時ナデ・if
<逆行の艦隊>

第25話その1 月にて









つい昨日まで少年にとって世界とは善意によって構築されているものだった。
血縁が伴わないとは言え……いや、だからこそ深い愛情のみで繋がれた両親によって守られ、
慈しまれながら育った少年にとってそれはごく自然に行き着いた考えだった。
幸福とはそれと意識することのない日常の別名であり、不幸とは両親と出かける約束が雨で潰れたり、
あるいは憧れのあの人がちっとも構ってくれないことだったり……。
本当の意味での不幸は他人の中にのみ存在する概念であった。

すべてを壊してしまうような悲しみ、人格さえどす黒く染めてしまうほどの憎しみを知らない少年は、
その小さな眼差しと腕に収まり、歩幅の小さな足で踏破できる矮小な領域こそが世界のすべてだと感じていたに過ぎなかった。
明日も今日と変わらず良い日であると信じて疑わなかった。

――― それは幻想に過ぎないのに。

少年の見ていた世界は砂上の楼閣のようなものだった。
だが、それを子供らしい浅慮と無知を笑うことはでない。
彼にはその幻想を現実に留め続けるべく、不断の努力を怠らなかった義理の両親がいた。
ともすれば大人たちの利権争奪戦に利用されそうになる少年を守ってくれた。

(逃げないと……)

しかし、その両親は今はいない。
それが今だけのものになるか、それとも永遠になってしまうかは少年にも分からない。
崩れてしまった幻想の残滓を追い求めるようにまぶたの裏に両親の面影を映し、
しかしそれはすぐに血にまみれたものになる。

薄闇の中にカチカチと断続した音だけが聞こえる。
それが自分の歯が立てている音なのだと気付いて慌てて両手で抑えるが、まるで言うことをきいてくれない。
結局、その音を止めるために彼は自分の指を噛ませるしかなかった。
わずかばかりの静寂が戻ってくる。
だが、それは孤独を深めこそすれ、安全と安心をもたらすことはない。
今でも断続的に大人たちの声と発砲音が入り混じって聞こえ、時には赤い舌のように炎が夜空へ向かって伸びた。
その間に少年ができたことと言えば、胎児のように手足を縮め、岩のように固まっていることだけだった。
ありとあらゆる物音を立てないように、ただ静寂の中に自己の存在を塗りこめるように。

(逃げないと……きっと殺される)

今、彼が潜んでいるのは黒塗りの乗用車の後部座席だった。
タカハラのものではない。 あの場所からはずいぶんと離れてしまった。
しかもあの車の中には、どこかで見たことのあるような黒服の男が運転席と助手席で死んでいたりしない。
そう、死んでいる。
フロントガラスに穴が開いているのをみると、ガラス越しに銃で撃たれたのだろう。
だとすれば北辰たちではない。
消去法でもう一方の黒服たちということになるだろう。

前部座席のあたりから聞こえるピチャピチャという水音の正体を確かめる気力さえなく、ただその結果のみに意識を注ぐ。
人が死ぬということ。 意識が消えるということ。 すべての未来を否定されるということ。
それは少年が初めて接する概念だった。
軍人として訓練を受けた際に知識として教えられてはいても、それは体験しない限り創作と変わらない。
それに彼が配属されたナデシコBは実験艦であり、時期的にも戦後の復興がようやく一段落したころだった。
すべての気運が上昇に展示していたあのころ。 たとえ軍人でも新米は戦闘経験を得る機会などなかった。

だから少年は知らない。
明日が当たり前のようにくることのない日々のことを。
当然のように良い日であるはずもなく、世界は悪意と敵意によって動かされる。
『心の底から悪い人なんていない』というのは嘘っぱちだ。
大人たちは必ずしも賢く優しいわけではなく、あるいは子供以上に愚かで浅慮な生き物だった。

――― 早く引き取ってくれない?
――― 遺伝子改造されたガキなんて……薄気味悪いのよ。

はじめて触れる剥き出しの悪意。
まるで世界の色がいっぺんに塗り替えられてしまったかのようだ。
見慣れていたはずの世界は何一つ形を変えないまま、しかしその色彩だけを失ってしまった。
突如として冷酷で非情な本性を剥き出しにした世界。

(なんで……? どうしてなのさ……)

焦燥と恐怖で混乱する頭で必死に少年は考えた。
そしてその頭脳はずぐに回答を見つける。

(僕とラピスがマシンチャイルドだから……?)

マシンチャイルド ――― 正式には『遺伝子強化体質の処置を受けた被験者』だが、揶揄を込めてマシンチャイルドと呼ばれることの方が多い。
今日では先天性・後天性の特定疾病の治療を目的とする以外の遺伝子改造そのものが禁止されているが、
大手企業のうちのいくつかは禁止後も密やかに実験を継続していたり、あるいは研究所そのものが暴走して国が手を引いた後も勝手に研究を続けていた例もある。
被験者の多くが受精卵の段階で遺伝子改造を施されており、『国際人道保護協定』『児童福祉法』『特定遺伝性疾病の治療以外の目的での遺伝子改造を禁じる国際条約』の名のもとに
戦略情報軍の摘発を受けるなどして一時はかなり問題になったこともあったが、その際にマスコミが『機械仕掛けの子供たち』などといささか実体とは異なるが
民衆の関心を得られるようなセンセーショナルな見出しをつけたために、これが転じて『マシンチャイルド』という造語が一般にも使われるようになった。
つまり広義には遺伝子改造を受けた人間の全般を指し、狭義にはオペレータ用IFSに最適化された遺伝子強化体質の子供を指している。

ハリとラピスは狭義のマシンチャイルドと言える。
その存在は貴重にして希少。
現時点で戦艦クラスの大型艦艇に搭載される第3世代型量子コンピュータとオモイカネ級AIシステムの組み合わせを扱えるのはわずかに4名。
そのうち実戦を経験しているのはナデシコのルリ、連合宇宙軍のテスタロッサ大佐(階級は臨時特例。 大型艦艇の艦長は大佐以上という不文律があるため)のみ。
上記の2名はネルガルと軍が公式に存在を認めている(つまり、所有権を明確に示している)ため、下手に手出しすれば地球圏でもTOP3に入る超巨大企業と地球圏最大の暴力機構を敵にまわしかねなかった。
となれば、ネルガルへの対抗上どうしてもナデシコ級に匹敵する戦艦をつくりたいクリムゾンと戦術上のアドバンテージを増やしたい木連が狙うのは非公式の存在であるハリとラピスに他ならない。
ネルガルは公式にはルリを生み出した計画を最後に『特定遺伝性疾病の治療以外の目的での遺伝子改造を禁じる国際条約』へ加盟しているため、
年齢的にそれ以降の実験によるものだと明確にわかってしまう2人の存在を秘匿しようしており、そのためたとえ誘拐されたとしても訴え出ることはできない。

