桜の木の下

第三章 赤い大地








 オムライス全部食べたかったな、とラピスは呟いた。ブリッジまで届けて貰ったのに、半分程食べただけでスプーンを置く事になってしまったのだ。

「我々は〜、断固ネルガルに抗議する〜!!」

 勤務に就いていたブリッジクルーは今、軍の兵士ではなく、リョーコやヒカル、イズミや瓜畑率いる整備班らに拠って、ブリッジ下段部に拘束されている。彼らが手に持つのは、必殺の凶器――。

 ナデシコは、目的の火星に近付いて来ていた。無人兵器に乗っ取られたエステバリスを、パイロットたちが壊したり、木星蜥蜴に拠って亡くなった、サツキミドリ二号の人たちの葬儀を行ったり、迎撃が必要ない第四種警戒体勢が発動されたり、艦長がお籠りしたり、と色色あったのだが、――同じ船に乗る者に拘束されるとは、ラピスは思ってもいなかった。

「責任者、出て来ォい!」

「メグちゃんごめんねぇ」

 瓜畑は声を上げ、ヒカルは無邪気な笑みを浮かべている。瓜畑たちが手に持つ小銃は、照準が此方に向けられている。明確な狙いではないが、放たれればラピスかルリ、メグミはあっけなく貫かれてしまうだろう。

 ラピスとルリは無表情で彼らを観ている。人形の貌だ。ラピスはメグミへ視軸を移した。
 メグミは貌を臥せ、片方の拳をきゅ、と握り締めて胸元に添えている。

 メグミは思う。今までに、ラピスに聞かされた話を幾度も反芻していたが、本当に人の心は解らない。心は通じない、か。ああ、其の通りだ。何故、銃を向けられているのだろうか。何故、彼らは仲間に銃を向けられるのだろうか。何故、ヒカルは無邪気な貌で銃を手にしているのだろうか。相手の心の箱の中身を、想像する事が出来ない。――銃を向けられている。内臓がぐうと圧迫され、酷く、気持ちが悪い。足許がふらつく。恐怖が、死の具現たる凶器に拠って、心の底から引き摺り出された。



 其処へ、ブリッジでの事態を知らされたユリカとアキト、ミナトとジュンがやって来た。

 ユリカは叛乱の現状は把握出来たが、何故起こったか疑問に思って小首を傾げた。

 アキトは呆然と、銃を構えている彼らを凝乎(みつめ)た。反応が若干メグミと似ている。ラピスが知っている二人の共通点は、展望室での件だけだ。

 ミナトは此の中で一番緊張し、息を飲んだ。アキトよりもメグミよりも、凶器に対しての反応が大きい。ラピスが独白した内容が脳髄に響き渡る。そんな事で壊してしまう人間が、そんな物で壊されてしまう人間が(とて)も恐い――と云っていた。ならば、今のあの娘の心情は如何なっているのだろうか。
 ミナトは入口から、ブリーフィングルームに立たされているラピスを見た。感情が感じられぬ無表情だ。隣のルリも無表情で、まるで人形である。メグミに至っては、貌が蒼白になっていた。如何して、何故こんな事になっている。ミナトは息を止める。そしてふつふつと湧き出した怒りを肚の底に沈める。

「皆さん、どうしたんですか?」

 ユリカは瓜畑に()いた。

 ミナトはラピスとルリの下に行き、ふありと包み込んだ。
 ラピスは小首を傾げてミナトを見た。
 ルリはどうしましたと尋いた。
 ミナトは心配だからと答えた。

 アキトは眼を合わせずに、瓜畑たち、ラピスを見て、メグミを見た時に、貌を臥せていたメグミは、胸元を押さえてくらりと体勢を崩し、ぺたんと床に腰を落としてしまった。アキトはメグミに駆け寄り、声を掛けた。弱弱しいが、返事が返って来て安堵した。

