3回目を語ろうか

――テンカワ アキト

 2196年

 朝日が差し込む小さな部屋で、俺は布団に潜りながらコミュニケから表示されている時計機能をじっくりと見つめていた。デジタルのくせに、なぜか表示されるのがアナログ時計なのは設計者の趣味だろう。

 時計に表示されている日付を確認する。

 何度見ても、いくら見ても、日付は全く変わらない。

 とうとう、この日が来た。

 俺が、ナデシコAに搭乗した日が。

 乗るか乗らないかを決めかねている訳じゃない。上手く事が運ぶかどうかなんて、そんなのは運任せだから気にしない。

 それでも、俺は緊張していた。

 ナデシコは、俺が自分を一から見直す事が出来た大切な場所だ。だからこそ、誰かが悲しむような事はさせたくない。

 俺は乗る。

 ナデシコに乗る。

 ガイを死なせない、イツキさんを死なせない、九十九さんを死なせない。ナデシコの誰かを、誰かが死んだ事で悲しませたくなんかない。

 歴史を変えてやる。

 人の領分を越えたって構わない。自分勝手と罵られても構わない。

 どう言われても、俺はあの未来は認めない。あれが決められてしまっていたと言うのなら、あれが運命だと言うのなら、俺は世界ごと否定してやる。

 未来を、変えるために。

 俺はナデシコに乗る。

「兄者」

 少女のわりには低い声とともに軽いノックがした。

 それと同時に俺はコミュニケの時計表示をOFFにする。別に隠している訳じゃなく、咄嗟の反応である。

 それから、もそもそと布団から這い出す。鳥の鳴き声が聞こえる。

「店を開けるそうだ」

 まるで俺が布団から出てきたのを扉越しで確認したかのタイミングで、向こう側から少女が簡潔に要点だけを伝えてきた。時計をもう一度表示させて時刻を確認すると、確かに開店の15分前である。

 時計を切ってから、俺は布団から起き上がる。

「あいよー、今行く」

 俺は手早く着替え始めながら、返事を返す。

 本来ならば、少女はここで「分かった」と一言だけ残してから下の厨房へと足を運ぶはずなのだが、今日はなぜか何も言わない。それどころか立ち去る気配すらない。

 気にはなったが、開店の時間が迫っているのも事実で、俺は着替えを優先することにした。

「兄者」

「うん?」

 扉越しに、少女が言葉を投げかけてくる。

 俺は着替えを続行しながら返事を返す。

 寝巻きとして使用していた服を、そのまま脱ぎ捨てて布団には置かず、丁寧に畳んでからカバンの中に詰め込む。カバンの中にはナデシコに行くための生活道具が最小限で一式入っている。

 俺が丁度上着を手に取ったときに、少女の小さくとも良く通る声がした。

「今日であったな」

 ぴたりと、上着を取った俺の手が止まった。

 昨日から必要最小限の荷物をカバンに全部詰め込んだので、元々物のなかった部屋はこざっぱりしてしまっている。その部屋を俺は見渡してみる。

 さっき、俺も考えていた。

 今日なのだ。

 今日、ナデシコに乗るのだ。

 この部屋に帰ってくるかどうかは知らないが、暫くこの部屋を見ることはなくなる。

 決めていても、やはり愛着は残る。

 止めていた手を再び動かして、俺は上着を羽織った。

「今日だよ」

 

 

 

 過去に戻って来て分かったことがある。

 精神というのは、それ相応の肉体に宿るものらしい。

 どうやら俺は未来から来たと言っても、肉体ごと来たのではなく記憶と知識を持ってきたようである。だが、肉体は過去のものであり、精神自体は肉体へ引っ張られているようだ。

 体を鍛えてみても、未来の俺のようにどす黒い感情は全く湧き上がってこなかった。たぶん、こっちに来たばかりのときに北辰を殺さなかったのは、“こっちの”俺自身は人殺しなど嫌だったからだろう。

