っておられますよ…」


その言葉に二人の護衛は苦笑を浮かべて、アキトの予想を肯定する。

すなわち、尚香の相手である。







そんなやり取りをしながら、立ち去ろうとした瞬間。

突然、一際強い風が吹いた。

辺りの土埃が舞い上げられ、わずかに空中に白い膜を作る。

反射的にアキトたちは目を庇うように手を顔に近づけた。


「………?」


その狭くなった視界の中で、アキトは何かが飛んでくるのを見た。

それはアキトめがけて飛んできたため、反射的にそれをつかんだ。

わずかにザラっとした感触が感じられる。


そして突風が収まり、アキトはその手の中にある物を見た。


「…紙?」


そう、それは紙であった。

ただ、その紙には何かが描かれていた。



「絵……この辺の景色か…」


アキトはいつもここにいるため、そこにかかれた景色がここから見えるものだとわかった。

彼は改めてその絵を見る。

まだ下書きの段階であったが、わずかに墨で景色の輪郭が描かれている。

素人目でみても上手であることは見て取れた。


「……ってどうしてこんなものが……」


と、そこでアキトはその絵の出所に疑問を持ったとき、アキトの耳は近づいてくる足音を拾っていた。

顔をそちらに向けると、一人の男がこちらに走ってきていた。


「すみません!!」


おそらくこの絵を描いた人であろう。

実際、アキトも釣りをしながら彼の姿を何度か見かけていたため、その予想は難なく立てられた。


そう考えているうちに、絵描きらしき人物はアキトの所までやってきた。

アキトの周りの二人もどうやら状況を把握したらしい。


ただ、微妙に二人の空気が動いたことにアキトは気づいた。


「どうもありがとうございます」


そう感じたのを遮られるように、相手にお礼をかけられた。


「ああ、どういたしまして…」


アキトはわずかに虚を突かれながら返事をして、絵を渡す。

相手はその絵を大事にするように抱えた。


「ああ…よかった…ここ数日でやっと納得いく感じのものだったんで…」

「…絵描きなのか?」


渡された絵を大切にする様子にアキトは好感を覚え、相手に問いかける。

その言葉に反応して、彼は相手の顔を見て答えた。









「はい……私の名は姜約、絵描きとして旅をしているんですよ」









その声は晴れた空によく響いた。























悲劇を司る天秤はわずかに傾いた。

その天秤は揺れ動く…




その行き着く先は悲劇なのか…それとも…














続く





あとがき、もとい言い訳


どうも、というわけで二十三幕でした。

今回は難産でした。いかんせん言わば内面世界のことですから…。

ある意味「酔った」文章であるので、こういった文章の書き並べが嫌いな方もいるでしょう。

未熟なゆえ許していただきたい。


尚香の武術に打ち込む解釈は、私なりの解釈です。

特に「詩や胡弓で人の心は癒せても、大切な人を護ることは出来ない」というのは一つの彼女の答えだと思うの です。

まあ、人の数だけ三国志がある以上、こう思うのは私だけかもしれませんが(苦笑)


しかし、予想より長いです。当初は二十幕で終わる予定でしたが、予定の半分ほどです。

まあ、恋愛シミュレーションのALLエンドのために、イベントすべてを書き並べているようなモンですからね(笑)

はじめからルートが決まっていれば、もっと削れるんですけど(笑)

それに伴うサブイベントも取り上げているようなものです。

別にこの作品がALLエンドとは言っていませんが…


あと今回の、甘露寺の十字紋石については演義でも取り上げられています。

尚香に関わる出来事だったので今回登場することになりました。


さて、戦争を決意し準備を進める中、とうとう出会ってしまいました。

まあ彼らの甘さが起こす現実という物を書く時期ですかね……今回の犠牲は…あの人。

悲劇の天秤はグラグラ揺れてますよ(邪笑)


今回、尚香が微妙にリードしました(何が?)

しかし、リードを許すほど私は甘くないです(爆)

次回は心理戦、そしてようやくアキトと彼女が接触します。お楽しみに。


最後に感想をくださった、ナイツ様、ノバ様、五郎入道正宗様、マフティー様、孝也様、浅川様、

イロイロ様、kazutaka様、アッシュ様、ぺどろ様、ゼロC様、本当にありがとうございました。

次回も頑張りますので応援よろしくお願いします。

それでは


P.S しかし「純愛」シミュレーションゲームって…繰り返し遊べる時点で「純愛」じゃないよなあ……









代理人の感想

そっちの方はさっぱり疎いんで言及は差し控えますが・・・・・

三国志の時代ならハーレムENDも全く問題ないかと(笑)。



それはさておき

「人は自分のために命を捧げることは出来ないけど、他人のためになら命を捧げることが出来る」
と言う尚香のセリフ、ちょっとくらっと来ましたね。

こう言う大上段なの、嫌いじゃないです。