ハリはそこまでの事情を知っているわけではなかったが、ラピスのことから大まかな事情は推察できた。
ルリから火星の後継者事件のあとに又聞きしたことだったが、確かにそれまでハリはラピスのことを噂レベルでも知ることはなかった。
同じマシンチャイルドで、しかもハリの両親はその研究者であったにもかかわらず、だ。
つまりそれは ―――

(ここでなんとかしないと、誰も助けてくれない?)

それは大いにありえる話だった。
ネルガルは対木連、対クリムゾン・AGIで大いに忙しい。
そんな中で実績も何もない子供2人の救出にどこまで労力を割くかというのは大いに疑問だ。
マシンチャイルドがいなくてナデシコ級はどうするのかという考えもあるが、カキツバタを見ればそれは否定される。
あの艦の中枢コンピュータはナデシコで得たデータを基にしてAIを再構築して、システムを大幅に書き換えている。
つまり、ナデシコはデータ収集のための実験艦で、その点でルリも同様。
本命は一般人でも使える高度に自動化されたシステムの構築にあったと見ることができる。
ナデシコが強力だったのはハードウェアもさることながら、ソフトウェア ――― つまり『中の人』によるところが大きい。

最新鋭戦闘機にようやく単独飛行の許可が下りたばかりのヒヨッコパイロット、
旧式戦闘機にその機体のことならタービンの音さえ聞き分けるくらいに精通したベテランを乗せて対決させた場合、
ベテラン搭乗の旧式機が勝つケースが往々にしてある。 つまり『腕』がモノを言う。
機動兵器戦や戦闘機の空戦では特に顕著だが、それ以外でも搭乗者の腕がモノをいうことは大いにある。

兵器の性能差は確かに重要だが、すべてではない。
ではソフトウェアとしての『腕』を再現すればいいのではないか、という話になる。
『腕』とは状況把握の能力だったり、適切な判断、迅速な決断だったりする。
それをコンピュータに代替させるシステム ――― それこそがオモイカネ級AIの目指す姿だった。

ナデシコのオモイカネは生まれたての子供のようなもので、誰かが逐一教えてあげないと何もできない。
例えば目玉焼きをつくるにも料理を知っているなら「目玉焼きをつくって」の一言で済む。
しかし、逆にまったく知らない人に目玉焼きをつくってもらうとしたら、「材料は卵を用意して」「フライパンとフライ返しを使います」
「フライパンを火にかけて……コンロの使い方はこう」「油をしいてから卵を割ります……って握りつぶさないで、角に軽くぶつけてひびをいれてから」などなど。
目玉焼きでさえこれだけ面倒な説明が必要になる。
もっと複雑な料理になれば包丁の使い方や多種多様の材料の切り方も必要になってくる。

これを最終的に「メシ時になれば黙っていてもバランスの取れた食事が毎日出てくる」くらいまで教育せねば立派な主婦になれない。
ナデシコはその意味では新米主婦のためのお料理教室 ――― オモイカネのための教育の場だった。
ミサイルが飛んできてから『どのミサイルで、どういう発射方法で、どの目標から、何発で迎撃するか?』をいちいち入力しなくても
発射を察知した時点で自動的にミサイルの種類を選定し、迎撃方法を決定。
人間の役割は安全装置として「迎撃しますか?」の質問にYESを出す程度ですませる。
たとえその迎撃に失敗したとしても次の手段まで用意されているという「気の利いた」ものにする。
それがソフトウェアの役割だ。
ここまでシステムが出来上がっていれば確かに『艦長は誰でもいい』となるだろう。
高度にシステム化された戦闘では個人の判断の介入する余地が少ないという意味でもある。
この究極形が無人艦艇であり、ワンマンシップオぺレーションだった。

だが、システムとしてのオモイカネはそこまでいっていない。
カキツバタでは艦長以下クルーの判断に頼る部分がまだ多い。
そのため4番艦のシャクヤクでは再び専用のオペレータシートが復活したのだが、ハリがそこまで知るはずもない。
彼の知る歴史ではシャクヤクは月ドックの崩落によって岩盤に押しつぶされたままだ。
その建造データだけはナデシコBにも継承されているのだが、やはりそんな裏事情まで知るはずもない。

一度ネガティブな方向に転がった思考は容易には戻らない。
この世界で頼るべきものを失った少年 ――― マキビ・ハリはただ暗がりで震えるだけだった。

その声が届いた時までは。


○ ● ○ ● ○ ●


眼前で火花が散った。
金属同士の打ち合わされる耳障りな音。
続けて下腹部にずんとくるような痛み。

「 ――― かっ」

横隔膜が圧迫され、肺に残った空気まで一息に吐き出してしまう。
蹴られたと理解するのは舗装された固い路面に背中をしたたかに打ち付けてからだ。
そこからは考える暇さえない。 無様とさえ言えるような格好のまま地面を転がった。
3回転目でようやく地面の方向を把握し、片手をついて立ち上がる。
だが、すぐに火花が ――― 今度は頭の中で散った。

あごを蹴り上げられた。
舌を噛んだ。
慣れた鉄錆の味。

ともすれば楽になりかける意識をつなぎとめ、なんとか体勢を戻す。
痛みが脳髄を支配している。 視界は暗く、赤い。
周囲の明るさと太陽の位置を考えるなら ――― 単にまぶたを切っただけだ。
おかげで距離感を掴みにくい。 殴り合いでは不利だ。

