一騎当千

〜第二十四幕〜

























人の出会いは偶然…だが、それは必然でもある。





確かに、確率論でいうならば、幾億の人々の中での出会いは偶然といえるだろう。



しかし、運命論として考えるならば、その出会いは必然といえるのである。






そして、物語を演じる人々は得てして必然の出会いである。





本人がそれを意識していなくとも…








さて、その演じる劇は喜劇なのか、それとも…悲劇なのか…

それもまた役者にはわからない。




しかし、すべてが終わったとき多くの人々は言うだろう。

















すべては運命だった、と……



























互いの紹介の後、一同は話していた


「…へえ…各地を旅してきたんですか…」

「ええ、現在修行中なんですよ、技術じゃない感覚をつかむために」


アキトの驚嘆に対して、相手――姜約は嬉しそうに答えた。

そして傍にある荷物から様々な絵を取り出して、それをアキトたちに見せる。


そこには山や建物などといった風景が書かれていた。

一部に人物画も見受けられる。

素人目に見てもその実力の高さを伺うことが出来た。


「何処にいっても目新しくて、本当にいい経験ですよ」


かみ締めるようなその発言は、長江の風に乗って流れる。

少し口元を緩めながら顔を赤らめているのが、純朴さを感じさせた。




「修行か、懐かしいな」


そんな姿を見てアキトは自分の姿を思い出した。







ひたすらにコックになることを目指していたあの頃。


美味いものを作りたい、食べさせたい。子供の頃の自分が持った感動を相手に感じさせたい。


そんな願いを持って修行に明け暮れていた。







一度は叶った夢、


時には捨てた夢、


再び見た夢、


そして今も見続けている夢





しかし、今思えば、当時の自分はこのような未来が待っているとは思わなかっただろう。

それだけ自分が数奇な人生を送っていることを実感する。








実際、今までの行動・状況を考えてみると、「自分はコック」という言葉がむなしく感じるのは気のせいだろうか…

自分はコックなんだ……いつも言ってきたことであるが、最近ではそれも自信がなくなってきた。


『テンカワアキト、コック兼パイロット。最近は君主やってます…とか』

『普通の人が聞いたら、まず頭おかしくないか疑うよね』


心の住人二人の声が、彼には痛い。

ふと…自分を見直したくなった。
















「それで、一体どんなところを旅してきたんですか?」


そんな風にアキトが過去に思いを馳せている間に、陸遜が質問をする。

声は穏やかなのだが、見るものが見ればその目の奥に光るものを感じることが出来るだろう。

だが、姜約はそれに気づいていないようであった。


「そうですね…故郷の天水から…長安…洛陽、そこから南にいって荊州と来て、長江を下ってここに来たんで す」


思い出すように、自分のたどった経路を彼は語った。

書いてある絵を指で指して、そのとき描いた絵であることを示す。


天水では山水画を…、長安・洛陽では建築物、都市の風景を…




天水は大陸の北西部に位置し、魏の領内である。

また、長安と洛陽は一般に「都」と呼ばれる都市であり、栄えているところである。




「天水からですか…また遠いところからやってきたんですね」

「ええ、知っての通り、山ばかりの田舎ですけど」


天水という地名を聞いて、趙雲が驚きの声を上げ、姜約は恥かしさを見せる。


「山ばかりだからこそ、都や、こういった長江の景色を見たいと思ったんですけどね」


そして、横に広がる、海のような広い長江の流れを眺めながら言葉を続けた。

それを見て、山育ちには河の風景は珍しいものであると感じた。

確かに陸遜も河育ちのため、険しい山の風景を珍しく思うのである。


「しかし…こんな時期に旅とは物騒ではないんですか?」


再び陸遜が質問をする。その心意は見かけにはわからない。


「まあ物騒だけど、魏呉蜀の三国になってから野盗とかも少なくなってますよ」

「そうですか」

「まあ…いざとなったらこの自慢の逃げ足の出番です」


姜約は自分の足をポンと叩く。


「それに、これでも腕に自信があるんですよ…村でも一番の腕自慢だったんで…、

 武術も好きで、いつも手にはマメとか出来てましたよ」


そう言って、彼はわずかに笑いながら、掌を見せる。

彼の手はところどころマメが出来ており、その修練を感じさせる。

腕自慢というのは嘘ではなさそうである。


「もっとも、絵描きなのに筆より槍の扱いがうまいって、周りからはからかわれてましたけど…」


わずかに苦笑しながら姜約はその手を上に持って行き、頭を掻く。


その姿に趙雲も苦笑する。

槍の達人である趙雲は、彼のある程度以上の実力を測ることができた。

周りの言うこともわかるというものである。





実はこのとき趙雲は彼の実力を見定めていた。

しかし、彼の持つ雰囲気が「普通」であり、「武人」や「影」が持つような「匂い」を感じなかったため、その真の実 力を見誤った。



逆に陸遜は彼の行動から不審な点を捜していた。

世間話をしながら質問を選んでいたのである。

だが姜約は、何の戸惑いも無く話し、言葉の端々に自分の情報を話している。

