はじまった後


 1
 
 
 決して吐き出す事のかなわない嘔吐感に刺され、アキトは目を覚ました。
 肺は空気が抜けて胸の中、全部が萎んでしまったようだ。体を起こし咳き込むようにして通り道をつくってやると、どうにか浮力を回復しはじめ、安堵する。深呼吸を続けて早い鼓動を整えると、緊張が次第にほころんでいくのがわかる。額に浮いた冷たい汗を拭うと、冷たいのは汗ではなく、アキトの体の方だと気付いた。
 最悪の目覚めを繰り返す。
 悪夢を殺したがゆえに、またも悪夢に殺される日々。それに慣れる事はできなかった。
 毛布をのけてテントから這い出ると、カーテンで遮られた部屋の中はうっすらと白んでいて、世界に太陽が昇っているとわかった。空気が幾分澄んでいる。清涼感に助けられてカーテンを引き、ガラス窓をからりからりと開いた。
 群青に染まった海と、低く広がる雲。申しわけ程度に空の青が垣間見える。
 アキトは倉庫の二階にある元事務室を利用して生活している。海に面し、倉庫が碁盤目状に林立しているが、一部は本来の意味とは離れた使用のされ方をしていた。武器製造所、ある物資の一時保管庫、カジノにオークション会場、人の生活。どれもイリーガルだ。
 そんな場所でも朝は穏やかだった。
 だがアキトはそうはいかない。詰まった暑苦しい息を吐き出しきれず、のろのろと水場に近づいて蛇口を捻る。流れ落ちる水道水に喰らい付く様にして、気が済むまで胃を潤した。そのついでに薬瓶を開けて錠剤を飲み込み朝食も済ませる。ずっと料理というものを遠ざけていて、こんな食事しかしていない。
(ごちそうさま)
 唇が痛いほど乾いているので、体が水分を受け付けるにはまだ時間がかかるだろう。
 目覚しが鳴った。
 時計は8時を指しているのを見とめ、スイッチを切った。
 確かめなければならないことがある。気は進まないが彼を見送りに行かなければいけない。
 置き去りにされてあったロッカーから、気の抜けた背広を取り出して袖を通し、それからスチール製の机の引き出しから銃を取り出すと、弾倉を落として弾を確認する。遊底のスライドが部屋に響いた。
 
 
 
