3回目を語ろうか

――テンカワ アキト

 真っ先に反応したのがプロスさんだった。

 これと言う言葉を口にすることはなかったが、眼鏡を光らせて、一瞬だけだが表情が消える。眼鏡を光らせるのはどうやるのかが多大に気になるが、アカツキの歯が光るのと同じ原理だと思えば何となく納得がいってしまう。

 まさかとは思うけど、プロスさんは既にこの時点で木星トカゲが人間だと知っているのかもしれない。

「で、木連って何ですか?」

 小首をかしげて、メグミちゃんが不思議そうに聞いてきた。

 そりゃそうだ。木連なんて言葉、この時代だったら知っている地球人は少ないから。

 聞かれたホクシンは体をメグミちゃんの方に向けて、いつものように変化もしない表情で答える。

「一般的に木星トカゲと呼ばれている者達、それを“後継者”なる組織内では“木連”と呼んでいたのだ。正式な名称は非常に長いのだが、我にとっては然程重要ではなかったので覚えていない」

「来るべき……と仰られましたな」

「ああ」

 今度はプロスさんが尋ねてくる。律儀にもホクシンは体ごとプロスさんに向き合うように姿勢を変えた。

 首を動かして目や顔だけで相手を見るのではない。体を向き合わせて話し合う。ホクシン曰く、他者と話をするときで最低限の礼儀、だそうだ。

 短く返事をするホクシンに、プロスさんはいつもの通りの笑顔で更に尋ねてくる。

「つまり、その組織では木星トカゲが襲来するのを予知していた、と?」

 ただし、その笑顔には底知れないものが見え隠れしている。

「正式な年は知らんが、“後継者”が発足する以前から知っていたようだな」

「ほぅ」

「続けるぞ」

「はい、どうぞ」

 ちゃんと答えているようで、その実かなり曖昧な返事をホクシンはしれっとした顔でする。

 後継者も、木連も、それは事実。

 ただ、後継者が木連と対立する組織と言うのは嘘。それ以前に、後継者……火星の後継者と言うグループはこの時代にはない。

 立場と目的を指し入れ替え、上辺だけは真実を話す。

 それは上手な嘘のつき方。

 やはり、ホクシンに話し合いの役を任せて正解だったのかも知れない。

「我はそこで“夜天光”と名付けられた機動兵器を操縦するように訓練された。とは申しても、その時の“後継者”にある戦闘装備は“夜天光”一機のみであったがな」

「一機でトカゲちゃんと戦うのは、ちょっと無謀じゃない?」

 と、ミナトさん。

 再び律儀にホクシンはミナトさんへと体を向ける。

「我の“夜天光”は試作型でな、量産は試作型の性能を見て判断するつもりだったらしい。もっとも、量産の計画が整う前に“後継者”は壊滅したがな」

 それだけ言うと、プロスさんの方へと体を向ける。

 プロスさんは何とも言いがたい表情をしていた。

 そりゃあ、聞いたことはないだろうし、現実味も薄いかもしれないからな。

 しかし、反応は意外にも別のところから現れた。

「ちょっと待てよ!なんで木星トカゲと戦う正義の秘密結社が壊滅してんだよ!!」

 ガイだ。

 ダイゴウジ ガイ。

 俺の親友だった奴で、無類のゲキガンガー野郎。ハイテンションで無鉄砲な奴だったけど、大事な事を俺に教えてくれたのもガイだ。

 ゲキガンガーとか、正義とか。

 現実味のありすぎる、死、とか。

 多分、俺が最初に助けなくちゃいけない奴。

 ともかく、正義の秘密結社云々は置いておいても、ガイにとっては木星トカゲと戦う組織が崩壊してしまった事が気に食わないらしい。まぁ、ガイらしいと言えば、ガイらしい。

「ダイゴウジ、とか言ったな」

「おう!ダイゴウジ ガイだ!」

「ヤマダ ジロウで登録されてますけど」

「“木連”は叩かねばならない。恐らくだが、お前はそう思っているのだろう」

「当然」

「では、『いかなる手段を持ちえても』……“木連”は叩かねばならぬ相手か?」

 小声で的確なツッコミを入れたルリちゃんを無視して、ホクシンは話を進める。

 憮然と大声で答えていたガイも、最後のホクシンの言葉には即答は出来なかった。

「たとえ、誰かを見殺しにしようが。たとえ、罪のない人々を巻き添えにしようが。たとえ……その戦争にはなくてはならない勝利の鍵となりうる特殊な人間を、その者の意思に関係なく連行し人体改造をしようが。
 ちなみにだが、“後継者”なる組織は全てそれを実際にしてきた。故に今一度問うぞダイゴウジ。