まるで、普通の反応に逆に肩透かしを食らっていたのである。



一方、アキトは自分の過去を思っていたため、あまり会話には集中していなかった。
















「アキト様…そろそろ……」

「…ん?…ああ」


会話の区切りを見て、趙雲がアキトに声を掛ける。

その声に感慨に耽っていた彼は我に返った。



「じゃあ、姜約さん…俺たちは帰りますよ…」

「そうですか…私はまだ絵の続きでも描いていきますから」


アキトの言葉に彼は笑顔で返す。


「そういえば、貴方は何時まで滞在するつもりで?」


と、思い出したように陸遜が質問を投げかける。

その言葉に姜約は少し考え込んで答えた。


「一応、街で宿はとってあるんで…しばらくは滞在しますけど。

 この絵が完成したら、次の場所に旅に出る予定です」

「なるほど……、ではいつもはここにいるんですね?」

「?…ええ、大抵はいると思いますが……たまには街も見たいですし…」


姜約はやや怪訝そうな顔をする。

確かにこの状況では質問する意味がわからないであろう。


しかし、質問者には意味があるのである。


「そうですか…ではまた…」

「ええ…それでは」


そのことをおくびに出さず、別れの挨拶をしてアキトたちはその場を去ったのだった。


















帰り道、先ほどの質問をした者は思索に耽っていた。


(普通……でしたね)


質問者――陸遜は心の内で呟く。そこにあるのは困惑である。


実は一連の質問は、相手が「間者」なら何かしらの違和感を覚える質問だった。


間者は自分を「間者らしく見せない」ために様々な擬態をする。

そのため、相手が知りたいことは違和感が無いように「あらかじめ」想定するのである。




だが、経験者から言えば、それは逆に間者を導く道となる。




「あらかじめ」想定しているため、そこに「間」が存在しないことが起こるのだ。

つまり相手が想定しており、普通ならありえない質問をすることで起こされる行動を見るのである。




今回の場合、急な質問に対して襤褸が出るならそれは未熟な間者。

逆に疑問にも思わず、よどみなくすぐに返ってくるならば手練の間者である。


そして、今回はそのどちらでもない…普通の反応。

逆に普通すぎるのも怪しいと感じるものであるが、理性的なものほどその感覚を否定する。


(考え過ぎ……なのでしょうか?……絵が飛んできたのも「偶然」ですし……)


彼は自身に問いかける。瞬間的に思考するが、まだ判断材料が少ないように思えた。


(まあいいでしょう…現段階では一時的な接触ですから、そのときに注意するようにしましょう)


そう判断を保留して、思考を終えることにした。

ただ、彼の滞在する宿に対して調査を指示することを忘れないのもさすが陸遜といえる所だろう。





一際強い風が、彼らの背後より吹いていた。
























姜約はアキトたちと別れた後、紙に向かい、筆を動かしていた。

そしてそのまま、周りが茜色となるまでその場を動かなかった。


「さて…今日はこの辺にしますか…」


そう呟いて、彼は自分の道具を洗うために長江の流れに近づく。


道具を洗浄しながら、彼はその水面を見つめる。

そこには、彼の端整な顔が映りこんでいた。

夕日のせいか、その像もわずかに赤みがかっている。




彼はその像の中で、ただ目を見ていた……


そしてそのまま微動だにせずに時が過ぎていく。





ユラリ





彼の眼前がそのように揺らめいたような気がした。

しかし、水面に映る像は全く変わっていない。



そう、「像」は変わっていない…







そして、姜約―――いや「姜維」は顔を上げた。

そこには姜約が持っていた、柔和な純朴そうな雰囲気が失われていた。

ただ、理性的で鋭さを含んだ気が彼を包んでいる。


「ふう…流石に疲れました……」


彼はそう呟き、身体の疲れを取るように息を吐く。


「流石は陸遜殿…と言ったところですか」


やや苦笑を浮かべつつ、彼はその名の相手を思い浮かべる。

彼の探る様な目は気づいた者には多大な精神力を消費させる。

「姜約」は気づいていなかったが……。


(さて…まず第一段階は成功した……一番の難関でしたけど…)


そこで彼はアキトたちの姿を思い出す。

「偶然」にも絵が飛んで行き、それを拾ってもらったことによって出会うことが出来た人物。


(あれがテンカワアキト……)


彼なりにアキトを分析するが、噂とは異なっているように感じた。

「巨漢」であるとか、「冷酷」などの噂であったが…

中には「遊び人」であるとか……あと「女好き」とかいうものもあったが除外した。

実際会ってみると普通の男のように思えるのだ。


(大陸の半分を手中に収める男…)


そう考えると実は隠されたものがあるのかもしれないと彼は思う。

今まで謎に隠されてわからなかったことなのだ。そう思っていても損はあるまい。



「…絵描きか」


姜維はふと手元の「絵」を見る。自分が書いた「絵」を。


「国に仕えていなければ、本当になっていたかもしれない」


そう自嘲気味に呟く。

そこにはわずかに寂しさが滲んでいた。


しかし、すぐに彼は表情を引き締めた。


(これからは「姜約」として行動をしなくてはいけない)