「ネルガルが色んな事をやってくれるのは分かった。でもな、俺たちはこんな事は知らなかったぞ!!」

 瓜畑はユリカの鼻先に契約書を押し付けて怒鳴った。

「こんな事って?」

「ここの一番小さい文字で書いてある処を読んで見ろ」

「え〜っと、社員の間の男女交際は艦内の風紀の維持のため、原則的に手を繋ぐ以上の行為を禁止します――」

 ユリカは其の内容に、貌がびしりと固まった。

「何だ、この内容は? お手手繋いでって、ここはナデシコ保育園か? 大人の俺たちがお手手繋いでで済む訳ないだろうが、俺はまだ若いぞ!」

 其の言葉に、カッ、とミナトの思考が白熱した。
 巫山戯(ふざけ)ないでッ、と声を荒げた。

「貴方たちッ、そんな事でこの娘たちに銃を向けたの!? 自分が構えている物の意味を、ちゃんと解ってるつもり!?」

 ああ解ってるよとリョーコは答えた。

「銃だよ。こうした方が話聞いて貰えんだろ」

「じゃあ()くわ。貴女は銃を恐くないの、貴方たちは恐くないの」

 リョーコたちは眉を顰めた。ミナトは何で答えが解っている事を問うのか。人が銃を恐がらなければ、構えている意味がない。

「銃を恐くないかって尋いてるのよッ」

 恐いわ、とイズミは答えた。

「恐くなければ意味ない。撃つ気はないから。相対するだけで意味がある」

「撃つ気があるかないかは関係ないわ。貴方たちが人を殺す可能性があるのが問題なのよ」

 だから撃つ気はねぇって云ったろうとリョーコは云った。

「撃たない可能性があるだけに過ぎないわ。そして、命の重さに釣り合うだけの動機ではないわよ」

 ミナトはラピスとルリを護る様に抱き締める力を強め、瓜畑たちを睨んだ。

 アキトはメグミに合わせて屈んでいたが、寛悠(ゆっくり)と立ち上がった。

「俺にも、叛乱の原因は解った。――けど、俺にはどうして銃を取ったか解らない、想像出来ない。外からやって来る無人兵器じゃないんだぞ。人だ。どうして人に銃を向けられる。引き金を引けば血が飛び散るんだッ。無人兵器に襲われた火星の皆と同じく、死んでしまう。ガイは軍の奴に撃たれて死んだ。もう死なれるのは厭なんだ。――撃つ気がないからって、そんな凶器を持ち出さないでくれ!」

 アキトも眼に強い焔を灯し、叫んだ。
 ユリカはアキトの手を握った。アキトは眼を丸くしてユリカを見たが、握り返して再び瓜畑たちを睨んだ。

 瓜畑たちはミナトとアキトの眼を直視出来ず、逸らした。そして構えていた銃を下ろした。視軸を逸らした先には、ぺたんと座って、震えているメグミの姿が見えた。

 道具は便利だ。物に依るが様様な使い道がある。しかし、道具は全部目的の為に考案された物だから便利なのは当然(あたりまえ)だ。銃は威嚇や脅しなどに使えるが、本質は相手を殺す為の道具である。殺す為の凶器である。

 すまねぇと瓜畑は云った。

「冷静に考えると、間違ってると判る。やっちゃいけねぇ事だって判る。契約に関してもこんな事やらねえで、プロスの旦那に云うのが筋だって、判る――」

 すまねぇ、と瓜畑は静かに云った。



 其の時、警告音が響き渡った。

「敵影捕捉。これは、迎撃が必要」

「総員戦闘配置に就いて下さい!!」

 ルリの言葉とユリカの一喝で、茫然としかけたクルーは弾けるようにユリカを見た。

 ユリカは続けてルリに指示を出し、緊急回線で全乗組員に通信を送る。

「様様な不満があるのは判ります。けれどそれ以前に、私はお葬式をもうやりたくありません。戦いに勝たなければならないんです! これよりナデシコは迎撃に移ります。――総員、戦闘配置ッ!」

 ユリカの意志(おもい)端末(コミュニケ)によって放たれれた。瓜畑たちも持ち場へ駆け出した。



 ラピスは自分の席に就こうとして、ブリッジの隅に眼鏡がずれたプロスを見掛けた。

「何やってるの」

 プロスはかくりとずれた眼鏡を、くいと整えた。

「いやはや、皆さんが優秀で私の出番がありませんな、という事です」

 ラピスは小首を傾げたが、気にせずに自分の持ち場に就いた。























 ラピスはくるりと周囲を見渡した。枯れた赤褐色の大地。何に使われていたのか解らない金属の塊。崩れたコンクリートの山。融解したアスファルト。停止した星、火星。何時か人が戻れば、また命の営みが始まるのだろうか。

