NADESICO
-COOL-






「そん、な・・・・・・」

 テンカワアキトは力無く膝に手をつく。そんなアキトをプロスペクターは申し訳なさそうに見ていた。ナデシコ長屋のアキトに宛がわれた小さな畳敷きの部屋に気まずい沈黙が垂れ込める。西日を浴びて赤く染まった草臥れた部屋、そこにアキトとプロスは向かい合って座っていた。アキトの前には手から零れ落ちた数枚の書類。

「こんな金額、払えるわけ無いじゃないですか」

 ぽつり、とアキトの言葉が宙に浮いた。書類にかかれているのは九桁にも及ぶ数字。二年程前になるが慌しいナデシコ乗艦時、アキトの契約時に不備があった。保険未加入。ナデシコの大気圏突破戦闘、及びオモイカネの誤動作時の戦闘における連合軍の機材損傷の補償、その金額は保険なしにアキトが負担分を払えるわけも無かった。停戦の立役者であるナデシコ関係者であり、優秀なパイロットであるアキトといえどしょせん二十歳になったばかり、誰が金を貸してくれるわけでもなく、また稼ぐ当ても無かった。

「テンカワさん、これは私たちの落ち度でもありましてなるべく便宜を図るように上からも言われております」

 プロスの言葉を聞いてアキトは顔を上げた。

「どういう、ことですか?」
「我がネルガル社がとりあえずテンカワさんの借金の肩代わりをします。それを低利の融資として行う代わりにテンカワさんにネルガル社に就職していただき徐々に返していただこうというものです」
「本当ですか?!」

 プロスの提案を聞いてアキトが興奮した声をあげた。彼にとって思っても見なかった好意だ。それに対してプロスがゆっくりと頷いた。

「ええ。ちなみに発案者はエリナ女史、会長も同意しておられます」
「アカツキとエリナさんが・・・・・・」

 アキトはゆっくりとその情報を咀嚼するように繰り返した。やがて強い決意を瞳に浮かべて姿勢を正すと頭を深く下げた。

「よろしくお願いします、プロスさん」
「こちらこそこれからよろしくお願いします、テンカワさん」

 そんなアキトを見てプロスは眼鏡の奥で僅かに目つきを鋭くした。アキトには見えなかったそれが何を意味しているのか、それを知るのはそう遠くない未来の事だった。











 アキトは着慣れないスーツの首元を気にしながらビジネス街にある巨大なビルのロビーへと入っていった。プロスにああは言ったものの長年の夢であるコックへの道を自ら断つことに対して一晩寝ずに悩んだ結果、目の下にはクマができている。暑い街中を歩いてやってきた彼はクーラーの効いた涼しさにほっと一息ついた。いかにも慣れない風に辺りをきょろきょろと見回してからおもむろに受け付けのカウンターへと向かう。

「あの、すみません。会長との面会を約束しているテンカワと申すものですが」
「はい、少々お待ちください」

 そんなアキトに対してもにこやかな表情を崩さずに受け付け嬢は手元の端末を弄って確認を取る。

「テンカワ様ですね、会長がお待ちしております。右手のエレベータで60階までお上りください。係りの者がご案内いたしますので」
「はい、ありがとうございます」

 アキトは大げさに謝意を述べるとさっそくエレベータに乗り込んだ。上りながらも中に設置された鏡を見て初めて締めたネクタイを弄ったり元々癖毛で大して整ってもいない髪形を整えたりと落ち着きが無い。間の抜けたチーンという音とともにエレベータは目的の階へと到着しその扉を開いた。

「いらっしゃい、久しぶりね、アキト君」
「あ、エリナさん。お久しぶりです」

 エレベータの前で待ち構えていた黒い短髪が美しい怜悧な美女、エリナ・キンジョウ・ウォンがアキトに声をかける。どうやら出迎えの係りとは彼女の事らしい。アキトは慌ててエリナに向けて頭を下げた。

「いやねえ、アキト君、何そんなに緊張してるの」

 エリナはそんなアキトを見てからかうようにそう言った。だが実際に緊張しているアキトはそれに対して反応を示さない。楽しそうな表情を浮かべながらエリナはアキトを会長室へと案内した。ノック、迎え入れる声、開かれる扉。まずアキトが見たのはやたらと広い部屋。次いで豪華な内装、そして重厚な執務机の向こうにどっしりと腰を下ろしているびしっとスーツを着こなした戦友の姿だった。