銃を ――― ダメだ。
いまのを受けたときにフレームにひびが入った。
それにスライドが妙な具合になっている。
撃てない。

予備の銃を持っていればよかったが、今日はそれもない。
そもそも作戦の骨子からしてたちの悪いペテンを仕掛けるようなものだったから、
戦闘に陥るのは最後の手段 ――― つまりほぼ作戦の失敗を意味していたから、それも当然だった。
そうでなければ拳銃1丁で戦闘に巻き込まれるような事態は絶対に避けていた。
目標を逃がすためと敵の出鼻をくじくとの2つの意味でスタングレネードを使ったが、それとて本当なら普通の手榴弾を使いたかったくらいだ。
その場合は投げたあとに自分も退避しないと破片を浴びることになるので、あのようには使えなかっただろうが。

――― とにかく火力が足りない。

殴られ、蹴られ、叩かれ、投げられ、ついでに斬られながらそう考える。
ああ、とくに最後のは防弾防刃素材のベストを着込んでいなければ致命傷になりかねない。
肋骨3本の骨折と打撲、内出血で済んだのは不幸中の……というやつだ。
さすがにそれなりの質量を持った金属の塊で叩かれて無傷というわけにはいかない。

それにしちゃあ奴らは拳銃弾を食らわせてやったのにぴんぴんしてるのはどういうことだ。
不公平にもほどがある。 せめて頭にぶち込んでおけば……だから ―――

そこまでで思考が途切れる。
意識の発生まで停止させたわけではなく、それ以上に優先すべきことができたからだ。
白刃が翻るのを視界の隅に確認し、もはや単なる邪魔物と化した拳銃を躊躇なく敵に投げつけた。
使えないと分かっていても武器を手放すのはやや抵抗がある。
が、それを躊躇して命まで手放すつもりはなかった。

軽く払われて実質的には敵にダメージらしいダメージも与えられていないが、
それでもわずかにできた隙へ乗じて彼は徹底して逃げた。
勇敢に立ち向かうだの敵わぬまでも一太刀という発想はない。
そんなものは本職の軍人にでも任せておけばいいと思っている。
いや、そう言えば自分も軍人に復帰したのだったということを思い出し、唇の端を形だけ笑みに歪める。

なるほど、それならば任務のために死ぬのも仕事のうちか。

鈍痛に顔をしかめながら、それでも彼は笑った。
あれほど忌み嫌っていたはずの組織にもう一度、身を置いている自分を嘲笑した。
痛みと失血で思考が妙な方向へ行っているのを自覚する。

「……しぶといな」

編み笠が呟くような声で言った。
思ったより普通の声だ。 やや低いが、威圧的でさえない。

「実際、大したものだ。 時間を稼ぐつもりか?
 あの遺伝子細工の人形を逃がすために?」

「仕事だからな」

「愚かな」

ほっとけ、と言おうとして止めた。
口を開くたびに傷口も開いて血の味が酷くなる。

「時間を稼げば何とかなると思ったか?
 あと何分稼ぐ? 5分か、10分か。
 どちらにせよ、貴様は死ね」

編み笠が構えを変えた。
刃を水平に、そして引き絞るように腕を後ろへ。
突きの構えだ。

――― やばい

単純に言ってヤバイ。
防弾防刃ベストは基本的に銃弾を止めることを目的としている。
セラミックプレートを入れてやれば小銃弾でも対応可能だが、今回はそこまで用意していないので素のままでは拳銃弾がせいぜい。
刃に関しては『斬る』方には対応できているが、『突く』方はてんでダメだ。

ようするに遊ぶのを止めたということか。
こっちは本気で足止めが精一杯だというのに。

せめてあと5分稼げれば研究所に突入させた部隊をこちらにまわせる。
予定では先制して研究所で迎え撃つか、とっとと目標を奪取して撤退する手筈だった。
それが目標が研究所を出てしまったために急遽予定変更となった。
無線傍受と事前の諜報により判明していたクリムゾンの黒服を排除して、
その代わりに成りすますという泥縄式の手段を選ばざるをえなかった。

周到な計画ほどささいな手違いで崩壊しやすいというが、今回のことはまさにそれだ。
単なる行き違い、すれ違いであっさりと前提は崩壊した。
しかも逃走においても敵は周到だった。

さんざんに苦労してセキュリティーを破り、時には扉を物理的に破壊してまで突入した部隊が遭遇したのは血まみれで倒れる職員たち。
これでそれがすべて死体だったら「悲劇でした」で終わるのだが、職員たちは生きていた。
しかし、軽傷と言うわけでもなく「早いうちに手当てしなければ失血死する」という怪我だった。

――― やられた

というのが正直な感想だ。
敵は早い段階で嗅ぎつけられるであろうことを想定していた。
死体ならば放っておいてあとで回収すればいいが、負傷者ともなればそうもいかない。
手当てや移動に1人あたり3人ほど取られる計算になる。
最終的には中隊がまるごと拘束された。 搬送のためのヘリも用意する必要がある。
単にマシンチャイルドを奪取すればよい敵と違い、こちらは研究データから人員まで丸ごとを確保しなければならない。
おかげで本来の目的だった2人の追跡にろくに人を送れないという本末転倒になってしまった。

そんな中、自らが一番危険を伴う役割を請け負ったのはなぜだったのか?

不要な危険を冒すことは勇気ではない。 それは無謀にして無能だと教官に叩き込まれた。
他の軍人たちとは趣を異とする戦略情報軍は何よりも情報の収集を目的とする組織らしく、常に構成員たちに生還を命じてきた。
要望ではなく、命令である。 情報を持ち帰るため生き残れと命じられてきた。
それは綺麗事ではない。
例え目の前で友軍が危機に陥ろうとも手出しは無用。
友が倒れれば、遺体は放棄しても得た情報は奪い取ってでも持ち帰る。
汚い手、卑劣な手も区別なくあらゆる手段を用いて帰還すべし。

現に彼自身も何回かの作戦では部下を見捨てる決断をしてきた。
助けられるものを見殺しにしてきた。
動けなくなった者を、敵に情報を渡さないために自らの手で殺してきた。
敵の弱みを突き、自分の弱みは切り捨てる。
それが諜報戦だった。

今回だって同じことだ。
政府はネルガルを信用していない。
だから公然の非合法機関である戦略情報軍を動かした。
敵からマシンチャイルドを守るだけならネルガルに襲撃のことを教えればいい。
警備が強化されればそれだけで襲撃を躊躇させる効果が期待できるはずだ。
だが、それをしなかったのは、政府がそのドサクサにマシンチャイルドの実物と研究成果を手に入れ、
同時にネルガルの国際条約違反の証拠を掴み、何かと対立しているネルガルに対する切り札としたかったからだ。