 ラピスは今、アキトにエステバリスに乗せて貰い、ハッチを開けて腰を下ろし、景色を眺めていた。髪は風に流れて舞っている。

 ナデシコは火星周域での戦闘を終え、オリンポス山に向かった。しかしアキトは、故郷のユートピアコロニーを観たいと進言し、許可が出た為に此の大地をエステバリスで走っている。ラピスはエステバリスに乗ろうとしていたアキトに声を掛け、連れて来て貰ったのだ。

 連れて来て貰った理由は、アキトと二人きりの状況になりたかったのである。場所が火星の大地というのも重要であった。
 天河アキトは星野瑠璃の世界の片割れ、天河明人の同一人物であり別人でもある青年だ。

 ラピスを人形と人間の境界上に立たせた星野瑠璃。
 星野瑠璃を人形から人間へと変質させた天河明人。

 其の人物に最も近くて最も遠い位置にいる青年。コックになりたいと夢を語り、皆を守りたいと兵器に乗るパイロット。御統ユリカに並ぶ、興味深い観測対象である。



 ラピスは下へ視軸を移すと、アキトのぼさぼさ頭が見えた。オペレートスフィアに手を乗せ、否、力強く握り締めている。

 火星はアキトの故郷だ。其の故郷が焼け野原の如く焦土になっているから、理不尽さに肚を立てているのだろうか。ラピスの故郷と云えなくもない場所は、研究施設のシリンダーと、ナデシコに乗る前に瑠璃と暮らしていた場所だ。焦土になったとしても、アキトの様に肚を立てないとラピスは思った。























「足場が悪いから掴まって、ラピスちゃん」

 エステバリスから降りたアキトは、ラピスに手を差し伸ばした。
 ラピスは周囲の凸凹した地面を見回し、アキトへ視軸を移して、こくりと頷いた。そして手を握った。



 二人は、暫し無言で火星の大地を歩く。赤褐色の土の上に、崩れたモノが乱雑に散らばっている。生命の営みの成れの果てである。否、人の意地の成れの果てか。火星は、停まった姿こそ自然の姿だ。何人たりとも触れなければ、火星は赤い大地が凡てだった。其処へ人が手を入れたのだ。しかし。
 本当にそうだろうか。時代は移り行くものだから、人の種の成れの果ての姿が火星の凡てでもある。本当の姿とは、ない。決まっていない。どれもが真実でどれもが虚偽だ。

 同様に、ラピスは人形である事が真実で、人間である事が虚偽である。そして人形である事が虚偽でもあり、人間である事が真実でもあるのだ。

 確定はない。敢えて云うならば、事象を観測(けってい)するのは観測者である。よって、主体によって認識は変わるのだ。自然の成れの果てか人の種の成れの果てか、人形か人間か、確かな決定はない。



 ラピスは、崩れた火星を観て、モノがきちんと建っている姿を想像出来なかった。
 空を見上げた。空が蒼い事だけが、何故か救いの様に感じられた。

「何も、ないな」

 アキトはぽつりと呟いた。

「目印となる建物がなくなって、ここがどこだかよく解らないんだけどさ。火星にも緑はあったんだよ」

 ラピスはアキトを見上げた。そして視軸を前方に戻した。
 アキトは眼を細めて赤い大地を観ている。故郷の地の上で、感慨に浸っているのだろう。

「緑があるといっても、野菜とか余り育たなくて、凄く不味かったんだ。けれどコックってさ、そんな食材でも魔法の様に美味しくしてしまうんだ」

 だから、コックになったの、とラピスは尋いた。
 ああとアキトは答えた。

「それもあるんだけどさ。定食屋の小母さんが、其の時客が俺一人で、俺が食べてるのを見て嬉しそうな貌をしていたんだ。何が嬉しいのか尋いたら、俺が美味しそうに食べているのが嬉しいんだって。その時はよく解らなかったけど、父さんと母さんの為にお握りを作って、仕事場に持って行って、驚いていたけど、美味そうに食ってくれたんだ。そしたら小母さんの云っていた意味がよく解ったよ。自分が作った物を食べて貰う喜びって奴かな。それが、コックになりたいと思った理由なんだ」

 ラピスは、アキトの握る手の強さが増した気がした。

「ホウメイも――」

 ラピスは言葉を切った。ぐらりと、地面が揺れた。ずぷずぷと沈んで行く。

「え?」「あ」

 アキトとラピスは声を上げ、急に開いた穴に落ちる。ラピスは一瞬の浮遊感と、がしりと手に痛みを感じた。ラピスは背後からアキトに引き寄せられ、抱えられる様に抱き締められた。落下中に穴からの光が見えた。躰はアキトに包まれている。横には、崩れた岩が一緒に落ちているのが見えた。