 俺は階段を下りながら自分の手を開いたり閉じたりしてみる。

 体は問題ないのだが、どうも記憶の動きと実際の動きにズレが生じてしまっている。

 今はまだ問題はないかもしれないが、いざという事態で感覚が追いつかなくて誰かを守れなくなるのは真っ平ごめんだ。

 ズレが生じていると言えば、最初の頃に突飛してズレているのが味覚であった。

 味を感じると言う感覚を長い間味わっていなかったので、様々な味が増幅されて感じていた。体で覚えていた料理をしたときに、味見をしてみたら物凄く味が濃いように感じてしまったのもその為だろう。

 まぁ、味覚の云々はサイゾウさんに鍛えられて元に戻ったようだから、この際関係ないのだが。

 色々と考えながら、俺は厨房に入る暖簾をくぐった。

「おせぇ」

「すみません」

 入った瞬間にサイゾウさんの口から漏れた文句に、間髪入れずに平謝り。

 やはり、この時代の俺は立場が悪い。まぁ、立場が良くてもジュンみたいなのよりかは遥かにマシだが

 厨房にかけられていたエプロンを取ってから首にかけてコックとしての気持ちを引き締める。

 それから前の晩からダシをとっておいた鍋の蓋を取り……ちょうど扉から銀髪の少女が入ってくるのが見えた。

 北辰だ。

「看板を出したぞ」

 少女の姿には似つかない、ぶっきらぼうな態度と言葉。体が少女になってしまおうとも心は男のままであるのが実に彼……もとい、彼女らしい。

 

 多分、過去に戻って来て一番戸惑っているのは北辰だろう。

 落ち着いて考えてみれば、起きたらいきなり男じゃなくなっていた、なんて状況、俺だったら絶対に嫌だ。

 北辰自身は、別に今まで男として生きてきた訳ではないから心配ない、と言っていたが……本心かどうかは分からない。

 先も言ったのだが、俺は体ごと未来からジャンプしてきた訳じゃなく、精神体という概念っぽいのがジャンプして、過去の俺の体に乗り移っている。一方、北辰は俺みたく精神自体がジャンプしているものの、体は全くの別人。元の体の持ち主の記憶はあるかと聞いたが、答えは「ない」の一言であった。

 まぁ、本人が文句を言わないのなら問題ないのだが……

 いや、前言撤回。

 問題は大ありなのだ。

 第一、戸籍がなかった

 サイゾウさんに拾われてから、一度身元を確認するために警察に行ったのだが、北辰の遺伝子情報を調べてもらって返ってきた結果が

『登録なし』

 との事。

 紆余曲折あって――あり過ぎて語りたくもない――サイゾウさんには取り合えず俺の血の繋がらない家族という事で納得してもらった。

 テンカワ ホクシン

 つまり、俺の妹。

 

 自分で言うのもなんなのだが、俺っていつから寛大な心の持ち主になったのやら、だ。

 あれ程この手で殺したいと願っていた相手は、今では妹である。昨日の敵は今日の友とはよく言った。

 気が付いたら友を通り過ぎてたけどな。

 まぁ、俺の中では、あの未来で決着は全てつけたつもりだ。未だに怨んでいないと言えば嘘になるが、北辰……いや、ホクシン自身も草壁の犠牲者だったと思うと、殺す気にはなれない。

 本当に、人は生きていればどちらに転ぶかは分からないものだ。

 

「兄者」

 ふいと、ホクシンがカウンター越しに呼びかけてきた。

 この“兄者”とかって呼ばれ方も、なんか慣れたな。最初の頃は兄弟なんていなかった身分から、兄と呼ばれるのには慣れなかった以前に、女の子が兄を呼称するにはあまりにも違和感ありまくりな呼び方に戸惑ったからな。

「あっと、何?」

「外回りに行ってくる」

 大き目のボストンバックを肩に引っ掛けながら、相変わらず表情をピクリとも変化させないで用件だけを簡潔に伝えてくる。

 外回りと言っても、別に出前の事じゃない。

 何故か知らないが、ホクシンは朝と夜の仕込み以外、一切雪谷食堂の仕事を手伝おうとしなかった。そして、毎日適当な理由で朝から外へふらっと出て、閉店時間直前に帰ってくるの繰り返しだ。何回か理由を聞いてみたが、毎回のらりくらりと返答を避けられている。