下らない。 まったく下らない理由だ。
そんなことに律儀に付き合う必要はなかった。
放っておけばいいと思っていた。
成功しようが、失敗しようが最終的に彼には関係のないことだ。
マシンチャイルドの確保も適当な部下を送ればよかった。
自分はただあの虚飾とわずかな偽善で塗りたくられた研究所ですべてを嘲りながら待てば良かった。

殴られて歯を折り、蹴られて血反吐を吐く。
斬られて骨を折る、投げられて筋肉を痛めつけられる。
そんな目にあう必要はどこにもなかった。
それでも、そうであっても自分が来た理由。
それは1つしか思い当たらない。
癪に障る。 本当に不愉快極まりないが。

「……何のためだ?」

編み笠に問う。

「俺が仕事だから時間を稼ぐと言ったのを、お前は愚かだと言った。
 なら、お前らがあのガキどもを追い回す理由はなんだ?」

言いながら懐に手を入れる。
拳銃は構えたままだが、これはハッタリだ。
懐に手を入れた瞬間に突っ込まれたらどうしようもない。
話しているのもその隙を誤魔化すため。
答えを期待したわけではなかった。
しかし、

「大義のためだ」

編み笠の男はそう答えた。
その声は確信に満ちてる。

「貴様には分かるまい。 大義に殉ずるということが。
 ただ命じられるままの犬と、我らは違う」

「そうかい」

下らない。 大義などと言うものはどこにでも転がっている。
人類の存亡を賭けて、人々を救うために、誰かの明日のために。
それこそ下を向きながら歩いていれば拾えそうなほど、世の中は『大義』に溢れている。
正義と並んで便利な思考停止キーワードだろう。

「なら、その通りに殉じてやれよ」

懐から手を抜く。 思ったより細工に手間取った。
バレやしないかと冷や汗をかいたが、あとは実行あるのみだ。

「貴様も剣を使うか?」

「ナイフ格闘くらいはな」

用済みになった拳銃を投げ捨て、かわりに鞘から抜き放ったナイフを構える。

「先に教えといてやる。 俺が狙うのは足だ。
 機動力を削いで、それから止めを刺してやる」

「笑止」

「はっ。 なぜ俺が今まで生き残ってこれたか教えてやるよ」

次の一撃が最後だろうと予想する。
失敗すれば自分が死に、成功すれば敵が死ぬ。

「……晴嵐。 貴様を殺す者の名だ」

「カタオカ・テツヤだ」

お前を殺す男の名だ、とは言わない。
ただそれだけ告げてナイフを少し下げる。

そして ――― 走った。

はっきり言ってナイフを使う戦闘など訓練以外ではろくに経験がない。
実戦で使った機会といえば、不意打ちで背後から見張りの喉をかき切ったことくらいだ。
あれは確かどこかのマフィアを敵対勢力の仕業に見せかけて壊滅させる工作のときだったか。

無造作に、しかし正確に心臓をめがけて突き出された刀を手のひらで受ける。
痛みというより、灼熱の鉄塊を脊髄に流し込まれたような感覚。
これで一太刀目は防いだ ――― が、残ったもう一刀がある。
それは首を狙った横薙ぎの一閃となって襲ってきた。

かわすには体勢が崩れている。 いちど勢いのついた体は慣性に逆らえない。
だから構わず、テツヤは地面に転がった。
無様に転がって ――― それだけだ。
かわすのが精一杯だった。
ナイフは転がった拍子に取り落とした。

「やれよ」

軽く嘆息しつつ、そう告げる。
答えるように編み笠が刀を振り上げるのが、閉じようとする視界の中に見える。

――― まったく、くだらねぇ。


○ ● ○ ● ○ ●


北辰と名乗った男は強かった。
1対4だからとか、武器を持っているとか、そんなものは関係無しに強かった。
あるいはそれも含めてというべきかも知れない。
相手が女子供であるというなら、動きが鈍いから楽だとでも言い放ちそうだ。
彼らにとって標的はそれだけの存在であって、それ以外の一切は無関係なのだろう。
弱い相手を全力で叩くという原則を忠実に守っている。

――― 外道か

足元に転がるぼろきれのようにされた黒服を見てタカハラはそう思った。
小柄だとは思っていたが、それが子供と呼んで差し支えない少女だとはさすがに意外だった。
だが、それも北辰の口から事実が語られると、生じかけた同情の念も失せた。

「そやつも遺伝子細工の人形。 ただ趣が異なっているだけの、な」

北辰はそう言った。 そしてそれは事実だと確認できた。
15、6歳ほどの少女が武器を持った大人を相手に数合とは言えまともに打ち合えるはずがない。
しかも、彼女は素手で刃を弾いていた。

「局所的に歪曲場を展開するか……。 情報どおりではあるな」

そういって北辰はわずかに手を動かした。
少なくともタカハラにはそう見えた。
だが、その効果は劇的だった。
それまで4人と打ち合っていた少女はいきなり体勢を崩した。
あとは押されるがままだ。

「やはり、反応できぬものには対処もできぬか」

北辰は部下と打ち合っているところに外から小さなナイフを投げつけたのだった。
それは黒服の少女の腿に刃を半ばほどまで埋めていた。

「痛みで集中できなければ、歪曲場の局所展開もできぬ。
 そして広域に展開するにせよ、そちらは長くは持たぬ。
 やはり欠陥品か」

黒服の少女 ――― ルビー・ヘリオドールは元来、クリムゾンで生み出された戦闘型のマシンチャイルドだった。
バリア関係に強いクリムゾンゆえか、その特性は『個人でディストーションフィールドを展開できること』とされた。
生身の人間がDFに触れればそれだけでダメージを受けるし、DFなら要人護衛の際にも使えると考えたためだ。
しかし、結果としてそれは失敗した。

理由はいくつかある。
国際条約で遺伝子改造の医療以外での使用が全面的に禁じられたこと。
そしてなにより完成した被験体の能力が不十分とされたこと。
特に後者は致命的だった。
DFを展開するということは、空間を歪めるエネルギーをどこからか調達せねばならない。
エステなどと違って外部から提供されない限り、それは展開する本人が捻出せねばならない。
が、ここに落とし穴があった。
人間一人に蓄えられるエネルギーではどんなに工夫してもDFの持続的展開にはまったく足りない。
拳銃で撃たれたのを弾くくらいのことはできても、12.7mm以上の重機ではあっさり貫通を許した。
また、常時展開しているのでもない限り遠距離狙撃や不意打ちにはまったく常人と同じだった。
そして大抵の要人暗殺は狙撃か不意打ちだ。
パイロット用IFSにも使われるナノマシンで反射神経を強化したところで、それとて程度の問題だった。