「かはっ」

 どん、と鈍い音と共に、アキトは潰された肺から空気を吐き出した。下に積もった土が緩急剤になって、背骨が折れるなどの致命的な怪我はなかった。けれど打撲か何かしたらしく、躰が痛い。

 アキトはラピスを抱き締めていた腕を離し、暫く呼吸を整えていた。

 アキトの腹の上でラピスは躰を起こし、アキトを見下ろした。桜色の髪がアキトを覆っている。

「ラピスちゃん、大丈夫?」

 ラピスはこっくりと首肯(うなず)いた。引かれた時に手首を捻ってしまったが、黙っておいた。

 どうしてとラピスは尋いた。

「――何が」

「庇う様に抱かれたから」

 アキトは落ちて来た穴から覗ける光を見た。其れから、ああ、と口を開いた。

「だって、怪我したら痛いだろ。手を繋いでいて善かったよ、咄嗟に抱き寄せられたから。ラピスちゃんに怪我がなかった」

 アキトはラピスの脇に手を入れて抱え、躰を起こしてラピスを立たせた。其れから立ち上がった。

 ラピスは呆けた表情でアキトを見上げていたが、やがて、にっこりと柔和な微笑みを浮かべた。

「ありがと」

 くりくりとした金色の瞳が細められ、さらさらと桜色の髪が流れた。一輪の花の様な微笑みである。
 アキトは微笑みで応えた。

「本当に無事で善かった。結構高い位置から落ちたからね」

 アキトは上方を仰いだ。
 ラピスも仰いだ。穴から光が差し込んでいる。そして周囲を見渡すと、歪んだ金属の壁であった。煤けていて廃墟の様であるが、整備された床を見ると、妙に生活感があった。灯が点いており、通路は奥に続いている。

「シェルターか何かかな」

「そうかもね」

 アキトの言葉にラピスは応えた。

 ラピスは歩み始め、アキトは慌てて後を追った。























 ラピスとアキトは通路を歩いていると、壁と床に妙な模様を見つけた。赤い色彩に染まっている。赤い絵の具をバケツ一杯打ち撒けた感じだ。

 もしかしてとアキトは云った。赤い壁と床を呆然と見ている。
 ラピスはかり、と壁を爪で削って、指を舌に這わした。血だ。人間の味だ。

「血だよ。これがどの様な状況で撒かれた物が解らないけど、この量だと人は死んでいる。余り色褪せていないから、三日以内に撒かれた物だね」

「何で」



 カチャリ、と硬い音がした。ラピスとアキトは音がした方を向いた。
 其処には、自動小銃を構えた男性が立っていた。音は安全装置(セーフティ)を外したものだ。

 アキトは咄嗟にラピスの前に立った。

「――子供か。否、まあ良い。動けば撃つ、質問に答えろ」

 男は坦坦と尋いた。

 黒い銃口が向けられている。



 ラピスは目眩がした。ナデシコに乗って以来、銃で狙われたのは此れで3度目だ。戦時中とはいえ、瑠璃との生活では命が危うくなる事はなかった。僅か2週間で劇的な変化である。民間船と(いえど)も、流石は戦艦である。殺る殺られる機会が極端に増えた。けれど地球の戦争相手は、無人兵器を送り込む地球外知的生命体だ。木星蜥蜴と呼称される、詳細が解らぬモノたちである。其れが敵。地球の共通の敵の筈だ。
 しかし。
 戦争は様様な思惑を生む。自の利益だけを求める者。現状の不満を叫ぶ者。攻められた地では、生きる為に他者から奪う奪われる者がいる。――其れは当然か。人が戦争という非日常を暮らすのならば、何処彼処に歪みが生じる。日常でさえ歪みはなくならないのに、非日常ならば尚更だ。社会全体の利益やら何やらを放り投げて、自が生きる為に、最も善くなるモノを求める者が多数である。