「姜約」それは、彼のことであった。



姜維は間者として、アキトの周りを探るために多くの準備をした。

相手が知将たちである以上、単純な策は通用しない。



そこで、彼は偶然を利用することにしたのである。



まず、姜維は魏の影たちと接触を絶ち、個人として行動することにした。

相手が接触している状況を見れば、その時点で自分の正体も知れてしまう。

魏とは関係ない人間と思わせるためには、それを徹底しなければいけなかった。

奇しくもそれは魏にいる司馬懿と同じ考えであることを彼は知らない。


ただ、定期的に接触するのは満月の日と決まっているため、ある意味姜維の間者としての活動もそれが限界な のである。



そして、次の布石として姜維は自分を別人物に「思い込む」ことにした。

限りなく自分であるが自分でない自分……すなわち「姜約」を…


「演じる」のではなく「思い込む」。つまり「暗示」をかけるのである。

その姜約という人間として普通に生きていく。

そのため、そこで起こされる行動は自然なことなので不審な点は無い。

「彼自身」が虚偽のことをしているわけではないのである。



絵描きの姜約……それは自分が夢見た一つの姿、それを思い込むことは困難なことではなかった。





そして、「姜約」となった彼は、長江で毎日絵を描いていた。

噂でアキトらしき人物が釣りをしているという情報があったためである。

事実、迎えに来る人物――陸遜たちのことは調べられていたので、目的の人物を特定することは難しくなかっ た。


そのようにして毎日アキトを見かけていたが、接触するということは無かった。

実は彼の周りには見えないところで諜報が居るのを知っていたためであった。

意図を持って接触することは不審を呼ぶ行動となるのである。


そして今日、「絵」が飛ぶという「偶然」によって接触することとなった。



難解な鍵がかかった扉でも、その鍵穴は「偶」で満ちる。



自分が知に自信があるだけに、その「偶然」という説得力の強さを知っている。

きっと相手も偶然に対しては無防備なはずである。


そして彼はその賭けに勝ったのであった。

これで「姜約として」アキトに接触することが普通となった。


それからどう状況が動くかはわからないが、きっと機会があるはずである。






「あとは私の天運……それが鍵ですね……」






その言葉は長江の流れに飲み込まれて消えた。





























翌日、アキトは宮殿の中庭に位置する休憩所で諸葛亮と面を合わせていた。

木々の鮮やかな緑と、その特有の匂いがそこには立ち込めている。


昨日の夜半に雨でも降ったのか、枝葉には瑞々しさが溢れており、陽光を乱反射している。


休憩所の机にはアキトと諸葛亮の二人が座していた。

アキトはいつもの黒の装束、そして諸葛亮もまたいつもの衣と羽扇である。


彼らの傍らでは、桜蘭が茶の準備をしており、茶を蒸らし、葉が開くの待っている。

そして、彼らから見える少し離れたところの広場には、憐麒が咲く花々を見ていた。

彼女は薄い青色の服を着て、髪を頭上の団子状にまとめて布で覆っていた。


「どうぞ」

「ありがとう」

「ありがとうございます」


桜蘭が茶を入れ、杯を二人の前に置く。

その動きはよどみなく、見るものに不快を与えない完成された動きであった。

どうやら、その役目を完璧にこなしているようである。

天職なのだろうかとアキトがそんなことを頭の片隅に浮かべながら、茶の香りを楽しむ。

そして桜蘭はそこが定位置であるかのように、アキトの右後ろに控えていた。

桜色の衣が風にゆらりと揺れる。




「アキト様、先ほどの話ですが…」


茶が一段落したところを見計らって、諸葛亮が口を開いた。


「一月後、兵力を一箇所に集中して荊州より攻め上がることでよろしいですか?」

「ああ、漢中、江東両面から攻めるという考えもあるが…戦争の意味を考えると一緒にするべきだろう」


諸葛亮の確認に、アキトは自分の考えを述べつつ同意した。

どうやら戦いの話のようである。

戦争を決意したということもあり具体的な軍略の確認を行っているのだ。


「確かに、この戦いはこの国がひとつであることの証明でもあります。

 共に戦い、共に勝利する。それが大きな意味を持っていますから」

「問題は勝算だが…」

「対魏戦においてこれまでで最も勝算が高いといえます。

 しかし、それでも互角……としかいいようがありませんね。

 士気はこちらが上でしょうが、向こうには地の利がありますから」


アキトの問いに対して、諸葛亮は冷静に分析をして答えを返す。 


「となると、皆の働き次第となるわけか……」

「そうですね…私も出来るだけ手を打っておきますが…」


戦いは時の運ですからという後に続く言葉を彼は引っ込める。

言ったところで意味を持つ言葉でもなかったためである。


(それに…天運という面で見ればアキト様に向いていますから)