つまるところ、彼らが開発できたのは『ちょっとすごい盾を持った運動神経のいい人』だった。
それはどう好意的に解釈しても運用コストとペイするものではない。
根本的に受精卵から改造を加えて使えるようになるまで十数年かかるのではあまりに能率が悪い。
それならまだ個人で携帯できるバリア発生装置を開発した方がマシだ。
最終的には、『能力としては悪くないかもしれないが、そこまで金と時間をかけてまでやることではない』と結論付けられたのだ。
そして完成されていた10体の被験体の内、サンプルとして『解体』されたもの3体。
実用に耐えられないとして廃棄されたもの2体。 その後の実験で死亡した3体を除く2体が残された。
ルビーはその残った2体のうちの1つ。 書類上はモノ扱いされていた被験体。
現在は戦略情報軍の行った作戦で奪取され、AGIに引き渡されている。
北辰はクリムゾン経由でその情報を得ていた。
あるいはいつか『奪還』のためにクリムゾンの要請で動くかもしれないと考えていた。
ならば対策を考えておくのは至極まっとうなこと。

ついに少女が膝を折った。
防げると言っても、ディストーションフィールドは運動エネルギーまでは相殺しきれない。
圧縮された空間は障壁となって刃を阻むが、訓練された暗殺者が振り下ろした短刀はたとえ斬れなくとも鈍器として十分な代物だ。
体重をのせて振り下ろされた一撃は少女と大人の男という体格差もあり、足に怪我を負ったルビーに耐えれるものではなかった。

「迂闊に触れるな」

そこを取り押さえようとした部下を制止する。 近付いていた一人がDFに弾かれた。
北辰は、むしろゆっくりとした動作で掴もうとしてきた腕を払う。
彼女の能力を考えれば、スピードは自分の攻撃を当てるためのと相手の攻撃を回避するためものであり、運動エネルギーを増すことで攻撃力を高める必要はない。
握って、それでDFを内側に向けて展開すれば歪められた空間が対象の物理特性に関係なく分子結合を破壊してくれる。
動きを封じても彼女は任意の場所にDFを展開できる。
さすがに精密な調整は手や指など神経が多く集まっている部位でないとできないが、大雑把でいいなら半径5mの球がその展開範囲となる。

「主上、やはり生かして捕らえるのは」

「やむをえぬな」

できれば貴重なサンプルとして捕獲したかったが、これ以上の時間をかけるわけにはいかない。

「では?」

「かまわぬ、殺せ。 だが、人形は捕らえよ。
 時間がない。 片方だけでもかまわぬ」


○ ● ○ ● ○ ●


――― 片方だけでもかまわぬ

その言葉が聞こえたとき、ハリはホッとした。
殺せという言葉の冷たさも忘れ、ただ安堵した。

片方だけ ――― それはつまり彼らはハリのことを諦めるかもしれないと思ったからだ。
編み笠たちに追いつかれた時点でルビーは逃走をあきらめた。
車が使えればともかく、2人を抱えて走るのでは逃げ切れないと判断したためだ。
ラピスとハリの2人はほとんど投げ出されるように降ろされ、「隠れてて」と言う簡潔極まりない言葉に従った。
問題はその過程でラピスと離ればなれになってしまったこと。

ほとんど放心状態のラピスは動こうとしなかった。
そして引っ張り込む暇さえなく、ハリはとりあえず近くに放置されていた車の中に潜り込んで現在に至る。
ルビーはまずもってラピスを守りながら戦っておりそれは北辰たちにもばれている。
つまり、『片方』とはラピスのこと。

……なにを考えてるんだよ、僕はッ!

安心してしまった。 もしかしたら自分は助かるんじゃないかと。
それがラピスを犠牲にすることだとわかっているのに。
けれども、自分が消えるかもしれないという根源の恐怖は小さな勇気や思い出などすべて壊してしまう。

……怖い

本当に、ただ怖い。
薄暗い部屋に閉じ込められたとか、そんな漠然とした恐怖ではない。
もっと現実的で、冷たく、固く、痛い。

それに、何ができるっていうのさ。

コンピュータがなければただの6歳児にすぎない。
ただ知識だけがとりえなだけ。 純粋な暴力に抗う力は無きに等しい。

……何が

それでも何かしなければ。
そう思っても急に未知の力に目覚めたり、ヒーローを召還できるようになるわけでもない。
つまり、彼は現実を直視する限り自力でできることをする以外の選択肢はなかった。
その『自力でできること』の選択肢には目を瞑り、耳を塞いで現実の暴虐から逃避し続けることももちろん含まれる。
それが一番楽で、しかも安全な、ありていに言って素晴らしく魅力的だった。
他者のために何かをするというのは自分の面倒を見切れるという余裕があってはじめてできることだ。
カルネアデスの板のように、極限状態では自己を優先させる。
それが正しいとか、臆病だとかそういう次元の問題ではない。
それは生存本能として刷り込まれた反応だ。

それでも、

「……何とかするよ」

怖いけど。
今だって震えはおさまらないし、逃げ出したくて仕方ない。
涙は止まらないし、胃がギュッと締め付けられている。

だけど、きっと後悔する。
このまま何もしなかったら、後悔する。
そりゃ怖いさ。
だけどこのままラピスがいなくなったりしたら、たぶんそれはもっと怖いことだと思う。
何もできなくて、それを理由にして動かなかったらそれはすごく嫌だと思う。
もしかしたら動いても後悔するかもしれない。
あのとき、なんてバカなことをしたんだろうって。
それでも、僕は……

狭い座席の隙間から手を伸ばす。
事切れた黒服の服の下に辛うじて手が届いた。
ぬるりとした感触が指先に伝わってくる。
それは思ったより冷たく、気持ち悪い。
これが人間の体を流れていたのだと理解するにはあまりに冷たい。
死ぬということはこういうことなのだと思う。
なまじ指先が見えないだけに敏感に感じられる肉体の感触。
人がモノに成り下がったことをいやおうなく感じさせるそれに吐き気を堪えながら、
それでも目的のものを探し当てる。

