ただ一言だけ、彌太郎はアキトに敗北を告げた。
彌太郎の私室で目を覚まし、起き抜けに言われた言葉がそれである。が、さほどショックは少なかった。
ナオが自分の上に乗った、と思った時、なんとは無しだが、負けた、と思っていた。
ナオにのし掛かられてからの記憶が定かでは無いが、両頬の痛み、腫れ上がりから相当の怪我ではある事は想像出来た。
未だに、アキトの身体には、力が入らなかった。故に、起きあがる事すらままならなかった。
力が抜けきったを立ち上がらせる事を諦め、アキトは天井を見つめた。

「また……負けたか、俺は」

自嘲気味に呟くと、口の中で、鉄の味が広がった。





隙我 九つ幕.「瞬」





道場の中央で、彌太郎とナオが睨み合う様に正座している。
ナオの表情からは「納得出来ない」とありありと語っている。眉を寄せ、口をへの字に固く結び、彌太郎を睨んでいる。
対して彌太郎は、静かにナオの視線を受け流している様に、アキトには見えていた。
約束通り、俺と勝負しろ。と、彌太郎がナオに言ったのは、ナオが気がついて直ぐの事であった。
約束、アキトに勝ったら、その翌日に彌太郎と戦う。
が、ナオは彌太郎が何を言っているのか、初めは理解していなかった。
彌太郎が自分をからかってると思ったか、一時は今よりも憤慨していたが、彌太郎は昨日起こった事を、ナオに伝えた。
手短に、お前が勝った、と彌太郎は伝えたのだった。
ナオは当然、それを信じてはいなかった。いや、今も信じてはいないだろう。
なにしろ、ナオからすれば、アキトに締められて、意識を失した所までしか憶えていないのだから、勝った、と言われて信じれる程、ナオも甘く
ない。

そして、今に至る。とりあえず道場に来い、と有無を言わせぬ彌太郎の迫力に押され、ナオは今、彌太郎と向かい合いながら正座しているのだ。
半眼で彌太郎を睨み続けるナオ、その視線をまるで受けてないかのように、涼しげな彌太郎。
この無言の一方的な睨み合いは、これでかれこれ三十分は経つのでは無いか、と思う程続いている。
実の所、横に正座し、両者の様子を見ているアキトの足の裏も、久しく血流を断っている為、鋭く細かい痛みに襲われている。
彌太郎が一日中道場で瞑想に耽っているのを、アキトは見た事がある。つまり、彌太郎は一日中、この正座を続ける事が可能なのだ。
彌太郎は格闘も恐ろしく強いが、アキトにはこれも別の意味で恐ろしかった。

その時、彌太郎がスッと衣擦れの音しか立てず、静かに立ち上がった。
ナオの身体が少しばかり後ろに引いたのを、アキトは見逃さなかった。なにしろ、自分の身体も少し引いているのだから、間違いようがない。
このほぼ同年代の師範の元へ通い初めてから、もう一ヶ月とそこいらは経っている筈だが、未だに恐怖感は拭いきれないらしい。
気がつけば、彌太郎の一挙一動に気を配ってしまう。そうしなければ、いつ投げ飛ばされるか解らない。
そして投げられた後は、急所を突かれて昏倒するしかないのだ。それが恐怖感。

「どうした、闘わないのか」

彌太郎がナオを見下ろしながら、呟いた。まるで何故かかってこないのか理解出来ない、とでも言いたげに。

「あ、あんたなぁ……」

ナオは彌太郎よりは年上だが、「お前」とは呼べなかった、彌太郎の超然とした態度が、それを許さじとする。
圧倒されてるのは、道場に足を踏み入れた瞬間からだった。それはもう、いま現在では覆すことすら出来ない、とナオは思っていた。