そう内で呟き、薄く微笑む。


「では…私は蜀の方に戻って、向こうの兵をまとめてきます。

 後事については孫権殿、陸遜殿に任せてありますので…」

「ああ、気をつけて…今度会うときは戦いの前か」


話をまとめて立ち上がる諸葛亮に対して、アキトも見送ろうと立ち上がった。

諸葛亮はそのまま休憩所から出て行こうとする。


ところが突然、彼はアキトを振り返った。

その顔はどこか案じているような顔である。


「諸葛亮さん…何か?」

「アキト様」


彼は主の名を呼ぶ。

そこには真剣さが感じられたため、アキトもまたその次の言葉に集中した。

そしてその口が開かれる。


「アキト様……もう戦いは始まっています。それをお忘れなく…」


その言葉にアキトは深く頷く。

だが、諸葛亮の案ずる表情は晴れない。

もしかすると見抜いていたのかもしれない…アキトの性格を。


「そしてもうひとつ……小喬殿には気を留めて置いてください…」

「………ああ」


そう言って諸葛亮はその場を辞していった。



アキト自身も知らぬことであるが、この諸葛亮の蜀への帰還は大きな意味を持っていた。

これによりアキト達は、これから起こる出来事を止めることが出来た人物を失うこととなる。


諸葛亮ほど人の心を読むのに長けた人物はいない。

自らが虚と実を扱うが故に、他人の虚実を見抜くことが出来る。


その彼の不在は何を意味するのか……




天秤は傾く












一方、その後姿を見送った後、アキトは再び休憩所の席に座り、茶に口をつけた。

そして、彼の言葉を反芻する。


(小喬ちゃんに気を留めておけ、か…)


確かにその言葉にアキトは納得するところもあった。

漠然としてだが、嫌な予感が消えないのである。


『アキト兄…わかるの?』

『ああ、ディア、なんとなく…としか言いようがないけどな』


何かを隠していることはわかるが、同時にきっとそれは表に出さないものであることもわかった。

だから、今は注意を向けておくことしか出来ないとも言える。


(一体何を抱えているのだろうか……)


そして、アキトは視線を横に向け、開けた庭で遊ぶ憐麒の姿を見つめる。

彼女ならば…小喬より舞を学んでいる彼女ならば理解しているのだろうか……

ただ考えにとらわれる。


(まあ気を払っておくに越したことはないか…)


そう思考を完結させることにした。

一方で、そんな思索に耽っている間に、憐麒の姉の桜蘭は諸葛亮の杯を片付け、アキトの新しい茶を煎れてい た。






彼は自らが持っている杯の茶を飲み干しながら、これからの予定をどうしようかと考えていた。

そんなときだった……








「よろしいかしら……?」

























その声に反応してアキトが顔を上げると、そこには甄姫の姿があった。

その姿は床にいた時の衣ではなく、以前出会ったときの青い衣を着ていた。

髪や腕にも装飾品を身につけている。

しかしその装飾の美しさ以上に、頭上でまとめて後ろにおろした黒髪が、日の光に照らされ光彩を放っている。

療養のため体力を失っていたため、生命力に満ち溢れているわけではないが、その美しさは変わらない。

それに、もし療養前の姿を見たものが居るならば、そのときにはなかった意志の光が見て取ることが出来るだ ろう。


(どうやら、まずひとつ乗り越えたようだな……)


そうアキトは内心安堵する。

思っていたより、精神の回復も順調であるようだ。


「別に断る理由もないが……」

「そう?なら失礼しますわ」


アキトの言葉に彼女はアキトの対面――先ほどの諸葛亮の席に腰掛けた。

瞬間わずかに風が吹き、彼女の横髪を揺らす。


しかし、彼女は座してから何も語らない。

そのため、二人の間には妙な沈黙が落ちる。


「怪我はいいのか?」

「おかげさまで、ほぼ完治しましたわ」

「それは結構……」


それを打開しようとアキトが体調を尋ねるが、それもあっさりと終わり再び沈黙が訪れる。


(一体、何の用があるのだろうか……)