「貴様らの所属する身分を云え」

 ネルガルとラピスは答えた。

「ネルガル重工所属、ナデシコ級戦艦ND―001サブオペレーター、ラピス・ラズリ。彼はコック兼パイロット、天河アキト」

「――ネルガルだと」

 ラピスは小さくこくりと首肯いた。

「私たちはネルガルの、火星の奪還をするスキャパレリ・プロジェクトを行う社員。真偽はそちらで判断するんでしょう」

 僅かだけど、端末(コミュニケ)に情報があるから調べてみたらとラピスは云った。其れから端末(コミュニケ)を外して男へ投げた。























 ラピスとアキトは男に連れられて、地下の廊下を歩いていた。煤けた金属の壁が続き、戦時中だという事を意識させられる。かつかつと3人の(あしおと)が耳の奥に響く。
 男は端末(コミュニケ)を預かり、途中で壁に備えられていた端末に繋いで何かをした。何をしていたのかは解らなく、ラピスの言葉を信じたか如何かも判らない。
 ラピスとアキトは身体調査をされ、今は背後に銃口を突き立てられて何処かに案内されている。

 ねぇ、とラピスは云った。

「あの大量の血は何なの。血液がどの様な過程で酸化していくのかは知らないけど、まだ新しい物でしょう。集団内の叛乱か、他の集団からの襲撃。それとも罪人の処刑かな。否、処刑は違うね。量は少ないけど、あそこ以外にも血痕はあったから、何かしらの闘争があったの?」

 黙れと男は云った。
 どこに連れて行くつもりなんだとアキトは云った。

「説明が好きな奴がいる。そいつの処に向かっているから、話は後にしろ」

 判ったとラピスは応えた。























 清潔な部屋に案内された。医務室や手術室も兼ねているのだろうか。医療には、清潔な部屋は必要だ。
 部屋には金色の髪の女性がいた。目許は涼しく、切れ長の蒼い眼だ。
 男は端末(コミュニケ)を女性に渡した。

「長沢さん、ご苦労様。後は私が引き受けるわ」

 女性の言葉に男は従い、部屋を出ていった。
 白衣姿の女性は、足を組んで椅子に座っている。ラピスとアキトに、正面の椅子に座る様に促した。
 二人は素直に座った。ラピスは、足が床に付かずにぷらぷらと浮いている。

「――連絡は受けている。歓迎すべきか、せざるべきか。何はともあれ、コーヒーぐらいはご馳走しよう」

 女性はそう云った。が、コーヒーを準備する素振りはなかった。

 貴女は誰、とラピスは尋いた。
 ふむ、と女性は云った。

「説明しない訳にはいかないな。端末(コミュニケ)の情報は見せて貰ったけど、こちらの紹介をしていなかったか。私は、相転移エンジンとディストーションフィールドの開発者の一人、イネス・フレサンジュ。ここには、あちこちのコロニーの生き残りが集まっている。基本的に、木星蜥蜴共は人間には攻撃しないから」

「貴女が、イネス。ナデシコの基本設計を手掛けたフレサンジュ博士。うん。貴女の資料は保有している。けれど今は関係ない。挨拶はいらない。私がまず知りたいのは、ここで何があったの」

「貴女たちは知らないか。ようし、説明しよう。血痕は見たのでしょう」

 あの大量の血かとアキトは云った。
 そうよとイネスは答えた。

「10時間前に襲撃を受けたの。火星のどこに潜んでいたのか知らないけど、網笠を被った者たちがこのシェルターを襲撃した。突如現れた彼らは、抵抗した者、近くにいた者を次次に殺していったわ。だから通路や広間に血痕が残っている。無人兵器がこのシェルターを襲撃した場合を想定していた私たちは、各自で避難して、為りが収まるまで隠れていたのよ。まさか、兵器ではなくて人間に襲われるとは思ってもいなかったけど、それはそれで当然なのよね。木星蜥蜴という共通の敵から、集団を作って身を守ろうとしても、歪みは必ず存在するのだから、戦争という最も略奪するのに的した時期に、他者の成果を奪うのは容易(たやす)い事でしょう。この火星で生き残って、地球に帰れると思っているのかは知らないけどね。一体どこの者かしら。ここに移した今までの研究成果と、木星蜥蜴やチューリップなどの考察や資料を丸丸奪っていったわ」