 木星トカゲは、『いかなる手段を持ちえても』完膚なきまでに亡ぼさねばならぬ絶対悪であるか?」

 淡々と。

 実に淡々と、女性――どちらかと言えば少女だけど――特有の落ち着いた中性の声で、ホクシンは真っ直ぐガイの目を見据えながら問いかけた。

 それは同時に、ブリッジにいる全員への問いかけとなった。

 ユリカが驚いた顔をしている。

 ジュンが深く考え込んでいる。

 ルリちゃんも少しだけ眉間にしわが寄った。

 メグミちゃんは意表を突かれた表情。

 ミナトさんは困った顔。

 プロスさんは良く分からないが、何かを考えている。

 ゴートさんは感心したような感じがする。

 フクベ提督はただ黙っている。

 ムネタケは、何故か呆然としていた。

 そして問いかけられているガイは、戸惑っていた。流石のガイでも、そこまでして木星トカゲを悪だとは言わないだろう。最後の部分だけ、木連ではなく木星トカゲと呼称しているのは、ホクシンなりに何かを区別しているんだと思う。

 たっぷりと時間をかけてから、ホクシンは再び口を開く。

「ある時、“後継者”は勝利の鍵となる人物の強制連行を実行した。その実働部隊として、我も駆り出された」

 ちらりと、ホクシンは俺の方を見てきた。

 はて?

「実働部隊と名は付くが、事実上は“夜天光”を使用した突入機動試験のようなものだ。内容は至極簡単で、捕獲対象者を生きたまま連行すること」

 そこで一度、ホクシンは言葉を切った。

 聞いた事がある。

 何となくだが、ホクシンが何を言いたいかが分かってきた。

「その捕獲対象の名は、テンカワ アキト。」

 

 

 

 

――テンカワ ホクシン

 ざっと我の言葉に反応して、皆が兄者の方へと一斉に顔を向けた。

 いきなり名前が挙がり、兄者は一瞬だけ呆けたような表情になってから我の方へと視線を向ける。その目は如実に「何を言えと?」と物語っている。

 いくらなんでも我一人で嘘を付き通すのは難しいからな。

 心苦しいが、少しは即興でも肯定的な発言をして貰わねば困る。

 皆の視線が兄者に集まっているのに気が付いたのか、隣にいるラピスラズリが遅れて兄者の方へと視線を向けた。

「よく生きていたな……」

 と、ポツリと感想を漏らしたのは筋肉質の背が高い中年男性。確か、ゴートホーリーとか名乗っていたな。

 その言葉に反応し、兄者が皆の方へ再び向き直る。

 皆は口に出さないが、内容が早く聞きたいという表情であった。特にダイゴウジなど分かり易い程に表情が浮き出ている。

「えー、まぁ」

 頬をかきながら、兄者が困ったように苦笑いを浮かべた。

 頭の中で必死に言葉を探しているというのが、我にはひしひしと感じられた。証拠に鬢の辺りにうっすらと冷や汗をかいている。

 やはり言い訳は苦手なのだろうか。それとも、言い難いのであろうか。

 まあ、仕方があるまいな。

「その頃の兄者は泣ける程に弱くてな、いとも簡単に捕獲できたのだ。生きたまま、それどころか傷一つもなく持ち帰ることが出来た」

 追加として我が口にした内容に、兄者は何か思い当たる節でもあるのか後ろに軽く仰け反った。

 真実、あの頃の兄者は軟弱であったからな。

 そして、「はい」と言う声と共に皆の中に手が上がる。

 背が低く、どちらかと言えば女顔である青年。アオイジュンとか名乗っていたな……確か、荷物が激突した時に我に駆けつけた方の。彼が副艦長であったのは些か驚きであったが。

 とりあえず、我は副艦長の方へと体を向けた。

「で、勝利の鍵って何なんですか?」

 至極まともな意見だ。

 さて、何と答えたものか。

 ここは真実、生体跳躍ができる者と言うべきであろうか。我の記憶が確かなら、地球人は跳躍技術の事を別の呼び方で呼んでいたことを考えれば、対して問題ないかもしれんな。

 頭にて瞬時に結論を出す。

 戦闘用として鍛えられた思考能力は、こういう場面でも役に立つのだな。

 そして、我が口を開き

「ボソンジャンプのできる奴の事らしい」

 我の前に、兄者が口を開いていた。

 ちらりと、我は横目で兄者を確認する。

 兄者は真っ直ぐ皆の方……心持、ミスマルユリカ艦長の方へと視線を向けながら、はっきりと答えていた。視線を向けられている先のミスマルユリカ艦長は、首をかしげている。

 ぼそんじゃんぷ。

 確か、そうだ。

 跳躍技術の事を、地球ではそう呼んでいた……ような気がしなくもない。兄者が答える機会と口調を考えれば、まず『ぼそんじゃんぷ』は跳躍技術のことで間違いないだろう。

 間違いないのだろうが。

 良いのか?