何かしらの意図があってここに来たのは間違いないだろう。

ただ、そうやっていられるのも居心地が悪いものである。


「お茶です」


そのとき、桜蘭が二人の前に茶を置く。

間が欲しかったアキトにとって、絶妙なものである。


「ありがとう」

「ありがとう…いただくわ」


アキトだけでなく甄姫もまた、やんわりと笑って桜蘭に礼を述べる。

それに対して桜蘭はにっこりと笑い、軽く一礼する。


美人というのはどんな顔でも魅力的なんだな、とアキトが思いながら茶を口に運ぶ。

同時に今日は茶を飲みながら妙な感想を浮かべることが多い気がしていた。


『それも妙な感想だよ』


アキトはそんなブロスの指摘を丁重に無視する。


一応、茶によって間を持たせることが出来たが、根本的な解決にはなってはいなかった。

実際、彼女が何かを言いたいのであるなら、アキトは待つしかないのであるが。


ふと、アキトは庭の憐麒の姿を眺めてみる。

彼女は変わらず、花を摘んだり、観察したりして遊んでいる。

その姿にアキトは自分の口元が緩むのを感じる。


彼女が声を失って、しばらく経つが未だに声が戻ることはない。

笑顔は増えてきているのであるが、まだ傷は癒えていないということだろう。

早く彼女に声が戻ってくれるといい。


それがアキトの願いでもあった。






そこに突然声が掛けられた。


「この子達は貴方の使用人?」


その言葉は甄姫のものだった。

沈黙を守っていたと思えば、意外にもその口が開かれたのである。

アキトは目を横から彼女の方に向け、首を振る。


「彼女達を使用人って考えたことは一度もない……」

「よくわかりませんわ?」


彼女は要領を得なかったのか再び問い直す。


「ある事情によって引き取った子達だ。

 実際、小間使いをする必要はないんだが……」


その問いに対して、アキトは簡単に理由を説明する。

が、その言葉に反応したのは甄姫ではなく別の人物であった。


「ご主人様……」


それは、アキトの傍に侍していた桜蘭だった。


「私も憐麒もご主人様のお役に立てることが嬉しいんですよ。

 私達を拾ってくれた恩もありますし……」


彼に対して感謝の念を込めて思いを告げる。


「それは俺の自己満足みたいなものだから、恩に感じる必要はないんだが…」


アキトは困ったように言葉を返す。

彼自身、彼女達を束縛するつもりはないのである。

恩ということで束縛することは彼にとっては好ましくない。

だが、その言葉を聞いても桜蘭の表情は変わらない。


「なら、私達の行動も自己満足ですよ」

「………」


その言葉にアキトは黙り込むしかなかった。

どうやら、この勝負は桜蘭の勝ちらしい。





その状況を一部始終見ていた甄姫はやや呆れたように口を開く


「変わった人ですわね」

「よく言われるよ……」


アキトはそう応えるしかなかった。


『変わっているというか、なんと言うか……』

『否定できないところが悲しいね』


一方でそんな会話がされていることはアキトは知らない。











そのやり取りでわずかに場が和んだのだが、そこで再び会話が止まる。

アキトは視線を庭園に向けながらも、意識は甄姫へと向けていた。


どうやら、こちらから話を振らないといけないらしい。

少なくともアキトはそう思えた。

もともとこういったことに対しては堪え性がないアキトでもある。


「……何か用があるんじゃないのか?」


アキトは視線は庭に向けたまま口を開いた。


「……別にありませんわ」


その問いに対して、甄姫もまた庭を眺めながら素っ気無く答えた。

だが、それが嘘であることは流石に彼でもわかった。

用がなければ敵国の主に会いに来るはずがないのである。


どうやら言い難い…またはそれに準じた内容なのだろう。


「そうか……」


アキトはやや困りながらも、仕方ないとも思っていた。

だから、考え方を変えてみることにした。


実際彼女とは、あの時以来、面を合わせてはいない。

桜蘭から彼女の様子については聞いていたが、話す機会はなかった。

ここで何か聞いてみるのもいいかもしれない、と。






「それで…これからどうするんだ?」


彼は手元の杯を口に持っていきながら彼女に問いかけた。


これはアキトが気になっていたことであった。

特に徐晃との約束上、彼女の処遇は彼女自身が決めることとなっている。

彼女がどうして行くのかは気になっているところでもあった。


(それに……)


アキトは報告として、彼女は魏では「死人」として扱われていることを知っていた。


まるで自分が「火星の後継者」に攫われたときのように……


彼女の帰る場所はあるのだろうか


そう彼が思うのも不思議ではなかった。



一方、尋ねられた甄姫はわずかに表情を強張らせるが、すぐに微笑に変え、思案するような表情を作る。


「……さあ?どうしましょう?…」


どこか他人事であるかのように彼女は言葉を発した。

そして何かを思いついたようにわずかに口の端を上げて、アキトの方を見る。


「まあ…貴方の『妾』になってみるのもいいかもしれませんわね?」

「……!!!」


その言葉にアキトは口につけていた茶を噴出しかけた。

だが、口元を押さえかろうじて耐える。

そして、それが治まった後に彼女の方を向いた。

だが、動揺は隠しきれていない。


「…な、何を……!!」

「冗談ですわ」


そんな彼に彼女はあっさりと言い放つ。

悪戯っぽく笑っている姿がアキトとは違い余裕を感じられる。


「驚かせないでくれ」

「あら?貴方にも妻、妾の一人や二人はいるのではなくて?……あの呉の姫様とか」


揶揄するように甄姫はアキトに尋ねる。

しかし、アキトに妾がいるということは冗談でなく、本当に思っていたことである。


「俺にはまだそんな人はいない」

「……変わった人ですわね」


苦笑しながら答えを返すアキトに対して、先ほどと同じ評価の言葉を彼女は与えた。

その顔には笑みが浮んでいる。


それを見たアキトは苦笑し、困っていた顔を、どこか安堵したような顔に変えた。

そして口を開いた。







「……もう、大丈夫なようだな……」







その言葉を聞いた瞬間、甄姫の笑みは崩れ、わずかに困惑気味なものとなる。

そして、彼女はその相手――アキトの顔を見つめた。


そこにあったのは、安堵、そして慈しみの色。


それはアキトが彼女を心配していたため。

あまりに自分と同じように流され、心を閉ざしてしまった彼女を。

甄姫は光の方向へ進んでいる。

自分とは違い、正しい道を歩んでいける。


そういう実感を持った上での色であった。




しかし、彼女にはそこまでの気持ちが込められていることはわからない。

ただ、自分を慮っていることはわかった。


(…やはりあの想いは……)


思い浮かべるのは、濁流に流され、気を失っていたときに触れた意識。


まるで雪の温かさのような意識。


おそらく自分と同じ体験をした者の想い。


なんとなく気づいていたが、改めてそれが目の前の人物のものであったことを彼女は再認識した。


「…貴方も ―――」


だから彼女がその問いをするのも必然であったのかも知れない。



「――― 貴方も…あの絶望を感じたことがあるのですか?」










(……ッ!!)