 ラピスは整理する様に、こくりと頷いた。

「つまり、隠れていたどこかの組織の者に、ネルガルの火星に在った情報を奪われたという事だね」

「そういう事になるわ」

 何でそんな奴がいるんだよとアキトは云った。

「生き残った者同士、助け合って支え合って、苦境を乗り越えるものなんじゃないのか」

「戦争なんて不安定なものに、あんたの希望だけが望まれている訳じゃないわ。様様な思惑が渦巻いて、混沌としているのよ」

 ぎり、とアキトは奥歯を噛み締めた。
 10時間前か、とラピスは呟いた。其れからイネスが男から預かった端末(コミュニケ)を返して貰い、操作した。

「10時間前は、丁度ナデシコが火星周域で戦闘をしていた時間。ナデシコが火星に着く頃に、このコロニーは襲撃されたという事だね。何か関連性がありそう」

「――情報が足らないのよ。考察ならいくらでも湧いて出て来るけど、根拠がなく証明できないのが悔しいわ」

「それと、イネスはナデシコに乗るの? 他の人は乗りそう?」

「乗らないよ。戦艦一隻で火星から帰れると思っている? 敵はまだまだいるのよ。火星で木星蜥蜴の調査をして、ナデシコを設計した私には解る。ナデシコでは火星から脱出できない」

「けれど私たちはネルガルの、ナデシコ級戦艦のデモンストレーションと、火星の人材と資料、資源の回収を目的とするスキャパレリ・プロジェクトを行う社員だから、ナデシコに行ってその旨を説明して。プロスが云うには、社員は業務を真っ当しないといけないらしいから」

 イネスは天井を仰いだ。其れから、説明かと呟き、ラピスを見据えて、良いでしょうと云った。























 ナデシコブリッジの二つのモニタには、伏戸と無人兵器から攻撃を受けるクロッカスが映っている。



 ナデシコは無人兵器に敗走して、火星を逃げ回っていた。
 ラピスたちはイネスを連れてナデシコに戻り、イネスがナデシコと木星蜥蜴の力関係を説明していた時に、ナデシコは無人兵器に襲われたのだ。結果は、惨敗。
 イネスは其の後、相転移エンジンなどについて、ラピスとルリ、ユリカ出演で『なぜなにナデシコ』を行った。ナデシコの損傷が激しく、イネスはユートピア・コロニーに戻る事が出来なくなったのである。ナデシコでもヒナギクでも、チューリップが付近に存在しているコロニーに向かうのは危険過ぎるのだ。
 しかし。
 コロニーよりも説明を出来る機会があるナデシコを気に入ったのか、流れに流されたのかは解らないが、イネスはナデシコに残る事になったのである。

 其れからは、ネルガルの研究所に行くか行かないかと議論をしたり、アキトが伏戸の肩を掴んで弾劾した。そして、クロッカスを使おうという事になり、アキトとイネス、伏戸はクロッカスに向かったのだが、アキトとイネスは先にナデシコへ戻され、伏戸がクロッカスを用いて、ナデシコにチューリップへ入る様に命令したのだ。其処に、無人兵器が襲撃したのである。クロッカスは、チューリップに入るナデシコを守る様に、無人兵器からの攻撃を庇っている。

「提督、お止めください。ナデシコ、いえ、私には提督が必要なのです。これからどうやって行くのか、私には何も解らないのです。」

「私には、君に教える事など、何もない。私は、ただ、私の大切な、ものの為にこうするのである」

「何だよ! それは」

「それが何かは云えない。だが、諸君にもきっと、それはある。否、必ず見つかる」

 伏戸を映しているモニタにノイズが走った。クロッカスの損傷が激しいのだろう。

「私は善い提督ではなかった。善い大人ですらなかっただろう。最後の最後で、自分の我侭を通すだけなのだからな。ただ、これだけは云おう。ナデシコは君らの船だ。怒りも憎しみも、愛も、すべて君たちだけのものだ。言葉は何も意味はない。それは――」

「提督!」

「戻せ!!」

「駄ぁ目ェ。何かに引っ張られているみたい」

「チューリップは消滅した」

「この後、何が起こるか解りません。各自、対ショック準備」

 ユリカは貌を伏せて、静かに呟いた。
 ラピスは観測し終え、考察の為に思考に沈もうとした。しかし。

『ラピス!! どうなっているんですか、ボソンジャンプが起動するのに足る、ジャンプフィールドが形成されてしまっていますよ』

 きん、とラピスは頭が痛んだ。かき氷を急に食べた様な痛みである。瑠璃の感情を含んだ情報量が多かったのだ。
 瑠璃は壁をすり抜けて、ラピスの前に突如(いきなり)現れた。普段は幽霊の様な行動は控えているのに、珍しく周章(あわて)ている。
 ラピスは涙目になり(ながら)も、詳細を瑠璃に説明した。