「まだ不満があるのか、お前は。お前は昨日、俺の弟子に確かに勝った。それは俺が見ていたし、アキトも負けを認めている」

「そう言うがな、俺には勝ったっつー感触がねえんだよ。そんなの勝ちじゃ無えよ」

「対外的に言えば、お前の勝ちに変わりなかろう」

「だからよー。理屈じゃねぇんだよ、こう言うのは。大体だ、先に気絶したら、そりゃ負けって言わないのか?」

ナオもゆっくりと立ち上がり、彌太郎より少し視線が高くなった。
彌太郎は顎に手を当てて、少し逡巡する様に下を向いた。
ナオ自身、この問答は不思議な感触がしていた。自分は必死で自分の負けを主張しているのだ、あの負けず嫌いの自分が、だ。
プライドの様な物は、ナオにもあった。負ければ、負け。気絶させられれば、命すら落としかねない。
それは負けでは無いのか。

「俺の考えは、死ぬまでが本当の勝負だ。そして、ここは俺の道場だ」

「ぬう。言いたいことはおおよそ解るが、あいつも俺も死んでないぞ」

「ん?言ってなかったか。お前を止めなければ、お前、アキトを殺してたぞ。なんせ無我夢中に殴ってたからな」

と、何故か感慨深そうに彌太郎が呟いた。その姿はまるで、昔を懐かしむ様な感じだった。
アキトの身体がびくりと震える。冷や汗が頬を滑り落ちて行くのを感じる、殺す、彌太郎が平気で口にした言葉に過敏に反応してしまった。
ナオがそれに気づき、目を細めた。やがて興味を無くした様に、彌太郎に視線を戻した。
アキトは両膝に置いた拳を握りしめた。息が荒くなっているのにも、気付く。

落ち着け、落ち着け、殺さない、殺さないんだ、俺はもう殺さなくていいんだ、だから、殺さない。何を反応する事がある。何を……。

歯根が定まらず、かちかちと音がした。
赤く光る爆炎、赤く染まる死体、赤く染まる視界、赤く染まる手、赤く染まった機体。
過去の記憶が奔流の様に流れ出す。それに抗った結果が、爪が手に食い込み、血を流している事であろう。
時折訪れるあの記憶。自分の生涯が犯した最も深い罪。

「……はぁ。おっけー、闘うよ。闘わせて頂きますよ」

アキトの暗い想念をうち砕くように、ナオがおどけた調子で肩を上げ、はつらつと答えた。
が、その裏で、ナオは自分が嫌に冷たい汗が背筋に伝うのを、ハッキリと感じていた。
おどけては見せたが、それが虚勢である事は、アキトの目に見ても、解るであろう。
(出来れば闘いたくはない……が、闘わせてくれるのなら、闘いたい。……。勝てる訳がねぇだろう、畜生)
苦笑いを浮かべながら、ナオが足を広げた。入念に関節を曲げ、筋肉のしこりを取る。
キリタニ、健三郎、ロクモン……・そしてアキト。
(この所、楽な相手がいねぇなぁ)
強い相手を求めている自分が、滅茶苦茶な事を考えた事に気付き、ナオが苦笑した。

「いい心がけだ……ナオと言ったな。お前は粗暴だが、筋はある。精進しろ、まだ、強くなる」

ナオの顔に、また苦笑い。

「俺な、歳、二十五なんだよ」

「ふむ、俺より上か、意外だな。子供の様だから、もう少し若いと思っていたぞ」

「は……そりゃどうも」

「で、それがどうかしたか」

ナオは片方の腕で、もう片方の腕の肘を掴み、胸元に寄せていた。

「俺の親父見たいな事……言うんだな」

「む、ならお前の父上は、お前を良く知っていたと言う事だな」

「そう言うもんかな」

「俺が知る所では無いが」

「んだな……よっし。準備完了!」

パンパンと手を合わせながら、ナオが細かくステップを刻み始める。
彌太郎はゆっくりと体を動かし、両手を前に出すような構えを取る。
アキトは息を呑み、二人の動向を逃すまいと、目を大きく見開いていた。

ナオの顔が一瞬引き締まり、次の間にナオが跳躍していた。
速い、昨日自分と闘ったよりも、更に速い動きだ、とアキトは再び息を呑んだ。
ナオはこの一撃に全身全霊を賭けている。それは非常に正しい判断だ、とアキトも思った。
彌太郎とナオの技量は、明らかにかけ離れている。ナオは、それを闘わせずして感じ取ったのか。
彌太郎の基本スタイルは「先の後」を取ること、相手に先手を取らせた上で、自分は更に後手を取る。それを彌太郎は「先の後」と呼んでいた。
「避けて投げる」達人と言う事は、「当てられない」達人でもある、と言う事なのだ。