今度はアキトが表情を変える番だった。

わずかに苦虫を噛み潰したように口の端をわずかに歪める。

甄姫はそれを見て、自分の問いが正しいのだと感じた。


このテンカワアキトは深い絶望と後悔を経験し今に至っていると…


全く知ることの出来ない相手の存在を、わずかに知ることが出来た。



対して、アキトは自らの失策を呪う。

そして、相手の表情を見て、そのことを誤魔化すことが出来ないこともまた感じていた。


『アキト兄…』


ブロスの案じる声が聞こえる。それを語ることがアキトにとって良いものではないことを知っているためだった。


アキトは目を瞑り、深く息を吐いた。

背凭れに身体を預け、顔を横に向けて虚空を見つめる。


そして、小さく、だがはっきりとした声でそれを語った。



「一人の男がいた……」



甄姫はわずかに怪訝な顔をする。

なぜなら、脈絡のない内容であるような気がしたためであった。

だが、それを遮るようなことは出来なかった。

限りなく濃い気配……負の気配に。


「そいつは馬鹿な男で、大切なものも希望も失ったつもりでいて絶望していた……

 そして、ただ復讐に身を焦がすことを望んだ」


自嘲気味に彼は語る。


絶望に叩き込まれた中での唯一の目的。

それが復讐であった。

いや、そこには彼の妻を救い出すというモノもあった。

だが、一体どちらを大切にしていたのかわからない。


ただ彼を動かしていた衝動だった。



一方甄姫は、一度は言いよどんだものの、逆にこみ上げてくる想いもあった。

それは同じ者であるが故の知りたいという気持ち。


だから気づいたら口を開いていた。


「その男は……復讐を果たしたら何が――」


残ったのですか?……彼女は最後まで言葉を続けることが出来なかった。



あまりにも男の顔が哀しかったから。


あまりにも深い何かがあったから。




こちらの胸が締め付けられるような感覚を残すその顔。







アキトは彼女の聞きたいことを正確に理解していた。

自分と彼女が似ているならば、聞きたいこと、思うことも予想は出来る。


彼は首を上げ、天上を見つめる。

状態を逸らしたため、椅子の背凭れが悲鳴を上げた。


「何も残らなかったよ……。いや、残っていたがそれからも逃げ出した。

 そして……後になってそれが愚かなことだって気づいた」



そう、大切なものは残っていた。

でもそれから逃げた。自分の理由のために…



そして逃げ出して得た「やり直し」

それは新たな出会いを呼び、未来を変えるもの…



しかし、アキトの過去は変わらない。


彼の大切なモノは取り残されたまま。


自分が帰る場所、それはどこか…





それはわかっている。




しかし、アキトは前には進めない。

その「逃げた」ことに決着をつけない限り、自分の想いも前には進めないのだ。




「本当に馬鹿な男だよ…」




その万感の想いを込めて、彼は吐き出すように呟いた。











その雰囲気に甄姫はアキトに深く聞くことが出来なかった。


「……貴方は、一体何者なんですか……」


ただ、搾り出すようにその問いを発する。


「それについては説明できない……、自分でもどう説明したらいいかわからないからな」


しかし、アキトはあっさりと答えることを断った。

一瞬にして、先ほどの雰囲気が霧散する。


「………」


甄姫はその格差にわずかに釈然としないものを感じながらも、深入りしすぎた感も否めなかった。

話の流れとはいえ、相手の痛々しい姿を見ることは好きではない。


その態度だけで、相手が自分の疑問に答えていることを理解した。

ならばそれでいい。


それに自分にとって、相手のことを知ったところで利益があるわけではないのだ。



もう戦う理由もないのだから……



そう自分を理論的に納得させることにした。


「ふぅ……もういいですわ。私にはもう関係ないことですし、もはや魏の人間でない私には」


そう、死人たる自分には


甄姫はもはや居場所がないことを知っていた。

そして、アキトはその言葉から、彼女が立場を理解していることを悟った。


「知っていたのか……」


だが、それでもこんな問いをしてしまうのは愚かだというのだろうか。

ただ、彼女には知らないでいて欲しいという一縷の願いがあった。


「………」


しかし、彼女の沈黙はその答えを如実に示す。

そうか…と彼は顔を下げつつ呟いた。

重苦しい空気が漂う。




「これからどうするんだ」


そしてアキトは先ほどと同じ質問をする。

先ほどは誤魔化されたが、今回はこの場の雰囲気がそれを許そうともしない。


だが、彼女にとってもそれがアキトに聞きたかったことでもある。

自分はどうなるのか、と……



居場所をなくしたために、束縛、居場所を望む行動。



だが、それを聞くべき相手は、自分にどうしたいかを逆に問いてきた。



「流されるしかなかった」彼女が立たされた「決断」



それは彼女を思考の荒海に放り込む。





自分には何が残っているのか…


流されてきた自分


何度も裏切られてきた。

その度に自分の意志を殺し、従ってきた。


そして知らず知らずに身につけたココロの鎧

この美しさ、高貴さもその一つだった。


だが、自分はまたも流されて失った。




一体何が悪かったというのであろうか。




世には天運というものがあり、すべからく人に存在するという。

ならば、自分の運命もその天運なのであろうか。


(何故……)