 雇っている身であるサイゾウさんも、最初の頃は全く良い顔はしなかったが、一週間もしたらその印象も払拭されていた。

 ホクシンのお陰で、過去の記憶にはない程客が集まりだしてきたのだ。

 どこでやっているのかは未だに不明なのだが、どうやら店の宣伝らしき事を単身で細々とやっているらしい。

 曰く、商店街で銀髪の女の子が大道芸みたいなのを披露していた。興味を持った人が名前を尋ねると

「雪谷食堂の者だ」

 曰く、車に轢かれかけたのを金瞳の少女が助けてくれた。お礼を言い名前を尋ねたら

「雪谷食堂の者だ」

 曰く、会場の準備に人手が足りずに困っていたら、見た事のないIFSをつけていた少女が八面六臂の活躍で手伝ってくれた。名前を尋ねると

「雪谷食堂の者だ」

 曰く、噂だった連続殺人犯が逃亡中のときに、セミロングの女の子が一撃で犯人を撃沈した。警察が感謝をして名前を尋ねると

「雪谷食堂の者だ」

 曰く、曰く。

 ホクシン、お前、毎日何やってんだ?

 いや、結果として客が大量に来たんだから文句はないけどさ。

 俺は戸に掛けられた暖簾をくぐって外に出て行くホクシンの後姿を見ながら、そっと心内で呟いた。

 今日で出て行くんだから、無茶はすんなよ。

 

 

 

――テンカワ ホクシン

 雪谷食堂から割と近い場所にある川原に腰を落とし、我は持ってきた道具を一式広げる。

 針と印筆を始めとした裁縫道具。

 それと、最早昔の面影がなくなった漆黒の布。

 どうにか完成しそうであった。

 過去に戻された際、何故か我が纏っていた漆黒の外套。元の持ち主であった兄者へと返却をしようと思うたが、兄者はそれを拒否した。

 曰く、“せんす”がないから。

 扇子?

 意味が分からなんだが、あえて詮索はしなかった。

 本来であれば、この外套は処分されるべきなのだろうが、いかせん耐熱・耐刃・耐衝撃・耐電と優れた素材を使われた一品であるために捨てるのが惜しかったのだ。

 そこで、我が勝手に仕立て直している。

 主に我用へ。

 布そのものが頑丈であり、まずは仕立て用の糸を得るために外套から糸の単位で解体するところから始まった。

 苦節すること約一年。

 どうにか着られる物になった。

 いまいち丈の寸法が違うのだが……特に上下方向の長さだな。

 着られるならば問題ないな。

 我は仕上げのみを残した自作の服を膝にかけ、裁縫用の耐刃製の手袋をはめた後に針と糸を手に取る。

 残りは……袖だな。

 

 

 

 今の生活を気に入っているかと問われるのならば、我の答えは一つしかなかった。

 了

 気に入っているに決まっている。殺戮だ暗殺だ拉致だ拷問だと、そのような出来事とは完全に隔離されている今は、この上なく幸福であった。

 女の体で不便ではないか、子供になりて不便ではないか。兄者はそう聞いてきた事がある。

 別段、不便だと感じたことはない。

 確かに、鍛錬をしていても体力のなさと手足の長さの差異に戸惑いはしたものの、性別も年も関係ない生活を送っていた事を考えれば、逆にありがたい。事実、体力はこの一年で格段に向上し、手足の長さは感覚を掴めれば問題はなかった。