「…………」

いいのかな?
声に出さずに自問した。

わからない。
と、すぐに答えが返ってくる。
でも……

『甘えたあとは男になれよ、弟くん』

そうしないと、ダメだと思うから。
小さな手には無骨に過ぎるそれをしっかりと握り締めた。


銃の使い方なんて軍の最初の訓練のときに少し教わっただけだった。
その後は艦のオペレータとして勤務していたため、実戦で使う機会はあるはずもない。
そもそもナデシコBに配属された時点で11歳だったハリがその手の戦闘訓練をまともに受けているはずがない。
それに戦艦のオペレータが自ら銃を撃たねばならない状況ならすでに戦闘そのものに意味がなくなっていると考えられるからだ。
それでも暴発させないだけマシなくらいの取り扱いはできる。
セーフティーを外し、スライドを引くことで初弾をチャンバーへ。

これで手の中の物体は凶器と化した。
あとは引き金を引くだけでいい。
意を決して車の後部ドアから転がり出る。

「動くな! 武器を捨てろ」

威圧的に、命令口調でという教本に書いてあったことをそのままだが、声の震えまではどうようもない。
それでも北辰たちの注意をこちらに逸らすことはできた。
黒服の少女が赤い瞳を大きく見開いている。
ラピスは……よかった。 無反応だけど、怪我はしてない。
そして、

「小童が。 武器を持つ意味も知らぬか」

ああ、恐いな。 本当に怖い。
武器を向けているのはこっちなのに。

「僕は……動くなって言ったんだ」

カチカチと歯がぶつかって上手く話せない。
舌を噛みそうになる。
だからハリはゆっくり、文節を区切りながら告げる。
狙うのは北辰だけだ。
他にも注意を向けなければならないのだが、そこまでの余裕はなかった。

「2人を放せ」

精一杯の声をあげ、銃口の震えを押さえる。
編み笠が動こうとするのを北辰が手で制した。

「撃たぬのか?」

じっとりと湿った手のひらから滑り落ちそうになる銃を慌てて構えなおす。

「それとも、撃てぬか?」

「……まだ、聞きたいことがある」

それは半分真実だった。
だが、残る半分は北辰の言葉が図星だ。
6歳の子供の体では撃っても反動で銃口がぶれてしまう。
初弾は当たるかもしれないが、まず間違いなく2発目を撃つ前に他の編み笠にやられる。

「できもせぬことを……」

「動くなって、言ってる!」

それでも北辰は歩みを止めない。
1歩、そのたびにハリとの距離が近付く。

「この距離なら外すまい?」

すでにほんの数mの距離まで近付いている。
それでもハリは撃たなかった。 否、撃てなかった。

「いつまでそうしているつもりだ?
 いいかげん保持し続けるのも辛かろう」

その通りだ。 拳銃はプラスティックフレームで軽量化されているとは言え、
弾は鉛でできている。 全弾装填された状態では3kg以上ある。
6歳児の筋力では水平に保持していることさえ辛くなってきた。

なら引き金を引けばいい。
それで1発分の重量が減り、1人分の命がなくなる。
そして、たぶんそれ以上の重荷を背負う。

「 ――― 武器を持つことの意味も知らぬものが」

吐き捨てられた言葉が耳から脳に届き、その意味を理解するよりも早く北辰が動いた。
刹那の動きで鞭のようにしなった腕が銃を横殴りに払った。
引き金にかけていた指が反動で引いてしまう。
乾いた発砲音に不釣合いなほどの反動。

「あ ――― 」

ほんの数動作。 わずか数秒のことだった。
次に脳が行動を思いつく前に北辰によって腕をねじ上げられ、投げ飛ばされた。
ぐるりと回転する視界の中、北辰の手の中に銃があるのが見えた。
そして自分の手が空中を掴んでいることに気付くが、
いつのまに銃を手の中から取り上げられたのか、理解する暇もない。
一回転した体が地面に叩きつけられ、バラバラになるような痛みが背骨から脳髄を刺激する。

「銃を持てば我に勝てるとでも思ったか。
 ならば期待はずれだな」

「…………て……さ」

肺の中の空気までしぼり出されたようで、呼吸さえままならない。
ずきずきと熱を持った肩口を気にしながら、精一杯もがいてみせるが、万力のようにつかまれた手はびくともしない。

「無駄だったな」

嘲るでもなく、淡々とした声。
それがいっそうの怜悧さを感じさせる。

「……わかってたさ」

肺に無理やり空気を流し込み、ようやく口を開けた。
まだ打ち付けた背中は熱を帯びて、腕はミシミシという異音を伝えてくる。
それでもハリは続けた。

「銃を持ったからって、勝てないことくらい知ってる」

「勝てぬと知って向かうことは無謀というのだ」

「無謀じゃない」

「戯言を」

北辰は切り捨てる。

「違う。 僕は銃を持っても勝てないって分かってた。
 でも……銃を持った僕をあなたはどうしたのさ?」

「なに?」

「これがナイフだったら、きっとあなたは焦らなかった」

「焦る? 我がか?」

「素人の銃は危険だから。 引き金を引くだけなら僕みたいな子供だってできる。
 僕が銃を持ち出して……一番困るのは暴発させることだった。
 間違って僕がラピスを撃つかもしれない、そう思って ――― 」

段々と呼吸が楽になってくる。
地面に押し付けられたままだが、ハリは構わなかった。
とにかくしゃべり続ける。

「注意を自分に向けさせた」

「 ――― だからどうしたというのだ」

否定しない。 それがハリに確信を与える。
そう、北辰は自分が撃たれる可能性を高めることで、逆にラピスの安全を確保した。
もしハリがラピスを助けるために、彼女を取り押さえている編み笠を狙ったとしたら、
銃の扱いに慣れていない子供ではまともに当たるか疑わしい。
何事もなく外れてしまえばそれでいいが、間違ってラピスに当たったら?