悔しかった。

このような仕打ちをする天。


そしてこみ上げるは、怒り、そして憎悪。


理不尽な運命に対する怒り。


奪った者に対する憎悪。



一人の男が浮ぶ。奪った者の姿が。



聡い彼女だからこそわかってしまった対象。


この憎悪をぶつける相手を…


深い黒いものが徐々に侵食していく。



復讐……そんな言葉が彼女の脳裏に浮んだ。







アキトはその様子を黙って見つめていた。

彼女の美しい白い肌にある左の泣き黒子が何故か映えて見えた。

泣き黒子のある女性は幸せにはなれない…どこかで聞いた言葉が浮ぶ。


彼女と自分は似ている…そうアキトは思っている。


失われ、信じられなくなり、絶望する。


だから、彼女がたどるであろう感情を察することが出来た。


自分も希望を無くし、自分の居場所、存在意義を求めた。


彼女も絶望し、自分の居場所をなくしている。


そして、彼女の絶望の原因が他者によるものならば……

その答えはアキトにとってたやすく導くことが出来る。






だから…




「やめておけ……」




アキトは静かに彼女に言ったのだった。








「…!!!」


その言葉にわずかに身体を震わせる彼女は、その顔を相手に向ける。

驚きで目を見開いたその顔は、仮面でない本当の顔。



何故、わかるのか?…そんな想いを如実に語っている。




が、次の瞬間には、その顔が歪む。

何かを抑えるように、耐えるようにかみ締めたそれは、痛々しさを伴っていた。



「……それでも……」



搾り出すように、ひょっとしたら相手には聞き取れないかもしれない、そんな声を発する。


それでも、それ以外、自分の理由が見つからない。

やめろと言われて、すぐに別のものを捜すことは出来ない。

そこからこみ上げる黒を抑える事が出来ないのだ。


それはもちろん止めたアキトにもわかっていた。

アカツキ、エリナたちが止めたとしても復讐を止めることはなかった彼だからこそ。

しかし、彼女はまだ「戻れる」。そう彼は感じていた。


すべてを失う…それは自分が気づいていないだけなのだから。


「まあ…ゆっくり考えることだ…

 だが、そろそろ魏に攻め込むことになっているが…」


アキトはそんな様子を見て、考える時間が必要だと判断した。

席を立ち、彼女に何の感情もなしにそれを伝える。


一方、彼女はそれが聞こえていないかのように沈黙している。

ただ机の一点を見つめて


「ついてくるのも勝手だが、辛いぞ……

 自分の国が倒れてゆく様を見ることになるのだから」


そういい残して、アキトは館の方に戻るために歩き出す。


「貴方は……」


しかし、休憩所の出口に差し掛かったところで、アキトの背後、すなわち甄姫の声が掛けられた。

その言葉にアキトは立ち止まる。しかし振り返ることはなかった。


「…何故、私にそこまで……」


まるで、置いて行かれることを嫌う子供のように心細い声だった。

しかし、それ以上に不思議に思う気持ちがこもっていた。


敵国の人間である自分に…

何も望まず、ただ彼女の自由意志を尊重している。


過去、何度も流されてきた彼女にとってそれは不思議なことだった。

こみ上げる憎悪、ぐちゃぐちゃになりそうな不安感の中でも、それが先に立った。


だから知りたいと思った。


それが、ともすれば崩れそうな自分を支えることだったから。




「俺によく似ているからかもな、……絶望も…その生き方も…」


だからその闇に陥って欲しくない。

それが願い。理解しているからこそ手を差し伸べたかった。


アキトはそういい残すと、わずかに土を踏みしめる音を残しながら去っていった。


『大丈夫だよ、きっと…』

『うん、彼女なら見つけられるよ』


決して声にならない声が、生まれては消えた。それは限りなく優しく…。








残された甄姫は再び席に座り、思索に耽るように視線を下ろす。

冷めた茶の鏡面に自分の顔が映りこんでいる。


空はこんなにも晴れ渡っているのに、そこに映る像は冴えない。



「…甄姫様」



そこに鈴のような透き通る声が響く。

反応して彼女が見上げると、そこには桜蘭の姿があった。


「私は甄姫様が思っていらっしゃることを察することは出来ません。

 ただ、私は貴方様がこの国にいてくださると嬉しいです」


そして、視線を横に向ける。

甄姫もまた、彼女につられその方向を見る。


「憐麒もそう思っているでしょうから……」


そこには憐麒の姿があった。


「………」


甄姫は黙って庭で遊ぶ少女の姿を見ていた。

すると、憐麒がこちらを向いた。

その中で甄姫の存在を認めると、笑顔でトコトコと走ってきた。


「………?」


休憩所の机のところまで来ると、憐麒は左右を見渡し、桜蘭に問いかけるような目を向けた。

言葉が話せないが、姉として妹の言いたいことはわかる。


「ご主人様はもう行かれましたよ…」


そう優しく答えると、憐麒はわずかに残念そうな顔をした。

どうやらアキトに遊んでもらいたかったらしい。

その姿は微笑ましくあり、わずかに甄姫の表情も緩んだ。