 男は苛立ちとともに、エプロンに並ぶ飛行機を眺めていた。
 風は強くないようだから、フライト日和だろう。空港のせわしない足音が、男の背後に響いている。出発ターミナルは人種が混ざり合い、彼のような金髪の白人でも目立つ事は無かった。
 これから祖国に帰るというのにすっきりしないのは、国に待っている人がいないわけでも、この国、日本に情が移ったわけでもない。
 下された帰国命令に納得できないだけだ。
 しかし、それは論理的な思考からの拒否ではなかった。「奴」に3ヶ月近く張り付いていてなんの不自然な行動もなかったのは確かだが、自分に何か引けない、拘りとは別の生理的とも言うべき感情があるのは確かで、それが何かは分からないままだ。
 空港の放送が、チューリップでジャンプ障害があったことを知らせている。最近、多い。
 沈んだ視線を外に向けると、背後を映すガラスに見覚えのある人影が映っていた。黒い影。
 不審に思って振り向くと、やはり「奴」だった。
「どこにでも居やがる」
 カラスめ、と嫌悪を込めて呟いた。相手には聞こえていないだろう。
 少し茶の入った黒い髪はいつものままで、冴えない背広を着ている。今更何をしに来たのかは分からないが、自分に用があるのは確実だ。
 振り向き、一歩目を踏み出した。
 すると、重かった歩調が徐々に軽くなり視界にはあの男しか映らなくなってしまった。
 気がつくと睫毛を数えられるほど近づいていて、バードは勢いに任せて拳を握って右腕を引き、そして放った。
 眼前で音がはじける。
「っの……、いきなり」
 カラスが強張った声を上げた。
「見送りにきた人を本気で殴るか? ふつうッ……!」
 おしくもバードの拳は男の手の平に阻まれ、二人の間で均衡点を探すように震えている。
「黙れ、火星の変異種め。一体何をしに来た、俺へのあてつけか? エ? 天川アキト!」
 テロを起こしておきながら、その特殊能力を買われて連合警察のお抱えとなった目の前の男を監視するのが自分の任務だった。疑惑を調べるという任務とは関係なく、バードはこの男が好きにはなれない。
 さらに力を込めると、アキトの顔が歪んだ。
 旗色がいい。
 思わず笑みがもれそうになる。力で負けるわけが無いのだ。
「目立ちすぎだぞ、このままじゃ」
 苦しそうに相手の口が動いた。
 気づくと足をゆるめた客達が何事かとこちらを見詰めていて、剣呑な雰囲気が広がっていた。バードの拳からは、いつの間にか力が抜け、アキトの手の平から滑り落ちる。
 アキトは受けていた手を振りながら眉を寄せている。多少は痛みを与えられたようだ。
「……おい」
「仕方ない」
 二人は瞳を合わせて意思を確認した。
 青天の霹靂とも言うべき、割れんばかりの笑い。
 さっきまでの険しい表情を崩して、嘘のように二人は肩を叩き合う。きっと久しぶりに会った親友同士にでも見えるだろう。
 意図した通り、止まっていた人波は次第に動き出した。
 アキトがバードの手を払う。何気なく掌ていを使って鎖骨のあたりを叩いたせいだ。
「もういいだろ。こっちだって、好きで会いにきたわけじゃない。聞きたいことがあるだけだ」
 面白くなさそうにアキトは話し、無言のまま話を促がしてやった。
「簡単だ。スパイがいるんだろう? 誰なんだ」
「なんの話だ」
 答えると、アキトは一枚の紙を取り出し、目の前に示した。最初に一文に目を通しただけでそれより下に何が書かれているか暗誦出来る。驚いた。なぜならば、バード自身が書いて送った報告書だったからだ。
「誰なんだ」
「……さあな。自分らで確かめればいい」
「本当に知らないのか?」とアキトが問いただした瞬間、バードは強引にその紙を奪い上げていた。
「知ってても貴様に話したりはしないだろうさ、カラス野郎。答えてもらうぞ、どこでこいつを! 掴んだかをな」
「……お前は日本に出向して俺を監視してたんだろ。同じさ、俺もお前を監視していた。結論はシロさ。日本支部の内情を調べているのは分かったが、流している先はアメリカ支部。疑って、悪かった」
 即答された答えを聞くと、バードは握った紙とアキトの顔を一度見比べた。
 そして無言のままアキトの脇を掠めて出国ゲートに歩き出した。呼び止められたが、それに振り返るつもりはなかった。
(俺を監視していただと? あんな力しか持っていない奴に俺が把握された?)  奥歯が折れそうなぐらいの悔しさを抱えながら出国ゲートをくぐった途端、何故自分が天川アキトという男が嫌いなのか、その答えに近づいた気がした。嫉妬なのか。あの男はその気になれば世界を変えられるような、人であるのに神のような男に思えていたのか。連合の頂点に上り詰めるのが目標の自分にとって、奴は先天的能力という超えがたい距離をもって現われた恐怖の塊で、ただそれに怒りをもって反抗しただけなのか。
 そう思い当たった途端、何かが胸にあった。
「……カラスめ」
 
 家族連れの多い空港の展望室から、アキトは一つの旅客機を見送っていた。周りには子供のはしゃぐ声やそれをとがめる大人の声がする。
 上着の内ポケットで携帯の着信を伝える震動があり、取り出すと【マーリン】と表示されていた。
 この名前が示すのは、仕事がある、ということだ。それが海賊退治など急を要する仕事でないのなら気は楽なので、そうでない事を祈りながら電話に出た。
 やはり小気味いい抑えた女の声で仕事があるとの連絡だ。
 しかし懸念していた海賊退治ではないらしい。やった、とアキトは思った。
「了解」と一言いって電話を切ると、既に空には、目当ての機体の姿は無くなっていた。
 
 
 
 いつも待ち合わせに使っている喫茶店に入ると普段どおり微かな香りに迎えられた。
 朝は決まってラジオが流れている。地球から木星までをボゾンジャンプで結ぶヒサゴプラン。或る所から或る所まで転送するゲート、チューリップが最近不調らしく、ラジオからは公団の怠慢ではないか、と読み取れる皮肉っぽい文章が読み上げられていた。
 店内を見る。この時間帯なら出勤前の人々がコーヒーを楽しむ姿があるはずだったが、今朝はひどく寂しい雰囲気。
 一番隅の席に、呼び出された相手である夏野リツが一人座っているのがわかる。
 目鼻立ちがすっきりとしていて、肩ほどまでの黒髪を綺麗に後ろでまとめている。
 彼女は連合警察の日本支部にある、調査係というアキトにとって厄介な部署の人間だ。何故厄介かというと、アキトが契約を結ばされている連合警察内で、最も強い使役権限を持っている飼い主同然の相手だからだ。リツはアキトとの連絡係である。
 その彼女と目が合った。
 テーブル上に新聞が置かれていたので出勤してすぐなのかと思ったが、彼女の目には余計な力が入っているのが見て取れた。スーツは綺麗なようだが、こういう時はまず徹夜明けだろう。
 そんな直感を感じたせいで、綺麗な黒髪がくすんで見え、普段からのいい姿勢は逆に無理をしているように見えてしまう。
(髪、か)
 一人の女の顔が浮かんで、消えていった。
 アキトはカウンターで何もいらない事を伝えてから席まで歩いく。
 