 実際、小手試しに見知らぬ女性に不必要なまでに絡んでいた者供を相手にしてみた。

 一対八

 体力も落ちているため、苦戦するかと思ったが、あっけない程に圧勝。

 一人では実力の幅が分からぬが、ある程度昔の力に近づいたのではないだろうか。いや、奴等が弱過ぎたという可能性の方が高いな。

 どちらにせよ、兄者の盾となり剣となり得る程の力が必要だ。

 兄者。

 兄、か。

 我には兄が一人いたのだが、とてもではないが家族と呼べるものではなかった。来る日も来る日も、如何に人を素早く効率的に殺すかの練習をしていた、我が超えねばならなかった存在であった。

 だが、この体になったからかどうかは分からぬが、わりと彼が兄という存在はしっくりとくる。

 初めて、自由を授けてくれた者だからかも知れぬ。

 だからだ。

 だからこそ、なのだ。

 だからこそ、我自身がした行いが、どうしても許せぬ。

 だが、我には罪の滅ぼし方が分からぬ。許しを乞いても消えぬ罪の消し方が分からぬ。

 故に力になろうと決めた。

 かの戦艦、ナデシコと呼ばれし戦艦へと兄者は乗るつもりだろう。ならば、我も付いて行こう。

 そこで何をするかは関係ない。何をしようと、何を成そうと、誰を助けようと、誰を見捨てようと。

 我は、兄者の盾となるのだ。

 我は、兄者の剣となるのだ。

 それだけだ。

 その為の力は、必要だろう。

 

 

 

 日が丁度頭上に来た頃、右袖の口へ最期の一針を通した。流石に耐刃性のある布を無理矢理刺していたために針先が潰れてしまっている。

 漆黒の糸を丁寧に留め、余分な糸を小刀で切断する。わざわざ裁縫に特殊性の小刀を使用せねばならないのは、少々おかしなものがある。

 恐らくこれから先使用する事のないと思われる裁縫道具を片付け、出来立ての服の上に付いた屑を払い落としてから溜息を一つ吐く。

「さて……いつまで盗み見するつもりだ」

 殺気を込めることなく、ずっと後ろの木に隠れるようにして我を見張っていた者に言葉を掛ける。殺気は全くしなかったが、あからさまに我を値踏みしているかのような気配が漏れていた。

 隠れていた気配は一瞬だけ動揺したのか、気配が強まったが、すぐに気配が薄くなる。

「いはやは、これでも隠れていたつもりなのですがな」

 予想通り背後から芝居がかった男の声がした。

 我は立つ事なく体を捻って振り返ると、そこには年に似合わないような服を着た眼鏡が怪しく光る男が佇んでいた。

「ぬるい隠れ方だったな」

「まあ、所詮しがないサラリーマンですので」

 さらりーまん?

 この男のように暗殺向きの人員の事であろうか。いや、暗殺向きにしては衣服が派手だな。

 苦笑いをしながら男は眼鏡を中指で整え、我の方へ歩み寄って来た。足取りが体の重心を中央に保つかの動きであるところを見ると、この男はそれなりに腕が立つのだろう。

 だが、実力では我の方が数段勝っている。

 そこまで警戒する必要なしと判断し、我は体を戻して出来立ての服の確認作業に入る。

「ロングコートですか。渋い好みですなぁ」

 ろんぐこーと?

 ああ、この服の事か。

「丈を失敗してな……裾下が足首まで来てしまった」

「切れば宜しいのでは?」

「それが出来ぬ素材なだけに困っているのだ」

 ばさっと大雑把に点検を終えた服を広げる。

 ふむ、問題ないな。

 素人にしては上出来だろうと頷いてから、我は今まで着けていた裁縫用の手袋を外す。その途端に、後ろの男が息を呑んだのが分かったが、何も言わない限り関わるつもりはない。

 我は手袋を持って来た荷物入れの中へと放り投げると、立ち上がって出来た“ろんぐこーと”へ試しに袖を通す。

 問題ないな。

「あなたは……マシンチャイルドですか?」

「……」

 ましんちゃいるど?

 ぐっ……訳の分からぬ横文字ばかりを使いよって。意思の疎通が出来ぬ者は文明人失格であるぞ。

 いや待て。

 ましんちゃいるど。

 ましんちゃいるど。

 マシンチャイルド?

