敵に対するに爰に敵ありと、念の起る時は動ずるを顕る。動ずるに至ては一身むなし。
敵とみて、しかも心不動、虚霊にして、安く対する処、本体そなわるなり。是不動智と云。
平生の神気不動の工夫熟得肝要也。神気不動にして敵に対すれば、敵気をのまれて迷う。ここを先を取とも云。
たとへば敵より先にとりつきても、我神気不動なれば、敵速に事をなすことあたわず。

起倒流「不動智」より




隙臥 三つ幕.「不動智」




先代は自分よりも大きく、自分よりも遙かに強かった。
まるでそびえ立つ壁の様に、父は彌太郎の目の前に立ってきた。それを打ち崩さんが為、何度も向かっていった。
その度に、自分の体が宙を舞い、最後には腕を取られ、首を締められたのを、彌太郎はハッキリと、今でも覚えていた。
父は、一切動かないのだ。相手がしびれを切らすのを唯待ち、向かってきたところを、投げる。そして、うち倒す。
父は当て身の達人でもあった。どの状況に於いても、当て身を繰り出した。例え天地逆でも、父は正確に急所を突いていた。
彌太郎は、目の前で湯気を立てている湯呑みを、じっと見つめていた。
若草色の着物を着込み、その上に羽織りを着て、寒さを凌いでいる。時代遅れの風貌だ、と思った事は幾度もある。
だが、父もこうして、着物を着て、炬燵に両足を入れて、茶を飲んでいたのだ。自分と向かい合いながら。
厳しくも、優しかった。稽古の時は徹底して、鍛え上げられた。子供だったが、容赦無く拳を当ててきた。
稽古が終わると同時に、優しく笑い、自分を抱き起こしてくれた。母は、既に天上の人となっていた。それ故か、定かではない。

「彌太郎、父さんは動かないで、戦う。いつもでは無いが、おおよそ、そうだろう」

父は、稽古が終わり、茶を飲む時、いつも何か話をしてくれた。
今になって思えば、それも稽古の一つだった。思想、教義、それも又、格闘技に於いては大切な事なのだ。

「動かない、と言っても、一歩も足を動かさない、と言うことでは無いんだ。常に自分である事、それが動かないと言う事なんだ」

優しい笑顔をこちらに向けつつも、どこか遠い所を見ているかの様な表情で、父はいつも訥々と語る。
それを蜜柑か煎餅を咀嚼しながら聞くのが、彌太郎の楽しみだった。
滑稽な話では無かったが、大事な話なのは、子供心にも解った。身に染みる話だった、それが生きてくるのも、解った。

「動揺しない事なんだ。敵の気に呑まれれば、たちまち自分を失う。そうすれば、先を取られる事になってしまう」

それを、頷きながら聞くのも、習慣だった。

「先は取られてもいい、だけど、呑まれたまま先を取られれば、後を返す事が出来なくなる。それは、負けと同じなんだ、彌太郎」

自分は、何度も頷く。話の大半は理解できる物ではない。父もそれを解ってる上で、自分に話してくれているのを感じていた。
父は笑いながら、自分の頭を何度も何度も撫でる。

「今は解らなくてもいい、いずれ生きる。それを待つ必要は無い、来るんだ、いずれ」

ぽんと頭を一つ叩いて、父も茶請けに手を出し始める。そうすると、後はそれを全て食し、炬燵に入りながら眠りに付く。
それが、彌太郎の一日だった。学校にも行かず、唯ひたすら腕を磨く事だけに、専念してきた。
文字の読み書き、計算は父が教えた。常用漢字や日常における計算さえ使えれば、済むのだから。
それでも父は、時折すまなさそうな顔をしていた。父親らしくない、父の口癖だった。
だが、自分は学校などに行きたい、とは思ったことはなかった。今のままで、十分だったからだ。この生活に、満足していたからだ。
父は偉大だった。それは傍目や身内心からでは無く。実際として、父は大きく、強かった。