 言ってしまって。

 いや、これは兄者の事だから、我がとやかく口を出す問題ではないか。

 そう思い、我は皆の方へと視線を戻す。

 何故かプロスが兄者と我を探るような目つきでこちらを見ているのが些か気になったが、跳躍技術の事が気になっているのだろう。この者の事を考えれば、既に跳躍技術の事を知っている可能性も高いが、我等が知っていても問題はないだろう。

 少なくとも、兄者は。

「ボソンジャンプ?」

「細かい話はなしするけど、あいつ等はそのテクノロジーが欲しかったらしいんだ。だから、特定の遺伝子構成パターンとナノマシンを所有している人を強引に拉致してたんだ……それに俺が一致していたんだ」

 副艦長の疑問の声に、兄者が苦笑いをしながら……だが、どことなく苦々しく言い捨てるかのような声で答えた。

 所々分からない単語が上がっていたのだが、それは今度、機会があったら聞いてみることにしよう。

「後継者の奴等は、そのテクノロジーが欲しくて、俺に過剰な人体実験をした」

 目を閉じながら、兄者は自発的に口を開いた。

 一度口から零れた事は、放って置けば勝手に漏れてゆく。

 まあ、それが良いだろう。

 最初に暗い部分の過去を言っておけば、そのことを抉るように聞くものは少ないかろうて。今は重要性の低い手札は全て切っておくべきだ。

「その結果、俺は五感がなくなった」

 その一言で、場が凍ったかのように固まる。

「去年ぐらいに直ったけど、逃げ出してからそれまでの間、ずっと復讐するために鍛えてたんだよ……今じゃもう、恥ずかしい話なんだけどさ」

 場の雰囲気に流されず、兄者は笑いながら頭をかいた。

 誰を復讐の目標にしていたのか。

 それを考えると、今更ながらに胸がきりきりと痛んだ。

 誰も口には出さないが、何を復讐の目標にしているのか、何となく分かっているだろう。

 辛い人生。

「ま、まぁ、なんだ……」

 その場の雰囲気を崩すかのように、少し噛みながら声を上げたのは、赤い服に松葉杖をついているダイゴウジであった。

 彼は彼なりに、場の雰囲気と言うのに敏感なのかもしれない。

「すげぇシチュエーションじゃねーか。離れ離れの兄妹が戦場で再会するなんてな」

「いや、俺とホクシンは血が繋がってないんだけどな」

 松葉杖から手を離して鼻を擦り上げながら、感動した風に言ったダイゴウジに、兄者はからからと照れたように笑いながら答えた。

 へぇと、皆から良く分からぬ相槌を打たれた。

「て言うことは、引き取ったんですか?」

「ん、そんなところ」

 メグミレイナード通信士の質問にも、兄者は即座に答える。

 その様子を見て、プロスも何か納得がいったのか、探るような目付きをやめ、軽い調子の笑顔を顔に浮かべている。

「ま、大体の事情は分かりました。色々と大変だったんですねぇ」

 そう言いながら、プロスは兄者と我の方へとつかつかと歩み寄る。

 上着の内袋と思われる場所から、すっと紙……見たことのある、契約書の紙を取り出した。

「実はですね、ナデシコにはヤマダさ」

「ダイゴウジ ガイだ!!」

「ん以外にも4名程のパイロットを乗せてから出航する手筈だったんですがね」

 ダイゴウジの必死の叫び声も聞こえないかのように、プロスは話を続けた。

 ある意味、猛者だな。

「ですが先程、乗ってもいないのに退艦するとの連絡が来まして……サツキミドリで補充の方が来るまで、ナデシコにはパイロットが一人しかいないのです。そしてその一名は骨折中でして」

「微小機械で復元すればよいではないか」

「時間がかかるのです、はい」

 我が口にした疑問に、端的に答えられてしまった。

 むしろ、“ぱいろっと”とは何だ?