『何という事ですか、チューリップに入るなんて。余りにも愚かです。どうしてラピスは止めなかったんですか。チューリップには、ジャンプフィールド発生装置とイメージ伝達機能が、古代火星人の遺物故に搭載されていますが、チューリップのイメージ伝達機能は雑なんですよ。人という異物がいる場合、イメージ伝達機能の精密さを意図的に上げるか、ジャンパーが遺跡にイメージを送らなければ』

 ランダムジャンプをしてしまいます、と瑠璃は怖い貌で云った。

 ラピスはボソンジャンプについて瑠璃に教えられた事があった。何でも、明人と百合花に関する情報であった為に、瑠璃の記録が摩耗されずに残っていたらしい。――ランダムジャンプ。(たし)か、あってはならぬ事態ではなかったか。

 ――そんなに大変なの。

 ラピスは、こてんと小首を傾げた。

『大変なんてものじゃありません。何もしなければ致死です、即死です、極死です。まともな神経を保有している者は、まずやりません。それに、私はレトロスペクトされないので、共にジャンプできないんです。一人で地球に戻らなければならないじゃないですか』

 瑠璃は髪の毛を掻き上げた。普段は直接髪の毛に触ることはない。
 ラピスは呆と瑠璃を凝乎た。此処まで取り乱す瑠璃を見るのは、滅多にない。

『死にますよ。死んでしまいますよ、ラピス。たとえ死ななくても、子細(わけ)の解らぬ時代と場所に送られてしまいます。そして、ジャンパーであるアキトとユリカが、初めてでイメージを正確に伝達できるかは判りません。否、できないでしょう』

 ――瑠璃姉さん、率直に尋くよ。私たちはもう、おしまいなの?

『否。急激にボソン粒子が増大し始めた時から、既に手は打ってます。そして、施術(プログラム)起動の最終フェイズに移行します』

 瑠璃の姿は段段と薄くなってきている。瑠璃が消えかけているのか。否、違う。ラピスたちの方が『世界』から消えかけているのだ。ボソンジャンプはレトロスペクトされて、一度、古代火星遺跡に跳ぶ過程がある。瑠璃はレトロスペクトされず『世界』に残り、ラピスたちはレトロスペクトされて『世界』から乖離されるのだ。

『間に合うか間に合わないか、確率は半半ですが、ラピス。再開を楽しみにしていますよ』

 瑠璃は薄く(わら)った。しかし嗤ったのは一瞬だった。表情は消え去り、躰中をきらきらと蛍光に包み込まれた。蒼いツインテールの髪がさらさらと舞っている。
 瑠璃の小さな口から、理解出来ない言語が紡がれた。

 ラピスは頭を押さえた。きりきりと長針を耳から脳髄へ差し込まれ、掻き回されている様な痛みだ。ブリッジにいる他のクルーに変調はない。ラピスだけが脳髄に痛みを感じた。


 ラピスと瑠璃はリンクされている。ラピスは、其れがどの様な施術(プログラム)で、どの様な意味と効果があるのか詳しく知らないが、其れによって、瑠璃が施術(プログラム)を用いれずに、其の姿や言葉をラピスが理解出来るのだと知っている。互いの思考交換の時間差は無に等しく、まるで電脳空間や自己に埋没している時の様に速いのである。

 瑠璃が紡ぐ言葉は、一音に五千語の意味を含む高速言語だ。否、其れだけではない。ノタリコンか。長い文章を縮めて単語を作るとともに、縮められた単語から元の文章を導き出す事も出来る省略法だ。瑠璃の研究の一つである施術(プログラム)の簡易・高速化を目指した過程の産物である。



 凄まじい量の情報が、『世界』に刻まれて行く。蒼い線が疾った。ちりちりと音を起てて疾り回る。瑠璃を起点に、様々な図式・方陣が展開されて行く。円や弧、線などで紋様が描かれる。形のない情報が『世界』に(きず)を付けるのだ。

 蒼い線が二次元より高次元、更に情報量が必要な、三次元の積層立体型魔方陣を描き出す。今や、瑠璃を起点に起動した施術(プログラム)の最後フェイズの実態は、ナデシコを覆っている。ラピスと瑠璃だけが見える情報が、ディストーションフィールドと同サイズのものになったのである。白亜の城が蒼線に縛られている。