ナオの軌道と、彌太郎の軌道が交差する。

瞬。

ナオの身体が、無造作に彌太郎の上空を通過した。
いや、違う。「飛んでいった」のだ。彌太郎は一歩も動いていない、それどころか、手を動かした所すら見えなかった。
ナオがそのまま地面に叩きつけられ、昨日の自分の様に、鞠の様に床の上を転がっていった。
彌太郎は未だに微動だにしていない、静かに、ナオが先程までいた空間を、凝視している。

「いっ……てぇ」

ナオの声、アキトは直ぐにナオの方を向いた。
何をされたのか解らない、まさにそんな表情で頭をさすっているナオが居た。
彌太郎が深く息を吐きながら、身体の力を落としていった。
アキトも、混乱している。
自分は、この様な技は喰らった事が無い。
否、「あの様な技はあり得ない」のだ。
動かずに投げた?手を動かさずにあれだけ高く?それとも肉眼でも確認出来ない程の速さだった?
どれにしても、およそ人間技では無い。

「止心一投小佐野流、隠技、止滅空気投げ」

彌太郎が、ぽつりと呟いた。
ナオの方を向き帰り、床にしゃがみ込み、未だに混乱しているナオに向かって更に言った。

「我が一投は心を殺し、体を殺さず。魂を刈り、心根を斬る。即ち、戦意を止め、滅する物と知れ。抗うに能わず、我が一投は空気也」

「な……なんだよ、それ」

「風楊は風に乱るる也、その風楊こそ小佐野の境地であり、武道に於いて神髄とす」

「んな小難しい事言われても解らねぇよ」

ナオは首に手を当てながら立ち上がった。

「ともかく。……俺の勝ち、だな」

「そりゃもう、完膚無きまで、って感じに。駄目だな、本当に戦意が無くなっちまった」

鼻で軽く笑い、ナオは肩を回した。骨が鳴る音が道場に響く。
(ま……。解ってた事だし、悔しくはないか)
むしろ達成感だ、とナオは思った。
(二連敗かよ……。不甲斐ねぇなー、ホント)
が、やはり出るのは苦笑いだ。何がそんなに可笑しいのか解らない、これでは安物の青春漫画だ。
アキトは、その光景を呆然と眺めていた。







「んじゃ、世話になったな」

「うむ、飯まで食べよってからに」

道場の玄関土で、ナオは適度に膨らんだ腹を、ポンポンと二回叩いた。
炒飯三皿、ラーメン二杯、餃子四皿、いずれの全てはアキトのお手製であった。
彌太郎も、アキトの料理には素直驚きを示していた。
考えてみれば、彌太郎は自分の犯罪経歴しか知らないのであった。
「上手いな、俺なんか比にならないくらいだ」とは彌太郎の弁。
アキトは浮かれていた。
彌太郎に、格闘技では無いと言え、特技を誉められた。それだけで、負けた悔しさは薄くなった。
彌太郎は、大きい。とても同い年とは思えない程の気迫、天上の人に思えるのだ。さっきのナオとの一戦も然り。
彌太郎とは言え、超人では無かった、それが解ったから、機嫌が良くなったかも知れない。

「これからどうするつもりだ、ナオ」

「んー。そうだな、とりあえずアンタに勝てるまで、この街に居ようとは思うが」

「じゃあこの街に骨を埋めるつもりだな」

「はっ!言ってろよ……いつか痛い目会わせてやる」

楽しみだ。そう言い残して、彌太郎は道場の奧へと去っていった。
アキトとナオが取り残される。

「アキト」

ナオは、食事の間に彌太郎とアキトと色々な話をした。
格闘技の話から夕食の話題まで、それこそ主婦の井戸端会議に匹敵する程の会話量だった、とアキトは思い出した。
ナオとは、思いの外気があった。気がつけば、ナオは名前で自分を呼んでいた。