彼らは貴重なサンプルを失うことになりかねない。
それを避けるために北辰はわざと自分の方に注意を向けさせた。
自分に向けられているうちは銃口から狙いが読める。
無論、ハリが銃を暴発させて撃たれる可能性は高いが、北辰にとってそれは許容されるリスクだった。
マントの下には防弾衣と防具がある。 頭部を狙われない限り、拳銃弾では致命傷になりにくい。
そして頭は狙うには的が小さく、ハリのように銃の重さに負けて銃口が下がっている状態ではその危険も少ない。
むしろ静かな口調で押さえつけるように話すことで、ハリが発作的に引き金を引く危険を少なくした。
大声で恫喝してはその拍子に引き金を引きかねない。

『この距離では外すまい』と挑発したのも、余裕を見せ付けて逆にハリを萎縮させるため。
撃とうとしているのはお見通しだと告げることでタイミングを外すためだった。
そして手の届く距離に近付いてきたことを気付かせないため。 外さないのはこちらも同様。
むしろ近付かれたことで銃を持つ射程というメリットがなくなったことに気付かせないため。
最後は言葉で注意を引いて、その隙に捻り上げた。
すべては計算してのこと。

「僕はわかってたんだ。 銃を持ち出したって勝てない」

ハリはもう一度繰り返した。
しかし、今度は北辰の受け取り方が違う。
初めは単なる子供の負け惜しみかとも思ったが、ハリは北辰の行動の意味を理解していた。
つまり、戦闘に関しての駆け引きがわかるだけの知識がある。
そのハリが結果がわかりきっていたことをなぜ行ったのか?

「あなたは自分で言ったんだ。 『時間がない』って……。
 時間が経てばネルガルに捕捉されるって思ったから。
 そうだよね、ネルガルの人たちは僕らを『探してる』んだから」

「小僧、何を言っている?」

本当は怖くて仕方ない。
今だって泣き出したくて仕方ない。
でも、それは全部終わってから……

「きっと必死に探してて、 いろんなことに注意してると思うんだ。
 だから僕は呼べばよかった」

「 ――― 我らを謀ったかッ!」

ハリの言葉の内容にようやく思い至ったらしい。
先ほどの怜悧な刃物のような声ではなく、獣を思わせる怒号。

「きっと今の銃声も聞こえたと思う。
 音だけじゃ位置は特定できないだろうけどね」

銃声だけではおおよその方位しかわからない。
何かが起こっていることはわかるだろうが、不十分だ。
だからハリはもう一つの細工をした。

「だから、あの車の中の無線機、電源入れっぱなしで送信させてる。
 作戦行動中の軍隊なら無線封鎖してるから、きっと自分たち以外の電波発信にはすごく敏感なはずなんだ」

「烈風ッ! 確認せよ」

北辰の言葉に編み笠の一人が慌てて車の中を覗き込む。

「ありました! 破壊します!!」

金属が金属を叩く断続的な音。
車の中の無線機はこれで完璧に破壊されてしまった。

「……やってくれたな。 だが、間に合わねば意味がない。
 種明かしも時間稼ぎのためか」

「そうだよ。 だから ――― 」

北辰が拳を振り上げる。
これ以上の細工をされないために気絶させるつもりか。
予想される衝撃を受け入れるために目をつぶり、しかし精一杯の強がりを口にしようとする。

「僕の ――― 「ああ。 君の勝ちだ、ハーリー君!」

予想された衝撃は、予想しなかった声に遮られる。
そして肉がぶつかる音。
急に軽くなる体。
見上げた先には ―――

「ごめん。 間に合ってよかった」

それはルリから見せてもらった写真にあった人物。
それはラピスから聞かされた話に必ず出てきた男。

「 ――― テンカワ・アキトさん?」

やや呆然と、ハリはその名を口にした。


○ ● ○ ● ○ ●


ヨコスカ基地の惨状は目の当たりにするとまた酷いものだった。
検問と渋滞のおかげでいつもの3倍近い時間をかけてようやくたどりつくことができた場所は、
しかしまったく安全や安心とは無縁の場所だった。
火災こそ鎮まったようだが、焼け跡から搬出される遺体の数はいっこうに減る様子がない。
それは人型を止めていることの方が稀というほど酷いものだった。
大半の死傷者は密閉された場所で至近から爆発を浴びたからだろう。

「酷いものね」

イネスはポツリと呟いた。
感想としてはそれくらいしか出てこない。
軍関係の死者598名、民間人139名。
施設の損害は計上中。 恐らく死傷者はもっと増える。

「これをもくれ……木星蜥蜴がやったんでしょうか?」

木連、と言いかけてルリは慌てて言い直した。

「そうだと思うわ。 白鳥くんとは限らないけど」

「どういうことです?」

「さっきカキツバタのアオイくんや艦長……ユリカさんから話を聞いたのよ。
 アオイくんによればこれは爆弾テロ、つまり内部犯行に近いそうよ」

「……こんなこと、前は」

「なかった。 分かってる。
 だけどもう私たちは未来を知っていると言えなくなってきている。
 それも理解すべきだわ」

ルリにはこの惨状を防げなかった、という思いがある。
そこにイネスの言葉が被る。

「カザマさんのこともね」

「イツキさん、まさか」

「ジャンプに巻き込まれたらしいわ」

「そんな……」

こちらは前回と同じ展開といえる。
ルリは信じてもいない運命を呪いたくなった。
悪いことはそのまま、変えられたことはさらに悪い結果を招いた。

「ただ……」

「?」

「MIAよ」

「じゃあ、それって?」

「あの耐圧エステのようにパイロットの死亡が確認されたわけじゃないのよ。
 たぶん、アオイくんたちは生存を絶望視してるけど」

MIA ――― Missing In Action(作戦中行方不明)ということは
イツキの死亡を確認したということではないらしい。
護衛艦<クロッカス>の乗員がどうなったかを知っているなら生きているとは思えないだろうが、
さらにボソンジャンプに関する知識のあるイネスとルリは別の連想をした。

「ランダムジャンプした?」

「可能性の話よ。 それに、ランダムジャンプだと私みたいに……ね。」

頷く。 ランダムジャンプでは行き先が不安定になる。
火星ならまだ運がいいほうで、あるいはいきなり宇宙に放り出されたり、深海だったり……という場所の問題もさることながら、
そもそもが時間移動技術であるために過去や未来に跳ばされる可能性もある。