「やあ、テンカワ君、久しぶりだね。元気だったかい?」

 アカツキ・ナガレは軽薄そうな笑みを浮かべて軽く挨拶をした。それを見て聞いたアキトは雰囲気に圧されていたのだが、はっとして腰を折り深く頭を下げた。

「アカツキ、いや、会長! この度は暖かいご配慮ありがとうございます。これからよろしくお願いします!」

 一気に朝から考えていた挨拶を捲し立てる。それをやや呆然と聞いたアカツキはやがて大声で笑い始める。アキトの後ろでエリナも口を抑えて肩を震わせていた。アキトはゆっくりと頭を上げるとやや憮然とした表情をした。

「そんなに笑う事無いだろ、二人とも。きっちりとケジメをつけようとしただけなんだから」
「いやいや、まさか君がそんなことを言うなんて思っても見なかったんだよ。すまんすまん」

 依然として表情を緩めたままアカツキはエリナに軽く合図、そしてアキトに席を勧めた。本人も部屋の一角にある応接セットにその身を沈める。エリナはティーセットを用意し、二人に紅茶を入れた。納得がいかないような顔のままアキトは軽く口を湿す程度にそれを飲んだ。

「今回の事は実に残念だったね、テンカワ君」
「いや、これは俺のミスだよ。慰めはいらない」

 アカツキの軽い振りに対してアキトは硬く応じた。実際問題、当時18だったとは言え一応社会人だったアキトは契約の持つ重要性というものに対してもっと真摯に臨むべきだったのだ。少し軽い話題で場を和まそうと考えていたアカツキも、その態度を変えた。

「そうか、君がそう言うならそうしよう。じゃあ、エリナ君、説明して」
「はい、会長。アキト君、あなたには我社の次期機動兵器開発プロジェクトにおけるテストパイロットをしてもらい、またボゾンジャンプ実験に協力してもらうわ」

 こちらも態度を正したエリナの説明を聞いてアキトはぱっとアカツキの目を見た。数秒互いを見詰め合うとやがてアキトが視線を下げた。薄く自嘲の笑いを浮かべる。それを見てアカツキは厳しい顔つきになった。

「そう、か。そりゃそうだよな」
「ああ、そうだ。僕が戦友に対する慈善事業をするとでも思ったかい?」
「いや、そんなわけないよな」
「僕は一企業を統べる立場にあり、万単位の社員の生活を守る義務がある。それに君が持つ一番大きな価値だろう? 生体ボゾンジャンプは」
「確かに。事務仕事や社食のコックなんてやったって何十年働いても借金返せないよな」
「そのとおり」
「分かった。じゃあ、今回はしっかり契約を確認するとしよう」
「ああ、そうしてくれ。外に出ればプロス君が待っているはずだ」
「分かった」

 そう言うとアキトは席を立った。アカツキも立ち上がる。

「今日はお時間を取っていただきありがとうございました。それでは失礼いたします」
「うん、それじゃあ」

 堅苦しく挨拶をして再び頭を下げてから退室するアキトを見送り、エリナはぽつりと呟いた。

「よろしいのですか、会長」
「ああ、もちろんだとも」
「彼、誤解しているようですけれど」
「慣れてるよ。まあ、彼が大人への階段を一段上がる手伝いをしたと思うだけだ」

 そう言うとアカツキは再びデスクに戻ると書類整理を始めた。エリナは静かに退室すると小さく呟いた。

「素直じゃないんだから」











 日が大分傾いた頃、ノックの音がした。

「どうぞ」

 アカツキの入室を促す声と共に扉が開き、プロスが顔を出した。

「今お時間よろしいですか?」
「ああ、いいよ。僕もちょうど休憩しようと思っていたところ」

 そう言ってアカツキは懐からシガレットケースを取り出すと一本口にくわえて火をつけた。

「で、契約交渉は順調に行ったかい?」
「そうですな。大分手ごわくなっていましたが大枠こちらの予想通りでした。ただ二点ほど」
「なんだい?」
「住居提供と守秘義務とでも言うべきものです」