 いや、今は気にする必要もないだろう。

「そこでなのですが、ホクシンさんはオペレーターとパイロットを兼業、アキトさんはパイロットに転業といたしませんか?」

「……“ぱいろっと”とは何だ?」

「操縦者のことだ」

「ああ、なるほど」

 やはり気にする必要があった単語を率直にプロスに尋ねると、兄者が先に答えてくれた。

 ややこやしいな、言葉の違いと言うものは。

「しかし、兼業となると中途半端であろう」

「いえ、オペレーターの方はルリさんに頑張ってもらいますから」

「意見聞かずにですか」

「そうか。ならば問題ない」

「了承と受け取ってよろしいですな?」

「ああ」

 断る理由もない。

 プロスが手渡してきた契約書を軽く見直してから、我はとりあえず了解をする。エステバリスとやらの操縦が出来るのは、それなりに好都合だろうからな。

 最初のときに契約書にて訂正を申し出た箇所のみを変更しないようにとプロスに釘を刺しておくと、何故かプロスを除いた他の者が不思議そうな顔をしおったが……まぁ、気にするまい。

 我の見ていた契約書に興味を持ったのか、縋るような目でこちらを見ていたラピスラズリに2枚目となる契約書を手渡しておく。受け取ったラピスラズリは、面白そうに契約書に目を通してゆく。

 文字が読めるのか。

 少々心内にて感嘆の声を漏らすが、ラピスラズリにとっては外付けされた能力故に、褒める事はしないことにする。

 教育上良くないからな。

「あの、転職って……コックの仕事はどうするんっスか?」

 ラピスラズリにかまっている我の隣で、兄者が引き攣ったような声にてプロスに質問をした。

「その実力、実に素晴らしいです、はい。となると我が社でも注目せざるを得ない訳でして……ですが、大変でしょう、パイロットが兼業とは」

 けろりとプロスが答える。

 とりあえず、我は一生懸命になって契約書を見ているラピスラズリの方へと目を向ける。よく分からない単語が飛び交う話に、我は不要であろうと判断した上だ。

「って、ホクシンは兼業じゃないですか!?

「オペレーターはルリさん一人ですからな。時間超過手当を払うよりも、ホクシンさんが兼業してくださった方が経済的で良いのです」

「いや、俺はコックを目指していて……」

「私も鬼じゃありませんので、コックさんの修行、阻む気は毛頭ありません。ですから、食堂での仕事はボランティアと言う方針で」

「ボランティアって……」

 兄者が交渉に励んでいる間、ハルカミナト操舵士やメグミレイナード通信士、それに艦長がラピスラズリについて色々と質疑をしてくるのを、我は適当に答えていた。

 やれ何歳なのか。

 やれ何が好きなのか。

 やれ何故かのような場所にいたのか。

 年齢外見に似合わず、契約書を読み耽っているラピスラズリが答えるはずもなく、自動的に手があいている我が答えることになった。

 ――年齢は、6つ程であろうか。

 ――好きな物か……皆目見当も付かんな。

 ――頭に白蟻が集った奴等の自分勝手にて、かの場所にいたらしい。

 不思議な事に、質疑に答えれば答える程、訊ねられる数々が多くなってゆく。途中にダイゴウジや副艦長も質疑に参加してきていた。

 兄者が劣勢と思われる交渉を続け、我が質疑に答える。

 そして、ふいにラピスラズリが契約書から目線を外した。

 

「あの、ホクシンお姉ちゃん」

 