「おはようございます、天川さん」
「ああ」
「ああ、じゃないでしょう。返事。たるんでます」
「おはようございます」
「よくできました」
 どうぞ、と席を勧める。アキトは億劫そうに座りながらネクタイを緩めた。周囲には気を配っているようだが、それほど緊張しているようではない。機嫌は、悪くはないように見える。
「ところで本当に見送りに行ったんですよね。挨拶もできない人がよく、って感心しますよ。本当に。調査部の人間は誰も行かなかったのに……。何か用でもあったんですか」
「俺が一番話してたから」
 アキトは面白くなさそうな顔をしている。
 答えから察するに、すすんで見送りにいったことが恥ずかしいのかもしれない。
 あれだけ苛められていたんだから仕方ないか、とリツは思った。
 コーヒーカップを傾ける。連合警察の庁舎の近場で一番美味しいのだが、これで睡眠さえ確かならもっと美味しいはずだろう。コーヒー好きのリツにとっては残念な状況だ。
 視線に気づいて顔を上げると、アキトが珍しそうにコーヒーを飲む自分を眺めていた。
 急に恥ずかしくなってカップを下ろし、何ですか?と首を傾げると、アキトは茶目っ気のある顔をして通りの方に目を向けてしまった。にやけた横顔。なんだというのだろうか。
「で、仕事ってのは何だ?」
「……はい。大きな声では話せないことなんですが、うちに密通者がいるらしいんです。アメリカ支部からの極秘情報なんですが、ソーダに関係する情報が日本支部から流れているという指摘がありました」
 ナノマシンを使った麻薬、ソーダ。これは比較的最近目立ち始めたもので、効果は死ぬまで続く。タイプは「ml」「dl」とあり、最高ランクには「L」がある。主に陶酔感と開放感を与えるようだが、幻とまで言われているタイプLは潜在的な肉体使用のリミッターを解除するためにかなり危険なものだ。ただ、単価が高いために急速に広まっているわけではない。
 戦争と立て続けに起こったクーデターのおかげで疲弊した経済状態。何かが起きるようなそわそわした不安が包む世間が、違法な清涼剤に染まらないとも限らず、警察も厚生関係者も気を尖らせている。
「どこの奴だよ、そんな大胆な事してるのは」
 潜入できたのには驚くけど、とアキトは微笑みながら付け加えた。
 リツは、アキトの反応に違和感を感じた。こういう時は苛立った表情を浮かべると予想していたのだが……。
「科学捜査研究室の研究員です。ソーダのアンプルをパクったのを目撃されて発覚。背後関係を探ってるんですが、相手の身元がハッキリしないので難航していて、国際遺伝情報財団でも当たってみたそうですが、あそこじゃ無理でしょうね」
「俺の仕事はそのスパイに関係があるのか? 調査係が本腰入れるものじゃないだろ」
 確かに今回の件は査察部が取り仕切っている。
 リツ達の仕事は遺伝情報関係の非合法実験の摘発とそれに関係する事件の調査が主であり、どうやら追っている機関にソーダの収益金が流れているらしく全く無関係ともいえない。
 扱いを任せられているアキトにもその方面の情報も集めるよう指示はしてあった。
「はい、その通りです。ですが手伝ってもらいます」
「どうして」
「目撃者、私ですから」
 何か言いたそうな表情で見詰めてくるアキトに、知らん顔でカップに口をつけた。
 今回の件が発覚してすぐに査察部から調査係に協力を依頼された。そこで係長から「見たんだから、お前もやれ」と担当を決められてしまい、リツは本当に頭が痛かった。
「兎に角、協力は契約ですので拒否は許しません」
「了解。で、俺は何するんだ? 尾行やらなにやらはそっちのお得意様だろ?」
 従順な返答だったが、気が進まないらしく、言葉に暗さがあった。ことを切り出すにはいいタイミングなのだろうが、リツは博打でも打つような気分がして、口の端が引きつる思いがした。
「……実は」