 プロスの台詞を聞いてアカツキは眉を上げた。

「守秘義務?」
「はい。一人暮らしを始めたいのでそのための住居の提供の要請、そして契約に関してナデシコクルーへと告げない事、です」
「ほぅ・・・・・・」

 二人は顔を見合わせると小さく溜息をついた。

「ナデシコクルーに知られればなんだかんだでお節介を焼こうとするだろうから、だそうです」
「なるほど、ね」

 お節介を焼いた相手にそう言われてはその分析の確かさを誉めるしかない。ただ惜しむらくは・・・・・・

「どうも我々はナデシコクルーに含めてもらえなかったようですな」

 プロスの言葉を聞いてアカツキは苦笑した。











 アキトは長屋からそう離れていない河原の土手に一人膝を抱えて座っていた。夕日を受けてその影は長い。遊んでいた近所の子供たちが夕飯を食べに家へと帰っていくのをぼんやりと眺めている。やがて彼の周りには家路を急いで土手を通りかかる人を除けば、人影がなくなっていった。大きな溜息一つ。アキトは考えていた。

 ささやかながらにぎやかで楽しい長屋生活。手に入れたと思った憧れの家族のような人たち。だがそれも・・・・・・

「俺には与えられないのか」

 一人ごちる。思えば幼少の頃より両親は研究に追われて家に寄り付かず、テロ(実際には違ったけれど)でその両親すらも失った。それからは孤児院での暗い暮らし。中学卒業と同時に施設を無理やり飛び出て憧れのコック目指して修行を始めるも戦争がはじまって故郷は失われた。ボゾンジャンプによって地球に来る事が出来たものの、戦争神経症を理由に師匠からはクビを言い渡された。そしてようやく手に入れたと思ったナデシコでの楽しい生活も、今、終わりを告げようとしている。

 何故こうもネルガルや木連、地球連合などの影響を受けて全てを奪われ続けなければならないのか、それがアキトには理解できなかった。そういう星の下に生まれついた、とでも言うのだろうか。否。今までアキトはただただ回りの状況に流され苦しい選択を余儀なくされ、選択肢を奪われてきた。だが、そろそろ自分で動き、自分で決めてもいいのではないだろうか? さしあたって考えるべきなのは一つ。

「みんなとの関係、だな」

 一緒に戦った仲間達、初めてと言っても過言ではない友達と呼べる存在たち、妹のような存在、兄や姉のような存在たち、そして・・・・・・恋人? いや、それさえも状況に流されてしまっただけなのではないだろうか。本当に自分はミスマルユリカのことが好きなのだろうか? あれよあれよ、というまに無線フルオープンの状態で「好き」と宣言して、あまつさえ何の意味があったのか良く分からないがキスまでして。だがユリカは本当にアキトの事が好きなのだろうか? 彼女はいつも「アキトはわたしの事が好き!」と連呼していたが「わたしはアキトが好き!」とはあまり聞いた覚えが無い。こちらが訊ねてようやく口にしたくらいだ。それに「アキトはわたしの王子様」発言にしてみたところで子供時代の思い出を長い別離の期間で理想の存在へと好き勝手に歪めてこちらに押し付けているのではないだろうか。ここらで一つ、これらについて皆と距離を置いて真面目に考えてみるのも一つの手ではないだろうか。そう思ってアキトはプロスに先の契約交渉の際に条件を提示したのだった。

 いつのまにやら辺りは暗くなっていた。夕日を浴びてきらきらと輝いていた水面は黒く沈んでいる。空には星が輝き始めていた。いつまでもこんな所に座り込んでいては不審人物扱いされそうだ。アキトは腰を上げて繁華街の方へと向かった。適当な喫茶店にでも入って夕食を食べるためだった。当然値段重視。金はいくらあっても足りないのだ。アキトは軽食とコーヒーで長時間粘るつもりだった。











 冷え切ったコーヒーが僅かに入ったコーヒーカップを目の前に、ウェイトレスから白い目で見られながらも、アキトは客の少ない薄汚れた喫茶店で粘っていた。これからの生活でいかに切り詰めるかの計画が頭の中を渦巻いていた。