「今度は負けねぇからな」

「はは……負けたのはやっぱり俺だよ。これだけボコボコにされたんだからさ」

そう言いながら、アキトはまだ痛む両頬を押さえた。

「俺は納得いってねぇ、気絶したらやっぱり負けだ。それは俺の中のルールなんだよ」

「気絶しても闘い続けるなら……立派なモンだよ」

「ああ!だからぁ!俺は負けた、それでいいんだよ」

アキトは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
双方、負けたと思っている。かといって「俺の負けだ」と相手が認めているから「俺の勝ち」と言うのは沽券に関わる。
頑固なのだ、お互いに。

「うっし、じゃあなアキト。行くぜ」

「ああ、気を付けろよな」

「くくく……道場破りに掛ける言葉じゃねぇな」

「俺もそう思うよ」

実際、ナオの印象は、アキトの中では限り無く最悪だったのかもしれない。
なにせ剣術家の腕を折るような男だ、血も涙もないかと思っていたら、思いの外人情味があった。
(……って。俺が言えた事じゃないか)
大量虐殺犯が言えた台詞では無い。
ナオには、自分の素性を、包み隠さず告げた。が、
「あっそ、また随分と豪快だな」と一蹴した。アキトの顎は外れた。小一時間元に戻らなくなったのはご愛敬。
二人、自分を許容した。
実に奇妙な話だった。許容される筈も無い自分を、こんなにもあっさりと許容するなど、あり得ない話だった。






やがて、ナオは去った。
自分は負けた。
何故。
何故負けたのか。
<愚か、一度冥府魔道に身を堕とした者よ。六道四生、その順逆の界に生くる者に安息の時は無し>
「五月蠅い、黙ってろ」
<畜生道の極みを模索せよ、それが真の自分。真の天河明人。獣はお前に宿っている、いつでも牙を剥き、獲物を引き裂く準備をしている>
「止めろよ」
<我を殺した様に、我を二度殺した様に、全ての者を屠るが良い。お前の顔は良い狂気に歪む、我はそれを冥府で見守っていよう>
「北辰、貴様、本当にしつこいな」
<夢の折り目にまた出会おう。駆逐輪廻、悪鬼羅刹の修羅道、我が到達せんとした道を、貴様が歩め>
「冗談」
アキトは頭の横を押さえ、笑い顔を浮かべながら唸った。
「お前なんて物の一つに入らない事が、解った。弱い、お前は、弱かった。俺も、弱い。あの人の強さに比べれば」
<あの様な人間の、どこが強いと?父の陰にすがり、未だに精神は惰弱しきっている>
「お前は人を見る目が無い……まあ当たり前か。師範は強い、お前は、もう知る事なんて出来ないがな」
<……ふ。なら、見せて貰うとしよう、貴様がそこまで心酔する、小佐野彌太郎と言う男を>
「勝手にしてろ。満足したなら速く消えろ、この蜥蜴野郎」

それきり、声は消えた。星はまだ明るい。
彌太郎が呼ぶ声が聞こえる。
本日の負けの説教だろう。が、望む所だ。無様だった、あの負けは、あまりにも無様だった。
勝ったと思い、負けた。
一時間だろうか?今までの最高記録は三時間だった。
(ユリカ達にたっぷり絞られるな、どの道)
夕食の非同席は厳罰処分。アキトは嘆息した。





アキトは空を見上げた。
星の光は、消えていた。





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「描殺!与太郎VSナホ」をお送りしました。(誤字だらけ)
胡車児です。こんにちは。こんばんわ。

パソコン大破記念です。やった!
まあ、なんちゅうか、アキトの陰が薄いのはいつもの事なので、もう気にしない事に。

止滅空気投げ、我ながら滅茶苦茶な理屈を付けた物です。
オリジナルの技出すのは初めてですね、と言っても正体不明の空気投げ。もう駄目全開。

パソコン消失のショックにより、これ以上後書きを書けません。
ぐったり。

では、又。



ポリエスチレン・テクニカルズ外伝『竜の胆』
http://polytech.loops.jp/ktop.html


 

 

代理人の感想

「空気投げ」と来ましたか(笑)!

いや、いいですねぇ。

やはり投げ技で必殺技と言えば山嵐か空気投げかと言うくらいのもので、

こう言った名前には不思議な魅力があります。

 

・・・・誰だ、必殺投げならバックドロップなんて言ってるのは(爆)。