 時が止まった。

 兄者とプロスが、契約書を挟んで交渉をしているのすら中断し、我とラピスラズリの方へと目を向けた。

 他の皆も、急に黙った。

 それはそうだろう。

 艦橋に足を踏み入れてから、ラピスラズリが初めて声を出したのだから。皆には誰の発言なのかが分からなかったのだろう。

 いや、そうではない。

 そうではないな。

 少なくとも我にとっては。

 皆々の反応から数瞬遅れて、我の背筋に大量の毛虫が這い登って来おった。

 寒気がした。

 鳥肌が湧いたかも知れぬ。

 耳慣れぬ単語は、精神的打撃力が大きかった。

 ホクシン。

 まあ、良いであろう。それは我が名乗っている名前なのだからな。

 お姉ちゃん。

 解せんが、問題なかろう。個人的な他者への愛称の付け方に、意見を口にする気はさらさらない。

 だが、この二つが繋がると、ゑも言えぬ感覚が湧き起こってくる。

 似合わぬ。

 解せぬ。

 それ以前に、北辰という名に、『姉』の称号は違和感が大きすぎる。

「この字が読めな」

「いや、しばし待て」

 周りの状況など眼中にないラピスラズリが続けた言葉を、我は片手をラピスラズリの前に示して止める。

 それから、妙に痒くなってきた首筋を2・3度指でかいてから、口元を隠すように顎へ手を当てて少々頭を捻った。

 違う呼び方をさせるべきだな。

「違う呼び方か……いや、違う名前であれば良いか」

 我が口の中で転がす程度に呟いた言葉を、ラピスラズリはしかと聞き取ったのか小首を傾げる。

 違う名前。

 違う名前か。

 前の歴史にて、二度と名乗る事はないと思っていたが、この体になってしまっては封ずる必要もないからな。

 うむ、虚しいが、違和感がないからな。

 結論を出してから、我は顎から手を外し、今一度ラピスラズリへと向き直った。

「ラピスラズリよ」

「?」

「とりあえず、我の事をホクシンと呼ばなくて良い」

 我の言葉を理解できなかったのか、ラピスラズリは反対側へこてんと首を傾げた。

 とりあえず、我は言葉を続ける。

 

「夏に己と書き示し、ナツキだ。これからは、我の事をナツキと呼べ」

 

 我が投げかけた言葉に、ラピスラズリは暫し間を置いてからこくんと頷く。

 夏己。

 ナツキか。

 この名は、ずいぶんと久しぶりに口にした。

 こちら来てから1年近く経つので、かれこれ25年ぶりに口にしたことになるな。

 ふいと感傷に耽る我に、ラピスラズリが持っていた契約書を差し出した。その書にある一文の上に小さな指を指している。

 そうか。字が読めぬと申していたな。

「ナツキお姉ちゃん。これ」

「ああ、駁撃(ばくげき)だ。他者の意見を徹底的に貶し貶める事だ」

 ――人間関係を円滑に保つため、犯罪・駁撃は禁ずる――

 という一文の駁撃が読めなかったのだな。これはしょうがあるまい。

 我の説明で納得をしてくれたのか、こくんと頷いてから再びラピスラズリは契約書へと目を落とした。

 ふむ。文字好きなのであろうか。書物を与えれば、相当な知識家になるやも知れんな。

 それから、先程から何か物言いた気にしている皆方へと再び体を向ける。兄者とプロスの話し合いも再開していないようだ。

 ……何か気になる事でも言ったであろうか?

 暫し、しんと艦橋に沈黙が降り注いだ。

「で、ナツキって何だ?」

 最初に口を開いたのは、兄者であった。

 それも、さも不思議そうに。

 なんだと申されてもな。

「我の本名だが?」

 兄者の方へと向き直り、我は素にて返した。

 言っていなかったか?

 まあ、聞かれぬ限り、我から話す事などなかったからな。言っていなくとも不思議ではない。

 我の返答に、兄者は驚いた顔をした。

「ホクシンと言う名前は、偽名なのか?」

 と、兄者よりも先に反応を返したのはゴートホーリー。表情を伺うのが難しいのだが、彼は彼なりに驚いているらしいな。

 しかし、偽名とは失礼な。

「ホクシンと言う名は称号のような物だ。先代の“北辰”が死んでから、それなりの地位にいた我が名を継いだだけの話だ」

「へ〜……で、アキト君は知らなかったの?」

「いや、俺も初耳で」

 追加として口にした説明に、ハルカミナトは兄者へと話題を向けた。やはり兄者には話していなかったようであった。

 別に名前など、どうでも良いと思うのだが。

「ほぉほぉ……では、名前の登録は本名の方が宜しいですな」

「構わんが」

「いっその事、ホクシンって名前自体止めません?」

「確かに、女の子の名前にしたら変だものね」

「構わんが」

 兄者との話し合いを一時的に横に置いたプロスペクターの意見に、我は賛成とも反対ともつかぬ返事を返す。それからメグミレイナードとハルカミナトの意見にも同様の反応を返す事にした。

 我にとって、名前など然程重要な物ではない。

 そもそも、北辰と言う名は名前ではない。それに、この我では無理にホクシンと名乗る必要がないからだ。

「では、御二人の正式な契約書はこのようになりますが、よろしいですかな?」

 いつ訂正したのか分からないが、すっとプロスペクターは最初に我と兄者が記入した契約書を差し出してきた。

 その紙には、このように訂正がうたれている。

 

 テンカワ アキト

 コック → パイロット

 

 テンカワ ホクシン → テンカワ ナツキ

 オペレーター → オペレーター兼パイロット

 

 いつ訂正したのだろうか。

 ……気にするまい。

「構わん。何と呼ぶかは、そちらの勝手だ」

「では、よろしいという事で……いやぁ、思わぬ逸材を発見できてネルガルとしても手厚く御もてなし致します」

 と、我の返事に気を良くしたプロスペクターが、ほくほくとした調子にて返した契約書を素早く畳んで内袋に仕舞い込む。

 面倒ではあったが、契約成立だな。

 

「あの、コックの件……もしもーし」

 

 

 

 

――テンカワ アキト

 コックという肩書きが消えたっス。

 まぁ、食堂で料理の手伝いをする許可は貰ってる訳だから、料理が出来ないって訳じゃない。それに、前みたいに臨時だか兼任だか分からない中途半端な立場よりかは権限が大きい。

 権限が大きいと言っても、ユリカの作戦に横槍を入れられる程度だが。

 料理だって、できるのなら文句はない。

 ないんだが。

 ――納得いかねぇ……

 と思うのは俺の我侭か?