十六の夏だった。蝉もけたたましく鳴き声を上げ、草木も思う存分生い茂り、夏と言う日を謳歌していた。
父が死んだ、と連絡があったのはいつだったか、もう覚えていない。
遠くの道場へ出掛け試合に行き、そこで車に轢かれそうになった少年を庇い、撥ねられたそうだ。
流石の父も、巨大な鉄の行進を遮る事は、出来なかったらしい。
葬儀は慎ましく行われていた。元より親類縁者などの親交は薄く、来たのは、母方の両親、つまり祖父母に当たる人達だけだった。
不思議と、悲しくは無かった。涙も出なければ、悔しくもなかった。
父は、自分に全て教えてくれたのだ。そう感じていた。父は、自分の全てを、自分に託し終えていたのだ。
あの炬燵に包まれながらの話、あれが父の全てだった、と葬儀の最中にふと思った。だから、悲しくはなかった。
あの日々、あの日常全てが、自分の修行だったのだ。父が、もう一人の自分をこの世に誕生させる為の。
稽古も、後半は同じ事の繰り返しだった。技も、思想も、教義も全て、自分にあるのだ。
それが解ってから、一人で稽古を始めた。時には山に籠もり、時には各所を歩き回り、腕を試した。
父の様に、偉大では無い。あの大きな背中や、壁はもう無いのだ。視界が広がった、自分は、もっと強くなれる。
父の様に強くなる。それが、自分の勉強なのだ、そこから学び、そこから感じる。
拳で語れ、体で語れ、父が最もよく口にした言葉だった。
その意味も、理解出来た。拳を交える事に、体をぶつけあう毎に、相手自身が見えるようになった。
思想、教義、信念、それすらも理解出来うるようになってきた。それが、自分の糧となり、視野は拡がっていく。
強くなる事は、広くなる事だと思った。
人として広くなり、許せる事は、何よりも大切な事だと、父は語った。

人は、この世に生きた痕跡を残したがる物だ。父の場合、それが自分だった。
それは本能の様な物で、人が最も恐れるのは、死後、忘れ去られる事だった。父も、それに怯えていたのかも知れない。
親類との親交も無く、それでいて弟子もいる訳ではなかった。身近な人物と言えば、自分一人だったのだ。
だから、父は自分に全てを叩き込み、もう一人の自分を作り上げた。
ならば、自分でもしなければならなかった。父が忘れられない為にも、自分も、もう一人の自分を作り上げなければならない。
父が弟子を取らなかったのも、頷けた。
容易に自分の技を拡散させれば、それはいずれ薄まり、消えていくしか無いからだ。
教えるにしても、より濃く、濃密に教え込まなければならない。生涯残り続ける様に、人物から選ばなければならない。
だから、容易に弟子は取らないのだ。
自分も子を作り、教えを与えよう、そう思った時期もあった。
だが、父がそう言った打算を含め、自分を母に生ませた、とは到底思えなかった。父は、母を愛していた、そして、自分も。
だから、止めた。本当に愛する人が現れたならば、そうするべきなのだろう。
打算では、決して幸せでは無いのだ。あの日々の様な日常は、送れない。

父が残した書物を読み、更に自分を広げた。
次第に、誰にも負けなくなってきた。宇宙軍やら連合軍やらから、体術師範として、要請も来たが、当然断った。
一ヶ月に数度は、誰かが訪れ、話だけでも、と教えを乞う人も居た。だが、技を教えるまでの人物は、いなかった。
気付けば、もう24になっていた。まだ若い、そう思ってはいるが、焦りもある。
このまま自分は朽ち果て、誰の心にも残らないのでは無いか、漠然と、そんな不安が自分を襲ってきていた。