「……下手に希望を持たせるのもね。
 今は白鳥くんを探すことに集中しましょう」

「はい。 うまくナデシコクルーに見つかってくれればいいんですが」

それはどうかしらね、とイネスは声には出さずに呟いた。
確かに彼は前回では重要な役割を果たした。
ナデシコに木連のことを教えたのも彼だった。
そしてナデシコとのパイプ役となり……親友に殺された。

表面的なものだけ見るなら、九十九が撃たれる際に庇えばいい。
あるいは防弾衣を着せておくだけでもその時は凌げる。
だが、根本的な問題は解決しない。

解決すべきは和平の意思を木連側が持たなかったという点。
結局、クーデターがあるまで徹底抗戦を国民は信じ続けた。
あるいは和平後も負けたとは思っていなかっただろう。
負けていない戦争を途中で終わらせる……それはとても難しいことだ。
勝っていると双方が思っているならますます厄介だ。

遺跡の争奪戦へと戦争目的が変わったからこそ、ナデシコが遺跡を跳ばしたことで戦争は終わった。
だが、現時点での戦争目的は地球側は「自衛」のために木星蜥蜴を殲滅することとしている。
対する木連は……いまいち分からない。
本気で地球人を全滅させるつもりなのか、あるいは軍事力を叩き潰した上で植民地化を狙っているのか、
遺跡があるはずの火星の支配権を確立するのか、もっと控えめに木連の存在とその独立を認めさせ、過去の清算と補償を求めるのか。
とにかく木連の戦争目的が分からない。

このへんは大いに悩んでいる。
ユリカ曰く「一番悪いのは、このまま目的もはっきりしないでズルズルと長期戦になっちゃうことです」とのことだが、
イネスもその点には同意した。
戦後の調査で判明したことだが、木連の経済力はせいぜいが月や火星と同程度だ。
地球とは根本的な国力が違う。
長期戦となり本格的に優人部隊が投入された場合、戦果よりもジンを維持するための維持費や
パイロットの損耗に対する補充人員を確保せねばならない問題から若年層の人口低下を招き、
下手をすれば残るのは女子供と老人だけという状況に数年で陥るだろう。
そうなれば経済どころか国そのものが崩壊する。
戦後復興どころではなくなってしまう。

貧困は憎悪を加速し、積もった不満は爆発する。
そうしたらまた戦争に逆戻りになってしまうだろう。
あるいはテロが頻発し、治安状況の悪化を招くか。
それでは意味がない。
戦争が終わって経済がボロボロでは、まるっきりWW1の後のドイツと同じ道をたどりかねない。

ならば遺跡の争奪戦という前回と同じ形にするかといえば、それも危険だ。
火星を押さえている木連の継戦意欲は旺盛になるだろうし、
そうなれば和平を切り出した者は九十九のように攻撃されてしまう。
なによりA級ジャンパーの存在を両陣営に知らしめてしまう。
それでは戦後に自分たちが危険になる。
つまるところ、イネスたちが目指すべき未来は
『A級ジャンパーの存在を誤魔化しつつ、両者が再起不能になる前に和平をする』というものだ。

――― ムリね

ここまでくると軍事なら戦略の話になる。 あるいは政治だ。
ナデシコさえない現時点ではイネスはネルガルの研究職員に過ぎない。
ルリも同様にネルガルに協力しているが、ナデシコのオペレータでない彼女はあまり意味がない。
何もかもがネットワーク上でできるなら話は別だが、そんなわけがない。
情報収集などでは大いに役立つが、それは受身でしかない。
積極的に働きかけるにはネットワークだけでは不足だ。
ユリカは軍に残ったが、第3艦隊の極東方面司令部に組み込まれているために自由が利かない。
つまり、現状ではイネスたちの影響力は非常に小さい。
辛うじてアキトがカキツバタと共に欧州での影響力をつけた程度だ。

イネスが案じているのはまさにそこだった。
今の状況で九十九を見つけたとしても匿える状況ではない。
和平に協力してくれといっても具体案さえない。

――― せめてナデシコがあれば。

何度そう思ったことだろう。
アキトが軍に残り西欧へ派遣されたときも、
カワサキの研究所が襲撃を受けたときもそう思った。
あの頃は考えたこともなかった。
もっと力が欲しいなどと。

もしかしたらアキトはずっとこんな思いをしていたのかもしれない。

軽く頭を振る。
それは当たり前だと思い至ったからだ。
あの頃、きっと誰もが己の無力を感じていた。
だから今、こうしている。

――― あなたもそうなの?

自分の携帯端末に入ってきたメールの内容を反芻する。

差出人はカイト。
前回はいなかったはずの青年。
そして、今回のカワサキを救うため、自爆しようとしたマジンを1週間前の月へ跳ばした青年。
まるで前回のアキトの行動をなぞって彼の不在をフォローしているかのような行動を取った青年。
メールの文面はただ一言。

『月で待ちます』

ナデシコがなく、アキトを迎えにいくという動機もない。
それでも彼は月で待つと言ってきた。
1週間前の謎の爆発はアキトではなく、カイトが跳ばしたマジンによるものだった。
なら、この一週間の間に彼は何をしていたのか?
それになぜ彼が未来を知っているかのような行動が取れたのか?
記憶喪失と言っていたはずのカイトがボソンジャンプを使えたのは ――― まあ、いいわ。
そのことも含めてきっちり『説明』させるつもりだ。
本当は説明する方が好きなんだけれど。

そう思いつつイネスはルリの後を追って足を速める。
その行き先は、まだ定まらない。







<続く>






あとがき:

「あ……ありのまま、この間起こった事実を話すぜ!
『リリカルなのはを見終わったと思ったら、何故かとらハDVDエディションを買っていた』
な……何を言ってるのか、わからねーと思うが、おれも何が起こったのか、わからなかった……。
頭がどうにかなりそうだった……。
販売戦略だとかメディアミックスだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……。」(某亀の中のフランス人風に)

ご無沙汰でした。
24話で続けようかとも思ったんですが、構成的に25話にしちゃいました。
特に意味はないですが。
ハーリー君の受難編はもう少し。 次で九十九との接触も。
イツキとカイトはB3Yの設定を参考にオリジナルですから。
しばらくイツキとガイ中心で話が進むかな。


それでは次回また。



 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

おおっ、見事だハーリー君。

でも受難はまだまだ続くらしいぞ、頑張れ(笑)。

 

しかしさっぱり先が読めませんねぇ。そこんとこ、実に楽しみです。