 格納庫の通路に置き去りにしていた荷物を担ぎ、割り当てられた部屋を目指してとぼとぼと歩きながら、俺は盛大に溜息を吐き出す。

「疲れたか?」

 淡々とした単調な声で、溜息をついた俺にホクシン……いや、ナツキだったか……が聞いてきた。ちなみに、背中にラピスを背負っているために荷物は持っていない。よって、荷物は全て俺が持っている。

 こいつは、兼業だもんな。

 オペレーターはルリちゃんしかいない。それを考えれば、オペレーターの仕事を外す訳にはいかない。

 考えてみれば、俺よりもホク……ナツキ、の方が発言力が強くないか?

「ちょっと考え事を」

「そうか」

 適当に流した返事に、さらっとナツキが流してくれた。

 お、今度は間違える事なく呼べた。

 流石に1年――嫌な記憶を会わせれば4年ぐらい――も慣れた名前を呼んでいたのに、いきなり名前が変わると呼び辛いものがある。

 むしろ、ホ、じゃない、ナツキ本人は呼ばれる名前が変わって戸惑わないんだろうか?

 本人が良いといってるんだから、俺が口を挟むべきじゃないとは分かってるんだが。

 色々と頭の中で考えていると、割り振られた部屋に辿り着いた。

 場所を見て何となく思っていたけど、ガイの部屋じゃない。中途半端な立場だった前の俺は、何故かガイと同室だったもんな。

 むしろ、良いのか?ナツキにも個室が割り振られてるんだろ?

 えーっと、パイロットはガイを含めて5人乗艦する予定だったんだよな。で、サツキミドリでリョーコちゃん達と合流して8人。その内の半分に当たる4人が昨日の戦闘を見て辞めて、代わりに俺とナツキが入ってきた、と。

 となると8人が6人に減ったんだよな。

 で、アカツキも入ってくるとしたら7人。

 何だ。十分に足りるのか。

 意味もない事をぼんやりと考えながら、俺はカードキーを読み込ませてドアを開ける。中はまぁ、ガイの部屋と同じぐらいだな。

「よし……じゃぁ、ちょっと待ってろ」

「ああ」

 適当な所で荷物を降ろしてから、俺はナツキの持ってきていたボストンバッグを改めて持ち上げる。

 何故か、中華鍋やら何やらを入れていた俺のリュックよりも重いというのが気になるが……詮索はしないでおこう。アサシンびっくりの暗器の数々が入っているのだろうから。

「これだな、お前のは」

「すまない」

 俺が差し出したボストンバックを取ろうと、ナツキが手を伸ばすが。

 きゅ

 ナツキが受け取る前に、背中におぶさっているラピスが、首を絞めるように腕をナツキの首にきつく巻きつけた。

「……」

 無言で俺を睨むラピス。

 降りたくないのか?

 なんだか知らないが、ラピスはナツキに対して相当懐いているようだ。

 それはそれで、全く問題ないのだが……それとなく寂しい気もする。それが自分勝手な考えとは分かっているのだけど、どうしてもそう思えてしまう。

「はいはい、俺が持ってくよ」

 子供相手に根気勝負をするつもりもないので、無難に切り返す事にする。

 どうせ、ナツキの部屋は向かいだしな。

 子供の力で首を絞められても苦しくないのか、ナツキは「すまない」と一度だけ頭を下げると、ラピスを背負い直す。それで満足したのか、ラピスは睨むのを止めてくれた。

 複雑だな。

 まぁ、前の記憶と混同したらいけないな。ラピスはラピスで、あのマシンチャイルドだったラピスじゃない。

 ……前の記憶?

 そう言えば、ムネタケが制圧行動を起こすのって今日じゃなかったか?