 ラピスは痛む頭を押さえ乍も、瑠璃を見た。
 瑠璃は無表情から、頬だけで笑ってみせた。瑠璃からラピスへ思考が流れて来る。一秒もない一瞬で、大規模な儀式施術(プログラム)の最終フェイズをこなすという無茶をしているのに、分割した思考の一部で、状況の説明の為にラピスへ流す。

『範囲を蒼線で指定して、ランダムジャンプとなる条件をキャンセルし、ジャンパーであるアキトとユリカの表層意識にある情報とリンクさせました。ナデシコの『世界』の存在濃度が急激に減少している為に、時間がなかったので、工程を省略して圧倒的な量の情報を叩き付けてますが、やはり成功するかどうかは半半です』

 瑠璃の姿は薄らと認識出来るか出来ないかぐらいになって来た。最終フェイズも終了し、全施術(プログラム)共通の鍵が紡がれる。高速言語でもノタリコンでもない、意志(おもい)を顕す呪文だ。瑠璃の金色の瞳に、更に光が流れる。

『応えなさい。私の世界、明人と百合花の名の下に――!!』

 鍵と共に施術(プログラム)は起動した。今まで刻まれた情報が開放されて行く。しかし、ラピスには瑠璃の姿は視えなくなった。
 けれど。
 再開できない状況になろうとも、規格を打破して攫いに行きますからね、と瑠璃の声がブリッジに響いた。

 ラピスは暫く、蒼い残滓を眺めていた。







第三章 赤い大地 終幕









あとがき


 キャラコメは、キャラが活躍してきたので廃止しました。ちょい役でも、場面に映れば問題ないですよね。漢字の配置など試行錯誤していますが、難しいです。難解な漢字を使っているのは、固めな雰囲気を出す為の仕様です。

 ラピスがナデシコクルーに与えた影響が出てきたり、TV版の状況と変わったりとしてきました。瑠璃だけは規格外だけれども、TV版のようにランダムジャンプをさせたら、死んでしまいますから。何もさせなくても良かったのですが、最後に彼女の魅せ場と一部設定公開です。実際は、もっと小規模なプログラムにしても良かったのですが、時間がないし大きい方が好きなので、こんなのになりました。しかし、瑠璃の存在は、これまた是非が判れそうですね。物語が崩れてしまいそうな彼女の存在ですが、消極的で自己埋没ばかりしてますから、崩壊まではいかないと思います。

 それに何より、桜の木の下はラピス主役の物語です。

 それでは。

[2004.05.17]



 ゴールドアームのいつもの感想。

 ゴールドアームです。
 今回は火星のお話。
 二次創作の場合、新しいヒロインがいると、割を食うのはいつもメグミですね。
 これも一種のお約束でしょうか。

 漢字に関しては、霞守さんの趣味というか手法ですから、言うことは今更無し。
 読者の方も、いちいち批判なぞなさらぬように。これは読みにくいと文句をつける筋合いのものではありません。この不自然なくらい漢字を使いまくる文体も、霞守さんの一部なのですから。素直に受け入れてあげてほしいと思います。
 使う漢字がおかしい、と意見するのは正しい行為ですが。



 で、今回の本題。
 全体的には『繋ぎ』というイメージが。
 ラピスにとっては、今回の話は伏流水のようなもので、『静』の回だったこともありますし。『見』とも言いますか。
 ラピスの存在によって動かされてきた、周りの人に関するエピソードのお話でしたし。
 じんわりと味のしみた、豚の角煮のようなお話とでも言いますか。
 ですので、私から突っ込むことはありません。
 今後も、感想はわりと静かなものが多くなると思います。
 ナデシコAの時点でラピスがいるという、初期設定のパンチで話を引っ張った時期が終わり、全体としてのお話が、起承転結の『承』の段階に移ったことを意識させられました。
 原作でもこのあとしばらくは、独立したエピソードを重ねていました。『脇』に当たる人のエピソードを提示したり、本流には影響しない出来事を描いたり。
 そのせいで二次創作においても、このあたりをベースにした物語を書くときには、作者の趣味や腕前がわりとはっきり現れます。
 ある程度好き勝手やっても、本流に影響しないのが逆に利点となるからです。
 そしてそれは同時に、やがて来る『転』、原作で言うならば15話以降のエピソードに向けての加速期間でもあります。
 来るべきその時までに、ラピスのいるこのナデシコが、どういう思いを重ねていくのかを、楽しみに待たせていただきたいと思います。

 ゴールドアームでした。