先ほどあった荒れ狂う心の海も若干収まっていた。


「さあ憐麒。そろそろ休憩は終わりよ」


そんな妹に、やんわりと姉は促す。

実は桜蘭も休憩中であるはずなのだが、アキトの世話をしているあたり、彼女の性格が出ている。

憐麒はその言葉を聞いて、拗ねるような顔をしたがコクンと頷いた。


「では甄姫様、私達はこれで…」


桜蘭はそう言って深々と礼をした。

そして、憐麒もまた彼女に礼をして満面の笑みを彼女に向けた。


今度遊んでね…そんな想いが籠もった笑顔だった。


それを見て、何故か泣きたくなるような思いにとらわれた。



もう何もない自分に、この子は笑いかけてくれる。


魏の皇后、この美しさを求めるわけでなく、自分そのものを見て笑いかけてくれている。



それが何故か温かかった。




だからこその衝動か……


甄姫は、自分の左腕につけているの六つの腕輪のうち一番小さい物を外した。

鉄の腕輪であるが、紫色の石が埋め込まれ、その光沢が美しい。


次に彼女はしゃがんで憐麒と同じ目の高さとなると、その腕をとり、二の腕に付ける。

自分の手首にはめていたものだったので、彼女の二の腕にはちょうど良かった。

一方つけられた憐麒は、不思議そうに自らの腕の腕輪を見つめている。


「これをあげるわ…」


そう言って、彼女はその前の少女に微笑んだ。

このときばかりは心は落ち着いていた。


「良いの……」


ですか?…と、それを見ていた桜蘭が驚きに目を丸くして問いかけようとする。

彼女から見てもそれが素晴らしい、そして高価なものであることがわかったからだった。

しかし、妹を見つめるその微笑みを見たとき、そんな無粋な言葉は霧散していた。

だから


「良かったわね、憐麒」


桜蘭はそう言葉を変えることにした。

その言葉に、憐麒は顔を輝かせながら、何度も頷く。

そんな姉妹の姿に、甄姫の目もさらに優しいものとなった。

しばらくの間、そこは確かに温かだった。



が、その時間は、桜蘭が仕事を思い出すことで終わりを告げた。


「では、仕事の方もありますので、また」


名残惜しい、申し訳ない…そんな気持ちも込めて、彼女は礼をして言った。

それに甄姫は軽く頷くことで応え、最後に憐麒に微笑んだ。


憐麒は姉に手を引かれながらも、甄姫に笑顔でずっと手を振っていた。


甄姫はその姿を見えなくなるまで見ていたが、見えなくなると再び席に座る。

休憩所には彼女一人となった。

鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。


甄姫はその中で、喜んでくれた少女の姿を思い出していた。

そのおかげで、彼女の心は落ち着いていた。


そして、その心で先ほどあった一連の出来事を思い出していた。


自分はどうしたいのか……


それに対して、自分は憎悪を持った。


そして今も持ち続けている。実際消えるものでもない。


ただ、それを見つめる余裕は出来ていた。



それは、自分の思いを知る相手――テンカワアキトがいたからかもしれない。


彼は自分の気持ちを知り、その先にある物も知っている。


その上で自分を見ている。


彼女はそこに温かさ、優しさを感じてもいた。

だが、それを否定している面もある。

前まで敵であったことが要因となっているのだろう。



もう一つ、それは語らぬ少女の存在。


何の裏もなく、ただ自分だけを見てくれる少女。


容姿でも、肩書きでもなく自分を見てくれる。


こんな状況だからこそ感じられたことである。


と、そこで彼女は考えに至る。

あの不思議な黒衣の主もまた、自分を見てくれているのではないか…と。


それは本人も知り得ないきっかけ。

知るのはまだ先の話。





「私の居場所か……」





最後に彼女はそう呟く。

それは、風に流れて、緑の中に吸い込まれて消えていった。





















あとがき、もとい言い訳


ということで二十四幕お送りしました。

一応二十五幕と同時投稿ですが、意外に進まないものです。

テンポのいい文章を書きたいものです。


さてこの幕では、姜約(姜維)に関してと、甄姫をメインに書いてきました。

何故か甄姫が妙に目立っているなあ。

皆さ〜ん、大喬の存在…忘れていませんか?(爆)


姜維については結構強引なところもあります。

まあ「そういうこと」と納得しておいて下さい(苦笑)


実はこの幕に出てきた人は活躍位置多いんです。

さて、悲劇の天秤それに手をかけるのは誰。


感想の礼については二十五幕のあとがきにて…

それでは引き続き二十五幕をお楽しみください。





休暇中の代理人の感想

いや〜、お久しぶり。PCのマザーボードにお迎えが来てしまった為

現在更新作業は管理人に任せて休暇を堪能している代理人です(笑)。

自由に使える時間があるって、いいですねぇ!


それはさておき、今回は描写の丁寧さが良かったですね。特に甄姫。

よく考えると甄姫の心の動き自体はちょっと急かなと思わないでもないのですが、

一つ一つ、その動きを細やかに追っていったことで違和感を打ち消せたかなと。