 確か遺伝子細工を施された者供がそのように呼ばれてなかったか?最近忘れていたが、我のこの体も遺伝子細工を施されていたな。

 “ろんぐこーと”を完全に羽織い終えるまでに頭の中のみで結論を弾き出した。やはり思考力は捨てるべきではないな。

「一応はな」

「ほほぅ……どこの施設に所属しているか、聞かせてもらっても宜しいですかな?」

「施設には所属していない」

「それはまた珍しい。どちらにお住まいなのですか?」

「……黙秘する」

 一切振り返る事なく、我は“ぼすとんばっく”だか“ほすとんはんぐ”だか、いまいち名前を覚えていない荷物入れの留め口をしっかりと固定しながら男の言葉を適当にいなす。

 だいたい、こういう輩に住んでいる場所を教えると、後からついて来る可能性があるからな。

 それはもう、病的なまでに

「手厳しいですなぁ。それではせめて、お名前だけでも教えていただけませんか?」

 からからと、乾いた笑いをしながらそう問いてきた。

 諦めの悪い奴だ。

 我は荷物入れの肩紐に左肩を掛けてから、ゆっくりと荷物入れを持ち上げてから男の方を振り返る。

「まずは貴様から名乗るべきだとは思わんか?」

「おや、これは一本取られました。わたくし、このような者でして」

 言い終わるが早いか、男は懐からさっと名刺を差し出してきた。随分と手馴れている洗練された動きであった。“さらりーまん”と言う者達はこのような技を持っているのだろうか。

 我は男の顔を少し眺めてから、名刺を受け取る。

 その名刺の名前の欄には、こう書かれていた。

 プロスペクター

 

 

 

――テンカワ アキト

 雪谷食堂の店仕舞い間際の時間。本来ならば客がほとんどいなくなって店仕舞い同然であったが、ホクシンのお陰かどうかは別として客が多くなった雪谷食堂にとって、この時間にだって客が来る。