そんな折、アキトが現れた。
明らかに普通の人と違う空気を纏い、道場の門を叩いてきた。手合わせをしたくなった、久しく強敵に恵まれていない。
史上に残る犯罪者ならば、と思って、手合わせをした。
強かったが、それまでの強さだった。どこか心にしこりがあり、それが本来の持ち味を妨げている。
帰らせたが、次の日から毎日やってくるようになった。
不思議な男だった。見えないのだ、テンカワアキト、と言う男が。拳をある程度交えれば、その者の本質まで見極める自信があった。
しかし、アキトからは、意外な程の優しさと、それに反するかの様な、自虐的な暗い部分。
まるで太極の様に、それが絡み合っているのだ。故に、解らなかった。そしてそれが、思いの外興味を引いた。

仮の弟子とした、技も教え始めた。
この男なら、小佐野の全てを教えきれるかも知れない、そう思い始めた。
感性も良く、なにより才能があった。下地も出来ていた。教えた事は、直ぐにこなせる様になった。
切れも増していき、日増しに強くなる。その姿が、少年時代を思い出させた。
自分自身に勝ちたい、アキトはそう言った。それがどの様な決意の元で、自分に投げ掛けた言葉か、彌太郎は考えた。
史上最大の虐殺犯テンカワアキト、その淵に何があるか、それを知りたくもあった。
迷いに囚われるべき男では無い、例え自分の代わりにならなくとも、淵から、引き上げたくなった。
自分自身に勝てるまで、鍛える。そうした先に、このテンカワアキトの何が見えるか、楽しみだった。
自分をも越える者になれば、自分としても錬磨のしがいもある。更なる高みに上れるかもしれないのだ。父の様な、壁に。

朝九時、その時刻に、アキトはきっちりと現れる。
道場の床は冷たいが、それが余計に思案に適しているのだ。両膝に置いた手を、上げる。
立ち上がり、目を開く。道場の入り口まで、視野に入る。
まだ、狭い。
冬の冷涼な空気が、全身をなで回す。
呼気を強くし、全身に喝を入れる。筋肉が引き締まるのが解る。感覚を研ぎ澄ましていく。

「今日は、何分保つかな、アキト」

九時丁度なのだろう、アキトが、道場の入り口に立った。

「昨日よりは長く、それが俺の目標です」

「小さいな、俺を負かすつもりで、常にいろ。負ける気では、決して勝ちは無い。後を返せずに先を取られれば、そこに勝機は、無い」

アキトは押し黙り、彌太郎の言葉を聞いている。既に道着に着替えている。
目を合わせる、相も変わらず、澄んだ目をしている。彌太郎は呼気を一つした。

「解らなくてもいい、いずれ生きる。待たなくても良い、それは来る、いずれ、お前の血肉となる為に」

彌太郎が構えを取る。アキトは意外そうな顔に一瞬なり、直ぐに自らも構えを取った。

「今日は、二合、耐えて見せろ」

「はい」

「行くぞ」

だんっと地を蹴る。風が頬を叩きつける様に過ぎていく。
冷涼な空気、冷たく、寒い。冬はまだ長く、夏はまだ遠い。


彌太郎は、そんな事を考えていた。








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胡車児です。こんにつぃは。
アキトの出番すら少ないですね、あー、本当にアキトだけでいけるのだろうか、不安。
まあ、でも、なんとか、なるのでは、ないか、と、思い、ます。

ファザコンですかね、彌太郎は。
そうでは無いのです。父=自分であると彌太郎は考えているので、父の事は自分の事なのです。
弟子らしい弟子を取らない理由、お解りいただけましたでしょうか?

今、この先の展開が思いつきました!
旅、そう旅に出させましょう。全国修行行脚。
あーでも、ユリカ達をどう処理するかが問題に、なってきたりしますね。

どうしましょう、やっぱり道場破りでしょうか。
格闘技大会でも開かせて、それに参加とか?
んー、まあ、ケ・セラ・セラでバッチグーです。

では又、あいませう。







「ポリエスチレン・テクニカルズ」
http://polytech.loops.jp


 

代理人の感想

このまままったりと続くのもいいかなとか、ふと思ったり(笑)。

組み手をして何事かを教えて帰ってという、そういう日常だけを

味のある描写で描くのも結構面白いかな、と。

・・・・・年よりじみてるかな?