 ああ、そうだ。確か、ユリカがブリッジに呼び出されてスキャパレリプロジェクト……だったか、あれを発表したすぐ後にナデシコ拿捕のムネタケが手口を切ったんだよな。

 どうするか。

 ムネタケを叩いても、ミスマルおじさんが来るしな。下手な事をやって敵対行動なんて取られてた日には、地球に帰れなくなるし、そうなると自動的にラピスも火星に連れて行くことになる。

 やっぱり、捕まるしかないか。

 重いボストンバックを持ちドアを出て、向かいにあるナツキの部屋の前に立つ。ラピスを背負ったまま、プロスさんから渡されたカードキーを器用にロングコートのポケットから取り出そうとしている。その間にも色々と可能性をシミュレートしてみた。

 考えても、捕まる以上に『最悪な事態』に陥る可能性が低いのは思い当たらない。

 少しばかり癪だけど、しょうがな

 

「アキト〜!!」

 

 声がすると同時に、ナツキが目の前でラピスを背負ったまま真横に跳んだ。カードキーが中途半端にリーダーに刺さっている。

 考え事をしていて反応が遅れた俺は、反射的に声のした方向へと目を向ける。

 白い塊が迫ってきているのが辛うじて確認できた。

 それが何であるかを判断する前に、白い塊が俺の横っ腹辺りに激突する。

「ぐあっ」

 衝撃で真横に弾き飛ばされるところであったが、そこは何とか腰を落として衝撃を逃がす。それでも十分に痛いのだが。

「アキト アキト アキト!」

 何と言うか、確認するまでもなく、白い塊はユリカだった。

 ラピスを背負っている割には一足で随分と遠い場所にナツキが音もなく着地した。背中のラピスが急激な動きに付いてこれずに少し目が回っているのが分かる。それから少し遅れて、中途半端に刺さったカードキーを読み込んでドアが自動的に開き、カードキーが床にぽとりと落ちた。

 俺も体を鍛え直さないとマズいよな。

 と、考えは今の状況と全く関係ない方向へと飛んでいた。

 いや、飛ばさないとヤバいのだ。

 何がって、ほら、色々あるのだ、健全な男には。ユリカが胸の辺りに抱きついてきたという点で察して欲しい。

 そうじゃないだろ。

「とりあえず、ユリカ、放してくれ」

「や〜だ!」

 鬼だ。

 ユリカ自身は何も考えていないんだろうけど。

 これだから世間とスレている奴と言うのは……って、ユリカは連合大学出たんだよな、別に温室育成の大学じゃないところ。何で認識が改められないんだよ、大学で。

 誰かが男との付き合いを遮断していたわけでもあるまいに……

 ……ジュンがやるな

 可能性が高いぞ。昔から惚れていたっぽいし。

 一息入れてから、ユリカが埋めていた顔を上げて俺を見上げてきた。頬がぷーっと膨れている辺り、本当に俺より年上かと思える。

「本当に久しぶりだもん! プライベートタイムだから、公私混同じゃないから大丈夫だもん!」

「こうしこんどう?」

 ユリカが?

 公私混同を考える?

 何か悪い物でも食ったか?

 それとも変な事でも聞かされたか?

 変な事。

 頭の中を、ブリッジでの出来事が過ぎった。

 俺はユリカに締められている状態ながら、ナツキの方へと顔を向けた。それと同時にナツキが顔をわざとらしく逸らす。

 ホク、じゃない、ナツキめ、あの時に変な事でも吹き込んだんだな!?

 ユリカの態度もいきなり変わったし。

「それよりアキト、本当に久しぶりだね! 誘拐されたとか、人体実験されたって言ってたけど、本当に大丈夫ななの? どこも痛くない? 火星が……あんな事になっちゃったから、凄く心配したんだよ」

 俺の様子に気が付かないユリカが、一方的に俺に話しかけてくる。

 暫く無視をしておこうと思っていたが、最後の言葉が、何故か心に響いた。

 ゆっくりとユリカの方を見ると、今にも泣き出しそうな顔で俺を真っ直ぐ見ていた。

 

 その顔が、あのユリカに重なった。

 

 誘拐された。

 そう、ユリカも一緒に。

 人体実験された。

 そう、ユリカも一緒に。

 ユリカも一緒に。

 でも、最も酷い事をされていたのは、ユリカだ。

 俺は新種のナノマシンを注入されてひたすら観察研究されるだけ……だけど、ユリカは違う。

 遺跡の制御ユニットになる。

 それがどんなに苦痛なのか、俺には想像できない。

 それだけじゃない。

 ユリカは、あの研究者達に、あいつ等に。

 犯されていた。

 俺の目の前で。

 動けないのが狂いそうな程に悔しかった。できる事なら、その場で全員を殺しつくしてしまいたかった。

 何も出来ない自分すら、殺してしまいたい衝動に駆られた。

 それでも、そんな状況でも。

 泣きそうな顔をしながら、ユリカは俺を心配してくれていた。

 泣きそう。

 違う。

 聞こえなってくる耳で、見えなくなってくる目で、ユリカが泣いているのが分かった。

 それでも、俺の名前を叫んでいた。

 あのユリカを思い出してしまった。

 逆流してくる記憶に、俺は自分の動きが制御できなかった。

 

「え……あ、ええぇっ!!?