 だが、今日は無理を言って早めに店を仕舞ってもらった。

 今日、俺とホクシンが店を出る、それだけのために。

 時間が来て、サイゾウさんに言われて暖簾を下げに店先へ出ると、店の外壁にもたれ掛かるようにして見慣れぬロングコートを羽織ったホクシンが夕日の空を見上げていた。

「帰ってきてたのか」

「ああ……もう終わりか」

「今日は店仕舞い。サイゾウさんも待ってるんだから、早く入れよ」

「御意」

 仰々しくホクシンはそう言うと、外壁から身を起こして俺の後ろについて店の扉をくぐる。

 店の中の、置いてあるテーブルの中では一番綺麗なテーブルにサイゾウさんが座っていた。

「おう、お前も帰ってきたか」

「待たせた」

「待ってねぇよ」

 打てば鳴るかのような二人の会話。最初の頃は二人の反りは合わないんじゃないかと冷や冷やしていたが、案外コミュニケーションが取れていて杞憂で終わった。

 それも、当分見れなくなるのか。

 少しだけ寂しく思いながらも、俺とホクシンはサイゾウさんと向かい合うように椅子に座る。ホクシンが肩に掛けていたボストンバックを床に置く音だけが虚しく響く。

 サイゾウさんが一呼吸置いてから、過去にも見た事があるカードを2枚テーブルの上に投げ出す。

「ほれよ」

「……これは?」

 一枚はテンカワ アキトと書かれているカード。

 もう一枚はテンカワ ホクシンと書かれているカード。

 ホクシンは自分の名前が書かれている方のカードを手に取り、サイゾウさんに問いかけた。俺はそれに遅れる形で、俺の名前の書かれているカードを手に取る。

 懐かしく、寂しい。

 サイゾウさんはうっすらと笑いながら、ホクシンに答える。

「見りゃ分かるだろうが、給料だよ」

「給料……」

 カードを見ていたホクシンは、その言葉に、はっと顔を上げてサイゾウさんを見た。

 ホクシンはこの店で働いているとは考えてもいなかったのだろう。かなり意外そうな表情をしている。

「悪いが、我はこの店を全く手伝っていない。給料を貰う身分ではない」

 相変わらず律儀なホクシンはテーブルの上にカードを置こうとしたが、俺はその手を押さえて止める。ホクシンは何事かと俺を見たが、俺は黙って首を横に振る。

 その様子に合いの手を出すようにサイゾウさんが言葉を付け加えた。

「ま、この店を有名にしやがったお前への嫌がらせだと思っとけ。明日からは俺一人で切り盛りしなきゃならねーんだ」

 思っていることとは裏腹の言葉。

 こんなに有名になった雪谷食堂だから、アルバイト募集の張り紙でも出せば選り取り見取りだろうに。

 それを俺も、多分ホクシンも分かっている。

 なんだかな……前はクビになるように追い出されたけど、ちゃんと頭を下げて出て行こうとすると、いろんな事が頭をよぎる。どんな一年があったが分からないけど、ホクシンもそうだろう。

 複雑な表情をしてから、ホクシンはカードを黒いロングコートの内ポケットに入れ、頭を下げる。俺も、それを見てからカードをポケットの中に入れて頭を下げる。

「アキトはよ、最初の頃の薄味もなくなったからな」

「鍛えられましたから」

「盛大に感謝しろ」

 へっへっへっ、と、照れているかのようにサイゾウさんが笑った。つられて、俺も笑った。ホクシンは、いつものように笑わなかった。

 もう、行こう。

 これ以上は、寂しさしか残らない。

 俺は椅子から立ち上がる、ホクシンも続いて立ち上がる。脇に置いていたカバンを担ぎ上げると、そんなに重くはなかった。

「じゃあ……」

「待てよ」

 俺の言おうとした言葉は、サイゾウさんに遮られた。

 ぴっと隣のテーブルを指差してサイゾウさんは一言だけこう言った。

「餞別だ」

 そこには、中華鍋やお玉などの調理道具が揃っていた。それも、過去に俺が貰った餞別より、ずっと質の良い物が。

「良いんですか?」

「道具ってのはな、慣れなきゃ始まらないんだよ。それは、お前のだ」

「……ありがとうございます」

 俺は深々と頭を下げる。

 ホクシンが調理道具を手渡してくれた。俺はそれを手早くカバンの中に入れたり括り付けたりしてから、再びカバンを背負う。

 今度は、ずっしりと重かった。

 サイゾウさんの気持ちよりかは、多分軽かった。

 丁度良い重さである。

「それでは、また今度」

「へっ、一人前に成るまで帰って来んな」

 しっしと虫を払うかのように俺に向かって手を払う。

 それでも、俺にとっては安心できる反応だった。

 大丈夫。

 一人前になって……ナデシコの皆が笑えるようになって、帰ってきますから。

「亭主」

 次に、ホクシンが静かに口を開いた。

 サイゾウさんが、見上げるようにホクシンへ視線を移した。ホクシンは無表情。サイゾウさんは苦笑いのような表情。

「世話になった」

「ああ、兄貴と喧嘩するなよ」

 サイゾウさんの言葉に、ホクシンが唇端を動かすだけの微妙な笑みを浮かべる。

 むしろ、今兄妹喧嘩したら、俺が確実に負けますから。

 ホクシンもボストンバックを担ぎ上げてから、深く頭を下げる。俺も、もう一度頭を下げた。

 そして、頭を上げてから二人揃って店の戸まで歩いてから、ガラリと開けた。外はもう暗い。

 もう一度振り返り、俺とホクシンは再び頭を下げる。

「いってきます」

「いってくる」

「……おう、またな」

 その言葉を聴いてから、俺は雪谷食堂を出る。その後ろをホクシンがついてくる。

 前って、こんな気持ちの別れじゃなかったもんな……

 心の中でそう呟いてから、俺はホクシンを見る。ホクシンも俺を見上げていた。

「行くか」

「ああ」

 

 

 

 ナデシコに乗るために……!

 

 

 

――Cパートに続く――