 酒やタバコを嗜まないのでそこらへんは気にしないでいい。遊びまわるヒマも無かったので遊興費も必要ない。今まで住んでいた場所が狭く、働くのに必死だったため、これといった趣味も無い。全く経費を切り詰める所が無かった。世間一般の学生とかけ離れた生活にいささか鬱に入るが、暗い思念を振り払う。残るは・・・・・・

「ネルガルが用意する部屋ってことは部屋代も関係ないわけで、切り詰めるとすると光熱費、ガス水道、それに食費か」

 自室に帰るのは寝るためだけにすれば電気や冷暖房は必要なかろう。それだけ長く働けるわけだしこれはいい。水道も大浴場やウォータークーラーなど公共設備を使えばゼロに抑えられそうだ。ガスはどうだろう。自炊だとガス代食材費水道代がかかるが、総計すると外食した場合と比べるとどうなるか。アキトは必死に計算した。

「朝は食べない、昼は水、夜はカロリーバーとビタミンなんかは錠剤で取れば、こっちのほうが安上がりだな」

 独り言が多いのは精神的に不安定だとか聞いたような・・・・・・人として果てしなくダメな方向に向かっているような気もするが、気のせいということにして忘れる。ふと、以前ホシノルリに偉そうな事言って食堂で食べさせるようにした事を思い出す。やがて、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。人間貧すれば鈍する、という奴か。食事に味や人の温もりを求めることすら借金の前には排除されてしまう。

 あとは健康を保つ事。病気や怪我で仕事を休んだら給料が減る。それに治療代も馬鹿にならない。その対策としては体を鍛えるのが良かろう。それにアキトは今までの短いようで長い人生の中で、弱者は奪われるのみだと学んでいた。自分の大切なものを守るには力が必要なのだ。奇麗事を並べたところで現実という暴力の前ではなんら意味をなさない。なにも体力だけでなく、知力やコネや権力もそうだが、何かしら力を持っていれば選択肢が広がる事は確かだった。これからは仕事の合間を縫って体を鍛え、勉強し、いろんな人と付き合っていくべきだろう。

 それにはやはり一度今のぬるま湯的状況から脱却する必要があるだろう。居心地がいいからといって狭い交友関係の中に篭っていてはいけない。現状維持に汲々としてはいられないのだ。アキトはようやく決心した。プロスにああは言ったものの今までうだうだと悩んでいたのだった。

「何も言わないってのもアレだよな」

 置手紙を残す事にした。だが文面を考える段に至って再び頭を抱えた。あの天然かつ強引なユリカや、仲間意識に不足は無いが多少乱暴な所がある仲間達を納得させられるような言い訳。そんなものが簡単に考え付くわけも無かった。正直に全部を告げたのでは意味が無い。しょうがなく多少の真実を含めた壮大な嘘を構築する事にした。

―――今回の戦争で色々と考える事があった。ネルガルのこと、連合のこと、木連のこと、戦うという事、そして・・・殺す、という事。許せない事、納得できない事、割り切れない事がたくさんある。これからの事も含めてしばらく一人で考えてみたい―――

「ま、こんなもんかな」

 もともとアキトは碌に勉強していないし読書するようなヒマも無かったので作文能力が無い。色々と書くとぼろが出そうなので短く纏めた。ふんぎりをつけると席を立ち、会計を済ませて夜の街へと出て行った。











 決心したようでやっぱり未練たらたらなアキトはしばらく夜の街を彷徨ってからようやくナデシコ長屋まで戻ってきた。漸く手に入れたものを手放すのが怖かったのである。しばらくごちゃごちゃと考えていたもののやがて思考が煮詰まり、ヤケクソっぽく決意を固めると長屋の自分の部屋へと戻った。幸いな事に誰にも見つからなかった。大して多くも無い荷物を手早くまとめて小さなカバンに詰め込むと出て行く準備は完了した。部屋の真中に紙を置くと、再びこっそりと外に出す。とりあえずまだネルガルでも部屋の準備が出来ていないので一晩どこかで凌がなければならない。公園ででも野宿しようと決め歩き始めた。しかしすぐに足を止め、ゆっくりと後ろを振り返った。

「・・・・・・じゃあな」







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