 

 ユリカの戸惑ったかのような声と、どさりと重い音を立てながらに床に落ちたボストンバックの音に、ふと気が付いた。

 しっかりと、ユリカを抱きしめているのが分かった。

 自分でも分からない。

 何で、“この”ユリカを抱きしめているのか。

 そんな資格はない。

 俺は、もう二度とユリカを求めたらいけない。

 そう分かっているのに、手が放れなかった。

 放せる訳がなかった。

 

 だって、こんなにも落ち着くのだから。

 

 顔を真っ赤にしながら、急に慌てまくっているユリカをぼぅっと眺めながら、俺はだんだんと理解できた。

 このユリカは、あのユリカじゃない。

 でも、似ている。

 凄く似ている。

 自由奔放なところとか。

 周りの状況が見えなくなる程に、何かに集中できるところとか。

 自分からは積極的に触れてくるのに、俺から触れると、とても慌てるところとか。

 でも、このユリカはあのユリカじゃない。

 分かっている。

 これが代償行為だということも。

 それでも、俺は手が放せない。

 いや、離せない。

 離してしまえば、泣きそうだから。

 どうしようもなく、泣き出してしまいそうだから。

「あの、ちょ、アキト! そういうのはまだ早」

「ごめん」

 ユリカの言葉を遮って、更に強く抱きしめ、俺はユリカの肩に顔を埋めるようにしながら、呟くように一言口にした。

 何の謝罪か。

 分かっている。

 代償行為だって、分かっている。

 それでも、俺が言わなくていけない事だった。

「ごめん、ごめんな、ユリカ。本当に、ごめんな……」

「……アキト?」

「もっと早く言うべきだった。一番最初に会うべきだった。

 なのに、何で、俺……っ!!」

 泣きそうだ。

 泣いてしまいそうだ。

 あの時。

 ユリカを助けられたとき。

 謝るならば、このような言葉を言うならば、その時に言えば良かった。

 そして、残りの寿命を全て、ユリカと共にいれば良かった。

 血に汚れた俺には、ユリカを抱きしめる資格はない。血に汚れた俺には、ユリカに会う資格はない。血に汚れた俺は、ユリカを愛する資格はない。

 違う。

 そうじゃない。

 そういう問題じゃない。

 助けられなかった事。

 何もできなかった事。

 本当に愛する人ならば。

 俺が、本当にユリカを愛していたのならば、そんな資格もないのを覚悟の上で会いに行くべきだった。

 資格がないなら、恥をかくべきだった。

 会って、謝って、恥をかくべきだった。

 何を格好つけていたんだ。

 俺は、何をやっていたんだ。

 今更気が付くなんて。今更、そんな簡単な事に気が付くなんて。

 最愛の人。

 最愛の妻。

 狂いそうな程に、俺が恋をした女性。

 ぽんと、背中に手が回された。

 ユリカが、俺の胸に顔を埋めてきた。

 

「大丈夫」

 

 ぽつりと、小さな声。

 時が、止まったかと思った。

 先程まで少女のように頬を膨らませていた、そんな雰囲気は微塵にもしなかった。

 そこにいるのは。

 この手の中にいるのは。

 落ち着いた、大人の女性。

 

「大丈夫だから、ね。 私は大丈夫だから」

 

 ぽんぽんと、ユリカが俺の背中を軽く叩いてくる。

 一定の調子が、心に響いてきた。

 こんなにも求めていたユリカは、このユリカじゃない。

 そんな事すら、頭の中には既になかった。

 

「だから、アキトは悪くない。 謝る必要なんか、ないんだよ」

 

 救いの言葉。

 その言葉を、俺は待ってたのかもしれない。

 復讐に明け暮れたあの日から、それよりもずっと昔から、その言葉を聞くためだけに戦っていたのかもしれない。

 だから。

 それを聞けたのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、月を見たあの日よりも、激しく泣いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― テンカワ ホクシン → テンカワ ナツキ

 艦橋に向かう我の背から、誰かが泣く声がした。

 ラピスも何かに気が付いたようだが、気にしていないようだった。

 全く。

「部屋に入れなかったではないか……」

 

 

 

 

 ――Cパートに続く――